クォーツ・レーベルって何? 『松籟夜話』第二夜に向けて What is QUARTZ Label ? Towards the Second Night of Listening Event "Syorai Yawa (Night Stories As Pine Tree Leaves Rustling in the Wind)"
2015-01-25 Sun

来る2月1日(日)に『松籟夜話』第二夜を開催できる運びとなった。今回のテーマは先頃来日したデヴィッド・トゥープ(David Toop)が70年代後半から80年代初めにかけて運営していたレコード・レーベルQUARTZの作品群。彼の来日講演を巡るFacebook上のやりとりを通じて、再発されていないQUARTZの作品って、意外と知られてないんじゃないか‥‥と感じたのが今回の企画のきっかけ。幸いレコード棚を漁ったら7枚全部揃っていたし。
とは言え、そこは『松籟夜話』。QUARTZの作品自体はあくまでも入口に過ぎない。そこから民族音楽とフィールドレコーディングを巡る想像力のあり方を、どう掘り下げて行けるか、乞うご期待。
と言いながらも、それではあまりに事前の情報が少なすぎるので、QUARTZ全作品を以下に簡単にご紹介しておきます。なお、当日、すべての盤がかかるかどうかは保証の限りではありません。他の関連作品もかけてみたいと考えているし。

Sacred Flute Music from New Guinea : Madang
クォーツ・レーベルの第一弾はニューギニア奥地で現地録音された聖なる笛の音楽。民族音楽のフィールドレコーディングも行っていたラグナー・ジョンソンと知り合い、ニューギニアに出かける彼に、フルート音楽の録音を持ちかけたことが、クォーツ創設のきっかけとなった。笛の音というよりも、うごめく息と管の鳴りそのものであるような響き。
試聴:http://coconutsdisk.com/ekoda/?p=8444

Windim Mambu Sacred Flute Music from New Guinea : Madang vol.2
前作の続編。より短い、打楽器を伴う演奏を多く収めている。遠くを見詰めたまま、熱帯雨林の奥、たちこめる虫の音の間へ、深い夜の底に沁み込んでいく音楽。
試聴:http://www.sheyeye.com/?pid=52021618

David Toop, Paul Burwell / Wounds
民族音楽の現地録音を収めた前二作品とは打って変わって、デヴィッド・トゥープとポール・バーウェルのフリー・インプロヴィゼーションによるステージ・パフォーマンスを収録。長らくデュオで活動を続けてきている彼らだが、ステージ上に並べた音具類を用いた演奏は、演奏者間のコール&レスポンスのうちに閉じることなく、むしろオブジェに内包されていた響きを空間に解放していく趣がある。

Hekura Yanomamo Shamanism from Southern Venezuela
トゥープ自身がオリノコ河を遡上し、ヴェネズエラ奥地の未開集落に赴いてシャーマニズムの儀式を現地収録。怒号と嗚咽、呪詛と調伏がねじれながら交錯するドキュメント。
試聴:http://sound-art-text.com/post/75781362699/hekura-yanomami-shamanism-from-southern

Max Eastley, Steve Bersford, Paul Burwell, David Toop / Whirled Music
マックス・イーストリー制作による、ブルローラーをはじめとした「旋回させることにより音を発する楽器」の演奏集。かなりの重量の銅鑼等、金属製の音具を全力で振り回す演奏は、危険防止のため防具を装着して行われた。遷移する音響とドップラー効果、けたたましいノイズの奔流のアマルガム。
試聴:http://www.sheyeye.com/?pid=47232381

Alterations / Up Your Sleeve
電化ロック・バンド編成のフリー・インプロヴィゼーション・グループ「オルタレーションズ」によるライヴ演奏集。David Toop, Steve Beresford, Peter Cusack, Terry Dayというメンバー構成から伺える通り、知的かつ痴的な「ひねくれ脱力とんち音楽」。オモチャをいじくり倒した幼児退行症的傾向が強烈。
試聴:http://www.sheyeye.com/?pid=53956902

Frank Perry / Deep Peace
Keith Tippett, Julie Tippettsとフリー・インプロヴィゼーション・グループOvary Lodgeを結成していたことで知られる打楽器奏者のソロ。大量のゴング等を用いた瞑想的演奏は脈々と長く引き伸ばされた残響の揺らぎを介して、室内の気象を操作する。Robert Frippが推薦文を執筆。
試聴:http://www.sheyeye.com/?pid=43936051

彼はLondon Musicians' Collectiveの運営に深く参画していくとともに、ポップ・ミュージックの粗雑な原型が持つ無垢な美しさに惹かれていく。49 Americans, Flying Lizards, The Slits等に深く関わり、Lol Coxhillたちと変名でPromenadersを結成し、ポップ・スタンダードや俗謡をカヴァーする。民族音楽、ラテン・ミュージック、フリー・インプロヴィゼーション、映画音楽、ラップ等を幅広く取り扱う音楽誌『Collusion』を創刊したのもこの頃だ。本当にあの頃(個人的には1979年から82年か)は音楽が特別な可能性を帯びて光り輝いていたような気がする。

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2015-01-11 Sun
「光陰矢の如し」。月日のたつのは本当に早いもので、益子博之と多田雅範によるNY同時代ジャズ・シーンの定点観測「四谷音盤茶会」(=タダマス)も、もう丸4年、16回目を迎えることになる。今回は2014年第4四半期からの10枚+年間ベスト10の発表。さらにタダマス初の女性ゲスト登場と何とも内容濃厚な一夜。益子からの案内は次の通り。今回は、2014年第4 四半期(10~12月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDのご紹介と、2014年 年間ベスト10の選考結果を発表します。
ゲストには、ピアノ奏者/作曲家、西山 瞳さんをお迎えすることになりました。トリオ “parallax”の最新作では、ここ数年のNYジャズとも共振するリズム・アプローチに取り組んでいる西山さんですが、現在のNYの多様な動向についてはどのように感じているのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)

2015年1月25日(日) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:西山 瞳(ピアノ奏者/作曲家)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)
"Sixteen" Medley
Sweet Little Sixteen
https://www.youtube.com/watch?v=ZLV4NGpoy_E
https://www.youtube.com/watch?v=-XawW3WoTPo
Sweet Sixteen
https://www.youtube.com/watch?v=dgy5ph33BRE
Happy Birthday Sweet Sixteen
https://www.youtube.com/watch?v=5h2zp96Hzhg
Sixteen Going on Seventeen
https://www.youtube.com/watch?v=hwK_WOXjfc0
16 Tons
https://www.youtube.com/watch?v=PjXhHhxlseM
光と影は共に闇から生まれた − 『New Year Silence』ライヴ・レヴュー Light and Shadow, Both Are Born from Dakness − Live Review for "New Year Silence"
2015-01-11 Sun
1.うっど漫々 a.k.a. woodman「蝋燭の点火と明滅」ローソクのパフォーマンスは6年振りにやるんですが、これは別に「無音」というようなことではなくて、25年前くらいにタイはバンコクのパッポンっていう、新宿歌舞伎町みたいなところのゴーゴー・バーに行った時に、水着の女の子が音楽に合わせて踊ってるんですけど、よく停電があるんですね。音も明かりもパタッと消えてしまって、全くの暗闇になってしまう。僕たちは本当にびっくりしたんですが、現地の人たちは慣れたもので、何事もなかったようにローソクの明かりと、あとボンゴとか出てきて、歌を歌ってそのまま平然と続けられていく。そのうちに電気もつく‥‥みたいな。そういうことがひとつベースになっています。
あと、ひとつお願いなんですが、暗闇の中でも、あるいはローソクの明かりでも眼を凝らせば、ああマッチ擦ってるとか、何をしているか見えてしまうと思います。あえてそうではなく、暗闇の中で眼をつぶってぼんやりと光を感じるみたいな、そういう風に見ていただけたらと思います。それでは始めます。
まったくの暗闇の中、かさこそ、ぱりぱりと小さな音が続く。マッチ箱をいじり、テーブルの上に置かれたアルミホイルに触れているのだろうが、当然のことながらよくわからない。空調の音が浮かび、上階の足音が動き回る。しゅっと音がして光が上がり、前列の客のシルエットが浮かび、その向こうに演じているwoodmanの顔が見える。やや暗い黄色みを帯びた光がさらに明るくなる。試しに眼をつぶってみると、何もわからない。なので思わず前列の肩越しに演者の手元を覗いてしまう。すると彼の手元には最初テーブルの上に置かれていた、ガラスのコップ型のローソクのほかに、もう1本、小さなローソクが灯されていた。彼は小さなローソクを手に持つと、傾けて蝋をアルミホイルの上に垂らし(蝋が垂れる際に、光の雫が滴るように見えて美しい。実際には化学油脂製のローソクとのこと)、そこにまた別の小さなローソクを置くと、ローソクの火を移しに掛かり、3本目に火が点くと手に持ったローソクを振って、炎を消してしまう。ドアが開く音がして、盛大に衣擦れがする。遅れてきた客の姿は見えない。woodmanは火のついた小さなローソクを掲げ、入り口の方を伺うようにして、すぐに手に持ったローソクとテーブルに置かれたローソクを共に吹き消して、また元の真っ暗闇にしてしまう。客席に座っている客の立てる衣擦れ。椅子の軋み。くぐもった携帯電話のヴァイブ音。外を自動車が通り過ぎる音。がさがさ、ぱりぱり。しゅっとマッチの明かり。彼はしばらくマッチをそのまま手に持って火をたちのぼらせ、細長い炎が先に白く立ち上っていた煙を照らし出す。
以下繰り返し。もちろん正確な反復が目指されるわけではない。時にマッチはローソクに火を点す前に吹き消され、あるいは手に持った点火済みのローソクを、テーブルに置かれたローソクの炎を吹き消した上に継ぎ足そうとして失敗し、倒して消してしまったり。アルミホイルを折り曲げて、火のついたローソクを包み込み、消してしまうというのもあった。しかし、終了までに繰り広げられたアクションをパターンとして取り出せば、せいぜいこんなものだ。それらの組合せをやり尽くすということでもない。「即興的」というよりは行き当たりばったりに、すべては進められる。
終演後の後口上として彼は、6年前にスーパーデラックスで演じた際には「音楽」としてやったのだが、とても疲れてしまったので、今日はそうしなかった。家のある谷中から会場に向かう途中で根津の商店街を通るが、店に明るく明かりが点いていて、「夜にずいぶんとウソをつかせているなあ」と思った。今日は演じていて楽しかった‥と述べた。
演者の意図を詮索するような、詮索することにより新たな価値を見出せるようなパフォーマンスではあるまい。暗闇で一人の男がローソクを点けたり消したりした、というだけのことだ。それ自体に何かもっともらしい意味がある訳ではない。しかし、それがもたらした結果は、そうした身も蓋もない説明からは想像もつかないほど、豊かなものとなり得る。音も光も同じ一連の身体動作によって生み出されるが、暗闇や暗がり、あるいは前列の客のシルエット等により分断され、二つは別の層になって現れる。さらに音は演者の立てる物音や咳、客席で生じる様々なノイズ、外から侵入してくる周辺音等が入り混じる。光もまた、明るさや色合いを変え、さらにそこに演者の身振りや炎の揺らぎ、それらがかたちづくる影や闇の輪郭や濃淡の様々な度合いの変化が加わり、それらは観客/聴衆である私自身を巻き込んで生成変化し続ける。演じられる意図が明確でなく、動作も何の変哲もない日常からきちんと切断されることなく、だらだらとつながっていることが、かえって幻惑的な乱反射を生じさせる。これがもっと前後の切断のはっきりした、パッケージとして切り離し取り出せるようなものだったら、こうした曖昧さの魅力は薄れてしまったことだろう。この引きずるような持続、切れ目のない混濁感が重要なのだろう。蛇口を締めてもぽたぽたと滴り続ける水滴、あるいはいつまでもじくじくと粘液が滲み出して乾かない傷口のように。
2.tamaru「映像作品上映」
正面に白い布がぴんと張られ、向こう側がまったく見えなくなる。そのスクリーンに向こう側からPCの動画ファイルが再生投影される。
しばらくそのまま映っていたPCのデスクトップ画面が切り替わり、最初、暗いグレーの縞模様が映り、少し揺らめいたかと思うと、モノクロームの雪景色に変わっている。薄暗いような「生明るい」(生暖かく明るい)ような画面には、何の特徴もない住宅街に雪の降る様子が、2階以上の高さの室内からとらえられている。ピントが甘く輪郭がぼけているように見えるのは降りしきる雪のせいなのか、暗さのせいなのかわからない。画面はフル雪のちらつき以外は動かないようでいて、すーっと白い影が道路を横切ったりする。音が消されていることが画面から生々しさを奪い、非現実的な、手触りのないものとしている。変化のない画面にもう飽きたのか、ひっきりなしに動いて衣擦れをたてまくる観客がいる。
一瞬の黒画面(?)を挿んで、画面が切り替わる。今度は窓が並んだ建物。やはり「生明るい」光の中を雪が降っている。ゆっくりとキャメラがズームし、視線が屋根の方にずり上がっていく。壁の一様な白さの中にちらつくような奇妙な運動が潜んでいる。最初、スクリーンの布地のきめかと思ったが、それならば映像と同期して動くはずだがそうではない。
白画面。うっすらと不織布のきめのようなものが浮かび、ゆっくりと息づいているように見える。そのうちに画面を横切る淡い線が、上から下へ何本か通り過ぎて行く。前述のきめと重なりあってちらつく、薄いしみのように心もとない線だが、見詰めるうちに高く張られた電線ではないかと気づく。そのうちに雪の残った屋根が姿を現し、見当通りであることがわかる。
画面が切り替わり、池の表面のように見える。水面に映る景色と向こう岸の草むらが揺れながらつながっている。黒い小さな影が中央から右へ移動し、鳥が飛び立ったらしいことがわかる。うっすらとした緑色がにじみ、全体がぼうっとして、ますます輪郭が曖昧になり、ほとんど染みのような斑紋が揺れているだけ。画面全体の均質性の強さがオールオーヴァーなつかみどころのなさ、視線の落ち着きどころのなさを生み出している。実際、視線も、水面の揺らぎとは異なるリズムで、うつらうつらと画面を揺れ漂うばかり。
続いては、水の中の鯉の群れを上からとらえた画面。白や黒、錦等、これまでとは異なるはっきりとした色彩が現れるが、水面の揺らぎとそれに伴う反射、たちのぼってくる泡、鯉自体の身をくねらせる動き等が相俟って、それこそ、くすんだ色あいをした三角や四角の断片が、震えながら浮き沈みしているようにしか見えない。急に横から光が射し込み驚いて振り向くと、何と隣の客が携帯電話の画面を眺めている。
続いての画面はよくわからない。細かい市松的な模様が向こうへと起伏を持ってなだらかに続いているように見える。粒子が荒れていて、ウイルスの電子顕微鏡写真みたいにも見える。陰影があるようでないようで、光源の位置のよくわからない明るさが希薄に漂っている。立体なのか平面なのか、大きさや距離、奥行きもよくわからない。ただ、その前の鯉の画像と比較して、時間の流れていない感じが際立っている。しかし、動きがまったくないわけではない。ミクロにちらつくような、溶け広がってにじむような動きが、背後に潜んでいるように感じられる。ピントが合ったりずれたりする感覚があり、画面全体が静かに息づき脈動しているようにも思われる。しかし、それは観客の視覚の問題かもしれず、暗がりを見詰めていて暗くなってきたかと思うと、知らず知らずのうちに眼を細めていた‥‥といった感じにも似ている。「AHA動画」を眺めているみたいに、気づかないところで何かが姿を変えているようにも思われ、落ち着かないことこの上ない。すべては運動の只中にあるというベルクソン的なヴィジョン? あるいは腐食のようなミクロで緩慢な変化? そうした疑念と不安が画面全体に薄く薄く溶け広がり、輪郭は震え滲みちらつき、ミクロな脈動が全景に波及するようでいて、再び見直すと何事もなかったように整列している。
終了後、tamaruが簡単に謎解きをしてくれる。最初の雪景色から鯉の画像までは、デジカメの動画機能で撮影したファイルを大型のPCモニタで再生し、それをハイヴィジョン・ヴィデオで再度撮影したものだという。後で訊けば、さらにPCモニタの表面に薄く剥いだティッシュ・ペーパーを貼付けて風で揺らしていたとのこと。そうした横からの物理的な揺らぎの介入を受けつつ、デジタル→デジタルの転送回路をアナログへと切り開くことにより、別種の読み取り/変換上の揺らぎがそこここで顕在化してくることになる。一時流行ったCDプレーヤーの読み取りミスの手法化などよりも、はるかにデジタル技術の本質/核心を突いた、それでいてあっけらかんと簡素で種も仕掛けもない、そして驚くほど実り多い豊かな試みと言えるだろう。画面上の事物の、揺らぎをはらみつつも空間にはまり込んだような静謐な佇まいは、ジョルジォ・モランディ的な魅力をたたえている一方で、その揺らぎはとても視覚では受け止めきれず、手指の間からこぼれていく微細な豊かさを誇っている。
最後の不可思議な風景は、布地を接写した静止画像をPCモニタに映し出し、明度やシャープネスをマニュアルで操作しながら、これをやはりハイヴィジョン・ヴィデオで再度撮影したものだという。ヴィデオの方の自動調整が働き、次第に暗くなって画面を暗さに対応して明るく撮影する結果、なかなか暗くならず、そこに不安定な揺らぎが生じるのだという。「腐食」のような静止の只中に潜む運動/変化をイメージしたのは、ある意味、当たっていたかもしれない。以前にブログで採りあげたMontage(山道晃)の映像作品で、羽田空港から飛び立つ旅客機を沖合からとらえるうちに、あたりが暗くなってくると、だんだんとヴィデオのオート・フォーカスが旅客機の速度に対応できなくなり、不定形の染みが近づいてきて、急に旅客機のフォルムにメタモルフォーゼする場面があったが、あれとよく似た手法と言えるかもしれない。言わば画像エンジンの裏をかき、騙して空回りさせること。
3.坂本宰の影「シルエットパフォーマンス」
スクリーンの向こうでしばらく準備しているようだと思っていたら、演者が前に出てきて、今日何をやるか何も考えていないので外へ出て一服してくると告げる。まだ始まらないと安心した観客たちも外へ出たりした後、しばらくすると演者が戻ってきて、本日はwoodmanと共演することにした、自分は懐中電灯1本でやる、ついてはもう一服してくると告げて、また外へ出てしまう。woodmanの口上と言い、この前説と言い、あるいはそれらを生暖かく「疑似家族」的な内輪ノリで生暖かく受け容れる聴衆と言い、こういうグダグダしたのが今の流行なのだろうか。この時点でかなり不安になっているが、しょうがない、とりあえず腹を括って見届けようと心に決める。
結論からすれば、パフォーマンスは新鮮な驚きに満ちており、なおかつ、簡単な仕掛けから限りなく豊かな変化を生み出すという点で、本日の一連のパフォーマンスを貫く縦軸を、さらに太く長く射程を伸ばすものだった。
冒頭、暗転し、しばらく真っ暗闇が続く。暗さが身体にしんしんと沁み込んでくる中、視界にぼんやりと何かが浮かび上がりつつあることに気づく。まるで床から冷気が這い上がるように、どこからともなく明るさが忍び込んでいるのだ。ぼんやりと中空に浮かぶような明るさの感覚は、周囲の壁や前列の観客のシルエットの輪郭を次第に浮かび上がらせる。「照らし出される」のではない。光がどこからやってきているからわからないから。むしろ闇から「かたち」が析出し、そこに光が分泌され希薄に満ちつつあるという感じ。まさにそのようにして、自らの身体も今まで溶けていた闇から浮かび上がる。はるか昔のこと、池袋西武スタジオ200でトニー・コンラッドの実験映画『フリッカー』を観た際に、明滅する画面を見詰めるうちに主客が反転して、明滅する光源に客席にいる自分が照らし出される感覚を覚えたことがあったが、それとも少し違う。切り離されることにより、周囲の空間と自分の身体/視角が同時に立ち上がってくる‥‥という印象。
やがてスクリーンに人の姿が浮かび上がり、たぶんちょっとした光源の操作なのだろうが、一瞬で大きく薄い影へと変貌し(腕を突き出していてポーズも異なる)、次いで両者がさらに別の付随的な輪郭と共に重ね合わされる。
影は常に振動し、たちまち溶けて流れ、希薄化し、多方向に歪み、闇に溶けて、またくっきりと浮かび上がる。まさに常に運動/変化のプロセスの只中にある。たとえ一見くっきりとした輪郭を保ち、静止しているように思われる時であっても。
光線の広がりやそれによってもたらされる歪み、あるいは周囲の壁面の多重的な反射をうまく利用しているのだろうが、ここで光と影はほとんど切り離されて、別の層/相を自由奔放に動いているように見える。直進する光が直接に物体の像を落とす影は、物体の物理的な転写であり、最も揺るぎない記号であるはずなのだが、ここでは両者をつなぐくびきは鮮やかに切り落とされているに違いない。眼にも止まらぬ速さで光が走っても、影はゆっくりと動き、あるいは影がとめどもなく湧き出し、果てしなく溶け広がる時も、光はじっとそこにいる。
光源に何かをかぶせているのか、抽象的な襞や文様がするすると展開したり、ゆっくりと息づいたりすることもあった。そうした不可思議さに比べると、たとえば傍らにあったコートハンガーの影を歪ませ、揺り動かしたり、あるいはプラスチック製の洗濯物カゴの網目のスリット効果で光を干渉させたりするのは、いささか理科実験的に感じられた。
また、演者がスクリーンの横から姿を表し、懐中電灯を操ってそこにある様々な物の影を映し出す様も、ある意味、プロセスの公開により「へえ〜、あれがああなるのか」的な驚きをもたらそうという狙いなのかもしれないが、私にはいささか平板で冗長に感じられたことを告白しておこう。
最近、ガラス板の上に敷いた砂を動かして絵を描くもの、あるいは複数の人が光源からの遠近を活用しながら身体の各部のシルエットを組み合わせて形象をかたちづくるものなど、影絵を用いたパフォーマンスがTV等でよく紹介されている。それらはいずれもリアルタイムのすばやく流動的なメタモルフォーゼを特徴とし、言わば「コンピューター・グラフィックにできない表現」を売り物にしている。今回の坂本によるパフォーマンスとこれらの違いは、まず後者が物語的な、あるいはシンボル操作等の連想的な変形のプログラムを有しており、場面や形象をメタモルフォーゼでつないでいくのに対し、前者はそのような下図を持たないことだ。ただしこれは今回のパフォーマンスが、「即興」による比較的短いものだったからかもしれない。彼のサイト「Sakamoto Osamu's shadow」(※)を見ると、以前のパフォーマンスの動画がアーカイヴされているが、その中には場面転換を基調としたものもある。もうひとつの違いは先に述べたように、後者では全く揺るぎない光と影の間の「写像関係」が、前者にあってはかなり切り離されて(もちろん原理的には切り離すことなどできないわけだが)、ほとんど宙ぶらりんとなっていることにほかならない。
※http://osamusakamoto.info
4.演じることと見る/聴くこと
簡単な仕掛けが、受け止めきれないほどの豊かな変化をもたらす。それゆえ、仕掛けさえわかってしまえば、それは容易く誰にでもできてしまうようにも見える。しかし、実際にはそううまく事が運ぶ訳ではない。たいていの場合、豊かさは単に野放図なとりとめのなさと映るだろう。あるいはただ混沌の中で転げ回っているだけだと。考えてみれば、ここで明らかにされる豊かさは、何気ない日常の中に潜んでいるものだ。見る/聴くことを通じて、そうした豊かさに気づき、一部なりとも引き出すことが出来なければ、今回の一連のパフォーマンスで示された豊かさを受け取ることはできまい。それは演奏者の意図の照応物を、「演奏」の中に見出すという「回路」=社会的制度から踏み出すことでもある。そこではこうした豊かさは、不要なノイズとして、副次的な派生物として、単なる背景として、排除あるいは縮減されてしまうからだ。最近言うところの「実験音楽」悲しいほどの貧しさはそこにある。それは見ることも聴くこともせず、単に「コンセプト」の了解だけで成り立っているからだ。そんなものはコンセプチュアル・アートでも何でもなく、「企画書アート」に過ぎない。
woodmanの飄々としたノンシャランさ、tamaruの透徹した凝視の視線の強度、そして坂本のスクリーンの裏側への隙のない注視と懐中電灯に添えられた手指の多彩なエフェクトと、三者三様の見ること/聴くことへの集中を体験できたことを、大きな喜びとしたい。
また、昨年11月から始めたリスニング・イヴェント『松籟夜話』のキー・フレーズとして、相方を務めてくれている津田貴司(この日、彼は会場にいた。と言うか、このイヴェントはもともと彼が薦めてくれたものなのだ)が提唱しているのが、〈音響・環境・即興〉なのだが、この日のパフォーマンスはこの三題噺のうち、「音響」のところに「光」を代入したように感じられた。こうした不意の出会いを次に活かしていきたいと思う。

『New Year Silence』
2015年1月10日(土)
Ftarri水道橋店
うっど漫々 a.k.a. woodman, tamaru, 坂本宰の影
2015-01-11 Sun
以前にこのブログに、英国の「伝説のアシッド・フォーク・シンガー」サイモン・フィン(Simon Finn)について書いた際、かつては幻のレゴートだった彼の第1作『Pass the Distance』のレコード・ジャケットのイラストにはおそらく元ネタがあり、「どうも子供靴の広告の図柄らしいのだが確認できなかった」とした(*1)。*1 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-86.html#comment18



これに対し、さいとうさんという方がありがたいことに「元ネタ発見!」のコメントを、ブログに寄せてくださった。それ(*2)を見ると「START-RITE」という子供靴専門メーカーの広告キャラクターで、英国人のノスタルジアをかきたてるほど深く浸透しているイメージらしい。
*2 http://www.sterlingtimes.co.uk/memorable_images66.htm




この靴メーカー自体が19世紀末の創設で、現在の社名になったのが1921年、そして件の「双子キャラ」は何と1936年から使用されているらしい。ぜひ次のSTART-RITE斜の歴史紹介動画(*3)を参照してほしい。「双子キャラ」にはいろいろヴァリエーションがあって、月旅行したりもしている。巧妙なパクリというか、パロディ満載のサウンドトラックも楽しい。
*3 https://www.youtube.com/watch?v=HUzUmdgiJbI

‥で、なぜ、この図柄がジャケットを飾ることになったかだが、「folk radio uk」の記事(*4)によると、「サイモン・フィンがレコーディング・スタジオのそばで、この双子キャラの広告ポスターが貼ってあるのを見かけたからだ」という。確かに『Pass the Distance』というタイトルと「(Children’s Shoes) Have Far to Go」というコピーは見事に響きあう。しか、案の定START-RITE社からはクレームをつけられ、作品は廃盤の憂き目を見ることになってしまう(もちろん、そのせいだけではないだろうが)。
*4 http://www.folkradio.co.uk/2011/11/simon-finn-anniversary-show-london/

先のブログ記事にも書いたように、以前には伝説のように囁かれていた「デヴィッド・トゥープ(David Toop)の参加」も本人が事実と認めたし、作品も正式に再発されたしで、めでたしめでたしなのだが、しかし、改めて次のことは指摘しておきたい。本作は「幻の名盤」の再発としてサイケやアシッド・フォークのマニアに独占させておくのではなく、より幅広く聴かれるべき作品にほかならない。そのためには、そうした呪われた伝説の囲みを破って、作品を外へと開いてやらねばならない。先のブログ記事執筆の狙いは、まさにそこにあった。ぜひ、本作品の素晴らしさに一度耳を傾けてみていただきたい。
2015-01-03 Sat
前回のディスク・レヴュー掲載から随分と間が空いてしまった。2014年後期分のディスク・レヴューをお届けする。第1弾はポップ・ミュージックのフィールドから、エスニックな匂いがする作品群を集めたものとなった。実は本レヴューは「ポップ・ミュージック篇前期分その2」として、今回掲載の冒頭の1作品と最後2作品の合計3作品分を書いたところで中断していたもの。今回、その後に聴いた諸作品からの選定分を加えて規定枚数に達した次第。この間の中断については、『松籟夜話』の準備やら、『文藝別冊 ドアーズ』原稿の調査・執筆やらと他の作業にかまけていたせいなのだが、共に資料を調べつつ、数多の音盤を聴き漁って考えることの繰り返しで、その間、ライヴ・レヴューは書けても、類似の作業であるディスク・レヴュー執筆は叶わなかった。きっと頭の中の使用部位が異なるのだろう。
先に「中断後に書き継いだ‥」としたが、その中断前の時点で次のような前口上を書き留めているのだが、果たしてどのような経緯があってこのようなことを言い立てたのか、全く思い出せない。SP音源の豊かさに打ち震えた感動のあまりに書き綴ったのだろうか。とはいえ、論旨自体は全くその通りなので、折角だから削除せず掲げておくとしたい。
テクノロジーの発達だけに寄り添ったポップ・ミュージック進化史観の傲慢さは今更指摘するまでもないが、一見、それと対照的な「アーティスト創造性」論は、アーティストの意識の中で出来上がっていたものに満足な形を与えるためには、すなわち作品を創造性に対して透明化するためにはテクノロジーの発達が必要だったとする点で、これと共犯関係にある。むしろ初期テクノロジーの不自由さが創造性に飛躍をもたらし、テクノロジーの誤用が作品の具現化に新たな次元を開くのだ。

Lost Origin Sound Series LOSS-11505
Electric Cowbell Records ECR-711
試聴:https://soundcloud.com/lostorigins/nawa
「シリアの聖なる声」と題されたシリーズの初作。4曲目以降で聴かれる撥弦楽器と打楽器のアンサンブルを従えた詠唱の、内にとてつもない重さと強度を秘めた声のなだらかな起伏も、もちろん実に気品高く滋味に溢れ素晴らしいのだが、冒頭に収められた声だけによる演奏、とりわけ第1曲に完膚なきまでに打ちのめされる。声は虚空に震え揺らぎながら立ち現れる。だが、その「揺れ」は自らのリピドーの放出のままに軽やかに宙を舞う「コブシ」のそれではない。声の技巧の限りを奉じて、瞬間瞬間を微分し尽くし、不連続であるものを含めありとあらゆる曲線や折れ線の数学的パターンを描き出してやまないインド古典声楽とも異なる。声の使い手に内在する原理の具現化であるこれらのヴォーカリゼーションに対し、シリアの古都アレッポ(いま大変なことになっている)から届けられた声は、大地から立ち上る気の起伏、その微細な凹凸を舐め進むことにより、その這い回る軌跡が美しいヴィブラートを描くに過ぎない。あるいは盲いて行く手を阻む壁を撫で探る指先の動き。手元にあった『アレッポの朗唱者』(Ocora)と題されたCDに収められた声は、行く手を見通し、しかるべき空間を確保して、思い通りに声をくゆらせており、似ても似つかない。かつて降神の儀式を吹き浄めるシャマン金石出(キム・ソクチュル)のホジョクのうねりに、そうした軌跡を認めたことがあった。だが沸騰し泡立つホジョクの叫びに比して、彼らの声は石造りのモスクの床の冷ややかな堅牢さを保ちながら、暗がりに溶けていく。斉唱もまた、ぞっとするほどに深い底の知れない奥行きをたたえる。2本の川の色の異なる水が溶け合うように、組成の異なる揺らぎが不整合なまま混じり合う様に陶然としてしまう。次第に斉唱が隊列を律し、独唱との区分を画定するようになると、そうしたあり得ない不思議さは霧散してしまうのだが、それであってもやはり冒頭に述べたように素晴らしい。

Innacor Records INNA11417
Annie Ebrel(vocal),Maryam Chemirani(vocal),Hamid Khabbazi(tar),Sylvain Barou(flutes traversieres en bois,bansuri,balaban),Keyvan Chemirani(zarb,daf,udu,santoor,percussions),Jacky Molard(viola,contrabass)
試聴:http://www.amazon.com/Avaz-Keyvan-Chemirani/dp/B00O46YOVM
http://www.theatre-cornouaille.fr/index.php?option=com_content&view=article&id=986&Itemid=59
ペルシャ音楽と仏ブルターニュ地方のトラッドの融合の試み。いや「融合」なんて生易しいものじゃないな。畳み掛け駆け巡る打楽器に煽られて、急加速/急減速を繰り返しながら自らを切り刻み、細分化/結晶化を来していく吹奏と打弦。その目映いばかりの速度の果てに、木の回りを巡る虎がバターと化すように、異なる組成の一体化が現出する。例えばヴォーカルに、Malicorneの演唱を思わせるいかにもブリトン風なきっぱりとしたメロディやいささか鼻にかかった声音が現れたりするのだが、それを取り巻くサウンドのあまりの稠密さに、全く別の景色が浮かんでしまう。しかしそれにしても、これだけの圧倒的演奏にもかかわらず、空間はしんと冷ややかに静まり返ってしめやかさを失わず、響きもまた硬質な輪郭を僅かばかりも揺るがすことがないのは、果たしてどうしたことか。二人の女声の平らかに摺り足で歩む強度もまた素晴らしい。「あまりにも見事過ぎる」と思わず愚痴りたくなる。2013年作品。

Little Axe Records LA-011
Su Wai(vocal, saung gauk, si-wa), Rick Heizman(recording, the kyee-si,bells on B-1)
試聴: http://littleaxerecords.bandcamp.com/album/gita-pon-yeik
たおやかに浮遊する声の舞。弾かれるそばから綻び、はらはらと散り紛う弦の音色。11本から16本の細い絹糸を張るというミャンマーの伝統楽器、船の形をしたハープ「サウン・ガウ」の、多弦ゆえの共振と干渉のせいか、そこにはコラにも似た甲高く打ち震えるような煌めきがある。ゆるやかに解けながら調べの行く末を明らかにしていく声は、ことさらに小節を回さず、あるいはコケティッシュに声を裏返らせ艶やかに裳裾を翻すことをしない。ミャンマーの伝統音楽の演奏でありながら、SP盤時代の録音を封じ込めた『Longing for the Past』の、口を開けた途端に匂い立つくらくらするほどに馨しいエキゾティシズムはここにはない。それゆえ聴き手の連想はあり得ないノスタルジアを巡ることなく、先にコラの音色との類似を指摘したように、高地の澄んだ大気に響くスコティッシュ・ハープや、フォーキーにまどろむ子守唄を思い浮かべることになる。LP盤のみのリリース。

Final Touch
Kali Kampouri(kanun,vocals),Eleftheria Kourlia(guitar,vocals),Peny Papakonstantinou(Constantinople lute,percussion,vocals),Eirini Syskaki(violin,vocals),Hara Tsalpara(accordion,vocals)
試聴:http://elsurrecords.com/2014/09/15/smyrna-tha-tragoudiso-agalina/
トルコはアナトリア地方の港町イズミールのギリシャ名「スミルナ」を冠する女性ばかり5人のメンバーによる、トルコ、バルカン、ギリシャ音楽の溶け合う華々しき饗宴。「グループ結成後この4年間に渡り、アナトリア、カッパドキア、トラキア、マケドニア、アルバニア、イオニア海、エーゲ海の島々、そしてスミルナのフォークロアを学び、その音楽性を吸収して来たそうですから、ある意味、各地のトラッドをミクスチュアーした “ネオ・トラディショナル”音楽を実践しているわけです。その意味でも、こんなギリシャ音楽聞いたことない!というのは当然かと…。」(El Sur Recordsコメントより)というわけで一筋縄では行かない。打楽器の拍動に伴われた厳かな合唱で幕を開け、中盤は民謡調に傾き、一気呵成にまくしたて駆け抜ける。叩かれた弦がきらびやかに輝きつつ咲きこぼれ、あるいは擦られて切なげにすすり泣き、爪弾かれてそぞろ歩きながら、手風琴の織り成すめくるめくアラベスクと自在にユニゾンを組織する。目映いばかりの濃密さと馨しいばかりの肉の「震え」がここにある。再び終盤8曲目で張り上げられる声が、互いに口腔の襞を摺り合わせ、艶かしく振動する様に耳を凝らしてみること。

Kalan Muzik CD 477
Brenna MacCrimmon(vocals,tambura),Ryan Francesconi(Bulgarian tambura),Dan Cantrell(accordion),Tobias Robertson(darbuka),Paul Brown(bass),Lise Liepman(santouri),Sandy Hollister(bendir),Polly Tapia Ferber(bendir,bells),Char Rothschild(banjo,dobro),Robby Rothschild(percussion,cajon),Matt Moran(tupan,vibes),Greg Squared(alto sax),Reuben Radding(bass),Rima Fand (violin),Haig Manoukian(oud),Jodi Hewat(vocals),Beth Bahia Cohen(violin,bendir),Lefteris Bournias(clarinet),Nicole LeCorgne(percussion,bendir,tiqq),Souren Baronian(soprano sax),Phaedon Sinis(tarbu),Adam Good(oud,tambur),Umut Yasmut(kanun),Ben Grossman(vielle a roue),Rick Hyslop(violin),Bret Higgins(bass)
試聴:http://elsurrecords.com/2014/09/01/brenna-mac-crimmon-kulak-misafiri-events-small-chembers/
2009年の作品だが長期に渡り入手困難だったようなので、この際に。東欧/バルカンから幅広く渉猟したトルコ伝統音楽を、カナダはトロント出身の女性歌手が歌い、米国で録音されている。Brenna MacCrimmonは「ターキッシュ・ジプシー・クラリネット奏者、セリム・セスレルの音楽的パートナーにして、トルコのアシッド&フォークロア・ユニット?=ババズーラの紅一点、そしてまた、バルカン&ギリシャ/オスマン起源トラッド音楽ユニット=アイデモリの女性歌手でもある」(El Sur Recordsコメントより)そうで、歌い回しも堂に入ったものだが、前掲のSmyrnaの息苦しいほどの濃密さに対し、驚くばかりにさらりと風通しが良い。声と各楽器が響きを香らせる空間が適切に与えられているのだ。‥と言うと、Ryan Francesconiの参加もあって無味無臭・無国籍(カリフォルニア風味?)な味わいを連想させてしまうかもしれないが、決してそんなことはない。薄味ながら素材の持ち味を繊細に引き出していると言えるだろう。ゆったりと歩む声の足取りの精密な正確さが、伴奏楽器による緻密な象眼細工を可能とし、細密であるがゆえに余白を多く残し、さらりとした平坦さ、幾何学的な抽象性の美を失わない。それゆえ、北アフリカやユダヤの文化が色濃く刻印されるスペイン古楽を奏するL'Ham de Focをはじめ、混淆文化を探求するグループに共通する怜悧な端正さをたたえているのだ。

Mississippi Records MRP-080
Lord Executor,The Lion,Lionel Berasco's Orchestra,Atilla The Hun,Codallo's Top Hatters Orchestra,Luis Daniel Quintana,Cyril Monrose String Orchestra,The Growler,Lord Invader, Lionel Berasco
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/MRP080LP.html
http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=14936
トリニダードのカリプソ音源のSP盤からの発掘編集盤。なにしろカリプソのことなど何も知らないので、ここに収められた演奏者たちの位置づけも評価も全然わからないのだが、もしこれが「カリプソとしてはたいしたことない」のだとしたら、きっとカリプソはこの地球上で最も優美な音楽なのだろう。ロル・コックスヒルが写した元ネタはこの辺かな‥‥というような田園的優雅さをたたえたストリングスやヒューモアいっぱいのソプラノ・ソロが耳に飛び込んできて、英国ポップ・ミュージックにおけるカリブ海文化の豊かな影響が、ディス・ヒートが登場するはるか以前から始まっていたことに一瞬思いを馳せるが、すぐにまた別の優美さに心を奪われてしまう。こうした「カワイイ」感覚の比類ない横溢の一方で、舌足らずで寸詰まりなクレオール的英語によるヴォーカルのラップ的なリズムの弾み方や、バックのブラス・サウンドの、サンプリングしてディレイをかけてずらしながら積層化したとしか思えない、ぶっ飛んだアレンジメントの「進み具合」にまた驚かされる。同様の趣向による『My Intention Is War Trinidad Calypsos 1928-1947』(Mississippi Records MRP-079)もまた素晴らしい。


Mississippi Records MR-006
Washington Phillips(voice,dolceola)
試聴:http://littleaxerecords.bandcamp.com/album/washington-phillips-what-are-they-doing-in-heaven-today
ワシントン・フィリップスは伝道師でゴスペルの録音を残している。彼は伴奏にトイ・ピアノのような外見をした楽器ドルセオーラを用いた。20世紀初頭のごく短い期間だけ制作された、このむしろチターに近いとも言われる楽器のオルゴールに似た天使的音色が、彼の演奏に不思議な彩りを与えているのは確かだ。録音状態とも相俟って、声も音も放たれるそばから空気に溶けてしまい、熱も重さもない目映い光の微粒子と化して改めて遍く降り注ぐような「恩寵」的感触がある。遠い記憶の中から響いてくるというか、ずっと以前、まだ言語的記憶が備わっていない頃に聴き親しんだ響きがフラッシュバックして、様々な感情とともに一気に込み上げてくるというか。そういえばドルセオーラの音はベビー・ベッドの上に吊るす、古くさいセルロイド製のメリーの音を思わせるところがある。もともとのリリースは2006年だが、長く品切れ状態が続き、今年になって再発されたことから採りあげた次第。