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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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歌女との二度目の遭遇  My Second Encounter with Kajo
1.池袋バレルハウス
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 Facebook上で池袋駅C1出口からの道筋を示してくれた原田正夫の絶妙のナヴィゲートにより、初めての場所にもかかわらず、珍しく迷うことなくたどり着く。目指す場所は1階が中華料理屋の雑居ビルの2階(ちなみに3階はタイ式マッサージ)という絶妙なロケーションに位置していた。店のウェブページでは予約を受け付けていないことと狭さが強調されていたため、用心して開場時間の少し前に行くと、さすがに誰もまだ並んではおらず、店主が親切に店内に入れてくれる。おかげで開演前のリハーサルの様子を垣間見ることができた。
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 すでに「歌女」のトレードマークというべきセパレート・ドラム・キットはほぼセッティングが終了していて、藤巻はまだ来ていなかったから、スキンの張りを確かめている石原が持ち運びとセッティングを担当しているのだろう。横置きにしたバス・ドラムのまわりにスネアとフロア・タムが配置され、打面や床の上に金属ボウルが幾つも置いてあるのは水道橋Ftarriの時と同じだが、シンバルの枚数が多かったり、大型のタンバリンが取り付けられていたりと、微妙な違いが見受けられる。
 セッティングの仕上げにかかる石原をよそに、高岡がピアノ用の椅子に腰掛け、ひとり壁に向かってチューバの音を出し始める。循環呼吸により、息継ぎによる休止のないロングトーンやフレーズが海原に向けてはえ縄を繰り出すように紡がれていく。それは運指練習というより、チューバの各部と部屋の鳴りを探りながら、複雑に折り畳まれたチューバの管の中の空気の動きと重みを確かめているように思われた。
 この後、少しして原田が到着し、新しく購入したザブンバ(ブラジルの大太鼓様の打楽器)を携えた藤巻が現れ、さらには「タダマス」の二人(多田と益子)までカウンターに揃うという思いがけない展開となり、高岡による非常に興味深い打楽器やマイク/録音に関する話が出たりするのだが、それらは演奏の様子と絡めて紹介することとしよう。


2.歌女@バレルハウス20150214(前半)
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 演奏はまず藤巻のソロから始まった。フロア・タムの打面に置いたシンバルを揺らし、両手に持った小マラカスを振りながらドラムの各部をヒットし、あるいは擦って、右足では床に置いた円筒状のマラカスを転がす。可能な限り多くの音を異なる場所から繰り出すせわしない動きは、やがて収斂し、音を空間の各所へと分散配置しながらも、それぞれの音出しは効果的に絞り込まれ、納まるべきところへと納まって、熱帯雨林を思わせる音風景を描き上げるに至る。それがグルーヴにまで収斂してしまわないのは、リフがあっても周期をずらすなど、音の生成の多元性/多層性が保たれているからにほかなるまい。これは眼を瞑った方が楽しめる音だ。
 高岡がボウルを拾い上げ、その底にマウスピースを逆向きに押し付けて吹き鳴らす。細く甲高い響きが空間を突き刺し、さらには高速のフラッターへと転じる。息の強さやボウルの底とマウスピースの圧着具合を変えて、息漏れを生じさせたのだろう。量子化された響きとシンバルの打撃の余韻が重なり合う。続いてはチューバに柔らかく吹き込まれた息が寸断されたあえかな震えをつくりだし、フロア・タムのスキンの震えやフレームの鳴り/軋みと響き合う。息に泡立ちが混じり、ミクロでこわれやすい息の景色が膨らんでいく。循環呼吸による継ぎ目のないロングトーンは鳴るか鳴らぬかの水面ぎりぎりを飛行し、絶えざる息の流れのもつれ/乱れや、立ち上がる「息の柱」のふらつきを明らかにしながら、電子音的なドローンへと至り、指の腹で打面を擦る震えと溶け合っていく。

 ここで石原が加わり、フレーム・ドラムの打面に粘着テープを貼っては剥がしを繰り返す。打楽器奏者が二人に増えて音数を増しながら、破片を生み出すばかりで流れをかたちづくるには至らず、総体として高岡のつくりだすドローンにたゆたい浮き沈みする演奏は、いささか澱んだ膠着状況を抜け出させずにいた。
 高岡ふっと吹くのを止め、足元にあったボウルを蹴飛ばし、藤巻にパスし、なおも足先で弄ぶ。裸の金属音が、ドローンの消え去った空間に剥き出しのまま響く。石原が小シンバルでバス・ドラムの打面を擦ル。高岡が再びチューバを抱き、ベルにボウルを突っ込んで息を吹き込む。吹き上げられたボウルが踊り、吹奏とあいまって破れ鐘のような音を立てる。藤巻がフロア・タムを両面から叩き、新鮮な音色を付け加えると、チューバがそれを煽って音の密度が再度高まるが、もう音は澱むことなく流れ始めている。今度は二つのボウルがチューバに投げ込まれ、息の震えでぶつかり合い、虫の音を拡大したようなLucio Capece的音響を放出する。
 この日は三人のみの演奏であり、Leo Dupleixによる持続が緩衝材として働いた水道橋Ftarriの時とは異なる。それゆえ、このように流れが滞る場面が時折見られた。だが、そんな時、ここに描き出したように、高岡が大きな身振りで全体をコンダクトし、二人に「気づき」を与える。水路が組み替えられ、新たな掘り割りに水が再び滔々と流れ始める。
 ノンブレスによる滔々たる息の流れは、ホラ貝に似た吹き鳴らしを経てさらにうねり、石原と藤巻による連打の重ね合わせを導き出す。打点をコントロールし、振動を巧みにミュートして鳴りっ放しにせず、音と音の隙間をくっきりと保つところが、フリー・ジャズ的な放埒さと彼らの演奏を分つ大きな違いだ。ビートも注意深く収斂を回避し、より分散的な方向を目指している。だからこそ、細かな打撃の網の目が重なり合っても、それを通して、高岡による連続した音響のスペクトルが透けて見えるのだ。ここでチューバは珍しくフレーズの枝から枝へと飛び移るような多弁なソロを聴かせ、高らかにさえずってみせる。フレーム・ドラムでミュートしスキンの振動を加えた霧笛を思わせる響き。吹きながら、ボウルで床を叩くことを忘れない。


3.インターミッション1
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 開演前に高岡は、藤巻が手に入れたザブンバの軽さや大きさからは想像できないほどの低音の伸びについて、あるいは石原がこれも最近入手した中古のティンパニ・セットについて、さらには60インチ(1.5m)口径の大太鼓を吊るすフレームが大きすぎて車に乗らないため購入を見合わせた話等をしていて、原田が「打楽器奏者が三人いるみたいだ」と感心していた。高岡自身、打楽器に対する関心の高さや共演者に打楽器奏者が多いことをブログ等で述べている。前回の「歌女」レヴューでも少し触れたが、彼の視点は「メロディ担当の管楽器奏者がリズム担当の打楽器奏者を見る」というのとは違うように思う。彼の演奏自体が、吹奏パルスやボウル叩き等によるパーカッシヴなものの創出を、ふんだんに含んでいることを思い出そう。彼の打楽器への関心は、そのまま「歌女」の「アンサンブル」の基本である「透明性/透過性の確保」に結果しているように思う。すなわち、パーカッシヴなものの力能が最大限に発揮されるのは、多方向から多元的に射出される音響の衝突においてであり、かつそこで生み出される音響の網の目の重ね合わせが、決して「網の目」をつぶしてしまうことなく、向こう側が透けて見える「透明性/透過性」を確保しなければならないという音響哲学だ。ここで音と空間が緊張関係の下にとらえられていることに注意しよう。

 開演前にもうひとつ話題になっていたのは、高岡が録音を担当したJohn Butcherの新譜『Nigemizu(逃げ水)』だった。話はコルグのワンビット・レコーダーからマイクロフォンへと至り、ワンポイント録音のマイク・セッティングの話となった。私がドキリしたのは、彼がヒュー・トレイシーをはじめ、1950〜60年代の民族音楽の現地録音が好きだと言い、無指向性マイクロフォン2本により空間を丸ごととらえる仕方を賞賛したことだった。これは現在の録音方式の主流である、指向性の強いマイクロフォンを多数立てて、それらの間のバランスをミックスの際に取り直すマルチ・マイクロフォンのセッティングと対極にあるだけでなく、やはり指向性の強いガン・マイクにより、鳥の鳴き声を種を同定可能な、つまりは他の音響を可能な限り排して対象を背景の前にくっきりと鮮やかに浮かび上がらせるフィールドレコーディングの仕方とも異なっている。
 むしろそれは、私たちがECM録音の響きの滲みについて、Derek Bailey & Min Tanaka『Music and Dance』で聴くことのできる空間に侵食されぼろぼろになった音響について、Francisco Lopez『La Selva』の眼の眩むようなオールオーヴァネスについて、クォーツ録音の「in situ」性について、あるいは『松籟夜話』で音響・即興・環境の三題噺について語ってきたこととまっすぐにつながる。実際、『Nigemizu(逃げ水)』の録音は、John Butcherの素晴らしい演奏を、周囲の空間に沸き立つ響きの香り/手触りごととらえた、それはそれは見事なものなのだ。


4.インターミッション2
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 歌女のCD『盲声(Blind Voices)』について、原田が高岡に最近購入してから毎日聴いているのに全然飽きないという話をする。ヒュンヒュンというスティックの風切り音とか、クリシェというか、いかにも「ああやってるな」という音が出てくるのに、他と違って全然鼻につかない‥‥と。それはやはり覚えられないような演奏をしてるから‥‥と高岡。傍らで聞いていて、そうなのかなと思う。
 確かに歌女の演奏にフリー・インプロヴィゼーションの決まり文句を見つけるのはたやすい。だが、そのことは演奏が新しい局面を開いているかどうかとは、差し当たり関係がないのではないか。例えば小説家は聞いたこともない珍奇な表現や耳慣れぬ新造語で埋め尽くさなければ、新たな境地を切り開く作品を書けないだろうか。そんなことはない。フリー・インプロヴィゼーションの領域でも、超絶技巧や創作楽器による楽器の表現領域の拡大や、非正規的な使用によるノイズの創出が盛んにもてはやされたことがあった(と言うより依然としてそうした傾向は強い)。しかし、そうした新奇な表現もまたすぐにクリシェ化する。それは、新奇な音の「新奇さ」に演奏の成立を委ねてしまうからだ。より具体的に言えば、ソロの強度を保つための「飛び道具」として使うからにほかならない。
 歌女において、各演奏者が放つ音響、紡ぐフレーズは、すべて他の演奏者の音響/フレーズと重ね合わされることを前提にしている。そこにソロとバッキングという階層的な役割分担は存在しない。それは複数のソロの応酬でもない。なぜなら各演奏者は自らの音を閉域へと囲い込まず、境界を開け放ち、音響を「共有地」たる空間へと解き放つからだ。そのために彼らはみな、自らの音に「空所」を用意する。それは打撃と打撃の間にくっきりと刻まれた間であったり、継ぎ目のない吹奏の向こうが見透かせる希薄さであったり、得体の知れない吐息やつぶやきのようなものであったりする。それらが演奏を聴き届ける耳に重ね合わせを要求する。私たちはチューバによるドローンの薄いヴェール越しに弓弾きされたシンバルの倍音に耳を澄まし、両側から押し寄せるドラム各部の連打の嵐の中にくっきりと保たれた空隙から逆巻く息の流れを覗き込む。そこで対象はさっきまでとは全然別の姿をしている。すべては混ざり合い、揺れ動き、化学変化を起こしながら、自らを更新していく流動変転のうちにある。


5.歌女@バレルハウス20150214(後半)
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 後半の演奏は、フレーム・ドラムの打面にマウスピースを押し当てて吹き鳴らすことから始まった。押し当てる位置や強さにより、スキンのテンションや息の漏れ具合が変化し、サウンドの風合いが変わっていく。さらにフレーム・ドラムにボウルを載せてプリペアすると、何だか飲茶屋の給仕のような姿になる。バス・ドラムとザブンバの打面を擦る藤巻も、腰に下げた袋(様々なスティックや音具が入っている)のせいで、指物職人のようにしか見えない。そして、あちこちで沸き立ち泡立ち、大きく傾き揺らぐグループ・サウンドは、やはり午餐時の中華料理屋の慌ただしい厨房のようだし、手を伸ばし腰を屈め、床から何かを拾い上げたり、頭にかざしたり、並べて叩いて調子を見たり、ぽいと放って受け渡したりしながら、頻繁に位置を変え、姿勢の移り変わる三つの身体の連携は、どうしたって大工や左官屋の動きを思わせる。
 高岡がマウスピースを外したままのチューバに息を吹き込む。草笛やブーブー紙の鳴りに似た震えがゆっくりと空間を渡り、渡りながら次第に解け、希薄に滲み広がって、遠くから風に乗って切れ切れに聴こえてくる葬送のブラスバンドを思い浮かべさせる。そのうち息は鋭さを増し、倍音の多い笛の音に似た輪郭は解体され、シュシュシュシューと弾けほとばしる息の流れが剥き出しになり、電子音に似たちらつきを身にまといながら疾走する。量子化する息の流れ、追憶のブラスバンド、ほら貝のうなり、ドップラー効果とモジュレーション、豊かな倍音をはらんで息むらがそのままそそり立つようなテーグム(韓国の横笛)の太い音色‥‥走馬灯のように音色が巡るうち、つい最近、耳に刻み直したばかりの音色がふいに立ち現れ、いきなり後頭部を殴られたような衝撃を受ける。『松籟夜話』でかけたニューギニアの魔法の笛だ。押し引きの繰り返しを通じて、もう一本の笛とさらには二本の笛を包む空間と息遣いを合わせていくプロセスを、チューバの複雑に曲がりくねった管の中で、あるいは開口部と吹き口の交感の中で行っているのだろうか。そもそも高岡は、あの笛の音を聴いたことがあるのだろうか。

 記述が高岡の演奏だけにフォーカスしてしまったが、別に彼がソロを取っていたわけではない。打楽器奏者二人はその間も黙々と作業に勤しみ、尽きることのない流れを生み出し続けている。しかし、その流れは高岡の生み出す響きを切り裂いて、地表へと噴き出すことはない。むしろ、川石を転がす底流となって、あるいは脈動するマグマとなって、さらにはグラウンドに様々な起伏や傾斜を編み上げ、高岡の息の流れと一つに溶け合いながら、たゆまぬ前進のための駆動力を提供していく。それゆえ高岡の息が、チューバの鳴りが、影絵のように滑らかなメタモルフォーズを連ねていけるのだ。
 マウスピースを装着したチューバは、まず破裂音を試した後、ターンテーブルのスクラッチに似た掠れでビートを侵食し、コブラの笛となって頭をもたげ、爪先立って畳の縁を歩むような調子で低音を徘徊する。次第に打楽器の音の密度が高まり、ラウドになっていくところで高岡が吹き止め、ビートの機械仕掛けをいったん水面上に露わにしたうえで、改めて微弱音のロングトーンを沁み込ませる。チューバがホーミーを思わせる音色へとねじれていく中から、ロールの高鳴りが姿を現す。ロールがさらに高まり、速度を増して疾走し、張り詰めたスネアとたわみによるタイムラグが生じるタムを対比させながら天井知らずに密度を高めていく流れに、チューバがバリバリと咳き込みながら乱入し、さらに熱く息を吹き込む。フェードアウト。
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6.アフターアワーズ
 原田が事前に高岡の許可を得て撮影した写真を見ると、何だかとんでもないものが写っている。流動変転に巻き込まれ共に移動する過程においては、うんうんとうなずき続けるほかはない必然性の連続だった三者の動きが、ある時間断面で切り取ると、自分は何を観ていたのかと頭を抱えるほどよくわからないものに化けてしまう。それは「瞬間」の不自然さの成せる業なのかもしれない。すなわち、写真が登場する以前のイメージに基づいてつくられたロダンによる彫像の男の歩く姿に比べ、写真がとらえた「男の歩くプロセスの一断面」が信じられないほど不自然で滑稽に見えるのと同じなのではないだろうか。
 そう言えば、写真撮影許可を求められた高岡は確か「勝手に写真を撮ってるヤツに手を振ったり、指差したりして、『やめろっ』って言ってもわからないんですよ。ヤツらファインダーの中しか見てないから。写真家は対象を直接によく見てますよね。まわりも見る。全体を見てる。」と言っていた。ここでも『松籟夜話』第二夜で語った「in situ」の話との不思議な符合にびくっとした。
 原田、多田、益子たちと連れ立っての帰路、多田が「店の入口にある水槽の音が聴こえてきて、それが歌女の演奏と溶け合って、もう桃源郷だった‥」と漏らしていたのが強く印象に残っている。あらゆる環境音を演奏の流れに溶かし込む歌女、恐るべし。

※ライヴの写真はすべて原田正夫撮影。


7.Moore, 藤巻, 瀬尾, 高岡@The Foxhole20150218
 シンガポールで開催されたフェスティヴァルへの参加について綴った一連の文章の中で、高岡が絶賛していたDaren Mooreを迎えてのセッション。最初は藤巻、次がMooreとドラマーが入れ替わった二つのトリオ演奏の後、全員での演奏。
 藤巻が一瞬に鋭く弾ける閃光のような「叩き」を駆使して、硬質なサウンドをつくりあげた一方で、Mooreは弓でシンバルを弾き、スティックでスネアの打面を擦り、さらには打面に「ささら」を押し付けてブチブチと鳴らすなど、音具を用いた音色寄りの演奏を多用しながら、背中を蹴飛ばされたようなダッシュでパワフルな連打を繰り出すなど、ダイナミクスの幅を一杯に活かした演奏をした。瀬尾もまた、他の三人に比べ小柄な体躯をものともせず、やはりダイナミックに弦にアクトし、切れ味鋭い音を稠密に張り巡らした。
 演奏の奔放さがフリー・ジャズ的な放埒に至ることを恐れない他の三人の演奏に比べ、高岡の演奏は、あるいはどこか中途半端な煮え切らないものに見えたかもしれない。彼は他の三人より一歩下がって背景となる音を提供し、あるいは音量を絞って物陰に沈んでいくようにすら見えたのではないか。だが、私には、高岡がこの場に感じている「違和感」がはっきりと手触れるように思われた。
 弦の上を飛び回る指がぶりぶりと音を発出し、周囲に結界を巡らせるコントラバスの傍らで、チューバはむしろそっと浮かべるように音を出し、音を漂わせ、くゆらせながら、次第に遠ざかっていく。音を切り刻み、鮮やかに断ち切ることで推進力を生み出す藤巻と瀬尾に対し、彼は途切れることのないロングトーンのうちに、くぐもった暗めの音色を移り変わらせた。煎り豆が爆ぜるように弾けまくるドラムに対し、ことさらにゆっくりと歩み、かすかな息漏れだけで伴走した。最大音量の疾走と微弱音量のたゆたいを往復し、いや、その両極へと二極分解し、色彩のスペクトルを極端に狭めてしまう他の三人に対し、淡彩ながら様々な色合いを試み、つぶやくような泡立ちを添え、どもり、つっかえながら訥々と語り、最低音域で黙祷を捧げた。
 高岡は他の三人といっしょに速度を競い、音量を高め、一転して急減速し低空を飛行することをしなかった。彼はただ、その場に欠けているものを静かに差し出しているように見えた。ここには、歌女の演奏に特徴的な、音を重ね合わせることを最初から前提とし、自らの音に「空所」を仕込む仕方は見られなかった。演奏は重なり合い、浸透しあい、混じり合うことなく、それぞれに燃え盛り、明るさを、華やかさを競った。それは決して悪い演奏ではなかった。しかし、彼が思い描いているものと違うのは明らかだった。私は彼の孤独を思った。


8.Roger Turner/高岡大祐デュオ
 Roger Turner(dr,perc)が来日ツアーを展開している。John Russel(g)とのデュオ等、言わばJohn StevensやSpontaneous Music Ensembleの近傍、英国フリー・ミュージックの幹の部分から活動を始めながら、Phil Mintonの崇高にして下品極まる多彩な声との共同作業や、Lol Coxhill(ss), Mike Cooper(g)とのチープなエレクトロニクスにまみれ、ダブすら採り入れたThe Recedentsの活動等を通じて、そこから果てしなく漂流し、さらにはThomas Lehn(syn), Tin Hodgkinson(g,reeds)との音響パンク的なKonk Packに至る彼の経歴は、実に興味深いものだ。ガラクタかつオモチャな小パーカッションや音具の使用、擬音/効果音的な音色を含むサウンド・パレットの拡張、エレクトロニクスによる雑色性の導入、瞑想性や格調高さとは程遠いカチャカチャと落ち着きのないせわしなさ、気まぐれな疾走、ポップな感度とヒューモアへの眼差し‥‥彼がいなかったらSteve Nobleは(そしておそらくDaren Mooreも)出てこなかったのではないだろうか。
 そんな彼のツアー・プログラムの中で、私が最も惹きつけられたのが、高岡とのデュオだった。というわけで、大阪に行ってきます。いやー、ミッシェル・ドネダ/カン・テーファン以来だなー、こんなこと。あの時はやはり東京から出かけてきた大里俊晴とばったり出くわしたっけ。
  


2015年2月14日(土) 池袋バレルハウス
歌女:藤巻鉄郎・石原雄治(separate drum kit,perc), 高岡大祐(tuba)

2015年2月18日(木) 吉祥寺The Foxhole
Darren Moore(dr,perc), 藤巻鉄郎(dr,perc), 瀬尾高志(cb), 高岡大祐(tuba)

2015年2月26日(木) 大阪コモンカフェ
Roger Turner(dr,perc), 高岡大祐(tuba)
http://ompasha.blog.shinobi.jp/Entry/239/

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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:59:34 | トラックバック(0) | コメント(0)
特定の場との共同作業 − 小川敦生・津田貴司デュオ ライヴ・レヴュー  Collaboration With Specific Site − Live Review for Atsuo Ogawa & Takashi Tsuda Duo
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 初めて行く黄金町「試聴室」は京浜急行黄金町から日の出町へ少し戻った高架下にあった。中に入ると一部の建て組みは木材で出来ていて、斜め天井に設けられた天窓の外に高架との隙間からマンションが覗いている。ステージ側は本日のプログラム『黄金のえじき』のために、4台のTVモニタが床に積み上げられ、サウンド・インスタレーションを構成する長いスプリングが壁から張り渡され、さらにそこから映写機のリールに釣り糸がつながれている。雑然とした空間に張り巡らされた様々な仕掛け。
 ステージに向かって右側は狭い側道をはさんですぐに建物が並んでいるのだが、左側は幅の広い歩道と車道を経て大岡川に面して開けている。しかし、人通りは少なく、思ったより音は聴こえてこない。もちろん高架下なので上を走る列車の通過音が響くのだが、JRの高架下に比べるとはるかに静かで、構造物により騒音がかなりの程度濾過されて聴こえる。特に高音成分は少なく、レールの軋みや鳴り、ブレーキング・ノイズ等は聴こえない。それでも上から頻繁に降ってくる通過音や隣接するアトリエから響いてくる作業の物音等は、天井に向けた空間の倉庫めいたがらんとした広がりと相俟って、ここが半分「外」であるような感じを与えていた。


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 用意された4つの演目のうち3つ目が終了したところで、事情により退出してしまったので、観たうちで最も印象に残った2番目の小川敦生と津田貴司のデュオについてリポートすることにしたい。

 最初のプログラムの終了後に、Gunvor Grudel Nelsonによるモノクロのフィルム(youtubeからの動画ファイル)『My Name Is Oona』がスクリーンに映し出された。金髪の幼い少女の姿が、移動する視線により、様々な角度からとらえられる。少女は外を歩き、友達と転げ回り、白馬にまたがる。映像は時に白黒を反転させ、二重露光によって重ね合わされて、ちらつきさざめきながら変容する明暗のハレーションと何物かの姿/影を絶え間なく往復する。そうした視覚的流動に、少女による「My name is Oona」というつぶやきを、スティーヴ・ライヒ『Come Out』と同様の位相差変調が施され、声はたなびきながら旋回し、やがて輪郭を失ってくぐもったうなりと化し、強迫的に反復される。この「音響化」は視覚にも強く働きかけ、映像の抽象化/脱・意味化を促進せずにはおかない。少女の肢体に向けられた明らかにエロティックな視線(フィルムの制作者は女性とのことだが、だからそこにエロスがないとは言えまい)は、脱水機にかけたように取り除かれてしまう(だがむしろ眼差しの手触りの「記憶」としてまざまざと残される)。エンドロールのクレジットにはライヒの名前があり、手法の借用ではなく、本人の仕事だったかと驚かされる。
 後で、この作品を選んだ小川に聴いたところによると、制作にはロサンジェルス・テープ・センターが絡んでおり、60年代の当センターは、(テープ)音楽だけにとどまらず、様々なアート領域の交差点として機能しており、越境的な共同作業により様々な興味深い取り組みがなされたのだと言う。

 やはり小川選曲のBGMに続き、小川と津田のデュオが始まる。あらかじめFacebook上で「互いのソロが重なったり重ならなかったりする形態での演奏を予定しています」と事前告知されていた通り、ステージ前にはパイプ椅子に座りバンジョーを抱えた小川ひとり。傍らにスネア・ドラムのスタンドが設置され、ドラムの打面には何やら白い円盤状の物体が置かれ、マイクロフォンがセットされている。
 小川が弦に触れる。ごく短いフレーズがふっと空間に放たれる。しばらくして、また思い出したように弦が爪弾かれ、やはり短いフレーズ、あるいは二つ三つ、あるいはただ一つの音が響く。インプロヴィゼーションではないだろう。演奏は淡々と進められ、即興演奏特有の集中がもたらす強迫性は感じられない。冬の陽だまりの中で昔を思い出すようにわずかな音が爪弾かれ、それが思い出に吸い込まれてしまうと、それをまた懐かしむように、弦の響きが置かれる。
 どこからかチャイムの音がするのにふと気がつく。天井から降ってくるようにも聴こえるが、はっきりとはわからない。駅から風に乗って届けられるのかとも思うが、他の騒音は聴こえない。一度気がついてしまうと、間を置いて鳴るそのチャイムの音は、小川の演奏に重ね合わされ、関係づけられずにはいない。しかし、小川はチャイムの音に合わせて演奏している訳ではない。降り始めたばかりの雪のひとひらのように、ふっと空中に現れる音は、小川の肩にかかり、あるいは足元に落ちる。身をかわしているようにも見えない。彼にはチャイムの音は聴こえていないのだろうか。いずれにしても、チャイムの音に「合わせない」ことにより、そこには多様な関係性が生まれている。
 どこからか潮騒が過る。いぶかしく思って、それとなくあたりの様子をうかがうが、これもまたどこから聴こえてくるのかわからない。二、三度繰り返すうちに、津田が『十二ヶ月のフラジャイル』でも使っていたラジオのホワイト・ノイズだと気づく。柱の向こうにちらりと津田の姿が見える。ラジオの向きを変えながら、客席を静かに歩き回っているようだ。音は遠ざかり、揺らめき、方向を変えて、周波数成分が違って聴こえ、あたりの音と溶け合う。いつの間にか気にならなくなっていたが、ずっと続いている列車の通過音。客席の椅子の音。背後の厨房の物音。スタッフがファンヒーターにタンクをセットして点火する物音。隣接するアトリエの話し声。前列の女性が袋をぱりぱりと鳴らしながら「あられ」を食べる音(彼女の頭の中では、きっと口の中で「あられ」が砕ける音が一番大きく響いていたことだろう)。バンジョーとチャイム、ホワイト・ノイズが浮かび上がらせる陽炎のような音のかげ。
 増幅度が高く、解像度の低い聴取モードの中にたゆたっていたら、急にこぽこぽと鮮明な水音が響いて驚かされる。すぐ横に巻貝を持った津田が立っていた。巻貝に水を入れて傾け、回しながら音を立てるという、小杉武久の演奏に触発されたやり方は、これまで何度となくスティルライフや彼のソロで聴いてきたのだが、こんな鮮明に粒立った響きは聴いたことがなかった。ひとつには音源との距離があるだろうが、それだけではなく、聴取のモードが関係しているのではないか。水音は遠ざかり、柱の向こうを回る時には一層小さくなった。水音が加わることにより、音の配置が生成する空間の様相は、さらに豊かで複雑なものとなった。一様な空間の中に点在する各種の音源が、個々に音響を放出しているというサウンド・インスタレーションの等質性とはまた違った、襞や折り目のようなものが感じられる。
 津田がステージ前にたどり着き、しばらくは巻貝を揺すり続ける。やがて音叉を手に取り、叩いた音叉を押し付けてくぐもった呻きを立てる。一方、小川はバンジョーを抱きかかえて、眼を瞑っている。津田がオートハープを手に取り、弓を操って弦を軋ませ、響きを立ち上らせていく。バンジョーの音が止み、いつの間にかチャイムも聴こえなくなった空間を、弦の響きがねじれながらゆっくりと渡り、匂うように渦巻きながら空間を満たしていく。その水位の上下する合間に様々な物音が姿を覗かせ、列車が通過していく。

 終演後に小川に尋ねたら、スネア・ドラムの上に置かれた円盤は、オルゴールのロール・ペーパーなのだと言う。本来、曲に合わせて穴をパンチし、円盤がモーターで回転するにつれ、パンチ穴の位置に合わせてオルゴールが鳴り、曲が演奏する仕掛けなのだが、それを1周に2つの音しかパンチしなかったとのこと。これにより、間を置いて、周期を意識させずに音を発することができる。不思議なチャイム音の正体はこれだった。また、円盤の摩擦音やモーターの動作音といった微弱な響きが、スネア・ドラムのスキンを震わせ、またマイクロフォンで拾われて室内に流れることにより、うっすらとしたドローンをかたちづくっていたこともわかった。ちなみにオルゴールのスイッチはバンジョーの演奏を終了した時点でオフにしたとのこと。
 バンジョー演奏については、以前につくった曲をあるルールの下で演奏したと言う。ここで彼が定めたルールは次の通り。

1.一つの動作(たとえば一つのストローク)で演奏できるところまで演奏して、そこで一区切りとする。
2.一区切りで演奏した音の残響が完全に聴こえなくなるまで、次の音は出さない。
3.オルゴールの音は聴かないようにし、それとは無関係に演奏する。

 それまでメール等をやりとりしたことはあったものの、直接あったのはこの日が初めてだという小川と津田の二人は、それぞれの仕方でこの場の特性と可能性を探り、単に背景として利用するのではなく、共同作業の相手として活かすことに努めていた。そして試みは成功したと言えるだろう。なぜなら、そのことがこの場の空間を仲立ちとした二人のデュオを、結果として素晴らしいものとしたのだから。


 途中退出により、小川の凝りまくった選曲によるBGMを全部聴けなかったのは、返す返すも残念でならない。彼のFacebookから選曲リストと各トラックの解説を転載しておきたい。
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Gualbertoはスペインのファズ・サイケSmashのVo。あまりにふやけてネジの飛んだアシッドフォークな内容から、レーベル・コンピレーションと抱き合わせで発売された1stソロから。
Hugues Le Barsは、人声のループに器楽音重ねて、歪んでポップな舞台音楽拵えるフランスの奇才。
PtoseはフランスのResidents?いや、Renaldo and The Loaf(笑)。
Philemon Arthurはスウェーデンのアシッドフォーク…いや、近隣住民との総意と創意で唄う戯れ歌。
Jaakko Kangosjarviは、ポストパンクの衝動に駆られて鳴らす、フィンランドのトイ歌謡。
Dogliottiはカドンベのリズムに乗ってラウンジ奏でるウルグアイのオルガン奏者。Ruben Radaをはじめ、El Kintoの曲を何曲かカヴァーしています。
Anton Bruhinは、日本では口琴奏者として知られているだろうスイスのダダイスト。その1stはタガの外れたトラッドフォーク。
Human Skabは、当時10歳の少年によるDIYパンク。妙にブルースがかった唄い回しが味。
Toupidek Limonadeは、ノスタルジックな旋律をガタガタと辿るフランスの玩具シャンソン・バンド。
TFLU282のメンバーにして低速カントリー・バンドU.S. Saucer率いるMr. Hagemanのソロは、一向にチューニングが合わないラジオから聞こえるカントリー。
元HomosexualsのAmos率いる数あるユニットのひとつL. Voagも、やはりふやけにふやけたアヴァンポップ。
Hagler – Hausermann – Schutzは、スイスの越境的ジャズマン3人による、トイ・セッション。
8 Oder 9は、Curd Ducaが在籍していた、余興で鳴らしているのかと思わされるオーストリアの脱力ポストパンク。
Danielle Lemaireは、世界をドールハウスの中に収めんとする乙女計画目論むオランダのアーティスト。
Point Of Yuccaという名コンピ・シリーズをリリースしていたYucca Tree Record主宰するスイスのDiledadafishは、キーボードによる即興でサイケにぐらぐらするアンビエントを拵える。
Rene Bertholoは、ポルトガルのアーティストにして、自作の電子楽器をバージョンアップし続けた人物。
元The Static / Theoretical GirlsのBarbara Ess含む女性トリオY Pantsは、トイピアノ・ポストパンク!
名インプロバイザーRudiger Carl含むトリオBlankは、ガチャガチャとしたガラクタの中からオブジェクティブなリズムや旋律見出す頓智セッション。
Simon Wickham-SmithとRichard Young2人の演奏は、即興ともコンポーズとも言い難い、楽器の遠投競っている内に出来た代物ぽい。
Les Granulesは、カナダの名コンビRene LussierとJean Deromeによる、オーバーダブなしのロックアンサンブル。
MarsのMark CunninghamとLucy Hamiltonによるブラス・プロジェクトDon Kingは、ドラムをArto Lindsayが兄ちゃんと一緒に叩いています。ちなみにこの曲のリミックスはClint Ruin (Jim Foetus)とRoli Mosimann…つまりWisebloodが担当。


2015年2月11日(水・祝) 黄金町『試聴室』
『黄金のえじき』第1回 
企画:佐藤実、小川敦生
出演者(出演順)
 minoru sato -m/s
 小川敦生・津田貴司デュオ
 SUISUI吸い吹(古池寿浩tb、戸井安代cl、長谷川真子fg、川松桐子tb)
 佐藤貴宏(TVバンド)


『My Name Is Oona』(1969)
えじき4_convert_20150214154830https://www.youtube.com/watch?v=_oWKuLC3jus
http://www.dailymotion.com/video/x1flb3_my-name-is-oona-1969_shortfilms



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 15:53:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
歌女との遭遇  Close Encounter with Kajo
 フリー・インプロヴィゼーションがフリー・ジャズ的なブロウイングの応酬による放埒さ/粗雑さを離れ、音響的な繊細さと精緻でこわれやすい瞬間的な構築、あるいは生成するドローンの多層的かつ継続的な変容へと向かう時、どうしても流動性というか、流れの勢いが失われてしまうのを感じないわけにはいかない。もちろん、後者に流れが欠けているわけでは毛頭ない。しかし、局面の素早い展開や、反対に静寂への沈潜に妨げられて、そうした流れがミクロな局面に限定されがちなのも確かだ。エレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションを経た、音色の多彩さと微細な速度を活かしながら、尽きることなく滾々と湧き出し、自ら産み出した流れに棹さして漕ぎ出し、滔々と流れ行く‥‥そのような演奏はないものかと。
 今からちょうど1か月前の1月12日、私はそうした演奏を確かにこの耳で聴いた。幸運な出会いに喜び過ぎたのか、その翌日の午後には高熱を出し、数日間寝込まなくてはいけなかったのだが、それでも出会いの事実は揺るぎないように思われた。しかし、熱に疲れた身体では、それを言葉に、ましてやライヴ・レヴューのまとまった文章とすることは到底できなかった。書きかけてはみたものの、中断を余儀なくされた。
 ある事態を言葉にするというのは、やはり「生もの」の部分があり、時間が経てば否応なく鮮度は落ちていく。さらに言えば、「書く」とは言葉を通じて感覚の深みへと降りていくことであり、その降りていくべき感覚自体が薄らいでしまえば元も子もない。だから、こうして書きあぐねた場合、たいていは目論みを破棄してしまうこととなる。だが、これまでそうした事態に陥ったのは、言葉を構築する段階で、「事態」の方が色褪せてきてしまう場合に限られていた。ぶっちゃけた言い方をすれば、「その場ではいいかなと思ったんだけど、こうして冷静になってみると、実はそうでもなかった」というようなことだ。言葉にすると嘘臭くなり、表現が上滑りしていていかにも大げさと感じられる。言葉の構築が目指す水準に、「事態」の方が耐えられなくなってしまうのだ。もちろん、それは私の記憶の問題であり、さらには私の感受力に限定された範囲内でのことであって、ここで「事態」とは、あくまで私の認識した事態にほかならない。しかし、書き手としての私にとって、他にどんな「事態」があるというのか。
 ともあれ、1月12日に私が出会った事態は、そうした類いのものではなかった。それはその後もずっと私の身体の中に存在し続け、あちこちにぶつかりながら動き回り、様々なかたちを取った。図らずもFacebook上で、シンガポールの音楽祭に参加した高岡大祐の日記文が、トマツタカヒロの「いいね」を通じて流れてきた。そこで彼は演奏のことよりも、食い物と釣りのことを多く語っているのだが、そうした語り口は私の中に居座っていた「事態」と鋭く共振した。また、『松籟夜話』第二夜の準備のために、クォーツ・レーベルに残された民族音楽の現地録音や、当時のデヴィッド・トゥープとポール・バーウェルらによるフリー・インプロヴィゼーションを何度となく聴き返したことも、「事態」と密接に共鳴した。それゆえ私は、「事態」を生じせしめた彼ら、歌女(高岡大祐、石原雄治、藤巻鉄郎)のCD『盲声(Blind Voice)』(Blowbass)を、『松籟夜話』第二夜の当日、当時のトゥープたちの「魂の同志」として、ミッシェル・ドネダと中谷達也のデュオに続けてかけることとなった。

 「事態」の当日から1か月が経過し、私には「事態」を語ることの出来るだけの体力が回復しただろうか。あるいは私の中の「事態」は語るに足るだけの生々しさ、正確さを維持しているだろうか。それは実は心もとない。しかし、来る2月14日(土)には、再び彼らのライヴが都内である。それに立ち会う前に、何とかこれを言葉に吐き出しておかねばならないと思うのだ。



 ステージ部分の左側には、大口径のバス・ドラムがスキンを上に向けて椅子に乗せられ、その周囲に大きなシンバルが2枚、スネア、フロア・タムが配され、大きなフレーム・ドラムが立てかけられている。さらには様々な直径の小シンバルやゴング、大小の金属ボウル(普通に台所で見かけるようなもの)が、ドラムや椅子の上に置かれている。フロア・タムから吊り下げられたり、無造作に床に置かれているものまである。その雑然とした散らかり具合は、ビフォーというよりアフター、それも粉や卵をしこたま使って大量のケーキをこしらえた後、まだ片付けていない厨房‥とでもいった感じだった。

 対して左側には手前にミキサーがあり、その横に細長いスーツケース型のヴィンテージ・キーボードが‥‥よく見ると枠だけで鍵盤がない。エレクトリック・ピアノの鍵盤から何からみんな取り外して、音源となるチューニングされた小さな金属板とピックアップだけを剥き出しにしたものだと言う。


1.Leo Dupleixソロ
 開演時間を少し過ぎて、人の良さそうな西洋人が姿を現す。彼が椅子に着いて発した最初の音は正弦波風の電子音だった。引き伸ばされるうちに付帯音による表面の凹凸/陰影が目立ってくる。次第に充満してくる音色に、左手で前述のフレームを叩くと、はるか遠くでグランド・ピアノの弦が虚ろに震える。荒れ果てた廃墟を思わせるオカルト・アンビエント。細い竹ひごで金属板を引っ掻きかき混ぜると、きらきらした響きが半ば闇に沈みつつ、細かなちらつきをつくりだす。時折何かが「爆ぜるような音」(寺内久)が鋭く耳を刺す。ゆるやかにうねる持続音と刻一刻生成を続けるちらつきが溶け合い、結果としてゆったりとたゆたう空間は、Jozef Dumoulinがエレクトリック・ピアノとリヴァーブを巧みに操って、魔法のように出現させた70年代ジャーマン・ロックを思わせるスペーシーな広がりに似ている。が、前述の「爆ぜるような音」や過大入力に歪んだようなザラザラしたノイズの手触りと消化の悪さは、Leoの演奏により同時代的な生々しくリアルな切迫感を与えていたように思う。
 周波数成分の異なる二つ以上の層が擦り合わされ、さらにその背景の暗闇で巨大な音の影がもぞもぞとうごめく。それは暗がりにそそり立つパイプオルガンであったり、はるか遠くから渡って来る雷鳴であったりする。至るところ干渉がせめぎ合い、摩擦が大きすぎて状況は固着的であり、場面転換は流暢に進まない。だがそれも当然と納得させる手触りの確かさが、この演奏にはある。


2.歌女(高岡大祐、石原雄治、藤巻鉄郎)
 「ああ、休憩いらないすよ。もう、すぐ始めちゃいますから」と高岡が右手を高く挙げて店主の鈴木に大声をかける。残りの二人がケースからスティックや音具を取り出す間に、早々とチューバを抱えた高岡が試しに二つ三つ音を出す。スティックや音具を床に並べ、あるいはドラムの打面の上にセットする際に出てしまう音。シンバル・ケースのファスナーを慌ただしく開ける音。「あはは、もう演奏が始まっているみたいだ」と言いながら、高岡が足元の金属ボウルを藤巻の方へ蹴って渡す。そのカラカラと乾いた音に、じゃらじゃらした音具の音色が絡み付いたかと思うと、もうマウスピースには息が吹き込まれていて、いつの間にか動き始めた列車のように、演奏はもう始まっていた。

 二人は水平に置かれたドラムの打面に覆い被さるようにして、それぞれに細かい律動を生み出す。刻まれるリズムは前のめりに急坂を駆けくだり、グルーヴの円環を描かない。そうした循環的なビートを編み上げてしまわないよう、常に打音の網目を歪ませ、飛ばし、あるいはつなげているように見える。その一方で、二人は交替しながら「ポン」とフロア・タムを叩き、ゆっくりとした拍を偽装する。高岡はマウスピースを大型のタンバリンのようなフレーム・ドラムやバスドラ、スネアの打面に押し当てて息を放ち、あるいはパーカッシヴな破裂音を放出して、そうしたリズムの流れを後押しし、引き止める。そこにはリズムの上に管楽器のフレーズが乗るといった通常の役割分担はかけらも見られない。マウスピース/チューバは、打楽器の音の層に割り込み、あるいは浸透して、それと一体となりながら異なる速度で流れる。そこに泡立ちや渦巻き、乱流が生まれる。

 転がす、落とす、散らばす。右手でリズムを前へ前へとローリングさせながら、左手で打面に置かれたシンバルを操る。膝で吊るした鈴を震わしたかと思うと、置いてあったボウルを払い落とし、蹴飛ばして鳴り響かせる。蹴り渡されたボウルを拾い上げてバスドラのスキンを擦り、フレームを叩く。そのまま置き捨てられたボウルが打面の打撃に振動して、甲高い鳴りを付け加え、それを高岡が取り上げマウスピースを押し当てて、騒々しく泣きわめかせる。
 雲が湧き起こり、形を素早く変えながら流れ過ぎるように、音があちこちから湧き上がり、するすると流れ出し、流量と速度をいや増して水路をかたちづくり、急に曲がり二つに分かれ再び落ち合って一つになり、水かさを増し、水底を削り、さらに瀬を速め、滝となって流れ落ち、逆巻き泡立って、さらに幾つにも分岐し細い流れとなって遍く広がり、地に沁み込み伏流と化し視界から消え失せ、再び地表に現れ滔々と幅広に流れ行く。放たれた響きは一瞬鮮やかな文様を描き、すぐに流れて音のしみとなり、視界から消え失せてしまう。

 突風のようなチューバの一吹きが一瞬すべてを吹き払う。浄められた場に循環呼吸によるチューバの持続音がたゆたい、吹きながら開口部をボウルやフレーム・ドラムでミューとして色合いを変えていく。シンバル同士の擦り合わせと、タムの打面に置いたシンバルを叩く振動が溶け合って、しばし鉛色のアマルガムを鋳造する。バスドラのスキンを竹ひごで擦り、空間を波打たせた響きが後に続き、高岡が咳を連発する。

 ストイックで分散した集中がここにはある。自らの身体を複数に分割し、同時に並行して走らせること。これがまず原則。床に並べたシンバルやボウルを両手で叩きまくりながら、椅子の上の音具を顎で掻き回し、足元の音具を爪先で弄ぶのは、決してダダ的な道化パフォーマンスではなく、この原則の具現化にほかならない。フレーズを奏さないこと、コール&レスポンスをしないこと、これらはその原則の系であり、言わば自分の身体を「私物化」しないことととらえられる。これにより刻々と変化し続ける音/身体の状態を提示することが可能となる。時折発せられるチューバのフレーズも、実際には「身をよじらせながら歩む」等、ある特定の身体状況の提示に過ぎない。
 そのようにして演奏は、やがてカーニヴァル的な喧噪に至る。


3.全員によるセッション
 歌女の3人の演奏は基本的に変わらないが、Leoによる電子音の放出と増幅された金属板の搔き鳴らしが、刻一刻と成分を変えるドローン状の音の層を生成することにより、殺人的な慌ただしさの中でさらに多彩なサウンドを試す余裕を手に入れていた。ドラムのひそひそ話に、マウスピースを外したチューバの、もつれねじれた吐息が重ねられる。息はやがて天井に頭がつかえたかのように、苦しげな押しつぶされたものへと変わり、サンダー・ドラムのスプリングの軋みと混ぜ合わされる。はるか彼方にバグパイプの響きが浮かび、くゆらされる電子音とチューバの寝息が柔らかく溶け合い、バスドラの縁が擦り続けられ、弓弾きされたシンバルの倍音が重ねられ、ふとチューバのざわめきが湧き上がって、分厚い持続がかたちづくられる。

 彼らは対話の線を張り巡らさない。つまりは場面を止めることをしない。押し合い、引っ張り合って均衡をかたちづくる代わりに、動き始めた方向に乗っかって、勢いを加速していく。立ち止まることなく動き続けるキャメラ・アイ。絶え間なく移り変わる耳のパースペクティヴ。うごめきかたちを変え続ける音の雲。自在に組み替えられるフォーメーションを切り裂き、一瞬のうちに新たな結びつきをつくりだすパスの軌跡。楽器を共有し、境界を軽々と越えて腕や足が伸びていく。それはバンドの演奏と言うより、殺人的に忙しい昼時の中華料理店の厨房のやりとりを思わせる。飛び交う注文の符丁。向かい合って鍋を振るう両側から金属のオタマが伸びてボウルから調味料をすくい、鍋を荒々しく揺り動かして叩きまくる。出来上がった料理を素早く皿に移すと、鍋を「ささら」で慌ただしく擦り立て、客席から下げられた皿や丼が、かちゃかちゃと鳴り響きながら、洗剤の泡に飛び込んでいく。

 皆、途切れることなく音を出し続ける。それは自己完結的な音の繭を編み上げて、他の音を聴かないということではない。まったく逆だ。自ら音を出すことは、探査のための針を深く突き刺すことであり、よりよく聴き探ることにほかならない。ここで聴くことは受動的なだけの体験ではない。高岡はそのことを自身のブログで釣りについて語っている(※)。
※http://d.hatena.ne.jp/daysuke/20150116/1421371089

 フレーム・ドラムのスキンの上に浮かせた小シンバルの連打が高鳴り、スキンの振動を増幅させ、空間いっぱいに響きを充満させる。チューバもまたフレーム・ドラムを開口部にあてがい、音色をミュートすると同時にスキンの振動を付け加える。石原、藤巻の二人がそれぞれ別々の一連の動作の一部としてバスドラを叩く。バスドラの打面の中で異なる打撃、別々の演奏のプロセスがぶつかり合う。チューバを吹き破るようなバリバリとした鳴りが、加速を煽り立てる。統一された全体を構築することなく、常にはみ出し、こぼれ落ちていく部分。


4.耳の魂の同志
 他の演奏者と異なり、ミシェル・ドネダにとって息音とは、新たに獲得されたひとつの語法/語彙でもなければ、削りに削ったリダクショニズムの果てに残された骨と皮でもない。それはリードの鳴りが楽器の響きを一色に染め上げてしまうことの回避(新たに引かれた逃走の線)にほかなるまい。管の中の響きをリードの振動に一元化しないこと(リードによる独裁の拒否)。息の持つ多様な速度を、管を通じてそのまま解き放つこと。部屋の空間に管を直接差し込み、火照った息を吹き込んで息づかせること。クォーツ・レーベルに現地録音が残されたニューギニアの笛が、二人の演奏者の間の息遣い「呼吸」、2本の管の鳴りの響き合いが、それらが放たれる周囲の空間の響きの深度を巻き込んで高く低く速く遅く移ろいながら「共振点」を探り、そのまわりをゆるゆると巡っていく。それはまさに空間を吹き鳴らし、空間に響きを引き出される過程そのものだった。それゆえ『松籟夜話』第二夜では、このニューギニアの魔法の笛の「耳の魂の同志」としてドネダを召喚したのだった。そして続けて「歌女」を。

 高岡はドネダと同様の視点から息音を用いている数少ない演奏者だ。彼は楽器には興味関心がないと言う。彼が可能性を見出しているのは「楽器としてのチューバ」ではなく、チューバの大きく扱いにくい「器」なのだと。楽器の機能発達の道筋が、周囲の空間の状況に左右されずに、自己完結的に安定した響きの領土をつくりだすための歩みだとすれば、ドネダや高岡の試みは、楽器の内部に囲い込まれた「閉ざされた庭」を、「外」に暴力的に押し開いて接続し、楽器を息と「外」が通い合う一本の管へと再初期化することととらえられよう。その時、管は息を整流化/乱流化する装置であると同時に、「外」を探るために差し込まれるゾンデであり、また当てられる聴診器でもあるだろう。「内」と「外」に分け隔てなく耳が澄まされる。ドネダが盟友たる録音技師たちと行動をともにし、高岡が自ら録音を行うのは、決して偶然ではない。


2015年1月12日(月・祝) 水道橋Ftarri
Leo Dupleix(keyboard,electronics)
歌女(高岡大祐、石原雄治、藤巻鉄郎)
 高岡大祐(tuba,object)、石原雄治+藤巻鉄郎(bassdrum,separated drum kit,percussion,object)

歌女の次回ライヴ予定は2月14日(土) 於:池袋バレルハウス

当日のライヴの写真がなくて申し訳ありません。歌女の演奏の様子は、例えば次のページの写真を参照してください。
http://www.jazztokyo.com/live_report/report719.html

クォーツ追加4
歌女 / 盲声(Blind Voices)


ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:29:51 | トラックバック(0) | コメント(0)
『松籟夜話』第二夜来場御礼(補足)  Thank You for Coming to Listening Event "Night Stories As Pine Tree Leaves Rustling in the Wind" The Second Night (Supplement)
 前回のプレイリストの補足として、当日参照した文献について触れておきたい。


クォーツ補足1デヴィッド・トゥープ『音の海』 水声社
 トゥープ自身による著作。多種多様な響きが「音の海」に浮遊していて、それらが混じり合い、不意に結びつきながら、また新たな響きを生み出していくというヴィジョンは、極めてユートピックだが、同時にサイバースペース万能論的な情報主義に傾いているようにも感じられる。それゆえ様々な媒体に執筆された論稿の集成である本書においては、テーマ別とか、編年体といった編集方針ではなく、様々な文章=情報=イメージが元の文脈から切り離され、断片化のまま浮遊する形態を採っている。それは一方では「情報の海」への埋没であり、読み手の積極的な参画がなければ、前述のユートピックな世界が開けることはあるまい。
 今回はもっぱらトゥープとフィールドレコーディングの関わりの線に沿って、文章を抜粋した。すなわち、彼がラウンドハウスで出会った初期AMMの「演奏」の様子であり(p.70〜)、ルートヴィッヒ・コッホの録音への無垢な情熱が「世界をキュレートする」というモチーフを通じてマーガレット・ミードによる映像人類学やミハイル・バフチンの「クロノトポス」と結びつけられる手つきであり(p.171〜)、ブライアン・イーノが周囲の環境音を録音してシングル盤程度の3分半に切り詰め、繰り返し聴いて「一曲の音楽として」覚えてしまったという実験であり(p.177〜)、トゥープとバーウェルが行った6時間に及ぶパフォーマンスや、さらにエヴァン・パーカーたちを加えて催した13時間以上に渡るコンサートについて述べた「連続体(continuum)」という一節(p.202〜)である。これらはすべて前回述べた「ある空間・時間の中で起こるすべてを(音楽/演奏として)聴く」仕方と関わっていると言えるだろう。
 他に補足的に挙げたレヴィ=ストロース『蜜から灰へ』から騒音を生み出す楽器と死や腐敗、社会的混乱、秩序崩壊との関連性を引用するくだり(p.97〜)、イーノとの出会いからアンビエント・ミュージックという聴き方の発見に至るエピソード(p.188〜)、いささか「アンビエント」に引きつけ過ぎではあるが、ジョン・ケージが提唱した「イマジナリー・ランドスケープ」概念の下に彼とデヴィッド・チュードアによる「ヴァリエーションズⅣ」からイーノの作品を「多様な信号の混合」として聴く仕方(p.194〜)、そしてトゥープ自らがオリノコ川を遡り、密林を踏破してヤノマミ族の儀式を現地録音しに向かう紀行(p.298〜)も、もちろんこのことに関連しながら、フィールドレコーディングの「in situ」(その場で、丸ごと)志向を明らかにしている。
 断片化し浮遊する情報群は、多種多様な結びつきの可能性を潜在させている。だが潜在化したままではアクチュアルではあり得ない。編集や方向付けの意志により、ある特定の結びつきを引き出すこと、それは無限に広がるユートピックな可能性を縮減する愚かな行為のように見えるかもしれない。だが、それこそがいきいきとした現勢化の企てなのだ。もちろん今回の「読み」はほんのささやかな試みに過ぎないが。
 せっかくなので、以下に一部を引用しておく。

 ひとりは短いレインコートを着て、テナーサックスをゆるく吹いている。頬骨のとがったヤギのようなあごひげを生やした男は、ドラムキットを組み立ててスネアを歯切れよくロールしていたかと思うと、再びばらしてシンバルとスタンドとドラムをケースにしまっている。二人の男が床にしゃがみこんでコードやプラグやコンセントやギターと格闘している。ほかの音とは無関係としか思えない大音量のノイズが炸裂する。ステージの端に立って近くを見回してみると、観客の誰ひとりとしてこれが演奏だと気づいていない。私自身、それに気づくには、これまで抱いていた演奏の概念を打ち砕かねばならなかった。【p.70〜71】

 オーディオ・レコーディングの黎明期、ルートヴィヒ・コッホという名の少年が、エジソン式蓄音機と共にピアノの下にもぐり、ヨハネス・ブラームスの演奏を蝋管に録音した。音楽とテクノロジーが新たな時代を迎えようとしていた。(中略)一八八九年に史上初の動物の声(つぐみ)を録音したとされるのも、八歳のこの少年だった。【p.171】

ある日、DATレコーダーを持ってハイドパークやベイズウォーター通りの近くに行って、その辺の音をなんでも拾ってきたんだ。車が行き交う音や、犬や人間、もろもろの音を。そして特に何も考えずに家のプレーヤーでそれを聴いていた。で、突然ひらめいたんだ。このうちの一部分を、たとえばシングル一曲分の長さとして三分半だけ丸暗記してみようと。実際にやってみた。(中略)そう、ここで車のエンジンがかかって、エンジンをふかす音が上がっていくと犬が吠えて、次にハトが脇の方に飛び立つ音がして、みたいに。(中略)これをやって以降、僕は多くのものを、まるっきり違う聴き方ができるようになった。つまり藝術を受け取る側に自分が立つというか、自分はその役目になると決めて聴くんだ。【p.177〜178】


クォーツ補足2雑誌『Collusion』vol.1
 トゥープ、スティーヴ・ベレスフォード、ピーター・キューザック、スー・スチュワードの四人が編集した音楽雑誌の創刊号から、各人が最近興味深く聴いた音盤をリストアップした「Turntable Choices Advetures on the Wheels of Steel」のコーナーを紹介した。フリー・インプロヴィゼーションやディーブな民族音楽とラテン音楽、映画音楽、ファンク・ミュージック、自然音のフィールドレコーディング、バルトーク等が混在するリストは極めて刺激的で、彼らがポップ・ミュージックの原型に惹かれるのは、そこにこれらに共通するプリミティヴなイノセンス(とは危うい概念だが)を感じ取っているのではないかと思われる。
 なお、そのすぐ下に位置するコラムは、イランやヴェトナムの短波放送(英語による)の紹介というのがいかにも。
 手元にはおそらくは池袋西武アール・ヴィヴァンで購入した創刊号しかないのだが、調べたところでは5号まで出ていたようだ。


クォーツ補足3銀星倶楽部06 ノイズ ペヨトル工房
 アーティスト・カタログからzoviet-franceの項目を。執筆はかつて『フールズ・メイト』の編集に関わり、各国のマイナー・レーベルと直接連絡を取りながら、代々木イースタン・ワークスの仕入れを担当していた明石政紀氏。その後、eva→evvaレーベルの運営に携わり、現在はベルリン在住。スタンリー・キューブリックの全監督作品を音楽/音響から論じた『キューブリック映画の音楽的世界』(アルファベータ)は必読モノ。ここでも彼らのレコード・ジャケットのフェティッシュな奇矯さを指摘した後、彼らのサウンドの持つ本質的な「古さ」(「ストーン・ヘンジから聴こえる音楽とでも言うような‥‥すでに風化に晒された石の容貌を持っている」)を名指している点はさすが。他にはTamia, Die Todlich Doris, SEMA / Robert Haigh, Mnemonistsの項を執筆している。この執筆分担からも「ノイズ」に対する彼の視点の独自さが知れよう。


クォーツ補足4Rock Magazine 06
 当日言及したわけではないのだが、資料として挙げておきたい。この号の特集は「無意識の音楽群」と題され、渡英・渡欧した阿木譲によるミュージシャンへのインタヴューとレコード・ジャケット等に掲載された英文記事の翻訳により構成されている。デヴィッド・トゥープ、デヴィッド・カニンガム、フランク・ペリー等のインタヴュー、クォーツ・レーベル作品のジャケット記事の翻訳等が含まれており、一見、今回の企画にぴったりの内容なのだが、特集タイトルに見られるように「工作舎」的というか、「精神世界」系の匂いが強すぎるので、いささか敬遠した次第。

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書影以外の写真は、前回同様、原田正夫さんのFacebookから転載させていただきました。


ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:54:18 | トラックバック(0) | コメント(0)
『松籟夜話』第二夜来場御礼  Thank You for Coming to Listening Event "Night Stories As Pine Tree Leaves Rustling in the Wind" The Second Night
 冷え込み厳しい中にもかかわらず、2月1日(日)開催の『松籟夜話』第二夜においでいただいた皆様、ご来場どうもありがとうございました。皆様の暖かく、また鋭い耳の眼差しのおかげで、何とか無事終了することができました。前回のミッシェル・ドネダとは異なり、これまで人前でかけたことのない音源ばかりでしたし、何より本番前のリハーサルで!QUARTZ001をかけたら、ギャラリー白線のスピーカーとの奇跡的な相性の良さで、まさに魔術的にその場の空間が息づく様にすっかり打ちのめされてしまい、私自身が話し手というよりは、むしろ聴き手として、お客様を差し置いて楽しんでしまった一夜でした。
 それゆえ、どんなことをお話ししたかあまりよく覚えておらず、Facebook掲載の原田正夫さんのレポートを読んで、ああそう言えばこんなお話をしたなあ、そうだそうだ‥と、「当時」を反芻しながら喜んでいる次第です。
 そんなわけで、当日の詳しいレポートなどはとてもできる状態になく、せめて‥ということで、当日のプレイリストを掲載させていただきます。各盤のコメントは基本的には選盤者が執筆していますが、津田のコメントに福島が加筆したりと入り混じっております。まあ、これは当日もそんな風だったからいいか‥と。また、コメントの内容も簡単な紹介から、当日の展開の一部を反映したものまで様々です。
 それではどうぞお楽しみください。


クォーツ追加1Solomon Islands - 'ARE'ARE Panpipe Ensembles
Le Chante du Monde
 開場〜本編開始まで流していたもの。おそらく竹のパンパイプの、しっかり構築されたアンサンブル。





クォーツ追加2Voices of the Rainforest - BOSAVI, PAPUA NEW GUINIA
360°productions
 イントロダクションとして。一日の時間軸による生活音の変化という時間軸で構成された CDの、冒頭の夜明け〜人の気配が現れるまでの部分。Grateful DeadのMicky Hartによるプロデュース。Steven Feldによるフィールドレコーディング。


Sacred Flute Music from New Guinea : Madang
!QUARTZ 001
 クォーツ・レーベル発足のきっかけとなったニューギニア現地録音。ここでの二本の竹の笛の関係は、冒頭に流れていたソロモン諸島のパンパイプ演奏と異なり、時間と空間を仕切ってマッピングすることにより生み出されるアンサンブルではない。息を合わせ、倍音をぶつけ合わせ、響きを聴き取る中から、二人の演奏者の間だけの交通ではなく、周囲の環境の響きを含めた「息づき」が生み出されてくる。ギャラリー白線のスピーカーは、その様を生々しく浮き上がらせてくれた。


Windim Mambu Sacred Flute Music from New Guinea : Madang vol.2
!QUARTZ 002
 「ニューギニアの魔法の笛」続編。Steven Feldの録音がまずジャングルの奥深い空間を透明に提示し、そこに人間による物音が現れるのに対し、ここで世界は笛の音の息づきを通して浮かんでくる。全身がすっかり呼吸器と化してしまい、透明になった皮膚の向こうに、合唱がもやのようにたなびき、虫の音が映り込む。


David Toop, Paul Burwell / Wounds
!QUARTZ 003
 デヴィッド・トゥープと彼がロンドンのライヴハウス「ラウンドハウス」でバイトしていた頃からの盟友であるポール・バーウェルのデュオ。ステージ上で打楽器がなぎ倒され、甲高い笛の音が鳴り続け、不定形のノイズ流が噴き出す。ここで音は決して対象化されることなく、演奏者の身体の一部であり、また音が解き放たれる空間の一部でもある。身体の中に尻尾を残した音。「ある空間・時間の中で起こるすべてを(音楽/演奏として)聴く」仕方。


Max Eastley, Steve Bersford, Paul Burwell, David Toop / Whirled Music
!QUARTZ 005
 マックス・イーストリー制作のブルローラーを、防具を着けて力の限りぶん回す過激な演奏。様々な周期の旋回音がずれながら重なり合い、揺れ動く響きの流れをつくりだしていく。その周期はほぼ回転半径によって決まる。「魔法の笛」の共鳴や倍音のように。床の木目や壁紙の凹凸に紙を押し当てて鉛筆でこすり、眼ではとらえられない文様を浮かび上がらせるマックス・エルンストのフロッタージュ。それを音/響きに対して行うとしたら。トゥープがかつて体験した、ステージの準備作業のようにしか見えないAMMの演奏と先のニューギニアの笛の音楽をつなぐもの。


クォーツ追加3Tatsuya Nakatani, Michel Doneda / White Stone Black Lamp
nakatani-kobo kobo-1
 クォーツにおけるトゥープの意志を継ぐ「魂の同志」を探せば、やはりミッシェル・ドネダの名前が挙がる。中心軸を貫くドネダの息音のまわりを、複層的な軌道を描きながら旋回する打楽器の響き。息音を奏する時のドネダと対等に向かい合える演奏者は極めて少ないが、中谷達也は確実にその一人として挙げられよう。


クォーツ追加4歌女(Kajo) / 盲声(Blind Voices)
blowbass blowbass-003
 同じく「魂の同志」としてチューバ吹き高岡大祐たちの演奏を。藤巻鉄郎と石原雄治の二人が打ち出す音はするすると流れ出し、泡立ち渦を巻き、分流し合流し、地下へと沁み込み、また地表へと滲み出して滔々と流れ行く。チューバはハウリングやモジュレーションとしか思えない響きでそれと一体になっている。最後のマイクロフォンが部屋の外に出て、大崎のストリートを歩くプロセスも、演劇的効果やギミックとしてではなく、「ある空間・時間の中で起こるすべてを(音楽/演奏として)聴く」仕方の具現化ととらえたい。いま最も注目すべき演奏者の一人。


クォーツ追加5David Toop, Max Eastley / New and Rediscovered Musical Instruments
Obscure obscure no.4
Max Eastley "Hydrophone"
David Toop "Do the Bathosphere"
前者イーストリーの創作楽器「ハイドロフォン」はその名の通り、流れに沈めた管から上にハープのように弦を張ったもの。せせらぎの水音からセイレーンの歌声にも似た不可思議な心霊現象的響きがたちのぼる。後者はお風呂の鼻歌のようなデヴィッド・トゥープの歌。本当にただの鼻歌なのかと思わされるが,後半に唐突にコーラスが入る。だがこの音像もまた風呂場で録音したかのようなくぐもったもの。


クォーツ追加6The Flying Lizards / The Flying Lizards
Virgin
段ボール箱をドラム代わりに叩きながら素人が唄った「Summertime Blues」ということで知られるが、エンディングに,配水管だかダクトだかを介して聴こえてくるようなパートがある。ギャヴィン・ブライアーズ&マイケル・ナイマン → ブライアン・イーノ&デヴィッド・トゥープ → デヴィッド・カニンガムという世代を超えた眼差しの受け渡しにも注目。


クォーツ追加7Various Artists / Silence - A Quiet Manifestation of the Future
Wacoal Art Center 36CD-N020
David Cunningham "The Listening Room"
 フライング・リザーズのデヴィッド・カニンガムは、後にサウンドアーティストとして活動することになる。残響音の長いガラス張りの吹き抜けの部屋に仕込んだマイクとフィードバック装置のインスタレーションを「演奏」したもの。カニンガムの「部屋の鳴り」を発見して楽しむという志向性が浮き彫りとなる。外の自動車の走行音が増幅/放出され、本体がカットされて部屋に残る響きのたゆたいが、また別の漂う色合いを生み出す。


クォーツ追加8:zoviet - france: / Shouting at the Ground
Red Rhino REDLP91
 今回のもうひとつの目玉として用意したzoviet - france。民族音楽のテープコラージュによると思われるトラックをいくつか。呪術的で物質的な音のテクスチャーは、電子的な装置を介して、我彼を結びつける「古さ」への地質学的想像を掻き立てる。!QUARTZレーベルのものとも通じる辺境への彷徨。発表当時は「ノイズ」とひとくくりにされていた中に潜む豊穣さ。


クォーツ追加9Akio Suzuki / Na - Gi 1997
Edition RZ Ed. RZ 10005
 潮騒の上を伸びやかに飛翔する石笛の音色。「濃い」音源を聴いたあとではいささか物足りないくらい整然とした音風景。洗練されている分、侘び寂びなどの日本的情緒として安易な解釈をされてしまいそう。周囲を入れた「引きの画」を撮ればフィールドレコーディングになるというのはマチガイで、サウンドスケープは音の絵はがき/名所絵に陥りやすいことがわかる。


クォーツ追加10藤田陽介 / ヒビナリ
Otototori OTOT-0613
瞳孔の開き切った「野生化した耳」を沈静化し、「あの世」から現世に戻り安全に家路に着くためのアウトロとして。ひなびたフィールドレコーディングと自作パイプオルガンの演奏を毎日5時の時報代わりに流す、というアートプロジェクトの記録。ここで音は陽だまりのようにやさしく傍らに寄り添ってくれている。日常の中に潜む貴重なやさしさに気づく体験。


参考音盤
ジャケットを示して説明したり、終了後にプレイした音源。

クォーツ追加11Yasuhiro Morinaga / Archival Sound Series : Ludwig Koch
Concrete 001
 1930年代ドイツから英国に亡命し、BBCでフィールドレコーディング等に関するラジオ番組を担当。金子智太郎がトゥープから直接聞いた話によれば、彼はルドヴィッヒ・コッホの番組に投稿したことがあるという。単にサウンド・アーカイヴを整備したというだけでなく、録音により世界をとらえる情熱を伝えた重要人物。


クォーツ追加12Max Eastley / Installation Recordings (1973 - 2008)
Paradigm Discs PD 26
 イーストリーはその後もっぱらサウンド・インスタレーションの制作に勤しむ。音を放つだけでなく、不可思議な空間を生成する仕掛けの数々。




Hekura Yanomamo Shamanism from Southern Venezuela
!QUARTZ 004
 ヤノマミ族のシャーマンによる儀式の録音。複数の事態が同時進行するドキュメント。





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クォーツ追加13_convert_20150207232610
当日の様子の写真は、原田正夫さんのFacebookページから転載させていただきました。

ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:58:14 | トラックバック(0) | コメント(0)
シンクロ率30%? 80%? 「タダマス16」レヴュー  Is the Synchronization Ratio 30% or 80% ? Live Review for "TADA-MASU 16"
 今回は「タダマス16」分として採りあげられた10枚のうち、事実上3枚しか触れないレヴューとなってしまった(シンクロ率30%?)。いつも私なりの視点からのリポートでしかなく、「タダマス」の全体像をお届けできていないことを申し訳なく思っているのだが、それにしても今回はかなり極端な結果となったことをお詫びしたい。それでは「タダマス」とこちらの視点が大きく乖離してしまったのかと言うと、最後に「タダマス」が選出した年間ベスト10に触れる部分で明らかになるが、どうもそうではないらしい。たまたま‥ということなのだろうか。いずれにしても私にとってかけがえのない貴重な場であることは揺るぎない。
 それでは当日紹介された作品を見ていこう。当日のプレイリストの詳細については、次のURLを参照していただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767


タダマス16-1David Virelles / Mboco (ECM Records)
 ドビュッシーを思わせる揺れる和音。鍵盤を軽やかにかき混ぜる指先が、視覚的イメージを掘り下げ、彫琢していく。それをぷいっと放り出して、操り人形の動きのようにカクカク、ぎくしゃくしたケークウォーク的なリズムが姿を現す(『子供の領分』から? ドビュッシーへの連想はまだ続いている)。ピアノ・トリオ編成(他の曲ではもう一人のコントラバス奏者とキューバの民族打楽器奏者が加わっていると言う)にあって、相変わらず音数少なく的確に音色を刻んで、そこここにポールを打ち立てながら、ピアノの流れをそれらのポールを経巡るスラロームに見立て、響きの「絵画」を描き出していくThomas Morganのコントラバスは実に見事なものだ。
 対してMarcus Gilmoreのドラムは、巧みにギアを切り替えながらするりすらりと駆け抜け、あるいはそぞろ歩くピアノに、ぴたりと着けていく。しかし、この曲想なら、ドラムはピアノに合わせるのではなく別の異なる軌跡/速度を描いた方が、世界の眺めがより豊かになったのではないかと思わずにいられない。それゆえか、正直Craig Tabornのような衝撃は受けなかった。
 益子に発言を振られた多田が、Craig Taborn, Aaron Parksに続く「ピアノ・トリオの革命がECMから」シリーズの名盤と持ち上げながら、「解き得ない音楽の謎」を感じたと付け加えていたのが、すごく腑に落ちる気がした。ECM流の響きの過剰、空間の広がりや奥行きの深さの強調が気にならないのだ。ピアノは奥深い闇の向こうにあって、打たれた弦の震えが響きへとほどけ溶け広がりながら、はるか空間を渡って来るというよりも、ここで音は最初からすでに顔料のようなメディウムであり、時に色合いを変えながら、ひとつの平らな面を「画面」として配列されていくように思われた。そうしたイメージが先の「絵画」や「眺め」の感触に通じている。
 「タダマス」初の女性ゲスト(16歳にして我が「タダマス」は思春期を迎えた!)として迎えられた西山瞳が印象を尋ねられて、「この辺の(左手の薬指あたりを指差す)音を加えて、わざと音を濁らせて、言い切らないようにしているのがいい」とピアニストならではの指摘。そうした濁りがメディウムの感触をもたらしたのかもしれない。主沢持たないにもかかわらず、向こうを見通すことのできない手触りの確かさがそこにはあった。


タダマス16-2Tyshawn Sorey / Alloy (Pi Recrdings)
 2枚目も続けてピアノ・トリオ。いきなりピアノの冷ややかな打鍵に突き刺される。手さばきは恐ろしく正確で鋭く、それゆえ傷口はあきれるほどに小さく、血も出ない。角度と速度、深さをその度ごとに変えながら、メスは振るわれ続ける。ピアノ奏者のCory Smythは現代音楽畑で活動していて、当然即興もできるが、ここでは曲としてすべて譜面に書かれているのではないかと、後で益子の説明があったが、おそらくそうだろう。ただし用意されたのは通常の五線譜ではなく、特殊なグラフィック・スコアだったのではないかと思わせるような演奏だった。ロック・クライミングの練習用のウォールでは、手がかり、足がかりとなる石がみんな異なる形や色で壁面に埋め込まれているが、ここで各音はすべてそんな具合なのだ。だから、鍵盤の上で指先が閃いても、そこから生み出されるのは一連のフレーズではなく、異なる形、大きさ、色合い、輝きの石を散らばせた象眼細工のようなものとなる。言わばタッチの変化により、一音一音、ピアノを瞬時にプリペアドし、「総体としてのピアノ」を分解/再構成しながら演奏しているみたいなものだ。あるいは一音一音別々に合成して空間/時間軸上にプロットした電子音楽的世界構築。これは見事な達成と言うほかはない。それを鮮やかにとらえた録音がまた素晴らしい。益子によれば、すぐに他のピアノ奏者からSoreyに対し「ピアノの録音がとんでもなくスゴイが、一体どうやったんだ」とFacebook上でツッコミがあったらしい。マイキングをかなり凝ったとのことだが、作曲した時点で「これはピアノの響きを精密に録音できなければ、作品の魅力が全く発揮できない」と気づいていたのだろう。
 だが、そうした作曲者/プロデューサーとしての比類ない達成に比べると、ここでのSoreyのドラム奏者としての貢献はいささか問題があると言わねばならない。ピアノ演奏の彫琢ぶりの細密さに比べ、いかにも解像度が粗すぎるのだ。ばらけた音がそれぞれに粒立ち異なる輝きを放つピアノと向かい合い、ほぼ同様の音数/密度で音を放ちながら、音色は一様でフレーズすら描けない。鋭くその一瞬を刻み付けながら響きを立ち上らせる高音と、その場に突き刺さり動きを封じる低音といった対比もない。ならばピアノの響きをマッピングするための基準平面を、ドローン等により織り上げるという選択もあったはずなのだが。ピアノが描き出す音のコンスタレーション=星座の見事さ(本当に冷たく澄み切った冬空の星々のような鮮やかさをたたえている)にははるかに及ばない。


 それでもこの日は、この冒頭2枚がハイライトだった。期待したMary Halvorson / Reverse BlueやTomas Fujiwara Trio / Variable Betsは全然ぴんと来ず、この2枚と同じRelative Pitch Recordsつながりとして挙げられたMichel Doneda / Everybody Digs Michel Donedaは明らかに「浮いて」いた。ゲストにより「ガラスを引っ掻く音」と形容されたDoneda作品は、実は昨年11月の『松籟夜話』第一夜でプレイしており、その時においでいただいた方が、今回の「タダマス」にも参加されていて、客席からギャラリー白線の反射型スピーカーでは部屋全体が息づくみたいに聴こえたのに対し、こちらでは音の輪郭が明確になってしまうために、響きがきつく聴こえてしまったのではないかと指摘されていたのが印象に残った。


タダマス16-3Tony Malaby's Tubacello / Scorpion Eater (Clean Feed Records)
 本日の10枚の最後にかかった本作が冒頭の2枚に迫る出来。ts&ss, cello, tuba, dr&percussionという特異な編成だが、この編成ならではの化学反応を起こさせていた点が素晴らしい。上空ではたはたと翻り、はためいている部分と中低域にどっしりと根を張りながら鋭敏に震えている部分。金属打楽器のカタカタとした鳴り。基本的なサウンドのフォーメーションをざっくりと定め、後は各自が自在にバランスを取りながら、上がったり下がったり、前へ出たり後ろに引いたり左右に流れたりとピッチを幅広く使ってボールを回していく。どちらかの管とチェロのユニゾン。あるいはチューバによるウォーキング・ベースやドローン。それぞれが層をつくりながら、それを重ね合わせ溶け合わせる動き。ドラム/パーカッションのJohn Hollenbeckはほとんどシステムから「治外法権」で、言わば「リベロ」的に勝手に動き回る。益子が「Hollenbeckは自分のグループだとずっとリズムをキープしたり禁欲的なのに、他人のところだと、特にTony Malabyとやるとものすごいインプロヴァイザーぶりを発揮する」と解説していたが、まったくその通りで、細かく刻みまくるドラムのキレの良さが凄まじい。
 本作に参加しているDan Peck(tuba)とChristopher Hoffman(cell)は、それぞれTony Malabyの別プロジェクトであるチューバ・トリオとチェロ・トリオのメンバーであるというから、そこでの実験の成果を適用した結果が、この見事な達成と言うことなのだろう。さらにHoffman はHenry Threadgill's Zooidのメンバーであり、Dan Peck 自身はメンバーではないが、Threadgillのグループにチューバ2本をフィーチャーしたVery Very Circusがあったことを考えれば、本作はThreadgillの達成の延長上にあると考えられる。彼の存在の大きさを改めて思い知らされる次第。


 この日は2014年の締めくくりということで、恒例の年間ベスト10が発表された。そのラインナップは次の通り。なお、詳しくはhttp://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767を参照していただきたい。

1. Vinnie Sperrazza / Apocryphal (Loyal Label)

2. Tyshawn Sorey / Alloy (Pi Recordings)

3. David Virelles / Mbko (ECM Records)

4. Joachim Badenhorst / Forest // Mori (Klein)

5. Jozef Dumoulin / A Fender Rhodes Solo (Bee Jazz)

6. Hugues Vincent, Yasumune Morishige / Fragment (Improvising Beings)

7. Tony Malaby's Tubacello / Scorpion Eater (Clean Feed Records)

8. Steve Lehman Octet / Mise en Abime (Pi Recordings)

9. Now Vs Now / Earth Analog (Now Vs Now Productions)

10. People / 3xa Woman – The Misplaced Files (Telegraph Harp)

extra. Taylor McFerrin / Early Riser (Brainfeeder)


 ちなみにこのうち1〜8は私が「タダマス」レヴューで注目してきた作品。なのでシンクロ率は80%とかなり高い。他に私が注目していた作品は、Eric Thielmans, John Hebert Trio, Kris Davis Trio, Mary Halvorsonたちによる『Thumbscrew』といったあたり。「タダマス」の「ダークサイド」(©多田雅範)とは相性がいいが、「ポップサイド」とはイマイチということだろうか。

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2015年1月25日(日) 綜合藝術茶房喫茶茶会記

ライヴ/イヴェント・レヴュー | 02:26:58 | トラックバック(0) | コメント(0)

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