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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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チューバ奏者の震える右足  Shaking Right Leg of the Tuba Player
 外山明のドラミングの凄さ/怖さは、タイムラインの維持をあっさりと放棄してしまうことにあるように思う。世に変拍子ドラマーと呼ばれるミュージシャンは数多いが、基本的にタイムラインを維持しつつ、拍の割り方を変えたり、反対に一拍の長さを保って拍子を変えたりしながら、リズムを組み立てている。もちろん、フリーな場面では通常のテンポ感覚が失われたりもするのだが、その場合には、グルーヴする循環的な時間ではなく、絶対的な時間とも言うべきものが露呈して、演奏の場を支えることになる。フリー・インプロヴィゼーションによる演奏において、管も弦も何もかも断片化して、ただただ音の破片をまき散らし、かき混ぜるだけになるのは、(もういい加減見飽きた)典型的場面だが、まさにこうした「絶対的な時間」が露呈して、各演奏者をア・テンポの呪いに縛り付ける。
 だが、外山は違う。巧みにギアを切り替え、急な加減速を繰り返すかと思えば、突然に中断し、また、新たなリズムを異なるテンポで叩き始める。ラテン・ミュージックに見られるリズムのコラージュともまた異なる。コラージュにおいては、貼り合わされる各断片以上に、接続された二つの断片の間の落差/齟齬が重要となる。ここでリズムを生み出すのは個々のシークェンスではなく、カッティングの方なのだ。ジョン・ゾーンによるネイキッド・シティの楽曲群を参照のこと。ただし、そこでもタイムラインを担っているのはもっぱらドラマーにほかならない。
 メロディやフレーズを担う管弦楽器が、タイムラインをわざと外して演奏することがある。その間もたいていはドラマーが、あるいはベース奏者を含む他の奏者がリフ等を奏でてラインをキープしている。しかし、外山はそうした支えのない場面で、するりと持ち場を放棄する。「タイムラインなんて、各演奏者が頭の片隅でキープしてれば、それでいいんだよ」と言わんばかりに。だから、演奏の場からタイムラインが消えるわけではない。不可視となるだけだ。
 もう20年以上前のことになるだろうか、あるセッション演奏において、外山がふとドラムのテンポを速めたことがあった。その時のメンバーは強者揃いだったし、他の演奏者の奏するリフ等で何重にもタイムラインがキープされていたから、みんな何事もなく演奏を続けた。しかし、一人のヴァイオリン奏者が引きずられた。彼女はドラムのテンポに基づいて演奏していたのだろう。外山はそれを見逃さず、「こりゃあ面白れえや」とばかりにテンポを揺さぶった。アンサンブルの中で、彼女のヴァイオリンだけが、リタルダンドとアチェレランドを繰り返しながら崩れていく。満面に笑みをたたえてテンポを揺り動かす外山を見て、「何て性格の悪い奴だろう」と思ったのを、今でもはっきりと覚えている。


 ブリュッセルからやって来たサックス奏者グレゴワール・ティルシュウ(Gregoire Tirtiaux)は2mを超す長身で、シートのたるんだ池袋バレルハウスの天井に、これは誇張ではなく頭が着きそうになる。彼が構えると馬鹿でかいバリトンはただのテナーに見紛い、アルトはカーヴド・ソプラノに似たオモチャっぽさをたたえることになる。
 パタパタとバリトンのキーとリードを鳴り、チューバに深く息が吹き入れられて、寸断されたフレーズによる交感が始まる。その傍らで外山がフロアタムをミュートしながら叩いている。いきなり外山が加速して、「探り合いの時間」を一気に後方へと置き去りにする。寸断されたフレーズはロングトーンへ、さらにはゆるやかにうねるフレーズの交差へと音量を増しながら姿を変え、チューバがノンブレスによるロングトーンを保ったまま、サウンドの手触りをざらざらと移り変わらせる上で、バリトンがゆるく引き伸ばされたソロを取る。その時には、すでに外山はドミノ倒し的にリズムをずらしていって、きついシンコペーションと緩急の対比で上物に揺さぶりをかけ、そのまま雪崩落ちるようなロールをぶちかます。

 ティルシュウはフリーク・トーンを吹かない。音を吹きっぱなしにせず、手元でがっちりとグリップしている。フレーズはジャズ的ではなく、フリー・ジャズ的ではなおさらなく、フリー・インプロヴィゼーションほど断片的でも構築的でもない。アブストラクトでありながら、息の生々しさを存分にたたえた音を、リフを織り交ぜながら自在にのたくらせる。バリトンをノンブレスで吹くヴィルトゥオージテを持ちながら、極端な加速をせず、悠揚迫らぬ器の大きさを見せるし。そんな彼に対し外山が上目遣いに睨みつけながら、急加速して間合いを詰め、大きくテンポを揺らがせる。そんな時の外山は伊藤晴雨描くところの責め絵に登場する責め師のようだ。「そりゃ、これはどうだ。うん、痛いか。それじゃこれは。そうかそうか、そんなにつらいか‥」と相手の反応を楽しみながら、執拗に手を替え品を替えいたぶり続ける(ように見える)。

 終演後に「あの意地悪な感じがスゴイですよね」と外山に話しかけると、「いや意地悪なんてしてる気はなくて、ホント、やさしくしてるんですよ」との答が返って来る。実際、その答に嘘はなく、彼はいまここで進んでいる演奏/音楽に揺さぶりをかけ、常に新たな可能性を指差し続けているのだ。だから、突破口が開いた時の突撃ぶりは凄まじい。ふらふらとそぞろ歩く外山に振り回されることなく、自らのタイムで演奏を繰り広げていたティルシュウが、ロングトーンから珍しくリズミックなリフに切り替えた瞬間を外山は見逃すことなく、一気に加速してティルシュウに肉薄し、エッジを高速連打して煽りまくる。張り詰めた音の壁が押し寄せ、ティルシュウはノンブレスを保ったまま、追い立てられて急坂を転げ落ちるように、さらにリフを加速させていく。

 一方、外山とは何度も共演してきたと語る高岡は、小刻みに右足を踏み込んでテンポを取りながら、間断なくギアを切り替える変則ビートを乗りこなそうと試みる。対して外山はテンポを振り回し、リズムの雪崩を起こし、高岡を振り落とそうとする。まるでロデオみたいだ。高岡の右足の刻みがだんだんと速くなり、一転して遅くなり、一気に4倍に加速して、宙を蹴る。必死の形相。食い入る視線。チューバ奏者の震える右足。ドラマーの歪んだ口元に浮かぶ不敵な笑み。ドラムがパタリと停止して、チューバを放り出す。
 外山は音を出すのを止めることを恐れない。また再び始めることも。いついかなる場面でも自在に停止し再始動する。「再起動」により、流れ続ける音楽の中の何かがリセットされる。彼はゼロから新たに組み立て直すことを厭わない。しばらく動きを止めていたかと思うと、ドラムの上にセットしてあった木箱様のもの(後で確かめたら、店にたまたま置いてあった小型のカホンなのだという)に触れ、やにわに超高速で叩き出す。目まぐるしいリズムの衝突。

 傍らにあったボンゴをペタペタとミュートしながら叩く。手指にはめた小石を打ち合わせて、瞑想的な匂いを振り撒く。チューバのベルから静かに立ち上る息とチューバ本体を指先で叩く音。ティルシュウがアルトのマウスピースを外し、管に直接息を吹き込んでフルートに似た響きをつくりだす。息のかすれが響きの陰影の濃さを際立たせ、エキゾティシズムをふんだんに香らせる。彼はモロッコにしばらく住み着いて古典的なグナワ演奏を学んだと高岡が言っていた。彼はゲンブリがとてもうまく、高岡は彼の案内で族長の家に泊めてもらい、グナワ名を与えられ、「家族」の一員として、本来なら異教徒は立ち入れない聖なる場所に連れて行ってもらい、あるいは最後に山羊を屠る祭儀にも参列させてもらったとも。チューバが音の輪郭を薄闇に溶かし、管の響きに声音を混じらせる。外山はボンゴのスキンを右肘でたわませ、張力を変えながらスティックで叩き、トーキング・ドラムに似た変化を生み出しつつ、同時に左手にカウベルを携えて揺り動かし、指にはめた小石との衝突を撒き散らす‥。一人ポリリズムの世界。これをきっかけにリズムが走り出し、きついシンコペーションを軋ませながら、煽りまくる。隣席の客(前出のカホンを店に預けていた持ち主だという)が、やにわにテーブルや椅子を叩き始める。気持ちはよくわかる。外山の音には聴き手を巻き込み、身体を揺り動かす力が強烈に宿っている。
 アルトが複雑にこんがらがったフレーズでこれに応じ、高岡はここまで封じていた金属ボウルをチューバに放り込み、フレームドラムをかざして、風圧でスキンをびりびりと震わせる。積み重ねられたシンコペーションが限界に達して崩れ落ち、超高速の連打へと弾ける。だがチューバ奏者の右足はもはや震えてはいない。鬼のような速度で駆け抜けて行くドラムをよそに、アルトのリフがますますゆったりと引き伸ばされ、間歇的に音を出していたチューバとゆるやかに絡み合う。シンコペーションの嵐をホラ貝の音色が吹き払う。
グレゴワール1_convert_20150323001033グレゴワール2_convert_20150323001101
ライヴ当日の写真がないため、翌日のライヴにおけるグレゴワール・ティルシュウの写真を、稲毛キャンディのホームページから転載させていただきました。あまりの長身にバリトンやアルトが何と小さく見えることか。


2015年3月14日(土) 池袋バレルハウス
グレゴワール・ティルシュウ(Gregoire Tirtiaux)baritone saxophone,alto saxophone
高岡大祐 tuba,objects
外山明 drum,percussion




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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:16:55 | トラックバック(0) | コメント(0)
高島正志は彼のコンポジションとインプロヴィゼーションを演奏する  Masashi Takashima Plays His Composition and Improvisation
 Ftarri水道橋店のライヴ・スケジュールに、珍しく店主鈴木美幸による長文の案内が載っていた。以下に全文を引用する。

 ドラマーの高島正志は、過去に関西や東京で活動した後、現在は福島市に暮らしながら、時折東京でもライヴをおこなっている。Ftarri にも3ヶ月に一度ぐらいの割合で出演してくれるのだが、無名に近いだけにお客さんの入りはよくない。正直、彼のドラミングに感嘆するわけでもない。ところが、出演者全体で生み出される演奏は素晴らしいのだ。3~4人のメンバーで、図形楽譜を使った彼の作曲作品や即興演奏をおこなうのだが、共演メンバーは変わっても、常に高島の音楽になる。いわゆるエレクトロアコースティック即興演奏と言っていいだろう。個々の音と響きが絡み合って振幅しながら進行する様は、現在の日本の即興音楽シーンではなかなか聴けない類いのものだ。去年11月、Ftarri での高島、長沢、影山トリオの演奏がとても素晴らしかったので、再度の出演となった。このトリオで高島の作曲作品を演奏し、さらに、ゲストの古池寿浩(トロンボーン)を加えたカルテットで即興演奏をおこなう予定。

 これは彼からの招待であると同時に「挑戦」だと私は受け止めた。「正直、彼のドラミングに感嘆するわけではない」とくさしながら、「ところが、出演者全体で生み出される演奏は素晴らしいのだ」と反転して持ち上げる。続く「個々の音と響きが絡み合って振幅しながら進行する様は、現在の日本の即興シーンではなかなか聴けない類いのものだ」との指摘は、冒頭の「無名に近いだけにお客さんの入りはよくない」へと反響して、「お前らは聴く耳を持っているのか。有名ミュージシャンの『名声』を有り難がっているだけではないのか」とぐさりと突き刺す。私はこの「挑戦」を喜んで受け止めることにした。



 開場時刻を過ぎて店内に入ると、まだ、サウンドチェックをしている。叩かれたヴィブラフォンの鍵盤から強い香りが立ち上る。これはあまりそばに座るとむせてしまうな。決して広くはないライヴ・スペースにドラム・セットが2組入り、ヴィブラフォンが右手前に押し出され、客席側にはみ出しているのだ。録音用のレヴェル調整をしているようで、続いて請われた長沢が調律されたタムをひとしきり叩いてみせる。引き締まった響きが、ふと今は亡き富樫雅彦の記憶を呼び覚ます。結局、CDを並べた置き台を少し下げて、何とか椅子を2列並べられるようにすることになった。「まあ、お客さんが来なければ、このままでもいいんだけどね」と鈴木がつぶやく。

 配置は右手前に影山のヴィブラフォン。その奥に大小の金属ボウルを並べた小テーブル。その奥に高島のドラム・セット。バスドラ、スネア、タム、フロアタム、ハイハット、シンバルが2枚の基本的なセットにエレクトロニクスが少々。その左に長沢のセット。バスドラはなく、スネアのほかに小ぶりのチューンド・タムが6個。シンバルと小シンバルが2枚ずつと足を使わないセッティング。私は影山と長沢から等距離の、左端の席に腰を落ち着けた。店内には名古屋スキヴィアス探訪記で紹介したDavid Michael, Slavek Kwi『Mmabolela』がかかっている。虫やカエルの声の明滅。

 前半は高島によるコンポジションの演奏。両手に持った複数のマレットがヴァイブの鍵盤に押し付けられ、ふわりと和音が立ち上がる。タムへの鋭い一打にスネアへのブラシが続き、バスドラへの一撃にシンバルの余韻が応える。響きが重ならないように、充分な間を置いてかわるがわる現れる音(の連なり)。静かに震えながら空間に滲んでいく響き。余韻をじっと見詰める眼差し。ざらざらとしたブラシの手触りとシンバルの澄んだ響きの対比。ヴァイブへの打撃が強まると、ドラムのスキンがぴりぴりと震え、モジュレーションに似た効果を生み出し、階上から聴こえてくる作業音と混じり合う。
 いつの間にかスキンの震えが高鳴り、持続音で空間を水没させていく。e-bowのようなヴァイブレーターで鳴らしているのか(演奏終了後に高島に確認したところ、振動スピーカーで鳴らしたものを、さらにコンタクト・マイクで拾い、増幅したり、イコライジングして音色を変えたりしていたとのこと。周囲の振動が共振等により混入して、フィードバックを変化させることもあるようだ。彼は子の「楽器=システム」をG.I.T.M.と名付けている)。ざらざらと隙間をはらんだ持続音にヴァイブの滲みが敷き重ねられ、引き締まったタムの一打が刻み目を入れる。ざらつく震えが上ずって高周波的な細さへと転じると、ヴァイブの役割は揺らぎを与えることへと移り変わる。
 高島が指を三本立てて示し、震えがさらに強まって、複数の振動の不安定なせめぎ合い、相互干渉の移ろいへと姿を変える。調律されたタムとヴァイブが速いパッセージを繰り出し合い、「サスペンス劇場」的なクリシェへと傾くとともに、ノイジーな振動と混じり合い、不透明な厚みをもたらす。
 指四本のサイン。振動が止んで開けた見晴らしにヴァイブが閃き、スネアを擦るブラシ、タムやバスドラへの一撃が、間を空けて配置されていく。ゆっくりした歩行の速度。バスドラがことさらに単調に拍を保ち、そこに再び高周波的な振動が襲いかかる。
 「短かったですか」と演奏が終わるや否や高島が鈴木に尋ねる。開始から20分しか経っていない。「20分の曲なんですけど」と高島。20分の曲を20分で演奏して「短かったですか」では意味が通らないが、どうも演奏していて「あっと言う間に終わってしまった」感覚があったようだ。もっとも15分遅れて始まり、20分演奏して20分休憩では間尺が合わない気はするが。

 後半は古池が入ってのインプロヴィゼーション。ヴァイブの鍵盤を掌で叩いたり、前面のパイプをマレットで叩いたり(これは全く効果がなかった)と「いかにも」な場面も散見したが、総じては、むしろこちらの方がコンポジション演奏ではないかと思うほど、無駄なくすっきりと「個々の音と響きが絡み合って振幅しながら進行する」演奏を聴くことができた。決して先を急がず、ドライヴしないリズムは、ゆるゆるとした歩行を思わせ、ゆるやかに開けていく音風景の中で、各人の響きはゆったりとした佇まいの点景に収まる。
 ここで誤解のないようにしておかねばなるまいが、決して演奏は木賃アパートの薄い壁を気遣い、個々人に割り当てられた輪郭線をはみ出さぬよう、ただそれだけに注意しながら、結果としてひとりごとや誰にも聞こえぬひそひそ話に終始する「盆栽即興」や「風鈴インプロヴィゼーション」のようなものでは決してなかった。各人の演奏は他者の空間へと恐れることなくはみ出しながら、しかし特定の相手へと語りかけるというより、各人の間に広がる空間に沁み込ませ滲ませるように、そこで音は放たれていた。自らの手を離れた音が、誰のものでもない空間にクロマトグラフィのように滲み溶け合って、新たな色合いを生み出すのをじっと見詰める眼差し。音風景の移り変わりに応じて、すっと立ち位置を変えながら、新たなスペースに音を滲ませていく歩み。さっきまでいた空間に響きの残り香を漂わせたままに。
 集団での即興演奏は、通常、差異を競い合うことに傾いてしまいがちなのだが、ここには不思議な「同質化」があった。単に響きが似通っていると言うのではない。それは言うなれば、木立の中に水の流れがあったとして、葉擦れとせせらぎがひとつに溶け合い、木洩れ陽と川面のきらめきが互いに互いを照らし出すようなあり方だ。樹々と水の流れは、特に似たところがあるわけでもない、全く別の存在でありながら、そこにはさざめくような「息」の通い合う、共振/共鳴の次元が開かれている。
 高島・長沢による摩擦音と古池の息音が時に混じり合い、照応し合う様はとても美しかった。それは先に述べたように、響きが似通っているからではない。その証拠に、そこから音が、タムの打撃やミュートを用いたワウワウに変化し、ヴァイブの素早くちらつくような動きと交錯しても、切断や転換と言うより、むしろひと続きの滑らかな視点の移り変わりと感じられる。それこそが高島のコンポジションが演奏者に求めるプレイヤーシップのあり方なのだろう。高島は自身のコンポジションについて「何しろ手探りなので‥」と不安を漏らしていたが、今回の演奏を聴く限り、まだまだ伸び代はあり、この先に豊かな可能性を期待できるように思われた。

 だからこそ、何点か注文を付けることとしたい。終演後に「高島さんのお知り合いですか」と尋ねられたが、私は鈴木の「挑戦」を手がかりとして、個人的な交遊とは一切関係なく、あなたたちの音楽に興味があって聴きに来たのだ。自分たちの音楽をそのようにしてわざわざ聴きに来る者がいることを知ってほしいし、自分たちの音楽にはそれだけの価値があるという誇りと自信を持ってほしい。そうであればこそ、公開リハーサルのような感じを与えないステージング、プレゼンテーションの仕方に気を配ってもらいたい。演奏が終わって、まずは録音が出来ているかどうかが一番の関心事というのでは困る。それから、今回の前半・後半を対比させて聴いた限りでは、編成上、今回はトロンボーンがそれに当たるわけだが、やはり持続音を確保した方がいいように思われた。それも音階を駆け回るというよりは、今回の古池のように、平坦さの中に豊かな変化を醸し出せる演奏者が望ましかろう。その点、笙というのは一方の究極の選択だろうし、フィールドレコーディングがもう一方の極端ということになろうか。

2015年3月12日(木) Ftarri水道橋店
高島正志 (ドラムス、G.I.T.M.)、影山朋子 (ヴィブラフォン、パーカッション)、長沢哲 (ドラムス、パーカッション)
ゲスト:古池寿浩 (トロンボーン)



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:24:03 | トラックバック(0) | コメント(0)
生成音楽ワークショップの展覧会 The Exhibition of “Generative Music Workshop”
 本ブログでもこれまで何回か紹介してきた「生成音楽ワークショップ」(城一裕+金子智太郎)が2010年の結成以来の活動をまとめた展覧会を開催する。
 これまでの活動内容はサイト(http://generativemusicworkshop.wordpress.com/)に詳しいが、以下に概略を記しておこう。

【コンセプト】
 「生成音楽」は装置やルールを使う自動作曲の音楽です。
 生成音楽ワークショップは 過去の生成音楽の名作を「再演」します。
【これまでの活動】
第1回:スティーブ・ライヒ「振り子の音楽」(1968)
(Make Tokyo Meeting 05、2010年5月22-23日)
第2回:アルヴィン・ルシエ「細長いワイヤーの音楽」(1977)
(Interferenze Seeds Tokyo 2010、2010年6月26-27日)
第3回:リチャード・ラーマン「トラヴェロン・ガムロン(自転車のための音楽)」(1978)翻案
(ICCキッズ・プログラム2010「いったい何がきこえているんだろう」2010年8月4日-9月5日 )
第4回:生成音楽ワークショップ+杉山紘一郎「「聴く」装置としてのエオリアン・ハープ」
(黄金町バザール2011「まちをつくるこえ」2011年8月6日-11月6日)
エオリアン・ハープ制作ワークショップ
(第1回 黄金町バザール2011会場 かいだん広場、2011年10月15日、第2回 403Forbidden、2012年7月29日)
第5回:ミラン・ニザー「ブロークン・ミュージック」(1965)
(横浜国立大学音楽音響スタジオ、2011年11月19日)
第6回:レオン・O・チュア「チュア回路」(1983)
(横浜国立大学音楽音響スタジオ、2011年12月3日)
第7回:ジョン・ケージ「失われた沈黙を求めて」(1978)
(Make Ogaki Meeting 2012、樽見鉄道、2012年8月25-26日)
第8回:「アリの足音聴診器」
(横浜国立大学音楽音響スタジオ、2012年12月15日)
第9回:鳴釜
(横浜国立大学音楽音響スタジオ、2012年2月18日)
第10回:城一裕「紙のレコード」(2012)
(横浜国立大学音楽音響スタジオ、2013年12月22日)
第11回;ラジオ
(横浜国立大学音楽音響スタジオ、2014年3月16日)
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第1回 スティーヴ・ライヒ「振り子の音楽」


 生成音楽とは、文字通り、その場で刻々と生み出される音楽である。人の手によってあらかじめ書かれた作品ではない。あらかじめ指定されるのは、生成のための簡単なルールや生成をもたらす機会仕掛けであって、五線譜のような記号体系ではないのだ。生成の過程は常に生成する場所と共にあり、その環境に大きく影響される。
 たとえば私が体験したアルヴィン・ルシエによる「細長いワイアーの音楽」のミニチェア版再現では、会場の混み具合により音が微妙に変化する。人が多くなればそれだけさまざまな振動が生じて張られたワイアーに伝わるが、その影響は複層的であり、互いに打ち消し合う振動もあるだろう。それに人が多くなると、それだけ音を吸うことになるので、床から伝わる振動は増えても、空間から受ける影響は少なくなると考えられる。このようにして多数のパラメーターが関係することにより、予想できない反応が生じてくる。
 これだけでもじゅうぶん興味深いが、生成音楽ワークショップの活動は、次のような過去の名作の再現だけでなく、フランシスコ・ロペスを招いてのワークショップ「The World as Instrument」を開催したり、ジョン・ケージ「失われた沈黙を求めて」を再現というより、まさに新たな創発的イヴェントとして成立させてしまうなど、未来に向けて開かれているところにある。単なるアーカイヴではないのだ。
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第2回 アルヴィン・ルシエ「細長いワイアーの音楽」


 それでは展覧会の内容を見てみよう。前述の生成音楽ワークショップのサイトから転載する。

「生成音楽ワークショップの展覧会」
会期:2015年3月14日(土)〜2014年3月18日(水)
会場:さくらWORKS〈関内〉http://sakuraworks.org/
住所:〒231-0012 横浜市中区相生町3-61 泰生ビル2F
アクセス:JR関内駅より徒歩5分、みなとみらい線馬車道駅より徒歩5分
開館時間:11:00-20:00(3月14,15日),11:00-18:00(3月16−18日)
入場料:無料
URL:https://generativemusicworkshop.wordpress.com/

開催概要
音楽家の手を離れて自動的に奏でられる音楽を「生成音楽」と呼びます。城一裕と金子智太郎による「生成音楽ワークショップ」は、装置を使った生成音楽の古典作品を再現することで、この音楽の実践のあり方を考えるプロジェクトです。2010年に始まり、これまでに11回開催された本ワークショップは展示、イヴェント、子供向けプログラム、大学講義などのかたちで、毎回異なる作品を再現してきました。「生成音楽ワークショップの展覧会」はこれまでの活動のひとつの総括として、過去の実践を紹介しながら、取りあげてきた作品のいくつかをもう一度再現、展示します。

展示構成(予定)
◾アルヴィン・ルシエ「細長いワイヤーの音楽」(再現)
◾エオリアン・ハープ
◾レオン・O・チュア「チュア回路」(再現)
◾ジョン・ケージ「失われた沈黙を求めて」(再現資料)
◾鳴釜

お問い合わせ
中川克志(横浜国立大学都市イノベーション研究院准教授)
E-mail:katsushinakagawa@ynu.ac.jp

主催:生成音楽ワークショップ(城一裕+金子智太郎)
共催:YCCスクール
協力:横浜国立大学人間文化課程音響空間スタジオ(中川克志研究室)、杉山紘一郎(冷泉荘管理人)、情報科学芸術大学院大学[IAMAS]
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第3回 リチャード・ラーマン「トラヴェロン・ガムロン」


さらに次のような魅力的な関連イヴェントも用意されている。

関連イヴェント
①エオリアン・ハープ制作ワークショップ
このワークショップでは参加者ひとりひとりが自分のエオリアン・ハープを制作します。エオリアンハープの研究者である杉山紘一郎さんを講師に招き、この楽器が鳴る原理から制作のノウハウまでていねいに解説していただきます。制作のあとは自分のエオリアン・ハープを持って近隣をまわり、都市環境における「聴く」装置としてのエオリアン・ハープの可能性を探ります。
日時:3月15日 12時から15時
会場:さくらWORKS〈関内〉
講師:杉山紘一郎(冷泉荘管理人)
人数:10名(定員になり次第締め切ります)
参加費:3000円(含材料費)、要事前申込み
申し込みフォーム:http://goo.gl/osOx9x
*材料・工具はこちらで用意してありますが、作ったエオリアン・ハープ(1m x 10cm x 10cmくらい)を持ち帰るための袋(IKEAキャリーバッグ等)があると便利です。

②トーク・セッション「生成音楽の実践を考える(仮)」
日時:3月15日 16時から17時半
会場:さくらWORKS〈関内〉
登壇者:畠中実(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]主任学芸員)、中川克志(横浜国立大学都市イノベーション研究院准教授)、城一裕、金子智太郎
入場料:無料

③パフォーマンス
日時:3月15日 18時から20時
会場:さくらWORKS〈関内〉
出演者:堀尾寛太、杉山紘一郎、大山千尋(IAMAS)ほか
入場料:無料
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エオリアン・ハープ


 生成音楽ワークショップのこれまでの活動に関する『耳の枠はずし』での言及は次の通り(ただし、フランシスコ・ロペス ワークショップ「The World as Instrument」については、言及が多いので省略しました)。参考に参照していただきたい。

Music on a Long Thin Wire
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-39.html
「生成音楽ワークショップ」のサイト
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-115.html
エオリアン・ハープ制作ワークショップ
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-174.html
ケージ列車に乗ろう
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-183.html
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ライヴ/イヴェント告知 | 23:02:16 | トラックバック(0) | コメント(0)
名古屋納屋橋の夜は更けて − 音楽&薬草バー『スキヴィアス』探訪記  Round Midnight in Nayabashi, Nagoya − Visit Report of Music & Herb Bar "Scivias"
 大阪中崎町コモンカフェにロジャー・ターナーと高岡大祐のデュオを観に出かけた翌日、大阪から京都、さらに名古屋へと足を伸ばした。京都行きの理由は何と言うことはなくて、以前に食べて大層おいしかった、蛸薬師「丸十」の焼き芋、錦小路そば権太呂の刻みきつねうどん、祇園「安参」の肉割烹コースを再び巡るためだったのだが、京都で夕食を摂った後に名古屋に向かったのは、20時に店を開ける音楽&薬草バー「スキヴィアス」を訪れるためだった。

 「スキヴィアス」は虹釜太郎主宰のゼミで知り合った「スキヴィアス服部」が経営している。「スキヴィアス」については開店時にこのブログで採りあげたので、覚えている方もいらっしゃることだろう(*1)。また、「スキヴィアス服部」(あるいは「服部レコンキス太」)が、同人誌『TOHU-BOHU』に、さらには自主制作コピー誌『音について その1』に書いた文章についても、このブログで採りあげている(*2)。音が耳に届く前にミュージシャン(ここでは演奏者、作編曲者、制作者等を幅広く含む)の意図に還元して「回答」(だがそれは一体、何に対してのものなのか。まだ問いさえ受け止めてないというのに)を出してしまうのではなく、音を記号や情報としてだけ読み解くのでもなく、音に触れた自らの身体の変容を見詰めながら丁寧に腑分けし、音楽に限らず幅広い文化的背景を参照しつつ記述していく手つきは、今時得難いものだと思う。
 *1 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-211.html
   http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-213.html
 *2 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-80.html
   http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-212.html


 名古屋駅から広小路をずんずんと進んで、納屋橋の左側を渡ったところで、たもとにある不思議な建物(旧加藤商会ビル。かつてはタイ領事館も置かれていたところで、今はタイ料理のレストランになっている)の前に立って左手を眺めれば、斜め前方に「SCIVIAS」の白い看板が見える。石を投げれば届く距離だ。
 2階に上がってドアを開けると、奥にL字型のカウンターが設えられ、その前にチェアが並ぶ。手前には小さな本棚やCD等の展示販売用のコーヒー・テーブルが置いてあるだけでテーブル席がないので、ずいぶんと広く感じる。
 来店を事前に伝えてあったので、やあやあと挨拶を交わす。Facebookで流れて来る開店の音楽はフィールドレコーディングだったり、民族音楽だったりと結構ヘヴィだが、この時は随分と聴きやすいアンビエント風の音が流れていた(後で訊くとハウシュカだという)。

スキヴィアス行き0 服部は「最近、これをよく聴くんですよね」と言いながら、CDをかけ換える。高橋アキ演奏による『早坂文雄:室内のためのピアノ作品集』(Camerata)。ドビュッシー由来の香り高さと、品のいい端正で落ち着いた佇まい(メシアンほどには濃密でも厳格でもない)。「何か『教授』の元ネタって感じがしませんか」と彼。順番なら先に出て来るはずの武満徹を跳ばして、坂本龍一となるのは、音を聴くとよくわかる。これは高橋アキによる明晰な演奏の貢献も大きいのだろうが、ロマンティックな匂いが薄く、ドビュッシーの向こうにサティを透かし見ているところがある。エキゾティックの手前で立ち止まるクールネス。「元ネタって言うより、教授にもっと教養や恥じらいがあったら、こうなってましたってことなんじゃないの」と与太を飛ばす。


 最近、何かいいのありますかと訊かれて、そうなることだろうと思って仕込んできた数枚のCDを見せる。

スキヴィアス行き1 まずは熱帯雨林のフィールドレコーディングで、マイクロフォンの「皮膚」を痛々しく擦りむいて無理矢理感度を高めたのではないかと思えるほど超鮮明なDavid Michael, Slavek Kwi『Mmabolela』(Gruenrekoder)。虫の音が耳に、肌に鋭く突き刺さる。スピーカーはヤマハの小型モニターなのだが、ゆらゆらした低音の響きが随分下まで出ているみたいなので尋ねると、カウンターの端(入口に近い方)にFostexのスーパー・ウーハーを1台床置きして鳴らしていることを教えてくれる。なるほど。

スキヴィアス行き2 続いてはある古楽作品をミニマル・ミュージックの原型と見立てて奏したRalf Meinz, Karolina Ossowska & Mikołaj Palosz『Play Giuseppe Tartini "La sonata il sol minore al terzo suono"』(Bolt)。メロディが抑揚無しに引き伸ばされて、ヴァイオリンとチェロの弦の振動の生々しい衝突/干渉(倍音領域を含む)が前景化して、Tony Conrad状態をつくりだす。「こーゆーの聴くと、進化論的な音楽史って何だよって話ですよねー」、「我々が知ってる音楽史って「ハンスリック以降」って言うか、まあ、それぞれの時点での政治的視点からの再話だから。結局、『歴史は勝者が創る』っていう原理原則は文化史でも変わらないってことでしょ。バッハですら再発見されなくちゃいけなかったわけだし。古楽だって、つい最近まで専門家しか聴かない『生気のない難しくてつまらない音楽』扱いだったわけで‥」と、またいーかげんな与太を飛ばし合う。こちらは酒も飲んでないのに。

クォーツ追加4 「それからインプロヴィゼーション関係ではこれね」と歌女『盲声』(Blowbass)を差し出す。もともと大阪まで来たのも、ロジャー・ターナーと高岡大祐のデュオのためだったので‥と。そこから、フリー・インプロヴィゼーション系をはじめ、来日アーティストに対する共演者のブッキングの固定化はいかがなものか‥という話になるが、身の危険を回避するため詳細はオフレコに(笑)。


スキヴィアス行き3 さらに雰囲気を変えてと、Marta Valdes『En La Imaginacion』(Ahora)を。「ギター弾き語りの女声によるフィーリンなんだけど、すごく良いですよ。フィーリンでもナイトクラブの匂いがするのは苦手で、ほら、お酒飲めないから。でもこれはストイックで繊細にして自然体。どちらかというと作曲の人らしいんだけど‥」と日本盤付属のライナーを差し出す。

 その後、二人いたお客さんが帰ってからも、二人であれこれ音盤をかけながら、延々と話をしていたのだが、こちらも眠気が増していたので、何を話したかあまりよく覚えていない。投げかけられた話題に応えようとして、なかなか固有名詞が出てこなかったり。話題もあっちこっち跳んだし。服部も酔っていて、結構、話に脈絡がなかったのだが、それでも「ともかく音を聴いてみましょう」と、その場で音盤を探してちゃんとかけるところは流石プロ。もちろん見つからなかったのもあったんだけど‥(笑)。なので、こちらも対抗して、その時に挙げようとしてちゃんと出てこなかった参考書目を、後から記憶をたどり、調べ直したのが次のリスト。

I.ウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』川北稔訳、岩波書店、1997年
I.ウォーラーステイン『近代世界システムⅠ』川北稔訳、岩波現代選書、1981年
I.ウォーラーステイン『近代世界システムⅡ』川北稔訳、岩波現代選書、1981年
中井久夫『西欧精神医学背景史』みすず書房
前田英樹『民俗と民藝』講談社選書メチエ
前田英樹『ベルクソン哲学の遺言』岩波現代選書
渡辺哲夫『フロイトとベルクソン』岩波書店
山本義隆『磁力と重力の発見』、『十六世紀文化革命』、『重力と力学的世界』等


 そんな中で、ただ一つよく覚えているのが、服部のしてくれた次の話。
 「スティルライフ『夜のカタログ』を聴くと、演奏の背後というか、背景の音がすごくよく聴こえてくるんですね。これは彼らがそうした音をよく聴いている‥ってことでもあるんだけど。それで思い出したのが、中学の頃、電車通学していたんですが、本当に田舎の駅なんで、電車もあまり来ないんです。駅のまわりも静かだし。それで電車に乗り損ねて行っちゃった時に、意識で電車を追いますよね。耳でも線路の振動が遠ざかっていくのを追いかけるんです。どんどん小さくなっていく音を。そうするとロープをたどっていくみたいに、だんだん遠くの音が聴こえるようになってくるんです。」
 「それって、スティルライフのメンバーの津田さんが、ワークショップ『みみをすます』で使っている、段階を踏んで耳を開いていく方法論と似てるなー。いやー、その話、彼が聞いたらきっと喜ぶと思うよ。」



ちなみに珍しいリキュール各種のほか、ノン・アルコールのメニューもいろいろなハーブティーやコーディアルなどありますので、お酒の飲めない方も、どうぞお気軽にお訪ねください。
なお、「スキヴィアス」への行き方については次を参照してください。
http://otyto.hatenablog.com/entry/2023/02/02/000000

音楽情報 | 18:54:08 | トラックバック(0) | コメント(0)
溶ける時間、滲む響き − 蛯子健太郎「ライブラリ」ライヴ・レヴュー Melting Time, Blurred Sounds − Live Review for Kentaro Ebiko "Library"
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 素晴らしかった演奏に、聴衆からアンコールを求められて、蛯子が「それでは『なかまわれのうた』をやります」と宣言はしたものの、それから楽譜がないとか、あれどんなだったけ‥とか、メンバーがざわつき出し、一方、蛯子はと言えば、えー業務連絡で事前に伝えていたのに‥とボヤキ始めるという「混乱」が生じ、結局、蛯子が「すみません。アンコール慣れしていないバンドなもんで。えー、これが「物語り自身のスピードで」ってことです」とMCして笑いを取った。ここで「物語り自身のスピードで」とは、「なすがままに」を意味していよう。それは「物語り自身」の展開/成熟を粘り強く待ち、また「待つこと」を、また、そのような「物語り自身」と共にあることを受け入れることでもある。しかしそれは決して「受動的」にばかり耐え忍ぶことではない。
 前回のレヴューで次のように描写した「カウントの儀式」は、今回もすべての楽曲(ジャズ・スタンダードである「Everything Happens to Me」を含め)で繰り返されていた。

 唯一の決まりは「全員が同じ地点から始める」こと。だから、始まりのテンポの指定がとりわけ重要になる。これはアンコールを除くすべての演奏に共通していたのだが、蛯子は曲名を告げると、眼を瞑り、上を向いて、口を半開きにして身体を揺すりながら集中し、おやと思うぐらい時間が経ってからテンポのカウントを始める。その間にイントロだけでなく、曲の全体イメージをスキャンしているのだろうか。いずれにせよ、これこそが蛯子流の「コンダクション」にほかなるまい。

 今回、改めてこの「儀式」を注意して見てみると、声に出されるカウントのテンポと、それ以前の蛯子の身体の揺れや息遣いの間に、微妙なズレがあるように感じられた。そして、その後に続く蛯子自身が奏でるイントロダクションのテンポとも。すなわち、ここでカウントはメトロノームのように機械的に演奏を統御しているわけではない。むしろそれは、始まりのそして終わりに至る全体の「ヴィジョン」を提示するものなのだろう。ここで私はフィルトヴェングラーやカラヤンが眼を瞑って行った「オーケストラの上空を漂うような」指揮を思い浮かべている。そしてそれはテンポのズレを許容する。
 「ライブラリ」のテンポ感が最もわかりやすく現れるのは、井谷によるシンバル・レガートだと思うが、よく見ると微妙に叩き分けられていることに気づく。「ささら」を細くしたような束でアタックをミクロに分散させるかと思えば、通常のスティックで冷ややかに引き締め、あるいは中央部を叩いたり、もう一本のスティックで巧みに振動をミュートしたりして、残響の長さをコントロールする。もちろんテンポの緩急も生み出されるが、これはカホンによるビートの方が顕著だろう。音の立ち上がりと立ち下がりを操作することにより身体に働きかける「速度感」が変わり、これがソロやアンサンブルの「速度感」、さらにはテンポと合ったりズレを来したりすることで、演奏がまるで綿飴のように空気をはらむこととなる。

 もうひとつ、「ライブラリ」の演奏で特徴的なのは、響きの「滲み感」だ。先のシンバル演奏を例に採れば、「ささら」での打撃は線香花火の火花が散るようにその場でふっと膨らみ、スティックの場合は流れ星のようにしゅーっと長い尾を引いていく。指の腹の微かな動きがアンプで増幅されてゆらりと漂い、弦への強いアタックもゆるやかに明るさを減じながら暗がりに吸い込まれていく「消え方」を聴かせる蛯子のベース。橋爪のいつもより多く息音、息漏れや息むらをはらみ、ゆったりと引き伸ばされ解けていくテナーやソプラノ。ペダルを丁寧に踏み分け音像をくゆらす飯尾のピアノ。時に危うく痛々しいまでにか細く張り詰める三角の声の震え。色合いや明暗、密度や形状の異なる響きの斑紋が空間に浮かび、さらにゆっくりと滲みを広げていく。
 薄墨をたっぷりと含んだ筆でゆるゆると描かれた線は、軌跡の周囲に時間をかけて水分を浸透させていく。それに合わせて不定形の滲みが広がる。筆の運びはもちろん滲みを制御し得る。しかしそれも「ある程度」だ。そこから先は紙と水分と空気中の温度/湿度の関数に事の次第を委ね、じっと見守り耳を澄ますしかない。物語り自身のスピードで。
 今回のライヴ終演後に「ライブラリ」の第1作『dream / story』を購入したのだが、ここでふんだんに用いられている音響操作は、まさにこうした「滲み」に手を伸ばそうとしているように思われる。第2作『Lights』で用いられ、当初ライヴでも演奏されたというものの、その後使われなることのなくなった電子音にしても。今や彼/彼女たちは、そうした滲みをエレクトロニクスの力を借りずに、独力で生み出している。それぞれの物語として。
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 この日の曲目を振り返っておきたい。
 1. Trains、2. あ、いま、めまい〜Star Eyes、3. 滑車、4. A Thicket(薮)、5. Out of Depth(深き淵より私は叫んだ)、6. Everything That Happens、7. Everything Happens to Me(ジャズ・スタンダード)、8. モノフォーカス、9. ヴィトリオル、10. なかまわれのうた(アンコール)
 ちなみに前回は次の通り。1. なかまわれのうた、2. Trains、3. 滑車〜Star Eyes、4. エンジェル、5. 音がこぼれる草の話、6. モノフォーカス、7. Out of Depth(深き淵より私は叫んだ)、8. ヴィトリオル、9. ジャズ・スタンダード(アンコール)

 今回の演奏は、冒頭の「Trains」に象徴されるように、前回以上にゆったりと深く息を吐き、ゆっくりと深く時を掘り進んでいた。そこには「先を急がず『物語り自身のスピード』を見詰め続ける」ととう強い意志が感じられた。その点で特筆すべきは、前回ライヴに新曲として登場した「Out of Depth(深き淵より私は叫んだ)」だろう。前回はラテン風メロディの異質さが際立っていたが、今回は軽やかに漂いながらも、他の楽曲以上にさらに腰を落としてことさらにゆったりと進み、特に長く引き伸ばされた一音を、通常のジャズ演奏的な抑揚を一切施すことなく、ただひたすらゆるゆると水平に筆を運び、静かに横たえていくサックスの響きは、先に述べた「滲み」の味わいをふんだんに香らせており、さらに、まさに「深き淵」からの声にならない叫びにも似た、もがくような蛯子渾身のベース・ソロ(前回はこのようにはフィーチャーされていなかったように思う)に向けた見事な伏線(幾層にも厚く積み重なり、ずしりとのしかかる重圧)ともなっていた。

 新曲の4と6は共に響きの斑紋が散らばりながら、じんわりと滲みを広げ、時を溶かしていく印象。6とのテーマ的なつながりから選ばれた7も、オマケ的な演奏ではまったくなく、ムーディに香り高いジャズの小品でありながら、息を荒げたベース・ソロのアタックの強さや、ピアノ・ソロとシンバル・レガートの響きが、共に空気を一杯にはらみ込んで綿飴のように柔らかく響きを膨らませ溶け合わせていく仕方は、「ライブラリ」の演奏以外の何物でもないだろう。8から9へとヘヴィな楽曲を連ねながら、6が夢の中ですべて流れていた曲であり、8が夢に出てきた怪獣の名前だと、「夢」つながりを明らかにしていたのも、蛯子らしかった。


 このように種明かしされたり、謎解きしながら聴き進めても、謎は減るどころか、ますます豊かに増殖し、聴き手を魅惑し、音楽のさらなる深奥へと誘う。確かにライブラリ=図書館とは、謎を解きに立ち入って、むしろ謎に深く魅入られるところではないかと、小学校時代に宿題の調べものに訪れて以来、今に至るも足繁く図書館に通い続ける私は思わずにはいられない。
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「ライブラリ」の第1作『dream / story』


ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:26:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
物語自身のスピードで ― 蛯子健太郎「ライブラリ」喫茶茶会記ライヴに向けて  At the Speed Stories Themselves Go Forward ― For Kentro Ebiko “Library” Live @ Café Sakaiki
 蛯子健太郎率いる「ライブラリ」の音楽は、昨年の出会いの中でも特に重要なひとつだ。高岡大祐と多田雅範は口を揃えて「音楽の魅力とは『謎』だ」と言うのだが、私が「ライブラリ」の音楽に感じる魅力もまた、「謎」のかたちをしている。
 魅力的な「謎」を、平板でつまらない回答に置き換えてしまうことなく、より魅惑的に輝かせること。そのためには「謎」を突き詰め、深めるしかない。またそれが、私たちが「謎」に対してできる唯一のことだろう。昨年11月28日に喫茶茶会記で行われた彼らのライヴのレヴュー(※)を、時系列に沿って曲ごとにコメントを付していくという、私にしては珍しいスタイルで書き綴っているのは、ともかくも頭の中に渦巻いている「謎」をいったん紙の上に吐き出して、眺めてみたいと考えたからにほかならない。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-328.html

 その後、少しして、蛯子からアンサーが届いた。そこで「謎」は見事に深められている。彼のブログから以下に全文を転載する。


「先日のライブラリ@茶会記 11/28(金)を終えて・受容について」

もう既に日数が経っているし、批評家の福島恵一さんが、当日の晩に(鉄の熱い内に)詳細なレヴューを書いて下さり、本質に外側からブレない光を当てて下さっているので、自分からは何も言う事は無いか、と思っていたのですが、「この日記」を書こうと思うと、ライブラリは、あまりにも自分の日常に、接ぎ木され、或は「エイリアン」の幼生(チェストバスター)の様に寄生されているので、触れないわけにはいかないのだ、と思いました。

音楽の内容を語るのではなく、宣伝のつもりも無く、美化するつもりも、大きく見せるつもりも本意の逆、という事で、自分は今年2月のライブ以来の9ヶ月をこのライブの為に生きて来た部分が在ります。

「自分が変わらなければ」という思いが非常に強く、かといって何が、どのように、というのは(当然ですが)、日々生きて行くことによって、その日毎に景色が変わって行く以外には、全く分かりませんでした。別の言い方をすれば、それが「やりたかった事」なのです。

そのプロセスを意識的に過ごし始めた当初は、ライブをする事自体、視野に入れてませんでした。バンド、ライブラリ、という括りも、それが自然の流れであれば、犠牲にする、という選択肢もありました。ただ、毎日生きて、自分の命、たましいを確認する。それ以外には何一つアプリオリには進めまい、という必用が精神的にありました。

それが5ヶ月経って、7月頃に、自分の内部で、ふっと「ライブをしよう」という流れに変わって来ました。ただそれは、自然の放物線を描く様に、7月や8月にすぐライブ、というのではなく、それから4ヶ月後の11月28日に決まったのです。リーダーとして、そういう流れ、を無視するのはとてもよくない事だったでしょう。

別の言い方をすれば、たったの9ヶ月間とも言えます、では、その間に、自分の何が、どう変わったのか、今振り返ってみると、「受容」という事だと思います。ほんの僅かに(ほんの僅かです)、様々なことが、以前に比べると、受け入れられる様になり、その僅かな変化を、音にすることができました。悪怯れるつもりはありません。その様に、楽屋でも、ステージでも、感じられ、それ以外、別の言い方は出来ないのだと、思いました。

こうして書いてみて、分かったのですが、「ライブラリ」は自分の病気の部分、或は社会との関わりの中で、擦り剥けて、怪我をしてしまった、患部と関わりあう為の何か、みたいですね。「接ぎ木」とか「寄生」といった表現になった所以かもしれません。

次回は4月頃ライブをしたいと考えていますが、スケジュール調整でどうなるか、目下未定です。ただ、「こうすればいい」という公式的なフォーミュラは、時間の流れ、命の流れ、から乖離し、流れを無視し易いものかもしれません。そもそも、それに依って擦り剥けてしまったのでしょう。

それまで、それまでの分を、生きて行ければ、と思います。


 苦しい胸の内を吐露するように、告解調で綴られた文章は、重い荷物を背負って、なお歩みを止めることがない蛯子の姿を映し出している。だが、それにしても「受容」とは何だろう。受け入れるとは、いったい何を受け入れるのだろう。
 前述のライヴ・レヴューでは、蛯子のかけがえのない特質を「プレイヤーシップでもミュージシャンシップでもない何か」と名指している。また、彼らの音楽の特質について、「日常が文学へと飛躍する仕方をシミュレートした音楽だ。日常のうちに開けた様々な亀裂や解離を、私たちは無意識のうちに跨ぎ越え、あるいは修復して、それに陥ることなく歩みを進めている。昨日と同じ明日が来ることを疑うことなく生活している。通常の音楽演奏もそうであって、音の流れに身を任せれば、間違いなく終点まで送り届けてくれる。「ライブラリ」はその流れを断ち切り、あるいは踏み外す。あるいは前述の亀裂にはまり込む。そこに別の世界が開け、文学が生まれる。」としたためている。
 こう書きつけていた際に、私がぼんやりと思い浮かべていたのは、ヴッパータール舞踏団を率いた亡きピナ・バウシュのことだった。彼女は「タンツ・テアター」の作品をつくりあげるにあたり、メンバーに対して最近心に残ったことを演じさせる等、問いかけを発し、それに対する彼/彼女らの応答を冷ややかに見つめ続ける。繰り返しの中で疲弊し、不安に苛まれて変容していく動きは、ある瞬間に彼女の手によって掬い取られ、作品の中へと移植される。パズルのワンピースとして。精神分析のセッションにおける本質的な暴力性を露骨に解き放ったこの方法論が、彼女の作品にぞっとするような残酷な強度を与えている。
 蛯子がピナのような暴君だと言うつもりはない。しかし、「ライブラリ」のアンサンブルには、これとよく似た原理が作動しているように感じられるのだ。すなわち、楽理的にアレンジメントとして完成されるのでも、個々人のソロに委ねられるのでもなく、一人ひとりの特質(いや、宿命と言おうか)に沿って当て書きされた音楽を、自己イメージとは異なる鏡像と向かい合うようにして、自己と関連付けながら、いや自己をそこから彫り出すようにして、演奏する‥。そこから自分の知らなかった「自分」が生み出される。蛯子はそんなオルター・エゴを引き出す写真家や演出家のような存在なのかもしれない。カギは「彼/彼女をして、彼/彼女の物語を語らしめる」ことにあるのだ。

 そんな風に考えを漂わせていた時に、彼から3月6日、喫茶茶会記における「ライブラリ」のライヴの知らせが届く。コンサートは「物語自身のスピードで」と題されていた。謎めいた符合。
 そういえば彼は、最近のブログで何回も「物語」に言及している。


時間についた名前。
それは、データではなく物語りだろう。

結局のところ、我々は、おしなべて、早く速く進む事には馴染みがあるけれど、ゆっくりと進む事に関しては、全く慣れていない、アマチュアなのではないか?と思われます。
だから、いざ、ゆっくりと進むべき状態に入ると、人は鬱傾向になるのかもしれません。
もう一月も経ちますが、前回11月28日の「ライブラリ」のライブ以来、自分の中の何かが、ゆっくりと高度を下げつつ、軟着陸体制に入ろうとしている様です。
この、社会的な意識のスピードと、「軟着陸」しようとしている何か(たましい?)の速度の違いの激しい事!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
「!」の数が乖離の目盛りです。
結局「物語り自身のスピードで、物語りを読む」という、速度、は、遥かに、意識の想定外まで、繫がっている様に、感じるのです。

「物語り自身のスピードで、物語りを読む事の面白さ」と言う、意識(気付き)自体が、「実際」には「物語り自身のスピードよりも、何倍も速い速度で、物語りを読もうとしている(そうとは知らずに)」という状態に無自覚にさせていたのかもしれない。


 日曜の23時からNHKで、『ダウントン・アビー』という英国の連続ドラマを放映していて、観るのを楽しみにしている。大枠としては20世紀初頭、激動の時代に相続人をタイタニック号の事故で失った貴族の一族が、限嗣相続制の前に没落していく話なのだが、むしろ見どころはきめ細やかに演じられる群像劇にある。登場人物一人ひとりがそれぞれ固有のテーマ・メロディを持ち、それを絶え間なく変奏し、発展させ続けている。その絡み合いの見事さと言ったらない。米国で制作された『ER』も優れた群像劇だったが、展開の推進力や転調を、突然に運び込まれる急患たちに頼ることができた。『ダウントン・アビー』はそうした外部化の仕掛けを、禁欲的とも言えるほど最小限にとどめ、城館に集う者たちの宿命の交錯と変容だけで、激を紡ぎあげていく。
 各人の持つ固有の物語は、それぞれにふさわしい固有の速度でほどけていく。毛糸玉が転がるように。その速度の差異によってドラマが展開していく。まるで四方八方から交錯するドミノ倒しの列を見るようだ。こちらが先に倒れたから、この列が速度を受け継いで走りだし、さらに彼方へと線を伸ばしていく。そして、もつれにもつれて膠着状態に陥り、身動きのできなくなった物語の束が、それぞれの物語が固有の速度でほどけていくのに任せるうちに、絶妙の手順/タイミングでもつれがほどけ、いつの間にか問題は遠く彼方にまで流れ去っている。

 蛯子が「物語自身のスピードで」と言うのを聞いて、私はこのことを思い浮かべた。「物語自身のスピードで物語を読む」とは、複数の固有の物語が、それぞれのスピードでほどけ、それにつれて全体が変容していくのを見詰めるということではないか。それは言わば「成熟」を待つことであり、そのように「待つこと」自体を受け入れることでもあるだろう。それゆえ「ライブラリ」が社会との接点であり、擦り剝けた傷である‥というのはわかる気がする。同時にそれは敏感な粘膜が外に剥き出しにさらされている箇所であり、社会とのつながりを切断して、固く貝殻を閉ざした場所ではないということだろう。

 「謎」がさらに魅惑的に深められる様を、ライヴで目撃することとしたい。

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ライヴ/イヴェント告知 | 23:30:22 | トラックバック(0) | コメント(0)
即興された瞬間 - ロジャー・ターナー&高岡大祐デュオ ライヴ・レヴュー  Improvised Moments - Live Review for Roger Turner & Daisuke Takaoka Duo
1.中崎町
 大阪駅茶屋街口から都島通りを進み、鉄道のガード下を抜け、地下鉄中崎町駅の表示が見えたところで左に折れる。それは人肌の暖かみをたたえた迷宮への入口だった。まるでタイムスリップしたように街並みが懐かしさを増す。昭和40年代、いやもう少し遡るかもしれない。廃墟の寒々しさや街並み保存地区によくある映画セットめいたつくりもの臭さはない。そこここに生活感が漂っている。さらに進むと道は細くなって曲がりくねり、思いがけないところに抜け道が開けている。何を目指すでもなく、ただただ道なりに歩いて、気が変わったら角を曲がろうと、最初から地図など当てにしなかったのがよかったのだろう。まちは大した予備知識もなくふらりと訪れた私たちに、様々な表情を見せてくれた。古いビルの駐車場に面した裏口にあるカフェ、路地の行き止まりでブロック塀に寄りかかっている洋食屋、お目当てのレストランは満員だったけど、もう一軒気にしていたカフェに入ることができた(さっき前を通った時は、ぴしゃりとも扉を閉ざし、てっきり閉店日だと思ったのだが)。女性店主が無愛想なのがむしろ心地よく、許しを得て、ストーブの前にちょこんと座っている店猫の頭を撫でていると、あるやなしやの尻尾を振って甘えてくる。BGMがデヴィッド・ボウイなのが気になって奥の部屋の本棚を見ると、ロンドンやグラム・ロック関係の雑誌や書籍がずらり。丁寧さと閃きを兼ね備えた料理を食べ終わり、店主に道を尋ねると、わざわざ店の前まで出て、指さしながら教えてくれる。大阪人がすべて押し付けがましく愛想とギャグを振る舞うというのは、マスコミの押し付けた偏見だと知る。


 戦災で焼けなかったために残る古い街並みをそのままに、リノベーションによりカフェやブティック、雑貨屋等が開店‥‥というと、最近よくあるまちづくり事例のようだが、これまでガイドブック片手に道頓堀や天王寺を歩き回っていた時には感じられなかった「静かな活気」がここにはある。ブティックや雑貨屋には、いささか素人臭いとは言え新鮮なデザインが並び、観光地化する前のホンデ(韓国ソウル)を思わせる。相変わらず出鱈目に散策を続け、江戸前とはまるで文様の異なる手拭屋や、ネットの紹介で「初めてでは絶対に行きつけない場所にある」と書かれていたフレンチ・レストラン等を見つける。



2.コモンカフェ
 目指す会場は通り沿いのマンションの地下にあった。天井が割と高い、小学校の教室の倍くらいの横長のスペース。客席の背後は一面の本棚が設えられていて、アート系から社会学、さらには『ガロ』まで、幅広い書目が並んでいる。ステージの背後の壁は濃い緑色に塗られ、スクリーン部分だけが白く塗り残されている。読書会やワークショップ、映画上映等の多目的に利用されるスペースであることが伝わってくる。

 さっきまでリハーサルをしていたロジャー・ターナーは、白髪頭をごく短く刈り込み、眉のあたりが厳しく張り出して、黙っていると頑固一徹な職人にしか見えない(鉢巻きが似合いそうだ)。しかし、高岡と談笑している時には、人なつこい笑顔がこぼれていた。高岡が友人たちに「今日は友達のドラマーが二人聴きに来るって言ったら、それは緊張するなあって言ってたぞ」と話している。開演までまだだいぶ時間があり、ターナーも手持ち無沙汰にしていたので、持ってきた彼参加のディスクを見せ、KONK PACK『BIG DEEP』のインサート(トリオの三人がステージ上に並んだ写真)にサインをお願いする。「これは珍しいんだよ。実は私も持ってないんだ。いいグループだったけどね」と話しながら、彼は自分の写真の輪郭からはみ出さないように注意深くペンを走らせ、えらく小さな文字で署名をしたためる。几帳面な人なんだな。きっと。
 聴衆は20名程度。フリー・インプロヴィゼーションのライヴであるにもかかわらず、半数近くが女性なのに驚く。場所に付いている客なのだろうか。



3.ターナー/高岡デュオ 第1部
 ドラム・セットの椅子に腰を下ろし、左脇に並べた何本ものスティックを選んでいたターナーが顔を上げ、高岡と視線が交わって演奏が始まる。シンコペートしたリズムと息音の交錯。マウスピースを装着したチューバに息を吹き込みながら、高岡はまずゆったりとした持続をたゆたわせ、くゆらし、少しばかり管を鳴らしてから、次第にアブストラクトなフレーズに移行していく。ターナーが眼の覚める打撃を一閃させ、リズムの網目を鮮やかに切り裂く。高岡は息音をスポスポとパーカッシヴに弾けさせ、チューバを傾け動かしながら、重音のうなりを紡いで、ターナーの連打を引き出す。
 ターナーは込み入ったリズムを滑るように編み上げ続ける。ビートは極端に細分化されながら、闊達なノリを失わない。手首から先を、あるいは肘から先を笞のようにしならせて叩き込む連打に、スネアが震え細かい破片が吹き飛ぶ。スティックを交換する間も、バスドラが急速調で鳴り続け、小シンバルや櫛の歯状の金属でドラムの打面を擦るといった音響的演奏の最中も、ほとんど音にならないほどの微妙さで、ハイハットが小刻みに踏み続けられている。ビートのつくりだす急斜面を、色とりどりの音色やリズム・フィギアが滑走し、あっと言う間に流れ去っていく。
 一方、チューバは、自らの可能性を一斉に解き放つドラムと競いあうように、音色を目一杯膨らませては絞り、ゆったりとたなびくかと思えば、バリバリと管を鳴らし、目まぐるしくフレーズを奏しながら自らを切り刻んで、楽器のスペクトルを全解放する。ここまで高岡は音具も用いなければ、マウスピースも外さず、あるがままのチューバを吹き続けている。「これで行けるところまで行こう」という静かな、しかし確固たる決意が感じられる。

 スネアの連打の最中に、ターナーが両腕の軌道をさらりと変えて、空中でスティック同士を打ち合わせて、巧みなシンコペーションを折り込んでみせる。高岡がこの日初めてボウルに手を伸ばし、ベルに放り込みミュートして、さらにうなりながら吹き続ける。グロウルによるドローンにフレーム・ドラムをかざし、スキンの振動を付け加える。ノンブレスによるロングトーンをどこまでも引き伸ばしながら、床に転がるボウルを蹴飛ばす。マウスピースを外して、吹き込む息を鋭く切る。
 ギアを入れ替えたチューバの加速に反応して、ターナーはスティックを巧みに操り、シンバルとフロア・タムを同時に打ちのめして、韓国打楽器アンサンブルを思わせる響きを生み出すかと思えば、ハイハットのシンバルを回転させ、金属片を押し付けて軋みの悲鳴を上げさせ、さらにスネアの連打へと立ち返って、リムやそれに近い部分にアタックを集中させ、より硬質に張り詰めた打撃を連ねながら、天井知らずに密度を高めていく。
 連打の怒濤に土俵際まで追いつめられ、チューバに吹き入れられる息は、曲がりくねり複雑に折り畳まれた管に砕かれて、切れ切れの破片となる。ホーミー風の倍音奏法は、やがてほとんどヴォイスと化し、一転してホラ貝のようにバリバリとチューバを吹き破りながら、菜箸で楽器の表面を擦り、息で風を切り、さらには外したマウスピースを逆さまにくわえて、赤ん坊の泣き声をあげる。

 ここで何を思ったか、高岡は、最初ボウルを載せていた小テーブルに手を伸ばし、飲みかけの缶コーヒーのアルミボトルを掴むと、蓋を開け、息を吹き込んだ。飲み残したコーヒーが床にこぼれる。さらにチューバのパイプの一部を外して鋭く吹き鳴らす。パンパイプに似た甲高い音が響き渡る。音色が鋭く絞り込まれ、反応が速い。フレーズを編み上げ、アタックを強め、声を使って一気呵成に攻め込み、土俵中央まで押し戻す。他の総てを捨てて小回りの利く「態勢」への組み替えに賭けたことが、ここに一点突破をもたらした。
 しかし、それにしても、ターナーの素晴らしさを何と言おう。不断にビートを生み出し、リズムの流れを途切れさせない仕方は、あるいはハン・ベニンクを思わせるかもしれない。ロールのキレや密度においても。しかし、彼にベニンクのパフォーマンス性はない。床を叩きながらどこかへ行ってしまうベニンクに対し、彼は椅子を一歩も離れようとしない。その分、集中と正確さにおいては、はるかに上回る。先に見た音色探求の貪欲さにおいても。それはおそらくフィル・ミントンの極端に多形的な声の変容(それはサウンドにおいて多彩であるだけでなく、そそり立つ崇高さから唾棄すべき下品さに至る幅広い感覚的かつ感情的なスペクトルを有している)との共同作業を通じて磨き上げられたものではないだろうか。フィル・ミントンとのデュオから、ロル・コックスヒル、マイク・クーパーとのThe Recedentsを経て、パンクな速度と音響的な強度を兼ね備えたKONK PACKに至る曲がりくねった彼のキャリアは、彼の演奏に驚くべき豊かさをもたらしている。その豊かさはヴォキャブラリーのレヴェルにとどまらない。展開に応じて自在に文脈を組み替え、不断に流れを生み出しながら、切断や飛躍に満ちた「即興的瞬間」が至るところに口を開けている。

 こうしたターナーの演奏の豊かさは、常に変容し続け、新しい面をさらして止まない高岡の演奏のあり方が引き出したものと言っていいだろう。ソロ/バッキング、あるいはソロ/ドローンというような固定した役割分担は見られなかった。それはせわしないカットアップの連続とも異なる。演奏/運動/聴取を通じて、演奏者の身体自体が流動に巻き込まれ、変容を余儀なくされる過程がそこにはあった。半袖Tシャツ1枚で演奏していたくせに汗びっしょりになっている高岡に、お疲れ様、すごく良かったですね、これだけではるばる大阪まで来た甲斐がありましたよと声を掛けると、いやあまだこれからですよと頼もしい言葉が返ってきた。



4.ターナー/高岡デュオ 第2部
 後半の演奏は静けさのうちに幕を開けた。息音がホワイト・ノイズ的なざらつきを見せ、ブラシによる摩擦音と混じり合う(ここでターナーはハイハットを踏んでいなかった)。そこに隙間風を思わせる甲高いピー音が差し挟まれ、微小音でリズムが疾走を開始すると、チューバを指で擦る音が応える。マウスピースもまた擦られ、グラス・ハーモニカに似た澄んだ響きを立ち上らせる。チューバはことさらにゆったり、深々と歩みながら淡い音の滲みをそこここに残し、ブラシの風切り音がそれに別の手触りを加える。管の遠鳴りや息の破裂音が風に乗って届き、ドラムによるリズミックなパターンもまた、煎り豆のように軽やかに響く。

 ターナーがアイロンの形をした金属のコテを取り出し、弓で弾いてうっすらとした倍音を香らせながら、バスドラとフロア・タムによるシンコペーションを組み立て始める。高岡がフレーム・ドラムにボウルを載せマウスピースを逆さまに押し当てて応じる。最初希薄だった応酬は次第に密度を増し、シンコペーションによって激しく身体を揺さぶりたてる律動の嵐と、ノンブレスによるロングトーンの揺らぎ、息の乱れ、つぶやきが浸透しあう。探求は微小世界へと誘われ、ターナーが金属棒をすり合わせ、さらにシンバルに触れさせて、微かな、しかし複合的な響きを漂わせれば、高岡はチューバのベルをフレーム・ドラムでミュートし、そのスキンの僅かな振動をボウルを載せてプリペアする。アタックを消去された余韻の希薄な揺らめきが、ふと浮かび上がる。こうしたミクロなやりとりの中でも、ターナーは決して「叩き」を排除しない。繊細なスティック捌きが蜘蛛の巣のように希薄な網の目を広げていく。高岡が立膝を着き、深く頭を垂れて、チューバのベルで床を擦る。今やチューバはゲリラの持つバズーカ砲のように、ターナーの頭部に照準を合わせている。最後の一撃/一吹きが高らかに鳴り響き、演奏はフィナーレを迎えた。


 終演後、いろいろな声が聞こえてきた。ずいぶんと久しぶりにこの手の演奏を聴いた(かつては一緒にジョン・ゾーンも、灰野敬二も、三上寛も聴いたのだが)妻は、いい演奏だったわねと前置きして、最初の方のチューバの演奏なんて、まるで大きな赤ん坊(=チューバ)を抱いてあやしているみたいだったと語った。
ターナーのことも高岡のことも知らず、告知のチラシを見て、チューバとドラムだけの演奏ってどんなんだろうと思って聴きに来た若い女性がいたという。彼女は大層満足して、終了後、ターナーのCDを買い求め、彼にサインをもらって行ったらしい。
 高岡のFacebookへの書き込みによると、関西ツアーのブッキングの中で、彼だけがターナー自身によるご指名とのこと。他の共演予定者たちの評判を聞いて‥ということらしいが、単に「共演経験のない楽器だから」という理由ではないだろう。予想できない事態を待ち望み、それと真摯に向かい合ったターナーの姿勢を称賛したい。彼の願いは最良のかたちで実現したというべきだろう。
 高岡の共同作業者の一人である、Blight Momentsのドラム奏者橋本達哉は、やはりFacebookに「周りに誰もおらんかったら転げ回って叫んでました」と書き込んでいた。これはすごくよくわかる気がする。ターナーの叩き出す音は、たとえそれが極小音量だったり、ビートを持たない音響的なものであったりしても、身体を揺さぶり動かす力を強烈に秘めている。それは彼がリズムや音色を幾らでも編集可能な「概念」とみなすのではなく、身体を通して生み出され、また身体へと返ってくる、身体と切り離し得ないと言うより、身体の中枢に深々と刺さっているものととらえているからだろう。『松籟夜話』第二夜での表現を引けば「身体の内部に尻尾を残した音」ということになるだろうか。もちろん、高岡が放つ音も同様の性質を有しており、パーカッシヴな噴出やリズミックなフレーズの産出のみならず、ノンブレスによるロングトーンや息音の使用にあたっても、そのぐらりと傾く揺らぎや切り裂くような鋭さを通じて、聴く者の身体を賦活し揺すぶりたてて止まない。

 そして高岡自身は「あの時、即興しました」と力強く書き込んでいる。「本当にその場の思いつきであったり、今までやったことのない事に瞬間瞬間挑戦する事って、『即興演奏』とかカテゴライズされた中ではなかなかないような気がします。そこで僕はあえて、即興、したいんです。やったことないことにトライしなかったら、それは僕にとっては即興と言い難いです」とも。ここで誤解のないように付け加えておけば、「今までやったことのない事」とは、単に新奇な企てを指すものではなかろう。今回のレヴューでは、高岡が缶コーヒーのボトルに手を伸ばす瞬間を、特権的な一瞬として描き出している。しかし、それは今回の演奏中に数多く存在した「即興的瞬間」のうちの一つに過ぎない。さらに言えば、缶コーヒーのボトルや楽器から取り外したパイプを吹き鳴らすことが、即興を保証するわけでは決してない。
 前もって準備しないことがイコール即興であり、あるいはそのようにして生み出される数多の「即興演奏」を前提として、それを裏返す/裏切るというやり方が即興演奏の新たな扉を開くかのように喧伝されている。しかし、それらは演奏を始めた時点で「それが即興演奏である」ことがすでに保証されているという致命的な勘違いを犯している。そうではなく、眼の前に立ち現われてくる一瞬一瞬に対し何に賭けるかが即興であり、こうした「即興的瞬間」はあらゆるところに口を開けている。特に今回のデュオ演奏では、一瞬への目の覚めるような賭けに総毛立つ瞬間が何度もあった。その度に新たな視界/展望が開け、めくるめく興奮と陶酔を味わうことができた。
 高岡は、ライヴ終了後の打ち上げで行った店でのターナーの様子を書き綴っているのだが、きっと彼は満面の笑みをたたえて、こう言ったのではないかと思う。「いやー、今日はダイスケに引き込まれて、思わず即興しちゃったよ」と。

 階段を上がると、心地よく火照った興奮の陰から空腹が顔を覗かせる。中崎町に寄って開いている店を探し、「大阪は意外と魚がうまいんですよ。素材のことはあまり言われないんだけど、腕のいい料理人が多いから」と高岡に教えてもらったのを思い出し、和食の店へ。調理も給仕も女性ばかりの店。突き出しが何と小ぶりの椀によそわれたけんちん汁。温かさにほっとする。グレの刺身と穴子の湯霜がおいしかった。

2015年2月26日(木)
大阪 中崎町 コモンカフェ
ロジャー・ターナー(dr,perc), 高岡大祐(tuba,objects)


ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:45:55 | トラックバック(0) | コメント(0)