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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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ハープの4つの側面 − Rhodri Davies『Pedwar』ディスク・レヴュー  Four Facets of Harp − Disk Review for Rhodri Davies "Pedwar"
PEDWAR−1 本作品はケルティック・ハープ奏者Rhodri Daviesがこれまで発表してきた3作品『Trem』(2002年)、『Over Shadows』(2007年)、『Wound Response』(2012年)と新作『An Air Swept Clean of All Distance』(2014年)の合計4作品を、それぞれLP1枚に収録して収めた4枚組みボックス・セットであり、2014年にリリースされた(250セット限定。本レヴューの最後にレーベルや規格番号、トラックリスト等の情報を記載した。国内ではFtarri等で入手可能)。アートワークはサキソフォン/オルガン奏者Jean-Luc Guinnetが担当し、ヒューモラスな可愛さをたたえた簡素でアブストラクトなデザインを提供している。





 ボックスにはDaviesがこれまでに行ってきたライヴのフライヤーの複製が多数収められており、それはもともと彼自身が捨てられずに手元に遺しておいたものに基づいている。彼は付録の小冊子で、それらは記憶の貯蔵庫であり、過去を振り返る際の参照点になると述べている。そして実際に、これまでの作品を振り返って自ら解説し、さらに複製したフライヤーを収めた16回のコンサートのそれぞれについて短い思い出を書き記している。e-bowを全面的に用いた『Over Shadows』期の演奏について、共演したDerek Baileyから、「君はこの手の道具を用いるには勿体ない優れたミュージシャンなのに」と諭されても使用を止めなかったエピソードや、弾かれた音は減衰していくしかないハープの構造に、e-bowによる「持続」が加わったことが、次作『Wound Response』への扉を開いたというあたりの「供述」はなかなか興味深い。
 また、David Toopによるライナー・ノーツが収められており、彼は「ハープ」という楽器の「古さ」にシンボリックに言及し、途中でJohn Cageによる20台のハープのための作品に触れながら、楽器の歴史を東大寺正倉院の収蔵物以前にまで遡っていく。ようやくRhodri Davies『Wound Response』に話が及んだかと思うと、彼はそこにアフリカのリズムを聴き取り、話題はKonono No.1等へと横滑りしていく。『An Air Swept Clean of All Distance』を聴いてCy Twomblyから古代へと通ずる道筋を思い描くというのも、「古代」的シンボリズム+ワールド・ミュージック的な視点に基づくものであり、全体を通じて、どうも「お仕事」的な安易さが感じられる。大風呂敷を広げるばかりで、おそらく彼にはRhodri Daviesの音楽/演奏自体を掘り下げる気があまりないのだろう。




pedwar trem 私にとって衝撃的だったのは、やはりソロ第1作『Trem』である。当時、我が国のマイナー音楽ジャーナリズムにおいては、「日本音響派」が英国に飛び火してNew London Silenceと呼ばれる、これまでの即興演奏シーンとは一線を画した新世代ムーヴメントをつくりだしたと真しやかに喧伝されており、DaviesはMark WastellやJohn Butcher(!)と共に、その一員と位置づけられていた。もちろん、これは誤解と言うよりは、意図的な事実の歪曲である。John Stevensと共演を重ねていたButcherのことは今回の主題ではないのでさて措くとしても、DaviesとWastellが主催していた「The All Angels Concerts」にはSteve BeresfordやEddie Prevost等の「旧世代」が参加し、またDaviesとWastellの2人は揃ってマルセイユでのCompany公演に参加してDerek Baileyと共演しており、これらはCDとして制作されてもいるのだから。だが、当時の我が国の即興演奏シーンのつまらなさや、それを誉め称える論者たちが持ち出す理屈のくだらなさに辟易していた私は、そうした事実確認の労を厭い、「彼らが持ち上げるからにはつまらない」とばかりに無視を決め込んでいた。『Trem』はそんな私の前に忽然と現れた。
 当時の私が『Trem』をどのように聴き、衝撃を受けたか、2004年のDavies/Butcherデュオによる来日時のライヴ・レヴュー「テムズ川は深く静かに流れる」(『News Ombaroque』vol.69掲載)から、この作品について触れた部分を引用しよう。

 虚空に明滅するソプラノ・サックス。輪郭がにじみ、そこから溶けて流れ出すような電子音。石造りの床を這う冷気の揺らめき。遠くでようやく暖まりだしたスチームパイプがカーンと甲高い音を響かせる。それらの音どもは冷たい湿気を含み重く垂れ込めた空気の中で、思い思いに様々な波紋を広げながら、決してひとつにはなろうとしない。まして、そこに置かれた1台のハープへとは収斂しようもない。ある音は身体を軋ませながら宙高く弧を描き、同じ弓奏から生み出されたもうひとつの音は、乾きしわがれて床に火花を散らしている。むしろここに働いているのは、演奏者の意図以上に演奏空間の特性による選択である。
 デイヴィスのソロ作品『トレム』は、彼と盟友マーク・ウォステル(vc)が根城としている教会オール・エンジェルズで録音されている。聖堂の圧倒的な空間ヴォリュームは、神岡鉱山の地下深くに満々とたたえられた重水がニュートリノの通過を逃さないように、微細な音すら余すことなくとらえ、ねっとりとした波紋の広がりを通じて、空間の隅々にまで伝播させていく。演奏は決して先を急がない。音数も少ない。過剰な残響の充満に盲いてしまうことのないように。だが音(群)と音(群)を隔てるしかるべき間は、波紋が遠ざかり、空間が平らかに静まるのを待つだけでなく、彼が空間を渡っていく音に眼を凝らしている時間でもある。いやむしろ、彼は水からが放った音を、そこで初めて聴いているようにすら感じられる。意識に映る音のイメージを追いかけていく指先ではなく、遥か空間を渡って届けられる音を待ち焦がれる耳がそこにある。
 (中略)こうして、空間からの呼びかけにその都度アクションで応えながら進められる演奏は、アクション自体が複数の音を同時に放つものであることも手伝って(これは弓奏を多用する結果であり、共鳴部分の多いハープの構造上の特性でもある)、必然的にずれをはらむことになる。それは全体を視野に置くことなしに、画布に顔をこすりつけるようにして次々に部分を描いていった絵に似ている。剥き出しの神経に触れてくるような感覚に鮮烈に訴える細部と、全体パースペクティヴの歪みのねじれがもたらす奇妙な生々しさ。それは、自ら放つ音がすぐさま空間に奪い取られる(空間に向けて音響を放つというよりも)ところから産み出されたものなのだ。このことは、テープを用いた表題曲の奥行きのない平板さ(本作の中で悪い意味で異彩を放っている)が、反対側から証し立てていることでもある。
 
 ここで言及している「手元から奪い去られる音」のあり方については、同じ『News Ombaroque』vol.69に掲載された別の論稿(「音響について」連載第6回)においても採りあげている。そちらについても該当部分を抜粋引用することとしよう。

 沸き上がる入道雲の向こうに筋雲が空高くたなびき、左手中頃には鱗状の羊雲が厚く層を成して垂れ込めて、一筋の飛行機雲がそれを貫いてどこまでも線を伸ばしていくと、いつの間にか足元には灰色の靄がねっとりとたゆたっている‥‥。ロードリ・ディヴィス『トレム』においては、そうしたあり得ない光景が、1台のハープから引き出された音響に拠り描き出されていく。美術館の展示室で見た慎ましい動き、手元を照らすそばから気化してしまいかねない希薄な響きが、大聖堂の最上のアコースティックを得て、このようにモノクロームながら豊かな陰影に富んだ、彫りの深い音像をかたちづくるに至ったのだろう。この感触は『トレム』の録音が行われた教会におけるコンサート・シリーズの演奏(『The All Angels Concerts 1999-2001』(Emanem)で聴くことができる)に共通している。ソロやデュオ演奏によるちっぽけなアクションが、大聖堂内の気象を揺り動かし、様々な形状の音の雲を浮かべ、あるいは霧や靄を操って、空模様を緩やかに移り変わらせていく。
 彼は演奏の仕方を規定する要因として、楽器、聴衆、空間、グループ(共演者)の経緯との関係を並列して挙げ、次のように語っている。
 「この教会では、空間の音響条件があるべき演奏の仕方を語りかけてくる‥‥『トレム』は空間と即興演奏することに深く関わっている‥‥私の音楽は、どんな場所でも同じことを演奏するというより、私がその中にいる環境に対して応答している。コール&レスポンスで演奏するのではなく、空間や自分のまわりにある音に敏感であるように‥‥。」
 ここで空間は明らかに楽器の一部となっている。広大な空間をレゾネーターとして利用するということではない。そうした部分的な機能補充ではなく、この圧倒的な環境ヴォリュームと接続されることにより、楽器は決定的な変容をきたしている。ここで楽器は空間に深く埋め込まれ、分ち難く結びつくことにより、演奏者の手元から奪い取られ、この空間の一部となっている。楽器を携えた演奏者が空間(環境世界)の中に立っているという構図はもはや成り立たず、楽器は外部の環境世界に属している。演奏は指先(あるいはその延長と言うべき様々な音具)と楽器のインターフェースにより産み出されるが、音は生まれるやいなや、すぐさま彼の手元から奪い去られてしまう。結局のところ彼は、この広大な空間により変容/増幅された圧倒的な響きとして打ち返されるものしか聴くことができないのだ。

 この後、論旨は、意識の中で鳴っている音を指先でたどるのではモノローグに過ぎず、それを「自己との対話」とするには、そこにズレを持ち込む必要があるとして、長井真理『内省の構造』(岩波書店)に触れていったりするのだが、それはさて措くとしても、その後の音盤レクチャー『耳の枠はずし』の「環境による音/響きの侵食」や、現在継続している『松籟夜話』で提唱している「環境・音響・即興」へとまっすぐにつながっていく論点が、もうここでほとんど示されていることに改めて驚かされる。すなわち、Rhodri Daviesは私にとって、「聴くこと」の新たな扉を開いてくれた、かけがえのない恩人のひとりなのだ。
試聴:


pedwar over 話が『Trem』(2002年)の衝撃ばかりに集中してしまったが、他の作品にも触れていくとしよう。続く第2作『Over Shadows』(2007年)はe-bowによる持続音が、ゆるやかにたゆたい、空間を穏やかに満たしていく。ここで改めてハープが多くの異なる材質の部品の構成物であることが前景化してくる。単に異なる音程の間のバランスだけでなく、張られた弦以外の部分をいかに共振/共鳴させるかにより、振動の密度や質感、重さや色合いが大きく変わってくるのだ。e-bowの押し当て方ひとつで、弦の張力、弦に対するミュートの度合い、弦に付属する金具類や弦が張られている枠組みへの振動の伝わり方等がすべて変化する。実際、Daviesはサブ・ハーモニクスを生じやすくするために弦を緩めに張るなど、様々なテクニックを開発したと語っている。あるいは「これはドローン・ミュージックではない」とも。ドローン=定常音に対して、耳の焦点の当たり方の移り変わりにより音色や質感が変化していくのとは異なり、『Over Shadows』では先に挙げたような多岐に渡る要素のミクロな変化により、実際に音が変容していくのであり、さらにそれを演奏者が耳で追跡しながら、次なる変化を産み出していくという、アタリを頼りに竿や糸を操る「音の釣り」的なところがある。空間を振動で満たしながら、決して充満させず、ましてや飽和させない節度溢れる演奏には、そうした注意深い眼差しが感じられる。これがドローン・ミュージックだったら、むしろサウンドを空間に徹底的に充満させ、過飽和の中で様々な空間的干渉が、サウンドの変容を産み出していくことに期待するだろう。だが、彼はそうはしない。弦に触れ続ける指先の閉じることのない傷口から、止むことなくじくじくと浸出し、滴り、溢れ続ける粘液を思わせる持続的音響を、彼はいつまでもいつまでもじっと見詰め続ける。
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/confront/confront-16.html
   http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=11811


pedwar wound 第3作『Wound Response』(2012年)は、いきなり、前2作品とは似ても似つかないファズ・ギターに似たディストーションの、途切れることのない放出で幕を開ける。音高の動きは基本的には繰り返しに基づいており、その点ではギター・リフに近い。しかし、フレーズは曖昧であり、音が欠けたり加えられたりするし、ノリも一定ではない。ここで演奏は、外見上の類似にもかかわらず、エレクトリック・ギターのリフが通常求める、確固たるノリに統率された強力な推進力にまったく興味がないようなのだ。そうしたことに気づけば、エレクトリック・ギター特有のサウンドの稠密さを目指す求心性がここには見当たらないことや、弦への指の腹のかかり具合の差異による吃音的なズレの発声、さらには歪んだリフらしきものの中で複数の弦がばらけ散乱している様子等が透けて見えてくる。後半になって、ディストーションの霧が晴れれば、ますます一本一本の弦が別々に鳴っている振動の複数性が鮮やかに浮かんでくることになる。
試聴:https://boomkat.com/vinyl/580676-rhodri-davies-wound-response


 最新作『An Air Swept Clean of All Distance』(2014年)はさらにまた全く別のものである。素早く閃くように搔き鳴らされる弦の涼やかでつましい音色には、ベトナムやミャンマーの伝統音楽を思わせるたおやかさが漂う。ふと沸き立ち薄れていく響きの雲から、一本一本の弦の柔らかな音色が次第に姿を現す。そこには朝露のきらめく蜘蛛の巣にもにた揺らぎが伴う。各指のひと連なりの動きが、それぞれ複数の弦に触れ、揺らがせる。素早い動きが響きの波紋をゆっくりと広げ、沈黙をより深く豊かで香り高いものとする。弦の張られたフレーム自体の唸りや、各弦の鳴り、響きのもつれ、ほつれが、すぐに手の届くところにある打ち解けた親密さの中に漂い、やがて散り散りにほどけていく。前作も2分から7分程度の短い演奏の集積だったが、本作に収められた各曲はさらに短く、1分から5分となっている。
試聴:http://www.thewire.co.uk/audio/tracks/listen_rhodri-davies-recordings

 このボックス・セットの表題『Pedwar』とは、Daviesの故郷であるウェールズの言葉で「4」(男性形)を意味するとのことだ。4つの作品を収めた4枚のLPのボックス・セットに付けられた名前としては、一見、あまりに芸がないというか、単純かつ直接的過ぎて、かえって何の意味も持たないように思われる。しかし、彼はこの4枚のソロ作品は、それぞれ異なる制限の下での作品であると言う。『Trem』の抽象的でもっぱら音色に関わるヴォキャブラリー、『Over Shadows』のe-bowにより持続的に振動させられた弦、そして限定した本数の弦を張った小型のハープによる『Wound Response』と『An Air Swept Clean of All Distance』と。
 「空虚と充満」、「電気増幅とアンプラグド」、「持続と断片」、「距離と近接」、「プリペアドや音具の使用の有無」、「音数の多さと少なさ」‥‥と、さらに幾つもの二項対立の基準軸を引き出すことができる。ロートレアモンの詩句「解剖台の上でのこうもり傘とミシンの出会い」における事物選択の「必然性」を構造的に分析してみせたレヴィ=ストロースなら、さらに多くの軸線を数え上げることができるだろう。
 先に触れた2004年の来日時のButcherとのデュオにおいて、Daviesはe-bowをはじめ幾つかの音具を用いたのだが、その選択はButcherの演奏に対する即時の反応ではないように見えた。眼の前で音を放つ共演者だけにフォーカスし、その一音一音に、一挙手一投足にミラー・イメージで即応するのではなく、会場である原美術館展示室のアンビエンス、アコースティック、聴衆の立てる物音を含めたバックグラウンド・ノイズ等を含めて総体としてとらえ(その中には当然、Butcherの音だけでなく自らの放つ音も含まれる)、これに対して戦略としての奏法を選択し、さらに局地的な戦術としてその時点時点での対応を判断しているように思われた。『Pedwar』に収められた4つの作品が、それぞれ一定の「制限」の下での演奏を貫徹していることに触れて、改めてそのことを思い出した。



 これまで行ってきたライヴのフライヤーの集積を、「記憶の貯蔵庫であり、過去を振り返る際の参照点」と見なすDaviesにとって、過去の演奏の録音も当然そのようなものであるだろう。連綿と紡がれ、続いていく記憶。だが、今回の『Pedwar』はおそらくこの連続体に「以前/以後」を決然と分つ「切断」をもたらすことになるだろう。「以後」の彼の演奏と早く出会いたい。今とても強くそう思わずにはいられない。抑えようのない渇望として。


 本稿は『Pedwar』の日本語によるレヴューの書き手を探しているという、Rhodri Daviesからの依頼を受けて書かれた。紹介をしてくれたFtarriの鈴木美幸に、そして何よりもそれを承諾し、音源資料等を提供してくれたRhodri Daviesに、末尾ながら感謝したい。と同時に執筆にとても長い時間がかかってしまったことをお詫びしたい。
 なお、本作品について他に日本語で書かれたレヴューとして次のものがある。ぜひ、参照していただきたい。
http://www.ele-king.net/review/album/004339/


Rhodri Davies / Pedwar
Alt. Vinyl av058x

Tracklist
A1 Cresis 8:42
A2 Undur 5:15
A3 Trem 8:30
B1 Beres 6:14
B2 Plosif 3:07
B3 Berant 5:55
B4 Atam 3:38
C1 Over Shadows Part One
D1 Over Shadows Part Two
E1 Everything At Each Moment 3:17
E2 Questions Of Middle Distance 4:17
E3 The Concentric Blaze 2:59
E4 A Parallel Or Mirroring Space 6:21
E5 Here The Sun Does Not Enter 2:48
F1 'Pivotal' Object 2:34
F2 Only Compromises Were Arrived At In The End 2:07
F3 Closed Horizontal Illumined 2:17
F4 The Convergence Of How We Got There 6:50
F5 Fulfilment Of The Event 4:17
G1 Soaked Ruins Of A Raft 2:38
G2 In Distortion-Free Mirrors 3:00
G3 The Rule Was Corroborated In Non-Ordinary Reality 3:02
G4 Each Clear And Sudden Drop Is Itself 3:56
G5 Recapitulation Of 1:12
G6 Making Anything Perishable That Can Die 1:46
G7 Continues, Placement 3:25
H1 Fingers Pluck Played On By 1:50
H2 A Cut Circle Orbit Becoming A Virtual Universe 3:40
H3 The End Of Now 2:18
H4 Outward Radiating Against 2:14
H5 Each Annulling The Next... 3:14
H6 Wet Thru Mines Stone 2:32
H7 On The Outer Reach Of The Unending 4:52

A,B = Trem
C,D = Over Shadows
E,F = Wound Response
G,H = An Air Swept Clean of All Distance



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ディスク・レヴュー | 13:33:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
タダマス「セヴンティーン」を読む  "TADA-MASU" Reads "Seventeen" and "Death of Political Youth" by Kenzaburo Oe
 益子博之と多田雅範がナヴィゲートするNYコンテンポラリー・シーン最先端の定点観測『四谷音盤茶会』(通称「タダマス」)も17回目を迎える。まずは基本的な情報を確認しておこう。なお、詳細は次のURLで各自ご確認いただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767


益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 17

2015年4月26日(日) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:山本達久(ドラム・パーカッション奏者/作曲家)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)

今回は、2015年第1 四半期(1~3月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。
ゲストには、ドラム奏者/作曲家、山本達久さんをお迎えすることになりました。ジム・オルークに“No.1ドラマー”と讃えられ、歌物からアヴァン・ロック、完全即興まで幅広いジャンルで横断的に活躍している山本さんには、DJ ECMとしても活動するディープなECMファンの貌も。近年のECMは、改めてNYのミュージシャンを積極的に録音していますが、山本さんはそうした動きをどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)


 前回の16回目で2014年を締めくくった彼らは、2015年の第1回目にあたり、どうも「爆弾」を仕込んでいるらしい。まずは多田による説明(※)を聞いてみよう。
※http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20150418より転載

さあ、みんな、ゴールデンウイークの天国を目前に、地獄の釜を覗きに来ないかい?
タダマス17へのご案内。
田中泯の自在をトーマス・モーガンに視る、などとホントウのことを言ってはいけないのだが、3年前の菊地雅章TPTトリオ来日公演以来、音盤としては新世紀の扉を瞬間垣間見せた『サンライズ』ECM以来、の、菊地雅章レコーディングを本邦初公開することができる。これがECMからのリリースじゃないのだ。
だいたいECMは菊地雅章と専属契約をしたはずなのに3年以上セカンドを制作していない。
ピアノ・トリオをベース2台にするというカルテット、単純なのに「その手があったか!」という編成で。
この集中した強度のジャズを、知らない。
一音で、一撃で、放たれる、兆候だけによる殺し合い。・・・何を言っているのだ。真の武道家は、ほんのわずかな兆候だけで、相手の攻撃の射程を読み切る、読み殺す。棋士は、ひとつの駒の動きから前後十数手の射程を読み切る、読み殺す。その音は、その音だけではない。前後の音との間合い、相手の音との無限の可能性と偶然と必然の驚愕、の、持続・・・。・・・これまた何を言っているのだ。
これを聴くと、他のジャズは、説明しすぎ、くだらないことを喋りすぎ、言いわけだらけ、クリシェのかたまり、時間の浪費に、ほんとうに付き合ってらんない。トーマス・モーガンは神だ。共演する者はみんなわかっている。
ベース2台とは、怖ろしい。おれはこのCDのワントラックを聴くたびに、集中聴取に壊れそうになってしまう。明滅する画像処理だ。ほかの音楽ではこういう体験ができない。


 『サンライズ』のトリオ、すなわち菊地雅章(p)、トーマス・モーガン(cb)、ポール・モチアン(dr)はモチアンの死去により来日を果たせず、代わりに日本で演奏したのは、モチアンをトッド・ニューフェルド(g)に入れ替えたTPTトリオだった。このトリオのライヴについて、多田は次のように書いている。

若き新皇帝トーマス・モーガンはやはりそのとおりであった。どんなシチュエイションにあっても、音を読み、共演者に解放されたスペースを提供する、いやそういう言い方は適切ではないかもしれない、リアルタイムにワンタッチで見事なシュートチャンスを作るミッドフィルダーでありながら同時に裏をかいてくぐり抜ける彼のラインを描いてもいる。彼の聴力と身体能力は21世紀のジャズをリレーしてゆくことだろう。トッド・ニューフェルドのギターは、集中と痙攣と連鎖の特質で、ラインを形成するよりは一瞬に賭けている。コードワークに遊んだり早弾き見せもしない。主にプーのピアノに触発を与えている。


 こうして見てくると、菊地雅章クワルテットによる新譜のカギがドラムにあることが浮かんでくる。TPTトリオでは外されたドラムが今回の新作では戻り、代わりにベースが2人編成に増強されている。しかもリリース元はECMから他レーベルへと移行している。
 今回のゲストがECMに詳しいドラマーの山本達久という人選は、まさにこの盤のために用意されたもののように思えてくる。これは楽しみだ。果たして、この盤を巡り、どのような見解がやりとりされるのか。あるいは皆、腕組みをしたまま黙り込んでしまうのか。いずれにせよ、自分の眼と耳で確かめに行くしかあるまい。



ライヴ/イヴェント告知 | 21:54:24 | トラックバック(0) | コメント(0)
ディスク・レヴュー 2014年6月〜12月その4  Disk Review Jun. - Dec. 2014 vol.4
 2014年後期ディスク・レヴュー第4弾はポップ・ミュージックからインストゥルメンタル篇9枚。前回ご説明したように、フィールドレコーディング的な素材や手法を用いていても、ミュジック・コンクレート的な音響構成等により、ポップ・ミュージックの視点からとらえた方が、よりその魅力が輝くと思われるものは、こちらで取り扱っている。



Ireneusz Socha / Polin
Mathka MATHK06
Ireneusz Socha(sampling,sequencing,percussion), Jaroslaw Bester(bayan), Jaroslaw Lipszyc(voice)
試聴:https://mathka.bandcamp.com/album/polin
 本作を聴くや否や、その得体の知れない奥深さに魅せられた私は、思わずFacebookに「Bayan(露西亜手風琴)と女声を軸として、微かな物音に至るまで偏執狂的に配置したコンクレート的作品。古色蒼然たる煤けたセピア色の緞帳の向こうから漏れてくる幻惑的音色。耳を傾けているうちに、自分が何を聴いているのか、だんだんわからなくなってくる」との走り書きを遺した。その後、何度となく聴き返し、いささかなりとも冷静さを取り戻した耳は、本作が絶え間ない運動に突き動かされている様を看て取る。ラジオから漏れる歪んだ声に象徴されるように、ここで音は録音/再生されることを通じて、ある種の「機械性」を帯電し、それによって自在に結びつき、組み替えられていく。ヴォイスがいつの間にか反復の魔に囚われ、ピアノのリフレインと歯車を噛み合わせる。ハープのざわめきは透き通った虫の音とひとつになり、廊下を足早に行き過ぎる足音は、サンプリングしたヴォイスを薄くスライスして並べ捏造した吃音症と響き合ううちに、濁った水音やテープの早回し音、まだ新しい雪を踏みしめる足音に変貌する。「速度」や「運動」が、このように電子音楽的なマナーで受け渡されるのに対し、Bayanは時に絹糸のように細く繊細極まりない響きを張り巡らし、指先は眼にも止まらぬ速さで鍵盤状を滑走して、あちらとこちらの断片を巧みに結びつけると同時に、こうした「運動性」を目立たぬよう覆い隠す分厚く埃っぽい古色蒼然たる緞帳の役割も果たしているのだ。ポーランド文化のユダヤ性を題材にしていることは、美しいカヴァー・アートからも容易に想像されよう。そもそもは紛れもない「ゲンダイオンガク」として制作されているのだろうが、これはやはりポップ・ミュージックとして、この後にHuman Greedまで続く作品群と横並びに聴いた方が、そのかけがえのない魅力を存分に味わえると思う。2012年作品。



Arturas Bumsteinas / Different Trains
Bolt BR R005
Arturas Bumsteinas(church organ,organ,broken glass harmonica,fieldrecordings,shortwave radio,reel-to-reel tape recorder,voice,crotales,sine wave,violin,synthesizew,clapping,flute,koto,dulcimer), Krysztof Marcinjak(guitar,singing), Chordos String Quartet, Narrators
試聴:https://bumsteinas.bandcamp.com/album/different-trains
 列車の走行音とリズミックな線路の響きに交錯するヴォイスが重ねられる。チャーチ・オルガンのか細く絞り込んだ響き。すすり鳴きさざめく弦の響き。朗読の声が正面からまっすぐに送り届けられる。空間にたなびく錆び付いた金属の軋み。くぐもった金属ボウルの音色が丸く浮かび上がる。物悲しい湿度を含んで垂れ込める弦。何度となく繰り返される電気オルガンのノスタルジックな響き。小鳥の声と鳴り交わす鐘の音。ふっと浮かび上がる弦のピチカート。この「ラジオフォニック・ドラマ」は進行をナレーションに委ねながら、穏やかな、しかし静かに張り詰めた響きを緻密に織り成していく30分近くに及ぶ1曲目。チャーチ・オルガンの瞑想的な即興演奏が、子どもたちの合唱やよりしめやかな朗唱、泡立つ水音等と重ね合わされる白昼夢的な2曲目。1936年にベルリンで録音されたヘブライの祈祷からサンプリングされたハーモニウムの古色蒼然たる響きに掠れたヴァイオリンやダルシマーのきらめきを加えた3曲目。レーベルからして「現代音楽」的作品であることは明らかなのだが、情景喚起的/物語的想像力に訴える仕方は、むしろポップ・ミュージック側から見た方が輝きを増すことだろう。


Carrie Olivia Adams, Joseph Clayton Mills, Deanna Varagona / Huntress
Suppedaneum no.5
Carrie Olivia Adams(text), Joseph Clayton Mills(electronics,fieldrecordings,piano,tape loops,guitar), Deanna Varagona(piano,cello)
試聴:http://www.suppedaneum.com/huntress.htm
 封筒に入った詩編と写真や図版を収めた50ページに及ぶ縦長の冊子にCD-Rが付属する体裁。光沢のある白表紙に表題だけが刷られた外観は、やはりJoseph Clayton Millsが手がけた『The Patient』(「ディスク・レヴューその1」を参照)をただちに連想させる。晩年のカフカのテクスト(主に筆談による会話メモ)をモチーフにした即興演奏を編集した『The Patient』に対し、本作は「月」の想念を巡る詩人と音楽家のコラボレーションと位置づけられるが、Millsによる緻密な編集加工を施されている点は変わりない。むしろ違いは、本作が極めてポエティックにつくりあげられていることにある。雨が降りしきり、雷が轟く嵐の夜に突然に鳴り出すピアノ。誰もいないはずの夜更けの大広間から響いてくるチェロ。その旋律は亡霊に拠るものであることを証し立てるように古風で濃密なロマンティシズムに染め上げられている。Noe CuellarとのデュオPartialによる偏執的な物音ブリコラージュ、Steven Hess, Adam SonderbergとのトリオHapticによる極端に繊細なエレクトロ・アコースティック・インプロヴィゼーションと八面六臂の活躍のMillsだが、自身のレーベルからのリリースであるだけに、案外本質はこうした時代錯誤的な(褒めている)文学的ロマンティシズムにあるのかもしれない。


Fossil Aerosol Mining Project / 17 Years in Ektachrome
Hand-Held Recordings HHR04
試聴:http://www.fossilaerosol.com/17Years.html
   https://soundcloud.com/robert-fossilaerosol
 1980年代初めからファウンド・サウンドを用いたアッサンブラージュ的作品を手がけている匿名的集団。虫や鳥の声に彼方から響く列車の警笛が映し出す幼年時代の夏休みの音風景は、すぐにノイジーな混乱に乗っ取られ、古い映画からサンプリングされたと思しき、ドスの利いたヴォイスが響き渡る。エレクトロニックな反復も、ノスタルジックな風景の提示も、荒れたテープ・ヒスやスクラッチ・ノイズも、聴き覚えのある物音のフラッシュバックも、見通しの効かない重層的な混濁を通じて、ここではゆっくりとうねるドローンの様相を呈している。遥かな思い出をセピア色に照らし出し、愚かな悲劇を冷ややかに見詰める眼差し。そうした手触りはGod Speed You Black Emperor !の昂まりゆく弦楽やモノローグを交えたドローン部分を思わせる。その点では極めてロック・ミュージック的であり、悲哀や不安といった感情に働きかけてくる強さと、それらの感情から逃れられない不自由さを抱えている。


Human Greed / World Fair
Omnepathy OMCD05
Michael Begg, Deryk Thomas(composed,programmed,assembled), Colin Potter(treatments) , Others
試聴:https://omnempathy.bandcamp.com/album/world-fair
 「悪夢のカーニヴァル」といった形容は、これまで様々な機会に様々な対象に向けて用いられ、その度ごとに本来の価値を陳腐さへと擦り減らしてきたと思われるが、これほどまでにそれに似つかわしい音響はこの世にあるまい。甘苦く舌に残り、重苦しく胸にのしかかる重層化した響きは、パースペクティヴを混濁させたまま当てもなくさまよい、灰燼となって風に散り飛ばされる。ナレーションに導かれる場面は闇に溶け、ずぶずぶと足元のぬかるみに沈み込んでいく。Nurse with Woundならもっとあからさまにキッチュな「ビョーキ」へと、あるいはシュルレアリスティックな無意識へと、逃走の線を引くところを、彼らはあくまでもブラッドベリ的な悪夢、古風なサーカスの舞台裏、幼年時代の夢想のホルマリン漬けの並ぶ埃だらけの地下室に留まろうとする。前作『Omega:OST』(2013年)がサーカスを題材にしながら、劇団によるステージ・パフォーマンスを前提とする「サウンドトラック」であったため、ムーヴメントやスペクタクルへの配慮を必要としたのに対し、そうした映像/視覚的運動を欠いた本作は、糞尿にまみれる赤子のように、思いっきり暗い夢想と戯れている。


Arne Deforce , Mika Vainio / Hephaestus
Editions Mego Mego 187
Arne Deforce(cello) , Mika Vainio(processing,electronics)
試聴:http://editionsmego.com/release/eMEGO-187
 レーベルのパブリック・イメージもあって、ポップ・ミュージック・サイドに割り当てたが、「インプロ耳」による聴取にも充分応えるハードコア。mori-shigeファンにもぜひ聴いてもらいたい。鋭く空間を切り裂き、響きを圧縮して密度を極限まで高め、溶けた銑鉄の如く迸らせるチェロの強度溢れる演奏を、エレクトロニクスや空間/音響操作がさらに鮮やかに解き放つ。ここでのVainioによる達成は、コンセプト重視のミニマル・テクノとは縁もゆかりもない。それはむしろドロドロの溶解物から張り詰めた形状を自在に引き出すガラス職人の技に近い。重苦しい空虚に満ちた静謐さから、振動が増幅され、破片となって飛び散り、空間を揺るがす苛烈な戦闘状態まで。なるほど鍛冶屋の神「ヘファイストス」の名を冠するにふさわしい。


Steve Gunn, Mike Cooper / Cantos de Lisboa
RVNG Intl. FRKWYS11
Steve Gunn(vocals,guitar), Mike Cooper(vocals,national tri cone guitar,electronics)
試聴:https://rvng.bandcamp.com/album/frkwys-vol-11-steve-gunn-mike-cooper-cantos-de-lisboa
   http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=14867
 アコースティック・ギターのアルぺジオを紡ぐ指先から、ゆるやかに世界が流れ出し、みるみるうちに空が白んで、密やかに夜が明けていく。この心地よいまどろみからの目覚めの感覚だけで、もう手放しで賞賛してしまいたくなる。もちろんスライド・ギターの自在にして技巧を徒らにひけらかすことのない絶妙な配合具合や、逆回転トラックの控えめな、しかし効果的な使用、弦のノイジーな軋みやエレクトロニクスの爆発の向こう側で褪色した8mmフィルムから溢れ出る思い出等、聴き進めながら何度も大きく頷いてしまう心憎い仕上がり。カントリーやブルーグラス的な乾いた晴れやかさ(湿度の高い哀感に裏打ちされながらも)に溢れながら、カントリーやブルーグラスには収まらないし、歌は入っているが歌ものでもないし、もちろんギター・インストでもない。


Carate Urio Orchestra / Sparrow Mountain
Klein 02
Joachim Badenhorst(clarinet,bass clarinet,tenor saxophone,vocal), Eirikur Orri Olafsson(trumpet,vocal), Frantz Loriot(viola), Nico Roig(guitar,vocal), Brice Soniano(double bass,vocal), Pascal Niggenkemper(double bass), Sean Carpio(drums,guitar,vocal)
試聴:http://joachimbadenhorst.com/KLEIN.html
   https://carateurio.bandcamp.com
 音響的インプロヴィゼーションの枠でソロによる即興演奏『Forest//Mori』を採りあげたBadenhorstによる大編成バンド。あちらが「心霊写真」なら、こちらは古い絵はがきといったところか。音響的な希薄さも、控えめな点描も、思春期特有の気恥ずかしさをたたえたギター・リフも、妙に堂に入ったいささか古風なグループ・アンサンブルも、ヘタウマなヴォーカルも、夢見心地なノスタルジアも、Robert Wyattを思わせる透明な哀感に包まれたコーラスとトランペットのリリカルな響きも、柔らかな陽射しに包まれたちっぽけな日だまりの温もりの中にあるものは、すべてここにある。夢うつつの幻のように、色褪せた家族旅行の写真のように、いまとなってはもうはっきりと思い出せないトラウマのように、誰のものだかよくわからない思い出がゆるやかに巡るように。2013年作品。紙製のジャケットをさらに大判の紙で包んである。机の引き出しの奥から出てきた、渡し損ねたプレゼントのように。


Lino Carpa Vaccina / Antico Adagio
Die Schachtel DS27CD
Lino "Carpa" Vaccina(vibraphone,marimba,tablas,wooden drums,darbuka,cymbals,gong,metal sheets,bells,bass drum,tom,snare,piano,voice), Dana Matus(voice,percussions,cetre), Juri Camisasca(voice), Mario Mazza(oboe)
試聴:http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=16158
   https://www.youtube.com/watch?v=p1kTJCxIlgs
 アフリカのリズムに突き動かされる中近東の調べを東南アジアの音色で‥と、民族音楽の探求というより、むしろ民族楽器の音色配合の錬金術へと傾倒したイタリアの実験的ロック・グループAktualaを、第1作発表後に脱退した打楽器奏者のソロ作品(1978年)の再発。金属片のきらきらとした輝きがつくりだす軽やかな舞踏、冥府下り的な重層的ヴォイス、Alvin Curranの70年代ソロ作品を思わせる瞑想的な楽園性と、2作目以降、より土臭さを増したAktualaとは対照的な、馨しき天上の響きがここにある。なお、CD版はLP版では別盤となっているFrammenti Da Antico Adagio(inedits)を併せて収録している。本編、追加部分とも最後に収録された長めの曲での、ゆったりとしたマリンバの揺らめきとオーボエ(とヴァイオリン)が織り成す妙なる調べの素肌を伝う指先のような滑らかさが素晴らしい。



ディスク・レヴュー | 23:36:17 | トラックバック(0) | コメント(0)
ディスク・レヴュー 2014年6月〜12月その3  Disk Review Jun. - Dec. 2014 vol.3
 2014年後期ディスク・レヴュー第3弾は、フィールドレコーディングやドローンからの9枚。前回、前々回に比べやや少ないなのは、フィールドレコーディング的な素材や手法を用いながら、ミュジック・コンクレート風に緻密に構成された作品群、Ireneusz Socha『Polin』(Mathka)、Joseph Clayton Millsらによる『Huntress』(Suppedaneum)、Arturas Bumsteinas『Different Trains』(Bolt)、Fossil Aerosol Mining Project『17 Years in Ektachrome』(Hand-Held Rcordings)等を、ポップ・ミュージック枠で取り扱うことにしたせいだ。理由はと言えば、ポスト・プロダクションによる音響操作や緻密な編集構成が、今回の高岡大祐『女木島』のレヴューで触れた「フィールドレコーディング特有の冷ややかな視線、機械の聴覚の異質性」を損ない、「耳の凝視」の強度を欠くように思われるからなのだが、もちろん失うことを通じて得るものも多い。それらを評価するのは、スタジオやMTRを楽器として活用するポップ・ミュージックの視点にほかなるまい。



David Michael, Slavek Kwi / Mmabolela
Gruenrekorder Guruen 144
David Michael(fieldrecording,editing), Slavek Kwi(fieldrecording,editing)
試聴:http://www.gruenrekorder.de/?page_id=12575
 この耳の視界に飛び込み、突き刺さる音響の鋭さ/鮮やかさは一体何なのだろう(折り畳まれたジャケットの内側に収められた、巨大なミミズだかヤスデだかの、心臓によくない写真波のインパクトがある)。よくある背景をぼかして、手前の対象をくっきりと際立たせるというやり方ではない。奥行きのパースペクティヴをしっかりと保って、どこまでも見通せる透明性を持ちながら、なおかつ音は痛いほど皮膚に食い込んでくる。見知らぬ音に惹きつけられ耳がそばだてられ、音源を耳元にたぐり寄せるように聴覚がブーストされる、あのプロセスが随所で起こっているようなのだ。その結果、奥行きへと向かって整序されていたかに思えた空間のパースペクティヴは、距離を欠いた聴覚断片のモザイクへと変貌し、視点を移動しながら撮影したスナップショットを並べて構成したDavid Hockneyの異形なパースペクティヴを思わせるものとなっている。この不可思議さに魅せられ何度となく聴き返しているのだが、依然、謎は深まるばかりだ。かろうじてひとつ言えるのはFrancisco Lopez『La Selva』との比較で言えば、過剰ではあるが飽和せず、稠密ではあるが充満しないということなのだろう。熱帯雨林に生息する生物、とりわけ昆虫の驚くべき多様性は、かつて博物学者たちに「種」の存在を疑わせ、単に個物の果てしないヴァリエーションの連鎖があるだけではないかとまで考えるに至らせたわけだが、ここにはそうした自然の驚異に対するあからさまな抵抗が看て取れる。随所に見られる痛々しい傷跡のような編集の痕跡においてもまた。


Frederic Nogray / Merua
Unfathomless U23
Frederic Nogray (fieldrecording,editing)
試聴:https://unfathomless.wordpress.com/releases/u23-frederic-nogray/
 船のエンジン音が止むと、聴き手は辺りを包み、天へとたちのぼる虫の音の充満のうちに、ぽつんとひとり取り残される。微かな水音や足音。別の水の流れが次第に大きくなり、耳の視界の中央を占める。とたんに機内で聴くジェット機のエンジン音を数倍にした轟音が辺りを包む。にもかかわらず、虫の音は変わることなく一定に響き、そこに鳥の声も混じるから、フィールドレコーディングした音素材を重ね合わせているに相違あるまい。耳に迫る音世界の鮮明さ/迫真性は、決して前掲作に引けを取らない。だが、ここで前景化するのは鳥や虫の声ではなく、雨音であり、波のしぶきであり、先のジェット機のエンジン音(に聴こえる濁流の響きなのだろうか)であり、つまりは個別の点景ではなく、集合的な(あるいは複合的/構成的な)音景が異様なまでに圧倒的なプレゼンスで聴き手の身体に肉迫してくるのだ。ジャケットにはNograyによる「解説」として「この夢のようなコンポジションは、Merua(ホンジュラスの北岸)が遺した印象と数年前にペルーのアマゾン熱帯雨林で得たシャーマニックな体験の印象を共に編曲したものである」と記されている。確かにここには、常に「いつの間にか○○している」の連続であるような、飛躍を意識させずに瞬時に移動し、時間の流れを跳躍して、「あちら」と「こちら」、「あの時」と「この時」を自在に結びつけ、同時に体験してしまう異次元的な感覚が、ふつふつと息づいている。むしろ覚めることのない悪夢の感覚。エコーもファズもドローンもないが、すこぶるサイケデリック。200枚限定。


Francisco Lopez / Obatala - Ibofanga
無番号(The Epoche Collection - vol.3)
Francisco Lopez (fieldrecording,editing)
試聴:http://www.art-into-life.com/phone/product/5208
 Lopezの「熱帯雨林モノ」の代表作というべき『La Selva』の眼の眩むような圧倒的充満、オールオーヴァーな多焦点的広がりはここにはない。音は巧みに整理され、そこここに響く虫の音が、節度あるパースペクティヴを保っているようにすら見える。しかし、眼前に広がるサウンドスケープに耳を差し入れるならば、ここに示されている音響が巧妙に重層化され、互い違いに重なり合って、奥行きを見通すことが叶わないのに気づくだろう。
ハレーションをもたらす眩暈を誘わない代わりに、特定の響きに合わせたつもりの耳の視線は、いつの間にか他の響きへと横滑りしてしまい、音景を揺らぎや不整合をはらんだエレクトロニカ的な「反復」の集合ととらえている。一方、そのすぐ裏側では手前の虫の音の変容した反響や雨音、あるいは何物ともつかないざわめきが絶えることのない催眠的な変形を続けていて、時折、音景色がきっぱりと切り替わるたびに、いま何を聴いていたのかと途方に暮れることになる。300枚限定。


Yiorgis Sakellariou / Klaipeda
Unfathomless U24
Yiorgis Sakellariou(fieldrecording,editing)
試聴:https://unfathomless.wordpress.com/releases/u24-yiorgis-sakellariou/
 リトアニアの街や隣接して広がる森で収録した音源は、得体の知れない超低音の振動から始まる。その後も豊かに鳴き交わす小鳥や響き渡る虫の音に耳を傾けながら、通過する飛行機や作業機械の動作音、爆発音(発破を仕掛けているのだろうか)等が臆面もなく侵入してくることを隠そうとしないどころか、執拗に繰り返しさえする。同様に凄まじい水音が突然に噴出し、急に大雨が振り出し、作業ノイズの向こうに合唱らしきものが浮かぶ等、編集の跡もまたあからさまに示され、耳の視界は突然に切り替わる。暴力的な切断。それは雨音が高まったかと思うと、突然に遠ざかり、軒先からの滴りに焦点が合わされるといったように、屋外から屋内への耳の視点の移動によっても、またもたらされる。壁を通して聴く遠い雨音には、時折雷鳴のような響きが混じり、通過する飛行機や機械の動作音もまた回帰してくる。熱帯雨林に向けられたマイクロフォンが、獣や鳥、虫の声や、風や葉擦れの音、雨音やせせらぎの濃密な交響に耳を澄ますのに対し、ここで街に、そして隣り合う森に向けられた耳の視線は、響きの記憶を重層的に圧縮し、魅惑的な混淆物をかたちづくっている。200枚限定。


Simon Whetham / Never So Alone
Cronica 073-2013
Simon Whetham (fieldrecording,editing)
試聴:http://www.cronicaelectronica.org/?p=073
   http://cronica.bandcamp.com/album/never-so-alone
 巨大な空洞を風が吹き抜ける響きなのだろうか、虚ろな音がこだまする中、おそらくは吊るされた金物が風に揺れてせわしなくぶつかりあい、ブランコがキーキーと軋んでいる。虚ろな風の響きに電子音の繰り返しが重なり、その手前に浮かび上がる、小石をいじるようなカタカタと乾いたちっぽけな響きを、ますます小さなものにしてしまう。風の音はいよいよ強まり、すっかりパースペクティヴを欠いて、眼前を圧するほど巨大化しする。手前にぴちゃぴちゃとぬかるみの音が響く。空間を包み込む薄暗く茫漠としてとらえどころのない響きの移ろいと、手前に像を結ぶちっぽけな動作/物音の展開。時折きらめくはっとするほど美しい響きをよそに、すでにしてこうした構図自体が、見知らぬ街を当てもなく彷徨する者の不安や寂寥感をじくじくと分泌しており、時には圧倒的な「音の壁」が出現して、聴覚を、身体を、周囲に広がっているはずの現実世界から切り離すに至る(すべての音源はリスボンでフィールドレコーディングされた)。Whethamの作品は、やはりこうした暗いものの方が出来がいい。2013年作品。


高岡大祐(Daisuke Takaoka) / 女木島(Megixima)
Blowbass solosolo-006
Daisuke Takaoka(tuba,fieldrecording)
試聴:
 ある日突然ひとりになれるところへ行きたいと思って旅立った、香川県高松市沖の女木島における滞在中のフィールドレコーディング。チューバを練習し、音を録音し、食料を手に入れるために釣りをする日々が、そのまままるごと、ここには収められている。様々な速度/強度の息や口腔で生み出すことの出来る多種多様なノイズを、チューバの曲がりくねった管に吹き込む試みは、拡張奏法の開発というより、異言症(グロッソラリア)の発作のようにしか聴こえない。耳が響きを聴き取って息や口唇をコントロールしているというより、息と管内の気流、そして周囲の気圧の間の動的平衡が暴走して、高岡の身体から、音としての確固たる輪郭を持たず、ぐずぐずに溶解した骨無しの不定形(アンフォルム)の、言わば「声のヒルコ(蛭子)」を、聴取など到底追いつかぬ勢いで吸い出し噴き出させている‥とでもいった印象なのだ。島人たちが日常的に交わす会話のあっけらかんとした残酷さを含め、諸星大二郎的世界とでも言おうか。本作に収録されたトラックの過半を占めるチューバの練習を、インプロヴィゼーションと位置づけることも可能なのに、なぜ本作をこの枠に割り当てたかと言えば、チューバの音響にも、島人の話にも、釣りをしている間に過ぎゆく時間にも、フィールドレコーディング特有の冷ややかな視線、機械の聴覚の異質性が向けられており、そのことが隠しようもなく明らかになっているからにほかならない。


Daniela Fromberg, Stefan Roigk / Doublette
Edition Kunstraum Michael Barthel 無番号
sound:heaters,flue,ventilator,water dripping,chimney sweeping,vibrations,demolition work,removing of ceiling beams,deconstructing the scaffolding,blow torch,buzzer
試聴:http://www.art-into-life.com/phone/product/5582
   http://omega-point.shop-pro.jp/?pid=88113623
 ミント・グリーンのベネチアン・ブラインドを組み合わせたコンストラクションと壁面に取り付けられたスピーカーから放出される音響(『Heat』)と、廃物の木製ガラス窓枠を組み合わせたコンストラクションとガラス面に装着したスピーカーから(『Transition』)という、二つのインスタレーションの音響を収める。前者は水音とその変容体(電子的変調ではなく、録音の際の耳の視点の相違が差異を生み出しているのだろう)が背景ノイズに浮き沈みする中、手前にふと物音が現れる。むしろスクエアな空間の広がり/形状が硬調のトーンで映し出される印象。後者では背景音がより明確に機械の動作音による構成へと置き換わり、響きに巨大な質量と拡大された距離が触知されるが、サウンドの硬質な冷ややかさは変わることがない。50部限定。



Craig Shepard / On Foot:Brooklyn
Edition Wandelweiser Records EWR 1303
Katie Porter(clarinet), Devin Maxwell(snare drum,glockenspiel), Jack Callahan(melodica,triangle,bottles),Erik Carlson(violin), Nick Didkovsky(electric guitar), Dan Joseph(hammer dulcimer), Larry Polansky(electric guitar), Mathew Scumer(baritone saxophone), Kristen McKeon(alto saxophone), Erin Rogers(tenor saxophone), Craig Shepard(music,text)
試聴:https://craigshepard.bandcamp.com
   http://www.onfoot.org/onfootbrooklyn
 様々なロケーションでの野外演奏のフィールドレコーディング。と言っても、よくある「名所絵」的な構図とは程遠い。まず、その場に特有のサウンドスケープのじっくりと時間をかけた提示があり、演奏はそこにうっすらと香りを付けるように加えられる。ことさらにアンビエント的でも、かといって街頭ハプニング的でもない演奏は、本当にその場で演奏されているものなのか、後から付け加えられたものなのか、実のところ聴覚だけでは判断できない。ひとつ言えるのは、それらが音楽としての輪郭を有していながら、かと言って自己を徒らに際立たせることなく、すでにある風景の傍らにさりげなく佇んでいる‥‥ということだ。そう、ここでの主役はあくまでも「場の音」であり、映像にたとえるなら、演奏はその場で鳴っていて、なおかつその姿はスクリーンに映らない、すなわちフレームの外から聴こえてくるように感じられる。我々は外界の一部をフレームで切り取って、それを風景として眺め、慈しみ、愛でる。それが絵画や写真であれば、フレームの外部は存在せず、フレームの、すなわち風景の完結性はより確かなものとなる。しかし、聴覚は原理的にそうした完結性を持たない。それゆえ、弛緩しきった音が安逸に横たわるだけの「ヒーリング・ミュージック」に、せめてもの彩りにと、遠くで遊ぶ子どもの声やら小鳥の声といった切断され、ひからびた貧しい心象風景を「添加」することが行われる。ここでは話は逆だ。我々の外部にある「風景」の、そのフレーミングの外側に、さらに世界が広がり息づいていることを明らかにするために、演奏は付け加えられる。2013年作品。


Gilles Aubry / The Amplification of Souls
Adocs Publishing
Gilles Aubry(fieldrecording,editing)
試聴:http://www.earpolitics.net/projects/the-amplification-of-souls-bookcd-on-adocs-to-be-released-end-of-sept-2014/
 コンゴの首都キンシャサの市街、及び市内のペンテコステ派教会における集会のフィールドレコーディング。付属のB6版78ページの冊子(むしろこちらがメインで、CDの方が付属資料なのだが)には、Aubryが収録した音源を用いて行ったサウンド・インスタレーションに対するレヴューと今回のプロジェクトに関するAubryへのインタヴューが収められている。その内容の紹介は私の手に余るが、Murray Schaferが人間のつくりだすノイズにより汚染されたサウンドスケープを「ロー・ファイ」と呼び、貶めていたことに対する批判は興味深い。実際、キンシャサにおいて電気増幅に拠る歪みやハウリングは、もはやサウンドの欠かせない、そして活き活きとした一部となっているのだ(その点でChristina Kubischによる昨年の傑作『Mosaique Mosaic』と似ている)。特に市街各所で収録された音源のコラージュとなっている1曲目において、マイク・テストから始まる電気増幅された声やギターの音は、手前を横切る人々の声や自動車の交通騒音と明らかに異なる手触りを有しており、パースペクティヴの凄まじいばかりの混乱にもかかわらず、くっきりと浮かび上がる。対して教会に集う群衆の間に入り込んだ2曲目においては、電気増幅された説教(というかアジテーションというか)に熱狂した人々が口々に叫び、さらにはそうした人々もまたマイクを向けられて、混沌としたやりとりが増幅放射され、恐るべきカオスをつくりだす(ゴスペルを一斉に唱和するような「調和」などどこにも存在しない)。Aubryは人々の間を泳ぎ回りながら、あちこちにマイクを向ける。その様は『神聖騎士』でヴードゥー儀式のトランスをキャメラで撮影したマヤ・デーレンにも似て、人々の興奮に自らを溶け込ましているようだ。映像人類学において、フィルムが何をとらえ記録できるかが論じられたように、録音の可能性が論じられなければならないだろう。ひとつ言えるのは、視覚像を欠くことにより、対象化ための(あるいは対象化による)「距離」を確保できないがゆえに、録音の聴取は境界/輪郭の溶解による同一化の圧力を、(音声を伴う)映像よりもはるかに強烈に受けるということだ。聴いていて、ほとんど集団悪魔払いの現場に放り込まれたような恐怖を覚える。ぼんやりとした響きの「染み」からカイロ市街の雑踏がむくむくと姿を現す前作の魔術的驚きはないが、ここには録音機器が鮮明にとらえてしまう「現実」への痛烈極まりない批評があり、それはまた別種の足元を揺さぶるような驚きを与えてくれる。そこには確かに同種の眼差しや手つきが横たわっているように感じられる。

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ディスク・レヴュー 2014年6月〜12月その2  Disk Review Jun. - Dec. 2014 vol.2
 2014年後期ディスク・レヴュー第2弾は器楽的インプロヴィゼーションからの14枚。前回の「その1」で採りあげた音響的インプロヴィゼーションの作品群について、原田正夫から「クラリネットとソプラノ・サックスばかり」と指摘されて思わず「なるほど」と唸ったが、今回の選盤では、Michel Donedaを例外として、ピアノと弦楽器が主体となっている。楽器特有の音色というか、「皮膚の薄さ」みたいなものが分かれ目となっていることは容易に想像できるが、と同時に例外であるDonedaの特異性が照らし出され、くっきりと浮かび上がることにもなってくる。



Christian Wolff / Pianist: Pieces performed by Philip Thomas
Sub Rosa SR389
Philip Thomas(piano,prepared piano)
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/SR389CD.html
   http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=19167
 洗練された、とはこの場合、徹底した濾過により不純物を取り除いた‥ということであり、また同様に鍵盤/アクションの重さも調性的重力も徹頭徹尾排した‥ということであるのだが、そうした果てに開けるフェルドマネスクな優美さは、このところの即興演奏の傾向にとって、救いようのないほど甘美な落とし穴ではないかと思う。対してヴォルフの作曲作品から生まれる響きは、そうした「蜃気楼化」とは縁もゆかりもない路傍の小石のような素っ気なさと確かな手触りに満ち満ちている。残酷なまでに開かれた空間にあって、音は転がり、飛び交い、すれ違い、ぶつかり合う。だがピアノの演奏により眼の前に視界として開けるのは、その限られた一部分だけだ。キャメラのフレームの中に、外から突然飛び込んでくる音が、一瞬だけ描き出す交錯の軌跡。彼の作品はそうした瞬間の敷き重ねとしてできている。『ジョン・ケージ・ショック』で聴かれた、張り詰めた沈黙とそそり立つ音の壁はここにはない。音は積み重なることなく、線すらほとんど描こうとしない。ましてや緊密な構造を築き上げることなど。そこでは「即興的瞬間」が、至るところに口を開けている。全3枚組のうち、たまたま通りかかった音たちの連なりがフレーズやリズムを擬態し始めるCD2やCD3に収録された2000年代の作品よりも、CD1所収の1950年代の作品に、荒れ果てた風通しの良さを感じずにはいられない。


Morton Feldman / Two Pianos and other pieces, 1953 - 1969
another timbre at81x2
John Tilbury(piano), Philip Thomas(piano), Catherine Laws(piano), Mark Knoop(piano), Anton Lukoszevieze(cell), Seth Woods(cello), Mira Benjamin(violin), Linda Jankowska(violin), Rodrigo Constanzo(percussion), Taneli Clarke(percussion), Naomi Atherton(horn), Barrie Webb(trombone)
試聴:http://www.anothertimbre.com/feldmanpiano.html
 前稿でフェルドマンをけなしておきながら、すぐさまそのフェルドマンの作品集を採りあげる理由は、フェルドマン作品の演奏をはじめ、フェルドマネスクな振る舞いの多くとは異なり、ここでは音が冷え冷えとした固い芯と冷たい密度/質量を有していることにある。希薄さに憧れ、自らを早急に消去してしまおうとする短絡志向の代わりに、隠しようもない音の身体の鈍重さを研ぎ澄ますべく向けられる耳の視線の鋭敏さがある。
 冷たく張り詰めた水面から、さらに厳しく冷えきった大気へとたちのぼる「湯気」。私にとってフェルドマンの作品は、その無重力性を含め、ほとんどそうした「湯気」のたゆたいとしてあるのだが、ここではピアノの筐体のうなりや、ペダルによる弦の制動の手応え、ハンマー・アクションの重み等が、先に述べた密度/質量の硬いしこりのような手触りを与える。だが、それにしても見事な演奏/録音だ。代表作品として長大な弦楽四重奏曲やオーケストラ作品も挙げられるフェルドマンだが、ここでの演奏を聴いていると、すべてはまずピアノのために、ピアノによって書かれたのだと思わざるを得ない。


John Edwards, Mark Sanders, John Tilbury / A Field Perpetually at the Edge of Disorder
Fataka Fataka 9
John Edwards(double bass), Mark Sanders(drums,percussion), John Tilbury(bird calls,piano,tape)
試聴:http://recordings.fataka.net/products/529458-a-field-perpetually-at-the-edge-of-disorder-john-edwards-mark-sanders-john-tilbury-fataka-9
 John Tilbury再び。一聴、ゆるやかな倍音のたゆたいはフェルドマネスクな洗練を予想させるが、すぐに凍てついた打鍵の厳しさ、内部奏法による弦のくぐもった交響がつくりだすぞっとするような虚ろさ、プリペアドによる響きのマテリアルな輝き等に冷水を浴びせかけられ、眼が覚める。先に述べたプリペアドや内部奏法はもちろん、単音のトリルやコード弾きの響きの滲ませ方等、ピアノの多面的な力能を自在に操って、多方向へと同時多発的に展開するTilburyの魔法見たいな手さばきを、他の二人は、天才ドリブラーを迎え撃つディフェンダーのように、距離を詰めすぎず、しかるべきスペースを保ってフォローする。この距離感がここでの演奏を特別なものにしている。通常のピアノ・トリオだったら、もっと遠いか、もっと近いかのいずれかだろう。遠くからフレーズやリズム・パターンを投げ交わしあうのでもなく、近接戦で身体を触れ合わせながらアクションの応酬を繰り広げるのでもなく、まさに一音一音の響きのぶつかり合い/溶け合いの次元で、事態は進行する。音の輪郭が明確な部分が多いため、昨年のベストと言うべきJohn Butcher,Thomas Lehn,John Tilbury『Exta』(Fataka)の幽明境をさまよう感覚はないのだが。昨年のベスト選にあちこちで挙げられていたSophie Agnel,John Edwards,Steve Noble『Meteo』(Clean Feed)も充分に優れた演奏なのだが、本作と並べて聴くといささか色褪せる。「ピアノ・トリオの革命」というよりは別次元か。Fatakaに拍手を。


Ishmael Wadada Leo Smith, John Tilbury / Bishopsgate Concert
Treader trd021
Ishmael Wadada Leo Smith(trumpet,zurna), John Tilbury(piano,prepared piano,bird whistle)
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=bx7bDoY5Umg
 John Tilbury三たび。この爺さんは何なんだ。ちなみにJohn Tilbury 79歳、Ishmael Wadada Leo Smith 73歳。各々のソロとデュオを収める。Tilburyの響きと滲み、手触りと奥行き、の交錯がるくるめく世界を開いていく演奏に対し、Leo Smithはさながらサウンドの筆を振るって、ゆらりとたなびく線と、細やかに震える斑紋と、一気呵成にまっすぐ引かれた軌跡により、響きの「書」を描き上げる趣。空間の広がりを活かし、トランペットは固有のヴォイス/叫びの地平を蹴立てて、よりアブストラクトで、より具体的に音響でしかないような次元へと踏み出している(匿名的なノイズの発生装置としてのズルナもまた)。Tilburyはそれを懐深く迎え入れつつ、自らの音の網目を敷き重ねる(時に直接的なアクションの応酬、よくあるフリーなやりとりに陥ってしまっている場面もないではないのだが)。こちらにTilburyがいて、あちらにLeo Smithがいて、そこに対話が生まれるというより、どちらのものでもない二人の間の領域に、やはり二人のどちらのものでもない響きが浮かび上がる。


Hugh Vincent, Yasumune Morishige / Fragment
Improvising Being ib28
Hugh Vincent(cello), Yasumune Morishige(cello)
試聴:https://julienpalomo.bandcamp.com/track/fragment-i
 音が二つながら一つになって噴き出してくる。フレーズの投げ交わしによる対話などではなく、エッシャー描くところの互いをペンで素描し合う右手と左手のように、両者は互いを分つべき距離を欠いて、ぴたりと肌を重ね合うところから演奏を始める。そこでのやりとりは、たとえば昆虫の生活世界において、分泌物の濃度変化がたちまちに生理的反応を引き起こすように直接的だ。叩く音、擦る音、掠れと軋み、引き絞られる弦の張力、楽器を表面を滑る掌。とりわけ特徴的なのは、弓の背を用いたアルコにより生み出しているのだろうか、ミッシェル・ドネダがソプラノ・サックスから引き出す「息音」にも似た、微かに泡立ちを含んで迸る音の流れの使用である。それは弦を振動させずに、その隙を突いて滑り出る、すばしこい細流にほかならず、弦に弓を極端に強く押し当てて生み出す、圧縮され張り裂けんばかりの軋轢に満ち満ちた重苦しく震える音色と鮮やかな対照を描く。ふと漏らしてしまう吐息のようにすべてに一歩先んじる前者と、口ごもり、言いよどみ、乾いた舌が上あごに貼り付いて、痛々しい吃音に至る後者。二人の絡みの相互浸透的な濃密さは、ほとんど器楽演奏の極みに達している。


Michael Francis Duch / Tomba Emmanuelle
Sofa SOFA543
Michael Francis Duch(contrabass,voice)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=20322
 コントラバスの弓弾きが果てしなく繰り返される。ゆるやかに張り詰めた弓の往復が生み出す凝縮された響きが、会場である美術館の暗く冷たく重々しい空気に深々と切り込み、彫り刻んでいく。固い床や壁に反射し、空間を駆け巡った音は、海から蒸発した水がやがて雨となって山々に降り注ぐように、自らの生まれた場所へと還り、弓の往復に巻き付いて膨らませ、さらに響きを豊かなものとしていく。やがて音は仰ぎ見る広大な空間全体を揺り動かすに至る。『エマニュエルの墓』との表題が気になって調べてみると、本作は音楽祭の委嘱により、ノルウェーのアーティストEmanuel Vigerandの作品を収蔵した、彼の名を冠する美術館の中の大霊廟で行われた演奏だった。写真を見ると、ゆるやかに湾曲し天井と一体となった壁面をフレスコ画で埋め尽くした洞窟様の空間は、まるで胎内を思わせるなまめかしいものとなっている。墓=胎内という輪廻の中で共鳴/共振点を探りながら続けられる演奏は、この空間を遍く満たす羊水を呼吸するものとなった。


Cenk Ergun / Nana
Carrier Records CARRIER 025
So Percussion(percussion ensemble), Joan Jeanrenaud(cello)
試聴:http://carrierrecords.com/index.php?album=cenk&category=all&artist=none
 1曲目の金属調律打楽器(おそらくはヴィブラフォンやグロッケンシュピール等)のちらつくような交錯や共振のループ形成、あるいは倍音のたゆたいにフォーカスした演奏は、Alvin Lucier「Silver Street Car」やNick HenniesとGreg Stuartのデュオを思い浮かべさせるが、ここでの演奏は打撃の間合いや音程の間の干渉をコントロールするよりも、前掲作同様、空間を呼吸することを思い描いている。対して2曲目は一人のチェロ奏者の多重録音による四重奏曲。亀裂が断層を生じ、ズレが累積して波紋を広げていくような統合失調症的構成を持つ。歩みを緩めて止まりかける向こうにすっと走り出す影が浮かび、ふと歌い始めた調べがズレながら重なり合い、かたやピチカートが句読点を打つという具合。


Natural Morta / Decay
FMR Records FMRCD361-0914
Frantz Loriot(viola,objects), Sean Ali(contrabass,objects), Carlo Costa(drums,percussion)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=18466
 絶え間ない弦の軋み。間を置いた控えめなピチカートと弓弾き。パタパタとブラシで奏されるスネア。それぞれ別の層を動く響きが時に時間軸状で重なり合い、時に空間座標上で遠く離れながら線を結び合う。引き絞られる弦。柔らかく鳴り響くシンバル。掻きむしられる弦とネック。彼らは互いに背を向け合い、壁の方を向いて各自の作業に取り組む(たぶん)。尖らした硬い鉛筆で描いたような、線の細い乾き切った響きは決して溶け合うことなく、孤独な彷徨を続け、空間にすぐに消え失せてしまう希薄な軌跡を描く。匂い立つような金属質の倍音、遠ざかるタムの足音、低く唸り続ける弦。ばらばらに動いていた音が、ふとした拍子に同期の兆しを見せ、集い始めたところで、はらはらとこぼれ落ちて、出来かけた定型をさらさらと崩していく流動。そこからまた新たな響きが芽吹く。2013年作品。


Populista Presents Ralf Meintz, Karolina Ossowska, Mikolaj Palosz play Giuseppe Tartini La Sonata in Sol Minore Al Terzo Suono
Bolt BR POP10
Karolina Ossowska(violin), Mikolaj Palosz(cello), Ralf Meintz(sound design)
試聴:http://www.art-into-life.com/phone/product/5481
 「悪魔のトリル」で知られるイタリアン・バロックの作曲家/ヴァイオリニスト、ジュセッペ・タルティーニの作品を、引き伸ばされた強靭な持続の下、抑揚や装飾音一切無しで弾き切った結果、ほとんどTony Conradを思わせるミクロな衝突と軋轢に満ちた世界が姿を現す。ヴァイオリンの平坦な軌跡は、その鋭く研ぎ澄まされたエッジで空間を切り裂き、チェロはその凝縮された音色の広がりにより床を伝い、埋め尽くして、壁を這い上る。音高的には時折あからさまな音階も姿を現すなど、いかにもイタリアン・バロック的な叙情的な親しみやすさをたたえているのだが、いかんせん、この空間/時間を支配しているのは、音高組織の政治力学ではない。もちろん一瞬ごとに弓の下から生成するサウンドの強度が、このそそり立つ音の建築を支えているのであって、コンピューター操作で音源の時間軸を操作しても、この手に汗握る緊張は得られまい。


Michel Doneda / Everybody Digs Michel Doneda
Relative Pitch RPR1027
Michel Doneda(soprano saxophone)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=19628
 久しぶりのソロ・レコーディング。まっすぐな管に吹き込まれた息は、リードの振動の起動因へと自らの力動のすべてを差し出してしまうことなく、狭い隙間をすり抜け、幾つにも分流し、管のあちこちを震わせながら空間へと射出され、思い思いの速度と軌跡を描いて、空気を揺すり立てる。こうして息音を自在に操る演奏を聴いていると、管楽器のリードが抑圧的な整流化装置であることがよくわかる。息に内在する多方向へと散乱する力は、リードによってその分岐する流動性をせき止められ、倍音が生じるとは言え、一定の振動モードに馴致されてしまう。野生の「息」の家畜化。その頸木を逃れたところでは、息とは「プネウマ」の原義通り、何よりもまず「風」であることがわかる。それゆえ、Donedaの演奏は大気の流れ/動きと文字通りインタラクティヴなものとなる。放たれる息の流れが、空気の壁に立ちふさがれ、そこにミクロな押し引きが生じる。管の鳴りが空間へと波紋を広げ、震えた空気が管を揺すぶり入り込もうとする。彼の「演奏」は、そうした眼に見えない、耳にもほとんど聴こえない潜在的な層での闘争/交感であり、私たちが「聴いて」いるのは、それがたまたま音として一部顕在化したものだけではないのか。ならば水面下で繰り広げられる力動の交錯に、そこで生じる渦や乱流、素早い噴出に身体をどっぷりと浸してみなければなるまい。クラシック音楽のトレーニングは、音や響きの有する様々な側面のうち、(基音の)音高のみを極端に重視し、それ以外の豊かさをばっさりと切り捨ててしまう傾向があるように思うが、そうした耳でこうした演奏を聴いても、おそらく、いったい何が起こっているのかさっぱりわかるまい。きっと「ガラスを爪で引っ掻いたのと同じ」にしか聴こえないことだろう。


Michel Doneda, Le Quan Ninh / Aplomb
Vandouevre 1542
Michel Doneda(soprano saxophone,sopranino saxophone), Le Quan Ninh(percussion)
試聴:http://grisli.canalblog.com/archives/2015/03/03/31634144.html
 永年の盟友同士のデュオ。Le Quan Ninhもまた、様々な音具を駆使して多種多様な音色を引き出しながら、ドラムのスキンや他の各部の振動を通じて大気と交感する演奏者であり、演奏はさながら熱帯雨林の喧噪をとらえたフィールドレコーディング作品のように、多元的にあちらこちらから立ち上り、流れ行く響きの絶え間ない流動として現れてくる。とは言え、そこにはやはり「デュオのかたちづくる地平」が(おそらくは聴き手の因習的な聴取のうちに)生じてしまい、大気の流動と踊るダンスは、大気の生々流転の向こうに共演者の音を見透かすものへと変じてしまう。前掲のソロに比べ、音粒子の速度や運動性が若干おとなしく感じられてしまうのは、ひとつにはそのせいだろう。もうひとつの原因は、ステージ全体を漫然ととらえた録音にある。前掲作の録音を担当した、やはりDonedaの永年の盟友である録音技師Pierre-Olivier Boulantが、彼のトレードマークである手持ちの長いブーム・スタンドを、興趣の向くままに振り回しながら録音したならば、響きははるかに活き活きとしたものとなったのではないだろうか。


歌女(Kajo) / 盲声(Blind Voice)
Blowbass  blowbass-003
高岡大祐(tuba)、石原雄治・藤巻鉄郎((bassdrum,separated drumkit,percussion)、
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/blowbass/blowbass-003.html
 本ブログで採りあげたライヴでは、解体したドラム・セットを分有する二人の打楽器奏者が、リズムを迸らせ、自在にスペースをつくりだしながら音楽を組み替え、パーカッシヴなアタックからドローンとしてうねる持続音まで、不定形なサウンドをブリコラージュ的に生み出すチューバと一体となって疾走し、変容し、流動してみせる「歌女」だが、このデビューCDでは、打楽器奏者二人の各々のソロ作品同様、打楽器演奏の音響的な側面に焦点が当たっていて、演奏は重い静謐さへと傾き、チューバのハウリングやモジュレーションとしか思えない音響にも冷ややかな距離が感じられる。疾走というよりは緩やかな生成と言うべきか。しかし、音の滲みや気配よりは、実際に生じた物音や動作が引き起こしたノイズの確固たる輪郭と質量が感じられ、後半に向かって演奏の直接的密度が増して、運動性が前景化してくるため、やはり器楽的インプロヴィゼーションに割り当てることとした次第。冒頭、演奏場所にスクーター(?)で乗りつけるところから始まり、最後には部屋から出て、大崎の街頭に歩み出すという構成は、ギミックというより、本作が持っているフィールドレコーディング性(ディスク・レヴュー その3を参照のこと)や、「in situ」性(ある空間・時間の中で起こるすべてを音楽/演奏として聴く仕方)の具現化ととらえたい。


Harry Partch / Plectra and Percussion Dances
Bridge Records BRIDGE 9432
試聴:http://www.bridgerecords.com/products/harry-partch-plectra-and-percussion-dances/
 オクターヴを43に分割した特異な微分音階や不思議な形状をした創作楽器群等により、反時代的な「奇矯さ」ばかりが喧伝されるPartchだが、ここでの溌剌としたノリの良いフレッシュな演奏を聴くと、従来の厳かな演奏が歴史博物館の展示物のように思えてくる。もちろんアフリカだったり、中近東〜西アジアだったり、東南アジアだったりする音色のエキゾティシズムは極めて濃密なのだが、自由闊達めくるめくリズムの噴出/展開ゆえに、そうした濃密さのうちに立ち尽くし窒息してしまうことなく、次々に新たな扉が開け放たれていく。1953年の初演時コンサートの再現という趣向。思わず発作的にデューク・エリントンとファン・ガルシア・エスキベルの間に並べたくなるモンドな瞬間も。Lou Harrisonよりずっとポップ。


Arnold Dreyblatt / Arnold Dreyblatt, Choice
Choose Records 無番号
The Orchestra of Excited Strings
試聴:http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=14827
 激しく乱打される弦の生み出す響き/倍音の錯乱した交錯で知られるArnold Dreyblattの1977年から2007年に至る発掘音源編集盤。ここではむしろ持続の強度が前面に押し立てられているのが興味深い。持続音のたゆたいのうちにきらめく金属質のかけら。きらきらとした打弦の散乱を、ハーディ・ガーディの持続とベースの弓弾きが生み出す倍音の雲が包み込む。あるいはハーディ・ガーディとベースの弓弾きの重ね合わせが、ほとんど瞑想的な分厚いうねりをつくりだす底の方から、響きの輪がゆったりと巡りながら浮かび上がってくる。ひとつひとつの楽器ではなく、混沌のうちに輪郭を溶解させる中から生じてくる集合的な息づき/脈動。一見類似しているGlenn BrancaとDreyblatt の違いは、Dreyblatt は常にミクロな隙間を保ち、さらさらとしたアコースティックな響きと倍音が互いに映り込むようにして、Brancaのように荒っぽい電気増幅の「粘性」を活かして、隙間なくモノトーナスにそそり立つ壁を構築しようとしないことだろう(だからこそBrancaはJohn Cageに「ファシズム的!」と批判される0:だが)。Dreyblattがアパラチアン・ミュージックを演奏するカントリー・ロック・バンドMegafaunに客演した『Appalachian Excitation』(Northern Spy NSCD 044)もなかなか面白い。

ディスク・レヴュー | 00:37:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
ディスク・レヴュー 2014年6月〜12月その1  Disk Review Jun. - Dec. 2014 vol.1
 遅ればせながら2014年後期のディスク・レヴューをシリーズでお届けする。今回は音響的なインプロヴィゼーションからの16枚。いわゆるフリー・インプロヴィゼーションのジャンルに収められるべき作品以外でも、「即興的瞬間」が重要な役割を果たしている演奏については、それがコンポジションの演奏であってもインプロヴィゼーションととらえ、それを演奏の傾向から「器楽的」と「音響的(エレクトロアコースティック)」に二分して採りあげているのだが、もとより両者の境界線ははなはだ曖昧で、正直、評者個人の主観的判断に基づく。特に今回はミュジック・コンクレート的な音響構成作品が多かったことから、ますます選定の枠組みは怪しいものとなっている。しかし、採りあげた作品の質というか、聴取に対する強度については保証したい。
 2014年のディスク・レヴュー執筆に関しては、ペース配分を完全に間違ってしまい、掲載が非常に遅れてしまったことをお詫びしたい。その結果、2015年作品(たとえばJohn Butcher『nigemizu』)に着手できないと言う弊害も、すでに生じてきている。昨年は2月末には片をつけていたから、か月以上の遅れということになる。今年も音楽サイトmusicircusからお誘いいただいて、2014年のベストを掲載することになっているのだが、こちらの正規レヴューが一通り済まないと、あちらに取りかかれない。少なくとも、後2回、器楽的インプロヴィゼーションとフィールドレコーディング/ドローンの執筆が必要だ。本来なら、その後にさらにポップ・ミュージック篇のヴォーカルとインストゥルメンタルの2回が続くのだが、これはmusicircusのベスト選の中に忍び込ませることとしよう。
 なくもがなの言い訳が長くなった。それではどうぞ。



Rhodri Davies, John Butcher / Routing Lynn
Ftarri ftarri-217
Rhodri Davies(pedal harp,electric harp,wind harps), John Butcher(acoustic and amplified/feedback saxophones), Chris Watson(pre-recorded sounds)
試聴:http://www.ftarri.com/ftarrilabel/217/index-j.html
 Chris Watsonがあらかじめ録音した二人のデュオ演奏や環境音をクワドラフォニック(4チャンネル?)でプレイバックしながら、再び二人で行ったデュオ・インプロヴィゼーションのライヴ録音。強風が唸り、潮騒が轟き、激しい雨が大地を叩く環境音の絶え間ない流動変転がもたらすサウンド・スペクタクルと拮抗して、重ね合わされたデュオが切り裂き、張り詰め、ほとばしる。あらかじめ録音された音がいったん空間に放出され、再び録音されているため、画面の粒子は荒れ、音像は混濁し、パースペクティヴの透明度も低いが、エレクトロ・アコースティックな繊細さを遠ざけ、エレクトリックな粗暴さに両足を突っ込みながら、なお環境と交感して止まない即興演奏は、これまで類例のないものと言えるだろう。随所で頭をもたげ、視界を閉ざし、その剣呑さで身震いを引き起こすフィードバック。硬い絵筆やパレット・ナイフの跡が生々しく刻み込まれ、あちこちに絵の具の塊が荒々しくへばりついたサウンド・キャンヴァス。最新作『nigemizu』の演奏/録音を聴けば、あるいはLP4枚組みボックス・セット『Pedwar』に残された軌跡を振り返れば、この演奏がButcher / Daviesデュオが本来有するスペクトルの広がりのうちの、ほんの一部分だけに光を当てたものであることは明らかだが、それであっても十二分に素晴らしい。


The International Nothing / The Dark Side of Success
Ftarri ftarri-218
Kai Fagaschinski(clarinet), Michael Thieke(clarinet)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/ftarri/ftarri-218.html
希薄な暗闇の中で、ぼんやりと青白く発光しながら、名前のわからない深海魚のようにぬるりすらりと滑らかに行き交うという、これまでのデュオの基本線は保ちながら、三作目となった本作はよりアンサンブルの妙味へと踏み出すものとなった。2本のクラリネットが微妙な間合いを保って並走する際の、産毛を触れ合わせるような音色のもやつき。無重力に広がる倍音同士が擦れ合う毛羽立ち感。薄墨を含ませた筆の跡が交わる部分での不定形な滲みの広がり。強勢の重ね合わせによる空間の震えや音色の唸り。摺り足で歩む雅楽の強度を、あるいは石庭の揺るぎない配置を思わせる水平な持続と一瞬の打撃のかたちづくる鮮やかな対比。鎮められたより深く長い呼吸が、静謐さの度合いを以前より高めている。


Xavier Charles / 12 Clarinets in a Fridge
Unsounds 44u
Xavier Charles(clarinets)
試聴:http://www.cdbaby.com/cd/xaviercharles
 クラリネットによる音源や環境音を含む具体音を素材に、ミュジック・コンクレートの手法で構築した「コンクレート・クラリネット」作品集。表題は「作曲や演奏をよくキッチンでする」という彼の生活習慣にちなんだものだが、同時にこれらの作品が、「冷蔵庫の中にあるもの」を自在に組み合わせて料理を創造するのと同じ手さばきで制作されていることを示している。サウンド構成は繊細な心配りの行き届いたもので、素材の取り合わせに関する基本的なアイデア(それは料理がそうであるように、風味はもちろんのこと、食感や食べ応えや季節感や香りの配合といった、「食べること」の様々な次元にフォーカスしている)に拠りながら、途中で味見して「もう少し舌に残るコクが欲しい」とか、「ウェルバランスなまったり感を突き抜けて、全体を際立たせるパンチを加えてみよう」とか、微調整の中で閃きに賭けた冒険を楽しんでいる。結果、サウンドは氷結したような構築感よりも、遊び心に満ちた細部の意外な組合せを味わえるものとなっている。オムレツに合わせる赤味噌ベースのソースに、風味/香り/食感上のアクセントとして粒マスタードを加えてみるような。


Joachim Badenhorst / Forest//Mori
Klein Klein-03
Joachim Badenhorst(acoustic and amplified clarinet,bassclarinet)
試聴:https://soundcloud.com/k-l-e-i-n/sets/joachim-badenhorst-forest-mori
 前掲作とは対照的に、すべての録音はライヴで行われ、エフェクトやオーヴァーダビングは施されていない。各トラックはそれぞれ異なる特殊奏法に拠っているのだが、それ以上に、それぞれに異なる演奏「場所」の特性を深く掘り下げたものとなっている。おそらく演奏は、それぞれの「場所」の音響環境を見極めるところから始まるのだろう。残響時間、固有の共鳴、すでにそこにあり、あるいは通り過ぎていく音。マイキングは常にオフ気味で、リードや管の鳴りにフォーカスを当てるのではなく、演奏の場の空気を丸ごととらえることが目指されている。だから、これらの録音は紛れもなく楽器演奏を対象としたものでありながら、どこか監視カメラの荒れた記録映像を眺めるような、非人間的な眼差しを感じずにはいられない(そこで演奏する男の姿はひとつの点景に過ぎない)。さもなければ、これは土地の精霊と語り合うための個人的な儀式の記録なのだ。それゆえ、随所に「心霊写真」的な誰のものでもない音が聞こえる。1部ごと表紙に彼自身が手描きのドローイングやコラージュを施したA5版24ページのコピー誌仕立てのアート・ブックが付属。



Dog Lady Island / Dolor Aria
Alien Passengers #39
Mike Collino(violin,zither,metronome,tape,shortwave radio)
試聴:https://soundcloud.com/alien-passengers/dog-lady-island-dolor-aria-track-4
   https://www.youtube.com/watch?v=5hLaTmkVkKI
 テープのヒス・ノイズやざらざらとしたラジオ・ノイズで曇った、透明度の低い薄暗い空間に、エレクトリック・ツィターのおぼろな爪弾きとヴァイオリンやチェロの軋みや掠れが解き放たれる。多重録音により重ねられた各声部は、連続したフレーズの展開や一定の音域やリズムの維持といった通常課せられる役割をまったく放棄して、思い思いに身をくねらせ、向こうで鈍く銀色に光る横腹を見せたかと思うと、そのまま闇に沈み、澱んだ水を掻き分けてふと眼前に姿を現す。各楽器の音色はイコライジングやエコーの付加を含めた電子変調によるのか、それともマイキングや空間の特異性によるものなのか、腐敗したような不思議な化学変化を来していて、凍り付いたフルートのようにも、息絶え絶えのトロンボーンのようにも、埃をかぶったチェロのようにも、打ち捨てられたピアノの低弦のようにも、巨大な柱時計のチャイムのようにも聴こえる。濃密に荒れ果てた夜の甘やかな胸苦しさ。100部限定CD-R。


Antoine Beuger / Tschirner Tunings for Twelve
another timbre at77
Konzert Minimal : Pierre Borel(alto saxophone), Lucio Capece(bass clarinet), Jonny Chang(viola-centre), Catherine Lamb(viola-right), Hannes Lingens(accordion), Mike Majkowski(double bass-left), Koen Nutters(double bass-centre), Morten J.Olsen(vibraphone), Nils Ostendorf(trumpet), Derek Shirley(double bass-right), Rishin Singh(trombone), Michael Thieke(clarinet)
試聴:http://www.anothertimbre.com/kmbeuger.html
   https://www.youtube.com/watch?v=8AA1VA4mcH0&feature=youtu.be
   http://www.ftarri.com/cdshop/goods/anothertimbre/at-77.html
 一音ずつ、すっと力みなく立ち上がり、身体の力を抜いて水に浮かぶように水平にたなびく。そのたなびきながら引き伸ばされる一音の中に、倍音の揺らぎや弦の掠れ/軋み、息のもつれ/震え、その他もろもろの僅かな音色スペクトルの変化が映し出される。それは不思議なことに、時間変化というより、視線を巡らせ、景色を眺め回した時に現れる変化に似ている。複数の楽器の音が重ねられた場合においても、和音が提示されたと言うより、複数の色合いが浮かび上がり、あるものは透かし見るように溶け合い、あるものは隣り合って互いを際立たせ、さらには水面のさざめきと、樹々のざわめきと、雲の揺らめきが視界の中で響き合う。それは風の動きがもたらす様々な度合いの揺らぎであり、同時に結果として現れる様々な度合いの光のちらつきでもある。確かにここで演奏は時折長い沈黙をはさみながら、音数を少なく限って、弱音の中でひっそりと進められる。だが、Wandelweiser楽派の音楽は、いつまでそのような外形的特徴のみによる記述、言わば「奇形」としての取り扱いに甘んじなければならないのだろう。


Anders Dahl / 16 Rows
Bombax Bombax Bb009
Christer Bethen(bass clarinet), Erik Carlssen(percussion), Anders Dahl(sine waves,electronics,bouzouki,pitch pipe,pump organ), Magnus Granberg(clarinet,alto saxophone), Anna Lindal(violin), Bjern Nilssen(kantele,bottles,crotales,toy piano), Matilda Nordenstrom(tin whistle,slide whistle), Emma Nerdlund(cello), Henric Olsson(glass,percussion,electronics,vibraphone), Petter Wastberg(double bass)
試聴:http://www.bombaxbombax.com/records/record/16rows
 何の変哲もない電子音が立ち上がると、小さな太鼓がトンと鳴り、ヴァイオリンのささくれた持続に、「おりん」の引き伸ばされた余韻が寄り添う。カンテレの弦の振動、抑揚のないクラリネットの一息、足踏みオルガンのため息。言葉で表記された指示によるのか、図形楽譜によるのかわからないが、そうした「一音」が長短取り混ぜて配置される。間を置いてぽつりぽつり‥というだけでなく、ほぼ同時に鳴り響く音もあり、余韻の違いを際立たせる。あらかじめ設えられた音楽(旋律や和声、あるいはリズム構造)を多数の楽器に配分した‥とは聴こえない(ヴェーベルンによるバッハの編曲とは異なる)。何をきっかけにか、あちらこちらからふっ、ふっ音が湧き起こり、その間に素早くちらつくような、あるいはゆったりとたなびくような関係性の線が引かれる、と言うより聴き手の耳が引いてしまう。全16曲のうち10曲には曲題があり、それらは「スライド」とか「ロング・トーンズ」といった奏法上の指定となっている。これらの指定はコンポジションの一部であるだろう。音は決して「ダマ」にならず、積み上がりもせず、鳴っている間、隙間を保ちながら、端からさらさらと崩れさっていく。時に思いがけない苛烈な衝突があるのだが、安定したゆるやかな歩みはそれを際立たせない。言わば「あっけらかんとしたWandelweiser楽派」。165枚限定。


Rodolphe Alexis, Stephane Rives / Winds Doors Poplars
Herbal International 1401
Rodolphe Alexis(field recordings,editing), Stephane Rives(soprano saxophone)
試聴:http://herbalinternational.blogspot.jp/2014/04/1401-rodolphe-alexis-stephane-rives.html
   http://digitaldaylightdistribution.bandcamp.com/album/the-sound-of-herbal
 フィールドレコーディング音源をコンポジションの枠組みとし、別途録音したソプラノ・サックスのインプロヴィゼーションと重ね合わせる試み。これまでにも環境音と即興演奏の組み合わせはあった。たいていそれは場所の音を特徴ある背景とした「名所絵」風の構成にすとんと収まってしまう。もちろん、ミッシェル・ドネダをはじめ、場の響きに深く耳を身体を浸し、奥深い交感を成し遂げる演奏者もいるのだが。ここではサックス奏者は場の音を聴いていない(演奏はスタジオで録音された)。にもかかわらずStephane Rivesのうねり軋みながらどこまでも引き伸ばされる単音をはじめ、極端に切り詰められた演奏は、フィールドレコーディングされた視界の傾くような部屋の揺れや機械の動作音、人の動き等が浮かび上がらせる空間のパースペクティヴと重ね合わされ、不思議な変容を来している。前景と後景の不連続な切断ぶりにとまどい立ち尽くす耳は、やがてサックスの管のひしゃげた鳴りやリードの甲高い振動がもたらす豊かな倍音が、環境音の微細な変化と互いにマスクしあうことにより、相互に響きの輪郭を溶解させ、まるで顕微鏡で拡大したような色斑の明滅や粒子の運動、あるいは渦や乱流の生成消滅へと「音を立てて」解体されていく光景に目覚める。息音の輻輳した響きがふと止んだ時に姿を現す、鳴り続けていた風の唸り。それはある時は菌糸を伸ばして胞子をかたちづくり、ある時はアメーバ状にうごめきバクテリアを補食する粘菌の生態を思わせる。よく似た試みであるBryan Eubanks「Double Portrait」(『Anamorphosis』(Sacred Realism)所収)において、それぞれの音たちが自らの外套を脱ぎ捨てられないのと比べてみること。


Gregory Buttner / Pochen
Herbal International 1402
Gregory Buttner(field recordings,editing)
試聴:http://herbalinternational.blogspot.jp/2014/05/gregory-buttner-pochen-oder-mit.html
   http://digitaldaylightdistribution.bandcamp.com/album/the-sound-of-herbal
 現在はアーティスト・ハウスとして使用されている19世紀末に建造された屋敷に滞在中に、そこでフィールドレコーディングした様々な音、スイッチの開閉音、機械の動作音、床に者を投げ散らかした際の部屋の共鳴‥‥等々を素材として、後から編集してつくりあげた作品。すなわちここで屋敷は「音響発生器、共鳴空間、楽器の間を揺れ動き続けている」(Gregory Buttnerによるライナー・ノーツから)。こうした説明が与えるミュジック・コンクレート的なイメージ、すなわち音素材の音色やリズムをパラメーターとした「純粋音楽的」な配置とは異なり、聴き手は屋敷内を経巡りながら、様々な音響現象/音響体験に遭遇させられる。その意味で本作の聴取体験は、キューブリック『シャイニング』やタルコフスキー『ストーカー』の視聴体験に似ている。それは出来事の連鎖であり、耳の視点の絶え間ない移動/飛躍であり、パースペクティヴというだけでなく空間への位置取りのめまぐるしい変化/切断であり、つまりはドクンドクンと息づき脈動する空間に呑み込まれ、徹底的に翻弄されることなのだ(実際、前述のライナーでButtnerは「throbbing」の語を用いている)。


Chris Strickland / Animal Expert
Caduc #CA07
Chris Stickland(composition), Joda Clement(fieldrecording archive)
試聴:http://caduc.org/catalogue.html
 フィールドレコーディング素材とエレクトロニクスによる、繊細極まりない手つきで織り上げられた音絵巻。ループやジャンプカットを安易に用いず、またモンタージュによる直列のつなぎだけでなく、ひとつのパースペクティヴの中での重ね合わせも駆使しながら、声や音風景のような対象の音、移動や変容を支持する音、環境音、電子音や電子的に変容された環境音や音楽の断片による「サウンドトラック」等、フレーム内外の音を巧みに使い分けながら、サウンドをデザインし、視覚的イメージを強烈に喚起しながら、強靭に持続をつむいでいく。前掲作では「同一家屋内で録音された音のみ」という音素材の縛りが、家屋内の空間を経巡るという構成と同期し、作品の枠組みを強固にかたちづくっていたわけだが、ここにはそうした限定はない。ともすれば散漫なファンタジーに、あるいは浅薄なスペクタクルに陥りそうなところを、緻密にまとめあげた手腕には恐れ入るしかない。音の触覚性、空間性、物語喚起性等、多くの側面に着目しながら、アリアドネによる導きの意図を一瞬たりとも手放すことなく、カットは進んでいく。ただし、そうした構成の鮮やかさは、1・2曲目に素材を提供しているJoda Clementのフィールドレコーディング・アーカイヴの質の高さ(一瞬で耳をとらえる視覚喚起力の高さ)にも多くを負っているようだ。3曲目はループやジャンプカットの使用が目立ち、構成に「音楽的冗長さ」が忍び込んでいる。100枚限定。


D.O.R. featuring Crys Cole / Hestekur
Caduc #CA05
Jamie Drouin(suitcase modular,radio), Lance Austin Olsen(floor guitar,amplified objects), Mathieu Ruhlmann(turntabl,otors,amplified objects), Crys Cole(contact mics,objects)
試聴:http://caduc.org/catalogue.html
 前三者によるトリオとCrys Coleを含めたカルテットによる演奏を収める。薄暗く陰って、あるいは粒子を荒げて、くっきりとした視覚的イメージを結ぶことなく、しかし、カサカサ、ザワザワと耳の触覚を最大限に喚起しながら、音は刻一刻と生成を続ける。一瞬も止まることなく動き続ける編み棒の先端から、編み物が紡ぎ出されていくように。三者があちらとこちらとそちらに立って、互いに音を投げ交わすのではなく、ぴたりと重ね合わせた掌の隙間から、敷き重ねられ編み上げられた音織物が生み出されていく印象。空間的にも時間的にも距離/隙間を欠いた同時性(継起性ではなく)。これはとても特殊な感覚だ。Mathieu Ruhlmannの第一作で出会って、彼自身もその後は手の届かなかったものに、再び巡り会えた気がする。


Julien Beau / Reflet
Aposiopese 06
Julien Beau(computer,woods,strings,piano,fieldrecordings,turntables)
試聴:http://label-aposiopese.bandcamp.com/album/reflet
 黄昏れていく弦の交響。手前でちらつく落ち葉をかき混ぜるような物音やがさがさした電子ノイズの向こうに映し出されるオーケストラ。通り過ぎていったかと思えば、いつの間にかまた傍らに佇んでいる雨音。木片あるいは石片を打ち鳴らすひんやりと乾いた響きが小鳥の声と混じり合う。打ち解けた会話や食器の音の向こうに楽器演奏が聴こえたかと思うと犬の吠え声や自動車の通過音に取って代わられる。ここで音楽は耳の視覚の過半を占めるキャメラの対象であったり、引いた画面における一点景であったり、画面を伴奏するサウンドトラックであったり、生成する音風景への凝視であったり、様々な物音の出入りがつくりだす展開や起伏であったり、あるいはそれらの幾つかの要素を兼ね備えたものであったりする。それをサウンド・コラージュと呼んでみても、何も言ったことにはなるまい。音の視覚喚起力は非常に強いが、視覚イメージの連なりが音を導いているわけではない。物語的な連想に拠るのでもない。映像で言えば、「フレーム内」の音も、「フレーム外」の音も、そしておよそフレームとは無関係な音(サウンドトラックであれ、「ノイズ」であれ)も、聴取の次元で相互に浸透しあい、決定不能に揺れ動きながら、甘美な幻影を呼び起こして止まない。


Joseph Clayton Mills / The Patient
Entr'acte E167
Olivia Block(piano,walkie-talkie,objects), Noe Cuellar(accordion,psalter,cassette player,objects), Steven Hess(percussion,cassette player), Jason Stein(bss clarinet), Joseph Clayton Mills(electronics,cassette player,objects)
試聴:http://www.entracte.co.uk/projects/joseph-clayton-mills-e167/
   https://agiyuzuru.wordpress.com/2014/07/23/joseph-clayton-mills-the-patient/
 金属を擦り合わせる重く冷ややかな響きに、深く身を切られる思いがする。テープの速度変化によるものだろうか、地の底から響いて来るような低くしわがれた非人間的なつぶやきが漏れてくる。病室の外の廊下を徘徊する大太鼓の拍。拭い去れない不安のように垂れ込める電子音。部屋の四隅から湧き立って昏さを満たす低音の振動。去来する様々な物音。その中には電子ノイズの噴出もあれば、バスクラリネットの激しいブロウも、アブストラクトなピアノの打鍵もある。だが、それらはすべて一様に熱を奪われ、固く輪郭を閉ざして、眼を伏せたまま足速に通り過ぎる。ここで表題の「患者」とは、肺結核から咽頭結核を併発し、声を奪われ、水も飲めなくなった死の間際のフランツ・カフカのことにほかならない。カフカと言えば、高橋悠治による連作が思い出されるが、高橋が彼の不条理かつ極限的なユーモアをたたえた喜劇的側面にもスポットを当てていたのに対し、ここで演奏は不安と乾きと絶望から踏み出そうとしない。声を奪われたカフカが遺した筆談のための短い会話メモは、極限的な厳しさを言語化することで、事態の呪縛から解き放たれたかのような不思議な軽みと明るさ(それはどこか「希望」に似ている)を読み手に与えてくれる。しかし、ここでそうした記号化のプロセスを経ていない演奏は、「希望」へとたどり着けていないように思われるのだ。電子変調された切れ切れのヴォイスの残骸。息と管の痛々しい擦れ。カフカによるテクストの抜粋とMillsの指示に基づく5人の即興演奏を素材として、さらにMillsが加工編集を施し完成させた。テクストを収録したA5版54ページの冊子にCDが挿まれ、さらに薄い白紙で包まれている。力作。2013年作品。


Ilia Belorukov, Pedro Chambel, Bruno Duplant, Kurt Liedwart / Quiet Place Recomposed
Theme Park TP007
Ilia Belorukov(alto saxophone,objects,ipod,mini-amp), Pedro Chambel(sinewave,noises), Bruno Duplant(organ,concept), Kurt Liedwart(analog synthesizer,electronics)
試聴:
 息音の短い噴出の間を置いた繰り返しが響きの広がりをふと変えると、電子音の低い唸りが床を這い、金属の擦れる音が繰り返し繰り返し静かに響く。再び息音。別の持続音が忍び込む。電子音が息継ぎするように、あるいは風に煽られたかのように、微かな揺らぎを見せる。最小限に切り詰められたアクションは、それゆえに僅かな差異に聴き手の耳をそばだてさせる。サンプリングされた断片のループでは生み出し得ない揺らぎが、事態を絶え間なく更新していく。思わず身を乗り出して、暗い深淵を覗き込んでいる自分に気づく。耳はいつも聴こえている音の向こう側を探っている。演奏者の唇や指先の震えが伝わってくるようなぴりぴりと張り詰めた空気。コンセプチュアルであることに、ひとときも安住することのない演奏。拮抗し合う力の緊張の只中から刻一刻生成されていく音楽の持続。全体の半ばほどで電子音のノイジーなもつれを経て、音の配置は別のより動的な均衡へと移行するが、本質は変わらない。50枚限定。


Dawn Scarfe / Tuning to Spheres
Melange Edition ME02
Dawn Scarfe(sine tone,wine glasses,turntable)
試聴:http://www.dawnscarfe.co.uk/project_tuning
 ワイングラスの共鳴周波数に合わせた正弦波をスピーカーから流し、ワイングラスをターンテーブルに載せて回転させる。そのような簡単な「理科実験」的仕掛けから、幽玄な響きが生み出される。音のかそけき震え。結んでは消える唸り。部分的な共振が芽生え、次第に形を変えながら大きく育ってくる。シャーレの中で培養するバクテリアの繁殖に眼を凝らすように、音というよりは空間の震えに、複数のワイングラスとスピーカーの間で投げかけられ、受け渡される眼に見えない何かに、じっと耳を澄ます。現れては消える様々なかたち。変化を突き動かす力動の流れ。コマ落としで撮影した種子の発芽や細胞の分裂を眺めるような体験は、だが映像を見る時の「視点として対象から切り離された感覚」とは異なり、震えに指先や唇で触れ、ついには身体を丸ごと振動の場に投げ込まれる感覚を与える(たとえば終曲での底なしの高揚)。決してコンセプト(企画書?)だけのサウンド・アート作品ではなく、「演奏」の豊かさ、聴き手を巻き込む強度を有している。


Lucio Capece / Factors of Space Inconstancy
Drone Sweet Drone DSD016
Lucio Capece(soprano saxophone,two wireless speakers,cassette walkman,volume pedal,analog synthesizer,equalizers)
試聴:https://dronesweetdrone.bandcamp.com/album/factors-of-space-inconstancy
 1曲目はソプラノ・サキソフォンによる演奏を、ウォークマンをマイクロフォンとして、振り子状に設置したワイアレス・スピーカーから再生し、そのフィードバックを含めてシステム全体を「演奏」するもの。振り子効果だけでなく、楽器から直接空間に放たれる音のルーム・アコースティックによる変容、再生音の干渉、ウォークマンを介することによるヒス・ノイズ、ヴォリューム・ペダルによるフィードバック自体のコントロール等が相俟って、複雑な(「多層決定的な」と言うべきだろうか)結果がもたらされる。遠くから幾重にも押し寄せる音の波。黒々とした波につきまとう不思議な光のもつれ。ほとんど吐息のような息のたゆたい。空間に響き渡る管の鳴り。その同じ振動がスローモーションに引き伸ばされ、壁面一杯に映し出される。穏やかなフィードバックの正弦波に似たとらえどころのない浮遊感。それら前景の物音が止みかけた時に姿を現す奥まったノイズのもやつき。それはテープのヒス・ノイズの名残のようにも、壺の中に澱む古い風のようにこの空間に沈殿した古い響きのようにも思われる。2曲目はアナログ・シンセサイザーとイコライザーを用いたフィードバック。より直接的な変容のプロセスが示される。



ディスク・レヴュー | 22:27:28 | トラックバック(0) | コメント(0)

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