逆光の中に姿を現す不穏な声の身体 − 「タダマス17」レヴュー The Threatening Body of Voice Appeared against the Light − Live Review for "TADA-MASU 17"
2015-05-31 Sun
あれは一体何だったのだろうか……このひと月というもの、ずっとずっと考えていた。ピアノの二音がすっと視界に浮かび上がり、たちのぼる響きにすぐにモーガンが応える。だが、続く一音の指さばきは、ためらうように、響きを途中で途絶えさせ、宙吊りにする。そっと、だががっしりと確実に、モーガンが差し出した手をよそに、ピアノは無重力性を保ったまま、ゆるやかに線を伸ばす。だが、その足下にはすでに不穏な気配が兆している。ゆったりと巡るように引き伸ばされる連なりの傍らに、そいつは姿を現す。不可思議な呪文、妖しい吐息、押し殺した嗚咽。もう一人のベーシストが隙間に色を挿し、ドラムもブラシ・ワークで空間にうっすらと傷をつけていく。音数を増やし、渦を巻くピアノの只中に、逆光に浮かぶようにそいつはくっきりと不吉な姿を現し、そのまま中央に居座る。唸り、喘ぎ、軋り。重さはない。むしろ蚊柱のような流動性が感じられる。
それが菊地の漏らす「声」だと気づくまでに、ずいぶん時間がかかった。前作『Sunrise』(ただし録音日時は本作の方が以前ということになる)で僅かに聴かれたものとは、およそ似ても似つかない。あの時は、その「声」が、たとえばキース・ジャレットの場合と異なり、内なる旋律、すなわち指の動きに先んじて脳内に浮かぶメロディの不完全な流出ではなく、そこから離れるためだけに冒頭におかれる「序詞」とでも言うべきものではないかと感じた。しかし、ここで出来している事態は、そんな生易しいものではない。何しろ「声」はドラムや2本のベースはもちろん、ピアノよりも手前に位置し、しかもそこに居座り続けるのだ。
「菊地さんの、ヴォイス演奏とでも言うんでしょうか……」と、今回の四谷音盤茶会のゲスト山本達久はその素晴らしさを賞賛していたが、私にはそれが、ピアノを弾く片手間に興じられる「ヴォイス演奏」といった暢気なものには、とても思えなかった。それほどにそれは禍々しい危うさをたたえていた。見てはいけない、視線を合わせてはならないものと眼が合ってしまい、そのまま魅入られたように囚われてしまう。耳を金縛りにし、視線を釘付けにする「魔」。何よりそれは演奏の一部になどなり得ていない。どこまでも無法な濫入者として居座り続ける。身悶え、痙攣、ぞっとするような筋肉の緊張、奇形や不具の気配。そうした点でそれは土方巽の舞踏に似ているようにも感じられる。だが、即興演奏との共演を繰り返しもした彼が、常に音の傍らに立ち続けたのに対し、ここで「声」はあからさまに音の場に踏み込んで、周囲を汚し、傷つけ、あるいは覆い隠す。
逆光の中に黒々と浮かぶ「声」の身体が揺らぎ、あるいはさっと身を翻す。ピアノの音がその陰から、不意撃ちするように、ふっと姿を現す。『Sunrise』においても菊地やモーガンが「音で線を描かないこと」は顕著だったが、それは音と音の間を引き伸ばし、響きの断続的な明滅としか感じられなくなるまで、連なりを希薄化することを基底に置いていた。そこで「フレーズ」は、後から恣意的に描き込まれた星座の連なりに過ぎない。だがここでは違う。ピアノの音は、「声」の背後から突然飛んでくる「礫(つぶて)」のように姿を現す。それに応えるモーガンのベースもまた。一見連なるように感じられる音も、異なる方向から異なる速度、異なる軌跡で飛来する違った形、大きさ、材質の石の寄せ集めでしかない。それゆえ音は、それぞれにざらりとした異質性を際立たせながら、思い思いの方向に飛び去って行く。
ピアノの放つ一瞬のきらめきは、耳に沁み、眼に痛いほど目映く鮮やかだ。以前にあるクラシック・ファンから「菊地はピアノを鳴らし切れていない」との指摘を受けた。ならば鳴らし切っているピアニストとは誰なのかとのこちらの反問に、フリードリヒ・グルダの名前が返ってきて、なるほどと思ったのを覚えている。確かに菊地には、ベーゼンドルファーの底の底までを、大きな手でひと掴みにして、一斉に震わせる技量はないかもしれない。しかし、そうした筐体の縛りを切り裂いて、音を外へと迸らせる速度において、菊地は極めて卓越した奏者だと思う。ロラン・バルトがロベルト・シューマン論で指摘した「打つ」ことの技量において。本作の録音は、まさにその一瞬に向けて、フォーカスをきりきりと絞り込んでいる。ピアノ総体の鳴りなど、後から自然についてくると言わんばかりに。そのことがハンマーが弦を打つ地点に近接したマイク・セッティングをもたらし、その結果として菊地の口の端から噴出する「声」に、無防備に襲われる事態を招いたようにも思われる。
私などとは到底比較にならないほど深く菊地を聴き込み、ライヴにも幾度となく接し、本人と親交もある多田雅範に、菊地の声はいつもこのようにはっきり聞こえるのか尋ねてみた。どうもそうではないらしい。ましてや録音作品においては空前絶後のようだ。声が聞こえること自体は不思議ではないと思ってしまったけれど、考えてみたら、こんなにはっきりと「声」を聴いたことはいまだかつてないとの答が返ってきた。
今からひと月以上前、4月26日(日)に行われた「四谷音盤茶会第17回(タダマス17)」のレポートとして今回の原稿を差し出すことは、何時にも増してためらわれる。これまでも私のレポートは、イヴェントの全容をバランスよく紹介するものでは全くなく、ただただ私の興味関心に基づいて視点とフレームを設定し、切り取ったものに過ぎなかった。しかし、それでも、イヴェントの流れに沿って数作品に言及することにより、事態の一端を伝え得ていたとは思う。それに比べて今回は、10枚かかったうちの1枚だけにしか触れていない。
それはぼんやりと予想されていた事態ではあった。本ブログでの「タダマス17」告知記事で、私はまだ公式にはリリースされていない菊地の作品が、今回採りあげられることに焦点を当てて紹介している。そのせいか、この日の幕開けの口上で益子博之は、どうも始まる前から一部分に関心が集まってしまって……とこぼしていた。一方、多田雅範は、菊地の作品がかかったら聴衆の反応はどうなんだろうか、みんな大きく頷くのだろうか、それとも腕組みしたまま考え込んでしまうのだろうか……との私の問いかけに対し、みんな腕組みしたまま黙っちゃいそうだなあと言っていた。実際にはそうはならず、ゲストの応答を含め、演奏の素晴らしさという話になってしまったのだが。
もちろん、実際には当日いろいろなことがあり、様々なことを感じた。主に違和感として。Pascal NiggenkemperからMatana Robertsというソロによる音響構築の流れは正直ピンと来なかった。話題のTigran Hamasyanもどこがいいんだかわからずにいると、最近手放しに持ち上げられているが本当によいか…との説明が入り、むしろそうした採りあげ方に違和感を覚えた。Mario PavoneのアブストラクトなルーズさとJakob Broのどうでもいい細心さが奇妙な相似形を描く中で、Vijay Iyer Trioによる速度の重層性とChris Lightcap's Bigmouthにおける響きの積み上がっていく感じは素晴らしかった。特に後者の場合、2サックスが後方で鳴り響く部分では自在に飛び回るくせに、フロントでユニゾンにより奏する際には、よれよれとことさらに非マッチョ性を明らかにするあたり、思わずツッコミを入れたくなる。ふだんなら、この辺が論述の焦点となっていたことだろう。ゲストの山本達久の臆面もない切り捨てぶりについて多田がブログで賞賛しているが、正直それほどのものかなと思う。RJ Millerのソロ作品におけるエレクトロニクスの揺らぎが話題に上ったところで、ドラマーがエレクトロニクスを操るのが新しいって言うんですか、Harald Grosskopfは知ってますか…という辺りで、そのあからさまな「ネタ」嗜好/志向/思考に聴いていて腰砕けとなった。
いずれにしても、それからひと月が経過し、菊地とトーマス・モーガンらによる盤以外のことは、とりあえずどうでもよくなってしまった。それだけ、この演奏の強度に打ちのめされてしまったわけだが。インターネットで検索すると、その後、5月下旬に無事リリースされたようだ。世評はどうなのだろうか。

Masabumi Kikuchi, Ben Street, Thomas Morgan, Kresten Osgood
『Masabumi Kikuchi Ben Street Thomas Morgan Kresten Osgood』
Ilk Music ILK 23B CD
Masabumi Kikuchi(piano), Ben Street(double bass right), Thomas Morgan(double bass left), Kresten Osgood(drums)
当日プレイされたのはtrack 1の「#1」。
「タダマス17」当日のプレイリストについては、次を参照していただきたい。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-357.html
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『松籟夜話』第三夜へのお誘い Invitation for "Syorai Yawa", Listening Event "Night Stories As Pine Tree Leaves Rustling in the Wind" The Third Night
2015-05-17 Sun
リスニング・イヴェント『松籟夜話』第三夜を、6月7日(日)に開催します。今回は、Francisco Lopezによるフィールドレコーディングを手掛かりに、熱帯雨林の表象と、聴覚による環境への想像力の在り方を掘り下げます。御大Francisco Lopezの登場に「おおっ」と色めき立つ声が聞こえてきそうですが、第一夜のMichel Doneda、第二夜のDavid Toop同様、今回のLopezもまた、私たちを導く道しるべ、彼方まで照らし出す灯台であって、たどり着くべき目的地、あるいは探査すべき対象ではありません。それゆえ、彼の全体像をとらえることは目指さず、聴くべき作品もコスタリカの熱帯雨林におけるフィールドレコーディング作品『La Selva』等が中心となります。
と言いながら『La Selva』は、NaxosからリリースされたCD5枚組のLopez作品集成『Through the Looking Glass』に収録されるなど、彼の膨大なディスコグラフィにあって、代表作のひとつに挙げるべき作品と言えます。本作には彼自身によるライナーノーツが付されており、多作のあまりか、いい加減な紹介をされがちなLopezの作品世界について、わかりやすく、また射程の深い格好の「入口」を提供してくれます。今回はこのライナーノーツの内容にも触れる予定です。
今回はLopez作品を「ハブ」として、数々の熱帯雨林フィールドレコーディング作品を聴き、耳により旅路を辿るだけでなく、言語表象や視覚表象を通じて熱帯雨林という特異な環境を走査してみたいと考えています。これにより、聴覚によって、音/響きを通じて、環境を蝕知/探針することの在りようと意味合いが、鮮やかに浮かび上がってくるのではないかと考えています。それは同時に、「フィールドレコーディング作品を聴くとはどういうことなのか」とか、私たちの掲げるキーワード「音響」「環境」「即興」の関係性等をも照らし出していくことでしょう。
このことについては、今回のテーマを設定するにあたり漠然と予感してはいたのですが、内容を詰めるためにリサーチを進める中で、ますます確信が深まってきた次第です。
というわけで、『松籟夜話』第三夜、どうぞご期待ください。
2015年6月7日(日) 18:00~(21時頃終了予定)
会場 ギャラリー白線(杉並区阿佐谷南1-36-14)
料金 1500円(珈琲付)
『松籟夜話』とは
音楽批評・福島恵一とサウンドアーティスト津田貴司による、フィールドレコーディングを中心に「聴く」ことを深める試み。
さまざまな音源を聴きながら、「音響」「環境」「即興」をキーワードに夜話を繰り広げます。
ギャラリー白線オーナー・歸山幸輔によるスピーカーとていねいに落とした珈琲もどうぞおたのしみください。

再評価のための必聴ボックス・セットThe Recedents『Wishing You Were Here』ディスク・レヴュー Disk Review for The Recedents " Wishing You Were Here " You Must Listen to this BOX SET to Reevaluate them
2015-05-05 Tue

前回のRhodri Davies『Pedwar』に続き、もう1作品、きちんとフォローすべきボックス・セットがある。それがLol Coxhill, Mike Cooper, Roger Turnerの3名によるトリオThe Recedentsの30年近くに及ぶ活動から、6回のライヴ録音(いずれも未発表)を5枚のCDに収めた『Wishing You Were Here』(Freeform Association)だ。5枚のCDはそれぞれ色違いのデジパックのジャケットに収められ、さらに貴重な証言や詳しいライヴの記録、ライヴの模様やフライヤーの写真等を収録したブックレットが付属している。

正直に告白しよう。実のところ、このアーカイヴ音源について、当初はあまり期待していなかった。というのも、そもそもThe Recedentsに対する私の評価があまり高くなかったからだ。本ブログでもレヴューしたRoger Turnerと高岡大祐のデュオの素晴らしさに、これまでTurnerを過小評価していたことに今更ながら気づき、改めて本作を手に取って本当に良かった。聴いてびっくり。私は彼らの本質を全く見誤っていたことに気づかされることとなった。
私と彼らの出会いは87年にリリースされた(録音は86年)第1作『Barbecue Strut』(Nato)だった。Lol Coxhillの参加に惹かれて手に取ったものの、リズム・ボックスを多用したペラペラとチープなつくり、ヴォイスを多用した演劇仕立てといった構成に、あまりピンと来なかった。インプロヴィゼーション部分は、むしろこうした「意匠」を薄める感があり、やはりCoxhillが参加したThe Melody Fourの色物に徹した潔さと凝りまくりの展開に比べて、正直見劣りした。今では各所で大活躍のMike Cooperも、同時期にCyril Lefebvreとのデュオによる似非ハワイアン・ミュージック集『Aveklei Uptowns Hawaiians』(大里俊晴大絶賛!)をNato傘下のChabadaレーベルから10インチ盤でリリースしたばかりで、疑似エキゾチカに針を振り切ったそちらに対し、昔のキャリアであるブルース・ロックを引きずった煮え切らなさを感じずにはいられなかった。続いては91年にリリースされた(録音は88年)第2作『Zombie Blood Bath on the Isle of Dogs』(Nato)も手には入れたのだが、レゲエ調のヴォーカル曲で始まり、タイトルと悪趣味なアメコミ調のジャケットが明々白々に予告しているように、ホラー・ムーヴィー風に展開する作風に付いていけなかった。それきりThe Recedentsのことを思い出すことはなかった。後にリリースされるLol Coxhillのキャリア集大成的大作『Frog Dance』に、The Recedentsもキャリアのひとこまとして1トラックを与えられているのだが、それが評価を覆すはずもなかった。Discogsで調べてみても、以前に発表されている音源はこれだけだから、何か聴き漏らしていて、評価を間違えていたわけではなかった。



今回の5枚組ボックス・セットは、第1作の録音以前のライヴ(85年)で幕を開ける。演奏はものの見事にとっ散らかっている。前述の第1作『Barbecue Strut』が、リズム・ボックスがつくりだす抽象的な時間軸上に、CoxhillとCooperのキャリアから抽出した断片を切り貼りした「幕の内弁当」的な行儀の良さ(各素材、各料理が混じり合わない)にとどまっているのに対し、ここでの演奏はエレクトロニクスの多用を含め、各演奏者が自在に自己の枠組みを乗り越え、外部へと滲み出し混じり合う。
例えば手前ではソプラノ・サックスの滑らかな軌跡がシンバル・レガートと交錯し、背後の壁にはギターの弦の震えが大きく拡大投影され、ぼやけた影となって移ろいゆく。ギター弦の振動の早回しはすばやくかき混ぜられる金属打楽器の破片と混じり合い、パーカッションを擦り叩く倍音は、リードの軋みや管の共鳴と連れ立って、チープなエレクトロニクスに呑み込まれていく。演奏は緩急自在であるばかりでなく、サウンドの密度すら一瞬で変化させる。ノイジーな盛り上がりが空間に霧散すると、まるででんでん太鼓みたいなドラムの乾いたちっぽけな音が残り、その傍らでソプラノが溜め息を漏らし、ギターが希薄な余韻だけをゆったりと揺らめかせる。ドラムが高速のロールを撒き散らしたのを合図にギターが素早く形を変えるノイズを放射している時でも、ソプラノ・サックスは能う限り引き伸ばされた息の長いラインをひしゃげた音色で歩んでおり、その傍らをドラムの細やかな刻みが天井裏のネズミのように走り抜けていく。クリックに対して前ノリ/後ノリとか、倍速/半速というのではなく、まったく違った時間の流れが幾つも共存し、分岐し、合流しあっている。それはいつもどこかで、何か全く別のことが次々に起こり続けているということでもある。ソロとアンサンブルを往還するのでも、各演奏者がそれぞれの「フリー」の中に自閉してしまうのでもなく、ふと何事もなかったように、今までいた「部屋」からすっとドアを開けて外へと歩み出していく演奏。絶妙のチームワークによる「仲間割れ」。

先ほど「エレクトロニクスの多用」と書いたが、Cooperがテーブル・ギターのサウンドに変調を掛ける以外は、三者が操るcrackle box(Michel Waisvisz考案による厳密にはコントロール不能なシンセサイザー)だから、サウンドの厚みはなく、音色もチープで充満には至らない。ネット上の紹介文を見ると、本作に収められた演奏の引き合いに初期AMMが持ち出されていたりするが、ラジオの使用に特徴的な雑色性においては共通点が見出されるものの、あのような苛烈さや崇高さは彼らにはない。サウンドの充満もまた。むしろ音色的に近いのはMichael Primeが在籍したことで知られるMorphogenesisではないか。それにSmegma的なジャンク性を少々振りかけたような(特に1枚目の後半に収められた95年のライヴは、ラジオ・ヴォイスや呆けたようなエレクトロニクス、ループの多用による混濁具合の感触が近しいように思う)。ただし、これらの「ノイズ」寄りのグループとThe Recedentsの違いは、彼らの演奏が重層的であるにもかかわらず、至るところ隙間だらけで、この隙間を活かして瞬時にサウンドを組み替えていくことにある。今まで背景だったものがすっと前面に出て、気がつくと景色が一変している。この照明や場面転換のディレクションに関しては、後述するようにRoger Turnerの貢献が大きい。
AMMとの比較についても触れておくと、初期から現在に至るまで、AMMの演奏の特徴として演奏者間の「距離」に対する透徹した感覚があり、それが曖昧なコール&レスポンスによる演奏の盛り上がりを許さず、一方では冷え冷えと静まり返った空間に孤独に音を屹立させる演奏となり、他方では持続の中で自らの領域を滲み出していく音響が重層的なレイヤーを産み出していくことになるのだが、それに比べるとThe Recedentsは相互の「距離」がほとんどなく、互いの気配を皮膚で鋭敏に感じ取りながら演奏を展開している感がある。特に展開を先読みしてリードし、あるいはサウンドの隙間に巧みに打撃を挿入して変容を図るTurnerの技は、まったくもって見事というしかない。職人芸的なスキルの高さ/自在さに加え、これは高岡とのデュオに関するレヴューでも触れたが、Phil Mintonのヴォイスという、音色的に多彩であるだけでなく、仰ぎ見るような崇高さからグロテスクな下半身的下品さまで、身体性を介して意味の領野をも縦横無尽に闊歩する「怪物」との共同作業を通じて、彼が築き上げた達成の偉大さに改めて驚かされる。それが先に触れた照明/場面転換の妙技にほかならない。

2枚目に収められた演奏は、2000年へとスキップし、また別のものとなっている。冒頭の不明瞭な話し声に続き、軋みと鳴りの間で行きつ戻りつ揺らぎ続けるソプラノ・サックスと様々な金属音のアマルガムが中空に浮かび、背後の壁いっぱいに映し出された電子音の雲がとめどなく移ろうというフィールドレコーディング的な耳の視角が提示される。打楽器が前面に躍り出て弾けるが、輪郭も芯も欠いたエレクトロニクスの広がりは、やはり雲のようにあてどなく漂い続け、やがて抑揚のないヴォイスとわざとらしい咳き込みという点景と、たたみかける打撃の圧倒的な流動が、ダイナミクスの際立った落差をかたちづくる。
ここでも複数の速度の共存、あちらこちらで起こり続ける出来事、その度に組み替えられていくトリオという構造体‥‥という彼らの柔軟な可塑性の魅力は変わることがない。それは言わばチューニング・ダイアルを回され続けるラジオのようなものだ。ランダムに開けた隙間に差し挟まれていく打撃(必ずしもTurnerによるものだけではない)が、たちまちに波をとらえ強靭なビートとして襲いかかるかと思えば、またすぐにほどけて霧散してしまう。古いレコードのリズムに重ねられたノスタルジックなサックス・ソロもまた、フリーへと踏み外し、自らを粉々に打ち砕いたかと思うと、何事もなかったように舞い戻る。あるいは軽やかな口笛に大音量で襲いかかるドラム・マシーン。

以降、3枚目は2002年、4枚目は2003年、5枚目は2008年のライヴをそれぞれ収めている。年譜を見ると89年以降はライヴ回数も減少して、それこそ1回しか演奏していない年もあるのだが(2006年はまったく演奏していないようだし)、それでも顔を合わせれば、すぐさますっと演奏を始められる(彼らは練習やリハーサルを一切しないそうだ)プロフェッショナルな姿勢が、そこにはずっと一貫している。それが出来上がった定型の繰り返しや決まり文句の羅列でないことは強調しておきたい。
永年の付き合いで互いの手の内は知り尽くしているのだろうが、それでも、おそらくはCooperによるだろう電気増幅されたオブジェの振動の思いっ切りエレクトリックなざらつきで幕を開ける2002年に対し、高音域での繊細なリズムのフリルに、トイ・ピアノの打撃やソプラノ・サックスの息漏れやつぶやき、がさごそした作業音が絡んで生じる錯綜が次第に密度を高めていく2003年、一斉に湧き出したアコースティックな探求が思い思いに枝を伸ばしていく2008年と、幕開けだけでもおよそサウンドの手触りは異なり、その後の展開も次々に予想を裏切りながら進んで行く。ソプラノを吹く手を休めてふと切れ切れに科白をつぶやいたり、茫漠としたエレクトロニクスの広がりをすっとスイッチオフしてブルース・ギターを爪弾いたり、擬音風にサウンドを飾り立てていたかと思うと、突然に流れを断ち切るような強烈な一撃を放ち、あるいは間の手として差し挟んでいた打撃を連ねてビートの奔流をかたちづくるドラムス&パーカッション‥‥こうしたわずかの力みもない「思わず踏み外す」が如きサウンドの転身、そうして生じたスペースを活用して素早く隊列を組み替える巧みさ、そして複数の速度の共存を可能とする包容力に富んだグループ・アンサンブル。
Michel Doneda『春の旅01』以降、2000年代末のanother timbreレーベルとの出会いまで、しばらく即興演奏への興味を失っていた私だが、当時、こうした演奏が、歴戦の勇士たちによって繰り広げられていたのかと思うと、「あなたたちが今ここにいてくれたら‥」と思わず「遠い眼」になってしまう。
先日の来日ツアーでRoger Turnerの妙技を目の当たりにした方、最近のMike Cooperの活躍の追っかけ、仏Natoレーベルに集う英国勢を興味深く見詰めていた人、Kevin Ayres Whole Worldの頃からのLol Coxhillの愛聴者、Mike CooperならMachine Gun Co.の頃から知っているという古手の英国ブルース・ファン、そして何よりも私のようにThe Recedentsの存在を知りながら、これまで評価をしてこなかった「鈍感」な者たちに向けた貴重な贈り物。全部まとめて必聴。

The Recedents / Wishing You Were Here
Freeform Association FFA-4323
Lol Coxhill(soprano saxophone,crackle box,tape,voice,etc..), Mike Cooper(guitar,homemade string instrument,crackle box,keyboard,tape,drum machine,sampler,radio,etc..), Roger Turner(drums,percussion,synthesizer,crackle box,etc..)
試聴:http://www.art-into-life.com/product/5410
tracklist
1-1 The Egg 6:24
1-2 The Shell 4:47
1-3 The Crack 6:20
1-4 Let Me Introduce Myself 5:57
1-5 The Light 8:24
1-6 The Dark 19:03
2-1 Stepping Inside Your Aeroplane 55:48
3-1 Instances With You 49:30
4-1 Shut Up Your Silence 43:54
5-1 Wishing 46:48
CD 01 - tracks 1 to 4 recorded in Belgium 1985; tracks 5, 6 recorded in Italy 1995
CD 02 - recorded in Frankfurt, Germany at Mousonturm September 1st 2000
CD 03 - recorded in Montreuil, France at the Instants Chavirés May 18 2002
CD 04 - recorded at the Red Rose London 23rd November 2003
CD 05 - recorded in Bristol, England, at the Cube 8 July 2008