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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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いま再び始まる - 「タダマス18」ライヴ・レヴュー  It Begins Again - Live Review for "TADA-MASU 18"



 チェロの弓弾きを思わせる掠れたたなびきが、眼前を水平に横切っていく。唸りをあげて吹きつける風よりも、足元にくっきりと映る雲の影よりも、ゆるやかに重々しく悠然と。平らかな音響の歩みが、果てしなく続く地平線の広がりや遠く霞む白い山並みを浮かび上がらせる。時は流れず、その場に立ち尽くして、変わることのない景色ばかりが息を止めたまま回り続ける。リズミックなシーケンスやループ等、虚ろな空間を埋め尽くして厄払いするための仕掛けは施されない。だから、ぞっとするような深淵が至る所に口を開けており、時に音響がそこにはまり込んで、チベット密教の巨大な喇叭にも似たこの世のものとは思えない非現実的な低音を轟かせる。「機械的あるいは電子的な変容をリアルタイムで施している」とのことで、おそらくはディレイの使用により、音響が一部折り重ねられる部分はあるものの、決して和声方向でのサウンドの積み重ねによる構築が目指されているわけではない。むしろ、ここに現れる響きは、尺八の独吟における、管の内部に張りつめた息が相互にせめぎあいもたらした、揺らぎによるモジュレーションや倍音の高まり、重音の軋むようなぶつかりあいのように聴こえる。ふとウードのソロが姿を現す。その像は電気増幅により鞭のようにしなう鋭さを欠いて、代わりに夢見るようなフォーカスの甘さをたたえたまま、しばし洞窟の壁に投影され、ふっと掻き消えてしまう。

 持続音による音楽はファンタジーに行きやすいのだが、この演奏は並外れた意識の集中により、どこにも行きつかない「孤独」に耐えている。【多田雅範】
 以前には歪んだ音色でヒステリックに弾きまくっていた彼だが、この10年はライヴ演奏でもギターの弦を責め立てるよりも、放たれた音の電子変調に没頭していた。この演奏はホールで行われており、エレクトロニクス操作と生な残響が入り混じることにより、言いようのない深さを生んでいる。【益子博之】
 左右のパンニングの酔うような効果がすごい。空間の広がりを最大限に強調している。まさにジャケットのイメージ通りの音。最後のウード演奏が一発だけですぐに消えてしまうところも素晴らしい。【小林豊美】

 3人のイメージをつなぎ合わせると、尽きることのない彷徨、孤独と消耗の果てに、一瞬の幻が立ち現れる光景が浮かび上がる。なるほど確かに。ただし、ここでの「操作」が、ミュジーク・コンクレート的な精緻な構築でも、結局はすべての音を同一の質感へと溶解/還元してしまうオタク的な電子変調の繰り返しでもないことは強調しておきたい。それは放たれた音を「素材」化して、改めて手元へと引き戻すことではなく、「放った音を手放さない」ことにほかなるまい。むしろ剣で言う「残心」のような。どこまでも心を残し続けること。少々披露された他のトラックを聴くと、もっと普通にBill Frisell的で、伸びやかな音色の描き出すアメリカーナなたなびきが甘やかなノルタルジアすら香らせている。そこで世界はこのように荒涼としてはいないし、もっと普通に呼吸が通い、時の流れが滞ることもない。この曲の「At Least There Was Nothing」との題名は、『Only Sky』という作品タイトルとまっすぐに響きあっている。本作品の核心を明かすトラックに違いあるまい。

 この日の「タダマス18」はこのようにして、1枚目からいきなり深く切り込んできた。最近の「タダマス」の「ポップ・サイド」(多田)と呼ばれもする前半の展開に、いささか違和感を覚えていた私にとって、これはうれしい驚きだった。

 続いてはSimon Jermynという耳慣れないベース奏者の参加作品が2枚続く。こうした新しい才能に出会えるのも「タダマス」の醍醐味の一つだ。

ただ2 Ingrid Laubrock(ts), Mat Maneri(va), Tom Rainey(dr)と、「タダマス」常連で固めたSimonのリーダー作からの曲は、アメリカーナを香らせる高音のベースの弾みで幕を開けた。弾け転がる音の粒。音像のマニュプレート感が前掲作とのつながりを暗示する。ゆったりとしたフレーズを奏でながら、積み重なることなく、そのままてろてろと溶け広がるヴィオラがそこに重ねられる。溶解したヴィオラの水平な広がりに、ふうわりと空気を多く含み輪郭を淡く滲ませたテナーの水平な持続が現れ、互いに混じり浸透しあう。Laubrockってこんな風にChris Speedみたいに吹いたっけ…と思う。特殊奏法を用いたり、ことさらに音響的ではないものの、器楽的な演奏の指定席から影だけがふらふらとさまよい出て、サウンドの領域に遊んでいる感覚がしっかりと伝わってくる。後でライヴ演奏のステージ写真を見て、メンバーの輻輳や佇まいのてんでバラバラさ加減に驚いたが、その時に頭に浮かんだ「アナクロニズム」の語が、本来は(我が国で通常用いられる)「時代錯誤(特に「時代遅れ」)」の意ではなく、前後関係を反転させたり、時間軸状の差異を無視して並列に結びつけることによる「時間感覚の混乱」を意味するものであってみれば、これは意外と正しい直感かとも思う。それはジャケット写真について益子が指摘していた、金はあって家にプールもあるんだけど、不満がくすぶっている退廃感ともつながっていよう。私もこの写真には年老いた白人たちがしわがれた肉体をさらす、「孤独なボウリング」的な孤独感、閉塞感を強く感じた。
 響きの帯が広げられ、互いに重なり合う。【多田雅範】
 クラシック音楽のような耳触り。ゆったりと歌う感じとふっと分かれる分身の術(笑)。【小林豊美】
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ただ3 続くSimon参加の2作目は、Chris Speed(ts), Lander Gyselinck(dr)とのトリオHoward Peach。やはり高域に限定したベースの丸っこい音の粒を転がし、あるいは震えるような演奏がスティールパンを思わせるせいか(ただし「跳ね」はない)、Speedのテナーの「すっぴん」の音色、鼻歌的フレージング、息があがって続かない感じのアーティキュレーション等とあいまって、「弾まないカリプソ」との印象を与える。だが、それにしても、これはSpeedの「棒読みサックス」(多田雅範)の魅力を最大限に引き出した演奏ではないか。以前に彼の力むことなくすらりと入ってエッジを際立たせず、輪郭を曖昧にしたままなだらかに推移する「棒読み」の特質を、「サックス演奏をジャズの流儀で格好良く見せるための『永字八法』の脱構築」と読み解いたことがあったが、ここでは「ジャズにちっとも似ていないジャズ」をすら離れ、隙間だらけの風通しの良さを保ったまま、彼らは糸の切れた凧のようにふらふらと、どこにも属さない音楽ジャンルの中間領域を漂流していく。
 この前半の展開があまりにも素晴らし過ぎるため、後半、サウンドがアブストラクトな強度を高めつつ稠密化してくると、スペースがなくなって息苦しくなるとともに、このどこにもなかった新たな手触りや香りが失われてしまったように思う。前半と後半に分かれた演奏だったが、これまで後半のSpeedしか聴いたことがなかったので…と前半の新鮮さを讃えた小林に同感。

ただ4 そのSpeedも参加したDevin Gray(dr)の作品は、続くKris Davis Infrasoundの作品と合わせてKris Davis(p)の作品世界として提示されたように思う。前者の辺りを手探りする息音、ピアノの単音、モジュレーションを来すベースのアルコ、シンバルの破片やフレーズの断片が振り撒かれて、始まりそう動き出しそうで、結局行かない感じは充分にコントロールされたコンポジション感を色濃く漂わせるものだった。一つひとつは決して難しくないフレーズを、だがあえて危うく不均衡なままに積み上げて、なお決定的にはバランスを失わない微妙な平衡感覚とドラムが細かい刻みで無理矢理辻褄を合わせて弥縫的に貼り合わせる強引さの共存。どっちつかずの無調なフレーズの繊細な積み上げは、私にかつてのHenry Cowを思い出させた。彼らにはこうした荒削りな貼り合わせ感覚はなく、むしろ代わりに室内学的なアンサンブルの卓越による「シェーンベルクのロック化」的な趣きがあったのだが。

ただ5 「ロック化」をキーワードとして提示したのは、バス・クラリネット4本(コントラバスやコントラアルトを含む)をフューチャーしたKris Davis Infrasoundを、益子がinfrasound(超低音)のグループ名に沿って、「バスクラのブリブリ感」を中心に紹介しながら、それがロック出身のレコーディング・エンジニアにより薄められていると評したことへの違和感に基づいている。オルガンとエレクトリック・ギター、ピアノのぶちかましとJim Blackのドラムによるみっちりと中身の詰まった「どファンク」アンサンブルがブレークすると、管のフリーな咆哮やあるいは管楽四重奏的演奏が差し挟まれるというのは、ファンク・ミュージックの定型を換骨奪胎したロック的なコラージュではないか。ここでのKris Davisの欲望は、あからさまに低弦の強烈な打鍵やクラスターの連打へと向かっており、それらのサウンドをフリー・ジャズ的な混沌を回避してコンポジションとして成立させるために、ロックの鋳型が用いられたように思う。もちろん、この編成の有する可能性はそれだけには留まらないのだが。


 後半はTim Berne, Henry Threadgill, Steve Colemaと大御所三人の新作を連べ打ちし、さらにThreadgillの遺産後継者と言うべきTomas Fujiwaraへとつなげる怒濤の展開。

ただ6 Tim Berne's Snakeoilは圧倒的な音の壁。何しろ一音一音が強く重い。輪郭が太く固く明確で中身もソリッドに詰まった音塊が、城の石垣のように剃刀の歯すら差し込めないほど隙間なく構築されている。そそり立ち押し寄せるようなテーマ提示部分が終わって、展開部分は音出しが減ってデュオ編成等になるのだが、硬質さ、稠密さ、ソリッドな重量感等は変わらない。たとえば新加入のギターは明らかに器楽的と言うより空間的/音響的な演奏をするのだが、それすら希薄には漂わず、「鉛の雲」とでも評すべき、不穏な重たさを有している。ECMからの3作目ということで、さらにグループ・サウンドの独自性に磨きがかかった印象。前作に引き続き、今回の「タダマス」の冒頭を飾ったDavid Tornがプロデュースを担っていることがポイントかもしれない。
 次の小林と益子の指摘は、実に的確に彼らの本質を突いている。
 組合せのいじり方と空間の使い方でできている。【小林豊美】
 このメンバーでしかできない音の力。Berneによるテーマ作曲等は90年代から変わっていないのだが、以前は彼が出ずっぱり吹きっぱなしだったのに対し、今はテーマが終わるとすぐに引っ込んでしまい、他のメンバーのデュオの交替により構成している部分が多い。各演奏者もただソロを取るのではなく、ちゃんと音を聴いていて同じことをしないから、場面が停滞せず、どんどん動いていく。【益子博之】

ただ7 ThreadgillのCD2枚組新作からはチェロをフィーチャーした長尺の曲を。前作からベースの武石務が抜けているが、チューバのラインやチェロのピチカートが自在に代わりを務め、むしろ彼らの音楽の変幻自在なブリコラージュ的輝きをいや増す結果となっている。Threadgillたちの演奏を聴くたびに、限られた空間内で大人数が一度に自由に創造的にダンスして、かつぶつからず、しかもぶつからないためのルール/仕掛けが、そのまま各演奏者が入れ替わり立ち替わり新たな断面を提示するアンサンブルの生成原理となっている…という奇跡に驚かずにはいられないのだが、今回もまさにそう。特に先ほど触れたようにベースを欠いたことが、そのポジションを他の楽器が代わる代わる占める「15ゲーム」を思わせる組替性、柔軟な運動性をもたらしたように思われる。短く断片的なフレーズによる演奏は相互の対位法的な関係を前提としながら、Ornette ColemanのPrime Time同様、不断にヴァリエーションを生成し続ける。だが、Prime Timeにおいてメンバー相互の衝突/交錯が鋭敏な小魚の群れのように編み上げる流動的な平面が、最終的にOrnetteが間断なく吹き続けるソロの土台となってしまうのに対し、Henry Threadgill Zooidにあっては、円環が巡るような動きがメンバー間の関係を、Threadgillを含め柔らかく解きほぐし、徹底的に相対化してしまう。Prime Timeと共通する類似楽器間の鏡像的配置(本作ではかなり薄らいでいるが)についても、常にズレながら螺旋状に巡ることを基本とし、ありとあらゆるデュオ関係へと拡大適用される。Threadgillの功績は、何よりもこうした生成原理を(ハーモロディクスよりもはるかに)精緻に磨き上げたことにあるだろう。「自身はほとんど吹いていないのに、いなくてもThreadgillの音楽になっている」【益子博之】と言われる所以である。

ただ8 Steve Coleman作品は移り巡る回転感覚をThreadgillと一部共有しながら、ドラムの「踏み外し」感が際立つ。「タダマス」常連ドラマーの一人であるMarcus Gilmoreは、ここで階段の踏み板を自在に抜き差ししてみせる。その手つきは一切の力みを感じさせない軽やかなもので、一見似ているように思われるMark Guiliana「不整脈ドラム」の「ズンドコ感」とは遠くかけ離れている。「ジャケットは図形楽譜的なものではないか」との、やはり図形楽譜を用いたりもするKris Davisの個人レッスンを受けた経験のある小林豊美の発言に、なるほどと思う。

ただ9 最近、「タダマス」出演がとみに増加しているTomas Fujiwaraは、「タダマス」イチオシのMary Halvorson(el-g)にMichael Formanek(cb)と自身を加えたトリオを核とした編成で登場。ドラムの不均衡なリフにギター・エフェクトを重ね、さらにフルートが乗るのだが、やはりHalvorsonはリーダー作以外の方がいいんじゃないかと思う。リズムの揺れどころか、サウンドはすっかり輪郭を喪失して不定形の流動質と化しており、むしろ音色が揺らぎながら移り変わる。トランペットのフレージングがやたらムーディ(死語?)だったりして、ことさらに難しいことをしなくても、自分たちのやりたいことはできる…という確固たる自信が感じられる。「最小限の変態で最大限の効果」というところだろうか。益子が「本来、Anthony Braxton門下の人たちだが、むしろThreadgillとのつながりが感じられる」と指摘した通り、確かにアンサンブルへの出入りやON / OFFの感覚がThreadgillの生成原理との結びつきを感じさせる。

ただ10 最後にかけられたRema Hasumiのグループは菊地雅章TPTトリオの二人のT、すなわちTodd Neufeld(g), Thomas Morgan(b)を擁し、益子は「仮想菊地雅章グループ」と紹介していた。実際、菊地の最期を看取ったのはHasumiとNeufeldだったとのことだ。かけられた曲では、前半、トロンボーンの分厚いたなびきが中央に居座り、これに対して鋭い突っ込みを見せるギターとベースの老練な碁打ちを思わせる的確な石の置き方は、なるほど例の二人だと感心するのだが、Hasumiによる謡の用い方を含め、全体としてはあまりぴんと来ない。ただしこれは、菊地雅章の晩年の演奏に他では得られない輝きを認めているものの、彼の活動の全容やジャズ史への貢献についてはほとんど興味がない、私の関心の偏りにもよるだろう。


 いつになく長いレヴューとなった。「タダマス」当日にかかった全作品に言及するのも初めてのことだ(ただしいつも同様、レヴューの内容は私の興味関心の範囲に限定されており、イヴェントの全容を伝えるものではないことに注意されたい)。これは別に「タダマス」の会場である綜合藝術茶房喫茶茶会記店主である福地にハードルを上げられたから(※)ではなく(笑)、理由はそれだけ「タダマス18」が充実した内容だったことに尽きる。シンクロ率で言ったら、今回は80〜90%だろうか。
※http://gekkasha.jugem.jp/?cid=42168 20150728分「タダマスにて旬を逃す」を参照
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 これまでずっと「タダマス」は、毎回、ミュージシャンをゲストに迎えていて、益子・多田かたちづくる聴取の平面に対し、それとは異なる演奏者の視点からコメントを求められいたし、彼らもまたほとんどの場合、そこから益子・多田の方へ歩み寄ろうとはしなかった(希有な例外として外山と蛯子を挙げたい)。しかし、今回のゲストである小林は、ミュージシャンとしてのコメントをこなしながら、むしろそれより先にまずは一人の聴き手として、益子・多田とテーブルを囲んでいたように思う。デュオ+ソロではなく、トリオとして機能していた度合いとしては、今回が史上最高だったのではあるまいか。
 最近、様々な方面からNYダウンタウン・シーン、あるいは同時代的なジャズ・シーンに注目が寄せられ、それらの期待に応えたり、あるいは不適切な憶説に反論したりと、「タダマス」も結構揺さぶられたように思う。正直言って、「そんなの相手にしなくてもいいのに」と思ったことも何回かあった。しかし、6月に益子が恒例のNY定点観測に赴き、おそらくは現地のシーンの生な強度に触れて、日本国内のジャズ雀の囀りなどどうでもよくなってしまったのだろう。今回の「タダマス18」の成功は、強度の高い何をさておいても紹介すべき作品を選び抜き、それらの配列から自然とあるラインが浮かび上がり、それと「タダマス」本来の視点・立ち位置が相互に響き合い、照らし出しあうという原点に回帰したことにあると思う。やはり何をさておいても駆けつけ、耳を傾けるべきイヴェントである。たとえ選盤が好みに合わなくても、それはそれで何事かを如実に明らかにするだろう。そうした「異なる視点から眺めた風景」に気づかされること、触発されることは多い。ぜひ今後とも末永く継続していただきたい。
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 なお、当日のプレイリストについては、近日中に以下のページに掲載されると思いますので、そちらをご参照ください。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767
 ホストの一人である多田雅範による記述も参照のこと。
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20150726

 また、当日の様子の写真は多田雅範氏のブログ、池田達彌氏のインスタグラム、原田正夫氏、Hosoda Takeshi氏のFacebookページから転載させていただきました。

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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:48:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
近藤秀秋様 新作『アジール』について  Dear Hideaki Kondo On Your New CD "Asyl"
近藤秀秋様
 新作のCDありがとうございました。近藤さんのソロ名義の新作『アジール』は素晴らしい仕上がりとなっていると思います。しかし、今の私(の志向する聴取)は、その素晴らしさを素直に受け入れられないでいます。

 全編を通じて、弦の振動の推移を凝視する耳の視線の強度が特徴になっていて、それはこの作品の大きな魅力になっていると思いますし、非常に共感するところです。と同時に、そこに壊れやすさや移ろい、滲み、もつれといった感覚が入り込む余地がなく、そそり立つ建築のような揺るぎなさが、全体をピンと張り詰めさせていることに、近藤さんの一点を見詰める眼差しと思考の「揺るぎなさ」を感じます。
 いただいた盤には録音のクレジットがないので、これは推測ですが、おそらくは録音にも近藤さんの意図は深く浸透しているのではないかと思います。この作品が隅々までよく考え抜かれ、磨き上げられたものであることは疑い得ません。ともに近藤さん自身の作曲によるとは言いながら、冒頭曲から2曲目へと曲想や演奏手法は異なっているのに、それをとらえるキャメラの視角、映像のトーンはまったく揺るぎなく変わることがない。闇に浮かび、モノクロームに覚醒した世界。あるいはそうした黒と銀の世界ではなく、ジャケットの写真に見られるような、夜の底が白々と明けて来た頃のどこまでも透明な青に浸されているのかもしれませんが。

 そうした世界の揺るぎなく堅固な構築性は、おそらくは本作中で最も野心的な3曲目「漂泊者の歌」にも見事に及んでいて、今回の近藤さんとはおよそ資質の異なるはずの河崎純さんのコントラバス演奏を、まるで精神的な「双子」のように聴かせています。それは丸みや木の質感を排したソリッドな録音のせいでもあるでしょう(musicircusで2013年のベスト30の1枚に選んだ河崎純『Biologia』は、木肌の手触りと人肌の気配を感じさせる録音でした)。そして萩原朔太郎の詩はあえて英訳され、言葉にまとわりつく意味や物語性やイメージを脱ぎ捨てて、日本語に特徴的な母音の丸みや甘やかささえ置き去りにして、迸る子音の鋭さに声/息の流れを委ねています。そこに先ほどの揺るぎないギター演奏の正確に延長上で展開される、サワリどころか弦の震えを眼を擦り付けて見詰めるような琵琶演奏と、抽象化された声/息(ヒグチケイコによる)が切り結ぶ「純粋空間」とでも言うべきものが開けています。ここでもベース・ソロによる長大なイントロダクション、あるいは声の劇的な強度にもかかわらず、音世界のパースペクティヴの中心にあるのは、明らかに(ギターの化身としての)琵琶にほかなりません。

 そのことがまったく別の形で明らかになっているのが、続くアストル・ピアソラ作曲による「Night Club 1960」です。オーボエの響きは豊かな情感をたたえながら、私にはいささか音景から遊離しているように聞こえます。原曲のフルートではなく、クラリネットでもサックスでもなく、あるいは管楽器の代わりによく用いられるヴァイオリンでもなく、あえてオーボエを選択した理由は人脈的なこともさることながら、むしろこの音色的な遊離、全体に暗めの照明設計の中でそこだけハイライトが白く飛んでしまうような……にあったのではないかと考えます。ギターへの視角が一定不変なのに対し、ここでオーボエに対する録音は、むしろギターとオーボエを同一の視角に見込むことを意図的に回避し、奥まった位置にあるギターに焦点を合わせたパースペクティヴにおいて、手前を、あるいは上空を「通過する」ものとしてとらえることを目指しているように聞こえます。それゆえ、オーボエの描き出すメロディよりも、それを支えるギターの動きがクローズアップされてくることとなります。これは明らかに確信犯的所行でしょう。

 Alban Bergの歌曲「Hier ist Freude」の演奏においても、室内楽版を元にしたと想像される編曲の中で、ベースの低くくぐもったアルコと常に遠さをはらんだピアノを後景として、オーボエに前景を横切らせ、ギターがしっかりと中景に位置取り、フォーカスはここに当てられています。ここでは三景にそれぞれ配された四者の動きがポイントなので、オーボエは「横切る」と評したように大きな振幅で動きながら、それでもピアソラの場合と違って、しっかりとフレームの中にとらえられています。今回、各楽器の空間内の配置を含めたアレンジメントはこの曲が一番大変だったのではないでしょうか。感服します。

 ゆっくりとした運びで奏でられる「Blue in Green」もいい演奏だと思います。ここではベースがギターの「(少し下がって)傍らに立つ」配置もよく考えられていると思います。特に後半、さらに歩みがゆったりと引き伸ばされて、和音の思いがけない揺らめきや弦の振動への凝視が際立ってくるあたり、全編を通しての抑揚への配慮を含め、首尾一貫して見事と言えるのではないでしょうか。あたかも「最後は癒し系のジャズ・スタンダードで締めくくる」ようなふりをして。

 いろいろと賞賛しておいて、一体何が不満なのだと言われるかもしれないけれど、まさにこの「揺るぎない構築ぶり」に対して、どうしても留保を付けたいというわけです。
 昨年、リマスター版CDの発売に合わせたレッド・ツェッペリンに関する単行本『解読 レッド・ツェッペリン』(河出書房新社)に、まったくZEPファンではないにもかかわらず原稿を書くことになり、彼らの作品を聴き返したのですが、第1作での音響構築の揺るぎなさに、まず改めて打ちのめされました。私が書いたのは何枚かの関連作品のディスク・レヴューと『Ⅲ』の評文だったのですが、第1作における「アコースティック」と思われているものが、いかに空間への響きの広がりを排した隙のない稠密な音響構築であるかを論じ、そこからほどけ、解き放たれていったものが、『Ⅲ』において、あたかも植物が芽吹き花を咲かせ実を結ぶように、「アコースティック」という新たな「開放的」次元に達したかを論じるものとなりました。そこから振り返ると、第1作の、たとえば「ブラック・マウンテン・サイド」で「アコースティックな響き」として聴かれるものは、仏塔の水煙のように稠密な金属に彫啄された、あらかじめ計算され尽くしたものにほかならないと。私見ではこの「アコースティック」性が彼らの作品において様々な要素の共生を許し、豊かな達成を生み出しながら、最終的に『プレゼンス』においてジミー・ペイジが第1作をリモデルした新たな鋳型を適用することで絞め殺され、それが結局ZEP自身の最期を早めたと考えています。

 ジミー・ペイジの話を持ち出したのはほかでもなく、今回の試聴盤に付された案内文にある「多様化する芸術音楽をポストモダンの視点からギターの一点に統合する試み」、「違うパラダイムの上にある音楽を、ポストモダン的な視点からギター音楽を一点に還元」という主張を、寸分違わず音化した作品だなと感じたからです。その背景には長期に渡り執筆されたという『音楽の原理』があるのでしょうが、そうした原論志向の危うさを含め、むしろ演奏あるいは録音/再生によって空間に解き放たれた音とそこに伴う響き(そこには様々な傷や汚れ、滲みやしみ、アレ・ブレ・ボケといったものが不可避的に含まれてきます)を、作曲者/演奏者の意図に還元し尽くしてしまわないことを前提として聴くことを深め、同じ場所にいる一人ひとりが別のものを聴いていることを前提にしたリスナーシップを考えようとしている今の私にとって、優れた作品であればあるほど、ここはどうしても留保を付けたいところです。

 最後にタイトルにも触れておきましょう。不思議な題名だなと思って、タイトル選定の意図を近藤さんにお尋ねしたところ、ここで『アジール』とは「聖域」を意味し、音楽の中の聖なるものに触れていると、そしてドイツ語の「アジール」がそうしたイメージを色濃く有しているとして選ばれたと答えてくださいました。確かに英語の「アサイラム」では日頃のアメリカ合衆国絡みのニュースにも出てくるため、キリスト教原理主義的な印象が付いて回るところがあります。
 もともと私が「不思議な題名」だなと感じた理由は、私が「アジール」という語に初めて出会ったのが、網野善彦『無縁・公界・楽』の文脈で、「社会的関係性を断ち切ることのできる場所」としてだったからです。犯罪者が逃げ込めばつかまらないという点で「悪場所」的なイメージを持ったりもしました。実際、社寺のような「聖なる場所」だけでなく、川の中州のような流動にさらされた、誰のものでもない「平滑空間」(「条理空間」に対するものとして)もまた、「アジール」として機能していたようです。かつての「アジール」の現在形を求めるのは難しいですが、治外法権的な「悪場所」については、依然として中州に栄えていたりしますね。以前に福岡市を訪れた時、その辺だけ道路が入り組み、ソープランドが集まっていたりして、「なるほど」と。これはもはや都市社会学の世界ですが。
 私が本作品と行き違ってしまった理由の一端は、こした「アジール」という概念を巡るすれ違いにあるのかもしれません。ここにあるのは、むしろ徹底して「条理」化され、隅々まで視線を届かせ、管理を行き渡らせて、磨き上げられた空間にほかなりません。この国のポップ・ミュージックで、いや音楽全般において、ここまで演奏者=制作者の意図を細部まで浸透させ尽くした作品がつくりあげられるのは、極めて希有なことだと思います。その点でも実に見事な達成と言えるのではないでしょうか。

それではまた。よろしくお願い申し上げます。
    福島恵一

アジール


ディスク・レヴュー | 18:51:17 | トラックバック(0) | コメント(0)
犬も歩けば棒に当たる その2  A Flying Crow Always Catches Something vol.2
 たまたま、久しぶりにDU渋谷店B1のジャズ売り場をのぞいたら、なぜか中古盤コーナーにLol CoxhillのLPが10枚以上も出ていた。比較的新しいNato盤(Chabadaを含む)が中心だが、記念すべき第1作『Ear of Beholder』もあったし、美麗なジャケットで知られる『Toverbal Sweet』は壁に掛けられていた。へえ~と思いながらジャケットを繰っていって、はたと手が止まる。「え、こんなものが何でここに‥」。

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 この『Murder in the Air』、『フリージャズカタログ』で存在は知っていたものの、現物を拝むのは初めて。同書には写真を入手できなかったのかジャケットも紹介されていなかったから、シングルだと言うので、てっきり同レーベルの1番Jonny Rond Trio(これもCoxhill入り)同様7インチだとばかり思っていたら、ユーモラスなドローイングによる、しっかりとしたジャケットの付いた12インチ。『フリージャズカタログ』の紹介ではCoxhillの朗読を題材とした作品としかわからなかったが、ジャケットを裏返すと、William J.Stoneにより1930年代につくられた演劇作品を、David Bedfordが再発見し、彼とCoxhillの二人で70年代前半に上演していたと書いてある。その後、1977年のBracknell Jazz Festivalで彼ひとりによるヴァージョンを上演し、Chiltern SoundレーベルのプロデューサーMichael Eagletonにレコーディングをもちかけられたと。クレジットによれば、彼は何と1人で7役をこなしている。これはやはり入手せねばなるまい。いささかプレミアが付いていて、「こんなもんオレ以外にだれが買うんじゃ‥」と文句を言いながらもレジに。

 帰宅後さっそく聴いてみると、内容はCoxhillが声音を変えて(電子変調もあり)、7役を演じ分ける独り芝居。バックにはソプラノ・サックスの演奏とエレクトロニクスが。収録時間はすごく短いし、血眼になって探すようなものではありません。念のため。なお『Spectral Morning』(Emanem)にはRick Rueのサンプラー等を交えた新しい演奏が収録されているし、1972年のBBCラジオの録音を収めたKevin Ayres『Ayers and Archibald in BANANA FOLLIES』には、俳優であるというGeorge WilsonとLol Coxhillによる上演が、当時のライヴの一コマとして収録されている。ちなみにこの『BANANA FOLLIES』はBedford&Coxhillによる『Ear of Beholder』収録曲の俗謡風演奏なども聴けて、Coxhillファン(などというものがこの世に存在するとして)にはオススメ。
本作の音源はネット上に見つからなかったが、データ等については以下を参照。
http://www.discogs.com/Lol-Coxhill-Murder-In-The-Air/release/1839991


 ついでに、比較的最近の中古盤の発掘状況を。まあ単なる自慢話ですので読み飛ばしてください。苦情は受け付けておりません。

犬2 まずは最近になって発掘録音のリリースが相次ぎ、再評価の機運が高まっている(?)Arnold Dreblatt。クリア・ヴァイナルの片面LP『Point Source / Lapse』(Table of the Elements)を。Jim O'Rourke, David Grubbs, Kevin Drumm参加というと「おおっ」と言う人がいるかも。
http://www.discogs.com/Arnold-Dreyblatt-Point-Source-Lapse/release/709248

犬3 打楽器奏者にして音響彫刻家でもあるSteve Hubback主宰のグループMetal Moveによる『Runecarver』(FMR)。邪悪な紋章を思わせる金属打楽器の造形とは裏腹に、決してメタル系ではなく、特徴的な音色や残響を活かしながら古代へと想像力をさかのぼらせる。
http://www.discogs.com/Metal-Moves-Runecarver/release/3939547


犬4 『Easter o Mount Athos』のvol.2,3がなかなか手に入らないものだから、何とか手元に引き寄せようと、東方教会系は見かけたら必ずチェックしている。CD4枚組集成『Liturgies Orthodoxes』(Harmonia Mundi)は半分の音源はすでに手元にあるものの、4枚で500円台という価格の安さに魅せられて入手。同じ流れでキング・レコード「世界宗教音楽ライブラリー」から『東シリア教会 エジプト・カルデア主教の典礼歌』と『コプト教会の礼拝』を。こちらはちょいプレミア付き。

犬5 90年代前後の即興音楽については、リアルタイムで聴いている量が少ないので、面白そうなものがあればチェックしている。
Marina Rosenfeld『The Sheer Frost Orchestra - Drop,Hop,Drone,Scratch,Slide&A for Anything』(Charizma)は、おそらく女性のみによる、エレクトリック・ギター12名、ラップトップ5名から成る大編成。参加メンバーを眺めるとKaffe Mathewsあたりいかにもだが、Ikue Moriの名前にはちょっとびっくり。タイトル通りのざわめきアンサンブル。
http://www.discogs.com/Marina-Rosenfeld-Sheer-Frost-Orchestra-Drop-Hop-Drone-Scratch-Slide-A-For-Anything/release/986981

犬6 Bhop Raineyのことを知ったのは、Michel Doneda『Places Dans L'Air』への参加によってだった。その後、Greg Kelley等とのNmperignでの活動は多少聴いているのだが、何としても情報が少ない。そこで出会ったのが『Crawlspace / Universal Noir』(Tautology)。Jack WrightやTaylor Ho Bynumの参加にへえ~と。案の定、前半の研ぎ澄まされた強度が、フリー・ジャズの空間にばらけてしまう。
http://www.discogs.com/Bhob-Rainey-Eric-Rosenthal-With-Jack-Wright-Taylor-Ho-Bynum-Crawlspace-Universal-Noir/release/4788481

 以上、ブログ読者諸兄の興味を惹きそうなところを。だが実際には、以前に『Niemen vol.1』を手放してしまって以来、密かに探していたNiemen『Marionetki』や、これもLPには縁のなかったAlchimedes BadkarのCD再発盤の入手、そして、これもずっと探していた『ダークネス・アンド・スノウ』で福間未紗5作品が揃ったことの方が喜びが大きかったりするのだが。てへっ。
犬7 犬8 犬9


ディスク・レヴュー | 15:00:07 | トラックバック(0) | コメント(0)
タダマス、獣の数字666に怯える  "TADA-MASU" is frightened of the number of the BEAST 666  *6+6+6=18
 当時まだ発売開始前だった菊地雅章の新譜が、その場に集った聴き手の耳を打ちのめし、癒えることのない傷跡を遺した第17回四谷音盤茶会(タダマス17)から早3か月。再び開催が迫ってきた。その間にNYから闘病生活を続けていた菊地の訃報が届くことになった。鳩尾に食らった衝撃に耐えかねてうずくまり、突っ伏していたところから、何とか起き上がり、かろうじて言葉を紡いで、未曽有の「事態」をようやく書き留めたのが5月末。あの新譜に促されて(胸ぐらをつかまれ、どやしつけられて)、菊地雅章の死の前に、それとは無関係に(決して追悼ではなく)、彼の演奏について、声について、音や響きについて、グループ・インプロヴィゼーションについて、深く思考できたことを、改めて「タダマス」の二人、益子博之と多田雅範に感謝したい。「追悼」という名の「忘却のための序曲」を奏でるには、彼の晩年の演奏は、あまりにも生々しく、そして深々と現在に突き刺さっているように思う。
 ele-kingやJazz Tokyo等で執筆している細田成嗣もまた、「そこ」に居合わせたようで、「四月に喫茶茶会記で行われた通称「タダマス」で、菊地雅章の、未だ流通に乗っていないがなぜか手に入ってしまうという新譜を聴いた。楽器を弾きながら声を漏らす人は多いが、キース・ジャレットに顕著なように、たいていの場合はメロディの補助線としての「歌い損ね」で、しかしそれらと違う、明らかに異物としての菊地の「声」の不気味さといったらいいだろうか、それがそこでもやはり話題になっていた。」と呟いている。


 さて、来る7月26日(日)開催のタダマス18だが、今回は毎年恒例の益子のNY詣での直後ということで、いつも以上にフレッシュな現地の話題等も期待できるところ。一方、前回、菊地の新譜を聴いて、思わず「プーさんの放つ Ensemble Improvisation 以外をもう聴けない」と口走った多田は、菊地と個人的に親交があったこともあり、訃報に傍目からも心配するほど落ち込んでいたが、54歳の誕生パーティはしっかり開いたということで、きっと元気な姿を見せてくれるだろう。今回の益子による口上は次の通り。今度はどんな巡り合わせがあるだろうか。


masuko/tada yotsuya tea party vol. 18: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 18
2015年7月26日(日) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:小林豊美(フルート奏者/作曲家)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)

今回は、2015年第2 四半期(4~6月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。
ゲストには、フルート奏者/作曲家、小林豊美さんをお迎えすることになりました。ジャズから即興、ポップスまで幅広い分野で活躍するフルート奏者/作曲家、小林さんですが、実はニューヨーク ダウンタウン~ブルックリン・シーンにも造詣が深いのです。そんな小林さんは新譜の動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)


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ライヴ/イヴェント告知 | 12:58:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
Satomimagae@圓能寺 − 『Koko』リリース・パーティ  Satomimagae Live in Ennouji − "Koko" Release Party
 演奏が終わるたび、閉ざされていた引き戸が開けられ、外の光とともに、少しだけ涼しい風が入ってくる。寺の本堂に設えられた会場は、奥行き方向の3分の1以上を居並ぶご本尊に取られ、横長の畳敷きのスペースとなっている。また、間抜けなBGMが流れ出す(きっと「間抜けであること」はこうした幕間の、あるいは開演前のBGMが備えるべき大事な要件なのだろう)。外で開場を待っていた時に鳴り響いていた落ち葉掃除のブロワーの音も竹箒の音ももう聞こえない。おそらくはライヴ開始前に作業を終える手はずになっていたのだろう。池上通りから奥まっているので、交通騒音は外でも気にならなかった。だから、しばらく降り止んでいた雨がまたぽつぽつと降り出して、足下のコンクリートに無数の点を打っていくのをじっと眺めていられた。小雨ながら、雨はまだ降り続いているようだ。しかし音は聞こえない。屋根や軒を打つ音も。境内の大イチョウの枝や葉々を揺らす音も。

 向かって左に位置するSatomimagaeは濃い飴色のアコースティック・ギターを抱え、足下に幾つもエフェクターを並べている。右側の男性(桜井智広)はエレクトリック・ギターのチューニングをしている。足下のエフェクターの数はSatomimagaeより少ない。再び引き戸が閉められ、演奏が始まる。
 CDにもまして虚ろに響く声。エレクトリック・ギターのファズ風のざらざらしたノイズが耳の視界に傷をつける。最後、歌が終わり、そのノイズを保ったまま、ICレコーダーから街頭音のフィールドレコーディングが流れ出し、改めて声がかぶさって、次の曲が始まる。声を出せれば、歌を歌えればいいというのではなく、サウンドへの強いこだわりが感じられる。誤解のないよう急いで付け加えれば、それは彼女の声がか細く、弱く、素の魅力を欠いたものであることを意味しない。彼女の声は、幾重にも敷き重ねられたサウンドのレイヤーを貫き通す強靭な浸透力と、多くの方向から錯綜する音の力線の交錯を踏み越えて歩み出す、滾々と湧き出してくるような声の推進力を持っている。
 「虚ろ」とすら感じられる声が、何故そのような浸透力/推進力を秘めているのか。実のところ、今でもよくわからない。彼女の第1作『Awa』を初めて聴いた時、増幅されたアコースティック・ギターの爪弾きとフィールドレコーディングされた環境音がつくりだす、ざらざらと粒子の粗いモノクロームでハイ・コントラストな画面に、体温が低く、ぶっきらぼうで、感情を露わにしない(それゆえ「不機嫌」に聞こえる)声が、斜めに突っかかってくる瞬間に一遍で魅せられてしまった。そこで何に惹き付けられたのか。考えれば考えるほど、よくわからなくなってくる。ひとつ思い浮かぶのは「アレ・ブレ・ボケ」的な音空間が提示される時、それは物語を差し出していないということだ。歌詞は吹きすさぶ風にちぎれ飛ぶように、切れ切れにしか耳に入ってこない。そのような空間に立たされた身体を演じている/提示しているというのでもない。そこに演劇的な身体性や生な肉の手触りはない。もっと乾いている。ここで私は、物語の一杯詰まった点景を拾い集める森山大道の視線ではなく、そうした収集家が保つべき「距離」の感覚を欠いて、対象へとつんのめり、斜めに崩れ落ちていく初期の中平卓馬の眼差しを思い浮かべている。

 ふうわりと漂いながら透き通っていくエレクトリック・ギターに、雪の中を歩むようなガサゴソしたフィールドレコーディング音が重ねられ、スリー・フィンガーによるもつれた網目が浮き沈みする。Satomimagaeの声は、これらの与えられた足場を踏みしめようとしない。あらかじめ膝を屈めて沈み込むような動きを一切せず、喉を切り裂く剃刀のように抵抗なく、すっと立ち上がり、その一瞬に深々と切り込んで、そのまま流れ星のように尾を引いて飛び去り、あるいはすうっと溶けて、跡形もなく消え失せてしまう。ギター・カッティングによるリズムの刻み、腰を回すようなグルーヴとは無縁な声。スリー・フィンガーによるタイム感覚はより微視的できめ細かいが、それすら意に介さず、繊細な網の目をするりと通り過ぎていく声の在り様。外の物音のように。パンソリの練習に滝の響きに「声を通す」というのがあって、滝の音は水が塊になって落ちる音だから連続音ではなく必ず隙間があって、そこに声を通すのだという。そんなことをふと思い出した。

 彼女は頻繁にギターを調弦し直す。音高が下がっていったりするので、狂いを直しているのではなく、別のチューニングに設定し直しているのだろう(同様に曲ごとにエフェクターの設定もよく踏み替えている。細い素足を伸ばして)。その際に必ず先にICレコーダーのスイッチを入れフィールドレコーディング音を流しておいて、その中でチューニングし、そのまま演奏を始める。ここでは明らかにチューニングもまた演奏の一部にほかならない。だから曲間も客席の緊張が続き、しんとしている。もちろん中には話している馬鹿もいるが(こうした手合いはいつでもどこでも必ずいる)。

 サイケデリックに歪んだエレクトリック・ギターは、取りつく島のないほど揺るぎなくまっすぐな彼女の声に、ブルージーな屈折を投影する。かすれた息遣いがまた別の魅力を帯びる。これは新たな発見だった。
 発見と言えば、第2作『Koko』の楽曲の魅力を、改めて思い知らされたことが大きい。musicircus掲載の「2014年に聴いた50枚」にも書いたように、私は昨年『Koko』とすれ違ってしまっていた。ざらざらと粒子の粗い世界の中で、声がかけがえのない確かな手触りを与えてくれた第1作『Awa』に比べ、『Koko』のがらんとした明るさに満ちた世界は、掌をすり抜け、指の間からこぼれ落ちてしまうように感じられた。今回、アコースティックとエレクトリック、2本のギターによる編成で演奏されると、Satomimagaeの声は思いもよらぬ深さで私に突き刺さった。彼女の声の、この「生な」強さもまた新たな発見だった。マイクロフォンを通すことにより、サウンドとしての確固たる輪郭を獲得する声、すなわち録音の中で完結し得る声とこれまでとらえていたことを白状しよう。この日のライヴでもマイクロフォンは使用していた(さして広い会場ではなかったが。しかも私はかなり近い距離で聴いていた)。しかし、ライヴ特有の演奏の揺らぎ(それはソロによる弾き語りではなく、デュオ編成によることで、当然いつもより増大していたことだろう)にもかかわらず、いやそうしたミクロな不測の事態に溢れていればこそ、彼女の声はそれらを乗り越え貫き通す、「まっすぐな」力を遺憾なく発揮していた。アンコール(とは言え、彼女が舞台から退くことはなかったが)に応え、ソロ弾き語りで歌った際の6弦ストロークのばらけた響きが、まだ耳に残っている。

 Satomimagaeの第1作『Awa』を知ったのは、奈良pastel recordsを通じてだった。同じく彼女による映画のサウンドトラック『耳をかく女』も、そして第2作『Koko』もpastel recordsで手に入れた。そして今回のライヴのことを、本当に開催直前になって知ったのもpastel records(寺田兼之)のツイートを通じてだった。人の結ぶ縁というか、出会いというのはあるものだ。以前にも書いたが(※)、私がpastel recordsを通じて、いや寺田兼之の耳を通じて初めて知ったアーティストや作品は、Richard Skelton / A Broken Consort, Tomoko Sauvage, Annelies Monsere, Federico Durand, Aspidistrafly, Julianna Barwick, Kath Bloom & Loren Conners, Mark Fly(活動再開後の), Squares on Both Sides, Movietone, Balmorhea, Efterklang, Masayoshi Fujita / El Fog, Talons', Tia Blake, Susanna, Lisa O Piu, Cuushe『Red Rocket Telepathy』等、枚挙に暇がない。Satomimagaeという素晴らしいアーティストを教えてくれたpastel records 寺田兼之に改めて感謝したい。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-254.html
 なお、上記ブログ記事で閉店を伝えたpastel recordsは現在も小規模ながら営業中。
 http://www.pastelrecords.com あるいはストアページ http://pastelrecords-store.jp
 を参照のこと。
 ちなみに寺田は自身のブログでSatomimagae『Awa』を紹介している。
 http://blog.livedoor.jp/marth853/archives/51973810.html

 
        『Awa』                 『Koko』

Satomimagaeホームページ http://satomimagae.jp
※youtubeやsoundcloud上の音源へのリンクも張られている。


Satomimagae『Koko』 Release Party
2015年7月4日(土)
大森 成田山圓能寺
加藤りま
34423
Satomimagae
Opitope(伊達伯欣+畠山地平)+ 智聲

ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:36:47 | トラックバック(0) | コメント(0)

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