2015-08-31 Mon
延び延びになっていたディスク・レヴュー執筆だが、次から次へと興味深い作品のリリースが続き、これではいつまでたっても選盤に入れない。ということで、無理矢理に区切りをつけてご紹介することにしたい。まずは器楽的インプロヴィゼーションからの10枚。本来なら今年に入ってからの「タダマス」レヴューで触れた菊地雅章のクワルテットをはじめとする作品群も採りあげなければならないところだが、先の事情により割愛させていただいた。引き続き音響的インプロヴィゼーションやフィールドレコーディング系の作品も採りあげていく予定である。そちらは作品数がさらに多いので、幾つかに分割して執筆・掲載することになると思う。乞うご期待。
Uchimizu Uchimizu01
John Butcher(tenor saxophone,soprano saxophone)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/uchimizu/uchimizu-01.html
冒頭、リードの手前で音にならずにもやつく吐息のたゆたいが、眼に見えるように浮かび上がる。ブレスの際に漏れる息遣いに全身の、生身の緊張が映し出され、聴き手の身体に伝染する。音の消え際にふっと気配のようにその場のアコースティックが浮かび、いま自分が演奏者とひと連なりの空間に座して、同じ空気を呼吸しているかの幻想に一瞬とらわれる。質の高いレンズで撮影した写真のように、対象の輪郭が空間に溶ける部分のボケ味が、丸みのある立体の、複雑に折り畳まれた響きの襞の確かな手触りを伝える。引き伸ばされた持続の中で、「一音」をかたちづくる各層がふっと芽吹き、すっと枝を伸ばす。重音奏法とか、重層化されたポリフォニーというのは、ずいぶん解像度の低いとらえ方だったことに今更のように気づかされる。いや「解像度」と言ってしまうと、単に録音機材のスペックの問題であるかのような誤解を与えかねない。これは空間と響きをいかに見極めるかという視点の設定の問題である。録音を担当したのは「tuba吹き」高岡大祐。これは単に音楽家だから、管楽器奏者だから可能になった録音ではない。ふだんから音を放つことで空間を探査/聴診する演奏を続けている「音の釣り師」だからこそできる業だろう。John Butcherの演奏を初めて聴いたかのような衝撃を受ける(今までCDであるいはライヴで、聴いたつもりになっていたのは一体何だったのか)。今年のベストワン候補が早くも登場してしまった。

another timbre at85x2
John Butcher(acoustic & amplified saxophones), Angharad Davies(acoustic & amplified violin), Rhodri Davies(electric & pedal harp), Lee Patterson(amplified devices,processes)
試聴:http://www.anothertimbre.com/commonobjects.html
深い闇の中で、固く強ばり拘縮していた四肢が氷解し、硬直がゆるやかに伸びていくにつれ、次第に世界がその姿を現し始める。水の滴りや急な温度変化により石室が立てる軋み。それらが空間に広がり映し出す影。ふつふつと滾るような内臓各部のつぶやき。引き攣りあるいはぐったりと弛緩する筋肉のざわめき。神経の昂りが高周波のように鋭く脳内に響き渡る。それらの音響が遠近を欠くばかりか内外の区別すらなく混濁し、原形質状に蠢き震えている。まるで折口信夫「死者の書」の冒頭、目覚めの部分のサウンドトラックのようだ。耳の視界の片隅を占めるに過ぎないちっぽけで希薄な物音が、これしかない仕方で緊密に重なり合い結び合わされて、音響の張り詰めた推移をつくりだす。引き伸ばされた持続音や繰り返しの重ね合わせによらずに、彼らがそうした状態を創出できている理由のひとつとして、ここ(CD1枚目に収録された「cup and ring」)で彼らが図形楽譜を用いていることが挙げられるだろう。しかもそこでモチーフとなっているのは、付近の新石器時代の遺跡から出土する石や岩に彫られた線条の文様である。ただ視覚的なグラフィックと言うだけでなく、古代へと遡る想像力がここでの彼らの演奏の基盤となっていることは想像に難くない(同様の事態を私たちはすでに三上寛・灰野敬二・石塚俊明によるVajraの第1作で体験している)。CD2枚目に収められた集団即興も見事だが、まず何よりもこのRhodri Daviesによるコンポジション「cup and ring」の演奏を聴いてほしい。

Clained Responsibility CLAINED 4
Ted Byrnes(percussion)
試聴:http://www.art-into-life.com/product/6214
金属製や木製の音具、ドラム、電動ドリル等を用いたソロによる即興演奏。ざっくりとかき混ぜられ、あるいは高速で撹拌される音響。四方八方から流れ込み、至るところで衝突し混じり合う混在郷。眼前に迫るほど至近距離でとらえられた音像は空間をはらまず、残響は一瞬で揮発する。それゆえ打撃/摩擦の瞬間に弾け飛ぶ音粒子が眼に痛く、また、衝突の衝撃が打撃に微細なクリナメン(ルクレティウスの言うところの)をもたらし、高速の連打が次第にぶれていく様子が曇りなく鮮明に写し取られている。演奏する身体の運動よりも、高速で振動し、遷移し、変容する対象物=物体の運動が前景化してくるのも、同じ原理による。音響機械の自動運動、熱による分子運動のランダム化、もつれてはほどけていく音流に向けて、廃品集積場を漁るようなジャンクな構築は、ますます人の手を離れ、冷ややかにマテリアルな強度をたたえながら、エロティックに崩壊して行く印象を与える。彼はLAFMSと親交が深く、何と大編成版のAIRWAYにも参加していたりするのだが、このことを踏まえて坂口卓也氏が本作に関し「技術を意識させない変なことをあれこれやっているが、『面白いだろう?変だろう?』という意図が全く無い」と実に的確な評を述べている。限定100枚とのこと。紹介してくれたArt into Life青柳氏に感謝したい。

Pleasure of the Text Records POTTR1303
Paul Lytton(Trobiander laptop,miscellaneous percussion instruments,objects and implements,electro-mechanical devices,frame plus CnC Elektronics)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=20776
様々な小さな音具を用い、多彩な音色を駆使したソロ・パーカッションによるインプロヴィゼーションという点では前掲作と同じだが、ここで打撃の密度や変化はよりゆるやかになり、演奏する身体、発せられる音の行方に耳を澄ます生身の体の持続が際立ってくる。エレクトロニクスの使用により音色の幅は本作の方が広く、おそらくはサンプリングされたのだろう動物の鳴き声も聴こえる。また、前掲作では皮膚の表面を高速で駆け抜けていった音粒子の、あるいは打撃のパルスの心地よいシャワーは、ここで金属片を擦り、スプリングを撓ませる力動の生々しい触覚に取って代わられている。放った音がすぐさま耳の視界を離れ消え去る前掲作に対して、ここで響きはねっとりととぐろを巻いてこの場に居座り、周囲の空間へじくじくと滲み出していく。だからここでフリー・インプロヴィゼーションは音響の泥沼との果てしない悪戦苦闘として現象している。音響素材のパレットとしては限りなく音響的、エレクトロ・アコースティック的でありながら、器楽的即興演奏の範疇に本作を置きたいのは、前掲作と比較しながら、この身体の誠実な不自由さを直視したいからにほかならない。Evan Parker Electro-Acoustic Quartetの一員として来日した際の演奏の無様さがずっとトラウマになっていたのだが、これは優れた演奏だ。

ちゃぷちゃぷレコード POCS-9353
高木元輝(tenor saxophone)
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=bHBit7KNK80
https://www.youtube.com/watch?v=2d80j1T13v8
https://www.youtube.com/watch?v=MEWR-a86_zY
1996年9月15日、山口県防府市カフェ・アモレスにおけるライヴの埋蔵録音から、高木のソロ・パートのみを抜粋したもの。寡黙とすら言ってよい、口数の少ない静かな語り口は、穏やかさの中に濃密な情感(それは主に悲哀であるのだが)と揺るぎない意志の強さを秘めている。そのことは吐息をはらんでゆったりとくゆらされるテナーの軌跡が、いささかも上滑りすることなく、地平をがっしりと踏みしめ、自らを彫り刻んでいくことからも明らかだろう。ジャズ的なフレーズをふんだんに組み込んだ演奏は、その語彙やテンポ設定からすれば、紛う方なき「ジャズ」、それもスローでリラックスしたそれにほかなるまいが、背後に不可視のリズム・セクションの存在を感じさせず、ただただ自らの息と空間の、響きと沈黙の張り詰めた均衡だけを足がかりとして細い綱を渡っていく即興は、一瞬たりとも聴き手の耳を眠り込ませることがない。何よりも音の、息の、空間の気配を見詰め続ける高木のみ身の視線の強さに打たれる。彼の大きな眼は演奏時にはしっかりと瞑られているのだが、それとは裏腹に耳の眼はくわっと大きく食い入るように見開かれている。それゆえ彼の演奏は、フレーズの変奏を離れ、展開の道筋をほとんど見失って、音のかけらと戯れる時も、硬質な輪郭と充実した重み、確かな手触りを失わない(この「極めて具体的な抽象性」のあり方はスティーヴ・レイシーを思わせる)。荒々しく粗雑なブロウにまみれた形骸化せる定型としての「フリー」を求めるのでなければ、きっと満足できることだろう。入手可能な録音の少ない高木の、貴重な音源の登場である。

Shhpuma Records SHH006CD
Joana Sa(semi-prepared piano,bells and serens installation,toy piano,noise boxes&mini amps,harmonium,flexible tubes), Rosinda Costa(voice)
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=20396
不安げな女声の語りの背後でさらに不安と緊張を煽り立てる音響は、声が止んでもそのまま自らの運動を繰り広げていく。凍てついた空間に波紋を広げるピアノの重厚な打鍵、搔き鳴らされたピアノ弦の高鳴り、沈黙をざらざらと傷つける針音や回り続けるフィルム・リールの動作音、遠く聴き取りにくいヴォイスの混信、プリペアドにより生み出された虚ろな響きが空間に不思議な文様を浮かび上がらせ、突如として鳴り渡るベルやブザーがきりきりと胸を締め付ける。語りをフィーチャーした作曲作品なのだが、作曲者自身による演奏は、見事なまでに即興的強度に溢れている。特に遠近配置の巧みな撹乱と多元的な要素の混在のもたらす、夢見るように多層が交錯する幻想性において。Clean Feedが流通を担当するポルトガルのマイナー・レーベル。2013年作品だが、他に紹介するところもないと思うので。

ジャケットはブックレット仕立てになっている。

Cipsela Records CIP 002
Jose Miguel Pereia(double bass), Marcelo dos Reis(nylon string guitar,prepared guitar,voice), Joao Camoes(viola,mey,percussion), Burton Greene(piano,prepared piano,percussion)
試聴:https://cipsela.bandcamp.com/album/flower-stalk
1960年代にESPレーベル等に残した録音で知られる白人ピアニストBurton Greeneだが、このCDの内ジャケットでは、まだ若い共演者に囲まれて、年老いた吸血鬼のように元気な姿を見せている。緊密に絡み合う集団即興は、弦の軋みが「音響」への離陸の気配を示しながらも、研ぎ澄まされ切り詰められたピアノの打鍵やプリペアドに象徴されるように音のボディの確かな重みを手放さない。一方、たとえ音数が増えてもフリー・ジャズ的な放埒さには決して至らず、冷ややかな構築が揺らぐことはない。瞬間を切り裂くギターの閃きがソロに転じると意外なリリカルさを見せ、駆け回るヴィオラが弦を焼き切らんばかりに加熱すると、他の3人はこれを冷ややかな距離を置いて眺め、自然とソロになる「離見の見」的なバランス/構成感覚は特筆すべきだろう。2曲目冒頭部分でギターとダブルベースのデュオが張り詰めた時間の中で浮き沈みし、情感をゆるやかに醸成していく様も見事だが、その緊張を些かも損なうことなくピアノとヴィオラが加わる手口の鮮やかさ(ロベール・ブレッソン『スリ』が捉えた水も漏らさぬ連携作業を思わせる)には、本当にぞくりとさせられる。Greeneの確かな技量と氷のような抑制がもたらす透徹した覚醒感が何より素晴らしい。彼がPatty Watersのピアニストだったことを改めて噛み締めざるを得ない。ポルトガルの新生レーベルから。300枚限定。ちなみにレーベル第1作はCarlos Zingaloのソロ。

Kye Kye 34
Malcolm Goldstein(violin,electronics,tapes)
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=w0XDRM0jM1Y
1960年代にJudson Dance Theaterとの共同作業のために制作された2曲のエレクトロニックなコラージュにヴァイオリンのソロを重ねた演奏、ボスニア・ヘルツェゴビナのフォークソングに基づいた作曲、あらかじめ準備のないオープンなインプロヴィゼーションが1枚のLPに収められている。50年の歳月が。比類なき超絶技巧によりながらも、時に弦を責め苛むためだけにせわしなく飛び回るかに聴こえてしまう彼の演奏は、ここでエレクトロニスの混交やヴェトナム戦争に対する反戦運動の記憶、民族文化への憧憬等の厚みを踏みしめることによって、隅々まで血の通った、重く深い情感をたたえたものとなり得ている‥‥と言ったら、あまりにロマンティックな物言いだろうか。しかし、身をよじり、ねじれ、自らを果てしなく切り刻みながら、軽々しい切断や飛躍を許さず、透徹した持続を貫いていることが、本作に何時にも増した強度を与えていることは確かであり、それをしっかりと裏打ちしているのは、時代の変遷を乗り越えた強靭な記憶にほかならないのだ。レーベルとの組合せに意外性を感じるが、Kye主催のフェスティヴァルへの出演、そこでの演奏が本作制作のきっかけになったと言う。旧作を一部転用しているとは言え、すべて新録音とは恐れ入る(1936年生まれだから、今年で79歳のはず)。ジャケット及び付属のインサートの装画も彼自身による。

Black Truffle Records BT016
Arnold Dreyblatt(excited strings bass,electric guitar,dynamic processing electronics,electric double-neck lap "hawaiian" steel guitar,e-bow), Dirk Lebahn(excited strings bass), Jan Schade(miniature princess piano), Wolfgang Mettler(violin), Wolfgang Glum(percussion), Michael Hauenstein(excited strings bass,hurdy gurdy), Tracy Kirchenbaum(excited strings bass), Peter Phillips(miniature princess piano), Kraig Hill, Eric Feinstein(french horn), Peter Zummo(trombone), Paul Panhuysen(prepared electric bass guitar,automated plectrum)
試聴:http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=17229
再評価が高まっているのか、Dreyblattの発掘音源がまた一つリリースされた。本作は1980年代の録音からOren Ambarchi(!)により編まれている。LP2枚組、各面20分程度の収録というヴォリューム。強烈な打弦が豊穣たる倍音の雲を立ち上らせ、それがアンサンブルにより交錯/衝突しながら豊かに息づく一方で、幾重にも敷き重ねられたアルコが、軋み/唸りを上げながら積み上がり重層化していく。そうしたプロセスにより擦弦楽器に特徴的な音色は解体し尽くされ、接触不良のエレクトロニクスがつくりだす、消える寸前の蝋燭の炎にも似た不安定な揺らめきとしか聴こえなかったりするのだが、そうした音響現象への溶解というか遡行はDreyblattの意図したところだろう。にもかかわらず、音響的な希薄さへと離陸しきれない、どうしても脱ぎ捨てられない肉の重さとでも言うべきものが、ここには宿命的に刻印されており、それが彼の音楽に独自の位置づけを与えている。音響的なエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションではなく、こちらの範疇に置いた所以である。

Oddullabaloo ODDITY1501LP
La Monte Young(voice,sine wave drone,bowed gong), Marian Zazeela(voice,bowed gong)
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=PizITBPWhXI
https://www.youtube.com/watch?v=otWZgXIpnV0
彼の初めての公式録音として知られる。大里俊春が「現代音楽の中からヘビメタの数百倍すごい奴」を10枚選んだうちの1枚(「巨大銅鑼の弓弾きで倍音の嵐」と紹介されている)。長らく入手困難だったので待望の再発。A面では一切の響きを伴わない声音が、ゆるゆると身をくねらせながら中空を這い回る声の多幸郷(ユーフォリア)が提示される。天女のように軽やかに舞うはずの声は、ここで重たい肉を背負い、前述のようにゆるゆるとカタツムリのように這い回るのだが、不思議と重力の頸木は逃れている。対してB面では遠く距離をはらみ空間一杯に不明瞭に拡大した音響が、倍音や分割振動や部分共鳴や、いやありとあらゆる不均衡で非調和的な派生的音響をないまぜにして、波打ち、渦巻き、滔々と溢れ出す。ミニマル・ミュージックというより、工場の動作音や停泊する船舶の軋み、あるいはGilles Aubryが指し示した、壁に沁み込んで閉ざされた部屋に侵入してくる交通騒音等に近い。進み流れることなく、足下に澱みわだかまる「時」の姿をうっかり眼差してしまったような、畏れにも似た感慨が浮かんでくる。なお、このB面は33回転ではなく、16回転や8回転でも再生して構わない旨がジャケットに記されている。しばらく前にリリースされた2種類のLP音源(おそらくはブートレグ)で聴くことのできる、素早く振動するソプラノ・サックスやヴィオラ、細かく弾むパーカッション等を伴った演奏とは全く別物。異世界が眼前に広がる。


2種類のLP音源のジャケット。
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音との自由な交感が連れてくるプレ・モダンな風景 歌女@バレルハウス20150815ライヴ・レヴュー Free Communion with Sounds Brings Pre-Modernistic Landscapes Live Review for Kajo@Barrelhouse20150815
2015-08-22 Sat
解体されたドラム・セットはさらに増殖していた。フロア・タムが一つ増えて二つになっていたし、二つあるスネアは以前は一つだけではなかったろうか。もともと高岡のところにあったドラム・セットを解体して、バス・ドラムを平置きし、その周囲に残りを並べたものなのだから。対してパーカッションや音具類は放っておけば野放図に増殖してしまいそうなものだが、「運搬可能」という枠組みが功を奏しているのか、「歌女」の演奏を形容するのに引き合いに出されることのあるArt Ensemble of Chicagoのように、専用トラックが必要な事態には至っていない。以前のバレルハウスのライヴで見かけたザムンバ(ブラジル音楽で用いられる比較的小口径で非常に低音の出るドラム)は、今日は見当たらないし、金属ボウルや小シンバル等、石原と藤巻が共用するものが基本となっている。演奏開始前にステージ部分の照明を調整しているマスターが、「今日の主役は?」と尋ねると、すかさず高岡が「この二人です」と答える。えっと顔を上げる石原に、高岡がしょうがないやろ、そんな時もあるよと説明にならない説明を返す。左手側の石原の立ち位置にことさらにスポットが集中し、右手前、チューバの置いてある場所は薄暗がりに沈むこととなった。
演奏が始まっても、打楽器の二人は緊張しているのか、とりあえず手元の小パーカッションにおずおずと手を伸ばすだけ。スネアの上に乗せた小シンバルをいじり、スネアの打面をこすり、細い鎖をあちこちに投げかける石原。スリットの入ったシンバルを突き回し、あるいはスリットに通した音具で弓弾きして、響きの加減を手でミュートしたりフロア・タムのスキンに振動を移したりして調節する藤巻。高岡は丸っこい音色の持続音を奏で、時折ゆったりとくゆらして、凪いだ海にも似た緩やかな時間を紡いでいる。
高岡が息も絶え絶えな風に音色をひしゃげさせ始めると、打楽器の響きもこれに呼応するように尖り出す。共に鋭い突っ込みを見せながら、パルスやビートを前面に出すことを厭わない藤巻と、アタックを分散した「ばらけた感じ」にこだわる石原が対比を描く。
高岡が一瞬息音に転じ、打撃音の集積の内部にすっと入り込む。高岡はほとんどそこに留まらず、単に通過するだけですぐ吹き止めてしまう。それでも、小魚の群れを大魚が突っ切ったような変化がそこに生じる。打音の密度がさらに高まり、特にそれまで意識的に音を散らばせていた石原が、鋭い連打の突っ込みを見せる。最初はごく短い集中が間歇的に繰り返されていたのが、次第に長くなり、藤巻のパルスと重なりあいながら、二人の打音が一定以上の密度で衝突/交錯する「空間」がかたちづくられる。
しばらく前から、息音ではなく管を鳴らした音を吹き切って進んでいた高岡が、ファンキーなリフに転じて演奏を煽り立てる。フリーな「叩き」が一気に炸裂するが、石原や藤巻はスティックの振り下ろし運動に没頭して我を忘れたり、分厚い打音の雲に姿を隠したりすることがない。演奏には最初からON/OFFの波が組み込まれていて、二人の相互の応酬や共同歩調が波状攻撃状に爆撃を繰り返す。小型の「おりん」にスティックを突っ込んでかき混ぜる非常ベルにを思わせる甲高い響き(石原による)が実に効果的だ。煎り豆が一斉に爆ぜ始めるように、打撃が多咆哮に一気に沸騰する。高岡は右脚を大きく曲げ伸ばししながら、目まぐるしいパッセージを繰り出し、果敢に爆心地に躍り込む。
極めて高密度の応酬の中で、高岡がすっと立ち上がり左手側に場所を移す。これにより石原が手前に、藤巻が奥へとほぼ90度、二人の配置が回転する。これをきっかけに二人の鏡映しの「対面性」がクローズアップされる。百人一首大会のように互いに先を競う動き。動いた瞬間へと突っ込む「モグラ叩き」的応酬。至近距離で向かい合う二人の間で、音響は合わせ鏡的に増殖し、乱反射二人は互いに相手の陣地に侵入しあい、差し違え、すれ違い、つばぜり合いを繰り返し、がっぷりと四つに組んで、打音の高層タワーを築き上げる。この間、高岡は吹いていない。向かい合う二人の重合分裂が生成する響きをじっと見詰めている。
やおら高岡が立ち上がり、再び右手に位置を移す。立ったまま、チューバを大きく傾け、冒頭よりもさらに一層ゆったりと引き伸ばされた深い響きを奏でる。穏やかさを通り越して、いささかマジカルな少々苦みのある強烈な甘さが滲み出す。打撃の密度が小さくなり、一つひとつの打音も物音系に移行し、生々しさが薄らいで枯れてくる。遠くでビートが鳴っている。モノクロームな景色として。藤巻の描いたリズミックなパターンに石原が絡み、その上で高岡がゆったりとうねるソロを奏でる。甘く苦く悲しい夏の日の午後の葬送ブラス音楽(決して死を陽気に笑い飛ばすそれではない)。くっきりと濃い影の落ちた響きが、様々な思い出を呼び覚ましていく。不意に胸の奥から不定形の何かが込み上げてきて、深くにも泣きそうになった。うるむ視界の中で、高岡は右脚を力強く踏み込みながら、さらに彼方へと響きを紡ぎ続ける。サウンドの密度が再び高まるが、先ほどよりずっと音粒子がきめ細かく、肌にやさしい。二人の応酬により生成のスイッチが入ると、高岡は吹き止め、二人を先に行かせておいて、行く末を見定め、拡散した音響にゆるやかなリフの網を投げかけ、ゆっくりと減速していく。音量の水位が下がる中、酔客の話し声が浮かび上がるが、それも広がる音景色の細部として収まり、まったく苦にならない。
このまま日常を満たす物音に沁み込むように終わってしまうこともできたのかも知れないが、高岡はそうはせず、ノンブレスによる慌ただしくアブストラクトなフレーズで再び加速を図り、それでも足りないのか、自ら手を伸ばしてシンバルを叩く。二人がそれぞれシンコペーションの相互応酬で応える。音弾が乱れ飛び、軌跡が交錯して、見上げるような音の壁を築く一方で、至近距離での乱反射が生じ、速いパッセージの吹き切りに転じた高岡の向こうで、どろどろと雷鳴が轟く。前半の終了。

不安を募らせる始まりにもかかわらず、その後の展開は極めて充実していて、常にライヴでレヴェルの高い演奏を繰り広げる「歌女」にあっても、トップクラスの演奏ではないか。なぜ、これを録音してないのかと詰め寄りたくなるところだが、いや、いつも通りの演奏だと軽くいなされそうだ。特にライヴ当日になって、石原・藤巻の二人にフォーカスしたレヴューを、前回の補足として書き上げた身にとっては、二人が剣術で言うところの「先の先」や「後の先」を「モグラ叩き」的に取り合いながら、同質性/交換可能性を発揮し、高岡の移動に合わせて90度回転してみせた場面や、合わせ鏡的な自己増殖/乱反射を通じて自力で局面を打開した流れに、「あんたがレヴューで書いていた地点のはるか先を、俺たちはもう行ってるんだ」という力強い宣言を聴いた気がした。評者冥利に尽きると言えよう。カウンターで隣に座った原田正夫に、「ふと横を見たら、身体がものすごく前後に揺れていて、あんなに大きく揺れてるのは初めてみ見た」と後で言われた。それだけ大きく全身で頷いていたのかもしれない。
高岡が「最近tubaの音が多くなったと言われた」とFacebookに書いていたが、息音をはじめとした特殊奏法よりも、ちゃんと管を鳴らす音が多くなったと言う意味では、確かにそうかもしれない。だが、当たり前過ぎて今更こんなことを口にするのも気が引けるが、そのことは高岡の演奏が保守的になったとか、冒険に欠けるといったことを意味するものでは全くない。これはごく単純に、音色の強度で演奏の場を支えなければいけない場面が減ったということだ。今回の演奏でも、高岡が息音に転じて、石原・藤巻のつくりだす音の層に割って入ることはほとんどなかった。もはや彼らは自分たちの力で局面を打開し、新たな展開を生み出すことができる。ならば高岡が「それとは別のこと」をするのは当然だろう。
ここでもうひとつ言及しておきたいのは、今回の「歌女」の演奏が強く情感を喚起したことだ。一般に音楽において、情感は「うた」やメロディに宿るものであり、アブストラクトなインプロヴィゼーションとは無縁なものと思われている。しかし、そうとばかりは限らない。たとえばフリー・ジャズと呼ばれる一群の音楽の中には、情感を強く揺り動かすものがある。プレ・モダンな風景の喚起を通じて。
そんなことを思い出したのは、会場で幕間にアルバート・アイラーがかかっていて、高岡がふと「いま聴くと全然変じゃないのになあ。ビブラートもあんまりかけずに、ただただ一生懸命吹いてる‥」とつぶやいたのを聞いたからかもしれない。あるいはリハーサルを終えて開演まで外に出かけようとした彼らが、ふとカウンターに立てかけられたアート・アンサンブル・オヴ・シカゴのLPに眼を留め、彼らが80年代に来日した話を高岡が始めたからかもしれない。あるいはオーネット・コールマンが逝去したことが、頭のどこかに引っかかっていたからかもしれない。いずれにしても、彼らやジュセッピ・ローガンのフリー・ジャズには、プレ・モダンな風景の記憶が拭い難く付いて回る。まるで呪いのように。
清水俊彦による歴史認識を踏まえれば、ジャズにおけるモダニズムの口火を切ったのが1940年代のビバップであるとして、ありとあらゆる夾雑物/不純物を取り除くカント/グリーンバーグ的モダニズムに駆動されたモダン・ジャズの運動が、その後の20年を眼にも止まらぬ速度で駆け抜け、その到達点として60年代のフリーへと至ったととらえられる。そうしてたどり着いたモダニズムの極点であるフリー・ジャズに、色も匂いもあるブレ・モダンな風景が宿るというのは、矛盾しているように思われるかもしれない。
無論、フリー・ジャズと呼ばれる音楽が、常にプレ・モダンな風景と連れ立っているわけではない。たとえば、セシル・テイラーやサン・ラにそうした風景は感じられない。「ブラック・ミュージックとしてのジャズ」の正統性というかたちで、ブラックネス(ネグリチュードと言うべきか)を強調すればするほど、プレ・モダンな風景と縁遠くなる気がするのは、契機として解体・再構築を含むからだろうか。スタンダードに対する解体・再構築そのものであったビバップのパイオニアたち、チャーリー・パーカーやモンク、マイルス、ミンガスたちの演奏にも、アイラーやオーネットに特有の、あの風景の手触りが浮かぶことはない。一方、解体・再構築の限りを尽くしたアート・アンサンブル・オヴ・シカゴがプレ・モダンな風景を連れてくるのは、彼らがそれを何よりも大切にしたからにほかなるまい。ブラックネスの正統性を手放してもなお。それはジム・オルークが名指した「アメリカーナ」の流れにも当てはまる。チャールズ・アイヴス、ジョン・フェイヒー、ヴァン・ダイク・パークス、そしてかつてのオルーク自身。彼らはまさに解体・再構築を活動の本性としながら、コラージュによるプレ・モダンな風景の創造を進めた。「古く忌まわしいアメリカ」の捏造を通じて。
この「フリーな演奏が連れてくるプレ・モダンな風景」が何であり、どのようにして生み出されるのか、はっきり言ってよくわからない。ただ、それが、ジャズとかブラック・ミュージックとかアメリカという枠組みによるものでないことは確かだろう。なぜなら、ヨーロッパにおけるフリー・インプロヴィゼーションの演奏にも、同質の手触りが感じられるからである。ミッシェル・ドネダ、ル・ニン・カン、デヴィッド・トゥープ周辺については、トラッドや民族音楽とのつながりで説明しようと思えばできるかもしれない。しかし、ロル・コックスヒルや1970年代あるいは晩年のデレク・ベイリー、さらには一時期のエヴァン・パーカー等にも感じられるのはなぜなのだろうか。
ひとつおぼろげに浮かぶ考えは、これらの演奏がみな周囲のざわめきと相互に浸透しあう性格を有していることだ。周囲の物音に触発され、それに引き出されるように音を放ち、放たれた響きはざわめきと混じり合って変容をきたし、空間に広がって演奏者を包み込む。音をそこにある空間や身体と切り離してパッケージ化することにより、音楽作品として自立/完結させるモダンな音楽のあり方に対し、こうした空間と身体の相互侵食によるフィードバックの回路へと、即興演奏を通じて下降/沈潜していくことが、プレ・モダンな風景を現出させるのではないかと。
フリー・インプロヴィゼーションはともかくとして、オーネットやアイラー、ジュセッピ・ローガンたちが、果たしてざわめきに耳を澄ましているだろうか‥と訝る声が聞こえてきそうだ。ジャジューカ・ミュージックの倍音の乱舞に煽られ、凧のように宙を舞うオーネットのアルトを、軍楽隊やファンファーレのような「遠い響き」に、あるいはハープシコードのきらめきに耳を澄ましたアイラーを、パティ・ウォーターズの漏らすあえかに震える声にフルートの吐息を寄り添わせたローガンを、もう一度聴いてみてほしい。フリー・ジャズとは決して肥大し切ったエゴを垂れ流すだけの音楽ではない。

2015年8月15日(土) 池袋バレルハウス
歌女(高岡大祐、石原雄治、藤巻鉄郎)
写真撮影:原田正夫
2015-08-15 Sat
前回の「歌女」+広瀬淳二のライヴ・レヴューで心残りなのは、分解されたドラム・セットやパーカッション、音具類を奏する石原雄治と藤巻鉄郎の違いを、ほとんど描き出せなかったことだ。これはひとつには、観察/描写のための軸線の固定ということがある。中央から四方八方に広がる打音に対し、高岡と広瀬が左右からアクトし、さらにドラムの演奏平面を俯瞰するだけでなく、その厚みへと浸透し、あるいは深みへと先行するという大きな変容の構図があって、これを描き出すためには、どうしても打楽器群に軸線を据えて固定し、そこから他の二人をとらえざるを得なかったという表現上の問題がある。例えば二人の演奏に言及する際の指示語が、高岡/広瀬だったり、チューバ/テナーだったり、あるいは左/右と様々混在しているのは、そうした表現戦略の一部である。この視点からは石原と藤巻を渾然一体にとらえる必要があった。
もうひとつには、「15ゲーム」のピースの移動のように、空いたスペースを利用して次々にサウンドの編成を組み替えていく二人のやり方が、以前よりもはるかに流動的になっていて、「固定された役割や性格の違い」に基づいて両者を描き分けるのは、一見、「解像度」を高めるようでいて、実際には実態を正確にとらえていないと感じたことだ。
二人はともに高岡大祐のレーベルblowbassから、高岡の優れた録音(その素晴らしさはJohn Butcher『Nigemizu』により、世界中に明らかとなった)によるソロCDをリリースしている。その石原雄治『打響音集1』と藤巻鉄郎『奏像』では、二人はまだ「わかりやすく」異なっている。以前の「歌女」のライヴでも、いささか乱暴な言い方になるが、「ジャズ」をベースにして演奏を発展させた石原と、「ジャズ」がベースにないところから発想している藤巻の違いは、はっきりとわかりやすく両者の個性となっていて、これにより「歌女」の演奏は、異なる二つの光源から立体的に照らし出されていた。


前回レヴューした早稲田茶箱でのライヴでは、光源はもはやそのように固定されたものではなく、自在に移動/組み換えが可能なものとなっていたと言えよう。そのことが象徴的に表れていたのは、後半の場面で、椅子に腰を下ろしていた高岡がやおら立ち上がり、右側、広瀬の立ち位置のすぐそばに移動した。これをきっかけとして、向こう側にいた藤巻が左にずれ、石原もこれに応じて位置をずらし、その後も演奏を続けながら、そのようにずれ続け、ついには当初の位置取りから180度回転してしまったことだ。もちろん、彼らは観客に見せるための「パフォーマンス」として回転移動を演じたわけではなく、サウンドの更新を求めてそうしたに過ぎない。だが、いずれにしても、この「回転」により、二人は位置を取り換えただけでなく、分解されたドラム・セットの各部やそこに取り付けられたパーカッション類との位置関係も好感したことになる(ちなみに各種スティックやマレット、小さな音具等は、二人とも腰に吊るした「工具入れ(?)」に収め、身に着けている)。すなわち端的に言って、彼らは音色を、役割を交代したのだ。むろん演奏位置は出発点に過ぎず、そこに広がる演奏可能性から何をピックアップするのかは、演奏者の判断にかかっているにしても。
こうしたサウンドの組み換えの柔軟性/流動性、互いの役割の交換可能性を支えているのが、二人に共通して見られる「鳴り/響き」への細やかな注視にほかならない。それは単に音色への鋭敏さにとどまらず、打音の隙間の繊細なコントロールに至っている。彼らは音を「叩きっぱなし」にしない。同じレベルのドラムの連打/ロールであっても、スキンを盛大に震わせ、振動が折り重なり、分厚く稠密な音の壁を築く時もあれば、打撃の瞬間にスティックの先端で打面を的確にミュートし、くっきりと隙間を保つこともしてみせる。ここで基層は後者にあると言ってよいだろう。ツイン・ドラムのフリーな高揚(多くの場合、それは酩酊と表裏一体だ)を目指して徒に盛り上がるのではなく、数えきれない量の音粒子が乱れ飛ぶ濃密さの中にあって、なおかつ空間/隙間を失わないこと。このことが高岡や広瀬による潜行/浸透を可能としているのだ。
こうした感覚の在りようは、先に触れた二人のCDが、音を生み出すアクションよりも、打面の震えや空中にたちのぼる響きに、それぞれ異なる仕方で焦点を合わせていることからもわかるように、二人の探求/鍛錬によるものだろう。だが私は、そこに同時に高岡の感覚の反映を見ずにはいられない。
これも前述したように、高岡がFacebookに書き込む釣りの話はいつも面白いのだが、そこでは釣りの対象であるはずの魚だけが特権化されることはない。肌に感じられる風や波のしぶき、眼に見える堤防の岸壁やテトラポットの配置、釣り糸で探られる水底の起伏や水中の流れの多方向からのぶつかりあい、こうした多面的な生成流動が魚信、アタリと一続きの連続した景色の諸相としてとらえられる。そうして「連続」の相が強調される一方で、本来ひとつながりでしかあり得ないはずの「水」は、層に分かれ、固まりを形成し、それが動き、ぶつかってくる‥‥といった「隙間」をはらんだものとして描き出される。
そうした表現にぶつかった時に、いつも瞬時にフラッシュバックするのは、韓国映画『風の丘を越えて/西便制』に出てきたパンソリの練習のエピソードである。パンソリを学ぶ少女がどうどうと流れ落ちる滝に向かって声を放つことを求められる。滝の水は一連なりにつながって落ちているわけではない。水は固まりになって落ちているのだ。当然、生まれる音にも隙間がある。そこを狙って声を通すのだと。
「水」を通じて、存在が充満する世界の連続性を感じ取る一方で、そこに隙間があることにもしっかりと感覚が触れている。「歌女」の演奏の基盤には、そうした感覚が横たわっているように思う。おそらくは「大歌女」にも。
ともあれ、「歌女」の次回ライヴ、本日である。
8月15日(土) 19:00open 20:00start
池袋バレルハウス(豊島区池袋2−22−5 東仙第2ビル2階)
歌女(高岡大祐, 藤巻鉄郎, 石原雄治)

ジャケット写真は高岡大祐ブログ「旅のtuba吹きdaysukeの日々」※から、イラストは石原雄治Facebookページから転載させていただきました。なお、イラストは、前回レヴューした早稲田茶箱ライヴ時の様子を、石原の友人の方が描いたもの。
※http://d.hatena.ne.jp/daysuke/
2015-08-13 Thu

2015年6月11日、Daren Mooreのシンガポールから日本への「移住」記念ツアーの一環として、吉祥寺Foxholeにて、歌女(高岡大祐、石原雄治、藤巻鉄郎)に竹村一哲、Daren Mooreを加えた「大歌女」が初お目見えした。ドラマー4人(!)にチューバ!!
想像を絶する異常な編成とも見えるが、決してそうではない。それは単に高岡が自身で言っている「ドラマーたらし」とか「打楽器ハーレム」の結果ではない。
と言いながら、私は残念ながら所用で、その公演を見ていない。この編成に期待する理由を、前回体験した歌女+広瀬淳二によるライヴ(それはもう3か月以上前のことになるのだが)を通じて述べてみたい。
通りから狭い階段を降りると、会場の早稲田茶箱は昔ながらのスナックや喫茶店のような空間だった。カウンターを畳み、テーブルや椅子、藤のソファ等を周囲の壁際に押し付けて生み出した中央のスペース、木の床のフロアに分解されたドラム・セットが並べられている。大小のシンバルのスタンドやタムのまわりには、さらに音具が吊り下げられ、さらに打面を上にして横向きに置かれたバス・ドラムの上にも、大小の金属ボウルをはじめ、様々な音具やスティックが並べられている。一方の壁面に設えられたJBLの巨大スピーカーの上や前面にも、楽器ケースが幾つも積み上げられ、あるいは置かれているから、ライヴのセッティングを施したというより、どうにもこうにも収拾のつかなくなった楽器の山を崩しながら片付けていたら、たまたまこうした配置になったように見えないこともない。天井はあまり高くない。先に戻って来て隅に立っている広瀬は、少しやせて小さくなった印象。店内には気怠いテクノ・ミュージックがかかっている。
解体されたドラム・セットは周囲を巡れるようになっているが、とりあえず私の位置から見て、奥に藤巻、手前に石原、左に高岡、右に広瀬(この日はテナー・サックス)の位置取りでスタート。左右から噴き出すざらざらした息音の交錯にシンバルの揺らめきが重ねられる。チューバが息の「たが」を緩めると、テナーは苦しげに息をもつれさせて、バス・ドラムの打面で弾むスティックを横目で見ながら、キュウキュウとした鳴りへと上ずっていく。手に持って打ち鳴らした小シンバルの振動をタムやバス・ドラムに触れさせて、「移す」試み。ランダムに弾むスティック。チューバの遠鳴り。息が鋭く迸り、テナーは痰の絡んだような湿ったノイズから破裂音へと移行していく。そうした昂まりにドラムは追随せず、タムのスキンをこすり、スティックをかしゃんと打ち合わせる。チューバもまたゆっくりと低音を徘徊する。テナーのリードの高速の振動が、まばゆく銀色に輝く軋みとなって遊離し、太い低音と二極分解しながら、やがて重音の中に綴じ合わされ、持続音の並み立ちへと姿を変える。時折思い出したようにぼうっと響いていたチューバもまた小音量の持続へと移行し、左右の間に波打ち撓み振動する音のスクリーンが張られる。ドラムは細かな刻みが増えてくる。
左からノンブレスの持続音が緩やかに波打ちたゆたいつつ低音を徘徊すれば、右からは高域のノイズを含んで持続が高鳴り、泡立ち、ひしゃげた叫びを上げる。ロールを交えながらドラムの叩きの密度が上がり、さらに金属質のノイズが中央から鳴り響くようになる。右からの絶叫は次第に透き通り、焦点を絞り込んで笛の音の鋭さに至り、滔々と流れ出したかと思うと、ふと鳴り止んでしまう。金属の響きに左から寄り添っていた破裂音の震えは、ボウルによりミュートした持続音の不安定な上下行へと移行する。それと共に中央からの響きは倍音を多く含んだ「こすり」へと展開し、これにチューバのベルをボウルでこする音、テナーのベルを金属でこする軋みが重ねられる。チューバのベルの中に入れられたボウルがノイズを粒立たせ、ざらざらとした振動を放つ。
右から鋭い破裂音の連鎖が次第に引き伸ばされ、左からのホラ貝の響きと溶け合いながら揺らめき、軋み叫ぶ。しかし、このテナーの再開とチューバの応答による新たなモードに対し、ドラムは明解な応答が出来ず、シンバルを床に落としクラッシュさせる。
ここまで左右から滲んできた響きが中央で混じり合い、打撃によって息づき、あるいは奥から投げかけられる音響が左右の広がりを引き出すような、三方に広がる四者の巧みな連動は、いったん暗礁に乗り上げる。もちろんそれが悪いと言うのではない。それはこれまでうまく行って来たことにより、知らず知らずのうちにかたちづくられるルーティンを自ら突き崩すことであるからだ。見通しを失うことが新たな視界を開き、道に迷うことが新たな一歩を踏み出させる。実際、終演後の時点から振り返れば、この日の演奏は何度となく、このような壁に突き当たった。それはたいてい「うまく行っている状態」において、広瀬か高岡のどちらかが不意に演奏を休止することによってもたらされていた。
ここからしばらく、演奏は魅惑的な試行錯誤のうちに、不安定な移ろいやすい軌跡を描いて進むこととなる。シンバルを擦る響きとボウルの振動によるブザーのような鳴り、唾が泡立つような湿ったつぶやきが混じり合い、つぶれたボウルをあちこちに持ち運んだかと思うと、テナーがクジラやオットセイの鳴き声に似た甲高い叫びを放ち、チューバが一瞬速いパッセージで応答しかけるがすぐに止めてしまう。
ここでこれまであえて同期せず、分散を図っていた石原と藤巻が合わせ始める。ドラムから局面を打開しようという強い意志が感じられる。まずはシンバルの連打が分厚いうねりをかたちづくり、次いで各ドラムへのアタックが爆撃ポイントをずらしながら繰り返され、密度を上げながらシンコペーションの応酬へと至る。これに広瀬がパーカッシヴな跳躍で応え、高岡はチューバを大きく傾け、ゆっくりと回す。「そこに付け加えるべき音がなければ吹かない」という宣言通り、ここで彼はチューバを吹こうとしない。ドラムが掌で打面をミュートしながらの打撃に移行すると、広瀬も吹くのを止めてしまう。石原と藤巻はON/OFFを慌ただしく繰り返しながら入り乱れ、くっきりと音の隙間を保ちながら、ポリリズミックな平面を織り上げていく。ここで高岡がノンブレスのうなりを提供し、ドラムがランダムさを高めながら音量と密度を下げたところに、広瀬が高域のフラジオで乱入して燃え上がり、波打つロングトーンに転じて息をうねりよじらせる。対してドラムはさらに密度と音量を下げ、余韻を鋭く切り詰めた点描へと踏み出す。前半の終了。
ここまでのところで、うまく描写/記述できたか心もとないのだが、打楽器がリズム、管楽器がフレーズという通常の役割分担に拠っていないことを強調しておきたい。打楽器は多様な音色を駆使することによりリズムの「フレーズ性」、すなわちフレーズとして聴かれてしまう「まとまり」を解体し、それだけでなく音の濃度/密度に大胆に揺り動かし、サウンドの質感にアクトする。対して管はやはりフレーズよりもサウンドの質感に訴えながら、時に驚くほどパーカッシヴな資質を明らかにする。ここでサウンドの質感が、音色や手触りだけでなく、速度感、密度感、温度感、色彩感等、多岐に渡る広がりを持ち、演奏の主たる舞台となっていることに改めて注意したい。すなわち、ここで打楽器と管は相互に浸透しながら、サウンドの質感の多様なパラメータの中で交錯/衝突/溶解しあうのであり、管はいわゆる「上物(うわもの)」あるいは上部構造ではないのだ。だから高岡が、「歌女」やその他のアンサンブルを「ワンホーン(一管編成)」と呼んでいるのには注意が必要だ。それらは亡きオーネット・コールマンが、プライムタイムの面々が相互にミクロな闘争を不断に繰り広げつつ織り上げる平面の上空を、俯瞰するように飛翔するのとは、まったく構造が異なる。高岡や広瀬は息の破裂をドラムの打撃とぶつけ合わせ、リードや管の振動をスキンの鳴りと直接に触れ合わせる。だから演奏は、そのようにキメラ状に入り組んだ各部が相互にうごめくものとなる。ドン・チェリーのトランペットの息遣いと敏感な粘膜を擦り合わせ、ささくれたシンバル・レガートや打ち込むようなベースの一撃を、額で、頬で、首筋で、足裏で感じていたオーネットのオリジナル・クワルテットのように。
高岡は打楽器がかたちづくるリズム/サウンドが、距離を置いて対象化している時と、その中に入り込んだ時では、全く異なる様相を示すことを指摘している。それを彼が海に例えるのは、釣り師でもある彼が、海の見せる様々な表情を知り尽くしているからだろうか。細かいさざ波を立たせ朝日に夕陽にきらめく海面の下で、思いもよらぬ激しい流れのぶつかり合いが生じている。あるいは逆巻き高々と波頭を持ち上げる時化の底深くは、「しん」と静まり返っていたりする。表面は整ったリズミックなパターンとして編み上げられていても、その内部へと踏み込めば、まずはアタックが圧力や振動が多方向から襲いかかり、衝撃として、あるいは痛みとして感じられる。
高岡がFacebookに書き込む釣りの話はいつも面白いのだが、それは彼の文才によるだけでなく、彼の釣りが海中の様子を、水の動きや温度の階層を、水底や岸壁の地形・起伏、あるいはその表面の質感を、魚の動きを、糸の振動やアタリを通じて鋭敏に触知するものだからだろう。浮子の動きに眼を凝らすのではなく、竿を、あるいは糸を繰り出す指先をアンテナとして、垂らした糸で探査/触診すること。むしろ「聴診」という語がふさわしいかもしれない。端的に「聴く」こと。それは単に耳を注意深く澄まし、そばだてるだけでなく、全身の感覚器の感度を上げ、研ぎ澄ますことにほかならない。そして対象化のための距離を要する「見ること」と異なり、「聴くこと」は対象と距離を欠いて溶け合い、身体が輪郭をおぼろにして空間に溶け広がり、相互に浸透するところに開ける。例えば「香を聞く」とはまさにそうした身体の使い方にほかなるまい。
軽い破裂音がゆっくりと尾を引いて浮かび上がる。口先で砕けた息が、チューバの管の内側に反射を繰り返し、ベルのカーヴを滑走し、空中に放たれていく。
パタパタとした揺らぎが次第に響きとして層を成し、息のほとばしりへと収斂してテナーの音の輪郭を確立するに至る。そこに軋みが混じり始める。
分解されたドラム・セットやパーカッション類のあちらこちらをこすり、はじく音が一斉に芽吹き始め、それをざっくりとかき混ぜるうち、次第にアクセントが明確になり始める。
三者(打楽器は二人一組だが)のつくりだす音の網目が重なり合い、次第に細かくなってくる。スティックの動きが慌ただしさを増し、刻みが細かくなる打楽器音と、滲むように音を漂わせたテナーのゆったりしたフレーズが交差する。シンコペートされたリズムの重ね合わせ。ソフトなマレットと細かい出音の対比。ON/OFFを素早く切り替える打楽器に対し、高岡が右脚を曲げ伸ばししながらゆったりとフレーズをくゆらせ、さらに長く曲がりくねったフレーズを絡ませて、チューバを大きく揺り動かす。
高岡の右脚が目まぐるしく揺すられ、速い刻みの中に音が差し挟まれていく。テナーもまた加速し、ざらついたノイジーなフレーズを連発し、自らを切り刻む。断片化したフレーズが砕け散ると、希薄な揺らめきが残り、チューバがをアルミボウルのミュートを用いてロングトーンの色合いを変化させていき、ブーンという唸りのノンブレスに至る。テナーも息音のスプレーでこれと並走し、断片的な鳴りや軋みを交錯させる。打楽器もまた微弱音へと移行し、打面をこすり撫で続ける。
全体がドローンへと移行する中で、演奏の音量はさらに下がり、断続的なものとなる。管楽器二本がステレオでモールス信号的なフレーズを紡ぎ、打楽器が金物の弓弾きやシンバル同士のすり合わせに転じると、息漏れや息音が接触不良気味に断続する。隙間風のような、あるいは潮騒にも似た、遠くあえかな響き。
木板を叩く余韻の少ない目の詰んだ響きを合図に、いきなりスネアのロールが沸騰する。演奏は一気に加速し、チューバのひしゃげた断片やテナーの最高域のフラジオが乱れ飛ぶ。ドラムの刻みがさらに細かくなる。
だが彼らが素晴らしいのは、このまま盛り上がり、突っ走って終わりにしないことだ。高岡と広瀬は激しく吹いてドラムを煽っては、それぞれすぐに吹き止めて、意地悪く事態の更新を促す。それゆえ藤巻と石原は常に覚醒したまま、ON/OFFを切り替えたり、打点を移動させて響きの質/量をコントロールして音と音の隙間を調節したり、ロールの密集からシンコペーションの応酬へと論点をずらしたりと、常に演奏の土俵を固着しないよう突き動かし続けた。広瀬と高岡は激しく上下するブロウや波が襲うような咆哮で事態を加速したかと思うと、脚でミュートしたくぐもった音色や耳鳴りのような持続音で加速を引き止め、沈静化を図る。演奏は変化を繰り返しながら、何度もコーナーを回りながら加速を続け、ついにドラムはこれまで聴いたことのない、高音から低音まで幅広くばらけた、あちこちから石飛礫の弾け飛ぶような衝突と軋轢に満ちた戦争状態に突入する。押し寄せ重なり合う波。左右から管が襲いかかり、高く高く持ち上げられた波頭が一気に崩れ、砕け散る。バスドラの遠鳴りだけが、しばし後に残される。
2015年5月7日 早稲田茶箱
歌女(高岡大祐, 藤巻鉄郎, 石原雄治)+広瀬淳二
ドラムの演奏平面を上方から俯瞰し、これを「地」と見立て、自らは「図」として演奏する‥‥という、リズム・セクションとホーン(ソロ楽器)の従来からの伝統的・因習的関係はここにはない。高岡のチューバ(あるいは広瀬のテナー)は、ドラム・サウンドの中枢に潜行し、あるいは遍く浸透し、さらにはその最下層へと突き抜ける。メロディ/フレーズを脱ぎ捨て、流動的な音色スペクトルそのものへと変貌して、あるいはアブストラクトな速度そのものと化して、さらには息の本性を明らかにし、空間に広がる希薄さと一瞬に吹き荒れる迸りを瞬時に往還して。
高岡のこうした柔軟で鋭敏な聴取と類い稀なるメタモルフォーゼ能力は、環境音の中にも浸透していくことを可能とする。それはかつての『借景 夏』や『女木島』でも聴かれたのだが、江崎將史とともに雨の街をさまよい、地下道やら踏切やら商店街やらで録音した最近のパフォーマンス記録『外の人 vol.3』で、最も明瞭に聴き取ることができる。じょぼじょぼと水のながれる地下道の、閉塞感のある特異なアコースティックのうちに、あるいはそこに入り込む交通騒音をはじめ周囲の環境音の中に、すっと入り込んで音を出し、その響きを通じて、さらにその場の特性を触知する。ここで音を聴くことと音を出すことは同じ一つのことであり、自らの身体や演奏行為のつくりだす輪郭、周囲の環境との境界は、いくらでも可変で相互浸透可能な、とりあえず仮構されただけのものにほかならない。
本来、この「外の人」は、高岡たちに聴衆が随伴し、街中の様々な特徴ある場を経巡っていく企画であり、聴衆は必ず演奏の場に立ち会い、その空間に共に居合わせることが原則なのだが、この3回目はたまたま雨天中止となったために、高岡と江崎だけで実行され、その結果が録音されたものだ。しかし、高岡による相変わらず秀逸な、汚れは汚れとして示し、聴くことを「キレイゴト」にしてしまわない録音は、その聴取を通じて湿気や匂い、「場」の圧力を感じさせるものとなっている。もし、その場に聴衆として居合わせたなら、おそらくは「演奏者」たちの姿をまじまじと見詰め、その結果、無意識のうちに環境音を「地」として背景に追いやり、「演奏者」たちのつくりだす音を「図」として浮かび上がらせてしまっただろうから、その点でもこの録音を聞くことは体験として貴重だ。
最近、「即興とは予想を裏切り、人を驚かせることだ」とか、「演奏から、音楽が音楽として成り立ち得る理由を外していって、最終的にゼロか完全なランダムネスに至るものである」とか、机上の空論もはなはだしいトンデモ論を自慢げにうそぶく輩がいるが、ここで『外の人 vol.3』に見られるように、環境/音響と向かい合いつつ相互浸透していく身体変容のあり方こそが、即興にほかならないのだ。私たちが、例えば聴くことの深化を目指すリスニング・イヴェント『松籟夜話』において、「即興・環境・音響」をキーワードとする所以である。


ちなみに「歌女」の次回ライヴは、彼らのホームグラウンドとも言うべき池袋バレルハウスで。
8月15日(土) 19:00open 20:00start
池袋バレルハウス(豊島区池袋2−22−5 東仙第2ビル2階)
歌女(高岡大祐, 藤巻鉄郎, 石原雄治)

写真は高岡大祐、原田正夫Facebookページから転載させていただきました。
2015-08-07 Fri
大上流一 Riuichi Daijo / Dead Pan Smiles 1〜5 Riuichi Daijo Guitar SoloDPS Recordings cd-dps-001〜005
Riuichi Daijo(acoustic & electric guitar)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/dps/dps-001005.html

2004年から2013年まで10年間に渡り、Plan-Bで毎月開催していたライヴ演奏からの抜粋による5枚組ボックス・セット。演奏は年代順に収録されており、初期の演奏の音色・音域の対比を通じた構造への意識、線を描かず常にずれていく音の連なり、そして何よりもオートマティックな滑らかさを回避し、一瞬ごとに切断/沈黙せずにはいられない演奏のあり方は、1970年代からのDerek Baileyを思わせる(だからこの演奏は、Baileyの語法の一部を剽窃し、陳列するだけの「なんちゃって」インプロヴィゼーションではない)。彼が演奏を始めた頃には、すでにBaileyはそうした抑制の外れたかなり融通無碍な演奏をしていたことを思えば、これは彼が選び取った姿勢と言うべきだろう。もうひとつ特筆すべきは、交通騒音をはじめとする背景音、水音、足音等の環境音あるいは付随音や空間の響きへの注視である。こうした特質は粒子の粗いオフ気味の録音の生々しさと相俟って、Baileyと田中珉による『Music and Dance』を彷彿とさせる。周囲の物音が肌に突き刺さる痛み。自らの行為が生み出した音が、空間に、距離に、他の音に残酷に侵食される様を最後まで見届ける耳の眼差し。
2枚目、3枚目と進むにつれ、演奏は初期の散逸的なあり方を離れ、音数が増し、点描は密集へと、連鎖は交錯へと姿を変え、ノイジーな喧噪へと至るが、例えばカッティングの「繰り返し」においても1回ごと異なる表情/断面を提示するなど、問題意識をパンキッシュに提示するのみならず、一つひとつ音を放つごとの空間における響きの変容に耳が届いている点は賞賛に値しよう。ただただ演奏行為、身体のアクションに没入してしまうのではなく、響きの行く末を見詰め続ける覚醒した視線がここにはある。
この点で彼の本領はやはりアコースティック・ギターにあると言わねばなるまい。エレクトリック・ギターによるサステインを効かせたLoren Connorsばりの揺らぎに満ちた音も、試行錯誤のうちと聞こえてしまう。
4枚目の時点で大きな転機が訪れている。それまで前景化していた切断の相が退き、トレモロ的な連続性が立ち現れてくる。これに伴い、音の密度が高まるのとは裏腹に打弦に宿る唐突な「せわしなさ」が希薄化する。Charlemagne Palesteine風のミニマル・ミュージックや倍音の繁茂による音響への接近と類似しているように見えるかもしれないが、およそ本質は異なる。一見、流麗に連ねられる音響には、至るところ「衝突」の感覚が満ち満ちている。混ぜ合わされ、改めて配分される指の動き、弦の上で多方向から交錯する力動、震える弦に勢い良くぶつけられ、あるいは滑るように重ねられる別の振動とその反発。数えきれないほどの弦を張られたサントゥールの上で、煎り胡麻のように散乱する音の粒子。かつて息を詰め、弦に睫毛が触れんばかりに眼を近づけて弦の震えを見極めようとしていた眼差しは、いまや呼吸を深く長く保ち、しかるべき距離を置いて、いやむしろ弦に触れる指先や響きにそばだてられる耳を通じて、より鮮明に触知する。
米粒に筆先で般若心経全文を書き込む金大煥は、筆先を直接見ることなく、腕を大きく動かし全身を使って書き込めば、字はその通り書けているのであって、それは心眼に見えると言っていた。ここでも周囲の空間を含めた環境に対する身体全体のアクションが、ミクロな弦の振動を生み出すと同時に、そこから羽ばたき広がる響きの行く末を見詰めている。
この結果、5枚目に収められた演奏において、響きの外見はBaileyよりも、むしろJohn Faheyや、その他のフィンガー・ピッキング・ギタリストたちによるブルースやブルーグラスの演奏に似通ってくる。もちろん先に指摘した「衝突」の感覚の存在が、あくまでもイージー・リスニングとは一線を画するのだが。
以前にBill Orcuttの作品をディスク・レヴューで採りあげた際、Baileyとの類縁性を指摘しておいたが、おそらく人脈的なつながりや直接の影響関係はないだろう。それでもOrcutt自身は前述のFaheyの系譜にありながら、ギターが雨しぶきに激しく打たれ揺すぶられるような演奏がどうしてもBaileyを思い浮かべさせずにはおかないのは、そこに即興演奏にしかあり得ない裂け目/深淵が黒々と口を開けているからではないか。大上とOrcuttの類似は、そのことを思い出させてくれる。
70年代Baileyから出発した大上の探求は、4枚目に記録された2012年の時点で最もBaileyから遠ざかり、5枚目に収められた2013年の演奏で、OrcuttとBaileyを結ぶ線を明らかにしながら、ゆるやかにBaileyへと回帰しつつあるように見える。それは大上がBaileyの引力圏を脱出できなかったということなのだろうか。
いや決してそうではあるまい。そもそもBaileyの演奏とは、徒らに仰ぎ見て目指すべき目標でないのと同様に、ただひたすらにそこから遠ざかるべき出発点でもなければ、乗り越えるべき対象でもないだろう。あるいは彼は、死してなお「ノン・イディオマティック・インプロヴィゼーション」という方法論の磁場に人々を捕らえ離そうとしない「蜘蛛の巣」の不在の主(あるじ)でもないのだ。「ノン・イディオマティック」とはイディオムがつくりだす(つくりだしてしまう、つくりださざるを得ない)閉域を切り裂き、その都度、暴力的に開いていく姿勢であり、それにより、60年代末に訪れた即興共同体の崩壊に対応し、受け皿となる共役言語を引き算的にかたちづくる方策だった。それはまず何よりも本来的にギター奏者であるBaileyにとって、音量に乏しく、演奏ノイズを生じやすく、音の粒が揃いにくく不安定なギターの「弱さ」を、その本質として直視することから生み出されたのではないか。音の粒が揃わず響きがばらばらでノイズだらけの不細工で不手際なパッセージを、様々な方向から飛来した音粒子がある瞬間に描いた「星座」と見立て、そこにイディオムをばらばらに切り離してしまう綻びの糸口、切断に満ちた深淵、黒々と口を開ける即興的瞬間を見出すこと。それはギター演奏者が等しく引き受けるべき「刻印」にほかなるまい。後はそれをなかったことにし、忘れたふりをするかどうかだ。
大上は決してそのことを忘れたふりはしない。彼がBaileyに負っているのはまさにこのことであり、またそれ以外にはない。ここへとたどり着いた10年の歩みが、そのことを証し立てていよう。あるいは5枚目に収録された2013年6月の36分以上にも及ぶ長尺の演奏が。
不穏に響く椅子の音や足音の只中から、ひきつったBailey風の跳躍が姿を現す。飛び石伝いの跳躍はすぐに執拗な「繰り返し」に場を明け渡す。わずかずつ鑿の角度を変えながら、ただひたすらに同じ一点を深く深く彫り込み、響きの不安定さを剥き出しにすることによりギターを丸裸にしていく、あからさまなまでにとことん無防備な演奏。時にストロークにブルースやフラメンコの影が宿るが、「型」を守り発展させることにいささかも関心を示すことのない、当てのないさまよいの中で、すぐにとらえどころなく霧散崩壊してしまう。それゆえ引用やコラージュとは聴こえない。一瞬ごとの賭け。
さわりや分割的な共振/共鳴。不均衡に響く和音と不自然に引き伸ばされ後に残る音。立ち上る響きとは異なる方向にたなびきながら、すぐに失速する余韻。積み重なることなく、すれ違い、行き違い、立ち尽くす響き。Bailey風の至るところ切断に満ち満ちたせわしない跳躍が再び姿を現す。音同士の衝突により、内部分裂から崩壊に至る音の群れ。切断が加速し、自らを切り刻みながら、喧噪の充満へと向かう演奏。自らの演奏史が次から次へと自由連想的に湧き出し、指先から迸り、あるいは滴り落ちるそばから、演奏する彼自身へと襲いかかる悪夢。響きの飽和/充満が、音のかけらの溶解/変容を促し、演奏はとんでもない惨状を呈していく。
演奏の終盤に向けて(ここで「終盤」とは、演奏が終了した後で初めてあきらかになることであり、もちろん後知恵に過ぎない)、充満すらも離れ、さらにとりとめなく、環境音の波間に見え隠れするものとなっていく(最後は事後編集によるフェード・アウトでソフトに、だが断固として強制終了させられている。)。それでもぴりぴりと撓むことなく張り巡らされた耳の視線の確かさは全編を通じて変わることがない。
シリアル・ナンバー入り109セット限定。

※もともと新譜レヴューの1枚として書き始めたディスク・レヴューだが、長くなりすぎて、とても新譜レヴューの枠には収まらないので、単独記事として掲載することとした次第。これだけ多くの言葉を触発/喚起するだけの力を持った作品であることは保証する。