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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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大上流一 Riuichi Daijo / Dead Pan Smiles 1〜5  Riuichi Daijo Guitar Solo
大上流一 Riuichi Daijo / Dead Pan Smiles 1〜5  Riuichi Daijo Guitar Solo
DPS Recordings cd-dps-001〜005
Riuichi Daijo(acoustic & electric guitar)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/dps/dps-001005.html


 2004年から2013年まで10年間に渡り、Plan-Bで毎月開催していたライヴ演奏からの抜粋による5枚組ボックス・セット。演奏は年代順に収録されており、初期の演奏の音色・音域の対比を通じた構造への意識、線を描かず常にずれていく音の連なり、そして何よりもオートマティックな滑らかさを回避し、一瞬ごとに切断/沈黙せずにはいられない演奏のあり方は、1970年代からのDerek Baileyを思わせる(だからこの演奏は、Baileyの語法の一部を剽窃し、陳列するだけの「なんちゃって」インプロヴィゼーションではない)。彼が演奏を始めた頃には、すでにBaileyはそうした抑制の外れたかなり融通無碍な演奏をしていたことを思えば、これは彼が選び取った姿勢と言うべきだろう。もうひとつ特筆すべきは、交通騒音をはじめとする背景音、水音、足音等の環境音あるいは付随音や空間の響きへの注視である。こうした特質は粒子の粗いオフ気味の録音の生々しさと相俟って、Baileyと田中珉による『Music and Dance』を彷彿とさせる。周囲の物音が肌に突き刺さる痛み。自らの行為が生み出した音が、空間に、距離に、他の音に残酷に侵食される様を最後まで見届ける耳の眼差し。

 2枚目、3枚目と進むにつれ、演奏は初期の散逸的なあり方を離れ、音数が増し、点描は密集へと、連鎖は交錯へと姿を変え、ノイジーな喧噪へと至るが、例えばカッティングの「繰り返し」においても1回ごと異なる表情/断面を提示するなど、問題意識をパンキッシュに提示するのみならず、一つひとつ音を放つごとの空間における響きの変容に耳が届いている点は賞賛に値しよう。ただただ演奏行為、身体のアクションに没入してしまうのではなく、響きの行く末を見詰め続ける覚醒した視線がここにはある。
 この点で彼の本領はやはりアコースティック・ギターにあると言わねばなるまい。エレクトリック・ギターによるサステインを効かせたLoren Connorsばりの揺らぎに満ちた音も、試行錯誤のうちと聞こえてしまう。

 4枚目の時点で大きな転機が訪れている。それまで前景化していた切断の相が退き、トレモロ的な連続性が立ち現れてくる。これに伴い、音の密度が高まるのとは裏腹に打弦に宿る唐突な「せわしなさ」が希薄化する。Charlemagne Palesteine風のミニマル・ミュージックや倍音の繁茂による音響への接近と類似しているように見えるかもしれないが、およそ本質は異なる。一見、流麗に連ねられる音響には、至るところ「衝突」の感覚が満ち満ちている。混ぜ合わされ、改めて配分される指の動き、弦の上で多方向から交錯する力動、震える弦に勢い良くぶつけられ、あるいは滑るように重ねられる別の振動とその反発。数えきれないほどの弦を張られたサントゥールの上で、煎り胡麻のように散乱する音の粒子。かつて息を詰め、弦に睫毛が触れんばかりに眼を近づけて弦の震えを見極めようとしていた眼差しは、いまや呼吸を深く長く保ち、しかるべき距離を置いて、いやむしろ弦に触れる指先や響きにそばだてられる耳を通じて、より鮮明に触知する。
米粒に筆先で般若心経全文を書き込む金大煥は、筆先を直接見ることなく、腕を大きく動かし全身を使って書き込めば、字はその通り書けているのであって、それは心眼に見えると言っていた。ここでも周囲の空間を含めた環境に対する身体全体のアクションが、ミクロな弦の振動を生み出すと同時に、そこから羽ばたき広がる響きの行く末を見詰めている。

 この結果、5枚目に収められた演奏において、響きの外見はBaileyよりも、むしろJohn Faheyや、その他のフィンガー・ピッキング・ギタリストたちによるブルースやブルーグラスの演奏に似通ってくる。もちろん先に指摘した「衝突」の感覚の存在が、あくまでもイージー・リスニングとは一線を画するのだが。
 以前にBill Orcuttの作品をディスク・レヴューで採りあげた際、Baileyとの類縁性を指摘しておいたが、おそらく人脈的なつながりや直接の影響関係はないだろう。それでもOrcutt自身は前述のFaheyの系譜にありながら、ギターが雨しぶきに激しく打たれ揺すぶられるような演奏がどうしてもBaileyを思い浮かべさせずにはおかないのは、そこに即興演奏にしかあり得ない裂け目/深淵が黒々と口を開けているからではないか。大上とOrcuttの類似は、そのことを思い出させてくれる。

 70年代Baileyから出発した大上の探求は、4枚目に記録された2012年の時点で最もBaileyから遠ざかり、5枚目に収められた2013年の演奏で、OrcuttとBaileyを結ぶ線を明らかにしながら、ゆるやかにBaileyへと回帰しつつあるように見える。それは大上がBaileyの引力圏を脱出できなかったということなのだろうか。
 いや決してそうではあるまい。そもそもBaileyの演奏とは、徒らに仰ぎ見て目指すべき目標でないのと同様に、ただひたすらにそこから遠ざかるべき出発点でもなければ、乗り越えるべき対象でもないだろう。あるいは彼は、死してなお「ノン・イディオマティック・インプロヴィゼーション」という方法論の磁場に人々を捕らえ離そうとしない「蜘蛛の巣」の不在の主(あるじ)でもないのだ。「ノン・イディオマティック」とはイディオムがつくりだす(つくりだしてしまう、つくりださざるを得ない)閉域を切り裂き、その都度、暴力的に開いていく姿勢であり、それにより、60年代末に訪れた即興共同体の崩壊に対応し、受け皿となる共役言語を引き算的にかたちづくる方策だった。それはまず何よりも本来的にギター奏者であるBaileyにとって、音量に乏しく、演奏ノイズを生じやすく、音の粒が揃いにくく不安定なギターの「弱さ」を、その本質として直視することから生み出されたのではないか。音の粒が揃わず響きがばらばらでノイズだらけの不細工で不手際なパッセージを、様々な方向から飛来した音粒子がある瞬間に描いた「星座」と見立て、そこにイディオムをばらばらに切り離してしまう綻びの糸口、切断に満ちた深淵、黒々と口を開ける即興的瞬間を見出すこと。それはギター演奏者が等しく引き受けるべき「刻印」にほかなるまい。後はそれをなかったことにし、忘れたふりをするかどうかだ。

 大上は決してそのことを忘れたふりはしない。彼がBaileyに負っているのはまさにこのことであり、またそれ以外にはない。ここへとたどり着いた10年の歩みが、そのことを証し立てていよう。あるいは5枚目に収録された2013年6月の36分以上にも及ぶ長尺の演奏が。
不穏に響く椅子の音や足音の只中から、ひきつったBailey風の跳躍が姿を現す。飛び石伝いの跳躍はすぐに執拗な「繰り返し」に場を明け渡す。わずかずつ鑿の角度を変えながら、ただひたすらに同じ一点を深く深く彫り込み、響きの不安定さを剥き出しにすることによりギターを丸裸にしていく、あからさまなまでにとことん無防備な演奏。時にストロークにブルースやフラメンコの影が宿るが、「型」を守り発展させることにいささかも関心を示すことのない、当てのないさまよいの中で、すぐにとらえどころなく霧散崩壊してしまう。それゆえ引用やコラージュとは聴こえない。一瞬ごとの賭け。
さわりや分割的な共振/共鳴。不均衡に響く和音と不自然に引き伸ばされ後に残る音。立ち上る響きとは異なる方向にたなびきながら、すぐに失速する余韻。積み重なることなく、すれ違い、行き違い、立ち尽くす響き。Bailey風の至るところ切断に満ち満ちたせわしない跳躍が再び姿を現す。音同士の衝突により、内部分裂から崩壊に至る音の群れ。切断が加速し、自らを切り刻みながら、喧噪の充満へと向かう演奏。自らの演奏史が次から次へと自由連想的に湧き出し、指先から迸り、あるいは滴り落ちるそばから、演奏する彼自身へと襲いかかる悪夢。響きの飽和/充満が、音のかけらの溶解/変容を促し、演奏はとんでもない惨状を呈していく。
演奏の終盤に向けて(ここで「終盤」とは、演奏が終了した後で初めてあきらかになることであり、もちろん後知恵に過ぎない)、充満すらも離れ、さらにとりとめなく、環境音の波間に見え隠れするものとなっていく(最後は事後編集によるフェード・アウトでソフトに、だが断固として強制終了させられている。)。それでもぴりぴりと撓むことなく張り巡らされた耳の視線の確かさは全編を通じて変わることがない。
シリアル・ナンバー入り109セット限定。



※もともと新譜レヴューの1枚として書き始めたディスク・レヴューだが、長くなりすぎて、とても新譜レヴューの枠には収まらないので、単独記事として掲載することとした次第。これだけ多くの言葉を触発/喚起するだけの力を持った作品であることは保証する。

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