2015-08-13 Thu

2015年6月11日、Daren Mooreのシンガポールから日本への「移住」記念ツアーの一環として、吉祥寺Foxholeにて、歌女(高岡大祐、石原雄治、藤巻鉄郎)に竹村一哲、Daren Mooreを加えた「大歌女」が初お目見えした。ドラマー4人(!)にチューバ!!
想像を絶する異常な編成とも見えるが、決してそうではない。それは単に高岡が自身で言っている「ドラマーたらし」とか「打楽器ハーレム」の結果ではない。
と言いながら、私は残念ながら所用で、その公演を見ていない。この編成に期待する理由を、前回体験した歌女+広瀬淳二によるライヴ(それはもう3か月以上前のことになるのだが)を通じて述べてみたい。
通りから狭い階段を降りると、会場の早稲田茶箱は昔ながらのスナックや喫茶店のような空間だった。カウンターを畳み、テーブルや椅子、藤のソファ等を周囲の壁際に押し付けて生み出した中央のスペース、木の床のフロアに分解されたドラム・セットが並べられている。大小のシンバルのスタンドやタムのまわりには、さらに音具が吊り下げられ、さらに打面を上にして横向きに置かれたバス・ドラムの上にも、大小の金属ボウルをはじめ、様々な音具やスティックが並べられている。一方の壁面に設えられたJBLの巨大スピーカーの上や前面にも、楽器ケースが幾つも積み上げられ、あるいは置かれているから、ライヴのセッティングを施したというより、どうにもこうにも収拾のつかなくなった楽器の山を崩しながら片付けていたら、たまたまこうした配置になったように見えないこともない。天井はあまり高くない。先に戻って来て隅に立っている広瀬は、少しやせて小さくなった印象。店内には気怠いテクノ・ミュージックがかかっている。
解体されたドラム・セットは周囲を巡れるようになっているが、とりあえず私の位置から見て、奥に藤巻、手前に石原、左に高岡、右に広瀬(この日はテナー・サックス)の位置取りでスタート。左右から噴き出すざらざらした息音の交錯にシンバルの揺らめきが重ねられる。チューバが息の「たが」を緩めると、テナーは苦しげに息をもつれさせて、バス・ドラムの打面で弾むスティックを横目で見ながら、キュウキュウとした鳴りへと上ずっていく。手に持って打ち鳴らした小シンバルの振動をタムやバス・ドラムに触れさせて、「移す」試み。ランダムに弾むスティック。チューバの遠鳴り。息が鋭く迸り、テナーは痰の絡んだような湿ったノイズから破裂音へと移行していく。そうした昂まりにドラムは追随せず、タムのスキンをこすり、スティックをかしゃんと打ち合わせる。チューバもまたゆっくりと低音を徘徊する。テナーのリードの高速の振動が、まばゆく銀色に輝く軋みとなって遊離し、太い低音と二極分解しながら、やがて重音の中に綴じ合わされ、持続音の並み立ちへと姿を変える。時折思い出したようにぼうっと響いていたチューバもまた小音量の持続へと移行し、左右の間に波打ち撓み振動する音のスクリーンが張られる。ドラムは細かな刻みが増えてくる。
左からノンブレスの持続音が緩やかに波打ちたゆたいつつ低音を徘徊すれば、右からは高域のノイズを含んで持続が高鳴り、泡立ち、ひしゃげた叫びを上げる。ロールを交えながらドラムの叩きの密度が上がり、さらに金属質のノイズが中央から鳴り響くようになる。右からの絶叫は次第に透き通り、焦点を絞り込んで笛の音の鋭さに至り、滔々と流れ出したかと思うと、ふと鳴り止んでしまう。金属の響きに左から寄り添っていた破裂音の震えは、ボウルによりミュートした持続音の不安定な上下行へと移行する。それと共に中央からの響きは倍音を多く含んだ「こすり」へと展開し、これにチューバのベルをボウルでこする音、テナーのベルを金属でこする軋みが重ねられる。チューバのベルの中に入れられたボウルがノイズを粒立たせ、ざらざらとした振動を放つ。
右から鋭い破裂音の連鎖が次第に引き伸ばされ、左からのホラ貝の響きと溶け合いながら揺らめき、軋み叫ぶ。しかし、このテナーの再開とチューバの応答による新たなモードに対し、ドラムは明解な応答が出来ず、シンバルを床に落としクラッシュさせる。
ここまで左右から滲んできた響きが中央で混じり合い、打撃によって息づき、あるいは奥から投げかけられる音響が左右の広がりを引き出すような、三方に広がる四者の巧みな連動は、いったん暗礁に乗り上げる。もちろんそれが悪いと言うのではない。それはこれまでうまく行って来たことにより、知らず知らずのうちにかたちづくられるルーティンを自ら突き崩すことであるからだ。見通しを失うことが新たな視界を開き、道に迷うことが新たな一歩を踏み出させる。実際、終演後の時点から振り返れば、この日の演奏は何度となく、このような壁に突き当たった。それはたいてい「うまく行っている状態」において、広瀬か高岡のどちらかが不意に演奏を休止することによってもたらされていた。
ここからしばらく、演奏は魅惑的な試行錯誤のうちに、不安定な移ろいやすい軌跡を描いて進むこととなる。シンバルを擦る響きとボウルの振動によるブザーのような鳴り、唾が泡立つような湿ったつぶやきが混じり合い、つぶれたボウルをあちこちに持ち運んだかと思うと、テナーがクジラやオットセイの鳴き声に似た甲高い叫びを放ち、チューバが一瞬速いパッセージで応答しかけるがすぐに止めてしまう。
ここでこれまであえて同期せず、分散を図っていた石原と藤巻が合わせ始める。ドラムから局面を打開しようという強い意志が感じられる。まずはシンバルの連打が分厚いうねりをかたちづくり、次いで各ドラムへのアタックが爆撃ポイントをずらしながら繰り返され、密度を上げながらシンコペーションの応酬へと至る。これに広瀬がパーカッシヴな跳躍で応え、高岡はチューバを大きく傾け、ゆっくりと回す。「そこに付け加えるべき音がなければ吹かない」という宣言通り、ここで彼はチューバを吹こうとしない。ドラムが掌で打面をミュートしながらの打撃に移行すると、広瀬も吹くのを止めてしまう。石原と藤巻はON/OFFを慌ただしく繰り返しながら入り乱れ、くっきりと音の隙間を保ちながら、ポリリズミックな平面を織り上げていく。ここで高岡がノンブレスのうなりを提供し、ドラムがランダムさを高めながら音量と密度を下げたところに、広瀬が高域のフラジオで乱入して燃え上がり、波打つロングトーンに転じて息をうねりよじらせる。対してドラムはさらに密度と音量を下げ、余韻を鋭く切り詰めた点描へと踏み出す。前半の終了。
ここまでのところで、うまく描写/記述できたか心もとないのだが、打楽器がリズム、管楽器がフレーズという通常の役割分担に拠っていないことを強調しておきたい。打楽器は多様な音色を駆使することによりリズムの「フレーズ性」、すなわちフレーズとして聴かれてしまう「まとまり」を解体し、それだけでなく音の濃度/密度に大胆に揺り動かし、サウンドの質感にアクトする。対して管はやはりフレーズよりもサウンドの質感に訴えながら、時に驚くほどパーカッシヴな資質を明らかにする。ここでサウンドの質感が、音色や手触りだけでなく、速度感、密度感、温度感、色彩感等、多岐に渡る広がりを持ち、演奏の主たる舞台となっていることに改めて注意したい。すなわち、ここで打楽器と管は相互に浸透しながら、サウンドの質感の多様なパラメータの中で交錯/衝突/溶解しあうのであり、管はいわゆる「上物(うわもの)」あるいは上部構造ではないのだ。だから高岡が、「歌女」やその他のアンサンブルを「ワンホーン(一管編成)」と呼んでいるのには注意が必要だ。それらは亡きオーネット・コールマンが、プライムタイムの面々が相互にミクロな闘争を不断に繰り広げつつ織り上げる平面の上空を、俯瞰するように飛翔するのとは、まったく構造が異なる。高岡や広瀬は息の破裂をドラムの打撃とぶつけ合わせ、リードや管の振動をスキンの鳴りと直接に触れ合わせる。だから演奏は、そのようにキメラ状に入り組んだ各部が相互にうごめくものとなる。ドン・チェリーのトランペットの息遣いと敏感な粘膜を擦り合わせ、ささくれたシンバル・レガートや打ち込むようなベースの一撃を、額で、頬で、首筋で、足裏で感じていたオーネットのオリジナル・クワルテットのように。
高岡は打楽器がかたちづくるリズム/サウンドが、距離を置いて対象化している時と、その中に入り込んだ時では、全く異なる様相を示すことを指摘している。それを彼が海に例えるのは、釣り師でもある彼が、海の見せる様々な表情を知り尽くしているからだろうか。細かいさざ波を立たせ朝日に夕陽にきらめく海面の下で、思いもよらぬ激しい流れのぶつかり合いが生じている。あるいは逆巻き高々と波頭を持ち上げる時化の底深くは、「しん」と静まり返っていたりする。表面は整ったリズミックなパターンとして編み上げられていても、その内部へと踏み込めば、まずはアタックが圧力や振動が多方向から襲いかかり、衝撃として、あるいは痛みとして感じられる。
高岡がFacebookに書き込む釣りの話はいつも面白いのだが、それは彼の文才によるだけでなく、彼の釣りが海中の様子を、水の動きや温度の階層を、水底や岸壁の地形・起伏、あるいはその表面の質感を、魚の動きを、糸の振動やアタリを通じて鋭敏に触知するものだからだろう。浮子の動きに眼を凝らすのではなく、竿を、あるいは糸を繰り出す指先をアンテナとして、垂らした糸で探査/触診すること。むしろ「聴診」という語がふさわしいかもしれない。端的に「聴く」こと。それは単に耳を注意深く澄まし、そばだてるだけでなく、全身の感覚器の感度を上げ、研ぎ澄ますことにほかならない。そして対象化のための距離を要する「見ること」と異なり、「聴くこと」は対象と距離を欠いて溶け合い、身体が輪郭をおぼろにして空間に溶け広がり、相互に浸透するところに開ける。例えば「香を聞く」とはまさにそうした身体の使い方にほかなるまい。
軽い破裂音がゆっくりと尾を引いて浮かび上がる。口先で砕けた息が、チューバの管の内側に反射を繰り返し、ベルのカーヴを滑走し、空中に放たれていく。
パタパタとした揺らぎが次第に響きとして層を成し、息のほとばしりへと収斂してテナーの音の輪郭を確立するに至る。そこに軋みが混じり始める。
分解されたドラム・セットやパーカッション類のあちらこちらをこすり、はじく音が一斉に芽吹き始め、それをざっくりとかき混ぜるうち、次第にアクセントが明確になり始める。
三者(打楽器は二人一組だが)のつくりだす音の網目が重なり合い、次第に細かくなってくる。スティックの動きが慌ただしさを増し、刻みが細かくなる打楽器音と、滲むように音を漂わせたテナーのゆったりしたフレーズが交差する。シンコペートされたリズムの重ね合わせ。ソフトなマレットと細かい出音の対比。ON/OFFを素早く切り替える打楽器に対し、高岡が右脚を曲げ伸ばししながらゆったりとフレーズをくゆらせ、さらに長く曲がりくねったフレーズを絡ませて、チューバを大きく揺り動かす。
高岡の右脚が目まぐるしく揺すられ、速い刻みの中に音が差し挟まれていく。テナーもまた加速し、ざらついたノイジーなフレーズを連発し、自らを切り刻む。断片化したフレーズが砕け散ると、希薄な揺らめきが残り、チューバがをアルミボウルのミュートを用いてロングトーンの色合いを変化させていき、ブーンという唸りのノンブレスに至る。テナーも息音のスプレーでこれと並走し、断片的な鳴りや軋みを交錯させる。打楽器もまた微弱音へと移行し、打面をこすり撫で続ける。
全体がドローンへと移行する中で、演奏の音量はさらに下がり、断続的なものとなる。管楽器二本がステレオでモールス信号的なフレーズを紡ぎ、打楽器が金物の弓弾きやシンバル同士のすり合わせに転じると、息漏れや息音が接触不良気味に断続する。隙間風のような、あるいは潮騒にも似た、遠くあえかな響き。
木板を叩く余韻の少ない目の詰んだ響きを合図に、いきなりスネアのロールが沸騰する。演奏は一気に加速し、チューバのひしゃげた断片やテナーの最高域のフラジオが乱れ飛ぶ。ドラムの刻みがさらに細かくなる。
だが彼らが素晴らしいのは、このまま盛り上がり、突っ走って終わりにしないことだ。高岡と広瀬は激しく吹いてドラムを煽っては、それぞれすぐに吹き止めて、意地悪く事態の更新を促す。それゆえ藤巻と石原は常に覚醒したまま、ON/OFFを切り替えたり、打点を移動させて響きの質/量をコントロールして音と音の隙間を調節したり、ロールの密集からシンコペーションの応酬へと論点をずらしたりと、常に演奏の土俵を固着しないよう突き動かし続けた。広瀬と高岡は激しく上下するブロウや波が襲うような咆哮で事態を加速したかと思うと、脚でミュートしたくぐもった音色や耳鳴りのような持続音で加速を引き止め、沈静化を図る。演奏は変化を繰り返しながら、何度もコーナーを回りながら加速を続け、ついにドラムはこれまで聴いたことのない、高音から低音まで幅広くばらけた、あちこちから石飛礫の弾け飛ぶような衝突と軋轢に満ちた戦争状態に突入する。押し寄せ重なり合う波。左右から管が襲いかかり、高く高く持ち上げられた波頭が一気に崩れ、砕け散る。バスドラの遠鳴りだけが、しばし後に残される。
2015年5月7日 早稲田茶箱
歌女(高岡大祐, 藤巻鉄郎, 石原雄治)+広瀬淳二
ドラムの演奏平面を上方から俯瞰し、これを「地」と見立て、自らは「図」として演奏する‥‥という、リズム・セクションとホーン(ソロ楽器)の従来からの伝統的・因習的関係はここにはない。高岡のチューバ(あるいは広瀬のテナー)は、ドラム・サウンドの中枢に潜行し、あるいは遍く浸透し、さらにはその最下層へと突き抜ける。メロディ/フレーズを脱ぎ捨て、流動的な音色スペクトルそのものへと変貌して、あるいはアブストラクトな速度そのものと化して、さらには息の本性を明らかにし、空間に広がる希薄さと一瞬に吹き荒れる迸りを瞬時に往還して。
高岡のこうした柔軟で鋭敏な聴取と類い稀なるメタモルフォーゼ能力は、環境音の中にも浸透していくことを可能とする。それはかつての『借景 夏』や『女木島』でも聴かれたのだが、江崎將史とともに雨の街をさまよい、地下道やら踏切やら商店街やらで録音した最近のパフォーマンス記録『外の人 vol.3』で、最も明瞭に聴き取ることができる。じょぼじょぼと水のながれる地下道の、閉塞感のある特異なアコースティックのうちに、あるいはそこに入り込む交通騒音をはじめ周囲の環境音の中に、すっと入り込んで音を出し、その響きを通じて、さらにその場の特性を触知する。ここで音を聴くことと音を出すことは同じ一つのことであり、自らの身体や演奏行為のつくりだす輪郭、周囲の環境との境界は、いくらでも可変で相互浸透可能な、とりあえず仮構されただけのものにほかならない。
本来、この「外の人」は、高岡たちに聴衆が随伴し、街中の様々な特徴ある場を経巡っていく企画であり、聴衆は必ず演奏の場に立ち会い、その空間に共に居合わせることが原則なのだが、この3回目はたまたま雨天中止となったために、高岡と江崎だけで実行され、その結果が録音されたものだ。しかし、高岡による相変わらず秀逸な、汚れは汚れとして示し、聴くことを「キレイゴト」にしてしまわない録音は、その聴取を通じて湿気や匂い、「場」の圧力を感じさせるものとなっている。もし、その場に聴衆として居合わせたなら、おそらくは「演奏者」たちの姿をまじまじと見詰め、その結果、無意識のうちに環境音を「地」として背景に追いやり、「演奏者」たちのつくりだす音を「図」として浮かび上がらせてしまっただろうから、その点でもこの録音を聞くことは体験として貴重だ。
最近、「即興とは予想を裏切り、人を驚かせることだ」とか、「演奏から、音楽が音楽として成り立ち得る理由を外していって、最終的にゼロか完全なランダムネスに至るものである」とか、机上の空論もはなはだしいトンデモ論を自慢げにうそぶく輩がいるが、ここで『外の人 vol.3』に見られるように、環境/音響と向かい合いつつ相互浸透していく身体変容のあり方こそが、即興にほかならないのだ。私たちが、例えば聴くことの深化を目指すリスニング・イヴェント『松籟夜話』において、「即興・環境・音響」をキーワードとする所以である。


ちなみに「歌女」の次回ライヴは、彼らのホームグラウンドとも言うべき池袋バレルハウスで。
8月15日(土) 19:00open 20:00start
池袋バレルハウス(豊島区池袋2−22−5 東仙第2ビル2階)
歌女(高岡大祐, 藤巻鉄郎, 石原雄治)

写真は高岡大祐、原田正夫Facebookページから転載させていただきました。
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