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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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まだ見ぬ「大歌女」にあこがれて(補足)  Longing for "Big Kajo" I Have Not Seen Yet (Supplement)
 前回の「歌女」+広瀬淳二のライヴ・レヴューで心残りなのは、分解されたドラム・セットやパーカッション、音具類を奏する石原雄治と藤巻鉄郎の違いを、ほとんど描き出せなかったことだ。

これはひとつには、観察/描写のための軸線の固定ということがある。中央から四方八方に広がる打音に対し、高岡と広瀬が左右からアクトし、さらにドラムの演奏平面を俯瞰するだけでなく、その厚みへと浸透し、あるいは深みへと先行するという大きな変容の構図があって、これを描き出すためには、どうしても打楽器群に軸線を据えて固定し、そこから他の二人をとらえざるを得なかったという表現上の問題がある。例えば二人の演奏に言及する際の指示語が、高岡/広瀬だったり、チューバ/テナーだったり、あるいは左/右と様々混在しているのは、そうした表現戦略の一部である。この視点からは石原と藤巻を渾然一体にとらえる必要があった。

もうひとつには、「15ゲーム」のピースの移動のように、空いたスペースを利用して次々にサウンドの編成を組み替えていく二人のやり方が、以前よりもはるかに流動的になっていて、「固定された役割や性格の違い」に基づいて両者を描き分けるのは、一見、「解像度」を高めるようでいて、実際には実態を正確にとらえていないと感じたことだ。
二人はともに高岡大祐のレーベルblowbassから、高岡の優れた録音(その素晴らしさはJohn Butcher『Nigemizu』により、世界中に明らかとなった)によるソロCDをリリースしている。その石原雄治『打響音集1』と藤巻鉄郎『奏像』では、二人はまだ「わかりやすく」異なっている。以前の「歌女」のライヴでも、いささか乱暴な言い方になるが、「ジャズ」をベースにして演奏を発展させた石原と、「ジャズ」がベースにないところから発想している藤巻の違いは、はっきりとわかりやすく両者の個性となっていて、これにより「歌女」の演奏は、異なる二つの光源から立体的に照らし出されていた。
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前回レヴューした早稲田茶箱でのライヴでは、光源はもはやそのように固定されたものではなく、自在に移動/組み換えが可能なものとなっていたと言えよう。そのことが象徴的に表れていたのは、後半の場面で、椅子に腰を下ろしていた高岡がやおら立ち上がり、右側、広瀬の立ち位置のすぐそばに移動した。これをきっかけとして、向こう側にいた藤巻が左にずれ、石原もこれに応じて位置をずらし、その後も演奏を続けながら、そのようにずれ続け、ついには当初の位置取りから180度回転してしまったことだ。もちろん、彼らは観客に見せるための「パフォーマンス」として回転移動を演じたわけではなく、サウンドの更新を求めてそうしたに過ぎない。だが、いずれにしても、この「回転」により、二人は位置を取り換えただけでなく、分解されたドラム・セットの各部やそこに取り付けられたパーカッション類との位置関係も好感したことになる(ちなみに各種スティックやマレット、小さな音具等は、二人とも腰に吊るした「工具入れ(?)」に収め、身に着けている)。すなわち端的に言って、彼らは音色を、役割を交代したのだ。むろん演奏位置は出発点に過ぎず、そこに広がる演奏可能性から何をピックアップするのかは、演奏者の判断にかかっているにしても。

こうしたサウンドの組み換えの柔軟性/流動性、互いの役割の交換可能性を支えているのが、二人に共通して見られる「鳴り/響き」への細やかな注視にほかならない。それは単に音色への鋭敏さにとどまらず、打音の隙間の繊細なコントロールに至っている。彼らは音を「叩きっぱなし」にしない。同じレベルのドラムの連打/ロールであっても、スキンを盛大に震わせ、振動が折り重なり、分厚く稠密な音の壁を築く時もあれば、打撃の瞬間にスティックの先端で打面を的確にミュートし、くっきりと隙間を保つこともしてみせる。ここで基層は後者にあると言ってよいだろう。ツイン・ドラムのフリーな高揚(多くの場合、それは酩酊と表裏一体だ)を目指して徒に盛り上がるのではなく、数えきれない量の音粒子が乱れ飛ぶ濃密さの中にあって、なおかつ空間/隙間を失わないこと。このことが高岡や広瀬による潜行/浸透を可能としているのだ。

こうした感覚の在りようは、先に触れた二人のCDが、音を生み出すアクションよりも、打面の震えや空中にたちのぼる響きに、それぞれ異なる仕方で焦点を合わせていることからもわかるように、二人の探求/鍛錬によるものだろう。だが私は、そこに同時に高岡の感覚の反映を見ずにはいられない。
これも前述したように、高岡がFacebookに書き込む釣りの話はいつも面白いのだが、そこでは釣りの対象であるはずの魚だけが特権化されることはない。肌に感じられる風や波のしぶき、眼に見える堤防の岸壁やテトラポットの配置、釣り糸で探られる水底の起伏や水中の流れの多方向からのぶつかりあい、こうした多面的な生成流動が魚信、アタリと一続きの連続した景色の諸相としてとらえられる。そうして「連続」の相が強調される一方で、本来ひとつながりでしかあり得ないはずの「水」は、層に分かれ、固まりを形成し、それが動き、ぶつかってくる‥‥といった「隙間」をはらんだものとして描き出される。
そうした表現にぶつかった時に、いつも瞬時にフラッシュバックするのは、韓国映画『風の丘を越えて/西便制』に出てきたパンソリの練習のエピソードである。パンソリを学ぶ少女がどうどうと流れ落ちる滝に向かって声を放つことを求められる。滝の水は一連なりにつながって落ちているわけではない。水は固まりになって落ちているのだ。当然、生まれる音にも隙間がある。そこを狙って声を通すのだと。
「水」を通じて、存在が充満する世界の連続性を感じ取る一方で、そこに隙間があることにもしっかりと感覚が触れている。「歌女」の演奏の基盤には、そうした感覚が横たわっているように思う。おそらくは「大歌女」にも。

ともあれ、「歌女」の次回ライヴ、本日である。
8月15日(土) 19:00open 20:00start
池袋バレルハウス(豊島区池袋2−22−5 東仙第2ビル2階)
歌女(高岡大祐, 藤巻鉄郎, 石原雄治)
遏ウ蜴歙convert_20150815104455
ジャケット写真は高岡大祐ブログ「旅のtuba吹きdaysukeの日々」※から、イラストは石原雄治Facebookページから転載させていただきました。なお、イラストは、前回レヴューした早稲田茶箱ライヴ時の様子を、石原の友人の方が描いたもの。
※http://d.hatena.ne.jp/daysuke/


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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 10:50:19 | トラックバック(0) | コメント(0)