音との自由な交感が連れてくるプレ・モダンな風景 歌女@バレルハウス20150815ライヴ・レヴュー Free Communion with Sounds Brings Pre-Modernistic Landscapes Live Review for Kajo@Barrelhouse20150815
2015-08-22 Sat
解体されたドラム・セットはさらに増殖していた。フロア・タムが一つ増えて二つになっていたし、二つあるスネアは以前は一つだけではなかったろうか。もともと高岡のところにあったドラム・セットを解体して、バス・ドラムを平置きし、その周囲に残りを並べたものなのだから。対してパーカッションや音具類は放っておけば野放図に増殖してしまいそうなものだが、「運搬可能」という枠組みが功を奏しているのか、「歌女」の演奏を形容するのに引き合いに出されることのあるArt Ensemble of Chicagoのように、専用トラックが必要な事態には至っていない。以前のバレルハウスのライヴで見かけたザムンバ(ブラジル音楽で用いられる比較的小口径で非常に低音の出るドラム)は、今日は見当たらないし、金属ボウルや小シンバル等、石原と藤巻が共用するものが基本となっている。演奏開始前にステージ部分の照明を調整しているマスターが、「今日の主役は?」と尋ねると、すかさず高岡が「この二人です」と答える。えっと顔を上げる石原に、高岡がしょうがないやろ、そんな時もあるよと説明にならない説明を返す。左手側の石原の立ち位置にことさらにスポットが集中し、右手前、チューバの置いてある場所は薄暗がりに沈むこととなった。
演奏が始まっても、打楽器の二人は緊張しているのか、とりあえず手元の小パーカッションにおずおずと手を伸ばすだけ。スネアの上に乗せた小シンバルをいじり、スネアの打面をこすり、細い鎖をあちこちに投げかける石原。スリットの入ったシンバルを突き回し、あるいはスリットに通した音具で弓弾きして、響きの加減を手でミュートしたりフロア・タムのスキンに振動を移したりして調節する藤巻。高岡は丸っこい音色の持続音を奏で、時折ゆったりとくゆらして、凪いだ海にも似た緩やかな時間を紡いでいる。
高岡が息も絶え絶えな風に音色をひしゃげさせ始めると、打楽器の響きもこれに呼応するように尖り出す。共に鋭い突っ込みを見せながら、パルスやビートを前面に出すことを厭わない藤巻と、アタックを分散した「ばらけた感じ」にこだわる石原が対比を描く。
高岡が一瞬息音に転じ、打撃音の集積の内部にすっと入り込む。高岡はほとんどそこに留まらず、単に通過するだけですぐ吹き止めてしまう。それでも、小魚の群れを大魚が突っ切ったような変化がそこに生じる。打音の密度がさらに高まり、特にそれまで意識的に音を散らばせていた石原が、鋭い連打の突っ込みを見せる。最初はごく短い集中が間歇的に繰り返されていたのが、次第に長くなり、藤巻のパルスと重なりあいながら、二人の打音が一定以上の密度で衝突/交錯する「空間」がかたちづくられる。
しばらく前から、息音ではなく管を鳴らした音を吹き切って進んでいた高岡が、ファンキーなリフに転じて演奏を煽り立てる。フリーな「叩き」が一気に炸裂するが、石原や藤巻はスティックの振り下ろし運動に没頭して我を忘れたり、分厚い打音の雲に姿を隠したりすることがない。演奏には最初からON/OFFの波が組み込まれていて、二人の相互の応酬や共同歩調が波状攻撃状に爆撃を繰り返す。小型の「おりん」にスティックを突っ込んでかき混ぜる非常ベルにを思わせる甲高い響き(石原による)が実に効果的だ。煎り豆が一斉に爆ぜ始めるように、打撃が多咆哮に一気に沸騰する。高岡は右脚を大きく曲げ伸ばししながら、目まぐるしいパッセージを繰り出し、果敢に爆心地に躍り込む。
極めて高密度の応酬の中で、高岡がすっと立ち上がり左手側に場所を移す。これにより石原が手前に、藤巻が奥へとほぼ90度、二人の配置が回転する。これをきっかけに二人の鏡映しの「対面性」がクローズアップされる。百人一首大会のように互いに先を競う動き。動いた瞬間へと突っ込む「モグラ叩き」的応酬。至近距離で向かい合う二人の間で、音響は合わせ鏡的に増殖し、乱反射二人は互いに相手の陣地に侵入しあい、差し違え、すれ違い、つばぜり合いを繰り返し、がっぷりと四つに組んで、打音の高層タワーを築き上げる。この間、高岡は吹いていない。向かい合う二人の重合分裂が生成する響きをじっと見詰めている。
やおら高岡が立ち上がり、再び右手に位置を移す。立ったまま、チューバを大きく傾け、冒頭よりもさらに一層ゆったりと引き伸ばされた深い響きを奏でる。穏やかさを通り越して、いささかマジカルな少々苦みのある強烈な甘さが滲み出す。打撃の密度が小さくなり、一つひとつの打音も物音系に移行し、生々しさが薄らいで枯れてくる。遠くでビートが鳴っている。モノクロームな景色として。藤巻の描いたリズミックなパターンに石原が絡み、その上で高岡がゆったりとうねるソロを奏でる。甘く苦く悲しい夏の日の午後の葬送ブラス音楽(決して死を陽気に笑い飛ばすそれではない)。くっきりと濃い影の落ちた響きが、様々な思い出を呼び覚ましていく。不意に胸の奥から不定形の何かが込み上げてきて、深くにも泣きそうになった。うるむ視界の中で、高岡は右脚を力強く踏み込みながら、さらに彼方へと響きを紡ぎ続ける。サウンドの密度が再び高まるが、先ほどよりずっと音粒子がきめ細かく、肌にやさしい。二人の応酬により生成のスイッチが入ると、高岡は吹き止め、二人を先に行かせておいて、行く末を見定め、拡散した音響にゆるやかなリフの網を投げかけ、ゆっくりと減速していく。音量の水位が下がる中、酔客の話し声が浮かび上がるが、それも広がる音景色の細部として収まり、まったく苦にならない。
このまま日常を満たす物音に沁み込むように終わってしまうこともできたのかも知れないが、高岡はそうはせず、ノンブレスによる慌ただしくアブストラクトなフレーズで再び加速を図り、それでも足りないのか、自ら手を伸ばしてシンバルを叩く。二人がそれぞれシンコペーションの相互応酬で応える。音弾が乱れ飛び、軌跡が交錯して、見上げるような音の壁を築く一方で、至近距離での乱反射が生じ、速いパッセージの吹き切りに転じた高岡の向こうで、どろどろと雷鳴が轟く。前半の終了。

不安を募らせる始まりにもかかわらず、その後の展開は極めて充実していて、常にライヴでレヴェルの高い演奏を繰り広げる「歌女」にあっても、トップクラスの演奏ではないか。なぜ、これを録音してないのかと詰め寄りたくなるところだが、いや、いつも通りの演奏だと軽くいなされそうだ。特にライヴ当日になって、石原・藤巻の二人にフォーカスしたレヴューを、前回の補足として書き上げた身にとっては、二人が剣術で言うところの「先の先」や「後の先」を「モグラ叩き」的に取り合いながら、同質性/交換可能性を発揮し、高岡の移動に合わせて90度回転してみせた場面や、合わせ鏡的な自己増殖/乱反射を通じて自力で局面を打開した流れに、「あんたがレヴューで書いていた地点のはるか先を、俺たちはもう行ってるんだ」という力強い宣言を聴いた気がした。評者冥利に尽きると言えよう。カウンターで隣に座った原田正夫に、「ふと横を見たら、身体がものすごく前後に揺れていて、あんなに大きく揺れてるのは初めてみ見た」と後で言われた。それだけ大きく全身で頷いていたのかもしれない。
高岡が「最近tubaの音が多くなったと言われた」とFacebookに書いていたが、息音をはじめとした特殊奏法よりも、ちゃんと管を鳴らす音が多くなったと言う意味では、確かにそうかもしれない。だが、当たり前過ぎて今更こんなことを口にするのも気が引けるが、そのことは高岡の演奏が保守的になったとか、冒険に欠けるといったことを意味するものでは全くない。これはごく単純に、音色の強度で演奏の場を支えなければいけない場面が減ったということだ。今回の演奏でも、高岡が息音に転じて、石原・藤巻のつくりだす音の層に割って入ることはほとんどなかった。もはや彼らは自分たちの力で局面を打開し、新たな展開を生み出すことができる。ならば高岡が「それとは別のこと」をするのは当然だろう。
ここでもうひとつ言及しておきたいのは、今回の「歌女」の演奏が強く情感を喚起したことだ。一般に音楽において、情感は「うた」やメロディに宿るものであり、アブストラクトなインプロヴィゼーションとは無縁なものと思われている。しかし、そうとばかりは限らない。たとえばフリー・ジャズと呼ばれる一群の音楽の中には、情感を強く揺り動かすものがある。プレ・モダンな風景の喚起を通じて。
そんなことを思い出したのは、会場で幕間にアルバート・アイラーがかかっていて、高岡がふと「いま聴くと全然変じゃないのになあ。ビブラートもあんまりかけずに、ただただ一生懸命吹いてる‥」とつぶやいたのを聞いたからかもしれない。あるいはリハーサルを終えて開演まで外に出かけようとした彼らが、ふとカウンターに立てかけられたアート・アンサンブル・オヴ・シカゴのLPに眼を留め、彼らが80年代に来日した話を高岡が始めたからかもしれない。あるいはオーネット・コールマンが逝去したことが、頭のどこかに引っかかっていたからかもしれない。いずれにしても、彼らやジュセッピ・ローガンのフリー・ジャズには、プレ・モダンな風景の記憶が拭い難く付いて回る。まるで呪いのように。
清水俊彦による歴史認識を踏まえれば、ジャズにおけるモダニズムの口火を切ったのが1940年代のビバップであるとして、ありとあらゆる夾雑物/不純物を取り除くカント/グリーンバーグ的モダニズムに駆動されたモダン・ジャズの運動が、その後の20年を眼にも止まらぬ速度で駆け抜け、その到達点として60年代のフリーへと至ったととらえられる。そうしてたどり着いたモダニズムの極点であるフリー・ジャズに、色も匂いもあるブレ・モダンな風景が宿るというのは、矛盾しているように思われるかもしれない。
無論、フリー・ジャズと呼ばれる音楽が、常にプレ・モダンな風景と連れ立っているわけではない。たとえば、セシル・テイラーやサン・ラにそうした風景は感じられない。「ブラック・ミュージックとしてのジャズ」の正統性というかたちで、ブラックネス(ネグリチュードと言うべきか)を強調すればするほど、プレ・モダンな風景と縁遠くなる気がするのは、契機として解体・再構築を含むからだろうか。スタンダードに対する解体・再構築そのものであったビバップのパイオニアたち、チャーリー・パーカーやモンク、マイルス、ミンガスたちの演奏にも、アイラーやオーネットに特有の、あの風景の手触りが浮かぶことはない。一方、解体・再構築の限りを尽くしたアート・アンサンブル・オヴ・シカゴがプレ・モダンな風景を連れてくるのは、彼らがそれを何よりも大切にしたからにほかなるまい。ブラックネスの正統性を手放してもなお。それはジム・オルークが名指した「アメリカーナ」の流れにも当てはまる。チャールズ・アイヴス、ジョン・フェイヒー、ヴァン・ダイク・パークス、そしてかつてのオルーク自身。彼らはまさに解体・再構築を活動の本性としながら、コラージュによるプレ・モダンな風景の創造を進めた。「古く忌まわしいアメリカ」の捏造を通じて。
この「フリーな演奏が連れてくるプレ・モダンな風景」が何であり、どのようにして生み出されるのか、はっきり言ってよくわからない。ただ、それが、ジャズとかブラック・ミュージックとかアメリカという枠組みによるものでないことは確かだろう。なぜなら、ヨーロッパにおけるフリー・インプロヴィゼーションの演奏にも、同質の手触りが感じられるからである。ミッシェル・ドネダ、ル・ニン・カン、デヴィッド・トゥープ周辺については、トラッドや民族音楽とのつながりで説明しようと思えばできるかもしれない。しかし、ロル・コックスヒルや1970年代あるいは晩年のデレク・ベイリー、さらには一時期のエヴァン・パーカー等にも感じられるのはなぜなのだろうか。
ひとつおぼろげに浮かぶ考えは、これらの演奏がみな周囲のざわめきと相互に浸透しあう性格を有していることだ。周囲の物音に触発され、それに引き出されるように音を放ち、放たれた響きはざわめきと混じり合って変容をきたし、空間に広がって演奏者を包み込む。音をそこにある空間や身体と切り離してパッケージ化することにより、音楽作品として自立/完結させるモダンな音楽のあり方に対し、こうした空間と身体の相互侵食によるフィードバックの回路へと、即興演奏を通じて下降/沈潜していくことが、プレ・モダンな風景を現出させるのではないかと。
フリー・インプロヴィゼーションはともかくとして、オーネットやアイラー、ジュセッピ・ローガンたちが、果たしてざわめきに耳を澄ましているだろうか‥と訝る声が聞こえてきそうだ。ジャジューカ・ミュージックの倍音の乱舞に煽られ、凧のように宙を舞うオーネットのアルトを、軍楽隊やファンファーレのような「遠い響き」に、あるいはハープシコードのきらめきに耳を澄ましたアイラーを、パティ・ウォーターズの漏らすあえかに震える声にフルートの吐息を寄り添わせたローガンを、もう一度聴いてみてほしい。フリー・ジャズとは決して肥大し切ったエゴを垂れ流すだけの音楽ではない。

2015年8月15日(土) 池袋バレルハウス
歌女(高岡大祐、石原雄治、藤巻鉄郎)
写真撮影:原田正夫
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