2015-09-16 Wed
ディスク・レヴュー第2弾は、音響的あるいはエレクトロ・アコースティックなコンポジションからの6枚。より即興性に傾いた演奏については、稿を改めて論じることにしたい。
another timbre at87
Magnus Granberg(prepared piano,composition), Cyril Bondi(objects,percussion), d'incise(objects,electronics), Teresa Hackel(bass recorder), Wolfgang Hillemann(chitarrone), Anna Lindal(baroque violin), Hans Jurg Meier(bass recorder), Anna-Kaisa Meklin(viola da gamba), Eric Ruffing(analogue synthesiser), Christoph Schiller(spinet,objects)
試聴:http://www.anothertimbre.com/granberghowdeep.html
古楽系の楽器とエレクトロニクスやアナログ・シンセサイザーが同居し、Cyril Bondi, d'incise, Christoph Schiller等、若い世代の即興演奏者が集う。そうした編成から想像される音響変容系の音とは裏腹に、短く余韻の少ない打音が中心の端正で禁欲的な演奏が淡々と続けられる。少しもまぶしさのない曇天を思わせる明度の低さ。少しもべたついたところのないひんやりと乾いた音色。積み重なったり厚塗りされることなく、かと言って希薄に気化することもなく、ひっそりとその場に佇む響き。しばらく経過するとそれほど長いとは言えないものの、持続音がその構成比率を高め、あちこちで蓮の花が開くようにふつふつと湧いていた打音に、低音を徘徊するアナログ・シンセサイザーの熊の寝息にも似たノイズ成分が、バス・リコーダーの息の乱れが、ヴィオラ・ダ・ガンバの弦のざわめきが、ざらついた手触りを与える。

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Apartment House : Bridget Carey(viola), Simon Limbrick(percussion), Anton Lukoszevieze(cello), Nancy Ruffer(flute), James Saunders(dictaphones,shortwave radio), Philip Thomas(piano), Kerry Yong(chamber organ)
試聴:http://www.anothertimbre.com/saundersassigned.html
背後に長く伸びる音のかげがふと沸き上がり、野放図に膨れ、仰ぎ見るほどにそそり立って、あたり一面に立ちこめ、元の音の輪郭を覆い隠す。ふと浮かび上がる吐息、うす白く発光しながら眼前を横切る弦のかすれ、夢うつつの夜汽車の振動を思わせる打楽器、ぶーんとうなり続ける冷蔵庫。物音はみな暗がりに沈み、輪郭を明らかにしないまま、震えうごめきながら、甲高い飛行音や遠い虫の音に溶けていく。それゆえ、ここで演奏はあたかも屋外の音風景を映し出しているように感じられる。輪郭を際立たせず、ゆるやかに移ろいながら、たまたま隣り合わせただけの「あちら」と「こちら」が照応しあって、びっくりするほど深い奥行きを描き出す。模倣というよりは再構成。周囲に樹々がざわめき、足下を見えない水が流れ、向こうでロッジの発電機がうなり、彼方から夜汽車の響きが運ばれてくる‥そんな益子の夜に体験した音風景がふとよみがえる。

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Ensemble Grizzana ; Jurg Frey(clarinet), Mira Benjamin(violin), Richard Craig(flute), Emma Richards(viola), Philip Thomas(piano), Seth Woods(cello), Ryoko Akama(organ,electronics)
試聴:http://www.anothertimbre.com/freygrizzana.html
ゆるゆると平坦に引き伸ばされた弦の響きが、ゆるやかな筆の運びにより水平に引かれた線の内部に走る様々な緊張を明らかにする。ここで音は、ゆるゆると影のように響きを伸ばしながら、風の冷たさに、夕暮れの暗さに、ひとりぼっちの心細さに、ふるふると震えている。もはや吐息と見分けの付かないヴァイオリンのかすれ。引き伸ばされ細くなりやがて消えていくピアノの余韻の向こうに、車の通過音がぼうっと浮かび上がる。Ryoko Akamaによるほとんどサブリミナルなエレクトロニクス。一見、ただただ静かに、平らかに、空気をかき乱すこともなく、そっと置かれていく音は、珍しく簡素なフレーズを描きながら、実は苛烈な戦闘の前線に投げ込まれている。そのことを触知するには、ただ離れたところから眺めているだけでは駄目だ。消えていく響きを追って、音の深奥へと耳を歩ませなければ。名古屋の音楽バー「スキヴィアス」を訪ねた際、店主の服部がこんな話をしてくれた。「通学で電車に乗っていた駅が、本当に田舎の無人駅で、あたりが静かなんで、電車が来ると、電車自体の音が聴こえる前に線路が鳴り出すんですね。電車が行ってしまっても、線路の響きは残っていて、だんだん小さくなっていく響きを耳で追うと、電車を追いかけるように耳の感覚が伸びていって、それまでは聴こえていなかった遠くの音がだんだん聴こえるようになってくるんです。」
そのように消えていく音の行方を追いかけ、水中からまぶしく光さざめく水面を見上げるように音を聴くこと。そうすれば、一見簡素な組み立てに潜む、途方も無い豊かさを味わうことが出来るだろう。カヴァーに掲げられたGiorgio Morandiの絵画作品のように。

試聴:https://cladistic.bandcamp.com/album/klavierst-cke
「ピアノ曲集の歴史的初録音」とはいったい何のことかと訝しく覗き込んだ時点で、すでにCladeの術中に嵌っているというべきか(もしかするとDavid TudorによるStockhausenピアノ曲集のタイトルのパロディかもしれない)。重く冷たい打鍵、暗がりに沈むピアノ弦の震え、胃の腑に重たくのしかかる低音のうごめき、よじれながらたちのぼる残響、ひっそりとあるいはがさがさとせわしない物音、湿った黴臭い匂い‥‥。Harold Buddに捧げられた曲たちは、献呈者とは似ても似つかぬ窒息しそうな重苦しさをみなぎらせ、一方、David Jackmanに捧げられた曲たちはと言えば、幾分かはそれらしいオルガンのドローンが、がさごそと騒がしい動きに踏みにじられる。「ハノイで古ぼけたピアノを見つけた」ことが生み出した(という虚構の設定に基づく)植物性のピアノの廃墟『Vietnamese Piano』に続き、「確信犯」と呼ぶにふさわしい強靭な意志が、フェイクの限りを尽くした演奏を貫いている。幻灯芝居(ファンタスマゴリア)的なあり得ない情景喚起力が魅力的だ。

Farpoint Recordings fp052
Dan Bodwell(double bass), Ilse De Ziah(cello), John Godfrey(electric guitar), Sean Mac Erlaine(clarinet,bassclarinet,chalumeau), Roddy O'Keeffe(trombone)
試聴:http://www.ftarri.com/cdshop/goods/farpoint/fp-052.html
それにしてもずいぶん直接的なグループ名だが、ここでの演奏を聴く限り、「Quiet Music」とは決して『Quiet Corner』で紹介されるような、もの静かでおとなしい音楽でもなければ、依然としてWandelweiser楽派に対する誤った固定観念として流布しているところの「音量が小さく音数の少ない音楽」でもない。それは言うならば、環境に沁み込むことによって生成する音楽だ。David Toop「Night Leaves Breathing」におけるコツコツと叩く音、床や弦の軋み、押し殺されくぐもった寝息。頁がめくられ、ドアが開閉し、藁束が握りしめられる。そうした場所を取らないちっぽけな音が希薄に羅列され、周囲をうっすらと照らし出す一方で、熱に浮かされた眩暈のようにエレクトロニクスが揺らめき、いつの間にか忍び寄って来た超低音の暗闇に肩からのしかかられ、空調のうなりが間断なく続く。Alvin Lucier「Shadow Lines」では、管弦の層の重なりが水平にたなびき揺らぎ明滅しながら、垂直なハーモニーを形成するというより、どこまでもするするとズレ続けねじれながら、編み上げている糸の新たな色合いを示し、さらには相互干渉によるモワレ模様を浮かべる。Pauline Oliverosによる表題曲は、始まりの部分で音が聴き手の側に流れ出してくることなく、深い奥行きの中に貼り付いて、あたかも壮麗な洞窟の壁面に映る響きを眺め渡すように聴こえる部分が素晴らしい。音響が満ちてくると洞窟は水没し、いつものDeep Listeningなドローンに行き着いてしまうのだが。John Godfrey「Hand Tinted」は虫や蛙の声、バイクの通過音等のフィールドレコーディングの隙間に音響が覗く。いずれも耳を頼りに響きに任せるというよりは、言葉のインストラクションに身を委ね、文学的なイメージに沈み込んでいくことにより深みに達する感覚が共通しているのが興味深い。その意味では冒頭曲が白眉。これは「アイルランド的」なのだろうか。紙を四つ折りにした変型ジャケット。試聴頁に記されたFtarri鈴木美幸による解説も参照のこと。


Farpoint Recordings fp51
Claire Duff, SCAW Duo, MmmTrio, Quiet Music Ensemble, Carin Levine, Nova Ensemble, Karen Power(tape)
試聴:http://www.cmc.ie/shop/cd_detail.cfm?itemID=3430
希薄化することにより演奏者のコントロールを束の間逃れ漂流する。物音や気配へと身を沈め、不定形な傷やシミへと姿をやつす。安定した輪郭を引き裂き、多方向からの力動の交錯/衝突へと自らを解き放つ。周囲の不可視のざわめきに身を浸し、環境に沁み込んで、そこから共にゆるゆると生成する。音響的なインプロヴィゼーションが用いる、そうした音の肉の重みを脱ぎ捨て、「音響」へと羽ばたく仕方(それらはコンポジションの演奏でも頻繁に用いられる)は、ここでは採用されていない。ヴァイオリンもピアノもクラリネットも、驚くほど鮮やかな輪郭をきらめかせ、充実した質量を空間に刻印する。その一方でDavid Toopが本作品のライナーに次のように記していることに深く同意せざるを得ない。「これらの作品に私が聴き取るのは濃密な聴取であって、それは楽器を、演奏者を、コンサート・ホールを超えて、世界の聴取から来るものだ。世界と言っても音楽の世界ではなく、相対的な調律、音響空間、音の入り組んだ相互浸透、そして音が消え去ったり、聴覚の限界に入り込んだり、不意に戻って来たりした時に何が起こるのかに対する感覚を劇的に研ぎ澄ますサウンド・イヴェントの束のことだ。」
ヴァイオリンの響きは編集により交錯/衝突させられる。ピアノとクラリネットのデュオが乱反射し、内部奏法により搔き鳴らされた弦がそれらを圧して鳴り渡り、空間を凍り付かせる。それらは演奏のステージを浮かび上がらせない。音楽的ドラマもまた。虫の音や遠い子どもの声、羊の首に吊るされた鈴が響き渡るトラックに遭遇して、これらの器楽が標題音楽とは違う仕方で、架空のサウンドスケープを描き上げていたことに気づかされる。音/響きは単に「音の絵画」のための「絵具」ではなく、世界をサウンドスケープとして聴取することへと耳を誘うための「導きの糸」として配置される。極端に繊細な編集にはほとんど執念のようなものが感じられる。やはり「アイルランド的」なのだろうか。500枚限定。三つ折りの縦長変型ジャケット。
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