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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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サウンドの幾何学、多層による構成 「タダマス19」レヴュー  Geometry of Sounds, Multi-layered Composition Live Review for "TADA-MASU 19"
タダマス19-5_convert_20151031231957

 10月25日(日)に開催された「タダマス19」について、ホストのひとりである多田雅範は自身のブログに、こう記している(※)。
 ※http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20151025

 Badenhorst, Jozef Dumoulin の才能を再認識。
Jen Shyu の奥深い多様性の発見、と、彼女に集う Thomas Morgan, Dan Weiss, John Herbert ネットワークの確認。
Benoit Delbecq ピアノトリオの現在性と高み。
Tim Berne の健在。
Mary Halvorson 謎めく個性という存在から、汎ジャンル的横断といった事態以上の何か新しいサウンドを見せてくれる巨大な存在になるブレイクスルーを記録しはじめたのではないかという観測。
(中略)
 それにしても、Thomas Morgan が出向くレコーディング、関心を持つ音楽、共演するミュージシャンたちの系といったもの、これらはすべて金色に輝く。Thomas Morgan が触発した演奏家たちはいやおうなく変化するだろう(必ずしも高度になるかはわからないけれど)。

 綺羅星の如く列挙されるミュージシャンの中で、改めてThomas Morganが名指される。彼は多田にとって、いやNYダウンタウン・シーンをはじめ、狭義の「ジャズ」の先端部分の定点観測たる「タダマス」にとって(ということは、とりもなおさず当該シーンにおいても)、本当に特別な存在だ。そして狭義の「ジャズ」の熱心な聴き手とは言えない私にとって、彼は「タダマス」がなかったら出会っていなかったであろうミュージシャンである。その意味で私にとっても特別な、かけがえのない存在である。今回の「タダマス」リポートは彼を中心に語ることとしよう。
 というわけで、今回のリポートもイヴェント全体の正確な報告/要約とはなっていないことを、あらかじめお断りしておく。なお、当日のプレイリストについては、次を参照していただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767


タダマス19-1Jen Shyu & Jade Tongue / Sounds and Cries of the World
track 3: Mother of Time
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=k7Um5RBX_ds
 口数少なく物静かな語り口ながら力強く弾むベース(Thomas Morgan)。その前後をパタパタと埋めながら、あちこちで砕け、ラインをもつれさせて、危うい不均衡へと傾いていくドラムス(Dan Weiss)。なだらかに溶けていくように時を引き伸ばすヴィオラ(Mat Maneri)。宝石のように硬質な音色を思慮深く響かせるトランペット(Ambrose Akinmusire)。声は入り組んだ響きの積み重なりの中から、か細く立ち上がり、傷つきやすさをドレスの裾のように閃かせながら、誘うように声音を裏返させていく。そうしたコケットリーをはじめ、ジャズ・ヴォーカルの「定型」をフェイクしているように聞こえる英語による歌唱から韓国語に転じると、とたんに響きが濁り、重さを増して、浮かぶように身を翻し漂っていた声音が、着地して歩むようになる。ノンブレスのトランペットや泡立つように細やかなシンバルの連打が、それと反対方向にアンサンブルの重心を引き上げる。

 Steve ColemanのアンサンブルFive Elementsの一員として活躍したJen Shyuは、この後に続いて紹介されたJohn Hebert / Rambling Confessionsにも参加し、また違う顔を見せていた。多田が「奥深い多様性」と称する所以である。実際、月琴や伽倻琴を奏でながら、よりパフォーマティヴな歌唱を、英語、韓国語、インドネシア語等の多言語により行う彼女のパフォーマンスは、確かに多様であるかもしれない。だが、私にはむしろコケティッシュなフェイク感がいつもあることが気になった。「タダマス19」の場で、聴衆として参加していた中村匠一が『Sounds and Cries of the World』の彼女を「高音を鼻にかけるように裏返すところがJoni Mitchelに似ている」と評し、対して『Rambling Confessions』における彼女を「今度はRickie Lee Jonesみたい」と形容するのを聞いて、なるほどと感じたことは、このこととつながっていると思う。ひとつにはここに現れている多様性が、キャラクターの交換可能性のように(つまりは極めて薄っぺらなものに)感じられること。もうひとつには、このフォーク/ポップスとジャズを往還する歌い手二人が、ジャズ・ナンバーを歌う時に見せる(「偉大なるジャズ・ミュージック」へのリスペクトの現れかもしれないにせよ)、ジャズ・ヴォーカルのスタイルへのすり寄り傾向(例えば中村の言うようなJoni Mitchelの歌い方が最も顕著に聴き取れるのは、ジャズ・ナンバーを採りあげた『Mingus』や『Shadows and Light』ではあるまいか)が、より顕著に彼女に見られることである。

 『Sounds and Cries of the World』の聴きどころは、むしろその場できめ細やかに編み上げられていくアンサンブルの生成にあるだろう。極端に微細に砕けていくドラムス。輪郭を曖昧に流動化し、溶け広がるヴィオラ。対して硬質な輪郭を鋭く際立たせながら、ひっそりと場所を取らないトランペット。このように大きさも形も異なるサウンドの切片が互いに入り組み、交錯しながら、ほとんど瓦礫のように積み上げられていくにも関わらず、そこには声の居場所がきちんと確保されており、さらには外の空気の通う隙間があって、青々とした麦畑を渡るように風が吹き抜けていく。それを主導しているのは、明らかにThomas Morganのベースにほかならない。
 彼のベースのしなやかさを何にたとえよう。「無駄な音を一つも出さないと、バークリーの学生だった頃から言われていた」と、「タダマス」で最初に彼のことを紹介する時、益子が言っていたことを思い出す。絞り抜き、削り込まれた音。しかし、そうしたイメージとは裏腹に、彼の音は厳しさを感じさせない。ひりひりとした緊迫感やそそり立つ荘重さとは無縁で、いつもすっとそこにある。素速さを感じさせるよりもさらに速く、ふっと立ち上がるとともに、セトルメントと言うのだろうか、音はふっと立ち下がり、速やかに静まって、波紋を残さず、響きの水面を乱すことがない。ふっと現れ、ふっと消えてしまう音。John Hebertは「タダマス」にもたびたび登場する優れたベース奏者だが、ここで聴かれるベースのピチカートにはごりっとした手触りがあり、響きにマテリアルな輪郭、角や厚みを感じさせ、それにより空間/時間を彫り刻む様が荘重さをもたらす。それに比べThomas Morganのベースは実体感が希薄で、まるで陽炎のようだ。
 以前の「タダマス」でゲストに招かれた山本達久が「Thomas Morganていじめられっこぽいですよね。オレがクラスメートだったら絶対いじめてるな。その点、Stephan Crumpは男らしくてカッコいいですよね。男前だし」と言っていた。確かに外見上の印象もその通りで、Morganは線が細く影が薄い。
 だからこそ、Thomas Morganはあのように澄み渡った幾何学的空間を生み出せるのだ‥‥と言ったら、レトリック過剰な逆説に聞こえるだろうか。私にとって彼のベースは、Barre Phillipsの演奏が示す幾何学的明澄性、すらすらと書き下ろされる証明の明晰さ、淀みなさの延長線上に位置している。幾何学上の「点」の定義は、幅も長さも大きさもない‥というものだが、Morganのベースにはまさにそうした、時間/空間上のポイントを正確極まりなくクリティカルに指し示す、研ぎ澄まされた抽象の力があるように思う。幅も長さも大きさも、輪郭も重さもない「点」だからこそ、その近傍に自在に音を呼び込み、ミクロからマクロまで絶妙な距離感の下に、緊密に音の運動を組織することができる。
 ここでMorganの周囲に生じているアンサンブルの生成は、Henry Threadgillがつくりだす、幾つもの異なる速度の輪が巡りながら、螺旋を自在に出入りし、次々に新たな層/断面を見せていく組織的流動性の相同物にほかなるまい。

タダマス19-2Liberty Ellman / Radiate
 そのThreadgillのアンサンブルの一員であるLiberty Ellmanのグループは、Jose Davila, Steve Lehmanら、他にもそこでの「同僚」を含み、音のかけらが明滅を繰り返しながらぐるぐると巡り、その隙間を走り出る音の流れが全体を更新していく様は、確かにThreadgill的である。しかし、Ellman自身のソロになると、そうした流動変化がぴたりと止まってしまうあたり、いささか底が浅いと言わざるを得まい。益子がThreadgillにおいては演奏がその場で生み出されていくのに対し、ここではあらかじめ書かれたものをなぞっているに過ぎない旨を指摘していたが、その通りだろう。Threadgillの音楽に感じられる、まだ見えない世界へと踏み出し、彼方へと手を伸ばす感覚はここにはない。


タダマス19-3Joachim Badenhorst, Dan Peck / The Salt of Deformation
 バス・クラリネットとチューバのデュオを基調としながら、そこに多重録音も含め、様々な響きが重ねられ、差し込まれる。足下から霧が沸き上がるような濃密な息のたゆたい/浮き沈みに、半ば闇に沈んだモノトーンなつぶやきにも似た詠唱が加わり、風切り音とも風自体のうなりともつかぬ響き、遠い鳥のさえずりを思わせる速い軋みが投影され、チベット密教の祭儀にも似たぞっとするほど深い鳴りが、底の方をゆっくりと通り過ぎていく。即興演奏的な構成感というよりは、むしろデヴィッド・シルヴィアンが好みそうな美意識が香る。「多重録音により異なる奥行きの空間が組み合わされていて、耳の焦点が合わない」という多田の指摘はまったくその通りで、かつての「心霊写真」的演奏もそうだが、Badenhorstの「演奏」が、フリー・インプロヴィゼーションの「記録」を離れ、エレクトロ・アコースティックな音響構築やフィールドレコーディング的な眼差しへと踏み出していることがわかる。

タダマス19-4Benoit Delbecq 3 / Ink
 Fred Herschとのダブル・トリオによる優雅な達成が、まだ記憶に新しいDelbecqは、ここでプリペアド・ピアノを自在に操って、硬く目の詰んだ木片を打ち鳴らし、重く固くしこる低音のくぐもった打撃と対比させながら、複合的なラテン・ビートを組織するかと思えば、通常の打鍵においては、蜘蛛の巣をかがるような繊細極まりない音響の交錯を奏で、かつての盟友Jean-Jacques Avenelに捧げている。あのダブル・トリオの核心は、表層をどこまでも滑らかに滑走する音響が、フレーズの変奏の線的な継起(というジャズ・ピアノの定型)を離れ、細やかな交錯により編み上げる平面全体を連続的に変化させていくことにあった。ここでも演奏は線を浮き上がらせることなく、編み上げられ、もつれほころんだ面や層において息づいている。


第19回四谷音盤茶会
2015年10月25日(日)
綜合藝術茶房喫茶茶会記
益子博之、多田雅範  ゲスト:カイドーユタカ
タダマス19-6_convert_20151031232032
今回、Altec&Goodmanのユニット構成はそのままに、エンクロージャを模様替えしたスピーカー。
ドライヴァー・ユニットの下に敷かれているのは小林秀雄全集の1冊。
なお、イヴェント時の写真は原田正夫氏のFacebookページより転載させていただきました。

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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:31:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
時間の純度、テンションの密度 ライブラリ@喫茶茶会記  Purity of Time, Density of Tension Live Review for Library@Kissa Sakaiki 20151019
 月曜の晩のライブラリのライヴから丸3日以上が経過したにもかかわらず、この文章を書いているいま、この瞬間も、私は依然として深い衝撃と当惑の只中にいて、混乱と眩暈の甘美さを幾度となく反芻している。久しぶりに聴いた彼らの演奏は、まったくこちらの想定外のものだった。

ライブラリライヴ1_convert_20141130013647
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 上の2枚の写真(いずれも井谷亨志の撮影による)を見比べていただきたい。1枚目が前回、3月6日の喫茶茶会記ライヴ時のセッティングで、2枚目が今回のライヴ時のセッティングである。まず、中央のウッド・ベースがエレクトリック・ベースに代わっていることに気づく。今回のライヴの少し前、Facebook上で「エレクトリック・ベーストが弾きたい気分」と蛯子がつぶやくのを眼にしてはいたが、てっきりジャム・セッションの話だとばかり思っていた。これまで2回体験した彼らのライヴは、いずれもフル・アコースティックだったからか、ライブラリにエレクトリック・ベースが持ち込まれるとは、全く思ってもみなかった。改めて彼らの第2作『ライト』を聴き返してみれば、例えば「モノフォーカス」でエレクトリック・ベースが奏でられているのに。
 もうひとつには、サックスが置かれている場所が異なる。前回は右手側の最も手前に三角のヴォーカルが位置し、そこから左側に橋爪のサックスが開き、フロントラインを形成していた。今回は右手前に橋爪がワントップで位置し、三角は一番奥へと引っ込む形となった(下を参照)。

  前回の配置        今回の配置
    蛯子         蛯子 三角
  井谷  飯尾     井谷     飯尾
橋爪      三角            橋爪

 終演後に蛯子に確認したところでは、これもエレクトリック・ベースを採用した帰結であると言う。サックスとピアノがより緊密に連携し合う必要が生じ、アイ・コンタクトしやすいよう近接して配置した結果、ヴォーカルがあの位置になったと。このことがグループのサウンドに与えた大きな変化については、後ほど見て行くこととしよう。


 エレクトリック・ベースの太くソリッドな芯が、真正面に立ち上がる。カホンの隙間を帯びた、たどたどしいビート。その上をかさかさと滑っていく声が不安定さをいや増す。ピアノとテナー・サックスが入って厚みが増すと不安感は薄らぐが、前に出たテナーはフレーズを奏でず単音を手繰るように引き伸ばし、そこに不安な闇と胸にのしかかる重苦しさが再び宿ることになる。最後、エフェクトによりドローン化されたベースのざわめきが、そうした闇と響き合い、全体を覆い尽くし、最後、足下のスイッチでブチッと切られる。【滑車】
 カホンのつくりだす行進のリズム。ささやきの静けさと冷ややかさをたたえた語りが、その向こうから聞こえてくる。ペース・ラインはパンキッシュな単純さを隠そうとしない。建築構造模型のようにシンプル化されたスカスカなリズム・セクションに対し、カーヴド・ソプラノの、空間を飛び石伝いにたどる飛躍の多いフレーズと、点描的なピアノが、互いの隙間に入り込み、ほぞを組んだようにかっちりと噛み合って、別の景色を描き上げる。ベースが(おそらくはディレイの使用により)断片を反復させ、その上に重ね描きする。【Star Eyes】
 ベースのねじれたフレーズがくっきりと浮かび上がり、ピアノの上昇フレーズと絡み合う。その向こうにヴォーカル。手前でやはりフレーズを吹かないテナーがゆるやかに音をくねらせる。たっぷりと墨を含んだ、ゆったりとした筆の運び。ベース音をディレイで反復させた上で、ベースの速い刻みと細く奇妙なうなり声を上げる発信器(井谷の「演奏」による)の一見アブストラクトな、その実、とても直接的な交感。【Monofocus】
 ベースとピアノが大縄を回すようにゆるゆると揺らぎ巡り、その只中であえぐか細い声がやがて乾いた語りへと変わる。アンサンブルの中で奥まった位置にあるだけでなく、眼の前で繰り広げられる音楽/演奏に対しても感じられる声の距離感。画面に対してオフの位置から語られるナレーションのような、あるいは遠く電波に乗って聞こえてくるアナウンスのような冷ややかさ。ラジオ・ヴォイスの語りが手前で鳴り出したテナーにマスクされ、背後へと少し遠ざかる。【Spherical (2008年作曲 の2015新アレンジ)】
 ベース・リフとカホンがつくりだす反復ビートの、あえて選び取られた単調さ、チープさが80年代初頭のNWのモノクロームな暗さを思わせる。建築中の建物のように剥き出しの構造。曲づくりのアイデアがひりひりと透けて見える。吹きさらしに独り立ち尽くす声とユニゾンし、裏打ちしていたピアノが、やがてきらびやかに高まり、華やかにはじけてソロを演じるのに対し、ベース・リフがぶっきらぼうな剛直さで肩に重くのしかかる。【Vitriol】


 ここまで、前回まで見られた曲題のアナウンスもまったくなく(表記している曲題は、後から蛯子に確認したものである)、蛯子は押し黙ったまま、ともかく脇目も振らず先を急ぐように、前の曲が終わると、すぐに次の曲のカウントを始める(これまでのライヴで見られた、あの曲想の中にずぶずぶと沈んでいくような、無言での身体の甘美な揺れは、今回は見られない)。モノクロームな不機嫌。ここにもパンクの残響が聞こえる。DIY的な簡素で剥き出しな曲の構造/アイデア。単調なラインをぐいぐいと彫り刻むソリッドで硬質なベース。音の要素をいつもより絞り込み、リズムもシンプルにして音の隙間を空け、チープにやせ細った骨組みだけを提示するパーカッション。
 ことさらにパンクなリズム・セクションに対し、メロディは夢幻的に入り組んでいて、決して単純とは言えない。蛯子による配置の狙い通り、サックスとピアノのコンビネーションはいつも以上に緊密で、互いの音の隙間を緊密に入り組ませて、一心同体、サウンドのクロスワード・パズル状態をつくりだしていく。いつもなら、両翼に離れた橋爪と飯尾の間に張り巡らされる幾つもの連携の線は、「ライブラリ」のアンサンブルを貫き、全体へと滲み、沁み込んでいくのだが、今回はあえてリズム・セクションのブロックから切り離され、いつもなら井谷と飯尾の間で瞬時に取り交わされるリズムの呼応も、むしろ切断され遠ざけられている。
 「あちら」と「こちら」を切り離すことにより、曲自体の複合的性格、モザイク性を改めて明らかにした演奏は、色彩感をモノクロームに絞り込み、さらに陰影を深め、エッジを鋭く研ぎ澄ます。そのプリミティヴな原初衝動とアートな「トンガリ具合」の結びつきに、UT, Y Pants, Theoretical Girls等、NYノー・ウェイヴに花開いたガールズ・アート・パンク(?)の一群のことを、私は思い出していた。かつて初期のSonic Youthもそこにいた。彼らは他のグループに比べ、飛び抜けてロマンティックで内省的/文学的だったけれど。
 そして三角のヴォイスはフロントに出ることなく、他の二つのブロックからも切り離された別の場所に、ひとり立ち尽くす。奥まった場所から、いや「遠さ」のさらに向こう側から聞こえるラジオ・ヴォイスは、いきいきとした生々しさを欠いて、代わりにかさかさと乾いた距離のエロティシズムを冷ややかにたたえている。語の間をゆるやかに切り離した「分かち書きの語り」は、それぞれの語自体を曖昧に宙に吊り、氷漬けにしていく。まるでラジオから聞こえてくるように、眼の前でライヴに展開される演奏と切り離された別の場所から響いてくる声は、むしろいつも以上に強力に「詩の力」を解き放っているように思われた。やはりノー・ウェイヴ・シーンの中で活動したDNAのArto Lindsayが、カットアップやコンクリート・ポエムの手法を用いたり、Fernando Pesoaを引用したりして「詩の力」を強めつつ、サウンドの熱狂から切り離していたことを思い出す。


 ふとした間に客席から拍手が起こり、蛯子はそれを聞いてはっと我に返ったように礼を述べると共に、次に演奏する曲名を告げる。これ以降は、すべて曲が終われば拍手が起こり、蛯子が次の曲名をアナウンスして演奏を始めるという、いつものリズムが戻って来た。それでは前半の「無言進行」は何だったのだろうか。終演後に蛯子に確かめると、彼は「実は根がパンクというか、パンク好きなんですよ」と言いながら、今日の感じだと、いちいち曲題をアナウンスして‥‥って言うのはちょっと違う気がして、もう一気に演奏したと説明してくれた。テンションの密度と言うか、時間の純度と言うか、そうしたものを鈍らせたくないがために、一気呵成に演奏を続けたというのはわかる気がする。実際に感じ取られた演奏やサウンドの肌触りも、そうした取り扱いがふさわしいものだった。

 曲題のアナウンスに導かれて始まった「4:00 P.M.@Victor's」は、初めて聴く不思議な曲(後で蛯子に訊くと2009年作曲の古い曲だとのこと)。ほとんど変拍子に聞こえるような、ぎくしゃくと不均衡な三拍子(たぶん)に乗せて、ソロの断片が貼り合わされ、縦横に張り巡らされる。そしてソロのフレーズ自体もガーシュイン「ラプソディ・イン・ブルー」のメロディを早回ししたような奇妙なもの。これまでもよく知った曲がまったく新しい側面、見知らぬ「他人の顔」を見せていたが、そこでも顕著だったコンポジションのモザイク性を突き詰めた作品と言えるだろう。
 続く「悪事と12人の死人」も初めて聴く曲(2011年作曲とのこと)。単調な繰り返しがノイジーに高まり、蛯子はキンカン(あの虫刺されとかのかゆみ止め薬)の壜でベース弦を掻きむしる。その一方でカーヴド・ソプラノとピアノは入り組んだクロスワード・パズルを組み立て、ラジオ・ヴォイスの語りが彼方から響くといった、この日の鍵となる要素を網羅した集大成的な趣きの作曲/演奏。
 これに対し、ライヴの定番曲「Trains」では、冒頭、ベースのたゆたいがディレイによりサンプル&ホールドされ、その上で各種サウンドが配合されていくのだが、細かく叩き分けられるライド・シンバルのノリの良さに運ばれて、この日、最も各演奏者のプレイヤーシップが発揮された演奏となった。温度感が低く透明度の高い硬質なECM的空間の中で、ピアノが透き通った叙情をふんだんに香らせれば、テナーもまためくるめくフレーズを次々に編み上げていく。この部分はむしろ橋爪亮督グループが降りてきた感があった。以降、演奏はパッチワークの組合せを切り替えながら進められたが、特にベースの持続音への傾倒はぞっとするほど深い淵を覗き込んでおり、同じECMでもSolstice的なデモンをたたえていた。
 新曲だという「237」は、この日のために作曲されたのかもしれない。ヘヴィなベース・リフにたどたどしいカホンのビートがパンク風味を前面に押し立て、か細い声がたどる、どこか牧歌的なメロディを、「パンク唱歌」の如く響かせる。橋爪はテナーのリードを鳴らさずに、息だけをスプレーするというエフェクト的な演奏をしていた。
 最後の2曲、「音がこぼれる草の話」と「Angel」もこれまでのライヴの定番曲だが、やはりこの日の流儀で、パンキッシュに生体解剖を施される。前者ではパンク的なサウンドのベース・リフが前景化し、これと対抗するようにテナーとピアノはますます見事に精密な音楽機械を組み立て作動させる。井谷がトライアングルのシンコペーションで珍しくピアノのリフと直接に絡んでみせる。テナーはここでもフレーズを吹かず、音程の微妙な上下だけで演奏するなど、構成のモザイク性をいよいよ明らかにすると共に、サウンドの要素を限定してソリッドな密度/集中度を高めるという、この日のポリシーを如実に反映したプレイ。後者でも、冒頭、ベースの揺らぎがサンプル&ホールドされ、その上で各演奏者の間歇的なリフが配合されるなどモザイク性が前面に出ており、そうした中でカーヴド・ソプラノがやはりフレーズを奏でず、引き伸ばされた単音で演奏を展開していた。


 今回のライヴに駆けつけた多田が、この日のライブラリの演奏について、自身のブログに次のように記しているのを見つけた。

 五者五様の孤島が反射しあう海域のような、聴く像を一瞬見えたり見えなくなったりさせるライブラリの、何処かに参照点を持つようではない音楽。



 井谷のタイコと橋爪のサックスが先導する、どこか橋爪亮督グループの疾走感浮遊感を思わせる展開、最初の数曲はコンポジションがよく見える構成感で、あれれ、ライブラリってこういうサウンドだったっけ、と、不思議に思っていたが、何かちょっと予測(聴くこちらの)とのズレというか、コンポジションでは狙えない快楽をこちらが把握できたと拍手して、リーダーが曲名を紹介しはじめたところからグイグイと高みに入ってくる。

 眼前で繰り広げられる想定外の謎に向けて、異なる視点から注がれた眼差しは、それでもよく似た光景を見出していたのだなと思う。誤解の内容に付言すれば、「コンポジションがよく見える構成感」とは、私が「建築構造模型」とか、「曲づくりのアイデアがひりひりと透けて見える」とか、「モザイク性」といった言葉遣いで説明しようとした事態と響き合っている。けれど、そのように一見「種明かし」をしながら、それがより深い謎と魅力を生み出していることは、レヴューに述べている通りだ。アレンジメントやアンサンブルにかけられた魔法が解けることにより、蛯子の音楽が有している「プレイヤーシップでもミュージシャンシップでもない何か」が、より奥深くしめやかな輝きを放っていたように思う。今回もまた「物語」は自身にふさわしい「スビード」を見出していた。


 最後に蛯子に確認したセット・リストを改めて掲げておこう。
1 滑車
2 Star Eyes
3 Monofocus
4 Spherical (2008年作曲 の2015新アレンジ)
5 Vitriol
6 4:00 P.M.@Victor's (2009年作曲)
7 悪事と12人の死人 (2011年作曲)
8 Trains
9 237 (新曲)
10 音がこぼれる草の話
11 Angel

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2015年10月19日(月)  綜合藝術茶房喫茶茶会記
ライブラリ:蛯子健太郎(electric bass)、橋爪亮督(tenor saxophone,curved soprano saxophone)、井谷享志(percussion)、飯尾登志(piano)、三角みづ紀(poetry)



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:41:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
タダマス、再結成した「19」と共演する  TADA-MASU Plays with Reunited Legendary Duo "19(JUKE)"
 来週末、10月25日(日)に四谷音盤茶会(通称「タダマス」)が開催される。前回は紹介された全作品に聴き手を鋭く触発する強度がみなぎっており、思わずそれに反応して、当日プレイされた10枚すべてに言及するという、異例のレヴューをしたためることになった(※)。その末尾で、私は次のように記している。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-365.html

最近、様々な方面からNYダウンタウン・シーン、あるいは同時代的なジャズ・シーンに注目が寄せられ、それらの期待に応えたり、あるいは不適切な憶説に反論したりと、「タダマス」も結構揺さぶられたように思う。正直言って、「そんなの相手にしなくてもいいのに」と思ったことも何回かあった。しかし、6月に益子が恒例のNY定点観測に赴き、おそらくは現地のシーンの生な強度に触れて、日本国内のジャズ雀の囀りなどどうでもよくなってしまったのだろう。今回の「タダマス18」の成功は、強度の高い何をさておいても紹介すべき作品を選び抜き、それらの配列から自然とあるラインが浮かび上がり、それと「タダマス」本来の視点・立ち位置が相互に響き合い、照らし出しあうという原点に回帰したことにあると思う。やはり何をさておいても駆けつけ、耳を傾けるべきイヴェントである。たとえ選盤が好みに合わなくても、それはそれで何事かを如実に明らかにするだろう。そうした「異なる視点から眺めた風景」に気づかされること、触発されることは多い。ぜひ今後とも末永く継続していただきたい。

 「今ジャズ」なるものが、ジャーナリズムによる「フレームアップ」というか、マーケティングに基づいた情報操作であることは、『プログレッシヴ・ジャズ』所載のインタヴューで菊地成孔が述べている通りで、それ以上でも、それ以下でもない。その中から素晴らしい作品/演奏が生み出される可能性もあるだろう。でも、多くは単なる流行りモノで、ムーヴメントとは固定され抜け殻となったスタイルの集団パクリにほかならず、それらすべては1年もたたずに脱ぎ捨てられるモードに過ぎない。それでも「流行りモノ」に触れたいヒトはそうすればいいし、「最新の」流行りモノに誰よりも早くアクセスすることにステータスを置きたければ、勝手にすればいい。
しかし、私はこれまで音楽をそのようには聴いてこなかったし、これからはますますそのようなことはないだろう。流行りモノを追いかけるには、もう齢を取り過ぎた。それは決して感性が鈍くなったとか、新しいものに対する反応が遅くなったということではない。はっきり言って、私にはもう残された時間が僅かしかないのだ。音楽に打ちのめされた経験もなく、ただキラキラと輝く流行りモノを追いかける快楽しか知らないのならば、一生そうしていればいい。だが、私はこれまで幾度となく、音楽の素晴らしさに打ちのめされ、この世にそうした素晴らしい音楽が存在することを知ってしまった。もはや後戻りはできない。明日にはごみ溜めになることがはっきりしている場所を漁っている暇などないのだ。

 私の「タダマス」への信頼は、もちろんまずはその耳の確かさゆえであるが、それだけではない。むしろ、益子と多田の二人の、抑えがたい耳の渇望による。筋立ての整合性を優先するならば、理論的枠組みが優先で、それにうまく適合する事例が選ばれることになるだろう。しかし、彼らの耳はそうした理論的適合性よりも、菊地雅章やThomas Morgan、Henry ThreadgillやMary Halvorsonの論理の枠組みをはみ出し、引き裂こうとさえする禍々しい強度に、否応なく惹きつけられてしまう。彼らはそれを等閑視できない。そして類似/類推の線を通じて、数多くの音たちがその場の議論に召喚されることとなる。「私なぞ『あ、○○に似てる~』しか言わないけれども‥」と多田は謙遜してはにかむが、それって実は恐ろしいことなのだ。あらかじめ用意した筋道を脱線して、画定しておいた閉域を踏み破り、あらぬ方向へ新たに線を引き直して、予想だにしなかった関係性を即興的に浮かび上がらせることなのだから。そうした耳の動体視力や反射神経を含め、彼らの共有する比類なき耳の渇望に私は感服し、そして厚い信頼を置いている。
タダマス19-0


 思わず、前置きが長くなってしまった。益子による今回の内容の案内は次の通り。

masuko/tada yotsuya tea party vol. 19: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 19
2015年10月25日(日) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:カイドーユタカ(ベース奏者)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)

今回は、2015年第3 四半期(7~9月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。
ゲストには、ベース奏者、カイドーユタカさんをお迎えすることになりました。ストレートなジャズから完全即興、ソロ演奏まで幅広い領域で活躍するカイドーさんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)
詳しくはhttp://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767を参照。

 なお、多田による告知(「宣言」と言うべきか)もぜひ参照していただきたい。
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20151016

タダマス19-1  繧ソ繝€繝槭せ19-2_convert_20151018145456 タダマス19-3
なお、表題の「19」については、以下を参照のこと。
http://www.discogs.com/artist/548408-19Juke




ライヴ/イヴェント告知 | 15:00:06 | トラックバック(0) | コメント(0)
「ライブラリ」に呼ばれて  Called by "Library"
 季節は巡り、ライブラリが再び喫茶茶会記に還ってくる。

 彼らのライヴ演奏に初めて触れたのは、2014年の11月28日だった。会場である喫茶茶会記では9か月ぶりのライヴであることがアナウンスされた。続いては2015年3月6日のライヴ。これは3か月という彼らにしては早いインターヴァルで開かれた。そして今回、10月19日(月)に彼らのライヴが行われる。今度は7か月ぶり。

 遅々とした歩みは、彼らのゆるやかな、だが着実な熟成に、そっと寄り添っている。

 バンド・リーダーであり、メイン・コンポーザーである蛯子健太郎は、「物語自身のスピードで」とライヴに副題を付ける。彼は自身のブログでも、「物語(り)」あるいは「速度/スピード」に幾度となく言及している。


文学に限定される事なく、物語として認知・受容される時間の流れ・歩み。「物語自身のスピード」をキーワードに、ライブラリというバンドで、活動してきた。[2015.8.13]

その「重み」に比例するかのように、「物語」が会いに来る、あたかも土砂降りの明け方に、もう一人の自分が、ドアの前に立って、傘の下から、こちらをじっと見ているかのように。
そのようにして、「あなたの物語」にあなたは接近していく。
物語:時間についた名前。[2015.8.9]

時間についた名前。
それは、データではなく物語りだろう。[2015.2.3]

データプロセスのスピードや、利便性に煽られて、そんな事を、あらゆる分野で、やっていたら、「たかがデータ」と言っているその対象そのものが「たかが自分」と同じだという落とし穴に、気付かないとしたら、「命」はどんどん「物ですらない、経済効果のみで測られる、商品」に近付いて行くのではないか、と、そして、何となく、現在は、それが、もう開き直って、「良い商品」が「短期間の神」なのは、「当たり前じゃん」と言って、肩で風を切って歩いている、どこか、ある「流れ」に呑み込まれた、荒っぽい、機械人間の世界が来ているのかも知れません。[2014.12.24]

結局のところ、我々は、おしなべて、早く速く進む事には馴染みがあるけれど、ゆっくりと進む事に関しては、全く慣れていない、アマチュアなのではないか?と思われます。
だから、いざ、ゆっくりと進むべき状態に入ると、人は鬱傾向になるのかもしれません。
もう一月も経ちますが、前回11月28日の「ライブラリ」のライブ以来、自分の中の何かが、ゆっくりと高度を下げつつ、軟着陸体制に入ろうとしている様です。
この、社会的な意識のスピードと、「軟着陸」しようとしている何か(たましい?)の速度の違いの激しい事!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
「!」の数が乖離の目盛りです。
実はこれ、自分は自分なりの形で、不器用に、苦しみつつも、自覚(しようと)していますが、身の周りの人達に、目を向けると、表面の見た目よりも、ずっと深刻な問題なのかもしれません。
そうなってみないと分からないものです。
ゆっくり進む事を、頭ごなしに、粗雑に、軽視して、ゆっくりな何かに「超高速」で対処することばかり、我々は、やってきたのかもしれませんね。
普段、この日記では、あまり我々、という主語は使わないのですが、今回は何故かそうなりました。
結局「物語り自身のスピードで、物語りを読む」という、速度、は、遥かに、意識の想定外まで、繫がっている様に、感じるのです。[2014.12.19]


 ここで「物語」はストーリーや筋書きというよりも、無機質な情報/データが高速で処理され滑走する抽象的な時間/速度ではなく、生きられる時間の流れとしてとらえられているように思う。芽が伸び、つぼみがふくらみ、葉が茂って、陽が長く影が短くなり‥‥というような。
 それは人生においても、波乱万丈のドラマの連続や、勝利に向けた脇目も振らぬ猛進であるよりも、むしろ、なかなか過ぎていかない時間、待つだけしかできない境遇、宙ぶらりんと引き伸ばされた不安、冴え冴えと夜明けの遠い不眠といったかたちで、まざまざと露呈してくるものではないだろうか。
 と同時に、そこには抽象的ではない、掌に載せて感じられるような「重み」が重要な役割を果たしているようだ。自らの重みでゆっくりと傾斜を下りながら、次第にほどけ、巻き付いていた糸の色合いを明らかにしていく糸車の動き。「ライブラリ」に特徴的な空間を埋め尽くすことなく、メンバーがみな空間のあちこちに巣食っているようなアレンジメント、隙間が多く出入り自由な、それでいて細い綱を渡るように不安定で深い集中を要するアンサンブルは、そうした糸車が何台も異なる速度で、異なる色合いの糸をほどきながら交錯し、次第に魅惑的な「謎」を織り上げていくプロセスのように見える。

 これほど魅惑的な「謎」を奏でるグループを他に知らない。「天職」を英語で「calling」というのは「神様に呼ばれた仕事」という意味だそうだが、確かに「ライブラリ」には「呼ばれて」いるように感じることがある。


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図書館系ジャズユニット・ライブラリ
10月19日(月)四谷三丁目茶会記にて、
「物語自身のスピードで」
蛯子健太郎(b)
三角みづ紀(poetry)橋爪亮督(sax)飯尾登志(pf)井谷享志(perc)
19:30開場 20:00開演 ¥2,500 (1dr. incl.)




ライヴ/イヴェント告知 | 22:05:33 | トラックバック(0) | コメント(0)
眼に見えない深層の持続 − スティルライフ@Ftarri ライヴ・レヴュー  Invisible Duration in the Depth − Live Review for Stilllife @ Ftarri
 ふと見ると、ステージ側のスペースはきれいに片付けられ、視界を遮るものが何もなくなっている。小津安二郎の映画で、一人娘が嫁ぎ家を出た後に残された空っぽの部屋のように、がらん‥とした広がり。そそり立つスピーカーが二本の柱のように見える、その間に黒々と広がる壁面と向き合い、まるで初めてであるかのように、その大きさに驚かされる。その手前の床には生成りの布が敷かれ、蝋燭が点され、音具がきちんと並べられている。以前よりも少し数が減った印象。開演前にJoseph Clayton Millsらによる『Huntress』(Suppedaneum)がかかっていて、ぽつりぽつりと弾かれるピアノの隙間から、すすり泣きが漏れてくる。
 津田による開演の口上に続き、空調が止められ、照明が落とされる。目蓋に残る壁面の広がりと向かい合う耳に、「非常口」の照明が覆われて(※)暗がりになったドアの方から、金属質の打撃音が現れる。長く尾を引いて宙に浮かび、残像のように漂い、次第に減衰しながらも、いつまでもいつまでも鳴り終わらない響き。ポータブル・ラジオのホワイト・ノイズらしき潮騒が床を浸し、背後でゆっくりと左右に動くと、階上の足音がコツコツと響き渡る。かすれた息漏れ、金属弦の揺らめき、クッキーの缶(?)を叩く音、雨垂れが手すりを打つ金属質の響き、メタルのスティックが弓で弾かれ豊かな倍音が香り立つ‥‥背後から放たれた音が次々に空間を渡ってくる。線を描かず、かたちもない、気配の音楽。その順序や連なりは定かではなく、おそらくは重要でもない。むしろ音は時間軸上の前後関係を解かれて空間に象眼され、そこかしこにちりばめられて、それを耳の眼差しの移ろいとともに、聴覚によりランダムにスキャンされていくかのようだ。ザッザッと掃く音、金属の摩擦音、トコトコと天井裏を走るかすかな足音、不定形のざわめき。次々と湧き出しては、たちまちのうちに溢れ出して床を伝い、どこかへと流れ出していく音響。潮騒が改めて動き回る。
※客席後方の別の照明が代わりに非常用として点灯されていた。

 いつの間にか笹島が位置について、カンテレの弦にe-bowを当てている。ゆっくりと浮き沈みする弦の震えの傍らを、どこかから聴こえるせかせかとせわしない摩擦音が、くっきりとした対比をかたちづくりながら通り過ぎる。津田が位置について、右手前に置かれた白い木の枯れ枝を取り上げて振るう。風切り音と枝同士が触れ合うカタカタと乾いた響き。長い竹笛に吹き込まれた息漏れ、束の間結んではほどける息のもつれ、あるいは試験管に吹き込まれ、陽炎のようにぼっと鳴る息。
 遅れて来た客がドアを開け、開閉音に遅れて外の風がふわりと届いて、その涼しさに、室内の熱気に改めて気づかされる。試験管の消え入りそうな鳴り。カンテレの音はもう止んでいる。か細い息がそれでも像を結び、辛うじて息の柱を立てる。鈴の音が微かに響き、闇の底をうっすらと照らし出す。握りしめられた試験管同士がこすれるガラスの軋みが、耳元で手触れるようにはっきりと鳴り響く。
 眠れずに眼が冴えるようにきりきりと覚醒した聴覚は、ハーモニウムの響きを拡大し、リードの鳴りと「ふいご」の軋み、空気の流れが衝突し合う音を聴き取る。呼び子のぴんと張られた響きが、その前を横切る。枯れ枝を叩く乾いた音。沸騰するヤカンのような倍音の揺らめき。割竹のミシミシという軋みが時折パリッと爆ぜる。
 太い試験管の口を叩く音、枯れ枝のかさかさした響き、ざらざらと金属を指先で探る手触り。遠く記憶を探るような深淵が口を開ける。コンセプトとして音の種類を減らし、音数を少なくするのではなく、小津映画の老夫婦の会話のように、住み込む空間や棹差す時間の流れが共有されることによって、自然と口数が減り、あえて説明しなければならないことがなくなって、アブストラクトな記号の投げ渡しと見える中から、具体的なものが姿を現す。
 ハーモニウムの「ふいご」の立てる、古い古い木の床のような、ずっと放っておかれた安楽椅子のような軋みが、蓋を閉じる。前半の終了。およそ35分の演奏。


 レジの後ろのキチネットの水道の蛇口をいじり、水の「しずく」が間を置いて滴る状態をあらかじめセッティングする。リズミックな響きは空調を消すと思いのほか大きく響き渡る。水を入れた巻貝の貝殻をゆっくりと巡らせ、こぽこぽと水音を立てる。石を摺り合わせ、あるいは打ち合わせる。ガラス瓶の水音。中に水と細かいガラス粒を入れた壜を振る。長い木の棒を振る風の唸り‥‥。様々な音が現れてはすぐに移り変わり消えていく。意外に強力で動かし難い水滴の音の壁を崩し、空間を柔らかく広げるべく、トライ&エラーを繰り返している印象。
 笛を伝うランダムな息の流れのうちから、幾つもの息の乱流が走り出て交錯し、繊細の息のドローンを形成する。それをラジオから漏れ出るシーッという希薄なノイズがさっと裏打ちする。それらの折り重なる響きが足下から満ちてくると、もう水滴の音は気にならない。
 暗闇を見詰める眼差しに、幾つもの不思議な形象が現れるように、ドローンに柔らかく浸された耳を様々な不定形の響きが襲う。滝壺を思わせる低いどよめき。息の倍音のむらが影となって浮かび上がる。カンテレの眼の覚める一撃がもたらす暗がり。小型の鐘とカウベルの響き、壜と貝殻の水音が重ねられ、付かず離れず、時に結びあいながら漂う。気がつけば呼び子のかすれた鳴りだけが残り、再び水道の水滴が姿を現す。水滴の間隔が長くなったようにも感じられる。あるいは時の流れが遅くなっているのか。スティルライフの二人もそれにじっと耳を澄ましている。後半の終了。時計を見ると始まってから25分しか経っていなかった。

今回のライヴのセッティング。撮影:笹島裕樹


 フルレングスCD第二作『archipelago』の制作を終えたスティルライフの二人の演奏には、やはり以前とは一線を画した変化が感じられた。当初、野外での演奏/録音を重ね、ライヴにしても周囲の環境音の豊かな立川セプティマをホームグラウンドとしていた彼らにとって、そうした環境の生み出す豊かな響きの伴わない(周囲の物音の入ってこない)都会の「密室」である喫茶茶会記やFtarri水道橋店は、言わば「アウェー」の空間であり、なかなか出口の見つからない閉塞感と息詰まる緊張が、聴衆にもひしひしと感じられた。もちろんそれはそれで得難い耳の冒険であり、当ブログでもレヴューしてきたように素晴らしい演奏が繰り広げられたのだが。
 それに比較して、今回の彼らは実に揺るぎなく堂々と音を出していた。誤解のないよう、すぐさま付け加えるならば、それは彼らが傲慢になったということでは全くない。『松籟夜話』番外篇でも述べたように、彼らは周囲を俯瞰の視線で眺め下ろし、環境音を一枚のペラリとした書割りによる「背景」へと平坦化してしまうことがない。そうではなく、目線の高さを周囲に合わせて下げていって、草叢に埋もれるように、自らの身体を環境に深く埋め込んで、虫の音や鳥の声、せせらぎや葉擦れの傍らで音を放つ。そうした姿勢はいささかも変わるところがない。
 では何が変わったかと言えば、端的に言って、泰然と揺るぎなく、先を急がない落ち着きが増したように感じられる。環境を感じ取る経験を積み重ね、自信を深めたということなのだろう。
 深い森に遊ぶ時、人は知らず知らずのうちに幾つもの目印を見つけ心に刻んでいる。だが、それが意識の表面に浮上することはあまりない。ところが、「道に迷った」との不安がいったん立ち騒ぐと、それらは一気に顕在化し、意識の表層に沸騰するように立ち騒ぐこととなる。深刻なパニックとして。
 今回の津田と笹島の振る舞いを見ていると、彼らはもう「道に迷う」ことを恐れなくなったのだなと思う。慌ただしく耳の視線を巡らせ、見覚えのある徴候を探し求めるのではなく、自然と進むべき道筋が浮かんでくるまで、そこにじっとして、辺りに耳を澄まし、あるいは引き続き音を紡ぎ続けていればよいのだ。彼らは自分の/周囲の音に耳を澄ますことを、元から厭わなかった。だが、そこには進むべき方向を見出そうという目的意識が明確にあった。いまやそれは薄らいで、より一つひとつの音を愉しむことを深めているように感じられる。特に今回の演奏で言えば、笹島によるハーモニウムの「ふいご」の開閉や、津田による枯れ枝の使用に。
 レヴュー本文でも描写したように、笹島は「ふいご」を操作しながら、コントロールを超えたところで偶発的に生じてしまう音響に対する発見の悦びに浸っている。一方、津田はこの枯れ枝がもたらす風切り音や唸り、枝同士がぶつかり合うかちかちと固く乾いた打撃音の強力な存在感、否応なく孕んでしまう濃密なシンボリズムを楽しんでいる。すなわち、前後の脈絡を断ち切ってしまうようなアクシデントや極端な強度が、いまや受け入れられているのだ。

今回活躍した音具2点。枯れ枝と北京鍋を改造した「フライポン」。撮影:津田貴司


 いま指摘した幾つかの変化は、ひとつの大きな変容の異なる側面、個別の現象化と感じられる。音響の表層の自由連想的な連続性の水準に認めていた演奏の流れが、より深い持続の感覚の中に見出せるようになったことで、表層の連続性を切断しかねない事態が受け入れられ、演奏の与える印象も「各種音響の直列的な接続」からゆるやかに遠ざかる。使用される音具や音響の種類は絞り込まれながら、一つひとつの音具や音響の在りようはより豊かに掘り下げられ、これまで先立つ音から切り替えるように新たな音を放っていた演奏は、いま鳴っている響きがそれまで鳴っていた(いまはもうすでにない)響きを照らし出し映し出すように、新たに付け加えられた音が、いま鳴っている音を改めて香らせるように、まるで思い出が立ち騒ぐが如くに進められることとなる。
 そのようにして増した演奏の包容力は、冒頭、ステージを離れ背後から放たれた音響や、水道の蛇口から滴り続ける「しずく」といった仕掛けを、演奏に付け加えられた余計な「ギミック」や「演出」と感じさせない。
 実は演奏終了後の津田による説明で明らかになったのだが、今回のライヴの前半の演奏ではアルコールランプの炎にビーカーをかけ、湯を沸かす仕掛けが用いられたとのことだった。後からそう言われても、聴き手としては、どの音がそうだったのか見分けがつかない。「ああ」と思い当たる響きもない。今年の4月29日に行われた高円寺「円盤」でのライヴで、同じ仕掛けが初めて用いられた時は火力が弱くて沸騰には至らず、試みとしては失敗に終わったのだが、それでも演奏自体は何とか無事終了し、この試みがまだ重要なものとはなり得ていないことを証明することになった。さらには湯がいつ沸騰し始めるのか、演奏者が気にしている様子が聴き手にもひしひしと伝わってきていたことを思い出す。わずか5か月前のことながら、今の彼らと引き比べると何やら隔世の感があり、しみじみと感慨深い。


2015年10月3日(土)
Ftarri水道橋店
スティルライフ(笹島裕樹+津田貴司)

月光茶房店内に掲示された原田正夫撮影による写真。
上の作品がstilllife『archipelago』のジャケットの「原画」だが、原田によれば下の作品も候補だったとのこと。
対照的なイメージがstilllifeの表層と深層を二つながら明らかにしているようで興味深い。


ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:35:29 | トラックバック(0) | コメント(0)
『松籟夜話』番外篇 来場御礼  Thank You for Coming to Listening Event "Syorai Yawa" Extra Chapter
 9月27日に開催した『松籟夜話』番外篇について、参加者からいただいたご指摘や感想を踏まえ、振り返ってみることにしたい(敬称は略させていただきます)。
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本番前の打合せ風景  撮影:原田正夫


 開催当日のうちに、中村匠一がFacebook上にアップしたリポートは、次のような、一見、得意分野のオーディオに引き付けながら、的確に核心を射抜いたものだった。

 津田さんと共にサウンドユニット「スティルライフ」を組まれている笹島裕樹さんのトークと紹介音源も交えながら、会は進行していったのですが、改めて私達ありふれた音楽ファン(又はオーディオマニア)が「フィールドレコーディング」というカテゴリでひとくくりにしてしまっている音楽、あるいは表現にも様々な側面があるのだな、と実感しましたね。
 津田さんと笹島さんから聴かせて頂いた音源で共通すると感じたことは、例えば音を出している主体=つまり通常の音楽で言えば歌手など が音響装置を通じてリスナーのところに「来てくれる」のがいわゆる「オーディオで聴く音楽」であるのに対して、お二方が紹介してくれた音源を聴いていると、このスペースごと、その音が発せられている場所にワープするような、部屋の空気が入れ替わっていくような、そんな感覚を覚えるということになりましょうか。
 勿論、そのお二方の表現手法にも違いがある。福島さん曰く「ある意味対極」と言えるくらいの違いがあるようで、周囲の風景、空気も含めてそれを全体的に包むように記録し、イコライジング等にあたっても、その質感を出来るだけキープするようなスタンスを大切にする津田さん、その風景の中で「これ!」と思ったものにフォーカスを定めて、その質感を掘り下げていこうとする笹島さん、という感じなのですかね。確かに、聴かせて頂いた音源からは、私も似たような印象を受けました。
 ただ、これも福島さんが言われたように、「違うからこそ、ユニットとして成立するところもある」のもとても理解できて、同じ景色を見ても、その人が見たいと思う場所は人それぞれ違うのはある意味道理であり、逆に言うと「この人はこの景色のそういうところを見ているんだ、自分には気づかなかった」という新鮮な感動が創造に繋がっていくところもあるのかもしれません。
 例を挙げれば、今日津田さんがかけて下さったベトナムの山岳民族の葦笛や共鳴胴のない弦楽器の演奏のディスクなどは、民族音楽の録音で有名な「オコラ」レーベルの音源とは異なり、その演奏自体に思い切りフォーカスを合わせた録音ではないので、演奏そのものの音量は微小で、さりげないものです。でも、そのさりげなさが、その周囲の空気、環境ノイズと合わさることで、目の前に展開する景色がある。津田さんの言われる「その場所に行く」感覚が、確かにそのディスクには収められているんですね。
 そういう意味では、今回の影の功労者は、やはり「月光茶房」の主であり、今日の音響も担当された原田さんと言えるかもしれません。「月光茶房」のメインスピーカーでもあるソナス・ファーベルというスピーカーは、私達オーディオマニアにとっては、歌手が「来てくれる」というイメージに最も合致する一品とも言えるでしょう。特に今日使われたミニマ・ヴィンテージなどは、女性ヴォーカルが「迫ってくる」くらい声と弦の色気には定評のあるスピーカーだと思います。
 が、そのミニマ・ヴィンテージをFAPSのサイドプレススピーカースタンドにセットし、リスナーに正対させずに、部屋の対角線上と言っていいほどの間隔をあけてセッティングすることで、かくも部屋の空気全体を入れ換えてしまうようなエアー感が得られるのか、というのは私にとっても驚くべき体験でした。
 私は幸運にも、フランスのサックス奏者、ミッシェル・ドネダの演奏を白線、茶会記、そして今日と三回にわたって聴く機会を得たのですが、白線ではドネダの音は周囲の環境音の中に自然に同化していくのに対し、茶会記ではノイジーなまでに強烈な主張と直線性を見せていたことを思い出します。そして、今日聴いたドネダの音は、その獣のうなり声にも似たような迫真性のあるサウンドを保ちながら、それが周囲の環境音と隔絶されたような異質さを感じない。その風景の中にあって、ドネダという人が確実に「自分はここにいるのだ」という証としての音のパワー、そういうものが感じられるのです。
 プレーヤー兼アンプのAURAの「ノート」も含めて、私のようなにわかオーディオマニアが持つ先入観とはまた違う世界を見せてくれる。これもまた、原田さんの感覚の素晴らしさ、面白さであり、こういう場に居合わせることは耳だけでなく「感性の枠」も一つ一つ外しながら広げていく機会なのだな、と改めて感慨しきりでありましたね。
というわけで、今日も音に始まり、音に終わった一日でありました。お休みなさいまし。
                              【抜粋による掲載】
番外篇1_convert_20151005220006
『松籟夜話』番外篇本番中  ※別にこっくりさんをしているわけではありません(笑)
撮影:原田正夫


 「来てくれる音楽」と「その音が発せられている場所にワープする音楽」という対比が興味深い。後者を単にオーディオで言うところの「臨場感」、たとえばコンサート・ホールのアコースティックの再現ととらえてしまうと、ここで開かれている思考の可能性を矮小化してしまうことになるだろう。中村は慧眼にも、この感覚をさらに「部屋の空気が入れ替わっていくような」とパラフレーズしている。この空間に包み込まれる、あるいは聴き手の身体が空間に埋め込まれる皮膚感覚こそは、フィールドレコーディング作品の聴取を深めていく際のポイントにほかならない。
 スティルライフの〈演奏〉は、そのことをくっきりと際立たせる。彼らの演奏は、周囲の環境音を俯瞰目線で見下ろし、のっぺりとした一枚の音の絵画に見立ててしまうことがない。視線を下降/潜行させ、〈環境音〉が生成する根元のところまで降りて行って(この時、演奏者の身体は空間に深く埋め込まれることになる)、虫の音や鳥の声、水音や風の唸りと同じ水準、同じ目線の高さから音を放つ。ここで音を放つこととは、周囲を探査/聴診すること、すなわち「聴く」ことを深めることにほかならない。チューバ奏者の高岡大祐が落とし込みの釣り糸で、水底の起伏や形状、潮の流れ、魚の所在を探るように。眼に見えぬものがまざまざと触知され、皮膚感覚に浮かび上がる。釣り糸の先端まで伸びていく指先。それに比べれば浮子(うき)という仕掛けが、いかに多くの情報を、世界の豊かさを遮断し、浮子の揺れという視覚記号へと貧しく変換しているかがわかる。それは音を音高(ピッチ)だけを頼りに聴くようなものだ。

 さらに中村は、そのことを通じて、スティルライフの二人、津田と笹島の眼差しの違いを的確に感じ取っている。ライヴ・リポートということもあって、当日の私の発言をなぞった記述となっているが、「周囲の風景、空気も含めてそれを全体的に包むように記録し、イコライジング等にあたっても、その質感を出来るだけキープするようなスタンスを大切にする津田さん、その風景の中で「これ!」と思ったものにフォーカスを定めて、その質感を掘り下げていこうとする笹島さん」という対比は、彼ならではの表現で、これまた実に正確なものだ。
 これについては、『松籟夜話』番外篇当日のアフターアワーズに、参加してくれた多田雅範が、笹島がかけたDavide Mosconiによるスコットランドの霧笛のフィールドレコーディング作品について、その「凝視の強度」を賞賛し、それはまさに「笹島的」なもので、まんじりとせず瞬きすらしないで、じっと揺るぎなく見詰め続ける笹島の視線を、彼の作品やスティルライフの演奏にいつも感じていたと語っていた。この二人の〈視差〉が、スティルライフによる演奏、世界のとらえ方を立体的に浮かび上がらせている。

 その後に続くソナス・ファーベル「ミニマ」を巡る記述は圧巻だ。ここではオーディオに対する深い理解が、そのまま聴取に関する思考の深化につながっている。オーディオという「音を再生する技芸(アート)」は、聴くことなしには成り立つはずも無いものだが、実際には「製品の音質比較」を超えて、このように聴くことの核心に迫る営為は稀だと言わねばならない。特に3種類のオーディオ装置の違い(当然、部屋の音響環境の違いもそこには含まれてくる)が、ドネダの音を「視差」の下に浮かび上がらせる様は興味深い。
 ここでなくもがなのコメントを付せば、2台のスピーカーを左右に思い切り開いて設置し、さらに角度を外に振った、『松籟夜話』当日のあのセッティングは津田貴司によるものである。私が準備に到着した時点で、もう椅子は並んでいたものの、当日になって出入り口から外に運び出せないと判明した作業用大テーブルの置き場と、スピーカーのサービスエリアの狭さが課題となっていた。そこで大テーブルを「ステージ」側、出演者たちの背後にL字型に持って来て、対角線に沿って椅子を並べ直し、スピーカーがテーブルに押し出されて間隔が開いたところを、さらに「えいやっ」とばかりに向きを外振りにしたのだった。
 ソナス・ファーベルはエンクロージャーを響かせる、言わば「楽器型」スピーカーである。それゆえ音は前方だけでなく、全方位に放たれる。エンクロージャーを宙に浮かせるかたちでセッティングする今回のスタンドは、底面を制動しないため、この特性がさらに強く発揮される。それをあたかも無指向性のスピーカーのように操ってしまった津田の手腕は見事だった。自身、ライヴで反射板付きの拡散型スピーカーを用いており、ギャラリー白線の反射板スピーカーの潜在能力をいち早く見抜いた彼ならではのことだろう。参加者が入ると音が吸われて響きが貧しくなるのでは‥との懸念も、音を壁に沿わせて放ち、背後に立てかけたテーブル面が反射板として機能するセッティングの効果で、めでたく杞憂に終わった。
 「3箇所のドネダ」について言うと、厳密にはギャラリー白線とビブリオテカ・ムタツミンダは『Montagne Noire』、喫茶茶会記は『Everibody Digs Michel Doneda』とプレイした音盤が異なる。『Everybody‥』は「タダマス」のゲストが「ガラスを引っ掻く音と同じ」と称した激烈な音だった。雨音すら「音楽的」に聴かせてしまうところがあるアルテックのヴィンテージ・スピーカーが、「異物」ゆえに「消化」できず、そのまま吐き出したような音だった。
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鼎談とCDとオーディオと  撮影:中村匠一


 一方、先ほど登場した多田雅範は自身のブログで次のように書いている。

 


松籟夜話番外篇に出かけた。


スティルライフのお二人に、それぞれ選曲、選盤をしてもらい、スティルライフの魅力の謎に迫るというか、いや、「光源によって照らす」とか巧い表現をしていたな、


わたしはミュージシャン個人にはまったく興味がない会いたくも話したくもないが、雑誌でmusician file をやったように最初の音楽は?耳に影響を与えた10枚は?、もとい、出会った好きな10トラック!


なんとまあ、鈴木昭男、さかな、ドネダから、霧笛やら、・・・、良き音楽家は、良きリスナーでもある、という格言どおりの見事な聴取の強度に裏打ちされたトラックたちが会場に鳴り響いたのであった。


それは単に素晴らしい音楽にとどまるものではなかった。とも言おうか、音楽は孤独に光年を超えて聴くものであり、一瞬にして出会うもの、


そして、さらなる謎に向って開かれていて、そこには安易な納得や理解によって損なわれるものは無く、


まあ、とにかく形容することは困難であるが、意識が宇宙に向って開かれるような忘れ難い時間が訪れたのであった。


ヤングシルバーな孤独なリスナーであったままでは決して出会えない触発。
 


津田さん笹島さんの選曲紹介コメントを冊子にしてコンピCDを付けてほしいくらいだが、音楽は一瞬でいいのである。記憶は残る。


かれこれ50年もリスナーやってきて音楽らしい音楽にはそろそろ既視感ばかりで過ごしていた、


ドネダは鮮やかに鳴り(再生装置・環境もベストだった)、原田さん堀内さんと三人で行った京都先斗町の夜は鈴木昭男、こないだホソダさんに聴かせてもらったさかな、


益子さんも池田さんも中村さんも、


人生に必要なことはすべて起こる、座右の銘、ともちょとチガウ、宇宙のひかり。





 その場の印象も、かつての記憶も、問われぬままのひとり語りも、過去も未来も現在も組んず解れつ団子になって、勢い良く思考の坂道を転げ落ち、あるいは夢の岸辺に漂うような加速度と浮遊感はいつものことながら素晴らしいが、ここでは「選曲者の着眼点の伝播と発見、耳の人生のリレー」という、触発の連鎖/ドミノ倒しに着目したい。
 アーティストを、あるいは作品を紹介するのではなく、「聴き方」を提示したい‥という思いが、『松籟夜話』開始時からずっとあった。それはもちろん唯一の正解である「正しい聴き方」の伝授/指南ではない。作曲者/演奏者/制作者の「意図」をカッコに入れ、そこを「目標」とし、そこに係留された状態で聴く枠組みを解き放って、音を響きを聴くこと。だが、それは決してタブラ・ラサ(白紙)状態における聴取ということではない。音は響きを、響きは他の響きを呼び寄せ、類似や連関、対照の織り成す音響の網の目が織り上げられるだろう。そのようにして互いに照らし出しあう響きのネットワークの中で、音を聴くこと。
 「○○を灯台に見立て、そこから放たれる光筋を導きの糸としながら、その照らし出す音響を聴いていく」と、『松籟夜話』では特集アーティストの位置づけを説明しているが、「スティルライフによるスティルライフ」と言うべき自作自解となった今回は、この枠組みがとりわけクリティカルに作用したように思う。
 「××リスペクト」といった安易極まりない仕方で元ネタを披露し、元ネタの権威で自ら作品/演奏の価値を高めようと、自作自解に熱を上げる動向とは正反対の道を歩んでいるにもかかわらず、自ら関連音源を紹介することが、結果として「元ネタ紹介」と受け止められてしまうのではないか‥との不安は、準備段階からスティルライフの二人と私の間で共有されていた。そこはスティルライフを説明するために音源を当て込むのではなく、紹介するに足るだけの高い強度を有した作品を選び、むしろスティルライフのイメージを四方八方に引き裂くつもりでよいのではないかと、二人に選盤を託した。その結果が前回紹介したプレイリストであり、さかなからDevide Mosconiに至る広大な振れ幅を有することとなった。そうした振れ幅の大きさは拡散を強く意識した結果であるわけだが、その一方で、切り分けのために導入した三つの視点、素材の質感、場所性あるいは場所を演奏すること、想像的サウンドスケープの対比的な枠組みを超えて、あるいは津田と笹島の立ち位置や手つきの違いを超えて、各音源の間に幾つもの類似/照応の線が走っていたことには、改めて驚かされた。
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ビブリオテカ・ムタツミンダの大きなウインドウを飾るスティルライフ
撮影:原田正夫


 今回の『松籟夜話』を聴きに来てくれたミュージシャン/アーティストであるtamaruは、次のように感想を述べてくれている。「ああいう風に、自作の熱心なリスナーに対して系統立てた説明をし、理解を深めてもらう、あるいはいろいろ興味を拡げてもらうというのは、送り手と受け手の絆がないと、なかなか成立しないと思うんですが、今時そうしたアクセスのベースがあるのかと、結構驚きました。マジョリティなら、むしろ驚かないんですが。実際、あの晩のお客さんたちは、外れなく受け取った様子を感じました。」
 これは嬉しい指摘だ。以前に音盤レクチャーとして『耳の枠はずし』をやった時に、ひとつの場所に集って同じ音源を聴きながら、その体験の同一性ではなく、耳の視点/視線の差異の方に注目し、互いに触発し合いながら聴き方を深めていく〈耳の公共性〉のあり方について考えたことがある。話し手から聴き手への一方通行になりやすいレクチャーの場では、プレイする音源が話し手のメッセージの〈乗り物〉になってしまいやすいのに対し、津田と私とのやりとりの中で進められ、ロジックやメッセージの一貫性よりも、各音源の強度の方に軸足を置く『松籟夜話』の方が、原理的に差異を扱いやすいだろうというぼんやりとした予感はあった。
 そうした開かれたあり方、触発の連鎖が、今回の「スティルライフによるスティルライフ」においては、「作者による正解発表(本来の意図の説明)」から際どく身をもぎ離し、前述の通り、むしろもっともらしく仮構された統一性を引き裂く方向に作用していた。これは先に挙げた三つの視点と、『松籟夜話』がもともと掲げるキーワード「環境/音響/即興」の関係に触れた際に述べたことだが、「環境/音響/即興」とは、決してx軸・y軸・z軸といった互いに独立した軸線ではなく、今回のテーマで言えば「素材の質感」という視点の下に、「正弦波だから、物音だから音響だ」といった硬直した音響観を〈即興〉や〈環境〉のヴェクトルによって引き裂くという関係なのだ‥‥ということと関連しているだろう。

 津田貴司と「游音」でいっしょに活動し、今回、未発表音源をプレイさせていただいた松田文は、今回の『松籟夜話』に参加した感想として「〈音に映り込んだもの〉という視点が良かった」とし、「作者の意向とは別に映り込んだものを聴くという姿勢」を評価してくれたと言う。そうした〈映り込み〉を不純物として排除し、作者の意図へと純粋化していくよりも、空間による音響の侵食/変容やこうした〈映り込み〉を併せてひとつのものとして聴いていった方が、一人ひとりの聴取体験が豊かになるばかりでなく、より強い触発の連鎖、その波及効果が得られるのではないかと思うのだ。
 松田文からはもうひとつ、「マヤ族の笛は、合ってないどころかものすごい一体感だと思って聴いてた。笛の扱い、雅楽や神楽と同じ耳の使い方で成り立ってるんじゃないかな」との感想をもらっている。これはまったくその通りだと思う。イヴェントの場では、そのピッチのズレ感に着目したやりとりとなったが、それは先に述べた「ピッチのみで音を測りとろうとする貧しさ」に属している。むしろ、笛の音がコンダクトしていると言うか、離れたところで演奏するバンドの音が、脳内に笛の音として映り込んでいると言った方がいいのかもしれない。
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先ほどのパネルの元写真  撮影:原田正夫


 末尾になるが、ゲストのスティルライフの二人、津田貴司と笹島裕樹、会場を提供して下った原田正夫(月光茶房)に心から感謝したい。どうもお疲れさまでした。それにしても近々に自作の正式リリースを控えたプロモーションの場で、あれだけ自作からの音源と、それに関連して紹介する音源について、分け隔てなくフラットに言及できるというのは大変なことだと思う。それは公正さへの意識と言うより、作品づくりのための制作作業への集中の中で、きっぱりと過去を切断し、自分たちを引かれた一線の「向こう側」へと押しやるという、「変化への倫理」とでも言うべきものではないだろうか。かつて『夜のカタログ』をリリースした時も、彼らは不可逆な変化を遂げた。津田貴司のソロ作品『十二ヶ月のフラジャイル』のよく晴れた冬の日の早朝を思わせるぱきぱきとした覚醒感は、まさに「向こう側」へと突き抜けたことの結果にほかなるまい。実際、10月4日、Ftarri水道橋店における『archipelago』リリース記念ライヴでの彼らは、以前とは比較にならないぐらい堂々とし、自信に溢れていた。これについては、次回以降のブログにライヴ・レヴューを掲載したいと考えている。


 『松籟夜話』、まだまだ続きます。次は12月かな。
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今回の旅路の入口  撮影:原田正夫

ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:20:54 | トラックバック(0) | コメント(0)
『松籟夜話』番外篇2015/09/27プレイリスト  Playlist of Listening Event "Syorai Yawa" Extra Chapter on 27th Sep. 2015
 いつもの阿佐ヶ谷ギャラリー白線を離れ、青山は月光茶房併設のビブリオテカ・ムタツミンダに場所を移して開催した『松籟夜話』番外篇。初めてのゲストを招き、いつも司会進行役の津田がゲストのひとりのため、福島が司会進行/聞き役/コメンテーターに専念し、選盤に関わらない‥‥と異例尽くめの今回。大勢の方においでいただき、ありがとうございました。お楽しみいただけましたでしょうか。
ゲストのスティルライフのお二人のおかげで、今回はいつもより話題も選盤も幅広く、いつも通りのコアでディープな感覚もありながら、より多くの方にお楽しみいただける内容になったのではないかと自負しております。
というわけで、当日のプレイリストをご紹介します。なお、リンクは参考情報へのもので、必ずしも当日かけたトラックの試聴音源とはなっていないことをお断りしておきます。


0.開演前
tomoko sauvage
ombrophilia
https://tomokosauvage.bandcamp.com/
陶製の器に水を張ってそっと叩き、かき回し、水を注ぎ、コンタクト・マイクロフォンで拡大する。たったそれだけのことで、空気が塊となって涼やかに揺れ動く。【福島】


1.stilllife『夜のカタログ』
stilllife
夜のカタログ
https://naturebliss.bandcamp.com/album/--4
2枚の「先行シングル」発表後、満を持してリリースされたスティルライフのファースト・フルレングスCD。すべて夜に録音された作品群。見通せないはずの暗闇にくっきりと浮かぶ音風景は、耳の眼差しによる。【福島】


2.素材の質感
kassel jaeger
lignes d'erre & randons
http://www.kasseljaeger.com/projects/lignes-derre--randons/
特定の場所やその場の記憶にフォーカスするというレーベルのコンセプト
複数のロケーションで記録された環境音や物音を断片化し質感のみを削り出したマテリアルを音響的に再構築することで架空の場所や記憶を作り出す【笹島】

jez riley french
four objects
http://engravedglass.bandcamp.com/album/four-objects
自作のコンタクトマイクによるオブジェクトの微弱な振動を捉えた作品
環境が奏でる素材をマクロなアプローチから聴き取る【笹島】



津田貴司
12ヶ月のフラジャイル
http://hoflisound.exblog.jp/20886716
ラジオノイズと風音のサウンドスケープによるコンポジション。「空気の粒」の質感を捉えようとする試み。【津田】

tamaru
basso continuo
http://www.sahoux.net/
ベースギターによる即興演奏。「ドローン」という説明では言い表せない靄や湿度のような、あるいは抽象的な夢のような質感。【津田】



松田文
hnt.
曲名不明。津田の「游音」時代の仲間の未発表音源。パソコンを一切使用しない作業環境でつくられた音響。虫の音のような音の粒が漂う。【津田】

hiroki sasajima - eisuke yanagisawa
Jogashima
cargo boat dock
https://veryquietrecords.bandcamp.com/album/j-gashima
城ヶ島で記録した接岸しているタグボートが波に揺られる音
環境の演奏、響きと質感を捉える【笹島】


3.場所性、場所を演奏する
VIETNAM musique des montagnards
http://www.allmusic.com/album/vietnam-music-of-montagnards-mw0000030959
ベトナム山岳民族の現地録音集。葦を束ねたものを直接口を付けずに吹く楽器、またトーキングモジュレーターのように口腔内で共鳴させる擦弦楽器の音色に、その土地特有の土着性を聴く。【津田】

津田貴司
風の輪郭
http://starnet-muzik.com/itemlist/2011/07/07/kazenorinkaku/
石垣島にてフィールドレコーディングした音風景の特定の周波数をEQで持ち上げることによって、光や湿度、空気感などを抽出しようとする試み。淡いドローンのように聴こえるが元の素材の音の特徴が聴こえる。シンセなどをかぶせたものではない。仕上がりはまったく違うが手法としては先のkassel jaeger作品と同様のものと言える。【津田】

ラジオゾンデ
sanctuary
http://starnet-muzik.com/itemlist/2009/06/30/sanctuary/
益子STARNETにて即興演奏されたギターデュオ。残響の長いスペースの窓を開け放ち、バックの蝉時雨ごと録音。オーバーダブなどは一切行っていない。【津田】


michel doneda / ninh le quan
montagne noire
http://www.discogs.com/Laurent-Sassi-Michel-Doneda-Marc-Pichelin-L%C3%AA-Quan-Ninh-Montagne-Noire/release/1384997
上記二作品が「静的」であるのに対して、ドネダは積極的に環境に介入し音を出す。それをマイクロフォンが追いかけ、環境音とのダイナミックな交歓を動的に捉える。【津田】

davide mosconi
la musica dell anno Zero
http://www.discogs.com/Davide-Mosconi-La-Musica-DellAnno-Zero/release/1238283

スコットランドの灯台に備えられた霧笛のフィールドレコーディング。視覚的なイメージを全く結ぶことのない震える音の柱。【福島】

francois jouffa
native americans music and songs
http://www.meditations.jp/index.php?main_page=product_music_info&products_id=4169
現地録音物、土着文化から発生した音楽をその場の環境ごと捉える
その場の空気感や混沌とした感じが楽器の音と入りまじって聴こえてくる【笹島】

yannick dauby - john grzinich - muemer
lind, raud, astaajad
http://invisiblebirds.org/catalogue/ib005.html
使われなくなった給水塔?を弓や石を使って演奏している
コンタクトマイクで拡大された音が鉄の重厚な質感を浮き立たせている【笹島】

hiroki sasajima
wire and stone
http://www.discogs.com/Various-Mandorla-Autumn-Soundscapes-II/release/5483289
鍾乳洞内部の残響を利用し石を転がした音を記録したものと野外で針金に枝をぶつけ、その残響音をコンタクトマイクで記録しそれらをミックスした作品【笹島】


4.想像的サウンドスケープ
さかな sakana
水 d'eau
http://www.h6.dion.ne.jp/~sacana/
initial work collection] SARE-031~061として入手可能。
唄とギターのシンプルな楽曲だが、パーカッショニストが即興的に物音を演奏しており楽曲に奇妙な奥行きと質感を与えている。それも背景に効果音を加えたというものではなくアンサンブルとして成り立っている。【津田】

鈴木昭男 akio suzuki
奇集 odds and ends
https://www.youtube.com/watch?v=SklWF1Q9wMs
ギャラリーでのパフォーマンスはおそらく床を何かで擦るようなものだったのだろう。もう一曲、金属的なドローンに聴こえるエオリアンハープは風によって鳴らすという点で演奏者の手を離れた即興と言える。さかなで聴いた物音ともつながる。【津田】

rolf julius
music for ears
http://www.newtone-records.com/item/n_t0045247.html
電子音響の揺らぎの中に環境のテクスチャとレイヤーを感じとれる
音の捉え方や深く聴くことの姿勢のありかたを思わせる作品【笹島】



5.混じりけなしのフィールドレコーディング
kiyoshi mizutani
scenery of the border environment and folklore of the tanzawa mountains
http://www.and-oar.org/pop_and_22.html
丹沢山渓で記録されたサウンドマップ
里山の素朴な自然の環境録音でありながら人の生活音などを排除していないありのままの録音作品【笹島】


6.stilllife『archiperago』
stilllife
archiperago
http://www.ftarri.com/cdshop/goods/ftarri/ftarri-989.html
彼らの待望されたセカンド・フルレングスCD。「アーキペラゴ」とは群島あるいは多島海を意味する。それは周囲を取り囲む海によって切り離された島々でもあれば、山々に切り離された陸地を入り組んだ海がつなぎ結ぶ世界でもある。【福島】





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:12:37 | トラックバック(0) | コメント(0)

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