■プロフィール

福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック

■月別アーカイブ
■カテゴリ
■リンク
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

ジョン・ブッチャー来日!  John Butcher Live in Japan 2015

 ジョン・ブッチャーが来日する。前回の2013年のツアーは体験できなかった。予定が空かなかったこともあるが、何しろ当時はまだ高岡大祐を知らなかった。もしすでに知っていたならば、彼とジョン・ブッチャーの邂逅を目撃すべく、万障繰り合わせて大阪まで駆けつけただろうに。二人の共演の記録は残されていないが、二人の深い交感の軌跡は、高岡がレコーディング・エンジニアを務めたブッチャーのソロ『Nigemizu』に確かに結実している。

 いささか極端な物言いをすれば、そこでは音高の上下はほとんど意味をなさない。また同様に、ジョン・ブッチャーの演奏に彼のヴォイスを聴き取ろうとすることも。
 サキソフォンはもちろん管楽器であり、基本的に単音しか出せないのだから、音の高低によりフレーズをかたちづくり、それを紡ぐことにより演奏を進めていくのが、通常の演奏の仕方である。フレーズは時にリズミックなリフとなり、あるいは感情の高まりに引き裂かれて、泣きわめき、怒りを迸らせるフリークトーンへと姿を変える。それでもそれは一本の線の軌跡であることは変わりない。音色もまた深々と底の見えない河のようなたゆたいから、鋭い囀りまで千変万化し得る。それでもその背後には、「肉声」の手触りを感じさせる「ただひとつの」かけがえのないヴォイスがある。
 ジョン・ブッチャーの演奏の真髄は、結果としての線の軌跡ではなく、刻一刻と生み出されていく現在のうちにある。書にたとえるならば、黒々と描きあげられた文字の中にではなく、筆の運びの遅速、筆先の乱れ、筆触の抵抗、墨の粘りや泡立ち、筆の先端が紙に触れた瞬間から始まる水分の浸透と墨の粒子の運動、それらが生み出す滲みの広がりのうちにこそ存在している。
 わずかに震えながらとぐろを巻く低音。きりきりと囀る高音。ぶおっと吹き鳴らされる「ひとつの音」の中から弾け出る幾つもの音(何人も集まって同時に吹き鳴らしているとしか思えない)。引き伸ばされるうちに希薄さを増し、薄闇に溶け込んで、あるいは静寂に沁み込んで、もはや見分けのつかなくなる響き。同じところを繰り返しぐるぐると巡るようでいて、同じ高さの音がまったく違うかたち、顔つきをしている(やはり何人も集まってアンサンブルしているとしか‥‥)。

 線でなく、声でない。それが最も典型的に現れるのは、やはり彼のサウンドが希薄さに傾く時だろう。薄衣のようにひらひらと風に吹かれ、宙に舞い、それを通して向こう側が透けて見える。輪郭を失い解け広がる響き。体内の血流が透けて見えるプランクトン。暗闇でざわざわと色めく気配。暗闇に眼を凝らし照らし出す息遣い。
 子どもの頃よくやったことだが、うちわや下敷きを手に持って振り回すと、空気の抵抗で時折ひらりと翻る。眼に見えぬ空気の流れ、層や固まりがふっと浮かび上がる。ジョン・ブッチャーの演奏は、ちょうど同じようにして、空気に触れる感覚を伝えてくれる。最近のインプロヴァイズド・ミュージックでは、息音の使用、あるいは重音や極小音量を用いることにより、演奏者のコントロールの届かない、演奏者の手を離れてしまった音の移ろいを聴かせる演奏がまま見られるが、ジョン・ブッチャーの演奏はそうした「ブラウン運動」任せの不確定性、あるいは確率的/統計的演奏とは一線を画しているように感じられる。サウンドを形成する「分子」の一個一個を、マックスウェルの悪魔のように一つ漏らさず完璧に操作していると。

 サキソフォン演奏の最前衛、最先端と言えば確かにそうなのだが、彼にはそうした称号はふさわしくないように思われる。たとえばジョン・コルトレーンによるシーツ・オヴ・サウンドを絶え間ない複数化への欲望ととらえ直したエヴァン・パーカーが、循環呼吸によるノンブレスとマルチフォニックスを組み合わせて、ヴァーチャルなポリフォニーを織り上げるに至る道筋は、確かにエクステンデッド・テクニックの開発によるサキソフォンの表現領域の拡大ととらえられよう。この「サキソフォン帝国の領土拡大」は、同時にエヴァン・パーカー独自のヴォイスの商標登録でもある。同じノンブレス・マルチフォニックスをドローン化し、滔々たるたゆたいに棹差しながら内面を深く覗き込むカン・テーファンや、他のエクステンデッド・テクニックを含めモジュール化して、コンポジションに用いたネッド・ローゼンバーグ等が、その後に続くことになる。そこには「前衛」とか「先端」と呼ぶにふさわしい、ある地理的な広がりの中での特定エリアという、場所というか、「領土」感覚があった。
 しかし、ジョン・ブッチャーによって獲得/体現されている境位は、そうした確固たる地理的広がりに属していないように感じられる。それ自体が希薄かつ脆弱で移ろいやすく、言わば満潮時には水没してしまう砂州とか、度重なる洪水に見舞われ、大きく蛇行する河がいつも流路を変えている、三日月湖だらけの湿地帯とか、そうした流動的な地形のように。それはもっとミクロな生成により、束の間浮かび上がり、またすぐに溶解し、沁み込み、霧散し、気化してしまうような、不安定で移ろいやすいものなのだ。

 そう考えると、ジョン・ブッチャーの演奏が、なかなか音盤に定着されないのもわかるような気がする。決まったかたちを当て込んで、それを頼りに探そうとすると捕まらないのだ。高岡大祐はミュージシャンであると同時に、釣り師でもあるのだが、自身の釣りを評して「あらかじめ何を釣るかを決めず、その場所に行って、その場所に何をいるかを探ること、その時に持って行った仕掛けで何が出来るかを探ること」としている。まさにそうした「不定形」の釣りの極意が、ジョン・ブッチャーの音をとらえ得た秘密なのだろう。


 今回のツアー・スケジュールは次の通り。ぜひ演奏の現場に駆けつけて、彼の音を各自つかまえていただきたい。

///////////////////////////////////////////////////////
11月19日(木) 神戸・塩屋 旧グッゲンハイム邸
ジョン・ブッチャー(tenor & soprano saxophone)SOLO
開場 19:30/開演 20:00
予約 3,000円/当日 3,500円
神戸市垂水区塩屋町3丁目5-17 ● JR塩屋駅および山陽塩屋駅より 徒歩5分
ご予約・お問い合わせ:TEL: 078-220-3924 FAX: 078-202-9033
           E-mail : guggenheim2007@gmail.com
///////////////////////////////////////////////////////
11月20日(金) 大阪 島之内教会
ジョン・ブッチャー(tenor & soprano saxophone)- 鈴木昭男(self build instruments)DUO
開場 19:00/開演 19:30
予約 3,500円/当日 3,800円
大阪市中央区東心斎橋1-6-7 TEL: 06-6271-8202(コンサート当日のみ)
 ● 地下鉄御堂筋線 心斎橋駅 心斎橋筋出口(大丸側)より徒歩7分
 ● 地下鉄堺筋線 長堀橋駅 7番出口より 徒歩3分
ご予約・お問い合わせ:音波舎 E-mail: ompasha.otononami@gmail.com
///////////////////////////////////////////////////////
関西公演 詳細(音波舎)
http://ompasha.blog.shinobi.jp/Entry/276/
//////////////////////////////////////////////////////////////////////
11月21日(土) 東京・西麻布 スーパー・デラックス FTARRI FESTIVAL 2015 参加
ジョン・ブッチャー(tenor & soprano saxophone)- 鈴木昭男(self build instruments)DUO 
開場 14:30、開演 15:30、終了21:30予定
///////////////////////////////////////////////////////
11月22日(日) 東京・西麻布 スーパー・デラックス FTARRI FESTIVAL 2015 参加 
ジョン・ブッチャー(tenor & soprano saxophone)- ロードリ・デイヴィス(electric harp) DUO
開場 14:00、開演 15:00、終了21:00予定
///////////////////////////////////////////////////////
FTARRI FESTIVAL 2015
2日間通し券:予約 7,500円 + 各日 1 drink、当日 8,000円 + 各日 1 drink
1日券(各日):予約 4,000円 + 1 drink、当日 4,500円 + 1 drink
東京都港区西麻布 3 -1-25 B1F ● 日比谷線 / 都営大江戸線六本木駅 3番出口より徒歩5分
ご予約方法、他のプログラムにつきましては、FTARRI FESTIVAL 2015特設サイトをご覧ください。
http://www.ftarri.com/festival/2015/index.html
お問い合わせ : FTARRI 電話:03 -6240 -0884 (午後4時~8時。休業日やライヴ時間中はつながりません) E-mail: info@ftarri.com
///////////////////////////////////////////////////////////////////
11月23日(月・祝) 埼玉・深谷 ホールエッグ・ファーム
ジョン・ブッチャー(tenor & soprano saxophone)SOLO,  ジョン・ブッチャー - 高橋悠治(piano)DUO
開場 17:30/開演 18:00/カフェ 17:00 ~
予約 4,000円/当日 4500円(1ドリンク付)
埼玉県深谷市櫛引140-1 ● JR深谷駅から送迎あります(予約制)
          ● 関越自動車道「花園インター」から約15分
チケット申込:TEL: 090-5584-3104(サイトウ) FAX: 048-585-6687
お問い合わせ:TEL: 048-585-6685(サイトウ)
       E-mail: spacewho@hall-eggfarm.com
http://hall-eggfarm.com
///////////////////////////////////////////////////////
11月24日(火) 千葉・稲毛 キャンディ
ジョン・ブッチャー(tenor & soprano saxophone)SOLO
開場 19:30/開演 20:00
予約 4,000円/当日 4500円(1ドリンク付)
千葉市稲毛区稲毛東3-10-12 ● JR稲毛駅西口より 徒歩2分
ご予約・お問い合わせ:TEL/FAX: 043-246-7726  
           E-mail: jazz_candy-lj@infoseek.jp



 予習用音源としては、比較的最近の作品から3点を挙げておこう。『Nigemizu』は前述の通り、彼のソロ演奏のこわれやすい響きを初めて音盤に定着した‥と言いたくなる傑作。『Resonant Spaces』は同じくソロ・インプロヴィゼーションながら、様々な特異な音響環境を経巡り、空間と深く交感した記録。音が空間を探査し、照らし出す様が生々しくとらえられている。『Exta』はトリオによる演奏。かつてPhil Durrant, John Russellと繰り広げた『Concert Moves』(Random Acoustics)における、3人がフラットの各室でそれぞれ気ままに練習しているのを廊下で立ち聴きしているような、ほどけてはもつれていくこわれやすい移ろいこそが、ジョン・ブッチャー自身の言う「雲が落ちてこないように支える」演奏の具体化であり、到達点と思われたが、それをあっさり塗り替える幽玄極まりない逸品。

John Butcher / Nigemizu
http://www.ftarri.com/cdshop/goods/uchimizu/uchimizu-01.html





John Butcher / Resonant Spaces
https://www.youtube.com/watch?v=gSfVL_YfONg
http://www.johnbutcher.org.uk/wire_resonant.html





John Butcher, Thomas Lehn , John Tilbury / Exta
http://recordings.fataka.net/products/517214-exta-john-butcher-thomas-lehn-john-tilbury-fataka-7



スポンサーサイト
ライヴ/イヴェント告知 | 00:36:36 | トラックバック(0) | コメント(0)
バスター・キートン走り、ヨゼフィーヌ歌う、ジョン・フェイヒーのギターに伴われて ARICA『Ne ANTA』演劇レヴュー  Buster Keaton Running, Josephine the Singer ( or Mouse Folk ) Singing with John Fahey Playing Guitar Theatre Review for ARICA "Ne ANTA"
 薄暗がりに白尽くしの舞台装置が浮かび上がる。白い壁、窓にはカーテン、その右側にベッド、左手前に冷蔵庫、床は手前へと広がり右手に伸びてドアにつながる。L字型をした白い床がくっきりと黒に縁取られて、そこには黒い壁がそそり立っていそうだ。でも確かそれは舞台の黒い床面が見えているに過ぎないはずだ‥‥。ほぼ2年半前(2013年3月)に森下スタジオで観た初演時の記憶がふつふつとよみがえる。
 場内が真っ暗闇になり、やがて舞台が冷蔵庫内を思わせる冷ややかな白い光に照らし出されると、ベッドにはもじゃもじゃ頭で、白いパジャマに色褪せた赤いガウンを羽織った男がひとり腰掛けている。時間を引き戻されるような強烈なデジャヴュが起こる。だが、その後に私が経験したのは、2年半前とは全く別の事態だった。



 事態がいかに「全く別」であったかを示すためには、初演時(その時は『ネエアンタ』というタイトルだった)の様子を説明しておかなければならない。詳しくは拙レヴュー(※)を参照していただくとして、ここでは作品の流れ/構造を簡単に振り返っておこう。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-221.html

 「ねえ、あんた‥」と、ベッドに腰掛けたまま身動きひとつしない男に、女の声が語りかける。男の身体はそれに「反応」し、少しずつ動き出し始める。突如、部屋の照明(吊るされた裸電球)が点滅し光度を落とす。この「暗い時間」に薄暗くなった室内で男は立ち上がり、窓へと向かい、カーテンを開け閉めし、冷蔵庫のドアを開け閉めし、次いで開いてしまったドアを閉め、再びベッドへと戻って腰を下ろすと、照明が再び明るさを取り戻す(「明るい時間」)。男がこのように動いている間、女の声は止んでいて、男がベッドに戻るとしばらくして、また声が聞こえてくる。以下繰り返し。男が動いている間、不思議な現れ方で古いドレス姿の女が現れ、また、正面の壁がベッドごと客席側へ押し出される(吊るされた裸電球もまたこちらへと近づく)。
 すなわち、この作品は基本として分割と反復によって構成されている。それゆえ前回舞台のレヴューもまた、女の声と男の身体とこれらの分割/反復を軸として構成した次第である。そして、これに付け加えられる音もまた分割と反復によって構成されている。女の声がしている間、他の音はしない。女の声が止み、ドアが開くときらきらとしたノイズが流れる。途中から低音の機械の動作音に似たノイズが加わり、これは冷蔵庫を叩いたり、ドアを勢いよく閉めると止まる。さらにもうひとつ。スライドを多用したブルージーなギターが流れる。
 驚くべきことに、後から振り返って確かめてみても、前回と今回の舞台で、こうした分割と反復の仕掛けはほとんど変わらない。では何が様相を一変させていたのだろうか。それは山崎広太の身体、安藤朋子の声、藤田康城の音響の三者三様のダンスにほかならない。


1.ダンス1 山崎広太の場合
 男の身体は空間にはまり込んだように、つまりは舞台装置の一部であるかのようにそこにある。前回舞台のレヴューでそれを私は「動こうとしないのでも、動くまいとじっとしているのでもなく、以前からそこにあった置物のように空間にすっとはまり込んでいる。これはダンサーの身体ならではの業だ。」と書いてある。これに修正の余地はない。まったくその通りだ。
 女の声が流れ始めても、身体はそれに反応しない。前回の舞台では、ある時点で彼はふと身体を左に向けた。「やがて男はゆっくりと左手方向を向くが、ヴィデオの再生をジョグ・ダイアルで操作するように、時折ふっと動いて、それ以外は動いているかいないかの超微速度で移ろっていく。そうした動きにもかかわらず動作は滑らかで段差がない。連動して動く身体の各部を巻き戻していく印象。これもやはりダンサーならではの身体技法と言えよう。」
 まったく何の動きもないわけではない。ずいぶんしてから、右足の爪先がすっと動いた。それだけ。しかし、それが覚えたことのない衝撃をもたらす。パントマイムのパフォーマーがよくやる演目に、顔を白塗りにしてマネキンに扮し、じっと動かずにいて、時折すっとポーズを変えるというものがある。その時の動きは先に記した「ジョグ・ダイアルで操作する」感触と似ている。言わば、ある平衡状態から別の平衡状態へと何の抵抗も感じさせず移行する。移るべくして移る。そこでは身体の各部は完璧に連動しており、各部の微調整が瞬時に行われ、一切の「もたつき感」を与えない。
 今回の右足爪先の動きは違う。それは他の身体各部の動きを全く伴わない。そこだけの動き。木の葉がはらりと散るように、花がぽとりと落ちるように、身体の一部が音もなく、前触れもなく、ただ欠け落ちる‥‥そんな風なのだ。

 女の声が止み、裸電球が明滅して、男が立ち上がり、窓へと向かう動きは変わらない。自分の意志で歩むというより、否応なく引き付けられていくような、抵抗とそれに抗う力といった摩擦を感じさせない歩行。しかし、窓辺から冷蔵庫へ、冷蔵庫との「格闘」からドアへと向かう動きは大きく異なっていた。
 前回舞台のレヴューで、私はその一連のプロセスについて次のように述べている。

 「明るい時間」に語りかける女の声は、男の身体に様々な事実や関係性を投げかけていく。それらは意味や文脈の重さで男の身体を縛り付けようとする。しかし男=山崎の身体はこれに抵抗する。声の流れる「明るい時間」には空間にぴたりとはまり込んで声をやり過ごし、「暗い時間」には意味/文脈の重みに抗いながら動作を反復する。それゆえドアへと向かう最後の行程は大変な力業となった。暴風雨に幹がしなり枝が折れ葉々が引きちぎられるように、多様な力線の交錯に翻弄される身体(実際、その動きは「暴風に向かって歩く人」のパントマイムのようだった)。そのプロセスは堆積するテクストの重みを洗い流す高圧シャワーでもあっただろう。

 ここで身体の運動はテクストの「重力」への「抵抗」として眼差されている。しかし、今回の舞台では、次章「ダンス2 安藤朋子の場合」で詳しく見るように、テクストが声のダンスによる変容を被っており、その結果、「重力」は弱まり、山崎の身体の動きは、ずっと奔放なものとなって、もはや「抵抗」とはとらえ難い「怪物的」なものへと変貌していた。
 私にとって山崎のダンスの原イメージは、ほぼ20年前にシンガポールで観た姿にさかのぼる。前回舞台のレヴューで私はこの体験について次のように綴っている。

 山崎はさほど広くないステージの端から端まで優雅な足の運びですたすたと歩き、そうした下半身に乗せて運ばれる上半身においては、多方向からの力線に刺し貫かれ突き動かされる高速の運動を、恐ろしい高密度に圧縮して重ね合わせてみせた。機銃掃射に跳ね上がり痙攣する死体を思わせる仕方で、コマ落としのフィルムのようにぶれ、輪郭を多重化する身体。それはたとえばジョン・ゾーンのゲーム・コールズによる速度と強度、切断と衝突に満ちたソロ演奏の視覚的等価物とでも言うべきもので、徹底して物語の次元を欠いたブロックの接合である。

 それはひとことで言えば、身体に多様な像をスーパーインポーズすることである。ある意味、そのこと自体は今回も変わりない。しかし、かつてのジョン・ゾーンの演奏と同様、そこで投げかけられる像は、すべて研ぎ澄まされた鋭利な断片で、高度情報社会を満たす様々な記号にまみれながら、そうした意味を脱ぎ捨て、純粋なマテリアルへ、速度へと化すことを夢見ていた。今回の山崎のダンスに、そうした純粋速度への信仰/憧れは見られない。加速することで情報の密度を上げ、さらに集積の度合いを高めようとするまっすぐに張り詰めた欲望が、ここではぐにゃりと変質している。確かに超高速でプロセッシングされたように、多種多様な断片が高密度で集積されている。だが、その中に以前には考えられなかったような滑稽さをはらみ、あるいは意味の重さで文脈を脱臼させ、あるいは身体の運動自体を無重力的に減速させる動きがふんだんに含まれているのだ。
 一様な加速に収まらずぽろぽろとこぼれていく特異点。前後を切断するように突然に差し挟まれるシンボリックなポーズ。身体の他の部分と切り離されてただ前に這い進む足裏。引き伸ばされ遅延していく時間の流れ。動作の中断により中空に置き去りにされる筋肉。不自然に折れ曲がり身体の軸線を見失わせる骨格。何度となくリセットされる展開。未曾有の事態に落ち込みながら、状況をどこまで把握しているのかわからない「笑わぬ喜劇王」バスター・キートンを思わせる無表情。目的から切り離され一瞬立ち尽くす動作。足場を失って宙に浮く身体。
 しかし、それは自らを「ダンス」として舞台上の俳優の存在から切り離そうとはしない。山崎の身体は一連の動作としてしかるべき距離を移動し、冷蔵庫の扉を開け閉めして、開いてしまったドアを閉める。俳優がダンスを演じるのではなく、日常的な動作に、つまりは舞台上の時間/空間に、果ては観客の身体的記憶にダンスの息を吹き込むこと。


2.ダンス2 安藤朋子の場合
 今回の舞台が前回とはまるで別物であることを直感したのは、流れてきた女の声を耳にした瞬間だった。そこで声は身体を引きずり、揺すぶり、大きく伸びをして、子どものように跳ね回り、ふうわりと宙に浮かんでいた。
 女の声について、前回舞台のレヴューで私はこう記している。

 抑揚をやや平坦にした、どこか息の漏れるような力ない発声。現代詩の改行のように本来あるべきでないところにブレスが配置され、声が一瞬止まり、意味に沈黙のナイフが入って、呼吸の運びはうわずるように宙に浮き、メッセージを宙吊りにする。まるで自動機械が話しているようにも聞こえる。テクストの内容は男の過去や現在を暴き続けるが、この声のつくりがそこに恨みや後悔といった情念の入り込む余地を与えない。ちらしに印刷された解説は、女が男と以前に付き合っていて、その後別れ、今はもう死んでいる可能性を指摘するが、虚ろに響くこの声の感触を、そうした関係性の網の目に解消してしまうことはできない。あるいは声は男の頭の中だけで鳴っていて、私たちはそれを覗き込んでいるだけなのかもしれない。だがやはりこの声を、男の自責の念がつくりだした幻聴と片付けてしまうこともできない。どうにも始末しようのない厄介な存在(まるでゴロンと横たわった身体/死体のように)として、女の声はただそこにある。

 「声がただそこにある」境地から、何かを演じる声へと、表現の「乗り物」へと、声がその立ち位置を後退させてしまったわけではない。俳優が多様な声音を使い分けたとか、声に様々な感情を込め、反映させたとは聞こえなかった。ここで声は自ら身体を持ち、舞台装置の一部のように座っているかと思えば、ふと立ち上がり、何物かに引き付けられるように歩み出し、身体を撓め、語を宙に吊り、ポーズを取り、コミカルな仕草をし、時の流れを滞らせ、また何事もなかったように再び始める。しかし、それが自己満足的なヴォイス・インプロヴィゼーションに堕してしまうようなことはない。常に声の運動はテクストとの緊張関係の下にあり、彼女の声はしかるべき語や文脈を経過していく。つまりは山崎の身体の場合と正確に同じ意味合いにおいて、安藤の声もダンスしているのだ。
 ガス漏れや隙間風を思わせる息音。「あー」と語にならない曖昧な「声漏れ」。歯切れの良いスタッカートな発声。ずずーっと音を立てて吸い込まれる息。足を引きずるような語り。おだやかなマルカート。幼児化したようなコケティッシュな口ぶり。弾むような息遣い。息も絶え絶えなかすれ声。喉に貼り付く舌。陰鬱な沈み込み。歌い上げるような高揚。別人格に憑依されたかと疑う一本調子。声に一瞬付加されたエコーにより姿を現す暗い深淵。
 それは多種多様ではありながら、数多のヴォイス・パフォーマーたちが競うように披露する声の表現領土の拡大とは、まったく異なっている。それは言うなれば声の「動かないダンス」であり、貧しく切り詰められた「聞こえない歌」にほかなるまい。こう書きつけながら私は、フランツ・カフカの描いた、ネズミ族の歌姫ヨゼフィーネのことを思い浮かべている。

ふるえるむね/ふりあおぐめ
ぞっとするほどそらした/かお/ねじれたかたち
(中略)
ちんもくのなか/ちからないこえが
どうにかして/こっちへこようと/もがいている 【訳:高橋悠治】

 「声のダンスによりテクストが変容を被った」と前章で述べた。それはダンスに注力することにより声の伝達力が弱まったということではない。テクストをより多孔質のものへと変容させた‥‥とでも言おうか、例えば先に述べた「この声の感触を、そうした関係性の網の目に解消してしまうことはできない」傾向はさらに強まった。「声は男の頭の中だけで鳴っていて、私たちはそれを覗き込んでいるだけなのかもしれない」どころか、女の声は男の存在する時間/空間とはまったく別の層に存在していて、それらをパラレルに見渡しているのは我々観客だけなのではないか‥‥との疑念すら生じさせる。それだけ強い独立性/自立性を、彼女の声は手に入れていた。



3.ベケット/ARICA
 こうした身体や声のダンス化、あるいは後に見る女の身体の登場や音楽の使用は、ベケットの原作に対する行き過ぎた恣意的な解釈なのだろうか。演劇に明るくない私に、それを判定する資格はない。しかし、私なりに原作との関係を振り返っておきたい。
 今回の『Ne ANTA』(前回舞台では『ネエアンタ』)は、サミュエル・ベケットによるテレビ・ドラマのシナリオ『Eh Joe』に基づいている。このドラマは英国BBCでの放映のために書かれたものだが諸般の事情で制作が遅れ、先にドイツでベケット自身による演出の下、制作・放映された。

 シナリオを見ると、テレビ・ドラマゆえ、キャメラについての指定までなされていることがわかる。冒頭、男がベッドに腰掛けており、立ち上がって窓のところに行き、カーテンを開け閉めし、また戻る。男の動作は冒頭のこれ1回きりで、しかもこの部分は男の背後から撮影するよう指定がある。以降、女の声が流れ続け、男は動かない。表情も基本的に変えない(パラグラフの途中で眼をつぶるなという指定まである)。ただし、キャメラに対し9回に分けて男へと寄っていくよう指示されている。もちろん音楽はなし。
 女の声による告発が降り注ぐ中、身動きもせず、黙って打たれ続ける男。そこには当然、宗教的な意味合いが生じてくる。さらにテレビという「何を見せるか」よりも「何を見せないか」が主な機能であるメディア、限定されたキャメラの動き、クローズ・アップの使用‥‥ということになれば、女の告発に対する男の葛藤が主題となってくるだろう。変わらない表情の中に生じる僅かな徴候を通じて内面を覗き込む‥‥。実際、ネット上にアップされている上演はそのようなものだった。

 見せないものを数多く生み出すことにより視線を縛りつけようとするテレビ・ドラマを、演劇の舞台という「何でも見ることができる」=「何を見ればよいかわからない」メディアに翻案する際に、どこまで「忠実度」が求められるべきだろうか。言い方を換えれば、選び抜かれた数少ないルールによって構築された「ベケット・ゲーム」の面白さを、一際まばゆく輝かせるためには、一体どうすればよいか。シナリオだけを金科玉条と奉るのではなく、そこで下敷きにされた「暗黙のルール」(ここではテレビというメディアの特性)まで考えに入れて、構造変換を試みる必要があるだろう。
 ARICAは賢明にも、男と女の設定だけ借りて来てベケット原作と称するような陳腐な愚は犯さなかった。ベケットの真髄が禁欲的なまでの厳密さにあることを熟知していればこそ、キャメラのクローズ・アップ指定すら、舞台装置の壁が4回に分けて前方へ迫り出してくるという指定に変換され、さらにこれを基盤として、男の動作を冒頭の1回だけから、セットごとの4回に増やし、反復により構造をさらに強化している。もともとのシナリオにおいても、キャメラの移動は女の声と重なってはいけないとされ、「分割」による構造化が明確に意図されていることがうかがわれる。
 女の声について、シナリオは次のように指定している。「低い声で、はっきりと、よそよそしく、色づけを少なく、完全に一定のリズムで、通常より少しゆっくりと」。前回舞台の安藤の声は、これをほぼ忠実に守っていると言えるだろう。
 さて、「動かない身体」と「変化のない表情」という指定を守りながら、内面を覗き込ませるのではない舞台をどう構築するか。この解けるはずのない問題に対し、「動かないダンス」をする身体を見せればよい‥というあり得ない回答をARICAは用意することになる。もちろんそれは山崎との出会いがあればこそだろう。それゆえ演出担当の藤田が初めて山崎に語りかける言葉は、「動かないダンスに興味はありますか?」という問いかけとなった。
 こうした発想の基に成立した前回舞台『ネエアンタ』を今回『Ne ANTA』として再演するにあたり、先に見たように、「動かないダンス」の「動く化」ではなく、動くことも動かないことも含めて「ダンス化」することの徹底が図られた。それが安藤の声にも及んだと考えることもできるし、あるいは男の身体と女の声の二つの層を、共にダンス化することでぶつけ合わせ、またリレー化するという演出的発想もあっただろう。その背景には、やはりベケット作品である『しあわせな日々』の上演で、安藤がヴォーカリスト(声使い)としての自らの資質に改めて目覚めたということも、大きく影響しているように思う。


4.ダンス3 藤田康城の場合
 「音」もまたダンス同様、ARICAによる舞台化に際して導入された新しい要素である。「音」は、女の声が流れる「明るい時間」ではなく、「暗い時間」にのみ限定して放たれる。このことにより、聴覚のレベルでは女の声と「音」が時間軸上棲み分けるように対比され、一方、「暗い時間」においては男の身体の運動と「音」が共存しながら、視覚/聴覚の対比の下に棲み分けていることがわかる。
 前回も今回も「音」は次の3種類が用意されている。
 a ドアが開いている間に放たれ、閉まると止む。きらきら輝く砂粒のようなノイズ。
 b 男が窓付近にいるうちに鳴り始め、冷蔵庫の開け閉めにより鳴り止む低音の機械動作音を思わせるノイズ。
 c 上記abと重なるように流れ、aと同時に鳴り止むギター音楽。及び最後、舞台上の女がベッドを押し戻す際に流れるフリー・ジャズ。

 今回、a・bとも前回より音量も大きく、輪郭もはっきりとして存在感を増したように感じられた。これはわざわざ持ち込んだという黒い二階建てエンクロージャのPA(Taguchi製?)の貢献もあるかもしれない。
 しかし、前回より著しく増強されたのはcである。前回の舞台の「音」について、私は次のように述べている。

 その「暗い時間」に流れる音には前述の「きらきら輝く砂粒のような音」だけでなく、ざわめきを伴う持続音や音響的なブルース・ギター(ローレン・マザケイン・コナーズを思わせる)の断片の反復等が重ねられていく。時間を差別化するための舞台装置的なアンビエンスや記号的な効果音ではなく、かと言って情感やメッセージを濃密に担うこともない、精密に設計され巧妙に仕組まれた、たいそう魅力的でありながら決してどこかに着地することのない「どっちつかずの音」。

 藤田に確認したところ、ジョン・フェイヒー『Womblife』を中心に構成したとのことだった。今回もフェイヒーの様々な音源から選定しているという。そのため、一見、サウンドの手触りは共通しているのだが、その立ち位置は明らかに異なっている。今回、フェイヒー音源に基づく「音」の使い方は、明らかに「どっちつかずの音」から踏み出している。もともと『Womblife』はフェイヒーがジム・オルークと共同作業を続けていた時期の作品であり、ミュジック・コンクレート的な手法が多用され、荒涼とした広がりを錆びたギターが渡っていく光景にフォーカスしながらも、様々な音響やエレクトロニクス操作がミックスされることにより、響きは空間に侵食され、血を滲ませ、混濁しながら辺り一面に沁み込み、いつまでもいつまでも止むことなく鳴り続けているような感触を与える。ブルーグラス/ブルースの持つヴァルネラビリティと、他者に横断され、その痕跡を刻まれることにより、さらに魅力的に輝く資質を最大限に引き出したものとなっている。
 前回の使用法が空間に「緩衝材」として充填する方向であったのに対し、今回の「音」の使い方は、そうした混濁や横断性、すなわちそれ自身がはらむ交錯や衝突を前面に押し出すことにより、声のダンスや身体のダンスとは明らかに別の、独立した層を動きながら、両者との対比をより鮮明なものとし、両者を構造的に結びつける役割を果たしている。
 だから、今回の舞台では、フェイヒーの「音」は山崎のダンスの背景となっていない。それは「伴奏」ですらなく、言わば山崎の身体と対等にぶつかり合っているのだ。この喧噪が安藤の声のダンスのテクストの運び手にとどまらない「過剰さ」を支えている。また、前回舞台ではある種逃れ難く必然と思われた、女の声と舞台上に現れる女の身体の結びつきを、今回はいったん切断し得ていたように思う。すなわち、前回は「音」が背景に退いていたことで、私は「女が既にこの世のものではなく、声の主である死んだ女であろうことはたやすく想像される。しかし、にもかかわらず、声と女の身体を結びつけるものは何もない。むしろ舞台上に現れる女の身体は、声との関係を持つこと、声の重みを背負うことを注意深く回避している」と書き付けながらも、男の身体とバランスを取るために、女の声だけでなく、女の身体が召喚された感じを否めないでいた。しかし、今回は男の身体と女の声、「音」の三者が、先に見たように独立した層をかたちづくってバランスし、舞台上に現れる女の身体は、ドアを開け、冷蔵庫を押し出し、ベッドを押し戻す動作に見られるように、舞台装置の「機械仕掛け」の一部と見なした方がいいように思われる(そうすると最後の場面で安藤の身体が垣間見せる、エロスが豊かに香り立つエクスタシーのダンスは、ダンス4ということになるだろうか)。

 もうひとつ付け加えるならば、この「音」の層の自立は、最後に用意された「舞台崩し」としてのフリー・ジャズの使用を説得力のあるものとしていたように思う。前回のドラム・ソロ(鈴木勲トリオ『Blow Up』最後のジョージ大塚によるソロだという)は、今回、管楽器の分厚い咆哮(Peter Brotzmann『Machine Gun』からだという)に換えられており、ベケット的閉鎖空間を打ち破り、祝祭的な解放感を与える「ファンファーレ」として、場内に高らかに響き渡っていた。

ARICA / Ne ANTA inspired by Samuel Beckett
2015年11月5日〜8日
シアタートラム

演出:藤田康城
テクスト協力:倉石信乃
出演:安藤朋子・山崎広太


ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:36:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
注目! フタリ・フェスティヴァル2015  Attention ! FTARRI EESTIVAL 2015
繝輔ち繝ェ繝輔ぉ繧ケ陦ィ_convert_20151112104303

 鈴木美幸(FTARRI)の主催する音楽祭『FTARRI EESTIVAL 2015』が、11月21日(土)・22日(日)の2日間、いよいよ開催される。綺羅星の如く並ぶ出演陣から、私の注目するアーティストを紹介したい。

 こうしたフェスティヴァルの呼び物と言うべき、海外からの来日アーティストからは、まずPatrick Farmer, Stephen Cornfordの二人に注目したい。Patrick Farmerは作曲から音響的なインプロヴィゼーション、フィールドレコーディングに至る幅広い領域で活動しているアーティストだが、フィールドレコーディングを素材にした『Like Falling Out of Trees into Collectors' Albums』は衝撃的だった。何の変哲もない風景が、彼が傍らに佇むだけで、黄泉の世界から不思議な風が吹いてくるようにざわめきたち、何事もなく過ぎていた時間が泡立ち滞る。この作品を初めて聴いた時の印象は「ここには何かあるが、それを名指すことはとてもできない」という半ばあきらめ加減のものだった。当時記したディスク・レヴューを参考に掲げておこう。

フタリ0Patrick Farmer / Like Falling Out of Trees into Collectors' Albums
Consumer Waste cw04
Patrick Farmer(fieldrecordings)
 以前に2011年第4四半期のディスク。レヴューで「その素晴らしさを言葉にする術をうまく探り当てることができ」ないとして掲載を断念した本作を改めて採りあげることにしたい。今回の執筆に当たっては、前回レヴューした同じくConsumer WasteからのリリースであるSarah Hughes&Kostis Kilymis『The Good Life』の聴取体験が導きの糸となった。
 添えられた説明によれば、最初のトラックはプールに張った氷が溶けていく様をとらえている。だが耳にもたらされるのは手前で漏らされる低く乾いたつぶやきが、風の音と混じり合う様に過ぎない。そこに視覚的イメージが浮かぶことはなく、パースペクティヴも存在しない。突如として上空を飛行機が通過し、その音がサーチライトのように周囲の光景と聴いている私の身体を照らし出す。それまでの「包囲光」的なアンビエンスが浮かび上がらせていた、輪郭を持たず端からさらさらと崩れていく軽やかなざわめきとは異なる視界(放射された音がかたちづくる円錐形の空間以外の認知が相対的に弱まる)がそこに開ける。冷たい風に揺らぐ一面枯れ草で覆われた野原を思わせる響きの向こうに開ける別の世界。
 頭上に張り渡された送電線の唸りをフェンスの振動を介して収録した2曲目において、音響はよりシンプルな振動に収斂した見かけをしているが、覗き込むほどに、顕微鏡の倍率が上がるように新たな視界が開かれていく感覚を覚えずにはいられない。3曲目は竹の中に巣を作る蜂の生態をとらえたものだが、対象に顕微鏡的にフォーカスするのではなく、たっぷりと余白を取っていることが、沈黙のざらつきを聴かせる結果となっている。100枚限定。

 今回、新作コンポジション「Border」を携えての参加。その演奏メンバーもRhodri Davies, 村山政二郎, 田中悠美子、石川高とまったく出音の予想がつかない。

 対してStephen Cornfordは、ちっぽけな、壊れかけた、取るに足らない簡素な機械仕掛けが漏らすかそけきつぶやきやささやきに耳を傾け、そこから魅惑的な音世界を魔法のように開いてみせる。掲載写真のようにサウンド・インスタレーションも手掛ける彼は、今回、3台のプロジェクターを使った映像とサウンドによるか「Degital Audio Film」を、Patrick Farmer, 河野円とともに「演奏」する。
フタリ4 フタリ5

 2日目に登場するThe International Nothingは、それぞれ様々なグループに参加するMichael ThiekeとKai Fagaschinskiによるクラリネット・デュオ。Ftarriからリリースしている3部作は、まるで動物図鑑みたいなジャケットだが、特に2作目を飾る魚類の生態を思わせる、見通しの効かない暗く冷たい水の中を、水の揺らぎを肌に感じながら、するりぬるりと行き交う盲目的/触覚的なアンサンブルが印象的だ。
フタリ1 フタリ2 フタリ3

 本フェスティヴァルに合わせて来日ツアーを組んでいるJohn Butcherは両日に参加。1日目は鈴木昭男と、2日目はRhodri Daviesとデュオを行う。Rhodri Daviesとは最近Ftarriからライヴ演奏を素材とした『Routing Lynn』をリリースしているし、以前の来日時にも原美術館で充実した演奏を聴かせてくれている。お互いを熟知した間柄と言えるだろう。むしろ、これまでの集大成と言うべきLP4枚組ボックス・セット『Pedwar』をリリースし、最近はコンポジションにも手を伸ばしているRhodri Daviesの変貌ぶりが気になるところだ。対して鈴木とのデュオは何が起こるかわからない。私は以前にこの組合せを「大磯すとれんじ・ふるうつ」で観ているのだが、音具をかき回すかと思えば、ラジオ体操みたいな動きで小石を打ち合わせるノンシャラン極まりない「自由過ぎる」鈴木に、John Butcherは調子を狂わされっぱなしで、何とかスズキの軌跡をとらえようと耳を澄まして、全然関係のない階段の軋みに反応したりしていた。現代サキソフォン演奏の最先端を行く超精密機械が、誤配線だらけのアナログ機材に接続されて、誤作動を繰り返す様が目撃できるかもしれない。
フタリ6 フタリ7 フタリ8
フタリ9

 国内勢では、そのJohn Butcherの演奏の素晴らしさを初めて音盤に定着させた『Nigemizu』の録音を担当した高岡大祐が、2日目に広瀬淳二、Kai Fagaschinskiとのトリオで姿を現す。今回のJohn Butcherの来日で、高岡との共演が実現しなかったのは返す返すも残念だが、互いによく知る広瀬との共演にKai Fagaschinskiを加えた構成は、各自が動き回れるスペースが広そうで期待できる。一見、豪快かつノイジーに音を放つ二人が、実は繊細極まりない演奏をしていることを、Kaiの参加がより明らかにしてくれるのではないかと思う。広瀬は自作楽器演奏がクレジットされているが、ぜひサキソフォン演奏も聴かせてほしいところ。
 もうひとつの注目は、こうしたフェスティヴァル初参加のstilllife(津田貴司+笹島裕樹)。「祭り」の場ゆえ聴衆の集中度が懸念されるが、会場の広い空間を相手取って彼らなりの戦略を用意してくるのではないか。フェスティヴァル登場1週間前の今週末11月14日(土)には、石神井公園に連なる石神井氷川神社境内こもれびの庭の夕刻、、釣瓶落としに暮れていく光の中で、3度目の野外ライヴを行って、いよいよ覚悟を決めてくる。
フタリ10

 紹介したのは出演者のうちの一部に過ぎない。それぞれにお目当てのアーティストも異なることだろう。だが、「ノーマークだった演奏に打ちのめされる」といった「交通事故」が起こるのが、こうしたフェスティヴァルの良いところ。ぜひ、知らない(これまで知らなかった)音世界にも耳を拓いてみてほしい。
繝輔ち繝ェ繝輔ぉ繧ケ陬柔convert_20151112104329

会場:東京、西麻布 スーパー・デラックス (SuperDeluxe)
東京都港区西麻布 3 -1-25 B1F 日比谷線 / 都営大江戸線六本木駅 3番出口より徒歩5分
2015年11月21日(土)
開場:午後2時30分、開演:午後3時30分、終了:午後9時30分予定
2015年11月22日(日)
開場:午後2時、開演:午後3時、終了:午後9時予定
2日間通し券:予約 7,500円 + 各日 1 drink、当日 8,000円 + 各日 1 drink
1日券(各日):予約 4,000円 + 1 drink、当日 4,500円 + 1 drink

予約方法:
スーパー・デラックスのウェブサイトから申込下さい。Eメールにより確認のご連絡をいたします。
11/21(土)ご予約 → www.sdlx.jp/2015/11/21
11/22(日)ご予約 → www.sdlx.jp/2015/11/22
2日間通し券はスーパー・デラックスのお問い合わせフォーム https://www.super-deluxe.com/inquiry/ から申込下さい。当日の入場は通し券のお客様優先となります。
ファックスでの申込の場合は、イヴェント名 (Ftarri Festival)、希望日(11/21+22、11/21、11/22)、氏名、人数、電話番号またはファックス番号を明記の上、03-5412-0516 へ送信下さい。予約締切は、2日間通し券と11/21の1日券が11月20日午後9時、11/22の1日券が11月21日午後9時です。

問い合わせ : FTARRI 電話:03 -6240 -0884 (午後4時~8時。休業日やライヴ時間中はつながりません) E-mail: info@ftarri.com




ライヴ/イヴェント告知 | 11:08:11 | トラックバック(0) | コメント(0)
2015年1〜8月ディスク・レヴュー その3  Disk Review Jan. - Aug. 2015 vol.3
 ディスク・レヴュー第3弾は、音響的あるいはエレクトロ・アコースティックなインプロヴィゼーションからの9枚。書きあぐねているうちに、採りあげるべき新譜がどんどんと増えている状況で、これはともかく書けたものから出していくよりない‥と、ようやく腹を決めた次第。えいやっとリリース。なので、ここに入っているべき作品が次回送りになっていたりします。ごめんなさい。


Masahide Tokunaga / Alto Saxophone 2
Hitorri hitorri-994
徳永将豪Masahide Tokunaga(alto saxophone)
試聴:http://www.ftarri.com/hitorri/994/index-j.html
 空間を貫いて水平に張り渡された梁が、ぐにゃりとねじ曲がる。眼に見えぬ圧倒的な力が、その確かな痕跡を眼の前に刻み付ける。水平に引き伸ばされたアルトが歪み、弧を描いて屈曲し、そこにかかる力の凄まじさをひしひしと伝える。張り裂けそうに震える管、引き裂かれて内部を露わにする響き。トランペットの高鳴り、バス・クラリネットの低音の徘徊、エレクトロニクスによる変調、複数の音色の間に生じるモワレの脈動。一見、暴れることなく、平静を保って穏やかに推移する音色のうちに現れる凄まじい力の痕跡。管楽器による音響的なインプロヴィゼーションの多くが、重力をキャンセルし、サウンドを浮遊させ、響きを空間に遊ばせて、音響へと解体するのに対し、ここで徳永は徹頭徹尾、楽器に極限的な負荷をかけ続ける。初期の阿部薫を思わせる強度で鳴らし切られた管は、しかし「速度」へとは向かわず、走り出すことなく、その場に突っ立ったままで身をねじ曲げる。行き先を見定めようとする眼差しはここにはない。息を提供し続け、そこにのしかかる巨大な重量を背負いながら、それをコントロールするのではなく、「立会人」として正確に見定めつつ、事態が一瞬のうちにカタストロフに至ることを回避し、限界をはるかに超えた圧力/張力に耐え続けること。虹のように移り変わる音色は、そうした力のドラマのほんの現れに過ぎない。リードや管の振動に眼を擦り付けんばかりに肉迫した前半の3曲がとりわけ素晴らしい。それ以降の、やや「現象」から距離を置き、エアーを採り入れての録音では、そうした力動がいささか感じ取りにくくなっている。以前に『Dead Pan Smiles』を採りあげた大上流一とのデュオを、ぜひ聴いてみたいと思う。


Ezaki Masafumi, Takaoka Daysuke / 外の人 vol.3
無番号
江崎將史, 高岡大祐
試聴:
 冒頭、流れ込んだ雨水の滴りの響きに、まるで暗闇でマッチを擦ったように、地下道の湿度に閉ざされたパースペクティヴがふっと一瞬のうちに浮かび上がる様に驚かされる。音に照らし出される空間。じょぼじょぼと水のながれる地下道の、閉塞感のある特異なアコースティックのうちに、あるいはそこに入り込む交通騒音をはじめ周囲の環境音の中に、二人はすっと入り込んで音を出し、その響きを通じて、さらにその場の特性を触知する。空間に導かれる「演奏」。
 その後も街を散策しながら「演奏」は続けられる。そこでは歩き回り、耳を傾けることが、足音や息音を生み出し、楽器に息を吹き込むことと、分ち難くひとつになっている(楽器に吹き込まれる息のかすれにフォーカスして耳をそばだてるうち、遠くから響く交通騒音等のもやつきや風によるマイクロフォンの「吹かれ」に聴き入っている自分を発見する)。ここで音を聴くことと音を出すことは同じ一つのことであり、自らの身体や演奏行為のつくりだす輪郭、周囲の環境との境界は、いくらでも可変で相互浸透可能な、とりあえず仮構されただけのものにほかならない。商店街では頭部にマイクロフォンをセットして歩き回り、移り変わる音景色に口笛がいつまでも付いて回る。
 本来、この「外の人」は、高岡たちに聴衆が随伴し、街中の様々な特徴ある場を経巡っていく企画であり、聴衆は必ず演奏の場に立ち会い、その空間に共に居合わせることが原則なのだが、この3回目はたまたま雨天中止となったために、高岡と江崎だけで実行され、その結果が録音されたものだ。しかし、高岡による相変わらず秀逸な、汚れは汚れとして示し、聴くことを「キレイゴト」にしてしまわない録音は、その聴取を通じて湿気や匂い、「場」の圧力を感じさせるものとなっている。もし、その場に聴衆として居合わせたなら、おそらくは「演奏者」たちの姿をまじまじと見詰め、その結果、無意識のうちに環境音を「地」として背景に追いやり、「演奏者」たちのつくりだす音を「図」として浮かび上がらせてしまっただろうから、その点でもこの録音を聞くことは体験として貴重なものとなっている。20枚限定CD-R。



Anthony Kelley, Danny McCarthy, Mick O'Shea, David Stalling / Soundcast 4 x 4 (+1)
Farpoint 035
Anthony Kelley, Danny McCarthy, Mick O'Shea, David Stalling
試聴:https://soundcloud.com/farpointrecordings/soundcast_4_by_4_plus_1_track_9
   http://www.art-into-life.com/phone/product/6064
 アイルランドのギャラリーの古典的な彫像の並ぶ一室で2009年に繰り広げられたインプロヴィゼーションの記録。八つ折りされたポスター風ジャケットに掲載の写真で見ても、かなり広いスペースで天井も驚くほど高い。そうした空間のヴォリュームを存分に活かした演奏となっている。演奏楽器のクレジットはないが、これも写真を見る限りエレクトロニクスとパーカッション程度。硬質なサウンドが空間に放射され、決して飽和することなく、距離と覚醒の下で、常に余白のある緊張をつくりあげる。軋みやざらつきに満ちた手触りと希薄で無機質な響きの間に、一瞬のうちに張り巡らされるテンションが素晴らしい。この手の即興セッションに付き物のもったいぶった探り合いや付和雷同的な盛り上がりがなく、あたかも人の手によるものではないように演奏は進み、風景が移り変わる。それらの生成をじっと見詰めながら、細部をかたちづくる様々な流れ/力動に手指や爪先を差し入れ、耳を澄ます‥‥というフィールドレコーディング作品の聴き方が、本作にはふさわしかろう。2010年の作品だが、その時点ですでにこうした演奏が生み出されていたことに、改めて驚かずにはいられない。


Seijiro Murayama, Jean-Luc Guinnet / Mishima, Day & Night
Ftarri ftarri-990
Jean-Luc Guinnet(alto saxophone), 村山政二郎Seijiro Murayama(percussion,voice)
試聴:http://www.ftarri.com/ftarrilabel/990/index-j.html
 静岡県三島市内の寺とバーでの演奏を収録。そっと息を吹き込まれる管と、ゆっくりと巡りながらこすられ続けるシンバルの、付かず離れずの響きの触れ合いの只中に、タンギングの破裂が庭に設えられた鹿おどしのように点を穿ち、遠くで遊ぶ子どもたちの声が幻灯の如くぼうっと映し出される。管の鳴りとシンバルの響きはそのまま薄闇に溶け合い、見分け難くひとつとなりながら、時折思い出したように、甲高い唸りや不機嫌な軋みがふと浮かび上がる。奏法/音色を限定し、ゆるやかに黄昏れていく響きの中で、暗闇に慣れてきた眼差しは、多様な音色の繁茂と衝突を克明に聴き取ることができよう。その後の寺での演奏は長い沈黙に侵食されている。バーでの演奏は、そうした長い沈黙を引き継ぎながらも、より動きの多い演奏となっている。


The Pitch / Frozen Orchestra(Amsterdam)
Sofa Music SOFALP546
The Pitch:Boris Baltschun(electric pump organ), Koen Nutters(bass), Morten J.Olsen(vibraphone), Micael Thieke(clarinet)
Lucio Capece(bass clarinet), Johnny Chang(violin), Robin Hayward(tuba), Chris Heenan(contrabass clarinet), Okkung Lee(cell), Valerio Tricoli(revox)
試聴:https://soundcloud.com/sofalabel/the-pitch-frozen-orchestra-amsterdam-side-a
 分厚いうねりのめくるめく持続。滾々と湧き出し、滔々と流れ続ける響き。ちょうど水底から湧き上がる眼に見えない水の流れを、舞い上がる砂粒の動きを通じてとらえるように。あるいは空中に噴き上がる水の柱の、圧力により上昇する流れと重力により下降する流れが交錯/交替し、不定形なうごめきをつくりだす柱頭部分を、真上からスローモーションでじっと見詰め続けるように。一見、動きのないドローンは、実際には刻一刻、震える平衡の下にかたちづくられ、終始かたちを変え続ける(そうした変化はFrancisco Lopez『La Selva』同様、飛ばし聴きをすると改めて気づかされる)。各楽器がただただ音程を保って演奏し、微妙な上下や倍音の変化により音響が変化する‥‥というのではない。どのようにして、このように緊密に張り詰めた持続/生成を達成し得たのだろうか。The Pitchの4名のみで演奏された前作『Xenon / Argon』(Gaffer Records)と原理的には同様なのだろうが、そこでは識別可能なそれぞれの出音の輪郭が、ここでは集合性の中に溶解し、過剰なまでに濃密化することにより、匿名的と言うより、人称すら遠く離れ、数えきれない昆虫をはじめとする動植物、風雨等の自然現象、さらには温度変化や微生物がもたらす化学変化等が渾然一体となった、熱帯雨林のサウンドスケープを思わせるものとなっている。ダウンロード・クーポン付きLP。


Charlemagne Palestine / CharleBelllzzz at Saint Thomas
Alga Marghen Plana-P 35NMN 090
Charlemagne Palestine(carillon)
試聴:https://soundcloud.com/meditations/charlemagne-palestine-bells-carillon-excerpt
 鍵盤により打ち鳴らされる複数の鐘の単独の振動だけでなく、共鳴や共振が重なりあい、埃のように厚く降り積もって、連続した一様な層をかたちづくる。響きと倍音が入り混じった音響の雲。その中に鐘の音とは明らかに異なる輪郭の不確かな低音が、暗い影となって映り込む。どうもニューヨークの街の交通騒音のようだ。音響の雲にいったん沁み込んだ音風景が、再びゆるゆると立ち上がってくる様は、カイロ市街の音を題材としたGilles Aubryの作品を思い出させる。重たいトレモロが駆け抜け、路面電車の警戒音を思わせる鋭い響きが閃き、よりゆったりと間を空けて、無数の柱時計がランダムに衝突しながらなり始める。こうしてCharlemagne Palestineが奏でるセント・トーマス教会のカリヨンの音色は、John CageやTony Conrad、Moondogが愛したと言う。同時期に同じレーベルからLPのみでリリースされた、ただカリヨンが心地よく鳴り渡るだけの『Bell Studies』より、ずっと聴き甲斐がある。


Ferran Fages / For Pau Torres
organized music from thessaloniki #16
Ferran Fages(electric guitar,walkie-talkie)
試聴:https://thesorg.bandcamp.com/album/for-pau-torres
   http://www.ftarri.com/cdshop/goods/thessaloniki/t-16.html
 40分強の1トラックの演奏の最初8分間と最後5分間に収められた、極薄の金属板を翻させるような脆く儚く壊れやすいフィードバック主体の演奏に惹き付けられる。音響が身を翻しうねるとともに、周囲の空間が歪みひび割れ、その時に生じた細かな亀裂に溶け出した響きが入り込み、モザイク状の滲みを生み出していく。まるで宇宙空間のような虚無的な深いエコー、古い記憶を呼び覚ます針音めいたざらついたノイズ(もしかするとwalkie-talkie由来のノイズだろうか)と相俟って、厳冬の滝みたいに時の流れが凍り付いた中に浮かび漂う、見てはいけない封印された心霊写真を思わせる、特異な成分を分泌している。中間部分のLoren MazzaCain Connorsを(時にはDaniel Lanoisをすら)思わせる流麗に移りゆき、希薄にたなびきながら、深い陰影を残す「ブルージー」な演奏(とは言えそこには、冷ややかな距離を画定したラボ的な音響操作性が備わっている)も素晴らしいのだが。300枚限定。2012年作品。


Wake / Graveyard Coitus
Chocolate Monk choc.307
Wake ( Adam Bohman, Nick Couldry, Crow ), Mark Browne, Lol Coxhill
試聴:http://www.art-into-life.com/phone/product/6056
 1991年ロンドンでのライヴの録音で、今回のリリースは2012年にこの世を去ったLol Coxhillに捧げられている。音はものの見事にとっ散らかっていて、エレクトロニクスとテープとハウリングとガラクタ/オモチャなノイズの混濁したごった煮に、おそらくはラジオ放送から採られたであろうファウンド・ヴォイスや周囲のざわめきが混入し、一部の音が急に大きくなるなど、ミックスもまた演奏の一部としてはちゃめちゃな錯乱ぶりを示し、三次元的なパースペクティヴなど結ぶはずもない。幼児退行症的感覚はLAFMSに通じるが、何語ともつかない語りの妙に折り目正しい登場、気の抜けた拍手の挿入、歪み加減の陰湿で執拗な悪意等は明らかに英国的。おそらくはリーダー格のAdam Bohmanが参加するMorphogenesisの洗練が裏返され、徹底的にプリミティヴな衝動が目指される。それが単なる音響のゴミ溜めに堕してしまわないのは、いついかなる状況にあっても、くちゃくちゃと分節不明瞭なソプラノ・サックスを吹き鳴らし、決して歩みを止めることのないLol Coxhillの貢献によるものと言わねばなるまい。彼の推進力は溢れかえるノイズの合間を巧みに縫って、壊れた断片同士を結びつけ、過剰なサウンドが飽和する中に何度も立ち尽くしそうになりながら、それでも事態を更新し、常に水を入れ替え続ける。79枚限定CD-R。


Aine O'Dwyer / Music for Church Cleaners Vol.1 and Vol.2
MIE MIE 028
Aine O'Dwyer(church organ)
試聴:https://aineodwyer.bandcamp.com/album/music-for-church-cleaners
   https://soundcloud.com/aine-o-dwyer
 一見古代的で実のところ空間恐怖的なカヴァー・アート、「教会清掃人のための音楽」という題名と、のっけからひたすら謎めいている。実際に教会のパイプ・オルガンによって演奏しているにもかかわらず、権威的で猛々しい音圧や、空間の圧倒的広大さがもたらす押し付けがましい尊大さ等は、ここにはまったく感じられない。はるか高みから見下ろすようなそそり立つ建築的構成やそれを可能とする超絶技巧等もない。音は壁を一枚隔てた向こう側から響いてくるように角がなく、もやついてくぐもっており、にもかかわらず演奏ノイズや周囲の物音/話し声は、妙にはっきりと聞こえてくる。「舞台裏に響いてくるオルガン演奏」と言えば感じが伝わるだろうか。すなわち、ここでマイクロフォンは通常とは異なり、まっすぐにオルガンの方を見詰めていない。演奏のエネルギーが放出される照準とはずれたところで、それでも遍く響いてくる音響に、耳を傾けるともなく浸している。とぼとぼと歩きながら、あるいは他のことに思いを巡らしながら、音圧を濾過されたオルガンの力なくゆるんだ響きに、哀しみをたたえたなだらかな旋律に、あるいは礼拝堂に集う様々な物音/響きに、なすがままに肌を慰撫させている。やはり題名は、ここに収められた演奏にふさわしいのかもしれない(最後にそれらしい会話が収められているから‥というのではなく)。見開きカヴァーの2枚組LP。Aine O'Dwyerはやはり謎めいた活動を続けるフォーク・グループUnited Bible Studiesのメンバーとしても活動している。

ディスク・レヴュー | 22:15:35 | トラックバック(0) | コメント(0)
音響再生産の文化的起源 ジョナサン・スターン『聞こえくる過去』刊行!  Cultural Origins of Sound Reproduction Translation of Johonathan Sterne『The Audible Past』 Has Come Out !
 注目すべき書物が出版された。ジョナサン・スターン『聞こえくる過去 音響再生産の文化的起源』(インスクリプト)、音響研究、聴覚文化論の必読文献とされるJohonathan Sterne『The Audible Past Cultural Origins of Sound Reproduction』の全訳である。
 何しろ大部の書物ゆえ、まだ冒頭部分をひとかじりしただけなのだが、それでも本書が極めて充実した内容を持っていることは窺い知れる。今回はその点に絞って、レポートさせていただきたい。
聞こえくる過去1
ジョナサン・スターン『聞こえくる過去 音響再生産の文化的起源』
(訳=中川克志、金子智太郎、谷口文和)


 出版社であるインスクリプトのページ(※)に、本書は次のように紹介されている。
 ※http://www.inscript.co.jp/b1/978-4-900997-58-5

音響再生産は、人間の耳をメカニズムとして模倣することから始まる。それまでの口に耳が取ってかわる。音についての理解と音響再生産の実践に、転換・転倒が起こったのだ。
そして、技術は私たちの聞き方をいかに変えたのか──。
視覚のヘゲモニーに覆いかくされながら、今も続く「耳の黄金期」。『聞こえくる過去』が語る物語は、音、聴覚、聴取が近代的な文化的生活の中心であり、その生活においては、音、聴覚、聴取は、知識、文化、社会組織の近代的な様式の基盤であることが示される。
本書は、オートマタ、聴診器、電話、レコード、ラジオから缶詰製作や死体防腐処理技術等までを含んで、音響再生(音響再生産)の技術・思想・イデオロギーを分析し、ヘッドフォンによるデジタル音源の聴取に代表される現代的聴取の体制の起源と系譜をたどり、音響技術史にとどまらず、メディア論、感性の歴史、近代性の歴史と哲学に新たな視点をもたらしたジョナサン・スターンの代表作である。「音とは、乱雑で政治的な人間の活動圏の所産である」。視覚の特権化を廃し、音の経験に歴史的・社会的・文化的な外的要素を導入することによって、包括的な音の歴史と哲学を描きだした本書は、フーコーの考古学、マクルーハン、キットラー、クレーリーの系譜に新たな地平を拓き、近代の近代性を問いなおす、人文学の記念碑的著作である。図版資料収載。


 これを読んだだけでも魅力的な書物であることがわかるだろう。そして、もしこの紹介文に対し、「ふふん」と鼻を鳴らして、冷ややかな批判的眼差しを向ける方がいるならば、むしろそうしたあなたこそ、本書を手に取るべきなのだ。
 たとえば「技術は私たちの聞き方をいかに変えたのか──」という箇所に「巷に蔓延する一面的な技術決定論ではないのか」との疑いが生じるかもしれない。しかし、スターンは次のように述べている。
 技術の神格化とは、「電話が私たちの仕事のやり方を変えた」とか「フォノグラフが私たちの音楽の聴き方を変えた」といった主張の背後に潜んでいる信仰なのだ。衝撃の物語は、正当にも、技術決定論の一形態として広く批判されてきた。衝撃の物語は因果関係に関する貧弱な見解から生ずるのだ。【本書19ページ】
 音響再生産技術に対して私たちが最も大切に抱いている信仰 − 例えば、音響再生産技術は音とその発生源を分離したとか、録音は死者の声を聞かせてくれる等々 − は、その技術の衝撃を記述する無垢な経験的記述ではなかったし、今もそうではない。それらは人々が音響再生産技術に託した願望だった。この願望は、技術革新と利用のための計画となった。【本書20ページ】
 あるいは「視覚のヘゲモニーに覆いかくされながら」とか「視覚の特権化を廃し」というフレーズに、視覚と聴覚の安易な二項対立、そして前者に対して後者の「復権」を図るというお決まりの脱構築の戦略を感じ取るかもしれない。しかし、それはスターンの姿勢ではない。彼は「聞くことと見ることの差異はしばしば生物学的、精神的、肉体的な事実だと考えられ、音の文化的分析のために必要な出発点であるとほのめかされる」として、一連のリストを「視聴覚連禱」として掲げる。【本書28ページ】
 その一部を参考として以下に掲げよう。

  ○聴覚は主体を巻き込み、視覚は遠近感を提供する。
  ○音は私たちのところにやってくるが、視覚はその対象へ向かう。
  ○聴覚は内面的なものに関わり、視覚は表面に関わる。
  ○聴覚は外側の世界と肉体的に接触する必要があり、
   視覚は外側の世界と距離を取る必要がある。
  ○聴覚は私たちを世界のなかに巻き込む感覚で、
   視覚は私たちを世界から分離する感覚である。

 そして彼は次のように付け加える。「視聴覚連禱」は聴覚(と、さらには話し言葉)をある種の純粋な内的要素を示すものとして理想化するが、それは宗教的な教義に由来するイデオロギー的なものであると。【本書29ページ】 一連のリストが「連禱(Litany)」と名付けられているのは、それがキリスト教的観念に由来することを示すためにほかならない。実際、彼はこの点を突いて、ウォルター・オングの主張を批判し、オング『声の文化と文字の文化』はときには科学的知見の要約のように読めるかもしれないが、オングの初期の著作は、諸感覚に対する彼の主たる興味が神学的関心にあると表明している旨を指摘している。
 しかし、ここで素晴らしいのは、スターンが一連の視聴覚連禱に「キリスト教的」とのレッテルを貼って、えいやっと乱暴に放り捨ててしまうのではなく、次のように述べていることだ。
 おそらく視聴覚連禱の最大の間違いは、聴覚と聴取を同一視していることだ。聴取は方向づけられた後天的な活動である。それは紛れもない文化実践なのだ。聴取は聴覚を必要とするが、たんに聴覚に還元されはしない。【本書33ページ】

 と、ここまで見てきただけでも、本書において思考が実に注意深く深められていることに気づくだろう。本書を読み進めることにより、読者は、私たちが普段、暗黙に前提としてしまっており、あまりにも当たり前なので、もはやそのことに気がつきもしないようなイデオロギー的な条件設定に気づかせてくれる。これは大きな魅力だ。本書が研究者にとって「必読文献」とされるのも納得できる。
 だが、私にとって本書の魅力はそれだけではない。これまで様々な箇所で自分が行き当たっていた課題、そしてそこに至る体験や思考の道筋が、至るところで本書と交錯しているのだ。
 たとえば、金子智太郎と虹釜太郎が主催する「アンビエント・リサーチ」でオートマタについて知り、次いで金子智太郎が通訳を務めたフランシスコ・ロペスのワークショップにおいて、「オートマタがつくられた時には、音響再生産技術を可能とする個々の技術は出揃っていた。にもかかわらず、音響再生産技術が確立されるのはもっと後のことになる。なぜ、その時ではなく、この時だったのか」という問いを投げかけられることになる。その時に思いついた答は、ジャック・デリダが「現前の形而上学」として批判する「自らが話すのを聞く」という回路にとって、音と発生源を分離したアクースマティックな音のあり方自体がタブーだったからではないか‥‥というものだった。
 これに対し、本書もまた「フォノグラフ(と、さらには電話)をつくる基本的な技術は、それらが実際に発明されるよりも少し前に存在していた。それではなぜ、音響再生産技術はまさにそれが登場した時代に登場し、他の時代には登場しなかったのか」という問いを掲げている。【本書12ページ】
 さらに「視聴覚連禱」と関連してデリダが参照されているのは先に触れた通りだが、それだけでなく、音響再生産技術を「音を発生源から分離させ、アクースマティックな音をつくりだす」ものとして定義すべきかどうかの議論において、直接言及はされないが、同様の問題群が再び参照されることになる。その結論としてスターンは、ピエール・シェフェールやマリー・シェーファーの論にもかかわらず、あえて対面のコミュニケーションや個人間の直接性を真正なものとして優位に置き、そこからのズレとして音響再生産技術を位置づけるのではなく、そうした聴覚の超越論的主体を必要としない定義、すなわち「変換器」によって音を何か別のものに変えて、さらにその何かを音に戻すという定義を採用するに至る。【本書34〜37ページ】
 このほかにも、以前にミッシェル・ドネダについて論じる際に引用した「アヴェロンの野生児」の事例(監督のフランソワ・トリュフォー自身が主人公の博士を演じた映画『野性の少年』の元ネタとして知られる)が採りあげられていたり、メルロ=ポンティだけでなく、マルセル・モースについて言及されていたりと、本当に興味は尽きない。

 以下に本書の目次を掲げておくので、ぜひ参考にされたい。また、本書の訳者の一人であり、訳者を代表して「訳者解説」を執筆している中川克志が、次のページで本書の紹介をしているのが、やはり参考になるだろう(冒頭に掲げたインスクリプトによる紹介文は、ここでの紹介や訳者解説を要約する段階で、いささか内容を短絡させてしまったのではないだろうか)。
http://soundstudies.jp/c01/

 また、表象文化学会発行による『表象』09号(月曜社)が、特集「音と聴取のアルケオロジー」を組んでおり、言わば本書の出版に合わせたもののはずなのだが、「大学院生向けの論文ネタ指導」的な色合いが強いせいか、どうも読んでいてピンと来ない。少なくとも私には、この特集の内容を通して、本書の魅力を思い浮かべることはできなかったことを白状しよう。まあ、だからこそ、実際に本書を手に取って読み始めた際に、強い衝撃を受けたのだとも言えるのだろうが。

目次
ハロー!
 音の自然を再考すること─森、倒れた木、現象学について
 音響再生産とは何か 本書の計画
第一章 人の代わりに聞く機械
 委託、共感覚、音の外見
 耳科学、生理学、社会存在論
 ダイアフラム、発声器官、音の機械
 もう一度耳から機械へ:音響再生産の可能性の核心
第二章 聴取の技法
 間接聴診と医学の聴覚文化
 間接聴診─技法の社会的基礎と哲学的基礎
 聴こえるものが知りうるものになる─変わる医学知識の体制
 記号としての音
第三章 聴覚型の技法とメディア
 電信術─「古代と近代」
 広められた聴覚型の技法─もしくはヘッドセット文化小史
第四章 可塑的聴覚性─技術をメディアに
 男性による出産と赤ん坊の機械
 音が産業的問題となる─研究と技術革新の場
 音響再生産の市場形成─実験的メディア・システム
 中産階級の社交における差別化、利便性、様態変化
 可塑性、家庭空間、宣伝活動
 官僚制、介在、国民性
 結論─まずはメディア、その後に技術
第五章 音響忠実性の社会的誕生
 音響再生産のダイアグラムとしてのスタジオとネットワーク
 真正性をもたらすための人工的な工夫
 機能の美学と再生産という事実
 忠実性と純粋聴力の拡張
 電話テストからトーン・テストへ─信頼すべき機械たち
 可変的な真実性
 遂に真なる忠実性へ
 信頼の断絶
第六章 鳴り響く墓
 化学の力で素敵な聴取
 彼のマスタリングされた声
 未来に向けたメッセージ
 「死にゆく文化の声」─音響民族誌と保存の精神
 プロジェクトとしての永続性
結論  聞こえくる未来

聞こえくる過去2_convert_20151101193425


書評/書籍情報 | 19:39:12 | トラックバック(0) | コメント(0)

FC2Ad