ゆるやかな音の流れは深みへと我を運ぶ 知子ソヴァージュ@Ftarriライヴ・レヴュー The Slow Flowing of Sounds Brought Me to the Depth Live Review for Tomoko Sauvage@Ftarri
2015-12-31 Thu
ソウル金浦空港での搭乗開始が遅れたのにはひやりとしたが、それでも無事羽田に到着し、空港から外に出られたのが18時30分。そこから京急→JRと乗り継いで水道橋へ。Ftarriに着いたのが、開演時刻とばかり思っていた19時30分少し前。実際には20時開演でまだ人はいない。サウンド・チェックも終了したのか、津田貴司や知子ソヴァージュの姿も見えない。ふだんはごちゃごちゃしているステージ後ろの壁面が、今日はきれいに片付けられ、白いスクリーンが張られている。その手前にラグが敷かれ、さらに大小の白く輝くセラミックの器が並べられている。マイクスタンドから張り出したアームには、小さな紙コップが4つ、干し柿のように吊り下げられている。右手と左手の奥に新たに持ち込まれたモニター・スピーカーが見える。かなり使い込まれている感じ。
右側の椅子にレッド・ウッドのオートハープが置かれているから、知子ソヴァージュが中央で、津田が右側に位置して演奏するのだろう。離日前日の19日に月光茶房で2人と話した時に、各々のソロに続けてデュオで演奏すると約束してくれたことを思い出す。
器の並ぶすぐ手前まで座布団が敷かれ、その後ろに椅子が3列。CDの並べられた商品台が後ろに下げられている。聴衆が30名を超えても対応可(笑)。彼女のライヴの話が持ち込まれてから、Ftarri店主の鈴木美幸は何度もお客さんが入りきるかな……と心配していた(結果的にまさに30名程度の入りで盛況となった)。そう言えば彼女のセッティングにスピーカーが4つ必要なんだと言っていたのはどうなったんだろう。いつもの細長い円筒状のPAはあるのだけれど(後で津田に確認したところ、Ftarri常備のPAをステレオで津田が使用し、知子ソヴァージュはそれとは別系統で、前方の2台のモニター=ギター・アンプと後方に配置された小型のモニター・スピーカーの4台を使用したとのこと)。


1.津田貴司 ソロ
オートハープの弦を弓で叩くように擦る。短く切れ切れのノイジーな断片が、深いエコーを伴って宙に舞う。その状態がディレイでサンプル&ホールドされ、左奥からひそやかに鳴り響き、さらに音が重ねられる。うっすらとかかったフィードバックが耳の視界を曇らせ、いまここで立ち騒ぐ音からまぶしさを奪う。その結果、水草の茂みが揺れるように、あるいは小魚の群れが沸きあがるように、多数多様の細やかな動きが交錯しながら、グラスハープを思わせるひっそりとゆるやかな響きが浮かび上がることとなった。さらに弦を爪ではじくチリチリとしたしたノイズに、柔らかな襞をたたえた残響のたなびきが加わり、スティールギターの音色が風で運ばれてきたように感じられる。弓を弦に当ててゆるゆると揺らし、あるいは弾ませる。木製のボディをコツコツと叩く。新たな音のかけらが湧きあがり、響きを更新していく。
やがてディレイでホールドされていた層が、潮が引くように次第に薄らいでいき、水を入れたガラス瓶の水音が混ぜ合わされる。たぽたぽ、ぱちゃぱちゃ。やはり水を入れた巻貝の、ガラス瓶よりは深く丸みを帯びた音色が付け加えられる。ポータブル・ラジオの局間ノイズがマイクロフォンとの距離を「演奏」することにより、潮騒の響きを映し出し、いま編み上げられつつある新たな響きの層に厚みをもたらす。とそれも束の間、ディレイが保持する層がふっと掻き消えて、津田の手が振り続けるガラス瓶のか細い水音だけが取り残される。20分程度の演奏。
2.知子ソヴァージュ ソロ
津田が残していた後方壁面の照明を消し、天井右横からの照明だけを残す。一番右手の大きなセラミックの器にスポットが当たり、一際白く輝くとともに、後方のスクリーンにその反射が映り込む。多方向に散乱する光によって、水の中に入れられたハイドロフォン(小型の水中マイクロフォン)の影が右側ぼんやりと淡く浮かび、左手にはそれよりはやや陰影濃く、彼女の横顔がかたちどられている。それらの上を揺らぎ、たゆたい、走り抜ける水面の波立ち/波紋の不定形な移り変わり。
器が木製のスティックで打たれ、あるいは縁を擦られて、その震えが水を揺らし、影を移ろわせ、響きとしてたちのぼる。彼女のCD『Ombrophilia』で、「この響き」に初めて出会った時の驚きがフラッシュバックする。発音体が振動し、それが空中を波動として伝わるというよりも、空気の固まりが直接ゲル化して、眼の前の空間にはまらず、そこからずれて外れ、教会の鐘のように揺れながら震えている……とでも形容するほかない、耳の視界の変容(失調?)に足下が突然液状化したような衝撃を受けた。演奏が少し進むと、彼女の集中が打音自体よりも、その余韻の広がりが生み出すフィードバックに向けられていることが、響きの手触りとして理解されてくる。
『Ombrophilia』はハイドロフォンの入力だけでつくっていて、エアーを介した成分は入っていない。あれができたのは本当にビギナーズ・ラックみたいなもの。今はフィードバックを演奏することにはまっている……と19日の席で彼女は熱く語っていたっけ。
ここでフィードバックは、ギタリストやノイジシャンたちが好んで用いる甲高い歯が浮くような金切り声ではなく、どこかぬらりと濡れたおぼろな輪郭をたたえ、茫洋と不定形で、さらには刻一刻かたちを変えながら、もっぱら中音域の狭い周波数帯を生息場所とし、ふと首をもたげ辺りを眺め回し、あるいは触覚を頼りに這い回る不可思議な生き物の姿をしている(それには水をいれた丸いセラミックの器が部分/分割共振しにくく、振動特性上、「安定」していることが大きく働いているのだろう)。彼女はアシカ使いのようにフィードバックを手なずけ、操り、コップから器に水を注ぐ音やそれがもたらす水や器の振動、同様に指先から水面に水滴をしたたらせる音やそれがもたらす水や器のより微細な振動を混ぜ合わせる。まるで水中に生い茂る海藻の森のゆるやかな揺らぎと水面へと立ち上る幾筋もの気泡の列の震えと、それらをすり抜けて身を翻す海獣のしなやかな動きのように。
先に彼女とギタリストやノイジシャンたちとのフィードバックの用い方の違いに触れたが、彼女はフィードバックを特定の音色や効果として使っていない。代わりにここでは、発音体から(PAを通じて)周囲の空間に放たれた音が再び発音体に返ってくる〈プロセス〉それ自体を「演奏」することが目指されている。そこには演奏空間の様々なアコースティック特性、残響や反射、空間自体のヴォリュームや距離、周囲の物音の混入等々が反映し、プロセスをより豊かなものとするだろう。彼女は教会の空間で演奏するのが好きだと言っていた。単に残響が豊かなだけでなく、広大で様々に距離/角度の異なる反射面を持ち、葉擦れや小鳥の声など周囲から入り込む物音も多種多様であるだろう、その空間は、発音体へと回帰するプロセス・タイムも長く、その中に幾つもの異なる周期のループの層を含み、さらには一度の「対話」の中で、当初の「呼びかけ」に対し多くの「応答」を投げ返してくることだろう。具沢山のバケット・サンドウィッチのように。
だが、それほどの天井高もなく、基本的にはキューブで、間近まで詰めかけた聴衆が音を吸い込んでしまうFtarriの空間では、そうした豊穣さは望むべくもない。フィードバックのサウンド自体が比較的色彩感に乏しく、動き回る音域も限定されていた背景には、そうした理由があるのではないかと思う。そしてその代わりとして、彼女はフィードバックのしなやかで柔軟な動きの推移のうちに、表情を生み出していた。
後半の演奏はフィードバックからいったん離れ、器の水の中にチョーク状のもの(素焼きしたセラミックのスティックで、多孔質のため水分が浸透するにつれ、水中で細かい気泡を持続的に生み出すと後に説明された)を入れて音を出したり、吊り下げられた紙コップから浸出した水滴を下の器に滴らせ、インスタレーション風に音を響かせたりした。前者はぶつぶつとしたつぶやきを含むざらざらとした手触りのうなりであり、虫の羽音の集積のような発振音にも聞こえる。次第に減衰しながら音色が漸次変化していくので、電子音にモジュレーションをかけているようにも。
そうした変化する響きが、水の滴りがつくりだす水琴窟にも似た静謐さを際立たせた響きの空間に置かれる。石庭を思わせるパースペクティヴが開かれ、減衰の果てに希薄化した気泡の音が、蛙のコーラスのように遠くから響いてくる。彼女はもっぱらミキサーを操作して、響きのレイヤーの重ね合わせを編集し、最後、水滴の響きをまるでカリヨンのように鳴り響かせた。30分程度の演奏。

撮影:原田正夫
3.知子ソヴァージュ/津田貴司 デュオ
しばしの休憩をはさんで待望のデュオ。わずか15分程度の短い演奏だったが、私にとってはこの日のハイライトとなった。
津田が水の入ったガラス瓶を揺らしながら指で叩き、透き通った硬質な響きで音階を刻み、そこに水音が入り混じらせて、硬軟取り混ぜた音響の複合体をかたちづくる。この精妙に編み上げられたフィールドをディレイでゆるやかに保持しつつ、次第に中身を入れ替えていく。一方、知子ソヴァージュは器の縁を擦る音をやはり重層的に敷き重ね、そこにフィードバックの溶けたような曖昧さを沁み込ませていく。
ここで注意すべきは、フィードバックが先ほどのソロのように、輪郭をおぼろにしつつも、単独で(他と切り離された独立した存在として)現れているのではなく、他の音響の隙間へと広がり、他へと沁み込んでいくような「派生物」として現れていることだ。その結果、フィードバックはより速やかに色合いと形状を移り変わらせ、鋭く細いアーチともなれば、薄暗く不穏な広がりにも姿を変えて、津田の放つ音を含め周囲に浸透し「汚染」するとともに、これら他なる音響に横切られ変容させられる、先ほどよりもはるかに鋭敏な存在となり得ている。先のソロでは、前述のようにフィードバックはそれ自体一個の生き物のように感じられ、それはそれで見事な演奏であったが、デュオの演奏は、この空間においてフィードバックの持ち得る可能性を、より深く掘り下げていたように思う。
津田が水を入れた巻貝を傾け、ボワッと深い溜め息を漏らすような響きを引き出し、あるいはオートハープの弦をミュートしながらはじいて、赤錆びた音響を奏でる。音色の触覚的な対比や移ろいを基軸とした配置と、音程感を曖昧に宙に吊る展開が、フィードバックにゆるく「汚染」された時空間の中で絶妙に混じり合い、暮れなずむ薄暗さの中で溶け合いながら微妙に浮き沈みを繰り返して、耳の視界を更新していく。ある演奏イメージの完成/完結に向けて隙間を埋めていくのではなく、とめどもなく移り変わりながら、聴き手を別の場所へと運び去る感覚において、私はこのデュオを前半の両者のソロ演奏よりも高く評価したい。それは一言でいえば、聴き手の感覚を驚くほど深いところまで誘い導く演奏だった。そのことは2人の演奏者が互いの音に、いや、いまここの時空間に生成し、遷移/変容し、やがて静寂へと沁み込んでいくすべての音に、いや音だけでなく、空間の匂いや手触りにまで、深く深く没入し、感じ入っていたことを示しているだろう。音を放つだけでなく、響きに聴き入ることによる相互触発。そうしたコミュニオンを成立せしめるに当たって、津田は彼女の最高の共同作業者たり得ていたと思う。
4.知子ソヴァージュ/津田貴司/松本一哉 トリオ
最後に当日のサプライズとして、つい先頃、ソロCD『水のかたち』をリリースした打楽器奏者/サウンドアーティスト松本一哉を加えたトリオによる15分ほどの演奏が行われた。
津田はもっぱらオートハープの弓弾きに専念し、かすれた鳴りから軋み、素早く滑走するフラジオの不安定な軌跡等、幅広い音色スペクトルに渡る、しかし希薄でおぼろな音色を振り撒く。一方、松本は金属製の自作音具から澄んだ乾いた鳴りやビー玉を転がすような響き、さらには砂を撒いたり布地を擦るような摩擦音を引き出す。いずれも音素材を限定し、音の明度/彩度を抑制し、響きを手元にとどめる慎ましい演奏。
繰り返し繰り返し寄せては返し、ゆったりとたゆたい、ゆるやかに息づくうねり/起伏が、これらの音響の淡く溶けやすいきらめきを流れに乗せてゆるゆると運んでいく。知子ソヴァージュは器の打音や摩擦音の希薄な余韻を編み合わせて、こうした流れの祖型をかたちづくると、そこに微かな光を放つフィードバックを配合して、後はほとんど音を付け加えることなく、その調節に専念していた。それは響きの育まれるひとつの生態系であり、生育の具合を見通しながら孵卵器の温度調節を図ることが、何よりも大切であるというように。ここでフィードバックは先立つデュオにおけるそれと同様の力能を発揮している。先のデュオのちょっとぞっとするような深みに比べれば、もう少し中庸を保った、響きの心地よさに身を委ねたものではあるけれど、これはこれで素晴らしい演奏だったと言うほかはない。
知子ソヴァージュの帰国ライヴは7年ぶりのことであるという。今回、年末年始の慌ただしい時期の短い期間に2回のコンサートを行うのは、さぞ大変だったのではないかと思う。どうもお疲れさまでした。しかし、聴き手は勝手なもので、今回があれば、また次回をぜひ……と願ってしまうのだ。彼女とFacebook上のフレンドである益子博之がライヴ終了後に「次回は7年後と言わず、せめて2年後ぐらいに…」と直接「要望」を述べていたが、それはこの日の聴衆、いや彼女の音楽に関心を寄せるすべての聴き手の共通の願いだろう。幸い彼女はレコーディング作業を進めていて、これまでに素材は結構蓄積されているとのことなので、近い将来(来年中?)に、『Ombrophilia』に続く2作目のCDを聴くことができるかもしれない。

Tomoko Sauvage『Ombrophilia』CD
(廃盤のため入手困難)

同再発LP(Ftarriに在庫あり)
2015年12月26日(土)
Ftarri水道橋店
知子ソヴァージュ/津田貴司/松本一哉
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失われるものあれば、新たに見出されるものもあり − 川内倫子展『Let's sing a song our bodies know』レヴュー Some Are Lost, Some Are Newly Found − Review for Rinko Kawauchi Exhibition " Let's sing a song our bodies know "
2015-12-01 Tue
津田貴司が音楽を担当した川内倫子展『Let's sing a song our bodies know』に行ってきた。GUCCI店内に入るのに気後れして、表である通り側ではなく、地下街からの出口に近い裏側から高野ビルに入り、店の外にあるエレベーターでギャラリーのある3階に上がると、エレベーター・ホールからのドアに鍵がかかっている。仕方なく戻り、GUCCIの店員にギャラリーに行きたい旨を告げると、笑顔でポストカードを渡され、店内のエスカレーターを案内される。どう見てもGUCCIなんて買いそうもない私でも親切に案内してもらえたので、勇気を出してぜひ。
さて、一番伝えなければならないことは今書いたので、後は印象を少々。
会場内に入ると、暗がりの中に幾つもの矩形の明るみが浮かんでいる。インターネット上の案内記事を見て、てっきり写真展とばっかり思っていたので、この空間の設えにまず驚かされた。ホワイト・キューブではなく、ブラック・キューブにバック・ライトで視覚イメージを展示するのかと。床に箱を置くように展示された作品があり、壁に掛けられた作品があり、壁面に投影された不思議な色合いの照明の移ろいが、風が通うような動きをもたらしている。

https://www.wwdjapan.com/fashion/2015/11/20/00018774.htmlより転載
近くにあった作品のひとつに近づいて、初めてそれが写真=静止映像ではなく、動画であることに気づく。風に揺らぐ蜘蛛の巣の繊細な光。風に散るタンポポの綿毛。雲に横切られる満月。一定の持続でループされているのだろう、永遠に繰り返されるあえかな運動、動き、震え。ここには音は存在しない。
たとえ水面を打つ雨粒がつくりだす文様の重なり/広がりや、平らかに広く開けた火口からたちのぼる噴煙、流れ移りかたちを変え続ける鳥の群れといったように、何らかの「鳴り」や「響き」が想定され得るシークェンスであっても、それは変わらない。さりげない運動が一瞥の下に明々と浮かび上がり、その視覚の鮮明さゆえに聴覚は遠のく。滔々とうねり渦巻く潮目。夜空に凍りついたように炸裂する花火。まだ臍の緒を付けたままの新生児。ショベルカーがもぎ取ろうと揺するコンクリートの壁。
だが、これらの映像は、写真作品が求めている「凝視」を、その前で立ち止まり、映された世界の奥底まで覗き込む視線を待ち望んでいないように思われる。揺れる枝の向こうから射し込む木洩れ陽の震え。木の芽型に尖ったシャボン玉の先端から滑り落ちる微細な泡の滴り。果てしなく広がる雲海のうごめき。薄暗がりに明滅する赤い斑紋。巻き上げられ、きらきらと舞踊る光の砕片。スケールも様々で、時に輪郭すら定かでなく、何が写っているのかもわからない映像の散らばりは、ふっふっと移ろいゆく眼差しがその一瞬をとらえ、次々に重ね合わせ、動きの響き合いを意識下で感じ取るべきものではないのか。
キャメラの視線は、どの光景にも入れ込まず、しかるべき距離を保ち、なおかつ視界を対象化し固定してしまうことのない微妙な間合いに佇んでいる。それは各映像をゆるやかに結びつけながら、同時にきっぱりと切り離している。だからそこには「物語」が生まれない。蟻の群れをとらえた映像が「世界からこぼれ落ち乾き切った無名の視線」というような「物語」にはまり込む手前で、和紙を紐で綴じる針作業の手さばきへと切り替わる。薄暗がりに沈む赤ん坊の寝顔は、雪の結晶が貼り付いたガラス窓の接写と入れ替わる。蜘蛛の巣の幾何学文様が、下方から浮かび上がる無数の泡に切り替わり、やがてそれも車窓に映る田畑の風景に移り変わっていく。この展覧会を案内するポストカードに掲載されている、少女の掌が包み込む人形の頭部の写真は、今回の展示作品の中で最も物語喚起力の強い作品だと思うが、その映像(少女の掌は人形の頭部をあやすように慈しむ)も次々と押し寄せ渦を巻く波の映像に洗い流されてしまう。
この少女と同一人物らしき姿は、草原の道をひとり歩き、あるいは渓流に遊びと、幾つかの映像に共通して現れるのだが、そこに線を成して浮かび上がるものはない。むしろ、各映像は固有の繰り返しの中にとどまって、束の間結び合いながら、すぐにさらさらと解けていくようだ。壁面に投影されているのが、全作品の中で最も抽象的な、薄暗がりに明滅する赤い斑紋と、巻き上げられきらきらと舞踊る光の砕片の映像であるのは、この部屋を満たしている物語的/感情的湿度の低さを物語っていよう。


http://www.fashionsnap.com/news/2015-11-16/rinkokawauchi-gucci/より転載
https://www.facebook.com/gucci.jp/photos/a.964396970295421.1073742025.123789177689542/964397020295416/より転載
むしろ、このようにそれぞれの映像が独立したアトムであり、それゆえ解けていくしかない作品世界をゆるやかに包んでいるのは、津田貴司による音であるだろう。虫の声や波の音、鳥の囀りのゆるゆるとした持続が、天井に設置された反射板型の無指向性スピーカーから散布されて切り離された映像の間に広がり、さらにギターの響きがゆったりと浮上し、ゴトンゴトンと低く鳴り続けるエスカレーターの動作音と交錯する。
ここで誤解のないようにあらかじめ断っておくならば、ここで体験できると映像と音響の組合せは、川内の映像作品が自然の風景をちりばめたものだから、そこに自然音を合わせた‥‥というような安易な物ではない。先に述べたように川内の映像は音を感じさせない。この展示空間に津田がもたらした音響は、個々の作品に説明的な「背景」として、曖昧な「イメージ」として、何ともわかりやすい「物語」として結びつくことなく、あくまでその間に響いている。映像と音響は明らかに別の層を動いており、だからこそ、映像が開いたある想像空間にそれとは全く別の音色が鳴り響き、ある音響がふとつくりだした時間のエアポケットに異なる視角イメージが転がり込んで、不可思議なマリアージュをもたらすことが起こり得るのだ。
ここでひとつ白状しておけば、私は津田の作品を結構聴き込んでおり、特にhofli名義の最新作『十二ヶ月のフラジャイル』は、一線をきっぱりと突き抜けた快作と高く評価していたのだが、そこから抜粋された曲が会場でかけられていたことに全く気がつかなかった。もともとhofli名義の作品は物語的な想像力/映像喚起力の高さを特徴としているのだが、『十二ヶ月のフラジャイル』はさらにそうした聴き手に対する触発の力が高まって、まるですぐれた映画作品のように、映像それ自体よりも、映像と映像の間に働く切断や衝突、召喚や想起の力を強く感じさせるところがあったのだが、この会場ではそうした力の作動は感じられなかった。曲順をばらばらにし、他の作品の曲とも合わせて並べ替えたために、シークェンスの持つ力が全く変わってしまったためもあろう。しかし一番大きな違いは、やはりここ、川内倫子展ではあらかじめ川内による映像が視覚イメージとして与えられていたことではなかったか。視覚を強力に喚起する音響と、聴覚を遠ざける映像が切り結び、互いにこれまで持っていたある部分を致命的に失い、代わりにこれまで持つことのなかった別の特性、新たな力能を手に入れる。コラボレーションとは本来、既知の要素の単なる足し算ではなく、こうした結果の読めない冒険ではなかったか。それにしても、誰から紹介されたわけでもなく、ただ音盤を聴いただけで、共同作業者に津田を選んだ川内の直感の冴えと、これまでの自分をあえて打ち壊すことを辞さない勇気に拍手を送りたい。この冒険は両者にとって確実に新たな一歩を生んだと言えるだろう。
会場:グッチ新宿 3階イベントスペース
新宿区新宿3-26-11 新宿高野ビル
会期:2015年11月21日(土)〜12月13日(日) 会期中無休
11:00〜20:00(最終入場19:30) 入場無料