2016-02-29 Mon
2月25日に発売された文藝別冊「イエス プログレッシヴ・ロックの奇跡」(河出書房新社)に執筆した。文藝別冊は最近プログレづいていて、昨年1月のピンク・フロイド(増補版)、同7月のキング・クリムゾンに続く特集企画となっている。文藝別冊に初めて原稿を書いたのが、2013年6月発行のデヴィッド・ボウイ特集の号(現在「品切れ中」というのが惜しまれるが)で、その時は、今はなき野心的音楽雑誌『ユリシーズ』のチームが編集に当たったため、ヒストリーとディスコグラフィに沿った作品紹介を軸にしながら、かなりトリヴィアルなところまで突っ込んだ(あるいは関係を捏造した)関連作品レヴュー等、錯綜したマンダラ状の構成がなされていた。こうした編集姿勢は、文藝別冊のものというよりは、やはり『ユリシーズ』のものだったようで、そうした構えは同じ河出書房新社から単行本として刊行された『謎解き レッド・ツェッペリン』には脈々と引き継がれたものの、文藝別冊本体が次に特集したドアーズ(2014年12月発行)では、書き手がそれぞれ自由に書くようになっていた。
実はこのドアーズ特集にも、私は「ドアーズ - アメリカン・ゴシックの血脈」なる一文を執筆している。いきなり1987年のYBO²のライヴで女装した北村昌士がドアーズ「ジ・エンド」を歌う場面で幕を開けるという、ある種ギミックな構成だが、それも概念としての「ゴシック」に捧げたが故の所業。かなり水増しして語られるジャズとの関係、決してジム・モリソンのワンマン・バンドではない彼らのアンサンブルのあり方、単に時代背景として済まされがちなヴェトナム戦争や『地獄の黙示録』との関係、あるいはあえて言及されないポール・ロスチャイルドによるプロデュース・ワークの位置づけ等、結構突っ込んで論じていると、少なくとも自分では思う、と言うのも、例によって私はドアーズの熱烈なファンではなく、だからこそ核心を貫く批評によってしか、対象に報いることができないからだ。
このドアーズ特集は、それを待ち焦がれていた熱烈なドアーズ・ファン(特にジム・モリソン信者)にはどうも不評だったようで、それもそのはず、「いまドアーズってことないよね」的な論稿が過半を占めているのだ。別に熱く想いを語れ!とは言わないけれども(それは自分自身ができないからでもある)、だったら、せめて批評的高みを目指すなり、史実を細かく掘り下げるなり、あるいは徹底的に罵倒するなり、オマージュの捧げ方はあるものだろう。全体として、執筆者たちがとまどいながらお茶を濁しているのが「ミエミエ」なのが悲しい。それは時代の空気とやらを敏感に察して、恥じらっているのだろうか。ドアーズに関する著書もあり、いわばこの号の守護天使として召喚されたはずの野澤収ですら、妙に衒いを含んで歯切れが悪い。
なので、正直、イエスも斜に構えた「いまなぜイエス?」論ばかりになるのではないかと心配したのだが、それは杞憂に終わったようだ。ほとんど思い出話の焼き直しで終わってしまう論稿こそあるものの(それはまあオヤジ向けだからしょうがないのだろう。むしろそうした飲み屋で語るような論の方が望まれているのかもしれない。私には書けないし、書く気もさらさらないのだが)、概ねイエスの評価すべき特質をストレートに、衒いなく取り扱っている。特筆すべきは、やはり椹木野衣「クリスチャン・フィッシュとしての『イエス』」だろうか。2014年の来日公演の危うさから語り起こすというゆるい導入部から、スティーヴ・ハウのよれよれぶりを枕に振って、クリス・スクワイアに話が及ぶと、一気に彼のベース演奏の核心に入り込む筆致は流石と言えよう。彼は前述のドアーズ特集でも、彼らのベースレス編成がもたらす必然性を軸に、優れた論考をものしていた。
今回、対象を正面切って取り扱った論稿が並んだことで、グループにおける役割分担、特にジョン・アンダーソンとクリス・スクワイアの関係性(特に前者の壮大過ぎるヴィジョン)、また、椹木野衣も採りあげていたアンサンブルの核となるスクワイアのベースの特質、あるいは彼らの曲をサウンドトラックに用いた映画『バッファロー '66』(ヴィセント・ギャロ監督作品)への言及等々、論点が重なりあっているのが興味深い。実はこれらはすべて私の執筆した論稿「イエス - 爆裂するノンセンス、引き裂かれた牧歌」でも採りあげている論点なのだ。
今回の執筆依頼を受けた時にまず思ったのは、イエスの音楽を正面から扱って、なおかつ新たな切り口を示すことは、いま果たして可能だろうか‥‥ということだった。私自身以前に『200CD プログレッシヴ・ロック』(立風書房)で『危機』のレヴューを書いた際に、基本的な論点は提出してしまっている。それを更新することは可能なのかと。
しばらく猶予をいただいてリサーチした結果、私は可能と判断した。その結果が、今回の論稿である。先に挙げた複数の論点のうちひとつを、あるいはニ、三を採りあげるのではなく、それらを緊密に連関させるところから、イエスの音楽をドライヴしている力の流れを描き出せるのではないか‥‥というのが、その目論見だった。
冒頭は『バッファロー '66』のストリップ・クラブのシーンから始まる。そこで流れる「燃える朝焼け」が映像とどう拮抗しているのか、ストリップ・ミュージックとして用いられることが、イエスの音楽の特質をどう照射しているのか‥‥から論は書き進められる。
そこで照らし出されたイエス・ミュージックの特質は、次章で「非シンフォニック性」として別の角度から照明を当てられる。これは先の『200CD プログレッシヴ・ロック』で触れていた論点だが、ここではスクワイアのベース演奏の核心に触れながら、またルネサンス音楽を引き合いに出しながら深められる。
ロジャー・ディーンによるヴィジュアルが、イエスの何を映し出していたのかに関する考察をブリッジとして、いよいよ論はジョン・アンダーソンのヴィジョンへと及ぶ。通例トリヴィアとして紹介されるだけの、『危機』とヘルマン・ヘッセ『シッダールタ』の関係を具体的に検証し、エリザベス・シューウェルが解剖した「ノンセンス」と同じくウィリアム・エンプソンが腑分けした「牧歌」の両概念によって、入り組んだ絡み合いを解きほぐせば、スクワイアをはじめとする優れた音楽家たちに、溢れ出す豊かなヴィジョンを次から次に難題として押し付ける「非・音楽家」アンダーソンという対比が見えてくる。これこそがイエスの駆動原理なのだ。
ちなみにこの論稿で私は事実上『危機』全曲のほかは、『イエス・ソングス』、『リレイヤー』、そして『こわれもの』から1曲ずつにしか言及していない。彼らの達成した音楽の高みは、特集の表題通り、短く燃え尽きた「奇跡」にほかならないとみなすからである。





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2016-02-28 Sun
津田貴司がバンド(?)を始めると言う。初のライヴが3月19日(土)に水道橋FTARRIで行われる。FTARRIのライヴ情報ページによると、メンバーはtamaru (ベース・ギター)、hofli [津田貴司] (エレクトリック・ハープ)、kazuya matsumoto [松本一哉] (パーカッション)の3名。彼から、こんな便りが届いた。
あたらしくトリオ編成の活動をはじめます。
ユニットと言えるほど定期的な活動ができるかは未定ですが、久しぶりに「楽器を演奏する」トリオです。
これまで綺羅星のごとき数々の音響彫刻作品をリリースする一方、長きにわたってベースギターによる独自の演奏を追究してきたベテランtamaru。このほど全篇野外録音、パーカッションと自然音との共演という内容のソロアルバム『水のかたち』をspekkからリリースしたkazuya matsumoto。そして私はこのところソロ演奏の際に使用してきたエレクトリックハープによって、これまでにない硬質で鉱物的な演奏を目指します。
津田に聞いてみると、tamaruとはすでに15年来の付き合いだと言うし、松本とも以前に彼の企画で2回ほど共演したことがあるとのことだから、今回の「バンド」の構想は、彼の活動の中で、時間をかけて徐々に形になってきたものなのだろう。
それでも傍目から見ていると、『松籟夜話』番外編でtamaruの音盤をプレイすることになり、tamaru本人も会場に来てくれたことや、先日の『松籟夜話』第五夜でもジム・オルークの音源に照らし出されて、やはりtamaruのトラックをプレイしたこと。さらにはTomoko Sauvageの7年ぶりの帰国の機会をとらえたライヴにおける彼女と津田のデュオに、飛び入り風に松本が参加したことなどがあり、短い時間でぱたぱたと切り替わっていく光景の中、自分の眼の前で今回の「バンド」の組み立てが出来上がり、ぽーんと飛び出してきたような興奮を覚える。
tamaruも津田=hofliも松本も、下手をすると「アンビエント」というコンビニでいろいろ売ってるサプリメントみたいな「機能性音楽」のジャンルにくくられかねず、こうした事態に対してはそれぞれに反発してもいるのだが、今回の「バンド」は、彼らの音楽と「機能性音楽」としてのアンビエントの決定的な違いを明らかにしてくれることだろう。
これまで津田=hofliの音楽については、このブログでも何度となく触れてきた。松本については先に挙げたTomoko Sauvage, 津田貴司とのライヴについてレヴューしているので(※1)、ぜひ参照していただければと思う。tamaruについては、彼の音楽ではなく映像作品について言及したことがある(※2)。
※1 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-385.html
※2 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-333.html
その際の言及から一部を抜粋してみよう。
続いての画面はよくわからない。細かい市松的な模様が向こうへと起伏を持ってなだらかに続いているように見える。粒子が荒れていて、ウイルスの電子顕微鏡写真みたいにも見える。陰影があるようでないようで、光源の位置のよくわからない明るさが希薄に漂っている。立体なのか平面なのか、大きさや距離、奥行きもよくわからない。ただ、その前の鯉の画像と比較して、時間の流れていない感じが際立っている。しかし、動きがまったくないわけではない。ミクロにちらつくような、溶け広がってにじむような動きが、背後に潜んでいるように感じられる。ピントが合ったりずれたりする感覚があり、画面全体が静かに息づき脈動しているようにも思われる。しかし、それは観客の視覚の問題かもしれず、暗がりを見詰めていて暗くなってきたかと思うと、知らず知らずのうちに眼を細めていた‥‥といった感じにも似ている。「AHA動画」を眺めているみたいに、気づかないところで何かが姿を変えているようにも思われ、落ち着かないことこの上ない。すべては運動の只中にあるというベルクソン的なヴィジョン? あるいは腐食のようなミクロで緩慢な変化? そうした疑念と不安が画面全体に薄く薄く溶け広がり、輪郭は震え滲みちらつき、ミクロな脈動が全景に波及するようでいて、再び見直すと何事もなかったように整列している。
細部で常に何かが立ち騒ぎ、全体を不安定に流動化させているようでいて、決定的なことは何も起こらない宙吊りの時間。カタストロフなきサスペンス。それはレヴューの中で種明かしされているように、静止画像の画調を変化させながら、それをハイビジョン・ヴィデオで撮影するという、びっくりするほど簡素な仕掛けで生み出されているのだが、それでも先に述べたようなミクロな変容は、映像を懸命にスキャンし続ける視線が、そこで出会う(映像から投げかけられる)無数の問いに答え続けるところにしか、開かれることはないだろう。
津田が今回の「バンド」の活動開始に際して立ち上げたFacebookページ(※3)で、2007年に行われたtamaruへのインタヴュー(※4)を紹介している。
※3 https://www.facebook.com/events/1572808179709038/1577418705914652/
※4 http://japanimprov.com/tamaru/tamaruj/interview.html
そこで津田は「現在の演奏スタイル(振動しているベースの弦に指を触れることによる高次倍音奏法)は、この時点での演奏ともすでに大きくかけ離れているわけですが、演奏活動の芯にある姿勢は今も変わらないように思います。」とコメントしているのだが、実際、インタヴューに眼を通すと、非常に興味深い発言に出会うことができる。
ボリュームペダルでゆっくり立ち上げたベースギターのロングトーンを、タイムの長いディレイに供給していく。供給の継ぎ目が判りにくいように繰り返して、シームレスなドローン風サウンドにする、というのが、現在の自分の演奏における中心的なスタイルです。これは、思いついたことをいろいろと試すうちに辿り着いた手法です。
時おりエフェクターが増えたり減ったり、マイナーチェンジを施すことはありますが、基本的に同じセッティングで、同じスタイルの演奏を長く続けています。その理由は2つあります。
ひとつは、この演奏が自分に対して問題提起をしてくるためです。演るたびにいろいろ発見がある、飽きない、いまだに面白い、などの言い方を全て「問題提起」と言ってしまっていいと思います。このセッティングは、演奏と出音の関係や、演奏の中での呼吸について考察することを求めてきますし、重畳するディレイ音による微分音ハーモニーや、倍音構成や定位の不可思議な変化は、自分が予期しないものとの対話のようです。また、調性感/無調感および拍意識の揺らぎや、持続音によるドラマツルギーの構築/放棄など、即興行為の立ち位置の問題として考えさせられるところも多くあります。
もうひとつの理由は、時に表現の探究が、スタイル更新への執心にすり替わってしまう危険性を感じているため、自分はスタイルというものに対して慎重に接しているということです。ただ、それでも変わっていってしまうもの、変えざるを得ないものはあると思います。
即興で演奏するということが、いつの間にか「事前の準備なしに演奏する」ことにすり替えられ、かつそのこと自体にもうすでに至上の価値が存しているかのように語られ、しかもその内容は聴衆の期待を裏切ること、すなわちtamaruの発言において賢明にも慎重に遠ざけられている「スタイル更新」(いや闇雲な消費と言った方がいいだろうか)への傾向でしかないような時代にあって、この発言は重く確かな手触りを与えてくれる。即興演奏とは、セッティングにより開始前から保証されるようなものではなく、飛び立った後に出会う無数の問いに、その都度答えていくことなのだと。この点において、tamaruの「芯」はいささかも揺らぐことなく、見事に持続していると言えよう。
「エッジが立った」とか、「ハード・エッジな」ということがどういうことなのか、当然のことながら、それはもはや大音量を出すとか、ノイズを垂れ流すとか、ステージで暴れるというようなことではたどり着きようもない地点なのだが、そのことに明瞭に遭遇するまたとない機会となるのではないかと期待する。
だが、それにしても、なぜ「三つの梨」なのだろう。trois, poiresという単語を見ると、エリック・サティ「梨の形をした三つ(の小品)」が反射的に浮かんでしまうのだが。「家具の音楽」的な静謐な佇まいのうちに、毒を仕込んだサティと共謀して、サプリメント的な癒しの「アンビエント」への反発/攻撃を標榜しているのだろうか。それとも梨の、ユーモラスな丸みを帯びながらも、よく見るとジャガイモのようにごつごつとした凹凸をたたえた輪郭を、林檎のすっきりと硬質な輪郭と対比させているのだろうか。林檎の目の覚めるような赤みや黄色みに比べ、梨の肌は黄緑のような薄茶色のような鈍く金色に光るような、曖昧に入り混じりながら、互いに打ち消し合う沈んだ色合いをしている。それらが三つ並んだ静物画は、ちょうどジョルジョ・モランディの埃にくすんだ柔らかな色彩の壜たちの集いを思わせる。
先に触れたtamaruの映像作品の中でも、私は次のようにモランディを引き合いに出している。不思議な符合ではある。
画面上の事物の、揺らぎをはらみつつも空間にはまり込んだような静謐な佇まいは、ジョルジォ・モランディ的な魅力をたたえている一方で、その揺らぎはとても視覚では受け止めきれず、手指の間からこぼれていく微細な豊かさを誇っている。






梨(上段)とモランディ作品(下段) ちなみに上段左端はセザンヌによる。
2016年3月19日(土)
『Les Trois Poires』
tamaru (ベース・ギター)
hofli [津田貴司] (エレクトリック・ハープ)
kazuya matsumoto [松本一哉] (パーカッション)
水道橋FTARRI
19:30開場 20:00開演
1500円
『松籟夜話』第五夜「ジム・オルークを光源として、音と響きの間を照らし出す」来場御礼 Thank You for Coming to Listening Event "Syorai Yawa" the Fifth Night "Jim O'Rourke Illuminates between Sound and Tone As a Light Source"
2016-02-11 Thu
冷え込み厳しい中、2月7日(日)開催の『松籟夜話』第五夜にご来場いただいた皆様、どうもありがとうございました。3時間半の長丁場お疲れ様でした。初めておいでの方もいらして、主催者としてうれしい限りです。この手のコアなイヴェントとしては、女性比率の高さにもびっくり。今回の『松籟夜話』は前回に引き続き、青山「月光茶房」に隣接するスペースで、ECMライブラリともなっている「ビブリオテカ・ムタツミンダ」で行いました。前回は会場備え付けのスピーカーであるソナス・ファーベル「ミニマ」が素晴らしいパフォーマンスを聴かせてくれましたが、今回はギャラリー白線での第一夜~第三夜を飾った歸山幸輔特製スピーカーが復活します。
モノラル仕様なので中抜けのない強みを活かして、前回とは異なりスペースを横長に使うこととし、スピーカーをつないでサウンドをチェックすると、これが素晴らしい。コンクリート床に直置きでも全然平気。試聴でかかったデヴィッド・シルヴィアンは本人が泣いて喜びそうな色気のある声でした。モノラルなのに奥行きや広がりがあるし、何より音に生々しい力が漲っています。特にオルーク作品に見られる極端に小さな音が、さらに小さく、しかし力強く張り詰めて聴こえるというマジカルな魅力。今回の主役は他の誰よりも、このスピーカーでした。

開演前のサウンドチェック 撮影:原田正夫
それでは当日のプレイリストを掲げておきます。コメントは構成案を元に作成しているので、当日の発言そのままではありません。なお、当日の様子については多田雅範が自身のブログでリポートしてくれているので、ぜひ併せてご参照ください。
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20160207
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20160208
開演前BGM

オルークの熱愛するユーゴスラヴィア(当時)の映画監督ドゥシャン・マカヴェイエフによる前衛アート映画のサウンドトラック(作編曲はギリシャの名匠マノス・ハジダキス)。子どものコーラスをフィーチャーしたB面は、めくるめく幻想が白昼夢のように希薄に移ろう。
0 イントロダクション
○資料に掲げたオルークによるミニマリスト10選にマイルス・デイヴィス『ゲット・アップ・ウィズ・イット』A面に収められた長大な「ヒー・ラヴド・ヒム・マッドリー」が掲げられているように、彼はここでミニマル・ミュージックをジャンルの定義や人脈関係図ではなく、反復と言う行為や充満する響きの強度による類比によりとらえている。そうしたオルークの耳との出会いからまず。

福島が初めて聴いたオルークの録音。集団によるフリー・インプロヴィゼーションでありながら、対戦的ではなく、混沌に向かうのでもない、レイヤーの敷き重ねや緩やかな相互浸透によるサウンドの変容。このトラックは「Warm Grey To Pale Yellow」と題され、他の曲題もすべて色名であり、光の明滅とともに色彩がゆっくりと混じり合い、移り変わる演奏の推移を象徴している。「新世代」登場の予感。


撮影:原田正夫
1 ジム・オルークの耳を借りる
○これから福島の選曲により、ジム・オルーク自身の作品、彼が演奏やミックスに参加した作品、彼の愛聴する作品等と、これへの補助線として津田が選曲した作品を、次の4つの視点から聴いていきます。
・沈黙/ざわめき/環境
・振動/マテリアルな現象
・溶解/変容/襞/気象/分泌/派生
・「無声映画」的推移/モンタージュ
○最初は福島と津田の耳の立ち位置の違いが現れてくるでしょう。けれど次第に皆さんは、オルークの耳を通じて、オルークの肩越しに世界を眺めることになります。それは「オルークの耳の形成史をたどる」ということでは、必ずしもありません。今のオルークが到達点として設定されていて、これに向けて聴いていくということは意識していません。
○今回、資料として先頃刊行された『ジム・オルーク完全読本』から、全編随一の読みどころである虹釜太郎さんのインタヴューをお配りしていますが、その虹釜さんが以前、猫のトラヴェローグの話をしていました。猫の首に超小型カメラを着けて、自動的に写真を撮影していくと、猫の生活圏や生態が見えてくる。あ、猫の集会に参加してるとか、ここで日向ぼっこしてる‥とか。実際、夜、屋外で猫を抱いて座っていると、互いの感覚が浸透しあって、猫が見ている世界が見えてくるような気がします。今回もそれと同じで、オルークという生物の耳を借りると、世界はどのように見えるか‥という体験をしていただければと思います。
2 沈黙/ざわめき/環境
○そこに潜む何者かの気配を見極めようと闇に凝らす眼差し、そばだてられる耳。浮き沈みする不定形の影。
○外界に意識を集中して、空っぽになった空白にどこからともなく満ちてくるざわめき。身体をゆったりと浸す外なのか内なのかわからない響きの広がり。
○それは一方では、厳格なカトリックの家庭に育ち、友達もなく、自室にひとり籠って電子音楽やミュジック・コンクレート、フリー・ジャズやフリー・インプロヴィゼーションの聴取に没頭し続けた孤独さの産物(微熱の中で研ぎ澄まされた聴覚)であり、他方では後で言及する派生的な変容や(無)意識の流れによる映画的推移が基づく「潜在的なもの」の可視化(「ソラリスの海」のような)にほかならない。

薄暗がりにひっそりと息づく響きの移り変わり。コンピレーションの中で、このオルークのトラックだけとても音が小さい。遠くで音が鳴って、そのまま頭上を通り過ぎていく響きは、壁の穴から顔を出したネズミが聴いている音世界を、あるいは床に放り出され横倒しのままのヴィデオ・カメラの映像を思わせる。

ライブ演奏ではベースギターを用いるTAMARUだが、音響彫刻的な作品ではいったい何の音をどう加工したものなのか。「これは何の音か」という音源の同定が意味を為さない、「音そのものに語らしめる」志向はこのころから変わらない。

ギターとダンスの屋外ライヴの録音。ギターとダンスの共演という聴こえない関係に耳を傾けること。さらには足元を洗い続ける交通騒音や屋根を激しく叩く豪雨に侵食/変容され、時には全く掻き消されてしまう音、物理的に聞こえなくなってしまう音に耳を凝らすこと。当初、記録用のカセットテープだけが制作され、おそらくはオルークの提言で、当時彼と親交の深かったジョン・フェイヒーのレーベルRevenantから再発された。Revenantは初期ブルースのほか、本作やセシル・テイラーの作品を、いずれも「Raw Music(生な音楽)」としてリリースしている。

テープ・ヒスに希薄に満たされた静寂に、空間が綻びるようにふっと響きが現れ る。内語がふと漏れたと思しき声、木の軋み息漏れのような管楽器‥。ざわめきの陰からふと姿を現す得体の知れないもの。幻聴としか思えないそれはもともと空間の一部であり、その本性であるに過ぎない。心霊現象的。打合せ時に会場備え付けのスピーカーで聴いた時よりもダイナミクスの振れ幅が大きくなり、今回、小さな音はさらに小さく聴こえた。

広大な空間ヴォリュームを活かしたアメフォンの録音と庄司広光のサウンドモジュレーションがやはり心霊現象的な音響を産み出す。やはり打合せ時よりも音の揺らぎがくっきりと聴こえ、中空できらめいていた。
3 振動/マテリアルな現象
○空間に放たれた音を、発音体を指し示す記号としてではなく、メッセージや情念の運び手でもなく、マテリアルな現象としてきっぱりと凝視する。

叩かれ擦られた金属弦の甘皮を剥いだ鮮烈な響き。フリー・インプロヴィゼーションのクリシェに従って、サックス本来の音から遠ざかり、サウンドの破片をまき散らしながら迂回を続けるグスタフソンに対し、オルークはギターが「すっぴん」のままギターとして鳴り響いてしまうことを恐れることなく、いきなり中心に躍り込む。インプロヴィゼーションの文脈に収まりきれない未抽象化の「裸形」のギター。

武満徹「コロナ」は4枚の透明な円盤を回転させながら重ね合わせる図形楽譜による作品。プリペアド・ピアノの打鍵とハモンド・オルガンの持続の対比。張り詰めた振動のピースがかたちづくる音のパズル。

札幌モエレ沼公園にあるガラス張りのピラミッド内部という、極端に残響の長い特異な音響条件の下でのセッション。空間/距離を感じさせる張り詰めた音響が空間にたなびく様は(05)(06)の線とつながる。

床に置かれた鉄板の振動をピエゾ・マイクで拾った作品。地下鉄と思しき響きがふと通り過ぎる。角田らしい距離を置いて冷ややかに見詰める視線が、手法やプロセスは全く異なるにもかかわらず、結果として(05(06)(09)に連なる中空にたゆたう響きをもたらす。



撮影:原田正夫
4 インターミッション

エレクトリック・ギターのふうわりとした響きが無重力状態でアンビエントに浮遊する。こうした傾向を確立した決定的作品。ポルトガルのマイナー・レーベルからリリースされた第一作をオルークが自身のレーベルMoikai(「もう一回」の意)から再発し、世界に知られるようになった。ミクロな音への集中で疲れた耳を遊ばせ、凝りをほぐすために。
5 溶解/変容/襞/気象/分泌/派生
○音や響きを発音体に合わせて、それらしく聴こえるように加工するのではなく、空間/距離を渡ることによる浸食、テープの転写(ゴースト)による変容等の不可避的かつ不可逆的な変化に注目すること。かつ消えかつ結びつ、様々な形象を束の間浮かび上がらせながら、「ソラリスの海」のように絶え間なく変容を繰り返すプロセス。

プラズマ閃くドローン流がマカロニ・ウェスタン風に変貌。だが、ここでのドローンはただただ定常的に鳴り響くのではなく、時間軸を圧縮したように絶え間なく自らを組み替え変容を進めている。最後の部分はリチャード・マシスン「縮みゆく人間」が原作のB級SF映画『The Incredible Shrinking Man』のサウンドトラックからのサンプリング。

ハルモニウムによるドローンは一見前曲と同様の手触りながら、こちらははるかに柔構造でヴォーカルや演奏と同一の空間で共存する。前曲の多重録音による絶え間なく変化を続けるドローンがいかに隙なく構築されたものであるかがわかる。実験的なマイキングと一発録音が捉えた空間そのものの質感。

オルークがミニマリスト10選にも挙げている「Four Violins」。特殊調弦や重音奏法によりうなりを生じる弦の多重録音。宮澤賢治「セロ弾きのゴーシュ」の子ネズミ同様、ゴーシュの弾くチェロの内部に突き落とされたよう。せめぎあう響きの溶鉱炉。移り変わるのではなく、ただただ生成を続ける持続の強度。

デヴィッド・トゥープに衝撃を与えた英国の即興演奏集団AMMを、少年時代のオルークは愛聴していた。これはキース・ロウも亡きコーネリアス・カーデューもいた60年代の演奏。折り重ねられ、圧縮され、互いに軋轢を引き起こす水平な持続の層。

『Upgrade & Afterlife』でフェイヒーの曲を採りあげるなど、ラヴ・コールを送り続けたオルークとの共同作業により誕生した作品。砂粒が飛び散るようなざらざらと荒れ果てた空間にギターの鳴り響く傍らを、あり得ないかたちが亡霊の如くふと通り過ぎる。トラックが切り替わってもギターの音は変わらず継続し、背後の空間だけが差し替えられる編集は、いかにもオルーク的。

箱や管に取り付けられたマイクロフォンによる限られた視界。箱や管の共鳴が前 曲とよく似たゴーッという鳴りを産み出し、耳の視界を限定する。角田が最初に設定するだけであとは手を触れずに見詰め続けるのに対し、オルークは絶え間なく操作を続ける。
6 「無声映画」的推移/モンタージュ
○無意識の連関を繫辞としながら、意識の流れをゆるゆるとたどるように、突然の
変化/飛躍をはらみながらも、切れ目なく滑らかに移り変わっていく聴覚的映像
の運動。覚醒する意識と緩慢になっていく時間の流れ。

虹釜太郎は先のインタヴューで、周囲の音をノスタルジックに内面化/心象風景化してしまう「セピア化」を批判し、オルークは本作で当初からそれを乗り越えていたと評価している。冒頭のカオス的に交錯する音響の提示に続き、音はゆるやかに移り変わりながらも、極端に音が小さくまばらなセクションを差し挟むことにより、聴き手をエキゾティックで心地よい持続からもぎ放す。ジョン・ゾーン的な切断の生み出すリズムとも異なる。「気狂いピエロ」でトランプの絵柄や名画の映像を挿入したゴダール的な切断/衝突。

(07)(14)の録音を担当したアメフォンのソロ作品。何気ないフランス語の会話が突如鳴り出したタブラの伴奏により、ふとクローズアップされる。次々に場面が移り変わりながら、異なる場所で別々にフィールドレコーディングされた音が結びつき、フレーム外で付けられていると思われた音楽が、いつの間にかフレーム内に引き込まれている幻惑的ミックス。マルチトラック録音のできるカセットテープレコーダーによる偏執的編集作品。

オルークのひとつの到達点。前景化した音ではなく、背景音、すなわちその場に たちこめるざわめきが移り変わり、場面が切り替わる。時に音はほとんど聴こえないほどか細く小さくなるが、それでもピンと張り詰め、聴き手の耳をとらえて離すことなく、先へ先へとたゆまず牽引し続ける。「高校の頃、電車通学をしていて、遠ざかる電車の粗大に小さくなっていく音を耳で追いかけると、どんどん遠くの音が聴こえてくる気がした」というスキヴィアス服部の話をふと思い出した。曲題の「cede」(譲る)とはこの推移を指すと同時に、フィールドレコーディングを素材としたかつてのコンポジション「Scend」(波等によって持ち上げられる、縦揺れする意)や初期の生成ドローン大作『Disengaging』のキーワードdrowning(溺れる)との関係性を示唆しているのではないか。

空襲警報のサイレンにも似た耳に痛い響きが急降下してオーケストラのトゥッティに姿を変える。プリミティヴなテープ/ディスク操作による(無)意識の流れ的な展開。これで1967年の作品。こうした移り変わり、いつの間にか別のものになっている音の眺めの感覚は、オルークが掲げた「アメリカーナ」、すなわちチャールズ・アイヴズやヴァン・ダイク・パークスにも共通するものだ。逆にこの(無)意識の流れ的な展開を「アメリカーナ」と結びつけたことで、かえって見えなくなってしまったものがあるのではないか。

再結成ファウストの第一作。ライヴ・テープを素材に、オルークが長い時間をかけて神経衰弱になりながら成し遂げた細密ミックス。ファウスト自身、コラージュを得意としたグループだが、彼らのそれは演奏同様粗削りで、ガラスの破片のようにギザギザとしているが、本作は幾重にも襞が織り成され、空間が折り畳まれた繊細な仕上がり。
7 まとめ
○オルークにあっては、インプロヴィゼーションも、物音によるコンクレートも、電子音による構築/ドローンも、フィールドレコーディングも、同じひとつの眼差しの下にある。それらを区別しない横断的聴取のあり方。インプロヴィゼーションをフィールドレコーディングのように、あるいは反対にフィールドレコーディングをインプロヴィゼーションの如く聴くこと。演奏者・作曲者・制作者の意図を目的=消失点とせず、そこに耳を係留しない不定形の聴取を目指すこと。「即興・環境・音響」の三者が交わる領域=音世界の綴じ目=潜在性の広がりを聴くことを志向したのは(あるいは可能にしたのは)、私にとってオルークとの出会いだった。

カイロの街のざわめきのフィールドレコーディングによる作品。厚い壁の向こうに浮かぶようなぼんやりとした蜃気楼めいた広がりが、次第に沸き上がり、濃密化し、輪郭をすら明らかにして、街の雑踏へと姿を変える幻惑的プロセス。フィールドレコーディングをただ一枚の音風景として聴くのではなく、グループ・インプロヴィゼーションを聴くように複数の音の生成の交錯として、つまりはアンサンブルとして聴きとる耳の視点が、ジル・オーブリーによるこの記念碑的傑作との出会いを準備した。
8 ジム・オルークの耳を返す
○オルークの耳を借りて世界を眺めるうちに、私たちの耳はずぶずぶと響きの深淵にのめり込み、深みへと沈み込んでしまっています。ここから現世へと浮上し、皆さんを無事に家路へと送り届けなければいけません。津田さんのワークショップ「みみをすます」でも、最後に開ききった耳を閉じていくプロセスが用意されています。

響きの深淵からのサルヴェージとして、オルークの熱愛する女性SSWジュディ・シルの第二作から「The Kiss」を最後に。


撮影:益子博之
2016-02-02 Tue
今週末、2月7日(日)開催のリスニング・イヴェント『松籟夜話』第五夜について少々。今回はジム・オルークを光源にして音と響きのあいだを探る‥‥という企画です。これまでそうやって採りあげてきたミッシェル・ドネダ、デヴィッド・トゥープ、フランシスコ・ロペス、スティルライフに比べて、オルークは知名度があるし、最近、新作『シンプル・ソングズ』がリリースされて、その関係でメディア露出も多いし‥‥ということで、これまでみたいに(怖いもの見たさで?)「知らないものを聴きに行く」感じとは、ちょっと皆さんの受け止め方が違うだろうなーって思っていました。たとえば「オルークなら知ってるよ」とか、「オルークって昔は実験的なことしてたんでしょ。その話?」とか、「ああ、インプロとかドローンとか‥」とか。でも「情報として知ってる」ということと「聴いてる」ってことはずいぶん違うわけで、まさにその違いに出会うことが、『松籟夜話』の役割のひとつだって、主催者のひとりとしては思っています。
これまでの『松籟夜話』でも、たとえばドネダを以前から知ってた人が「初めてドネダを聴いた」って思えるとか、オコラ・レーベルとか集めて民族音楽をいっぱい持ってる人が「え、民族音楽ってこんなんだっけ」って感じるとか、フィールドレコーディングのマニアが、今まで自分はフィールドレコーディングの何を聴いてきたんだろう‥‥ってわからなくなるとか、そんなことを目指してきました。
それって知識の多い側が少ない側に分けてあげる‥とか、そんなことじゃない。大事なのは、フツーはひとりで(こっそり?)聴きそうな音源を複数で聴くことじゃないかと。しかもひとりひとりが自分の世界に閉じこもってバラバラに聴くのでもなく、「みんなが同じひとつのものを聴いている」って幻想に浸るのでもなく、他人の肩越しに「あれ、オレと違うな」みたいな差異を感じながら聴くこと。そこから何かが見えてくる。たぶんだけど。
今回は私がメインの選盤をし、そこに相方の津田貴司が「だったらこれはどう?」と補助線を引くかたちで構成しています。だからまずは私の耳と津田の耳の違いが浮かび上がってくるでしょう。でも、それが照らし出しているのは、結局、オルークの耳の在処(ありか)なんだよね。つまり参加者は私や津田の肩越しにオルークを見ているつもりで、知らず知らずのうちにオルークの肩越しに世界を眺めている。あるいはオルークの耳を通して世界を聴くことで、世界がいつもと変わって見えてくる。そこが今回のキモですね。だから「オルークを聴く」ではなくて、「オルークの耳を借りる」って感じかな。それがつまりは「ジム・オルークを光源にして音と響きのあいだを探る」っていう触れ込みの内実。
でもそれじゃ「ジム・オルークを光源にして‥探る」は何となくわかったけど、「音と響きのあいだ」って何?‥‥って声が聞こえてきそうですね。それは当日のお楽しみ。
それともうひとつ、今回のキーワードとして「クロス・リファレンス」ってことを意識しています。オルークは少年時代に近所の図書館のレコード・ライブラリーを漁って、いろいろな音楽を発見していくんだけど、その時に導きの糸になったのが、クロス・リファレンスなんだよね。フランク・ザッパのレコードを聴いて感動して、ライナーに名前の挙がっていたエドガー・ヴァレーズを聴いてみる‥‥っていうように。こうして少年オルークは、ストラヴィンスキーやモートン・フェルドマンやセシル・テイラーや70年代のエレクトリック・マイルスやリュック・フェラーリやデレク・ベイリーやAMMを次々に発見していった‥‥。海図なしに荒海に漕ぎ出す耳の冒険の成果として。
今はガイド本も多いし、ネットで検索すればたちどころに情報が手に入るけれど、それってホントに「クロス・リファレンス」足り得ているかな。むしろ同じソースの情報のコピペが増殖してるだけなんじゃないの。みんな同じソースにアクセスして、情報の同質性を互いに確認しあって一安心‥みたいな。そこには境界を横断して、フツーなら結びつかない異質なもの同士を結びつけてしまう「クロス・リファレンス」の力は宿ってないんじゃないかな。
というわけで、『松籟夜話』はクロス・リファレンス的な力を発揮できるでしょうか。これは自分への宿題。
なお、Facebook上ではご案内しましたが、『松籟夜話』第一夜~第三夜で、その特異にして卓抜な能力を遺憾なく発揮した歸山幸輔オリジナル・スピーカーが、次回第五夜で再び登場します。第二夜でのニューギニアの聖なる笛の空間を揺すぶるような響き、第三夜で熱帯雨林を特集した際に聴くことのできた、虫の音の闇に身を沈めるような鳴り(他のスピーカーではうるさく感じられたのに)が思い出されます。このスピーカーがオルークの照らし出す音源やビブリオテカ・ムタツミンダの空間とどのような邂逅を果たすのか、とても楽しみです。
それではご来場をお待ちしています。
◎音楽批評・福島恵一とサウンドアーティスト・津田貴司がナビゲートする、「聴く」ことを深めるための試み。◎会場は青山・月光茶房隣設のビブリオテカ・ムタツミンダ。歸山幸輔によるオリジナルスピーカーで様々な音源を聴きながら「音響」「環境」「即興」の可能性を探ります。◎第五夜となる今回は、ジム・オルークを灯台として、音と響きのあいだを照らしていきます。
福島恵一 音楽批評/「耳の枠はずし」 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/
津田貴司 サウンドアーティスト http://hoflisound.exblog.jp/
歸山幸輔 オリジナルスピーカー
日時:2016年2月7日(日)18:00〜(21:00ごろ終了予定)
料金:1500円
会場:Bibliotheca Mtatsminda(ビブリオテカ・ムタツミンダ:青山・月光茶房隣設ECMライブラリー)
東京都渋谷区神宮前 3-5-2 EFビルB1F
電話番号:03-3402-7537
http://gekkosaboh.com/
