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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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糸紡ぎ車から繰り出される糸とモザイク・タイル − 「タダマス21」レヴュー  A Thread from a Spinning Wheel and Mosaic Tiles − Live Review for "TADA-MASU 21"
 ついに21回目を迎え、6年目に突入した「タダマス」は、今回もここでしか聴けないであろう秀逸な選盤の下、充実した音源を届けてくれた。それは単に幅広い渉猟とかマイナー・レーベルへの着目ということではなく、常に独自の視点/切り口を提示し続けていることにほかならない。当初はフロントとバッキングの逆転あるいは並列化、フレーズからテクスチャー/音響へ、響きや空間の重視‥‥といったキーとなる演奏の変化、以前/以後を分ける「断層」への着目がクローズアップされ、その基準に適合した作品がチョイスされるといった「証拠探し」的な面が目立った時期もあったが、今では彼らの耳のとらえた作品/演奏の強度をベースとして、その強度をもたらす「核心」を、先の視点を柔軟にパラフレーズしながら掘り下げる方向へと変化してきている。私はそれを「成熟」ととらえたい。
 「成熟」などと言うと、マンネリ化へと向かう安定志向との誤解を招きかねないが、もちろんそうではない。益子博之による「ツッコミ」は、旧態依然とした日本のジャズ・ジャーナリズムあるいはジャズ受容への批判のみならず、近年のJazz the New Chapter的な視線への批評もはらみつつ、対象もNYダウンタウン・シーンにとどまらない広がりを見せながら、より柔軟かつ繊細なものとなってきているし、一方、多田雅範による「ボケ」もまた、事前の仕込みを軽やかに投げ捨てて、当日の現場での聴取にどこまでも寄り添う潔さにより、演奏者のプロフィールだの共演歴だのといったデータのしがらみを鮮やかにうっちゃり、その場に居合わせた全員を一瞬の内に「武装解除」してしまう過激さをますます磨き上げている。20回以上の歴史を積み上げながら、こうした広がりや過激さによって、「ここではこういうことになっています」的な「お約束」を自ら破り捨てる奔放さが、毎回招かれるゲストに「本当に思いつきで感じたままを話していいんだ」という自由を与えているのだろう。特に最近の回では、何ら構えたところなく、闊達に発言するゲストの姿が当たり前になってきたように思う。

 私のレポートが「主催者側の意図」とはおよそ異なる視点から、当日披露された音源を、そこから浮かび上がる風景を論評してこられたのも、そうした「タダマス」本来の懐の広さに支えられてのことである。改めて感謝したい。

 さて、前置きが長くなった。当日の聴取体験を振り返るとしよう。例によって、私なりの視点からの受け止め方であることをあらかじめお断りしておきたい。当日のプレイリストについては、次のページをご参照いただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767
タダマス21


タダマス21-01 この日、前半のハイライトとなったのは、Linus+Okland/Van Heertum『Felt Like Old Folk』(Smeraldina-Rima)からの17分以上に及ぶ長大な演奏だった。ユーフォニウムの希薄なたなびき、ギターの間を置いたストローク、中空をゆっくりと渡っていく冷ややかな弦の響き、それをしっとりと裏打ちする管の鳴り。音はみなその場にひっそりと立ち止まり、そのかそけき光で辺りをおばろげに照らし出し、空間の広大さを明らかにしながら、響きの震え/滲みを重ね合わせ、あるいは混じり合わせる。ユーフォニウムの息音のざわめき、ミュートして叩かれたギター弦の振動、輪郭を曖昧にした虚ろな管の鳴り、北欧フィドル特有のきらびやかな艶を抑えすっと薄闇に溶け広がる弦。そうした個々の音色の魅惑もさることながら、この演奏の真髄は、こうした今にも空間に霧散してしまいそうなほどに脆弱で儚い音たちが、にもかかわらず細く透明な糸を糸紡ぎ車から手繰り伸ばし続けて、どこまでもどこまでも聴き手の耳を奥へ奥へと誘って止まないことなのだ。クロマトグラフィで濾紙に吸い上げられた資料が、限りなく希薄になりながら、やはりどこまでもどこまでも滲みの裳裾を広げていくように。タルコフスキー『ノスタルジア』で描かれた、吹きすさぶ風の中、対岸へとちっぽけな蝋燭の炎を運ぶ苦行を思わせる、あえかな息と震えによる魂のリレー。
 終わってみれば17分はあっという間だった‥‥と言うと嘘になるが(確かな持続の感覚が掌に残っているので)、演奏の総体が浮かび上がらせる風景イメージ、たとえば早朝の霧に煙る牧歌的風景とは裏腹に、強靭な持続を支えているのは前述のほとんど見えない細い糸にほかならない。
https://smeraldina-rima.bandcamp.com/album/felt-like-old-folk

タダマス21-02 こうしたしずしずと摺り足で歩みを進めるような、平らかで緩やか、かつ強靭な持続の感覚は、後半で続けて披露されたChes Smith『The Bell』(ECM)及びFlin van Hemmen『Drums of Days』(Neither/Nor Records)にも顕著だった。Ches Smithが放つ金属質の打撃とCraig Tabornによるピアノの打鍵、いずれも鋭く彫り刻まれ切り詰められた硬質な響きが張り巡らす冷えきった空間に、ゆるやかに這い回るMat Maneriのヴィオラがゆっくりと沁み込んでいく前者の感覚は、奥へ奥へと紡いだ糸を手繰り出していくと言うよりは、まるで蛍が舞うように、左右に分かれた光源がすっすっと先へと道程を導き、ベルやティンパニの残響の知らせる底知れぬ深い闇の奥へと聴き手の耳を誘い続ける。ゲストの坪井はここでの空間的な感覚の冴えに激しく共感し、手放しで絶賛していた。特にCraig Tabornに対し、「日本にもこういう演奏者がいたら」と漏らしていた。
タダマス21-03 対して後者では、Flin van Hemmenが本来の持ち場であるドラムを離れて専らピアノに向かい、ピアニスト的発想とは異なる視角からコード弾きや短く崩したアルペジオを提示し、和音というよりぼんやりとした音色の「色班」を空間に滲ませれば、Todd Neufeldのアコースティック・ギターもまた、独特のエッチング的な鋭さで、やはりフレーズではなく、コードや素早く圧縮されたアルペジオを提供し、そこに築かれる音響平面に対し、Eivind Opsvikのベースがくぐもったアルコや素早く震えるトレモロ、あるいはThomas Morganばりに音数少なく、選び抜かれたツボに正確極まりなく深々と打ち込まれる一撃によって、これをあくまでも静謐に支えている。続けてかけられた2曲目で、僅か1分半の長さながら、招かれたTony Malabyがまったく息の重さを感じさせることのない、ちょっと聴いたことがないほど繊細極まりない演奏をしているのは、やはりFlin van Hemmenによる演奏/音響空間設計の賜物と言うべきだろう。参考にと冒頭部分が披露された4曲目では、ブラスバンドの練習風景とも遊園地の眺めともつかぬ、輪郭も細部も遠近法的な構図も曖昧かつ不分明ながら、耳触りが何とも魅惑的なフィールドレコーディングによる音像が姿を現すなど、どう考えても只者ではない。私にとっては本作こそが、この日のハイライトだった。
 多田もまたFlin van Hemmen『Drums of Days』に対し、確かに録音はあまりよくないけれども、数学の問題で予想だにしないところに解が潜んでいたり、あるいは実際に行ってみたら地図から想像していた景色とは全然違ったというような「思いがけなさ」がここにはあると指摘し、私たちに音楽を聴き続けさせるのはいつだって魅惑的な「謎」なのだと熱く語った。一方、ゲストの坪井はFlin van Hemmenがドラマーやピアニストである以前に、ミュージシャン、表現者として演奏に向かっていると同業者ならではの指摘をし、さらにインプロヴィゼーションにおける一音一音の責任の重さについて語った。
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撮影:原田正夫

 ひとつ興味深かったのは、多田がさらに「多重録音と身体性のリアル」という論点を展開しようとしたことだった。そこで彼の念頭にあったのは、前半でかかったAlan Lomax等による歴史的な現地録音にロマンティックな演奏を後から重ねて顰蹙を買っていた(坪井は「直接会ったら一発殴ってやる」とまで言っていた。その気持ちはわからぬではない)Jaimeo Brown Transcendence『Work Songs』(Motema Music)だったろうか。結局、益子に「いや、これ(Flin van Hemmen『Drums of Days』)多重録音使ってるでしょ」と言われ、腰砕けのまま沙汰止みとなってしまったが、確かに益子の言う通り「CDは録音された作品なのだから、それがリアルタイムの録音なのか、多重録音なのかは関係ない」ということを認めた上で、このことに少しこだわりたい。と言うのも、この点が今回の「タダマス21」の問題軸ではないかと考えるからだ。

 「それが録音である以上、リアルタイムで時空間を共有して行われた演奏であるのか、多重録音により再構成された演奏であるかは問題ではない」というのはその通りだとして、実際に多重録音を用いたかどうかにはかかわらず、多田が「身体性のリアル」という語で名指そうとしたであろう連続性や流れの感覚、時間/空間を共有することによる同じものに浸されている感じ、さらには伝播、伝染、共振、共鳴、同期‥‥といったものに軸足を置いているか、あるいはモザイク的な再構成に基盤を見出しているかという違いは厳然としてあるように思う。
 たとえばこの日かけられた音源では、最近登場回数の多いJoachim Badenhorst率いるCarate Urio Orchestra『Lover』(Klein)において、柔らかな春の陽射しのようなアンサンブルの波間にゆったりと浮かぶロバート・ワイアットを思わせるリリカルな男声という絵柄を、最後になって湧き上がる不明瞭な喧噪が水没させ、覆い隠していくという展開は、明らかに再構築的なものと言えよう。しかも、この喧噪はフィールドレコーディングによる街頭の騒音とか、エレクトリック・ギターのフィードバックというような、テープやエフェクト一発といった単純なものではなく、それ自体管楽器のアンサンブル(多重録音によるものかもしれない)を丁寧にトリートメントしてつくりだされている。これについて益子は大編成のアンサンブルなので、リアルタイムでいっしょに演奏し、あとでミキシングの際に加工したのではないかと言っていたが、仮にそうだとしても、器楽アンサンブルをあえて分割し、一部に異なる加工を施して「別のパーツ」をつくりだすというのは、まさに再構築的な作業と言えるだろう。
 Dan Weisが自身が影響を受けたドラマーのフレージングを「人力サンプリング」(つまりは引用を再演により再現)し、その回りに大編成アンサンブルをちりばめた『Sixteen : Drummers Suite』(Pi Recordings)もまた、そうしたモザイク感覚に溢れた演奏だ。ドラムのフレーズは他の楽器に転写され、変型され、増殖し、空間を隙間だらけに埋め尽くす(過飽和に至らないコンダクトの冴えは見事だ)。ここでもMatt Mitchellがおやと思うほどクラシック・ミュージック的なソロを取ったり、エルメート・パスコアールを思わせる切り貼り感満載のアンサンブルがあったりと、再構築感覚が隅々まで行き渡っている。

 こうした再構築感覚は、だがしかし、多田が言うところの「身体性のリアル」との緊張関係を常に必要としているのではないだろうか。別にそれを模するというコンプレックスではなく、それを凌駕する、あるいは反発するという意気込みという意味合いで。
 と言うのは、やはりこの日かけられた音源であるNik Bortch's Mobile『Continuum』(ECM)が、バスドラのグランカッサ的な深い轟きや金属鍵盤楽器のきらめきに惹かれながらも、やはりどこか詰まらないのは、演奏がミニマルなモジュール構成から少しもはみ出してくることなく、その内部に安住してしまっているからだし、Ayumi Tanaka Trio『Memento』(AMP Music&Records)による雅楽にインスパイアされた演奏にピンと来ないのも、それが引用や模倣の切り貼りに留まっているからだ。そしてこうした問題系は、この日冒頭にかけられたEsperanza Spolding『Emily's D+Evolution』(Concord Records)で、ジョニ・ミッチェルに憧れたであろう彼女の声が、にもかかわらず人工的な化粧を施され、むしろブラック・ミュージック的なグラマラスさを遠ざけた、風通しの良い簡素なアンサンブル故に、かえって悪目立ちする(会場のスピーカーとの相性もあるだろうが)という場面において、のっけから予告されていたようにも思うのだ。
タダマス21-2_convert_20160430165843
撮影:原田正夫

masuko/tada yotsuya tea party vol. 21: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 21
2016年4月24日(日)
綜合藝術茶房喫茶茶会記
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:坪井 洋(ドラム・パーカッション奏者/作曲家)





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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 17:09:28 | トラックバック(0) | コメント(0)
タダマス 対 21世紀の精神異常者  "TADA-MASU" vs The 21th Century Schizoid Man
 益子博之と多田雅範がナヴィゲートするNYダウンタウンを中心とした同時代ジャズ・シーンの定点観測「四谷音盤茶会」もこの4月24日で21回目、ついに6シーズン目に突入する。

 多田雅範のブログから、今回の意気込みを聴いてみよう。

 今回も今まで知らなかったミュージシャンの演奏トラックがセレクトされています。対象期間からはセレクトされて当然視される天才の演奏トラックがセレクトされなかったという衝撃もあります。
 なんだかさ、盤で共演しているだとか、師事していたとか、曲をカバーしたとか、メディアでリスペクトを表明していたとか、サウンドのトリートメントに影響が感じられるだとか、そういうことはどうでもいいとは言わないが、耳のゾゾケにとってはまったく無用なのだ。聴取させ続ける謎が持続している音楽。
 益子博之とわたしとゲストのミュージシャンと、たった今一緒に聴いたはずの音響についての言説は、三方向から照らすように謎の在り方を示すことがあるかもしれない可能性への挑戦だと思う。わたしの言説はわたしの耳を変容させる、のは、他者の言説にいつも驚かされるからだ。自分の言いそうなことを言っているわたしは退屈だ。同様に彼ららしい演奏を繰り返されるのも貪欲に飽き飽きするぜ。
 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20160417
 引用に際して、改行及び句読点を一部改変。

 各ミュージシャンのディスコグラフィやライヴでの共演歴、あるいは音大時代の師弟関係や同窓まで知り尽くした上で、そこから演繹されるあらかじめ保証書付きの聴取結果予想を鮮やかに裏切って、その場での聴取がもたらす直感(とはすなわち自身の音楽的身体の全身反応にほかならない)にすべてを賭ける。そこで語られるであろう言葉は、なるほど確かに、その10分前の自分からしたら全く他者の言説であるに違いない。反権威主義やマイナー志向は、権威主義やメジャー志向の裏返しに過ぎない。「タダマス」はそんなものに縛られない。彼らは貪欲なまでに自由だ。そして誰よりも音響に鋭敏で、開かれた耳を持ち、聴取を柔軟に変容させる(その変化を快く受け入れる)懐の広さを持っている。

 いざ、未知の音響と他者の言葉の飛び交う空間へ。新たな聴取(の変容)との出会いが待っている。

タダマス21

masuko/tada yotsuya tea party vol. 21: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 21
2016年4月24日(日) 
open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:坪井 洋(ドラム・パーカッション奏者/作曲家)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)

今回は、2016年第1 四半期(1~3月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。ゲストには、ドラム奏者/作曲家、坪井 洋さんをお迎えすることになりました。スウェーデンのジャズ・シーンで永らく活動されてきた坪井さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)




ライヴ/イヴェント告知 | 23:05:46 | トラックバック(0) | コメント(0)
ざわめきに身を浸し、音や光と出会う - 「島影巡り」第二夜 『島の色 静かな声』レヴュー  Absorption in Buzz and Murmur, Encounter Sounds and Lights - Live Review for The Second Night of "Islands Tour" "Silent Color Silent Voice"
 スティルライフ(笹島裕樹+津田貴司)のライヴ演奏とドキュメンタリー映画の上映で構成される一夜『島影巡り』。ライヴ・プログラムを組むにあたり、「対バン」の選定に苦労する中から、映像との「共演」との可能性を探ることも「アリ」ではないかと始められた企画と聞いているが、今回の第二夜では、この企画を立ち上げるにあたり発想の源になったという、写真家/映像作家茂木綾子による『島の色 静かな声』を迎え、その本領というか可能性の核心を一挙に開陳してみせてくれた。
 
 冒頭、スティルライフの二人から、最初に自分たちの演奏があり、そのまま続けて映画の上映があり、休憩をはさんで再び演奏するとの説明がある。演奏と上映の関係が単に並列的だった前回よりも、両者の関係性のあり方、切り結び方にずっと深く踏み込んでいる予感。おそらく二人の内には、『島の色 静かな声』の音や光が充分に沁み込んでいて、これから始まる演奏との相互浸透が、演奏の始まる前からすでに始まっているのではないだろうか。
 そんなまだ形にならない漠然とした予感は、演奏開始前に笹島が火を点した蝋燭が、いつもは3~4本、多い時は6本を数えるのに、この日はわずか一本だけであるのを目撃した瞬間、不思議な確信へと変わった。
 いつもより深い闇に、外から清澄通りの車の音や話し声が襲い、冷蔵庫のコンプレッサーの低いうなりが、いつもよりずっしりと重たい空気を揺すぶりたてる。太い竹筒をコンクリートの床に突き立てる鋭い一撃が、重い「沈黙」を穿つ。すかさずカラカラカラと金属質の響きがかき混ぜられ、その上を通りの話し声が渡っていく。躊躇の一切無い緊密な呼応。ふだんの彼らの演奏は、通常のフリー・インプロヴィゼーションが本領とする、音と音を激しく打ち合わせるような間合いを欠いた緊密な即応をあえて回避し、演奏が時間を加速してしまわぬよう、時の流れを乱さぬよう、そして即興演奏の定型に陥らぬよう、注意深く歩みを進める。しかし、この日の演奏は冒頭から緊密な呼応が見られた。しかし、だからと言って、演奏が加速してしまうことはない。細い木筒がからからとかき混ぜられ、カランと床に落とされ、藁束で床が擦られ、二人が手に持った筒に共に息を吹き込み、補足細く紡がれた息が長く引き伸ばされる傍らで、小石がかき混ぜられる。
 打つ音と吹く音。響きの手触りを介して耳の触覚をふれながら、そこに足を止めて掘り下げるのではなく、むしろ動作の端正な交替を前景化させる演奏。一本だけ点された蝋燭の、いつもより振幅の大きい炎の揺らぎに照らし出されながら、囲炉裏辺の手仕事のリズムがそこに流れているように感じた。打つ音の正しく核心をとらえた迷いの無さ。棒で藁束が叩かれ、鉈で木枝が切り分けら、機が織られ、糸車が回る。様々に形を変える吹く音が映し出す情景の数々。細く長く紡がれる糸、鉄瓶に沸き立つ湯、癒えのあちこちに開いた隙間を心地よく吹き抜け、木枝を揺らし、葉擦れをもたらす風の流れ。呼応の緊密さは囲炉裏を囲み、黙々と手作業に勤しむ夫婦や親子がかたちづくる、一体となった身体の動きのアンサンブルにほかなるまい。そこに言葉は介在しない。目配せやボディ・ランゲージもない。ただただリズミカルに運動する二つの身体の間で、ひとつになっていく呼吸があるばかりだ。
演奏が進むにつれ、打つ音や吹く音よりも擦る音がその比率を増し、虫の音やさらさらとした葉擦れにも似たミクロな散乱を通じて、聴衆の耳の焦点を囲炉裏仕事に勤しむ身体の運動から、それを浸し包み込んでいる夜のしじまへと移していく。

 演奏中に、ふと映画の上映が始まる。雲間に浮かぶ月が映し出され、黒雲の動きにつれ、月は自らを取り囲む闇に次第に呑み込まれていく。暗がりに蝋燭に照らし出された女の顔が浮かび、ふっと蝋燭が吹き消されると画面も溶暗してしまう。やがて水音とともに照らし出された水の流れが浮かび上がり、演奏の音と混じり合う。この間、スティルライフの二人はまったく画面を見ようとはしない。機織りに掛けられた糸の並びが焦点の合わぬまま、モノクロームで映し出され、幾何学的な文様を描く。機織り機を操作する規則正しい動作音の繰り返しに演奏が溶けあって、リズムを柔らかく解きほぐし、音色を滲ませ、ミクロな散乱へと解き放つ。映像と音は、ゆるやかなリズを引き継ぎながら、規則正しく押し寄せる波へと移り替わり、やがて溶暗する。
色染めされた布越しに太陽の光がちらつき、小鳥の声が聴こえた時点で、スティルライフの二人はそっと席を立った。三線の爪弾きに伴われ、歌が流れる。森の樹々を見詰めていたキャメラは空を仰ぎ、風に揺すられる木枝(映像)と葉擦れ(音声)が交錯する中から、タイトルが現れる。
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 『島の色 静かな声』の「あらすじ」は、作品紹介ページ(※)に次のように記されている。
 ※http://silentvoice.jp/shimanoiro/movie/index.htm

この物語は、闇に浮かぶ海と波の音から始まり、
そこに光と色彩が現れる。
青い海に囲まれた緑の島、
目の覚めるような藍の布、
揺れる緑の芭蕉畑、
手紡ぎの白い糸、回る糸車、
四季折々の植物とその色を染める神秘的で強烈な瞬間、
軽やかな機を織るリズムとその心地よい音、
丹念な仕事を繰り返す手、
日に焼けた肌、皺の刻まれた顔、
桃色の子供の肌、
ジャングルの中を駆け抜ける足、
釜を焚き付ける炎と白い煙、
木々の間で干される糸や布、
台風のときの強烈な風と雨、
海に浮かぶ布、
深紅の花、
猪猟、
神の恵みに感謝する唄と三線の不思議なメロディー、
白い衣を着た司の祈り、
黄金色の夕暮れの海、
節祭で迎えられた黄色の着物を纏うミリク神、黒装束の女たちの踊り、
サバニ舟を漕いで海へと向かう男たち、
夜更けまで泡盛を飲んで歌い踊る村人、
猛暑の中での農作業や漁業、
豊かでダイナミックな自然、
そしてその自然を守るための島人の努力。
それらの多様な表情が、力強く、繊細に織りなされていく


 生気なく去勢された都市生活の中では出会いようもない、様々ないきいきとした生(ロウ)なイメージが溢れる中で、私がとりわけ注目したいのは、どうしようもなく出会ってしまう音や光、色や響きが、観光的な、あるいは民俗学的な、さらには社会学的な、文化人類学的な、宗教学的な、精神分析的な、政治的な、経済的な視点を通じてではなく、ただひたすら生活/労働、すなわち身体の運動を通じて立ち現われてくることである。
 ふっと眼の前に浮かび上がる白い繭玉の輝きも、光の線となって走る紡がれる糸の軌跡も、染める布を素早く揺り動かす手の動きも、藍染めの染料の表面に盛り上がった不思議な形のあぶくも、キャメラの、あるいは私たちの眼の焦点が合わないがためにゆるやかな色彩の斑紋と化して揺れ動き、流れ去るが、それはどこまで行っても、単に美的な対象として身体から切り離されてしまうことがない。それゆえにこそ、それらの美しさは、草原に色濃く落ちる木々の枝の影や、その先で居眠りしている飼い犬の姿や、鉈で割られた紅露の血の滴る生肉のように鮮やかなザクロ色や、玄関先に迷い込んでくるヤギとひとつながりになっている。外に干された染布に向けられたキャメラが、焦点を外したまま色合いの滲んだ斑紋と光の散乱をとらえ、その向こうにガジュマルの林を覗かせたかと思うと、布の表面の風合いを手触れるほどくっきりと映し出してみせるという映像のマジックも、こうした身体の結びつきに支えられている限り、視覚的なギミックとはならないし、昼食の分け前をもらおうと傍らで控えている犬の映像が、知らぬ間に飼い犬が鍋の材料になっていた子ども時代の思い出話に引き継がれても、いっこうに悪趣味とは感じない。豊かな自然は、そこに暮らす人間などお構いなしに、残酷かつ凶暴なまでに豊饒かつ深遠なのであり、人はただ生活のために、規則正しく身体を動かし、木を切り、糸を紡ぎ、布を染め、肉を切り分け、機を織り、笠を編み、衣服を仕立てる。こうした労働により、いや労働によってのみ、自然と向かい合うことができる。そこにはきびきびとした、あるいはゆるやかに流れるような、いずれにしても目的に沿って無駄なく切り詰められ、力みのない滑らかさを獲得した身体の動きの繰り返しがあり、そこにリズムが生まれ、打つ音や吹く音、擦る音は、風や波、雨や流れの音と響き合うことになる。

 そうした世界の在りようが、まさに織り成される音と光から、自ずと生成するように描き出された映画の前半は、実に素晴らしかった。そして、そうした世界のとらえ方とまっすぐに結び合った冒頭のスティルライフの演奏もまた、これまでになくきっぱりと繊細であり、音楽と映画のジャンルを横断した結びつきといった惹句をはるかに超えて、一連なりの音と光の上演として密接に結びついており、また、そうあることの必然性を強く感じさせるものとなっていた。

 だが、後半、映画はその調子を少しずつ変えていったように感じられた。映画冒頭部分では、自分が幼いころから家で母親がずっとやってきたことであり、ここで採れるものによるここの土地ならではの仕事であると説明されていた糸紡ぎや布染が、誰かのために衣服を仕立てることが捨てられない服となる‥と、生産者の立場からの商品価値論、あるいはアーティストの視点からの存在意義の問いかけとして語られたあたりからだろうか。共同体の祭り、疑似的な兄弟関係、古からの聖地に建設されたリゾート施設の廃墟、遊覧船や都市の映像、ラジオ体操で流れるジブリ音楽、広大なゴミ廃棄場、ビニール袋を呑み込んで砂浜で死んでいた海亀‥‥と、立て続けにいかにも現代社会批判/コミュニティ礼賛的な映像が連ねられ(私は一瞬、新藤兼人を思い出して辟易とした)、仕事の中の見えないプロセス、見えない世界への注視が、妙に説教臭く求められる。
 言葉に導かれて出会う映像の数々。それらはあらかじめ先に書かれていた物語を絵解きしているように感じられる。

 ドキュメンタリーだから社会的メッセージの声高な主張が必要だというのは、随分と頑なで狭く凝り固まった了見であるように思う。それは私がフィールドレコーディング作品の聴取を通じて、自然の生成を凝視することの深さ、豊かさを知り、そうした経験に裏付けられた見方を、こうした自然をとらえたドキュメンタリー映像作品に投影しているからかもしれない。しかし、本作品のタイトルに即して言えば、失われていく「島の色」を守るために挙げられた「静かな声」を、社会的メッセージへと増幅してみせるのではなく、「島の色」が語り掛ける「静かな声」に耳を傾け、そこに没入することを通じて、自然の、そして労働を通じて自然に関わる人々の生活の、豊かな息づきを聴き取ることこそが重要なのではないだろうか。少なくとも本作の前半部分は、驚くべき鮮やかさで、この使命を見事に果たしていたと思う。

 
 映画が終わり、再びスティルライフが演奏を始める。今度は3本の蝋燭に火が点された。先ほどより遥かに明るく、揺らぎのない光の中で、二人はどこかいらいらと不安やフラストレーションに突き動かされているように見えた。細い金属棒を床に落とす音が耳に痛い。細い木筒に息が吹き込まれ、金属筒に吹き込まれた息が応える。藁束が床を掃き、水の入ったガラス瓶が床を打つ。床へと落とされ続ける金属棒の響きに切断されながら、唐突にカンテレが鳴り響き、ガラスで床を擦る音をガラス粒のきらきらした輝きが追いかける。それぞれの音は孤独に震えながら、視線を交わすことなく、コートの襟を立て、背中を丸めたまま早足に通り過ぎる。冒頭の演奏のように、繰り返しのうちに住処を見出すことができない。属すべき場所を喪失してしまっていることへの苛立ちが、様々な音色を次々に試しながら、そのどれにも飽き足りず、次々に音具を取り換えていく「加速」、つるつるした表面を踏みとどまることができずにどこまでも滑り落ちていくような‥‥、を生み出している。そこに見られる強迫的な断片化は、フリー・インプロヴィゼーションが来す典型的な症状である。
 スティルライフの演奏の、この前/後の落差は、いったい何によるものなのだろうか。「冒頭の演奏の行程をなぞり繰り返すことはしまい」という決意が最初にあったであろうことは確かだとして、映像のもたらした変容が、そのまま露呈しているのだろうか。彼らの技量をもってすれば、もっと「らしい」演奏でその場を取り繕うことなど、簡単なことであるはずなのに。とすれば彼らはやはりその場に身を浸し、環境を呼吸しているのだと、改めて思わずにはいられない。
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【追記】
  『島の色 静かな声』に関するレヴューをネットで検索してみると、予想されたことではあるが、評価の視点が私と真逆であることがわかる。誰かのために衣服を仕立てることが捨てられない服となるそこでは私が悪い意味で引っかかった「誰かのために衣服を仕立てることが捨てられない服となる」との言が、作品中、最も共感した、心に響いた言葉として受け止められ、本作の「映像詩」(という形容がふさわしいかどうかは置くとして)的側面については、「それほど映像に私的な美しさはない」として「ドキュメンタリーとしては抽象的過ぎる」と切って捨てられる。やはりここでは、言葉に導かれて音や光と出会い、すでに書かれたものの絵解きとして映像をとらえることが当然の前提となっているのだろう。そうした眼差しの下では、映像は作者の意図を運ぶ船に過ぎず、眼や耳がとらえきれず溢れ出してしまうような細部の豊かさなど、単なる余剰に過ぎない。そのような貧しい眼差しによって世界をとらえることの方が、よっぽど抽象的ではないか。
 フィールドレコーディングやフリー・インプロヴィゼーションによってもたらされる音を、演奏者や録音者、あるいは編集・制作者の意図に還元してしまうことはできない。それらは常に、そうした意図をはみ出す過剰な細部を豊かにはらんでいる。そしてそうした要約できない細部の豊かさに耳が届かなければ、フィールドレコーディングやフリー・インプロヴィゼーションを聴いたことにはならない。
 何もそうした「特殊」な音楽の聴取体験を経由しなくとも、私たちはふだんから、そうした過剰な細部に知覚を、身体を揺すぶられている。都会に溢れる人工的な音と光の洪水は、むしろそうした「揺すぶり」に対する感覚を麻痺させ、鈍麻化してしまう。四六時中装着しっぱなしのイヤホンや片時も視線を離すことのないスマートフォンの画面が、雑踏の中での「コンパートメント化」をいともたやすく達成してしまうように。
 津田貴司が沖縄久高島を訪れて撮影してきた風景は、「強い光」や「鮮やかな色彩」といったステレオ・イメージを遥かに超えて、感覚を身体を揺すぶりたて、ざわつかせ、内部へと侵入し、あるいは外へとだだ漏れに流出させる禍々しい力に満ち溢れていた。そのような風景の力が、労働によって切り取られ、等身大に人間化された自然の中にも、静かにだが脈々と息づいていることを、『島の色 静かな声』は教えてくれる。
 不安定に移ろい、唐突に現れる対象、近接/没入し過ぎて輪郭や全体像がつかめないカット、眼にも止まらぬ素早い動きの残像、合ったり合わなかったりする焦点は、そうした世界への誘いであり、隙間の空いた戸口のところまで私たちを案内してくれる。だが、そこから一歩踏み出し、中を覗き込むのは、各自に委ねられた「労働」にほかならない。
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撮影:津田貴司(久高島の風景)


島影巡り」第二夜 『島の色 静かな声』
2016年4月16日(土)  
清澄白河gift_lab
ライヴ演奏:スティルライフ(笹島裕樹+津田貴司)
映像作品:茂木綾子『島の色 静かな声』




ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:54:29 | トラックバック(0) | コメント(0)

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