ざわめきに身を浸し、音や光と出会う - 「島影巡り」第二夜 『島の色 静かな声』レヴュー Absorption in Buzz and Murmur, Encounter Sounds and Lights - Live Review for The Second Night of "Islands Tour" "Silent Color Silent Voice"
2016-04-19 Tue
スティルライフ(笹島裕樹+津田貴司)のライヴ演奏とドキュメンタリー映画の上映で構成される一夜『島影巡り』。ライヴ・プログラムを組むにあたり、「対バン」の選定に苦労する中から、映像との「共演」との可能性を探ることも「アリ」ではないかと始められた企画と聞いているが、今回の第二夜では、この企画を立ち上げるにあたり発想の源になったという、写真家/映像作家茂木綾子による『島の色 静かな声』を迎え、その本領というか可能性の核心を一挙に開陳してみせてくれた。冒頭、スティルライフの二人から、最初に自分たちの演奏があり、そのまま続けて映画の上映があり、休憩をはさんで再び演奏するとの説明がある。演奏と上映の関係が単に並列的だった前回よりも、両者の関係性のあり方、切り結び方にずっと深く踏み込んでいる予感。おそらく二人の内には、『島の色 静かな声』の音や光が充分に沁み込んでいて、これから始まる演奏との相互浸透が、演奏の始まる前からすでに始まっているのではないだろうか。
そんなまだ形にならない漠然とした予感は、演奏開始前に笹島が火を点した蝋燭が、いつもは3~4本、多い時は6本を数えるのに、この日はわずか一本だけであるのを目撃した瞬間、不思議な確信へと変わった。
いつもより深い闇に、外から清澄通りの車の音や話し声が襲い、冷蔵庫のコンプレッサーの低いうなりが、いつもよりずっしりと重たい空気を揺すぶりたてる。太い竹筒をコンクリートの床に突き立てる鋭い一撃が、重い「沈黙」を穿つ。すかさずカラカラカラと金属質の響きがかき混ぜられ、その上を通りの話し声が渡っていく。躊躇の一切無い緊密な呼応。ふだんの彼らの演奏は、通常のフリー・インプロヴィゼーションが本領とする、音と音を激しく打ち合わせるような間合いを欠いた緊密な即応をあえて回避し、演奏が時間を加速してしまわぬよう、時の流れを乱さぬよう、そして即興演奏の定型に陥らぬよう、注意深く歩みを進める。しかし、この日の演奏は冒頭から緊密な呼応が見られた。しかし、だからと言って、演奏が加速してしまうことはない。細い木筒がからからとかき混ぜられ、カランと床に落とされ、藁束で床が擦られ、二人が手に持った筒に共に息を吹き込み、補足細く紡がれた息が長く引き伸ばされる傍らで、小石がかき混ぜられる。
打つ音と吹く音。響きの手触りを介して耳の触覚をふれながら、そこに足を止めて掘り下げるのではなく、むしろ動作の端正な交替を前景化させる演奏。一本だけ点された蝋燭の、いつもより振幅の大きい炎の揺らぎに照らし出されながら、囲炉裏辺の手仕事のリズムがそこに流れているように感じた。打つ音の正しく核心をとらえた迷いの無さ。棒で藁束が叩かれ、鉈で木枝が切り分けら、機が織られ、糸車が回る。様々に形を変える吹く音が映し出す情景の数々。細く長く紡がれる糸、鉄瓶に沸き立つ湯、癒えのあちこちに開いた隙間を心地よく吹き抜け、木枝を揺らし、葉擦れをもたらす風の流れ。呼応の緊密さは囲炉裏を囲み、黙々と手作業に勤しむ夫婦や親子がかたちづくる、一体となった身体の動きのアンサンブルにほかなるまい。そこに言葉は介在しない。目配せやボディ・ランゲージもない。ただただリズミカルに運動する二つの身体の間で、ひとつになっていく呼吸があるばかりだ。
演奏が進むにつれ、打つ音や吹く音よりも擦る音がその比率を増し、虫の音やさらさらとした葉擦れにも似たミクロな散乱を通じて、聴衆の耳の焦点を囲炉裏仕事に勤しむ身体の運動から、それを浸し包み込んでいる夜のしじまへと移していく。
演奏中に、ふと映画の上映が始まる。雲間に浮かぶ月が映し出され、黒雲の動きにつれ、月は自らを取り囲む闇に次第に呑み込まれていく。暗がりに蝋燭に照らし出された女の顔が浮かび、ふっと蝋燭が吹き消されると画面も溶暗してしまう。やがて水音とともに照らし出された水の流れが浮かび上がり、演奏の音と混じり合う。この間、スティルライフの二人はまったく画面を見ようとはしない。機織りに掛けられた糸の並びが焦点の合わぬまま、モノクロームで映し出され、幾何学的な文様を描く。機織り機を操作する規則正しい動作音の繰り返しに演奏が溶けあって、リズムを柔らかく解きほぐし、音色を滲ませ、ミクロな散乱へと解き放つ。映像と音は、ゆるやかなリズを引き継ぎながら、規則正しく押し寄せる波へと移り替わり、やがて溶暗する。
色染めされた布越しに太陽の光がちらつき、小鳥の声が聴こえた時点で、スティルライフの二人はそっと席を立った。三線の爪弾きに伴われ、歌が流れる。森の樹々を見詰めていたキャメラは空を仰ぎ、風に揺すられる木枝(映像)と葉擦れ(音声)が交錯する中から、タイトルが現れる。

『島の色 静かな声』の「あらすじ」は、作品紹介ページ(※)に次のように記されている。
※http://silentvoice.jp/shimanoiro/movie/index.htm
この物語は、闇に浮かぶ海と波の音から始まり、
そこに光と色彩が現れる。
青い海に囲まれた緑の島、
目の覚めるような藍の布、
揺れる緑の芭蕉畑、
手紡ぎの白い糸、回る糸車、
四季折々の植物とその色を染める神秘的で強烈な瞬間、
軽やかな機を織るリズムとその心地よい音、
丹念な仕事を繰り返す手、
日に焼けた肌、皺の刻まれた顔、
桃色の子供の肌、
ジャングルの中を駆け抜ける足、
釜を焚き付ける炎と白い煙、
木々の間で干される糸や布、
台風のときの強烈な風と雨、
海に浮かぶ布、
深紅の花、
猪猟、
神の恵みに感謝する唄と三線の不思議なメロディー、
白い衣を着た司の祈り、
黄金色の夕暮れの海、
節祭で迎えられた黄色の着物を纏うミリク神、黒装束の女たちの踊り、
サバニ舟を漕いで海へと向かう男たち、
夜更けまで泡盛を飲んで歌い踊る村人、
猛暑の中での農作業や漁業、
豊かでダイナミックな自然、
そしてその自然を守るための島人の努力。
それらの多様な表情が、力強く、繊細に織りなされていく
生気なく去勢された都市生活の中では出会いようもない、様々ないきいきとした生(ロウ)なイメージが溢れる中で、私がとりわけ注目したいのは、どうしようもなく出会ってしまう音や光、色や響きが、観光的な、あるいは民俗学的な、さらには社会学的な、文化人類学的な、宗教学的な、精神分析的な、政治的な、経済的な視点を通じてではなく、ただひたすら生活/労働、すなわち身体の運動を通じて立ち現われてくることである。
ふっと眼の前に浮かび上がる白い繭玉の輝きも、光の線となって走る紡がれる糸の軌跡も、染める布を素早く揺り動かす手の動きも、藍染めの染料の表面に盛り上がった不思議な形のあぶくも、キャメラの、あるいは私たちの眼の焦点が合わないがためにゆるやかな色彩の斑紋と化して揺れ動き、流れ去るが、それはどこまで行っても、単に美的な対象として身体から切り離されてしまうことがない。それゆえにこそ、それらの美しさは、草原に色濃く落ちる木々の枝の影や、その先で居眠りしている飼い犬の姿や、鉈で割られた紅露の血の滴る生肉のように鮮やかなザクロ色や、玄関先に迷い込んでくるヤギとひとつながりになっている。外に干された染布に向けられたキャメラが、焦点を外したまま色合いの滲んだ斑紋と光の散乱をとらえ、その向こうにガジュマルの林を覗かせたかと思うと、布の表面の風合いを手触れるほどくっきりと映し出してみせるという映像のマジックも、こうした身体の結びつきに支えられている限り、視覚的なギミックとはならないし、昼食の分け前をもらおうと傍らで控えている犬の映像が、知らぬ間に飼い犬が鍋の材料になっていた子ども時代の思い出話に引き継がれても、いっこうに悪趣味とは感じない。豊かな自然は、そこに暮らす人間などお構いなしに、残酷かつ凶暴なまでに豊饒かつ深遠なのであり、人はただ生活のために、規則正しく身体を動かし、木を切り、糸を紡ぎ、布を染め、肉を切り分け、機を織り、笠を編み、衣服を仕立てる。こうした労働により、いや労働によってのみ、自然と向かい合うことができる。そこにはきびきびとした、あるいはゆるやかに流れるような、いずれにしても目的に沿って無駄なく切り詰められ、力みのない滑らかさを獲得した身体の動きの繰り返しがあり、そこにリズムが生まれ、打つ音や吹く音、擦る音は、風や波、雨や流れの音と響き合うことになる。
そうした世界の在りようが、まさに織り成される音と光から、自ずと生成するように描き出された映画の前半は、実に素晴らしかった。そして、そうした世界のとらえ方とまっすぐに結び合った冒頭のスティルライフの演奏もまた、これまでになくきっぱりと繊細であり、音楽と映画のジャンルを横断した結びつきといった惹句をはるかに超えて、一連なりの音と光の上演として密接に結びついており、また、そうあることの必然性を強く感じさせるものとなっていた。
だが、後半、映画はその調子を少しずつ変えていったように感じられた。映画冒頭部分では、自分が幼いころから家で母親がずっとやってきたことであり、ここで採れるものによるここの土地ならではの仕事であると説明されていた糸紡ぎや布染が、誰かのために衣服を仕立てることが捨てられない服となる‥と、生産者の立場からの商品価値論、あるいはアーティストの視点からの存在意義の問いかけとして語られたあたりからだろうか。共同体の祭り、疑似的な兄弟関係、古からの聖地に建設されたリゾート施設の廃墟、遊覧船や都市の映像、ラジオ体操で流れるジブリ音楽、広大なゴミ廃棄場、ビニール袋を呑み込んで砂浜で死んでいた海亀‥‥と、立て続けにいかにも現代社会批判/コミュニティ礼賛的な映像が連ねられ(私は一瞬、新藤兼人を思い出して辟易とした)、仕事の中の見えないプロセス、見えない世界への注視が、妙に説教臭く求められる。
言葉に導かれて出会う映像の数々。それらはあらかじめ先に書かれていた物語を絵解きしているように感じられる。
ドキュメンタリーだから社会的メッセージの声高な主張が必要だというのは、随分と頑なで狭く凝り固まった了見であるように思う。それは私がフィールドレコーディング作品の聴取を通じて、自然の生成を凝視することの深さ、豊かさを知り、そうした経験に裏付けられた見方を、こうした自然をとらえたドキュメンタリー映像作品に投影しているからかもしれない。しかし、本作品のタイトルに即して言えば、失われていく「島の色」を守るために挙げられた「静かな声」を、社会的メッセージへと増幅してみせるのではなく、「島の色」が語り掛ける「静かな声」に耳を傾け、そこに没入することを通じて、自然の、そして労働を通じて自然に関わる人々の生活の、豊かな息づきを聴き取ることこそが重要なのではないだろうか。少なくとも本作の前半部分は、驚くべき鮮やかさで、この使命を見事に果たしていたと思う。
映画が終わり、再びスティルライフが演奏を始める。今度は3本の蝋燭に火が点された。先ほどより遥かに明るく、揺らぎのない光の中で、二人はどこかいらいらと不安やフラストレーションに突き動かされているように見えた。細い金属棒を床に落とす音が耳に痛い。細い木筒に息が吹き込まれ、金属筒に吹き込まれた息が応える。藁束が床を掃き、水の入ったガラス瓶が床を打つ。床へと落とされ続ける金属棒の響きに切断されながら、唐突にカンテレが鳴り響き、ガラスで床を擦る音をガラス粒のきらきらした輝きが追いかける。それぞれの音は孤独に震えながら、視線を交わすことなく、コートの襟を立て、背中を丸めたまま早足に通り過ぎる。冒頭の演奏のように、繰り返しのうちに住処を見出すことができない。属すべき場所を喪失してしまっていることへの苛立ちが、様々な音色を次々に試しながら、そのどれにも飽き足りず、次々に音具を取り換えていく「加速」、つるつるした表面を踏みとどまることができずにどこまでも滑り落ちていくような‥‥、を生み出している。そこに見られる強迫的な断片化は、フリー・インプロヴィゼーションが来す典型的な症状である。
スティルライフの演奏の、この前/後の落差は、いったい何によるものなのだろうか。「冒頭の演奏の行程をなぞり繰り返すことはしまい」という決意が最初にあったであろうことは確かだとして、映像のもたらした変容が、そのまま露呈しているのだろうか。彼らの技量をもってすれば、もっと「らしい」演奏でその場を取り繕うことなど、簡単なことであるはずなのに。とすれば彼らはやはりその場に身を浸し、環境を呼吸しているのだと、改めて思わずにはいられない。

【追記】
『島の色 静かな声』に関するレヴューをネットで検索してみると、予想されたことではあるが、評価の視点が私と真逆であることがわかる。誰かのために衣服を仕立てることが捨てられない服となるそこでは私が悪い意味で引っかかった「誰かのために衣服を仕立てることが捨てられない服となる」との言が、作品中、最も共感した、心に響いた言葉として受け止められ、本作の「映像詩」(という形容がふさわしいかどうかは置くとして)的側面については、「それほど映像に私的な美しさはない」として「ドキュメンタリーとしては抽象的過ぎる」と切って捨てられる。やはりここでは、言葉に導かれて音や光と出会い、すでに書かれたものの絵解きとして映像をとらえることが当然の前提となっているのだろう。そうした眼差しの下では、映像は作者の意図を運ぶ船に過ぎず、眼や耳がとらえきれず溢れ出してしまうような細部の豊かさなど、単なる余剰に過ぎない。そのような貧しい眼差しによって世界をとらえることの方が、よっぽど抽象的ではないか。
フィールドレコーディングやフリー・インプロヴィゼーションによってもたらされる音を、演奏者や録音者、あるいは編集・制作者の意図に還元してしまうことはできない。それらは常に、そうした意図をはみ出す過剰な細部を豊かにはらんでいる。そしてそうした要約できない細部の豊かさに耳が届かなければ、フィールドレコーディングやフリー・インプロヴィゼーションを聴いたことにはならない。
何もそうした「特殊」な音楽の聴取体験を経由しなくとも、私たちはふだんから、そうした過剰な細部に知覚を、身体を揺すぶられている。都会に溢れる人工的な音と光の洪水は、むしろそうした「揺すぶり」に対する感覚を麻痺させ、鈍麻化してしまう。四六時中装着しっぱなしのイヤホンや片時も視線を離すことのないスマートフォンの画面が、雑踏の中での「コンパートメント化」をいともたやすく達成してしまうように。
津田貴司が沖縄久高島を訪れて撮影してきた風景は、「強い光」や「鮮やかな色彩」といったステレオ・イメージを遥かに超えて、感覚を身体を揺すぶりたて、ざわつかせ、内部へと侵入し、あるいは外へとだだ漏れに流出させる禍々しい力に満ち溢れていた。そのような風景の力が、労働によって切り取られ、等身大に人間化された自然の中にも、静かにだが脈々と息づいていることを、『島の色 静かな声』は教えてくれる。
不安定に移ろい、唐突に現れる対象、近接/没入し過ぎて輪郭や全体像がつかめないカット、眼にも止まらぬ素早い動きの残像、合ったり合わなかったりする焦点は、そうした世界への誘いであり、隙間の空いた戸口のところまで私たちを案内してくれる。だが、そこから一歩踏み出し、中を覗き込むのは、各自に委ねられた「労働」にほかならない。


撮影:津田貴司(久高島の風景)
島影巡り」第二夜 『島の色 静かな声』
2016年4月16日(土)
清澄白河gift_lab
ライヴ演奏:スティルライフ(笹島裕樹+津田貴司)
映像作品:茂木綾子『島の色 静かな声』
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