「聴くこと」がもたらす感覚の変容・変質 「タダマス22」レヴュー "Deep Listening" Makes Transformation and Alteration to Senses Review for "TADA-MASU 22"
2016-07-31 Sun
この日(7月24日)の四谷音盤茶会の選盤はいつになく「濃い」ものとなった。益子の言うところの「音色」、「サウンド」、「(聴くことの)快感」が炸裂したプログラム。それらは聴き手が慣習的にイメージする「ジャズ」とは似ても似つかない、およそかけ離れた姿をしている。にもかかわらず、旧来の「ジャズ」から外見上どれだけ遠く隔たっているかの「距離」において、これらの演奏/作品を位置づけ評価するのは、まったくの見当違いだと私は考えている。ここでは前述の「音色」、「サウンド」、「(聴くことの)快感」といった視点/評価軸の可能性を掘り下げるため、これらに基づいた選盤の流れの中に引かれた(引かれているはずの)前後の対比の線を、私なりにくっきりと浮かび上がらせながら論じていくこととしたい。それは必然的に益子によるプログラム作成意図に触れることになるだろうが、決して彼の意図を正確に推し量ることを目指しているわけではない。いつものことながら、それは私の視角からとらえた音像にほかならず、言うならば「『松籟夜話』から見た『タダマス』」ということになるだろう。なお、当日のプレイリストについては、次のURLをご参照いただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767

撮影:原田正夫
この日の焦点となった後半「ダーク・サイド」の5枚に触れる前に、前半「ポップ・サイド」の5枚のうち、印象に残った作品について書いておきたい。


これに対し、後半「ダーク・サイド」の常連Henry Threadgillが、何と前半2枚目にかけられた。ピアノを左右に配して対称性を高め、Threadgill自身は作曲のみで演奏に参加しないアンサンブルは、冒頭のピアノ2台だけによるパートなど譜面剥き出し感が強く、その後、各楽器が出入りしながら、織り面の移り変わりを見せていく彼独特の展開はあるのだが、ちょうどロウソクの炎の揺らぎが映し出すめくるめく走馬灯の景色のように、あらかじめ用意された枠組みを離陸した音自体が息づき、自在に伸び縮みしながら、夢幻的に巡り巡るところまではとても行かなかった。前述2作品の「露払い」の位置に座したのもむべなるかなと。


クラシック作品の演奏を聴く楽しみとは、作曲された旋律をたどることではなく、ホールを満たす響きに深々と身を沈めることにあるのだと前置きして、多田は、このStetsonたちの演奏について、「純粋体験」というか、耳の焦点を合わせれば合わせるほど、対象がひと塊の音ではなくなり、幾つにも分岐し、当てもなく広がって、自分が包み込まれていく‥‥と語っていたが、オーケストラよりもはるかに小編成の演奏ながら、そうした底知れない奥行きの深さが確かにここにはある。オリジナルの演奏はもっとテンポが速いという益子の指摘に、その時は深く頷いたものの、オリジナル編成の録音を幾つか確かめてみると、テンポ自体はそれほど違わない。しかし、テンポ感の遅さというか、足取りの重たさ、降り積もった雪を踏みしめ足が地面に食い込むような沈み込み感覚は、Stetson版の演奏に特有のものだ。
本作品のひとつ前にかけられた7枚目Pascal Niggenkemper『Le 7eme Continent:Talking Trash』に、現代消費文明批判のコンセプトから軋みに満ちたノイジーなサウンドを構想し、ただそれを演じているだけ‥‥という浅薄さ(いや標題音楽とはそういうものだろうという反論はさて置くとして)をどうしても感じてしまうのに対し、このグレツキのよく知られた作品の再構築においては、演奏の瞬間瞬間を通じてサウンドがより深く追求されているのが素晴らしい。そのことが先の「沈み込み感覚」をももたらしているのだろう。空間の豊かな残響を活かし、耳触りのよさを追い求めた清水靖晃によるバッハのアダプテーション等とは、アプローチは一見似ていながらも、明らかに求める方向性の異なる作品と位置づけられよう。

Soreyによる打楽器のパートはおそらく即興的に演じられ、弦やピアノのパートは記譜されているのではないかとのことだが、これはただ「譜面の音響化」によって成し遂げ得る演奏ではなかろう。ここですべては様々な度合いの「振動」のブレンドとしてある。光の届かない水底に沈み、側線で水の動きを感知する魚のように、全身を耳にして音響空間の深みを探る耳の眼差しの強度/浸透力と、ひとつところに留まるために自らを取り巻く水の微細な揺れ動きに合わせ、絶え間なく鰭の動きをコントロールし続ける「即興」的鋭敏さ/繊細さなしには果たし得まい。終盤にヴァイオリンが見せる超絶技巧やコントラバスの弓弾きによる深々としたドローンも、そうしたひとつながりの「ブレンド」の一部にほかならない。


撮影:原田正夫
「音色」、「サウンド」、「(聴くことの)快感」によってひとつに束ねられた流れを、こうして前後の対比に沿って切り分けながら見ていくと、それらの作品が旧来の「ジャズ」とは似ても似つかない、およそかけ離れた姿をしているにもかかわらず、そこでは一貫して演奏を通じてのサウンドの追求/錬磨、その音楽があらかじめ記譜等により準備されているか否かにかかわらず、演奏へと離陸してからの瞬間瞬間の反応にすべてを賭けているあり方が浮かんでくるように思う。もちろんそれは「素早く柔軟な身のこなし」という点では、従来からのジャズ的なミュージシャンシップの延長上にあるのだが、これまでと大きく異なっているのは、「聴くこと」の覚醒/拡大/深化という点ではないかと感じている。そのことが音色の微細な差異や空間/響き/沈黙への感覚を研ぎ澄まし(興味深いことに、この時に感覚的差異は必ずと言っていいほど触覚的なものとして立ち現れる。もしかすると、これは話が逆で、感知すべき差異がミクロ化することにより、感覚の階梯上、自動的に触覚が浮上するということなのかもしれない)、聴くために必要な時間=遅延をいまここに繰り込んで(「聴くこと」とは「待つこと」にほかならない)、感覚を変容させる。
自らの脳内ヴィジョンを投影したり、共演者の意図を推し量ったり、強迫的に身体動作を加速したりする代わりに、すでに空間の一部として存在しているざわめきや響きを含め、いまここにある音に耳を傾けること。自ら放った音も、共演者の出した音も、ふと鳴り響いた物音も、「手元を離れたもの」として意図や原因からいったん切り離し、意味の乗り物、すなわち記号ではなく、様々な度合いの振動として、持続の総体として、改めて見詰め直すこと。確かグレゴリー・ベイトソンが言っていたのだと思うが、人間が作成した人工物に比べ、生物をはじめ自然がかたちづくったものは、必ずより複雑である。何らかの意図や記号へと還元するのを止めた時、音はこれまで捨象されていた本来の豊かさを露わにする。
たとえばフィールドレコーディング作品に対する聴取を、風景の表象とか制作者の意図だとかに還元してしまったら、およそ貧しくつまらないものとなってしまうだろう。同様にフリー・インプロヴィゼーションを「自分はあらかじめ準備なとしていない。これはいまここでつくりだしている音である」という自己弁明の証左として聴くことが、いかにつまらないことであるか(実際のところ、「いま私が行っているのは即興演奏にほかならない」ということだけを証し立てるために演奏している者は数多いが、このトートロジーにいったい何の意味があると言うのだろう)。
フィールドレコーディング作品を聴くように、フリー・インプロヴィゼーションを聴くならば、そこに思いがけない豊かさを発見することができるだろう。前回、ライヴ・レヴューの対象とした大上流一と森重靖宗のデュオなど、まさにそうだった。今回の「タダマス22」で紹介されたTyshawn Soreyたちの演奏も、それを記譜したコンポジションのリアライゼーションとしてではなく、たとえばAlain Kremskiの隣に並べて「こうした意匠はすでにある」と片付けてしまうのではなく、持続としての音に耳を浸し、『松籟夜話』でキーワードとして掲げている「即興・音響・環境」の三者の相互変容としてとらえるのであれば、「聴くこと」を深め楽しむ、またとない契機となり得ることだろう。
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 22
2016年7月24日(日)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:千葉広樹 ベース・ヴァイオリン・エレクトロニクス奏者/作曲家

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交わらない視線、融けあう響き 大上流一・森重靖宗デュオ ライヴ・レヴュー They Don't Meet Their Eyes But Their Sounds Melt into One Live Review for Ryuichi Daijo and Yasumune Morishige Duo @ Ftarri
2016-07-27 Wed
彼らは視線を交わらせるということがない。大上はたいていの場合、ギターの指板の上に置かれた、あるいは背後に設置した旧式の「ラヂオ」のつまみに伸ばされた左手の指先を見詰めており、時に足元に視線を落とす。対して森重は眼を瞑り、両手指先の触覚をフル・ヴォリュームに高めながら、チェロの弓や胴から伝わる振動に深く糸を垂らしている。まだ歩み続ける左手をよそに、大上の右手がふと立ち止まり、弦を離れ、そのわずか上空をあてもなくさまよい始める。やがてそれも止まり、彼はギターを抱えると、森重の方を眺めやる。先ほどまで聴こえるか聴こえないか、ぎりぎりのフラジオを奏でていた森重の弓は、もはや弦を離れ、それでも動きを止めることなく、ゆるやかな往復を繰り返している。沸き立ち中空に舞い上がった沈黙が、再びその場に降り積もる気配を察し、ようやく彼は動きを止める。息を止め、肌をそばだてて確かめてから、彼はようやく眼を開け、大上と視線を合わせる。この日、前半と後半、1回ずつの演奏の最後にいずれも見られた、しめやかな儀式。
視線を交わらせないということは、互いに聴きあわないということではもちろんない。事実は真逆である。彼らは相手の弦に直接触れているのではないかと思うほど、鋭敏な反応を見せる。そこに距離はない。それゆえにこそ、相手の身体の運動に対して、鏡像と向かい合う猿のように我を忘れて性急に、またせせこましくヒステリックに、自らの身体の動きを投げ返すことがない。彼らは距離によって分離された視覚像にとらわれることなく、同じひとつの空間の中で、響きを通じてひとつに融けあうよりない音の流れに、深々と身体を沈めている。水中で水の流れを感じるように、彼らは多方向からの力動の交錯として、音の流れを感じ取っていよう。自らの弦の振動も、相手の弦の振動も、たちまちのうちに波紋を広げ、変わりなく肌を打つ。私たち聴き手もまた、そうした音の深みへと誘われ、めくるめくように重層化し、ひとつに融けあい、また幾つにも分岐していく豊かな音の流れに、打たれ揺すぶられていたように思う。それは耳が清清と洗われ、また心地よく押し広げられる体験だった。

撮影:原田正夫
すっと弾かれたギター弦の振動が、幾重にも甘皮を剥がした清冽な、だがまぶしさのない響きへと立ち上がり、弓を傾けて当てられたチェロ弦の、少し曇りのある音色と混じり合う。さらに深く弾き込まれたチェロ弦が響きを増し、軽やかにかき混ぜられたギター弦のざわめきを含んで、さらに滋味を豊かにする。
二人の演奏はここで所謂「特殊奏法」(エクステンデッド・テクニック)へとほとんど向かうことなく、また、ことさらに一音一音を切り離す切断の素振りも見せないにもかかわらず、自ら閉域をかたちづくって単独で線を描くことがない。線描/輪郭と色彩へと二分化していくこともない。二人は互いに音を差し挟みあい、重層化させ、ミクロに絡み合う。ブリの切り身や身欠きニシンと大根のように、あるいはヤンニョムと白菜の葉のように、交互に敷き重ねられ、浸透し、発酵して変容の果てに分ち難くひとつのものとなって、複雑極まりない豊かな香りと味わいを獲得する。時にそれはアルゼンチン・タンゴの濃密な情感すら醸し出す。
ふつふつと滾り、高揚して急加速し、激しく打ち鳴らされ、あるいは彫り刻まれる弦の響きの充満。どこまでも細く長く引き伸ばされて、次第に遅くなり、ほとんど停止してしまうかに見えて、自らの重さでかろうじて中空に浮き漂っている音の軌跡。互いに互いを細かく差し挟みながら、ただただ厚く重ね描きあうだけでなく、すっと身をかわし、いちど引いたうえで、またふっと別のところに姿を現す身振りの優雅さに二人とも長けている。音の、響きの、細く薄く儚く滲んで消え入る様の見事なこと。
この日、アコースティック・ギターを演奏した大上が、まるでSP盤の音が聴こえてきそうな骨董品的な「ラヂオ」を、時折「ギター・アンプ」として使用していたことにも触れておかねばなるまい。足元のヴォリューム・ペダルでオン/オフするのだが、さらにトランスミッターを噛ませて、ラジオとして拾った電波が予測不能な干渉をするようにセッティングしてあるらしい。単に「ギター・アンプ」として音をすべて通してしまうと、何重にも紗をかけたようなモコモコとした解像度の低い、音色の上でもダイナミクスの点でも抑揚のつきにくい、いささか単調な音となってしまうのだが、一連の演奏の途中でオン/オフをすることにより舞台の照明が切り替わるような印象をもたらし、あるいはうっすらと音色を曇り濁らせ、紙面が毛羽立つような感じを与え、さらにはこれから演奏する音が旅立ち、演奏された音が滲み消えていくべき静寂に、一様ではない、手触りのあるムラを陽炎のように波立たせて、空間の奥行きを変容させるなど、何とも不思議な効果を挙げていた。
もうひとつ言及しておかなければならないのは、ほぼ2ヶ月前、5月22日に行われた大上・森重デュオの前回の演奏(やはり素晴らしいものだった)との対比である。この時、森重は通常の奏法ではほとんど弦を弾かなかった。チェロの駒や胴、あるいは駒よりも下の部分を弓で弾いたり、弓の背で弾いたり、円を描くように弓を動かしながら押し付けたりと。これにより音は楽器本来の深々とした響きを奪われ、剥き出しの乾ききった物音や、あるいは極端に圧縮されたノイジーな音響と化す。もちろんそこには聴取を触発して止まない別様の「豊かさ」が開けているのだが、少なくとも耳の風景はまるで違ったものとなる。これは(少なくとも近年の)森重の本来の語法の主要な一部であるのだが、ソロやダンス等との共演以外では、「双子」的な結びつきを有するチェロ奏者ユーグ・ヴァンサンをおそらく除いて、その「物音」がもたらす、具体的な物質性の極としてのアブストラクトさが目立つことが多かったように思う。
だが、大上との共演において、そうした「物音」の具体的な物質性やアブストラクトさが異物として浮かび上がることはなかった。それは決して大上が「物音」を多用したからではない。大上は確かにデレク・ベイリーが開いた扉の向こうで演奏しているのだが、数多のベイリー・コピイストたちが飽きることなく繰り返す、あたかも弾き損ねたかのように弦を歪に振動させる不定形のサウンドを、極めて限定的にしか用いない。そのような音を素材として選択/採用することで、自分がいま始めようとしている(行いつつある)行為が「即興演奏」であることが、すでにして保証されている‥‥などという愚かな考えを、彼はいささかも持ち合わせていないのだ。彼は弦を正確に振動させることにより、研ぎ澄まされた響きそのものを取り出し、それを寸分の狂いなく精妙に配置する。響きの充満に陶酔することも、身体動作の加速に耽溺することもなく、弦への一打一打を、先に放たれた音に追いすがるのではなく、その後に否応なく口を開ける新たな沈黙/空間へと正面から向かい合わせる。この揺るぎない音への姿勢、沈黙/空間との覚醒した対峙の仕方こそが、彼と森重を結ぶ共通の地平と言えるだろう。
前回はアコースティックだけ、今回は一部で「ラヂオ」を使用という違いがありながらも、弦自体へのアプローチとしてはほぼ変わることのなかった大上、それとは対照的に、全く弦に触れなかった前回に対し、弓弾きのみの第1セット、ピチカートで始め弓弾きへ移行した第2セットと、今回はアプローチをがらりと切り替えて弦だけにアクセスした森重。そうした極端な対比が私の感覚に浮かび上がらせたのは、むしろ先に述べた「共通の地平」の確かな手触りだった。
もちろんこれは後付けの理屈であって、聴いている時はそんなものを探り当てようと目指していたわけではない。二人が相手を見やることなく視線すら交わさずに放ちあう音の粒子/波動が、ぶつかりあい反発し邪魔しあって響きを濁らせてしまうことなく、砂に水がすーっと浸透するように、重なり合って揺れる木の葉がそれでも確かに木洩れ陽を地表へ届けるように、互いにすれ違い沁み込み融けあう様に、ただただ眼を見開き、見とれていた。
最初から周到に準備して、注意深く相手を観察し巧妙に似姿を演じ合っているのではない。躊躇と逡巡を分かち合いながらおずおずと手を伸ばし、「共犯関係」を確認しあってから、そっと手を触れ合っているのでもない。ましてや力任せに向こう側へと突き抜けようとするのではまるでない。きっと彼らには自らと相手の放つ音の、あるいは演奏空間にあらかじめ存在する音の隙間がよく見えているのだろう。パンソリの修行を描いた韓国映画『西風便(ソピョンジェ)』に、どうどうと流れ落ちる滝に向かって、主人公の少女が繰り返し声を放つ場面がある。滝は落下する水滴の集まりで、だからその音は連続しているのではなく隙間に満ちており、その隙間に声を通すのだと、師匠がこの過酷な修行の意味を説明する。生まれてはすぐに消えてしまう音と音の間に開けた、広大な時間的/空間的隙間に向かって、つまりは虚空に対峙して新たな音を放つこと。だから一つひとつの音は、屹立する強度を最初からはらんでいなくてはならない。
ロングに引いた固定フレームでとらえるならば、二人の男が向かい合い、ギターとチェロが並んで音を出している光景は、最初から最後まで変わることがない。そこには聴き手の予測や期待を裏切ろう、裏をかいて驚かそうなどというさもしい根性はかけらもない。けれど二人の周囲の空間に放たれた音は、目まぐるしく移り変わる景色を、文様を、濃淡の勾配を変幻自在に映し出す。くっきりと細密な面相の筆致と薄墨の滲んだ広がりの水墨画的対比と見えたものが、和紙の繊維の毛羽立ちやバレンの刷りむらがつくりだす触覚のリズムの次元へとミクロ化したかと思えば、当ての無い口笛や金属質の鈍い輝きとなってふと闇から浮かび上がり、そのままヴィブラートを効かせて太く深く空間を彫り刻み、熱く胸に迫る。
両方の壁から投げかけられた照明が、二人の間にそれぞれの影を落とし、それがひとつになって輪郭を不断に変えながら鼓動し震えていた。

撮影:原田正夫
大上は同じ組合せのライヴを3回ずつ行っている。次回、森重とのデュオの3回目は9月10日(土)にFtarri水道橋店で開催とのこと。9月18日(日)に予定している『松籟夜話』第七夜と重ならなくてよかった。また、聴きに行くことができる。
2016年7月17日(日)
Ftarri水道橋店
大上流一(guitar,radio)、森重靖宗(cello)
2016-07-21 Thu
益子博之と多田雅範がナヴィゲートするNYダウンタウンを中心とした同時代ジャズ・シーンの定点観測「四谷音盤茶会」(通称「タダマス」)の、7月24日(日)に開催される22回目を、『キャッチ22』で映画に初出演したアート・ガーファンクルと共に祝うこととしよう(私の誕生日でもあるし)。
彼のソロ作品『ウォーターマーク』(私も愛聴している名盤!)を絶賛する多田は、第22回四谷音盤茶会について、自身のブログで次のように書いている。
益子セレクトでしか透視できないような可能性の領野だ、この耳のラインを示唆しているメディアや音楽批評は世界的にも他にないわけだけど、海外のミュージシャン投票と共振しているという客観的な裏打ちもあるし90年代にラパポートさんのじゃずじゃで耳を鍛えたぼくや友人たちは今はここが発火点であることを確信している。
今回はよもやのブルーノートに悶絶してしまうし、すぐにはその底知れぬ可能性を把握できない恐ろしい女性ピアニストの発見もあるし。
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20160707
また今回もオドロキに満ちた、新たな出会いが用意されているようだ。一方、益子による告知は次の通り。
今回は、2016年第2 四半期(4~6月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。
ゲストには、ジャズから即興、エレクトロ、ポップスまで幅広い分野で活躍するベース/ヴァイオリン/エレクトロニクス奏者、千葉広樹さんをお迎えすることになりました。千葉さんの活動の範囲と同じように、多彩に広がる現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。
基本的には益子による選盤・選曲に基づいて進められながら、ゲストであるミュージシャンの意外な見解、多田の激しくコースアウトするツッコミ(かつボケ)により、予想外の展開を見せるのが「タダマス」の常であり、飽きることのない魅力である。
レコード会社の惹句やミュージシャンのレコ発インタヴュー等に沿って、つまりは「制作者」側で用意した「正解」をなぞるのではなく、複数の耳の間で突き動かされ、引き裂かれて、気紛れかつ不安定に移ろう、だがそれゆえに多面的に開かれた「聴取」体験の魅力を、ぜひ味わっていただきたい。

masuko/tada yotsuya tea party vol. 22: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 22
2016年7月24日(日) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:ベース・ヴァイオリン・エレクトロニクス奏者/作曲家
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)
2016-07-10 Sun
椹木野衣『後美術論』(美術出版社)を読んだ。内容はかつての彼の著書である『ヘルター・スケルター』をはじめ、「いつか聞いた/読んだ話」的な「既視感」が強く、あまり感心しなかったのだが、とある一節に眼が惹きつけられた。具体的に指摘するならば、セックス・ピストルズの仕掛け人マルコム・マクラレーンへのシチュアシオニストの影響に筆を伸ばした際、一瞬だけ登場する「同じくシチュアシオニストの運動に参加したコペンハーゲンの画家アスガー・ヨルンは‥」という名前に(284ページ)。アスガー・ヨルン(Asger Jorn)といえば、ジャン・デュビッフェの音楽/音響探求時の共同作業者ではないか。彼の名前にこんなところで出会うとは。元はと言えば、デュビッフェによる「ミュジック・ブリュット」の試みに注目しながら、アスガー・ヨルンについて全く予備知識もなく、調べようともしなかったこちらが悪いのだ。この際せっかくなので‥と少し調べてみると、シュルレアリスムをちょっとかじった後、「コブラ」に参加し、さらにアンテルナシオナル・シチュアシオニストに加わり、脱退したことがわかった。デュビュッフェとの共同作業は1960年から1961年頃のことなので、さらにその後の活動となる。
おそらく美術側からのお定まりのデュビュッフェ評価としては、「ミュジック・ブリュット」の試みは取るに足らぬお遊びのようなものなのだろう。だから、デュビュッフェを通して見たヨルンの存在感は、希薄なものにとどまらざるを得ない。それはたぶんヨルンの側から見ても同じことらしく、英語版ウィキペディアのアスガー・ヨルンの項目には、「コブラ」やシチュアシオニスト・インターナショナルは出てきても、デュビュッフェの名は出てこない(ちなみにデンマーク語版にも出てこないようだ)。
今回調べていて、Jean Dubuffet & Asger Jorn『MUSIQUE PHÉNOMÉNALE』(当初、10インチ盤4枚組で限定50部のみリリース)のTochnit Alephからの再発予定を知り、心躍ったのだが、これはまたずいぶんとマイナーな喜びにほかなるまい。


椹木野衣『後美術論』 『MUSIQUE PHÉNOMÉNALE』再発予定


『MUSIQUE PHÉNOMÉNALE』オリジナル装丁と中身