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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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気球が空に舞い上がり… 『タダマス23』レヴュー  Kikyuu Ga Sora Ni Mayagali... Review for "TADA-MASU 23"
 10月23日(日)に行われた益子博之と多田雅範のナヴィゲートする四谷音盤茶会(=タダマス)第23回をリポートしたい。例によって、あくまで私の興味関心に基づいて切り取られた視角に関する報告なので、会の全貌をお伝えすることはできないことをお断りしておく(特に今回は偏りが激しいのではないか)。なお、当日のプレイ・リストについては、次のURLを参照していただきたい。
 http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767

タダマス23-0縮小
撮影:原田正夫


タダマス23-0 タダマス23-00
 会が始まる前にRobert Glasperの新譜がかけられていて、益子が、これはジャズというより、ブラコンと言っていいと思うんだけれど、どうも80年代がブームということになっているらしく、途中Weather Reportみたいになったりするんですよね……とコメントする。なるほどシンセサイザーのうなり具合とか、まさにそんな感じ……と、ここで、David Bowieの「遺作」となった『★』について気になっていたあれこれが、ふと浮かび上がる。ロック・ファンのとらえ方は「ボウイが新世代ジャズのミュージシャンを起用」というところで話が終わってしまい、そのサウンドの内実に踏み込もうとしない。一方、これに対するジャズ側の応答は、ボウイと共に「Sue (Or In A Season Of Crime)」のオリジナル版をつくりあげたMaria Schneider Orchestraを、彼とDonny McCaslin及びMark Guilianaの出会いの機会ととらえ、『★』のレコーディングを彼とMcCaslinのレギュラー・クワルテット(に先の「Sue」の録音に呼ばれた元MSOメンバーのBen Monderを加えた5名)によるものと見なしている。そしてMcCaslinたちの「新世代」性がテクニックの卓越に加え、「ジャズの生演奏とエレクトロニック・ミュージックの融合」を目指した結果として説明されるのだが、そこで言う「エレクトロニック・ミュージック」が原義よりはJ.Dilla以降の「ズレをはらんだリズム・プログラミング」を指すものであってみれば、これはヒップホップに代表されるブラック・ミュージックの視点から、ジャズを再評価することにほかなるまい。それゆえ「新傾向」の旗手として、当初から先のGlasperが掲げられることになっているわけだ。だが本当にそうなのだろうか。

タダマス23-1縮小
撮影:原田正夫


タダマス23-1 タダマス23-2
 と、ここで長々と説明を差し挟んだのはほかでもない。今回の『タダマス23』の冒頭に続けてかけられたSteve Lehman & Selebeyone『Selebeyone』とCorey King『Lashes』が、図らずも私のこの疑問に触れていたからだ。
 前者は益子により、これまでもヒップホップを採りあげていたLehmanが最初からヒップホップ作品としてつくりあげたものと説明される。Glasperのグループで演奏していたDamion Reid(dr)によるスネアとキックの配合を主成分とするビート構築は、Mark Guiliana同様の「不整脈」系で、多田が言う通り「ジタバタ感があり、単にノリだけで進まないところがよい」。これに対し上物は、ひたすらウネウネと絡み合う2サックスにしろ、ストリングスの残像だけを取り出したようなキーボードにしろ、棒読み調の英語ラップとアジテーションの激しさを帯びた西アフリカの言語であるウォロフ語によるラップの対比を際立たせることに徹している。ビートとラップというヒップホップの核心を突きながら、ここにブラックネスの色濃さは感じられない。Lehmanはあくまでヒップホップの鋳型をどう転用するかに注力しているように思われる。
 これに対し後者は「新世代ジャズ」のサンプルとしても採りあげられるErimajのトロンボーン奏者のソロで、他のメンバーがバックアップしているもの。ここでKingはヴォーカルを務め、各種キーボードやプログラミングを担当しながら、トロンボーンは吹かない。Erimajとの差別化を図るためともとらえられるが、サウンド自体がそもそも80年代シンセ・ポップ風で、もともと教会でゴスペルを歌うことから音楽に親しんだという声は、黒人風の粘りをわずかに感じさせるものの、歌唱あるいは歌ものの造りとしては、益子の指摘通り明らかにRadioheadの影響下にある。本人もRadioheadやBrian Eno、Daniel Lanois等のファンであることを公言しているという。やはりブラックネスは希薄だ。


タダマス23-3 タダマス23-4
 後半の開幕にかけられたECMからの2作品Jakob Bro『Streams』とAndrew Cyrille Quartet『The Declaration of Musical Independence』が、さらにこの問題を敷衍していたように思う。
 Jon ChristensenにJoey Baronが替わった前者のトリオからは、Paul Motianに捧げた10分近い即興演奏のトラックがプレイされた。ディレイの使用によりひたすら自らを自らに折り重ね、心地よい揺らぎを生じさせながらも、徹頭徹尾サウンドスケープしか生み出さないJakob Broのアンビエントなギターに対し、Thomas MorganとJoey Baronは共に、ディレイの生み出すレイヤーの広がりとその敷き重ねによる演奏の生成を念頭に置きながら、実際にはディレイを用いることなく演奏に臨んだ。具体的には、音高を極端に絞り込み、触覚的なさわりを前面に押し立てつつ、さらに音が反復しながらだんだんと遠のいていくような「人力ディレイ」(益子)を奏でたベースと、余韻を切り詰めたサウンドにより間を際立たせ、時折鋭角的な突っ込みを見せたドラムによる、二人の「聴く力」(多田)を遺憾なく発揮したプレイである。ここでも「エレクトロニック・ミュージック」の鋳型が異なる景色をもたらしている。
 他方、後者では、Cecil Taylor(p)のユニットのドラム奏者を永年務め、ブラック・フリー・ジャズの「闘士」として、ドタバタと忙しなく叩き回り、音数多く「うるさい」演奏を繰り広げていたAndrew Cyrilleが、時折忙しなさを見せるものの、むしろ間を重視した繊細な演奏を聴かせ、これにAnthony Braxtonとの共演こそあるものの、元Musica Elettronica Vivaのメンバーで明らかに畑違いのRichard Teitelbaumのシンセサイザーが、ホワイトノイズを散布して空間の広がりを眺め回し、あるいはサックスの気息音を模して視界を横切り、ただならぬ気配を充満させる。形を変えていく雲のような浮遊感を漂わせながら、以前よりは輪郭を明確にしたBill Frisellのギターは、基本的にメロディ・フレーズを繰り返すだけだ。ここにもブラック・ミュージックの祖型を用いながら、それをパブリック・ドメインとして自在に中身を組み替えていく手つきが見られるように思う。「マンフレート・アイヒャーではなく、サン・チョンのプロデュースだからこそ可能になった作品」という多田の指摘は鋭いと思う。


タダマス23-5 タダマス23-6
 この回のハイライトは、前半にかけられたJeff Parker『The New Breed』とJim Black Trio『The Constant』ではなかったか。Tortoiseのギター奏者として知られる前者は、益子によるとAACMにも参加しており、近年、活動拠点をシカゴからLAに移したとのこと。スクエアなビートに、ビートルズ「ストロベリー・フィールズ」的な弦アンサンブルの劣化サンプリングが、そこから滑り落ちそうな不安定さで重ねられ、さらに軽快なサックス・ソロが乗り、そこからさらにサックスがサンプリングされてループし、ドラムが連打をずらしていくという、ミスマッチを微妙なところまで見極めた編集感覚が素晴らしい。「レトロ・フューチャー」という益子の評も当たっている。冒頭部分が少しだけ披露された次曲はかつてのTortoiseを思わせる、細密に作り込まれながら、どこか牧歌的なカンタベリー風味だったから、本質は変わっていないのだろう。
 後者はメンバーを固定しての3作目。バシバシと小気味よく叩き込むドラムが前面に出るのはいつも通りだが、まだ26歳というピアニストの、サウンドを切り詰めてドラムを引き立てつつ、自らをも立ち上げるバランス感覚に耳が惹き付けられた。高音と低音に極端に二極化したパーカッシヴな打鍵によるプリペアド・ピアノ的演奏をはじめ、フレーズ展開風のソロを取らず、リズミックに砕け散ったアブストラクトなパッセージを中心に、むしろサンプラーやターンテーブル奏者のようなサウンド/ノイズ・メーカーに徹した演奏は、冗長さを徹底して削ぎ落とし、三人が一丸となって急坂を転げ落ち、飛び石伝いに川を渡り、絶壁の縁をひたひたと歩む運動の一体感を強めていた。もちろん、その陰には『タダマス』御用達ベーシストThomas Morganの支えがあるのだが。


タダマス23-7 タダマス23-8
 もうひとつ、今回の収穫を挙げれば、声のゆるやかな温かみではないかと思う。Sara Serpa & Andre Matos『All The Dreams』では、音程の揺れる電子音やエコーの滲み、テープ逆回転の使用といった、いささかアナクロニックな「アナログ感覚」が、フレンチあるいはブラジリアン・ポップス的な声の処理(Stereolabが『Cobra and Phases Group Play Voltage in the Milky Night』で参照したような)と相俟って、そうした時の流れを生み出していた。
 対して、やはり最近『タダマス』登場機会のめっきり増えたJoachim Badenhorst率いるCarate Urio Orchestra『Ljubijana』からは、オブスキュアな日本語歌詞の曲を。深いエコーの中で交錯する口笛と囁きヴォイス、薄暗がりに沈んだ爪弾きギターとよく聴き取れないヴォーカル。「気球が空に舞い上がり、雲を突き抜けさらに高く、太陽とひとつになるまで」と力なく呟かれるイカロス的飛翔への憧れを含め、1970年代初頭の京都ヒッピー集団による自主制作盤と言われたら信じてしまいそうな仕上がり。愛すべき音楽。
タダマス23-2縮小
撮影:原田正夫


 この日は、エンクロージャの変更、ツイーターの故障と、このところ腰の定まらないところのあった喫茶茶会記のスピーカーが、以前とは異なるより明晰なポジションながら、据わりの良いサウンドを聴かせ、ようやく落ち着くべきところに落ち着いてきた感があった。ゲストとして『タダマス』2回目の登場となる井谷享志は、曲によっては用意された席が位置する側面から、おもむろに席をスピーカー正面側へと移し、熱心に響きへ耳を傾ける「聴き手」としての貪欲な集中を見せた。相変わらず発した言葉は多くなかったが、隣に座っていた多田が、聴取に集中している彼の気配に大いに触発された旨を語っていて、大いに頷かされた。複数で聴くことによる発見は、交わされる言葉よりも、むしろそこにある。今回かけられた音盤を聴いて、井谷が「実は僕歌いたいんですよね」と漏らしていたのも興味深かった。「声と打楽器というのは、何かモノクロな感じでいい」というのは、時にモノクロ写真がカラー写真以上の色彩感を持つように、最小限の要素から無限の可能性が広がるということだろう。「声と打楽器」と言われて最初に頭に浮かぶのは、チャールズ・ヘイワードや灰野敬二だが、彼の前にはそれとは違った可能性が開けているように思う。ぜひ聴いてみたいものだ。

タダマス23縮小

masuko/tada yotsuya tea party vol. 23: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 23
2016年10月23日(日)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:井谷享志(パーカッション・ドラム奏者)



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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:57:19 | トラックバック(0) | コメント(0)
タダマス、ウィリアム・バロウズと「23の不思議」について語る  "TADA-MASU" and William S.Burroughs Talked About "23 Enigma"
 益子博之と多田雅範がナヴィゲートするNYダウンタウン・シーンを中心としたコンテンポラリー・ミュージックの定点観測『四谷音盤茶会(通称「タダマス」)』も明日で23回目を迎える(ん……10月23日に23回目? 不思議な符合ではある……ということで、今回の題名は「23の不思議」にちなんだ)。

 以前に文藝別冊(河出書房新社)『デヴィッド・ボウイ』に執筆したことがあったが、新譜『★』のリリース、そしてその直後の彼の死により、それが「遺作」(これからリリースされる『Lazarus』の方が、その名にふさわしいのかも)となったことを踏まえ、改めて彼について考える機会を与えられた。
 相次いで出版された雑誌の追悼記事等を読むと、「タダマス」ではすでにフォロー済みのMark Guillianaをはじめとする「新世代ジャズ・ミュージシャン」の参加が注目を集めているのだが、その採りあげ方に「未だにロック/ポップ・ミュージックにとって『ジャズ』とは『対岸』の音楽なのだ」という、いささか時代錯誤的な感慨を抱かずにはいられない。今はウェブ上に情報が溢れ、一生かかっても聴き切れないぐらい大量の音源を聴取可能な『ジャンル・フリー』の時代ではなかったのか。
 ……と、かく言う私も、その辺の音楽事情を何となくわかったつもりになっているのは「タダマス」に参加していたからにほかならず、益子と多田には感謝してもしきれない。改めて「他者の耳を通じて聴く」ことの重要性を思う。

 今回ゲストの井谷享志は「タダマス」2回目の出演だが、私にとって彼は、何よりも蛯子健太郎率いる図書館系ジャズユニット「ライブラリ」の打楽器奏者である。先日ライヴ・レヴューを掲載した横浜Firstでのライヴにおいても、通常のドラム・セットを用いながら、繊細で多彩な音色により、音と音の間を操って、まるで脈釣りの達人のように「時の流れの糸」のテンションを自在にコントロールしていく様は実に見事だった。多田雅範はポール・モチアンの演奏の凄さ、彼が切り開いた新たな演奏の領野について、これまで何度となく語ってきているが、私にはそれらの言葉がまっすぐに井谷のことを眼差しているように思われる。


タダマス23縮小

masuko/tada yotsuya tea party vol. 23: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 23

2016年10月23日(日) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:井谷享志(パーカッション・ドラム奏者)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)

今回は、2016年第3 四半期(7~9月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。
ゲストには、2度目の登場となるパーカッション・ドラム奏者として幅広く活躍される井谷享志さんをお迎えします。今夏、NYを訪問された井谷さんは、現在のNYシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767

多田雅範による告知記事
http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20161009




ライヴ/イヴェント告知 | 17:02:39 | トラックバック(0) | コメント(0)
いつもとは違う場所で − ライブラリ@横浜First  In a Different Place Than Usual − Live Review for Library@Yokohama First 20161001
 2枚のCDを何度となく聴き返し、幾度もライヴに出かけ、そのたびにレヴューを書いているというのに、蛯子健太郎率いる図書館系ジャズ・ユニット「ライブラリ」の魅力とは何か、未だにはっきりと名指せないでいる。
 今回は昨年10月の喫茶茶会記前回ライヴに引き続き、エレクトリック・ベースによる演奏で、蛯子自身が「何だか全部オルタナ・パンクみたい」と照れながら語るように、頁を繰る手ももどかしく一気に読み進めるように、曲名の紹介どころか、時にはベースの持続音を響かせたまま曲間の区切りすら欠いて、冒頭から7曲が続けて奏された。その一方で、各曲を始める前の蛯子の「カウント儀式」は健在で、眼を瞑り、おそらくは脳内で全編を高速スキャンしているのだろうか、初めて見たら首を傾げるほど時間をかけて、これしかない最適のテンポを指し示す。だから演奏は一気呵成に急坂を転がり落ちるかに見えて、そうした闇雲に先を急ぐ性急さとは一切無縁だ。然るべき速度が、然るべき地点で、然るべきタイミングで出会い、あるいはすれ違う。合流地点や時刻が先に決められているのではなく、然るべき速度こそが然るべき出会いをもたらす。蛯子の言う「物語のスピードで」とはそうしたことだろう。
 張り詰めた氷が緩みせせらぎが聞こえだす季節、種子が芽吹きゆるゆると茎葉を伸ばす速度、回転するルーレットに投げ込まれた球の軌跡、倒れていくドミノの連鎖、転がる毛糸玉がするすると解け、自らの軌跡を跡付けながら、核心を露わにしていく過程。
 それは微妙で危ういバランスの上に成り立っている。前回の彼らのライヴの記録動画を見て、そのことを痛いほど気づかされた。あれほど魅了されたアンサンブルがすっかり抜け殻となっている。もちろん夢を見ていたわけではない。おそらくはヴィデオの設置位置の制約もあって、録音がエレクトリック・ベースのソリッドで芯のある低音をとらえきれていないのだ。たったそれだけのことで、彼らの「物語」は崩れさってしまう。だが、手指の間からさらさらと虚しくこぼれ落ちる砂粒の感触から、すなわち彼らの魅力の不在の手応えから、その在処を感じ取ることもできる。
ライブラリ横浜1縮小
撮影:益子博之


 恒例の喫茶茶会記でのライヴに先立ち、いつも蛯子がジャム・セッションの受け皿を務めている(つまりはライブラリの物語を繰り広げてはいない)横浜ファーストでのライヴを聴いてみたいと思ったのは、場所が変われば(初めて訪れる店だ)、視点も移り変わって、彼らのまた違った側面を垣間見られるのではないかとの期待からだった。
 京浜急行日の出町駅から川を渡って右側にある店のドアを開けると、いきなりセミグランド・ピアノのボディが通せんぼをしている。天井があまり高くなく、奥へと細長く延びる穴蔵的空間。ピアノの脇をすり抜けて進み振り返ると、ドアとは反対側の角にドラム・セットが押し込まれている(演奏開始に当たり、井谷はドラム缶風呂に入るみたいにスネアを一跨ぎして、辛うじて隅に残された三角形の隙間に身体を滑り込ませていた)。ピアノの曲線に寄り添うように橋爪、中央に蛯子が立ち、手前のテーブルに横向きに三角が座る。

 この日、エレクトリック・ベースの演奏は、ディレイを効かした滲んだ響きのたゆたいと明確なリフにきっぱりと二極分化し、こうして方向性が絞り込まれることにより、アンサンブル全体に渡ってストレートな直接性が増し、飾り気のない音色が楽曲/演奏の基礎や骨組みを剥き出しにしていくように思われた。
 たとえばアップライトでないせいもあるのだろうが、飯尾のバッキングはいつもより明確に粒だって、曖昧な連なりではなく、個々の点の集積として聴こえた。これによりアンサンブルはいつもより透明度を高め、奥行きをさらに深めて、各演奏者の紡ぐ「物語」の行き交う様を、聴き手がさらに細やかに見通せるようになった。
 井谷の演奏もドラム・セットながら、いつものカホン中心の簡素なセット同様、いやそれ以上に余韻を切り詰め/引き延ばし(細やかに叩き分けられるシンバル)、音色のスペクトルを拡散しながら(スネアをスティックだけでなく、指先で、ブラシで、音具で叩きこする)、音を泳がせ、間を息づかせて、緩急を鋭敏かつ自在に操作していた。
 前回同様、ピアノに寄り添うように位置取った橋爪は、ライブラリ以外での演奏(橋爪亮督グループ等)を私が聴いたことのある唯一のメンバーなのだが、それらとライブラリでのプレイの違いにいつも驚かされる。ライブラリでの彼の演奏は、誤解を恐れずに言えば、彼の演奏能力の全スペクトルのうちのごく一部だけにフォーカスして、そこだけをあり得ないほど深く深く掘り下げる。例えて言うならば、サッカー選手の身体能力に注目して極端に難しい綱渡りに挑戦させるようなものだ。卓越したサックス・プレイヤーであるとともに優れたコンポーザーでもある橋爪は、創造性溢れる豊かなフレージングを鋭く自在に乗りこなすことができるが、ライブラリではそうした方向性は封印し、ロング・トーンの僅かな抑揚や点描的な音色の散らし描き、あるいはカタコトと階段を踏み外していくようなトイ・ミュージック的音響遊戯に没頭している。
 そして詩人である三角は、様々な方向から折り重なってくる音の層に対し、通常のヴォーカリストのようにメロディをなぞりながら響きを溶け合わせる代わりに、むしろ一つひとつの語やイメージを際立たせる。例えば冒頭に披露された「悪事と12人の死人」で、ゆったりとたゆたうエレクトリック・ベースの広がりに、細やかな文様を象眼していくソプラノ・サックス、ピアノ、ドラムスに対し、彼女はすっくと言葉を立ち上げる。「洗濯機がかんかんと回って 眠っている人はまだ眠っていて」……。かんかんと響き渡る声は、さらに三角の手によってサンプリングされ、薄くかげのように敷き重ねられて、幻惑的なズレ/交錯をもたらしつつ、その厚みから指先を傷つけそうな言葉の破片が、鋭く斜めに突き出している。

 演奏された全曲を1曲ずつレヴューした前回ライヴと異なり、今回は楽曲の性格よりも、ライブラリというアンサンブルというか、演奏者間の関係の特異性が前景化したように感じられた。それは前回、ライブラリ楽曲のエレクトリック・ベース版演奏に初めて接したからということもあるが、むしろ今回、通常は「普通のジャズ」が流れているであろう空間に(そしていつもは蛯子がジャム・セッションの場を包容力豊かに支えている場所に)、それとは明らかに異質なライブラリの音が放たれたということが大きいように思う。私はライブラリの演奏に初めて接する「場付き」の聴衆のとまどいを肌で感じ、困惑の匂いを嗅いだように思った(もちろんそれは私の勝手な印象に過ぎないが)。
 だが私はそうしたとまどいや困惑が、やがて魅惑的な「謎」へと変容していくに違いないことを知っている。タネも仕掛けもないはずなのに、どうしてこんな結果が生じるのか、通常のプレイヤーシップやミュージシャンシップの範疇では解き得ない不思議さに、魅了されずにはいられないことを。なぜなら私自身がそうだったから。
 秘密はやはり蛯子が呪文のように繰り返す「物語のスピードで」にあるのだろう。「ジャズ」が暗黙の指標としてきたトップ・アスリートの競い合いのような速さでも、年輪を感じさせるじっくりと味わい深い遅さでもなく、きびきびとした快活さでも、紫煙をゆったりとくゆらすリラクゼーションでもなく。「音がこぼれる草の話」で次第に遅くなり沼に沈んでいくようなテナーのソロも、「237」でファンキーに盛り上がりそうな曲想にもかかわらず一向に熱くならないアンサンブルも、「仲間割れの歌」でのドラムの伸縮自在に揺れまくる刻みも、「滑車」のアンサンブルが解けて荷崩れを起こしそうなゆっくりしたテンポも、「4:00 P.M.@Victor's」の暮れなずむ停滞感も、「Trains」の曲題通り列車走行音の心地よい繰り返しも、すべてはそこに内包された物語が自らを開陳するにふさわしい速度なのだ。
 そして聴けば聴くほど謎はますます深まり、その魅力を増していく。

 次回は11月30日、喫茶茶会記でのライヴだ。

ライブラリ横浜2縮小
撮影:益子博之


2016年10月1日(土)
横浜First
ライブラリ:蛯子健太郎(electric bass)、橋爪亮督(tenor saxophone,curved soprano saxophone)、井谷享志(drums)、飯尾登志(piano)、三角みづ紀(poetry)

今回のセット・リストは次の通り。
1 悪事と12人の死人
2 Angel
3 音がこぼれる草の話
4 あ、いま、めまい
5 237
6 仲間割れの歌
7 Monofocus
8 滑車
9 4:00 P.M.@Victor's
10 ひこうき【新曲】
11 Vitriol
12 Spherical
13 Trains
14 空がゆがむ時【新曲】

ライブラリの喫茶茶会記での前回ライヴ(2015年10月19日)については、次のレヴューをご覧いただきたい。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-377.html

ライヴ/イヴェント・レヴュー | 23:32:14 | トラックバック(0) | コメント(0)
羽ばたく天使、息を切らす女主人 - ARICA『蝶の夢 ジャカルタ幻影』レヴュー  A Flapping Angel, An Out of Breath Mistress - Live Review for ARICA presents Butterfly Dream
 「いや静かですよ。実に美しいものです。」
 首くくり栲象による首吊りのパフォーマンスは恐ろしくないかと尋ねた私に、ARICAの演出を担当する藤田康城はごく穏やかに、だが即座にきっぱりと言い放った。「首吊り」をパフォーマンスとして他人に見せることに対し、何とはなしに根拠のない懸念 −− 自傷行為や嘔吐、排泄等が売りの(というより他に見せるものがない)内臓露出的/露悪的な「見世物」に立ち会わされることになるのではないか −− を抱いていた私は、自らの不分明を恥じ、本公演を観に、木場のギャラリー・スペースを訪れることに決めた。

 入口をくぐると、外の光が奥へと伸びるバー/カフェに対し、L字をかたちづくるギャラリー部分に舞台と客席が設えられている。舞台スペースの中央にロココ風のチェアが置かれ、その右手に小テーブル。テーブル上には植木鉢、茶筒、ティー・カップとトレイ。その手前に旅行カバン。客席のすぐ左脇に天井からロープが下がり、舞台にも二本のロープが下がり、その先に鳥籠のようなものが吊るされている。うっすらと点された照明におぼろげに浮かぶ白い壁とグレーの床に眼を凝らしていると、舞台右手の柱の陰に白い人影が潜んでいるのに気づく。ふくらみのある白の上下に水色のカーディガン。ひっそりと薄闇に溶け込み、身じろぎひとつせず壁に背を這わせている。

 空間には金属あるいは竹製のガムラン楽器(ゴングを含む)の音色が香のように振り撒かれている。音響を楽曲へと編み上げることなく、リズム・パターンのかけら、素早いグリッサンド、間を置いた点描、長くたなびく余韻等が、それぞれ断片のまま、インスタレーション風の仕方で空間に配置されている。

 ガムランの音が止み、ふと外の犬の吠え声が遠く浮かび上がる。しばらくして、同じガムランの音色が幾分ひっそりと戻ってくると照明が少し明るさを増し、舞台が幕を開ける。壁際に佇む女がゆっくりとこちらを向き、ゆるやかに動き出す。
 ここで女の身体のスローな動きに、ロバート・ウィルソン『浜辺のアインシュタイン』の微分化され引き伸ばされた身体の運動を思い浮かべてはいけない(たとえ女を演じる安藤朋子が太田省吾による伝説的舞台『水の駅』で、「2mを5分かけて歩く」演技を成し遂げていたとしても)。両肘のたおやかな動き、優雅な上体のひねり、滑らかな重心の移動が、空間にたゆたう金属質の余韻に浮遊する様は、むしろジャワ宮廷舞踏を思わせる。そこにあるのは解体/分解ではなく、身体各部の改めてゆるやかに結び合わされた呼応にほかならない。
 ふと彼女の身体を何かが貫き(フラッシュバックか)、驚愕の表情がよぎったかと思うと、口の端から歌(の記憶)が漏れ出している。

 ふと入り口の扉が開いて、帽子の男のシルエットが目映い逆光に浮かぶ。音はいつの間にかギターに変わっている。肉の臭いのしない、さらさらと乾いた再構築されたブルース。女は……と見れば、ゆっくりと椅子に腰を下ろし、じっと男の方を見詰めている。
 ここでひとつ注記しておかなければいけないのは、客席スペースの左後ろの角に近い私の席は、男と女の姿を最も見込みやすい位置であるにもかかわらず、それでもなお二人の姿を同時にひとつの視界には捉えられなかったことである。観客は皆、首を振りながら両者を見比べ、あるいは新たに現れた男ばかりを眺めて、女の方をほとんど振り向かずにいた。だが、ここでの二人の動き、いやそもそも「見え=プレゼンス」自体が、この男が登場した時点から、確信犯的なキャラクター化を通じて漫画チックに照応しており、絶え間なく「喜劇」を生み出し続けているのを見逃してはならない。

 近づくにつれ、男の姿が明らかになる。明るい茶からオレンジ色の上下、麦わら帽子に茶色のリボン。木製の踏み台を引きずっている。そのハリー・ディーン・スタントン(ヴィム・ヴェンダース『パリ・テキサス』に主演として召喚された西部劇の脇役俳優)を思わせる痩せた体躯と乾いた髭面に、パロディックな西部劇の情景がふっと浮かび上がる。女は両足を旅行カバンに乗せたしどけない姿で、男の方をにらみつける。植民地の女主人風のふうわりとふくらんだ古風な白いドレス。まるで以前に支払いを踏み倒して逃げた客を見つけた、クラウディア・カルディナーレ演じる酒場のおかみのようだ。
 男は舞うようなステップをふらふらと踏みながら、さらに近づいて、帽子を壁の釘に掛ける。女はだるそうに顎に手を当て、缶からつまんだ細長い焼き菓子をかじる。男は踏み台に上がり、吊り下げられたロープを試すように叩く。いったん下りて、踏み台を手前に引いて再度上るが、今度はロープに手が届かない。男は針金を取り出して、それでロープを引き寄せようと苦闘する。見下したように冷ややかに見詰める女。
 男はようやくたぐり寄せたロープに輪をつなぎ、首(実際には顎だが)にかけ、そのままぶら下がり、はっと思う間もなく、揺れた先の向かいの柱に蝉のように止まる。音は小鳥のさえずりの隙間に響くソプラノ・サックスに変わっている。
 男の身体が柱を離れ、しばらく揺れている。揺れが収まってくると、伸ばした爪先が床を擦る。そのまま爪先を軸としてオルゴール仕掛けのバレリーナのように、くるくると回転する。女は食べかけの菓子を置き、缶の蓋を閉め、ゆったりと背もたれに身体を預ける。男はロープをつかみ、身体を持ち上げ、再び台に乗り、ロープから輪を外す。

 ゆるやかなギターのうねりに伴われて、男が舞台上の左側のロープに歩み寄り、これに輪を掛けて引くと、何と右側にぶら下がったロープにつながっていて、椅子が宙に持ち上がり、座っていた女が勢い良くひっくり返り、二本の脚が奇麗にV字をかたちづくり、足裏が見事に天井を向く。男は何事もなかったようにロープの端に付いていた鳥籠を外し、輪を付け直す。音楽が止み、管楽器の息音に差し替えられる。首に輪を掛け、身体を動かすと、宙に浮いた椅子が上下する。
 無声映画的なコメディは、バスター・キートンの無表情な疾走にも似て、ここから一気にスラップスティックな加速を見せる。
 女は立ち上がると、宙に浮かんだ椅子に旅行カバンを吊り下げ、さらにテーブルを持ち上げて吊り下げ、さらに自分の体重を掛けてロープを引く。男の身体が宙に浮く。音が止み、女のはあはあと荒い息が浮かび上がり、これをピアノとヴァイオリンが優雅に伴奏する。息を切らしてロープを引く女をよそに、男は軽やかに宙を舞い、回転し、シャツをはだけ、天使の翼に見立てて羽ばたく(剥き出しにされた彼の痩身は、むしろ磔刑に処されたキリストを思わせるのだが)。
 音楽が止まり、男は自ら身体を引き上げると、首にかかっていた輪をロープから外す。宙に浮いていた椅子やテーブルが女の身体もろとも、どすんと落下する。男はそのまま、何やら歌を口ずさみながら立ち去っていく。女はすっと立ち上がると、椅子やテーブル、旅行カバン等をてきぱきと片付け、元あった位置に戻し始める。冒頭のガムランが再び鳴り響き、明かりが落とされ、女はまた柱の陰に身を潜める。先ほどまでのスラップスティックな身体の消尽が、いやそもそも流れ者らしき男の訪問自体が、一瞬の夢(フラッシュバック)であり、まったく時間など経過していないかのように。終演。
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 首くくり栲象は、現在も自宅の庭の椿の木で、毎月のように首吊りの公演をしており、首吊り行為自体は日課にしているというから、たまたま今回、この『蝶の夢』への出演を観たからと言って、その全体像を把握することは無論できまい。しかし、これだけは確かだと思う。「首吊り」に対する思い込みだけを根拠に、その行為を死の観念にだけ結びつけ、そこに固く縮こまり凝っていく肉体や、演劇や舞踏特有のジャーゴンと言うべき「ただごろんとそこにある(無為な)身体」を見出して安心を得ようとするのは、冒頭に書き記した私自身の不分明と同様、明らかに間違っていると。ここでは眼の前で繰り広げられる愉悦に満ちた舞踏、軽やかに散逸する遊戯的な身体の在りようをこそ、眼を逸らすことなく、観なければならない。
 ここで首吊りが身体から奪うのは、決して生(の一部)などではなく、グラウンドとの接点であり、大地を踏みしめる下肢であり、重力の束縛であり、「体幹に垂直に支えられる頭部」という秩序だった体系にほかなるまい。

 光溢れる「外部」から薄暗い「内部」への男の参入も、徒らにシンボリックにとらえる必要はないだろう。逆光の中からの鮮やかな登場は、確かに「彼方からの光臨」との印象を与えるが、私の観た回の上演では、ある「事件」が、すでにそうした象徴的文脈を脱臼させ、事態の格下げを果たしていた。というのも、ひっそりと静まった舞台に向かい、開幕を待ちわびる観客に、入口の扉を開けてはっとするような外の光を届けたのは、まずは遅れて来た観客であり、続いては「前に置いてある自転車はこちらのですか?!」と怒鳴り込んだ近所のオバサンだったからだ。意図せざるスラップスティック。

 もうひとつ指摘しておかなければならないのは、ARICAの上演において、切り詰められ絞り込まれたテクスト、身体/事物、イヴェントの配置にもかかわらず、いや、だからこそ、スラップスティックな身体の運動/消尽が、作劇の核心部分として、特権的な位置づけを得ているということだ。
 サミュエル・ベケット『ヘイ・ジョウ』を翻案した『ネエアンタ』(*1)では、山崎広太の「動かないダンス」が眼には見えない強風に翻弄され、身体各部の本来の連動/協応を欠いた、「15ゲーム」を思わせるカタカタした高速のブロックの移動が、身体動作が本来持つべき目的や意味を吹き飛ばし、きっぱりと脱ぎ捨てるに至る。
 『UTOU』(*2)では、ピンボール・マシーンのように高速でぶつかり合い、床を滑りくるくると回転する身体が、巡り続ける因果応報を衝突する金属球の粒子運動に転化させる。
 舞台装置のガラクタの山についには首まで埋め込まれ、身動きひとつできないベケット『しあわせな日々』(*3)の女もまた、溢れ出る言葉を、多種多様な声音や抑揚、アクセントやリズムの目まぐるしい変化を、すなわち「声の身体」を、能う限り消尽して止まない。
 *1 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-382.html
   http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-221.html
 *2 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-305.html
 *3 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-280.html

 この『蝶の夢』でもまた、流れ漂う男とそれを見守り見送る女という古典的な枠組みを設定しながら、それをパロディックに使い倒し、身体/事物の活人画的配置を、身体動作を、オブジェの運動を、滑車が壊れるほど加速し、空っぽになるまですり減らす。まさにバスター・キートン的(というのは私にとって喜劇への最高の賛辞なのだが)スラップスティック。きっと本公演のフォトグラムをスライド・ショーにしたら、30秒間の最高に刺激的なPVが制作できることだろう。



アリカ『蝶の夢 ジャカルタ幻影』
2016年10月1日(土)18:00【追加公演】、10月2日(日)14:00 / 18:00
※私は10月2日(日)14:00の回を観させていただきました。
EARTH+cafe+bar
演出:藤田康城
出演:首くくり栲象(たくぞう)、安藤朋子
蝶の夢1縮小


【補足】
 後で舞台を見ると、外された鳥籠(安定させるためか一方には白いアルパカのぬいぐるみが、もう一方にはおもり袋が詰め込まれていた)といっしょに、何か部品の破片らしきものが落ちていた。旅行カバンを持ち上げようとした女性が「すごく重い」と言っていたから、中におもりを仕込んでいるのだろう。痩身とは言え、男の身体とバランスさせるのだから、かなりな重量となる。装置の荷重も大変なものだろう。安藤朋子に聞いたところによれば、滑車を使ったロープの仕掛けが何度も試せるものではなく、毎回ぶっつけ本番状態だと言う。
蝶の夢disk また、藤田康城によれば、冒頭の再構成されたガムランは、博物館の楽器を素材に構築されたAsturas Bumsteinas『Gamelan Descending A Staircase』(Cronica)で、私の執筆したディスク・レヴューで知ったと言う(えーっ、忘れていた)。本公演に続くインドネシア・ジャカルタでの上演に向けて選ばれたようだが、そんな理由が後付けに感じられるほどはまっていた。ギターはJohn Fahey、ソプラノ・サックスはEvan Parker、息音はMichel Donedaの演奏とのこと。いずれも藤田ならではの選曲と言えるだろう。
 このARICA『蝶の夢』のインドネシア・ジャカルタ公演は、Salihara International Performingarts Festivalの招聘を受け、10月15日・16日に行われる。

【後記】
 本レヴューの最後に私は「きっと本公演のフォトグラムをスライド・ショーにしたら、30秒間の最高に刺激的なPVが制作できることだろう」と記している。1カット2秒として15カット。それぞれにキャプションが付されるとして、20〜30文字×15セット。本来ならこのレヴューは、そのように簡潔で素早く切り替わるポップな速度に溢れたものであるべきだと思う。私の筆力不足でそれが成し得なかったことが返す返すも残念だ。

※フライヤー及び舞台写真はTheater Company ARICAホームページ及び公式Twitterから転載しました。





ライヴ/イヴェント・レヴュー | 13:36:20 | トラックバック(0) | コメント(0)