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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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書棚の上のコリンダ@京都河原町丸太町  "Kolinda" on the top of bookshelf @ Kawara-machi Maruta-machi, Kyoto
 11月2日から4日まで京都に行っていた。もともとはKYOTO EXPERIMENT 2016 AUTUMNの一環として開催される池田亮司のコンサート『Ryoji Ikeda:concert pieces』(*1)及びインスタレーション『the rador [kyoto]』(*2)を観ることを目的に計画した旅だった。コンサートについては、何よりもformula [ver.2.3] / C⁴I / datamatics / matrixの4作品を、池田自身のお墨付きによるオーディオ・ヴィジュアル規格で体験できることに魅力を感じていた。すなわち、重低音から高周波に至る極端に幅広い周波数スペクトルを、ホールの巨大なPAから浴びる体験が、自宅のスピーカーでCDを聴くのとは異なる聴取を与えてくれるのではないかと。もちろんそれにさらに映像がプラスされた体験であることも。
 結論を言えば、そこに意外性に満ちた新たな発見はなかった。それは確かに高水準に突き詰められた構築であり、その尖った純度においても、噴出する暴力性においても、池田亮司以降に制作された凡百のエレクトロニック・ミュージックを簡単に蹴散らすものにほかならなかった。しかし、『+/-』をはじめとする作品群からすでに聴き取っていた認識を刷新するものではなかった。むしろ映像が加えられることによって、決して作品体験が深化するわけではないことの方が発見だったかもしれない。抽象的な文字/記号列のつくりだす、一見余剰を徹底的に削ぎ落としたウルトラ・クールな映像は、実のところ、音響の過剰をわかりやすく視覚のパターンにはめ込み、「図解/絵解き」してしまう。そこに限界を感じたのか、その後、映像はニュース映像等の断片のコラージュへと向かうのだが、こちらは少なくとも視覚レヴェルでは既視感を乗り越えられない。むしろ池田作品には似つかわしくない焦燥感や苛立ちばかりが画面から響いてくる。
*1 http://rohmtheatrekyoto.jp/program/4284/
*2 http://rohmtheatrekyoto.jp/program/4286/


 3日の15時から22時まで4つのコンサートを聴き、翌日はあらかじめ調べておいた幾つかの店舗を回った。いつも通販で利用しており、『松籟夜話』のフライヤー配布にもご協力をいただいている、魅力溢れる品揃えのレコード店Meditationsに挨拶にうかがう前に、午前10時から開いている近くの新刊書店「誠光社」(※)を訪れた。
※http://www.seikosha-books.com/

この「誠光社」は、英国『ガーディアン』紙が選ぶ世界の書店10選にも挙げられた京都の有名書店「恵文社 一乗寺店」で店長を務めた堀部篤史氏が独立し、新たに開かれた書店だ。作り付けの白木の書棚が並ぶレイアウトも素敵だが、やはり何と言っても選書が素晴らしい。「書棚を読む」楽しさを与えてくれる。書物を選び並べること自体が、知のネットワークを構築することであるのがよくわかる。これぞと狙いを定めた本を出版社に直接注文して取り寄せているのだろう。見かけたことのない本もたくさんある。未知の鉱脈が覗いている‥‥という感じ。

一通り書棚を回り(スペースはさほど広くないが、その分濃密で、一冊ごと書背に眼が止まってしまうので、意外と時間がかかる)、気になる本を3冊ほど抜いてレジへ向かおうとして、書棚の上にレコード・ジャケットが飾ってあるのに気が付く。へぇと見回すと、何とコリンダ(Kolinda)の第1作のジャケットが並べられているではないか(驚)。
以前にブログでも触れたことがあるが(※)、コリンダこそはマリコルヌ(Malicorne)の開いたトラッド・ミュージックへの扉を、さらに大きく開け放ったばかりか、その向こうからぐいっと腕を伸ばして、まだ何も知らなかった当時の私をトラッドの泥沼に引きずり込んだ張本人である。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-114.html
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-113.html

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              表面                            裏面

 その世界では有名と言いながらも、何せフランスのトラッド専門のマイナー・レーベルHexagoneからリリースされたハンガリーの演奏グループの盤。そこら辺にごろごろ転がっているものではない。それがなぜここに‥‥と興味を惹かれた私は、レジでの精算時に店主に尋ねずにはいられなかった。その答は意外なものだった。
 「うちの店のお客さんにも人気のロベール・クートラスというフランスの画家がいて、彼の作品集も並べているんですが、この作品のジャケット・デザインがそのクートラスなんですよ」。「ええっ、クートラスって、あの小さなカードみたいなの描いてる、最近、日本で個展も開かれた‥‥」。「ええ、そうです。ご存知なんですか」。
 頭の中で一瞬火花が閃いた。ロベール・クートラス(Robert Coutelas)については、Facebook経由で個展の情報が流れてきて、その慎ましい、だが綺想に満ちた画風に興味を惹かれたが、会期中に松濤美術館を訪れることができず、残念に思っていた。だが、その名前や視覚イメージが、私の中でコリンダと結びつくことはなかった。
https://www.discogs.com/ja/Kolinda-Kolinda/release/1824450
http://robert-coutelas.com/jp/information/

 Hexagoneに遺されたコリンダの作品は計3枚(*)。ご覧のようにデザインにあまり一貫性はない。強いて言えば民俗色の濃い表現となろうか。2枚目はいささかダサい。私は中世写本かタピストリーを思わせる3枚目のデザインが好きだった。1枚目はアンティークの陶器の絵柄か何かからコラージュしたデザインかと思っていたので。だが、それがクートラスの描くカルトを並べたものだと知ると、何だか無性に愛おしくなる。それはこれまで決して交わることのなかった二つの線を結びあわせてくれた、旅先でこそ開かれ得る新たな窓への感謝でもあるだろう。しかし、「誠光社」スゴイな。前日、コンサート会場周辺をうろつく途中で、ふと前を通りかかり、「タルト・タタン始めました」の案内に惹かれて飛び込んだ「リンデンバーム」(☆)も良かったなあ。タルト・タタンが良かったので、翌日は改めてシャルキュトリーや野菜のマリネ等を購入。レヴェルの高さに驚く。京都はやっぱり深い。
*https://www.discogs.com/artist/818759-Kolinda
☆htp://www.linden-baum.jp/index.html

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アート | 13:48:07 | トラックバック(0) | コメント(0)
ソウルのジョセフ・クーデルカ  Josef Koudelka in Seoul, South Korea
 12月22日から26日まで、韓国ソウルに出かけていた。妻といっしょに恒例のクリスマス詣で。今回はソウル在住の友人が実家に帰ることになって会えなかったり、頼りにしていたCDショップが閉店していたり、この時期にいつも開催されていたインディーズ・レーベル・フェアがなかったり、毎回いろいろと買い込むタイムズスクエアの新世界デパートの中にあるEマートが、なぜかクリスマス当日だけは休店だったり、段差で足をひどく挫いたりと、いつも通りではないところもあったけれど、それでも通い慣れた店はみんなやあやあと迎えてくれて、相変わらずおいしくて心和まされた。特に以前にブログでも紹介したホンデのソグムクイ(豚の塩焼き)店「豚の貯金箱」と大学路(テハンノ)の老舗珈琲店「学林(ハクリム)」は、すっかり行列のできる人気店になっていた。

 今回は友人に会えなかったので、現地に着いてから入手したコンサート情報はなかったが、無料で配布している美術展情報誌『Seoul Art Guide』で気になる展示を見つけ覗きに行ってみた。Josef Koudelka『Gypsies』展@ソウル写真美術館(※)。ジョゼフ・クーデルカ(ヨゼフ・コウデルカ)の名前はどこで見かけたのだろうか、記憶の片隅に引っかかっていた。紹介ページに掲載されていた馬の写真【写真1】にも心惹かれるものがあった。
※https://pro.magnumphotos.com/C.aspx?VP3=SearchResult&ALID=2K1HRGPO2MJU
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【写真1】


 広い会場ではなく、写真数はさほど多くないが、内容は充実していた。祭りの賑わい【写真2】、バンドの演奏風景【写真3】、駆け出す犬と子どもたち【写真4】等、そこにとらえられた世界には音が渦巻き、響きが沸き立っているはずなのに、とても「静か」だ。張り詰めた静謐さでも、研ぎ澄ませた静寂さでもなく、押しつけがましさのない柔らかく人肌の「寡黙さ」という印象。ざわざわとした騒がしさがそこにはない。時に被写体がブレるほど動きのある画面に、なぜ騒々しさを感じないのかと不思議に思う。
 行きつ戻りつ反芻しながら見進めるうちに、画面の落ち着いた構図感が、こちらの視線をゆったりと受け止めてくれる心地よさがじんわりと沁みてくる。決してわざとらしく並べられ、仕組まれたあざとさはない。縁で手を怪我しそうな鋭い断ち切り感もない。人物を中心にしながら、彼らを壁や奥に向かって立ち上がったグラウンドの前に置くのではなく、すっと奥まで背景が抜けていて、視線が解き放たれることがある【写真5】。それでも視線は不安なままに移ろい漂うことはない。「前景」や「中景」に対し、「後景」が強調されることはなく、世界はどこまでもひとつで、手触れるようにそこにある。真空の空間の中に事物が配置されているような空虚さもない。そこにとらえられている形象は面や辺を強調することなく、時に明暗のなだらかな起伏に輪郭を一部溶かしながらひっそりと佇んでいる。これが「静か」さを生んでいるのだろう。
 ここでキャメラの眼差しは、向こうに広がる世界に飛び込んでいって獲物を捕らえてくることはない。こちらへと射し込んでくる光を柔らかく受け止め、明暗の中から親しみ深いかたちが浮かび上がるに任せている。クーデルカはこちら側から、向こうに広がる世界に耳を澄まし傾けている。先の「静か」さは、この慎ましさのことでもあるだろう。

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【写真2】                         【写真3】

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【写真4】                         【写真5】


 だが、それにしても、どうやって撮ったんだろうと不思議に思う写真が幾つもある。【写真6】や【写真7】の視線の交錯はいかにして成立し得たのだろう。複数の動きが織り成す動きの一瞬をとらえたとしか見えない【写真4】の後景に、まるでテオ・アンゲロプロス『アレキサンダー大王』の中の大王の登場シーンのように、実にバランスよく配置された人影の列が写っているのはなぜなのだろう。
 声高にメッセージを掲げない「寡黙」な写真たちは、そうした魅惑的な謎をたたえることにより、私たちの視線を向こう側へと誘い寄せる。

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【写真6】                          【写真7】


 ブログを書くにあたりネットで検索すると、1968年の「プラハの春」をとらえた写真で評判を呼び、その後、写真家集団マグナムに参加したとあり、少々意外に感じた。私がマグナムに対して抱いていた「社会活動に向かう報道写真家」というイメージとは、およそ異なる作風だったので。また、テオ・アンゲロプロス『ユリシーズの瞳』のスティル撮影を担当したとあり、これは何となく合点が行った(実際には「請負仕事はしない」と固辞する彼に、「ならば撮影現場に出入りして自由に撮ってくれてよいから」とアンゲロプロスが食い下がったらしい)。
 国内でも2011年に東京都写真美術館で「プラハの春」撮影作品を中心とした展示が、また、2013~2014年には国立近代美術館で初期から現在に至るより大規模で総合的な回顧展が行われ(その時のフライヤーも今回のソウルと同じ馬の写真だった)、好評を呼んでいたこともわかった。いずれも私は見ていない。後者に関するレヴューでは、同展の1/3ほどを占めるジプシーを被写体とした作品について、次のような印象が記されていたりする。

「プラハの春」をとらえた写真に比べ、壁一枚隔てたもどかしさを感じる。「プラハの春」の写真はその一線を踏み越えて、対象に肉薄している。

それはある意味その通りだろう。そこでクーデルカは「向こうに広がる世界に飛び込んでいって獲物を捕らえて」いるように感じられる。と同時に、それが写真としての完結性を確保できるよう、撮影者としての意匠をそこに鮮やかに刻み込むことを忘れない(時にあざとく感じられるほど)。写真とは記録映像データではなく、自分は決して戦場パパラッチではないとの矜恃を示すために。と同時に、そこでは市街戦という極限状態を通じて、レンズの向こうと手前を隔てる我彼の差異は消失し、同じ「人間性」へと還元されてしまうように感じられる(もともと彼にとって同一国民だとは言え)。【写真8】【写真9】

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【写真8】                          【写真9】

ジプシーをとらえた作品群は、その一線の手前に踏みとどまり、差異を認め、文化の固有性を尊重する「来訪者」の慎ましさをたたえている。個々の人生に輝く生の尊厳へと向けられた眼差し。それは決して差別への怒りや貧しさへの哀れみではない。私がそれをことさらに好ましく思うのは、次回『松籟夜話』の準備で、沖縄/琉球等を題材とした写真集や民族学資料を続けて見てきたせいかもしれない。

そうした中、ひとつ驚かされたのは、たまたま手元にあったLPジャケットに使われているのが、調べていて彼の写真だとわかったこと【写真10】。実はこのグループについては予備知識がなく、内容もイタリアのトラッドとしかわからなかったのだが、とある中古盤セールで見つけ、ジャケット【写真11】に魅せられて、比較的安かったものだから「ジャケ買い」したのだった。北イタリア特有の涼しい響きが残響に淡く滲み、端正な演奏に幽玄な手触りを与えている(*)。今回改めてジャケットを確認してみたのだが、やはりクーデルカの名前はクレジットされていなかった。
*http://www.sheyeye.com/?pid=106598544

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【写真10】                               【写真11】
                                     Magam『suonando l'allegrezza』
                                   

 こうしてみると、LPジャケットというのは、つくづく不思議な「場所」だなと思う。音楽ファンはジャケットを飾る写真やイラストの作者を知らず、一方、美術愛好家たちはご贔屓の写真家や画家の作品が、マイナー音楽のLPジャケットなんて「辺境」で流通しているとは知る由もない(事件は美術館で起こっている!)。特に共にマイナーな音楽家と写真家/画家だったりすると、二つの線が交わることはほとんどないのではないか。もちろん「ジャケット・デザインや音楽ポスターの制作で有名なアーティスト」というのは、かつて存在していたわけだが。
 実はつい最近、別のところで、そうした驚きを体験したことがあった。その話はまた次回に。




アート | 22:15:13 | トラックバック(0) | コメント(0)
『文藝別冊 デヴィッド・ボウイ増補新版』刊行
2016年12月20日、河出書房新社から『文藝別冊 デヴィッド・ボウイ増補新版』が刊行された。

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http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309979076/



 2016年という年号と共に記憶されるべき出来事として、1月10日のデヴィッド・ボウイの死が挙げられるだろうことは想像に難くない。最新作『★』のリリースを待ち侘びたかのような彼の死の同期ぶりは、前作『Next Day』が10年ぶりの新作であり、もうすでに過去の人となったかと思われたボウイの鮮やかな復活と引き続く快調な活動再開を想像させていただけに衝撃的だった。

 彼の死を巡っては、すでに多くの言葉が呟かれ、書き記されている。それに付け加えるべきことなど、もはや何もないに決まっている。後はただ遺された彼の言葉/音に耳を傾けるだけだ‥‥誰もがそう目配せを交わし、無言のうちに申し合わせながら、彼の「遺言」を探し続ける。『★』を彼の「遺作」として崇め奉り、そこに秘められた彼の最後のメッセージをあぶり出し、彼の作品をレコード棚のしかるべき位置にしまいこんで、お払い箱にしようとする。「遺作となった『★』で彼はロック・ミュージックを超え出て新世代ジャズへと手を伸ばした。彼は常に時代の先端に屹立すべく、自らを更新し続けていた‥‥」と呪文のように呻きながら、どこまでも「通過者」であり続けた彼を、時代の流行の中に封印しようとする。

 前作『Next Day』のリリース及びこれに同期した大回顧展『David Bowie is』の開催に合わせて刊行された『文藝別冊 総特集デヴィッド・ボウイ』※は、これに類する各種刊行物の掉尾を飾るにふさわしく、彼のこれまでの活動を振り返りつつ、それらをロック・ミュージックのモード史へと回収するかわりに、200枚に及ぶ想像的(妄想的?)関連音盤をマッピングした「ボウイ曼荼羅」に象徴される仕方で、各領域の開かれた影響関係のネットワークへと解き放ってみせた。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-228.html

 今回の彼の死に際し、やはり類する各種刊行物の掉尾を飾って『文藝別冊 デヴィッド・ボウイ増補新版』が出版されたのは、前述の閉塞状況を切り裂くためにほかなるまい。それゆえ今回新たに追加されたのは、『★』や『Lazarus』のディスク・レヴューはもちろんのこととして、前回総特集執筆者等(Simon Finn, レック参加)による追悼文集「宇宙へ還って行った男に捧ぐ」、「遺作」に「遺言」を求めてしまう「大団円的な納得」をきっぱりと拒絶する鼎談「星に願いを」、ボウイの膨大なアート・コレクションの展示・競売に関して、河添剛がわざわざ渡英して書き下ろした「炎上」必至の辛辣なリポート「かつて美術界の逍遥者として知られていた人間の墓石としてヴェールを脱いだ彼の収集物、でさえも」、そして書籍や映画等、あえて音盤以外から選定された「続ボウイ曼荼羅」の4つを主要な柱とする原稿群である。

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詳細は目次を参照



 私自身はこのうち河添剛・平治との鼎談「星に願いを」と「続ボウイ曼荼羅」に参加させていただいた。

 前者は「絶対的非在としての『★』が顕現させるものと隠蔽するもの」(平)を巡って語り始められ、「黒」の崇高性と拒絶の身振りの二面性を経由して、彼のクレメント・グリーンバーグのフォーマリズムへの言及を曲がり角として一気に、彼の「通過者」としての資質の特異性の検討へと向かう。事態を「通過」しながら、その事態により決定的な変容を被らずにはいられない「影響されることの天才」として。それにより彼は、未完に終わった20世紀の美学を宿命的/不可避的に映し出さざるを得ないのだと。それは一方では、テクノロジーにより未来性と「血と大地」の本来性を結びつけたファシズム美学であり、他方では白人が黒人を模する誘惑の身振りからスタートし、最も低質なジャンルとして、テクノロジーによるメディア性を含め、他の様々な要素を貪欲に取り込み、変容を続けるロック・ミュージックにほかならない。
 ここでの私自身の『★』読解に関し大きなヒントとなったのが、『★』リリース以前にベスト盤『Nothing Has Changed』への収録、あるいは10インチ盤アナログとしてリリースされた「Sue」に対する多田雅範の逸早い反応だった(何と2014年12月)。彼がRalph Towner『Solstice』(ECM 1060)を引き合いに出して、Maria Schneider Orchestraが演奏を務めたこの曲を「ボウイ meets ソルスティス」と形容したことが、『★』を巡って呪文のように繰り返し唱えられる「新世代ジャズ」の縛りから私の聴取を解き放ち、さらにこのヴァージョンと『★』収録ヴァージョンの決定的な違い(ドラムは同じMark Guilianaにもかかわらず)に耳を開かせたのだ。

 後者では候補作のリストアップのほか、次の作品のレヴューを執筆した。
  ①ジョージ・オーウェル『1984年』
  ②ウィリアム・バロウズ『ワイルド・ボーイズ(猛者)』
  ③ブルース・チャトウィン『ソングライン』
  ④ラインハルト・シュタイナー『エゴン・シーレ』
  ⑤高祖岩三郎『ニューヨーク烈伝』
  ⑥田中純『政治の美学』
  ⑦小野清美『アウトバーンとナチズム』
 何だか随分な選書だが、それぞれに理由はある。①②は『ダイヤモンドの犬』の発想の源として。③は①と共に「ボウイの愛読書100冊」(ヴォーグ誌掲載*)の1冊として、また巡礼者の如く漂泊を続けたチャトウィンを「通過者」ボウイと重ね合わせて。④はボウイの愛する表現主義画家の作品集。⑤は『ロジャー』をジェントリフィケーション以前のニューヨークを巡る都市論として読み解く視点から。⑥はボウイ論を収録と言うより、それをロックンロールをファシズム美学の一環としてとらえる視点のゆえに。⑦は秀逸なクラフトワーク論と言うべき椹木野衣『後美術論』の発想の源となった一冊であり、ファシズムの思考が現在に深く突き刺さっていることの証左として。
*http://www.davidbowie.com/news/bowie-s-top-100-books-complete-list-52061

増補ボウイポスター縮小 文藝別冊ボウイ
本号付録のミニ・ポスター             前回刊行の『文藝別冊 総特集デヴィッド・ボウイ』





執筆活動 | 17:44:45 | トラックバック(0) | コメント(0)
聖なる場所に集う声 - 『松籟夜話』第八夜へのお誘い  Gathering Voices in Sacred Sites - Invitations to the Listening Event "Syorai Yawa" the Eighth Night
 ご好評をいただいているリスニング・イヴェント『松籟夜話』は、来年2月5日(日)開催予定の次回第八夜より、三回シリーズ『漂泊する耳の旅路 - 現地録音を聴く』へと突入する。これまで『松籟夜話』では、自然の、あるいは都市の音風景を記録したサウンドスケープも、日々の営みとして、あるいは祭儀として演じられる民族音楽を生活の場に立ち入って収めたサウンド・ドキュメンタリーも、さらには音響的/器楽的を問わず即興的に演奏/発音されたフリー・インプロヴィゼーションのレコーディングも、音響の生成する現場を、それを取り巻く環境ごととらえた「現地録音」(広義のフィールドレコーディング)として聴き続けてきた。しかし、これまでの旅程は常に、ミッシェル・ドネダMichel Doneda、デヴィッド・トゥープDavid Toop、フランシスコ・ロペスFrancisco Lopez、スティルライフstilllife、ジム・オルークJim O'Rourke、タマルTAMARU、アメフォンAMEPHONEらを、行く手を照らし出す灯台としてきた。今回からは違う。名もなき市井の人々、その集合性、多声性が導き手となるだろう。それは聴くことの深淵への沈潜であると同時に、輪郭の溶けた不定形がざわざわと渦巻く「原初」への遡行となるだろう。

 その点で、柳田国男、折口信夫、ニコライ・ネフスキー、島尾敏雄、谷川健一、岡本太郎、吉本隆明らが、やはり「原初」として眼差した「南島」を出発点とすることは、必然的なのかもしれない。しかし、それはあくまで偶然の帰結に過ぎない。
 前回、第七夜でアメフォンを灯台とした一夜を編むにあたり、Kink GongことLaurent Jeanneauの録音作品をはじめ、アジアを中心にSublime FrequenciesやDust to Digitalといった諸レーベルの作品を聴いていて、こうした現地録音作品を聴いていく企画をぜひやりたいと津田貴司と話し合っていた。その後、珈琲を飲みながらダベりつつ、企画のアタリをつけようという茶話会@ビブリオテカ・ムタツミンダ(月光茶房隣接のスペース)の際に、二人ともが最近リリースされた沖縄久高島イザイホーの音源を持ち寄り、そこからの話の展開(幾度もの「話は変わりますが」という飛躍を含みながら)が、居並ぶ原田正夫や川本要の賛同も得られたところから、今回の三回シリーズの青写真が固まっていったのだった。SP盤の復刻を含め、膨大なサウンド・アーカイヴの大海に、何の目印もなく飛び込んでいくのは無謀に過ぎるし、ただ優れた音源を観光ガイドよろしく紹介したり、あるいは背景となる文化を「お勉強」したりするのでは、およそ『松籟夜話』らしくない‥‥と危惧していたので、こうした方向性を得られたのは幸運だった。

 もとより、そこは『松籟夜話』のこと、民族音楽学、民俗学、文化人類学、言語学、精神医学等の知見を借用するにしても、そのままおとなしくアカデミックな正統に沿って旅するわけではない。「沖縄」を採りあげるにしても島唄や三線、琉球音階等といった「定型」ではなく、言わば想像的な「祖型」を、音楽や芸能以前の生活の匂いの立ち込める空間が、ひとりの卓越したアーティスト、芸能者に集約されることなく、複数にばらけたまま、原初へと遡り、聖なるものへと通底する瞬間を見詰めたい。その視線はさらに宮古や八重山へと琉球弧をたどり、台湾から東南アジアへと水平に線を伸ばす一方で、聴覚のアナロジー(それこそはネフスキーの方法論にほかならなかった)を頼りに、思いがけない方位から射し込む光を得て、一気に垂直に潜航し、場所と交感する耳の、いや身体の在処を照らし出していくだろう。そこはもはや国境や文化圏すらはるかにはみ出した「異界」にほかなるまい。それゆえ、可能ならば今回はそのことを明らかにするために、第三夜で熱帯雨林の視覚/言語表象を採りあげたように、音響だけでなく、映像や文章を通じても、ことの核心へと迫りたいと考えている。

 いずれにしても、これまで以上に聴くことの深淵へとずぶずぶと沈んでいくことは必定。歸山幸輔特製スピーカーも、常に予想を上回るその潜在能力をさらに発揮してくれることだろう。現世へと回帰するためのサルヴェージ音源を慎重に選ばないと、本当に帰還不能になりそう(笑)。乞うご期待。

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デザイン:川本要  今回は冬の星座をあしらって


◎音楽批評・福島恵一とサウンドアーティスト・津田貴司がナビゲートする、「聴く」ことを深めるための試み。◎会場は青山・月光茶房隣設のビブリオテカ・ムタツミンダ。歸山幸輔によるオリジナルスピーカーで様々な音源を聴きながら「音響」「環境」「即興」の可能性を探ります。

第八夜は、三回シリーズ『漂泊する耳の旅路 - 現地録音を聴く』の第一回。 「聖なる場所に集う声」と題し、沖縄久高島から琉球弧を背骨に、さらに思いがけない方位から射し込む光を得て、場所と交感する耳の在処を照らし出します。

福島恵一 音楽批評/「耳の枠はずし」 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/
津田貴司 サウンドアーティスト http://hoflisound.exblog.jp/
歸山幸輔 オリジナルスピーカー

日時:2017年2月5日(日)18:00~(21:00ごろ終了予定)
料金:1500円
予約:お名前・人数・当日連絡先を明記の上,下記までお申し込みください。
gekko_sabou@me.com(月光茶房)
会場:Bibliotheca Mtatsminda(ビブリオテカ・ムタツミンダ:青山・月光茶房隣設ECMライブラリー)
東京都渋谷区神宮前 3-5-2 EFビルB1F
http://gekkosaboh.com/

ライヴ/イヴェント告知 | 22:44:21 | トラックバック(0) | コメント(0)