2017-01-30 Mon
新譜ディスク・レヴューの一番の難しさは、その配列にある。各作品の核心をとらえること自体は、そう難しいことではない。だから優れた作品を選び出し、そうではない作品を外すことは、その延長線上で充分に可能だ。けれど、単に優れた作品を並べて、その美点を書き連ねても、表現が飽和して互いに打ち消し合い、輝きを減じるだけでしかない。そうではなく、一見類似した印象を対比や差異で切り分け、相反する手触りの間を類比の糸で結びつける。前掲作の響きの余韻が続く演奏の特質を照らし出し、さらに綴られたレヴューが先立つテクストに反対側から光を当てる。このようにして連ねられた峰々がひとつの風景をかたちづくり、起伏に満ちた物語を紡ぎ出す。最後に付け加えられた掌編に、それまでの展開を根底から転覆させる大どんでん返しが仕込まれていたりする。それは一幕の劇であるとともに、同時代を映し出す鏡ともなっているだろう。四谷音盤茶会の選盤と構成を担当する益子博之が10枚の音盤でつくりあげる流れには、こうしたコンポジションの冴えがある。ある音に打たれ貫かれたということは、単にその1曲、1枚に惹かれたのではなく、その前後の流れに巻き込まれたということにほかならない。
彼の相方、多田雅範の唐突で無遠慮なツッコミは、そうした語りの流れを揺さぶり、あらかじめ描かれていた設計図を引き裂き、時には回帰すべき着地点を見失って、聴衆を途方に暮れさせる。しかし、彼が彼にしかできない独特の仕方で流れに熱く息を吹き込み事態を複線化し、異論を差し挟んで仮説を宙吊りにするかと思えば、予定調和の結論を勢い余って突き抜け、崖から転がり落ちることによって、その場で聴く体験としての「音」は確実に「触発する力」を強めている。
それは決してあらかじめ仕組まれた伏線としてのミスリードではない。事前のシナリオを投げ捨てて振り向いた瞬間、彼は思わずばったり必然の帰結と出会ってしまうのだ。避けようのない運命的な邂逅として。まったくのアクシデントのように。
今回、私は、多田が自分でもよくわからない(であろう)説明の中で口走った「速度と動き」というつぶやきに、思考をギュッと鷲掴みにされた。益子もやはりこの一言に惹きつけられたらしく、その後の説明の中で、何度となく繰り返し触れていた。今回はこの一連の流れを採りあげて論じることとしたい。もちろんこれは私の視角からの切り取りであり、この回に披露された音盤を巡る議論やそこに秘められた聴取の可能性が、これから展開する論点に尽きるものでは決してないことは、改めてお断りしておきたい。
なお、当日のプレイリストと、先立つ3回を含めた40枚の音盤の中からさらに選り抜かれた2016年のベスト10については、すでに益子がウェブ上にアップしているので、これを参照していただきたい(※)。
※http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767

撮影:原田正夫
チューバの低くくぐもった唸り声のいつ果てるとも知れない持続。トランペットの掠れた息。高域と低域の間にぴんと張り渡された空間に、箏の爪弾きと鉄琴の単音が振り撒かれ、傷跡を残した上を、ノイジーなエレクトロニクスの砂嵐がさらにやすり掛けしていく。楽器の音色の色彩感はことごとく取り払われ、すべては鈍く冷たい輝きを放つ電子音の構築と化して、耳の視界を薄暗くモノクロームに染め上げる。そこで前景化してくるのは、個々の音の断片であるよりも、むしろその背後に広がる空間の静まり返った広がりの方である。冷え切った希薄さ、いや空っぽな虚無/真空の中を、音は交錯も衝突も重なり合うこともせず、左右から現れ、すれ違い、ただ通り過ぎて、消えていく。満たされることのない空間は、距離だけが支配している。音/響きを触れ合わせ、積み重ねるアンサンブルの生理とは隔絶した音世界。この鈍く輝くモノクロームな音の手触りを、生楽器による電子音の模倣ととらえ、演奏全体を電子音楽的なコンポジションに見立てる者もいるかもしれない。だが、それは違う。ここには脳内の夢想を、演奏者という媒介無しに、余すことなく直接テープ上に定着できることがもたらした、電子音楽特有の自己完結的な閉塞性がない。一見、完璧に描きあげられた画布は、いつもどこかが撓み揺らいでいる。視界一杯に広がる美しく淀みない回転運動の中に、そこだけ別の画面をはめ込んだような逆向きの動きが潜んでいる。

多田が「ここにTyshawn Soreyがいる必然性」を指摘し、論述の口火を切る。後で発表された「タダマスの選ぶ2016年ベスト10」の堂々第1位を飾ったTyshawn Sorey『Inner Spectrum of Variables』(Pi Recordings)にも似たゲンダイオンガク的な構築性が、なるほど、ここには感じ取れる。さらに多田は、ここには一定の速度があり、すべての奏者はそのひとつの速度をキープするために演奏しているのだ‥と続ける。それは決して各演奏者に共有された、アンサンブルのテンポ感覚といった凡庸なものではない。クラシックでは当たり前の緩急法であるテンポ・アゴーギクでもない。だが確かにここには、あるイマジナリーなラインが引かれ、その上を刻々と移動している感覚がある。同期を禁じられ、直接の接触はもちろん、目配せさえ許されず、各演奏者は暗闇の中を孤独に飛翔しつつ、それでもある軸線に沿って互いに重なり合う螺旋を描いている。まるで中空に残された「匂いの道」をたどる蝶の群れのように。

物理的な速度ではなく、速度感、あるいは動きの感覚が重要なのではないか‥と益子が問題提起する。この2作品は共にいわゆる音響的即興と言いながら、実のところずいぶん異なっている。前者はイメージで言えば、竹林の中をずんずんと歩んでいる感じであり、細い枝や葉が動きによってがさがさと音を立てているように聴こえる。これに対し後者は、能のすり足みたいで、静かでゆるやかだがすごい力が込められている‥‥と。
ここで多田から益子へとリレーされた「速度と動き」とは、自身率いるユニット「ライブラリ」の演奏について蛯子健太郎の語る「物語のスピード」と共通するのではないだろうか。
私は以前このことについて、次のように書いていた(*)。「然るべき速度が、然るべき地点で、然るべきタイミングで出会い、あるいはすれ違う。合流地点や時刻が先に決められているのではなく、然るべき速度こそが然るべき出会いをもたらす。蛯子の言う「物語のスピードで」とはそうしたことだろう。張り詰めた氷が緩みせせらぎが聞こえだす季節、種子が芽吹きゆるゆると茎葉を伸ばす速度、回転するルーレットに投げ込まれた球の軌跡、倒れていくドミノの連鎖、転がる毛糸玉がするすると解け、自らの軌跡を跡付けながら、核心を露わにしていく過程。」
*http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-411.html


John Hollenbeck(dr,perc)、Matt Mitchell(piano)とのトリオで登場したAnna Webberは、以前の「Hollenbeck印」のブランド・コピー的な作風から一転して、ユニークな個性を確立してきた。アンサンブルの推進力が細かく叩き分けるドラムであることは変わりないのだが、ミニマルな繰り返しに向かわず、目まぐるしく不断にギアを切り替えながら、常に力強くペダルを踏み込み続ける身体的なドライヴ感がある。3人乗りタンデムというより、鋭い突っ込みを見せるMatt Mitchellの打鍵と、どこかオモチャ的な軽い音色でパタパタとせわしなく散乱し続けるJohn Hollenbeckの、ちょうど噛み合わせ部分にAnna Webberのサックス・リフが入り込み、かつてのHenry Cowを思わせる硬質なリズム構築全体が、ひとつの車輪と化して、ぐるんぐるん回転している感じを与える。
この演奏に対し、多田は「サックスに視点を合わせて聴くと、耳を走らせるドライヴ感がある。リズムやアクセントがどんどん移り変わっていくにもかかわらず、重心が定まっていて、行く手を見詰める視線がまっすぐで揺るぎない」とコメントした。これは体感的に納得できる。晩年の菊地雅章トリオのように、彼方に結像した共通の光景を見詰めているというより、各演奏者の身体同士を直接結び合わせ、重心の移動、それに伴う動きを、まるで組み体操のように連結させている印象なのだ(ここで私は、互いに他の者の足首をつかみ、3人がひとつの輪になって前転を続けるマット運動を思い浮かべている)。ここで三者によるイマジナリーなラインの共有は、ひとつに連ねられた身体運動感覚とどきどきする心臓の鼓動に取って代わられている。
そこから見ると、(1)Ingrid Laubrock、(2)Eve Risser White Desert Orchestra、(3)Raphael Malflietの演奏は、順を追って身体が引き離され、(1)まずはイマジナリーなラインがくっきりと太く現れ、(2)次いでそれが細く淡く手応えの薄いものへと変容し、(3)ついには実体を失って、ゲームのルールやマニュアルに示された作業手順のような単なる指示へと変化していくプロセスを描いているように思われる。
もちろん、こうした度合い自体を取り出して、どの水準が適切かという議論をしてもしょうがないわけだが、少なくとも演奏の肌触りとしては、私にはIngrid Laubrockによる果敢な挑戦が好ましく感じられた。Eve Risser White Desert Orchestraによる音色のテクスチャーの生成が、それよりも繊細で精緻な瞬間を有していることは認めざるを得ないのだが、ピアノが内部奏法から打鍵に移り、それでも発散的な音響で星座的な見晴らしを持続するものの、続くピアノの和音に管楽器が積み重なってテーマ風の情景を提示するパートに至ると、以降、確かに音色の線はそうした「器」から溢れ、こぼれ落ちていくものの、それ以前の張り詰めた緊張(それこそが星座の映る天蓋を支えていたものなのだが)をずいぶんと緩めてしまうように感じられた。
最後に発表された益子と多田の選ぶ2016年ベスト10に、Ingrid Laubrock『Serpentines』が選ばれなかったことへの異論のように読めてしまうかもしれないが、もちろん本稿の主眼はそこにはない。このような聴取がもたらす体感的な気付きの可能性を選盤・選曲の流れとしてプログラムし、なおかつ、それを当日の新たな発見として即興的に名指し、さらにそれを的確に認め、また投げ返すといった、益子と多田の実に真っ当な批評のアクションに、改めて打たれたということなのだ。



撮影:原田正夫
masuko x tada yotsuya tea party vol. 24
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 24
2017年1月22日(日)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:藤巻鉄郎(ドラム・打楽器奏者)
"TADA-MASU" Best 10 Albums of 2016
1. Tyshawn Sorey『Inner Spectrum of Variables』(Pi Recordings PI 65)
2. Flin van Hemmen『Drums of Days』(Neither/Nor Records N/N 005)
3. Raphael Malfliet『Noumenon』(Ruweh Records 003)
4. David Virelles『Antenna』(ECM Records ECM 3901)
5. Jim Black Trio『The Constant』(Intakt Records Intakt CD 268)
6. Eve Risser White Desert Orchestra『Les Deux Versants Se Regardent』(Clean Feed Records CF 399 CD)
7. Lilly Joel『What Lies in the Sea』(Sub Rosa SR 416)
8. Leah Paul『We Will Do the Worrying』(Skirl Records SKIRL 035)
9. Jeff Parker『The New Breed』(International Anthem IARC 0009)
10. Marcus Strickland’s Twi-Life『Nihil Novi』(Blue Note Records/Revive Music B002468402)
extra. Bon Iver『22, A Million』(Jagjaguwar JAG 300)
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2017-01-16 Mon
益子博之と多田雅範の二人がナヴィゲートするNYダウンタウン・シーンを中心とした現代ジャズの定点観測「四谷音盤茶会(通称「タダマス」)」が、1月22日(日)の開催で24回目を迎える。振り返ると初回開催は2011年4月16日。私自身によるレヴュー(※)を見ると、「益子博之の選ぶ2010年の10枚」を題材として、シーンの先端をヴィヴィッドに突き動かす「変容」を、例えば「フレーズからトーンへ」、「ジャズの解体/再構築に向けて」といった鋭い切り口から生々しくとらえていることがわかる。以来、四半期×24=6年間が経過しているわけだが、こうした視点設定、選択と分析、問題提起は古びるどころか、ますます孤高の輝きを増しているように思われる。※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-104.html
彼の地の「最新モード」を要領よくパッケージして持ち帰り、壇の上から物知り顔で講釈を垂れる「流行通信」的な行き方(「ヒョーロンカ」の標準的姿勢はこれ)を彼らはきっぱりと拒絶し、常に二人が貪欲な聴き手として未知の魅力に打ちのめされ、不可解な謎にとまどう作品をこそ、迷うことなく俎上に上げてしまう。このいさぎよい覚悟こそが、批評の倫理にほかならない。だから、あらかじめ自分たちの選んだ曲をプレイしながら、「いまここ」に流れた音に改めて新鮮に反応し、これまで気づかなかった新たな発見をまくしたて、あるいは予定と異なる違和感に口ごもるのが、「ダダマス」の最高にスリリングな瞬間である。
だからこそ、各回に招かれたゲストたちは、そこが初めての場所であるにもかかわらず、彼らと胸襟を開いて話し合える。ホスト側があらかじめ正解を隠し持っている「目隠しジュークボックス」と違うのはここだ。だから、ここで試されているのは、トリヴィアルな蘊蓄でも楽理の知識でも、ましてや多彩な交流関係でもなく、眼の前の音に頭から飛び込み、深く潜って行ける潜水能力なのだ。この時、会場である綜合藝術茶房喫茶茶会記Lルームは、決して益子・多田のホームであるわけではなく、二人とゲスト、そして我々参加者全員が、皆対等にテーブルに着くプラットフォームにほかなるまい。
前回のゲストは、井谷享志が2回目の登場とあって、「いよいよ二巡目に突入したか」と思ったが、今回はまた初登場の新ゲスト。このブログでは高岡大祐とのトリオ「歌女」のメンバーとして何度となく登場していただいているドラム・打楽器奏者の藤巻鉄郎である。ソロ作『奏像』で打撃の瞬間に眼を凝らし、そこから弾け飛ぶ音粒の軌跡、たちのぼる響きの揺らぎに耳を澄ます彼は、果たして「タダマス」音源をどう聴くのだろう。

以下は益子による今回の案内文。
masuko x tada yotsuya tea party vol. 24: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 24
2017年1月22日(日)
open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
会場:綜合藝術茶房喫茶茶会記
新宿区大京町2-4 1F(丸の内線四谷三丁目駅から徒歩3分)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:藤巻鉄郎(ドラム・打楽器奏者)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)
今回は、2016年第4 四半期(10~12月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDと、2016年の年間ベスト10をご紹介します。
ゲストには、ドラム・打楽器奏者の藤巻鉄郎さんをお迎えします。歌物からジャズ、完全即興まで幅広い領域で活躍する藤巻さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。
最新の情報は下記をご覧ください。
topic・tadamasu:http://gekkasha.modalbeats.com/?eid=954584