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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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歌女再臨 ―― 20170226歌女@大崎l-eライヴ・レヴュー  KAJO's Second Coming ―― Live Review for KAJO @ Osaki l-e
 中央にティンパニ、その周囲を取り囲むようにスネアやシンバル、ハイハット、ティンバレス等がぐるりと配置され、打面に小シンバルが置かれ、小鐘が吊り下げられ、コーヒーテーブルには、タンバリンや様々な音具が並べられている。ハンガー掛けのような何に使うのかわからないフレームまで。中央に固められた楽器群から殺風景な白い壁まではだいぶ空間があり、以前に「歌女」を聴いた早稲田茶箱や池袋バレルハウスとは随分と雰囲気が異なる。低い天井から蛍光灯の冷たい光が煌々と降り注ぎ、コンクリートのたたきに反射する様は、倉庫から運び出された楽器群が、舞台の袖に運ばれるまでの間、しばらく置き去られているような寂寥感がある。

 しばらくして現れた高岡が、黒いケースからびっくりするほど小ぶりのチューバを取り出し、管の巻きがキツイのでサイズは小さいが、音域の最も低いB♭分の管長がある、19世紀末の楽器の復刻版で、リュックサックを意味するトーニスターと名付けられている‥‥と話し始める。「旅するチューバ」はなるほど彼にふさわしかろう。吹き口とベルの高さがほぼ同じで、チューバの出音を初めて自分の耳で直接聴くことができたとも。

 チューバの息音から演奏が始まる。呼吸に合わせ寄せては返す響き。以前の楽器での息音が「管を鳴らさない」モノクロームな冷ややかさを放っていたのに対し、うっすらと色づきが感じられる。他の二人がぱらぱらと音の破片を振り撒き、ティンパニのスキンを震わせて鳴らす。熱い息を吹き込まれたチューバが、急にほら貝のうなりを上げる。サイズには似つかわしくない低音。リズム隊が勢いづき、チューバもニューオリンズ調のブロウへと向かう。高岡の右足が慌ただしく踏み込まれ、演奏を煽り立てる。
 藤巻と石原が互いに競うように連続的なパッセージを叩き出すが、打点を精密にコントロールし、音を鳴らしっ放しにしない。これにより音は粒子化し、音の粒と粒の間に隙間が生まれ、どれほど音の密度が高まっても、響きは空間を埋め尽くさない。
 高岡はノンブレスのロングトーンでブランジャーの開閉による音色変化を試した後、一気に高速フレーズを連ねて空間を吹き破りにかかり、他の二人とラテンぽいノリで絡み合う。たとえフレーズがゆったりとしたものへと移り変わっても、息を張ったテンションの高さが感じられるのは、おそらく新しい楽器の特性(鳴りにくさ?)なのだろう。楽器を傾けてベルがこちらに向いても、以前のような鼓膜を締め上げるような風圧感はない。
 だが、それにしても藤巻・石原の「進化」ぶりに驚かされる。各種打楽器の刻みから音具のあしらいまで、音を細分化し粒立たせる演奏の方向性は変わらないが、温度/速度感の変化にしろ、緩急/強弱のうねりにしろ、ひとつひとつの振る舞いが存在感を高め、本当に色濃く、香り高くなった。小シンバルをスネアやティンパニの打面に重ねるような特殊奏法による音色変化も、「サンプリング」の挿入ではなく、一連の動作の中で滑らかに行われるようになった。それは音具の工夫にも表れていて、冒頭に触れた謎のフレームは、上部にヴァイオリンの弓を固定し、弓を小シンバルや金属片で擦ることにより、弓弾き音を簡単に得られるようにするものだった。
 うなり声による楽器音の二重化をこすり系倍音の折り重ねが迎え撃ち、校舎の屋上での吹奏楽部の練習風景を思わせる遠い響きに、空気をはらんだ細かい叩きが重ねられる。動と静の切り替えに瞬時に即応するアンサンブル(あまりに同時化し過ぎると言いたいくらいに)。以前の「歌女」では、チューバが息音やロングトーン、倍音奏法等を駆使し、色合いを薄めるようにして、打楽器の海の中に身を沈めていく場面が見られたが、今回は新楽器の音色特性の変化と打楽器隊の色彩感の充実が相俟って、チューバの響きはすぐさま打楽器に追いつかれ、前景/後景として分離し得ず、たちどころに侵食されてしまう。右足の踏み込みでギアを切り替えるだけでは足りず、空蹴りをしたり、椅子から立ち上がり、また腰を下ろしたかと思うと、前面へと歩み出て、跪き、深くお辞儀するように何度も上体を傾け、あるいは天を仰ぐといった姿勢の変化(それは楽器と身体のポジションの切り替えであると同時に、空間に対する関係性のヴァリエーションでもある)を頻繁に繰り返したのは、ある定常/膠着状態からの身のもぎ離し方の試行ではなかったか。
 チューバの音がふと止んで、しかし、他の二人は静へと向かわず、互いに響きを積み上げる高さを競い合う。高岡が位置を変え、他の二人もぐるっと回転して立ち位置が動き、手元の楽器が入れ替わる。いったんリセットしたところから、再び足場が組み上がり、吹き破るようなチューバのアタックにそそり立つスネアの弾幕が応え、さらに多層に折り重ねられたマーチング・ドラムの波状攻撃へと移り変わる。あえて響きを解き放ち、空間に充満させた音が、ふっと掻き消えると、細いロングトーンだけが残され、やがて滲むように消え失せる。前半の終了。
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撮影:益子博之


 「今決めましたが、後半はフォーメーションを変えて、それぞれの楽器単体の音に焦点を合わせて演奏します」との突然の高岡の宣言に合わせて、藤巻と石原が各楽器の配置を分散型に変更する。
 高岡はマウスピースを外したチューバに息を吹き込み、息音からむしろ木管楽器を思わせるくぐもった音色でミニマルなフレーズを奏でる。藤巻は小シンバルを指先で叩き、石原はスネアの打面に押し付けたスティックを擦る。
 動と静、希薄/点在と充満を往還した前半に対し、後半は車窓の眺めが次々に移り変わるように、音色/楽器を切り替えながら進められた。リズミックな盛り上がりがブレークした後、金属棒を叩いていた石原が、チューバのベルにタンバリンを押し付けて震わせる高岡に押し出され、床の中央部にあったマンホールの蓋を叩き始め、重い蓋をこじ開け、浮かせて、響きを変化させる。おそらくマンホールの内部にはビル全体の汚水槽につながる空間が広がっているのだろう。僅かなマンホールの隙間は、異世界への扉を開き、音響空間の在り様を一変させた。目聡く気づいた高岡がビリビリと空間を震わせ、藤巻はスネアを床置きして共鳴させる。ドラム・ロールを基調とした前半とは異なる肌触りの充満が、この日のフィナーレを飾った。
歌女l-e2縮小
撮影:益子博之


 高岡大祐がFacebookのコメントで、次のように書き込んでいるのに眼を惹かれた。

なんか歌女ってAEOCっぽいんだよなあ、ってだいぶ前から思ってた。儀式性はない(と思うんだけど)し、打楽器二人はそんな意識もないだろうし、僕もない。音も形態も違う。そうやろうとしたわけでもないけど、やってる最中、よく思う。どちらかというと、AEOCなき後の、ロスコーミッチェルのやっていたことの方面だろうか。サルディーニャ島でみたロスコーのトリオは、もはやジャズでもなんでもなくて、違う、何か素晴らしい音楽だった。

 と言うのも、以前のブログ記事「音との自由な交感が連れてくるプレ・モダンな風景 歌女@バレルハウス20150815ライヴ・レヴュー」※で、「歌女」の演奏の持つ強い情感喚起力をAE(O)Cをはじめとする一群のフリー・ジャズと関連付け、「プレ・モダンな風景を連れてくる」と評しているからだ。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-369.html
 2月26日の「歌女」の演奏は、この時とは大きく異なっていた。それはもちろんいろいろな要因によるものにほかならないが、「即興演奏には初めて用いた」というトーニスター・チューバがもたらした変化は大きいと考えられる。それについて高岡はFacebookにこう書いている。

巻けば巻くほど息の抵抗感は増すので、ちょっとやそっと吹いたくらいでは音がまともに出ない。
おりゃあああああ、と吹いてやっと芯のある音が出る。
しんどい。
音程は相変わらずまだフラフラ。
でもなんか、この楽器から体にフィードバックされる音の印象で、気持ちよく歌える。
ベルが耳の下にあって、生まれて初めてじかに聞く自分の音に感動。
多分これでアイデアが生まれるのだと思う。
今まではある意味盲滅法吹いていたようだ。
自分の音がモニターできる感覚自体が新鮮。

 以前の「歌女」の演奏では「チューバを楽器として鳴らし過ぎない」という自己抑制が感じられた。むしろ「うねうねと巻かれた剥き出しの金属の管」として取り扱い、それと息や身体の内外に広がる空間をどう触れ合わせ、響きに折り合いを着けるかということに感覚の焦点が当てられていたように思う。今回はその頸木が束の間外され、ラテン・ミュージック調の急速フレーズが迸り、キューバやトリニダード・トバゴ、ブラジル等を思わせる中南米の熱気が気持ちよく吹き抜けた。その点では、同じAE(O)C系でも、『Great Pretender』等のレスター・ボウイによる試みに通じるところがあったように思う。


2017年2月26日(日)
大崎l-e
歌女:高岡大祐(tuba)、石原雄治(percussion)、藤巻鉄郎(percussion)


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撮影:吉良憲一




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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 19:11:05 | トラックバック(0) | コメント(0)
『松籟夜話』第八夜来場御礼  Thank You for Coming to the Listening Event "Syorai Yawa" Eighth Night
 小雨がぱらつく肌寒さの中、大勢の皆様に『松籟夜話』第八夜にご来場いただき、厚く御礼申し上げます。当日のプレイリストをご紹介いたします。各盤に簡単な紹介コメントを付けましたが、当日の案内の流れを再現するところまでは至っていません(そちらについてはまた後日にできれば補足を)。なお、参考のために試聴用リンクを付しましたが、こちらも必ずしも当日ご紹介したトラックの音源ではありませんので、その点ご注意ください。


撮影:津田貴司


開演前BGM:Umeko Ando『IHUNKE』Chilar Studio CKR-0108
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=_hhuSIYDwvs
アイヌの音楽家、安藤ウメ子による歌(ウポポ)。「イフンケ」とは子守歌のこと。ゆったりと沁みてくる優しい声音。トンコリ奏者OKIによるプロデュース。




第1部 複数の煙が立ち上るような声の集積が、その場所を照らしていく

久高島イザイホー』宮里千里 琉球弧の祭祀Bsf006 tr.1, tr.6
試聴:http://www.reconquista.biz/SHOP/BsF006.html
この1978年以降、もはや行われていない12年に1度の神事(神女ノロの任命式)の貴重な録音。「エーファイ」という掛け声があちらこちらから湧き上がり、歩み出した声の列は、周囲の観客の話し声や歓声をも巻き込みながら、ぐるぐると渦を巻く。


宮古西原古謡集』久保田麻琴編「南嶋シリーズ」ABY-004  tr.1
試聴:http://elsurrecords.com/2013/04/22/v-a-%E3%80%8E%E5%AE%AE%E5%8F%A4%E8%A5%BF%E5%8E%9F%E5%8F%A4%E8%AC%A1%E9%9B%86%E3%80%8F/
1974年奥原初雄録音制作。西原村立100周年記念盤として発表された2枚組アルバムをもとに、久保田麻琴が復刻。祭祀の熱気が感じられる名演と言える。イザイホーに比べて静的な(移動のない)録音である。交差して行き過ぎる二つのさざ波のように、ゆったりとずれながら重なり合う声。

服部龍太郎監修『南海の唄ごえ―奄美民謡集』日本コロムビアPLP-99(AL-5018)A-8
試聴:
次第に高まっていく声の響きあいが聴けるが、指笛や掛け声の合いの手や太鼓の拍子に「のる」のではなく、指笛も太鼓も声も、それぞれがそれはそれとして進行しているように聴こえる。収斂せずしこらない音の群れ。

台灣原住民音樂紀實3『雅美族之歌』TCD-1503 tr.16
試聴:http://okmusic.jp/#!/i/collections/2479037
台湾南東沖にある蘭嶼(LANYU ISLAND)に暮らす海洋民族アミ族。どことなくポリネシア系のチャントに通じるものを感じる。




台灣原住民音樂紀實1『布農族之歌』TCD-1501 tr.16-17
試聴:http://okmusic.jp/#!/i/collections/2730908
南部山岳地帯に暮らすブヌン族。小さな遠くのほうから聴こえるような声から始まり、下からせり上がるかのように次第に声が増えていき、音程も徐々に上がっていく。



台灣原住民音樂紀實8『魯凱族之歌』TCD-1508 tr.1-2
試聴:http://okmusic.jp/#!/i/collections/2571374
ルカイ族。どことなくブルガリアンボイス的な響きを感じる立体的なポリフォニーだが、それでも西洋近代的な多声のあり方を相対化するに十分な成り立ち。バックにかすかに虫が鳴いているのが聴こえる。



台灣原住民音樂紀實7『排灣族之歌』TCD-1507 tr.12
試聴:http://okmusic.jp/#!/i/collections/3165202
パイワン族。力強い男声の独唱を基音に多声が重なる。これもどことなくブルガリアンボイス的な響きを感じる。しかし、部族ごとの感触の違い、声のスペクトルの広がりは驚くほど。柳田國男や折口信夫が琉球に「原日本」を見出すきっかけとなった台湾蕃族の文化は、実はかくも多様だった。

ブルガリアの音楽〜バルカン・大地の歌』KING WARLD MUSIC LIBRARY KICW1096 tr.16-17
試聴:https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD-%E3%83%90%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%BB%E5%A4%A7%E5%9C%B0%E3%81%AE%E6%AD%8C-%E6%B0%91%E6%97%8F%E9%9F%B3%E6%A5%BD/dp/B00005F832
旋律の最後に声が裏返るところが特徴的でブルガリアの合唱ということがわかるが、台湾原住民族の合唱と並べて聴いても特にヨーロッパの音楽だというふうに差異化認識できない。当日は台湾音源に続けて、どこの国の音源かは最初伏せたままプレイした。


 撮影:原田正夫                     撮影:益子博之



休憩時BGM:『台灣 士林 神農宮』
台湾旅行に行った友人(本業はイラストレーター/画家)による(おそらく道教寺院の)読経。無造作に置かれた簡単な録音機材が、見事にお堂の空間的なボリュウムを描き出している。
(この場所のようです/https://www.travel.taipei/ja/attraction/details/937)



THAILAND:Music and songs from the Golden Triangle』MUSIQUE DU MONDE 92754-2  disc2 tr.8-10
試聴:http://losapson.shop-pro.jp/?pid=60052921
そっと肩に手を置くように、声の身体が重なり合う。あらかじめ音高構造によって声の居場所を切り分け確保するのではなく、声の肌をすり合わせ、共棲するもうひとつのポリフォニーのあり方が、琉球弧から台湾を経て、ここにも浮かび上がる。

アイヌのうた』萱野茂、平取町アイヌ文化保存会 JVC WORLD SOUNDS VICG-60400  tr.4-6, tr.10
試聴:http://victorentertainmentshop.com/product/?item_cd=VICG-60400
繰り返し現れる「トゥルルルルッ」という、喉や鼻の奥を震わせるような発音に、外気の寒さを感じる。老婆の声の襞の暖かみが際立つ。


『INUIT fifty-five historical recordings』LE COUEUR DU MONDE SUB ROSA SR115 tr.3-4
試聴:http://www.subrosa.net/en/catalogue/le-coeur-du-monde/inuit.html
取り上げたのは1961年のテープ録音と、1906年の蝋管(ワックスシリンダー)録音。ノイズの彼方から聞こえる声に、時間的空間的な「遠さ」を聴く。

VIETNAM music of the montagnards』LE CHANT DU MONDE CNR 27411085.86  disc2 tr.1
試聴:http://www.allmusic.com/album/vietnam-music-of-montagnards-mw0000030959
シンプルな旋律のバリエーションの繰り返しだが、輪唱でもユニゾンでもないタイミングで突然割って入る男声、さらにそこに女声が加わり、三声になる。そのどれもが互いに「合わせない」「ハモらない」。各自のテンポで、それぞれがそれはそれとして進行している。



第2部 声の照らし出す空間、環境を触知する息

参考映像集+参考文集紹介
合成写真による南島イメージ⇔山之口獏「会話」
 東松照明の沖縄への眼差し(混成文化、神秘性)⇔岡谷公二、ソクーロフ
 比嘉康雄によるイザイホー撮影(神秘性と日常性)
⇔柳田國男、折口信夫、ニコライ・ネフスキー、谷川健一
 風景による浸食⇔岡本太郎「沖縄文化論」、アントナン・アルトー「記号の山」
 ゴシックと(もうひとつの)ポリフォニー

Costis Drygianakis『Hymns of the Passion and the Resurrection』more mars team mm013 ( book + 2CD ) CD-1 tr.10, CD-2 tr.5, tr.14, tr.17
試聴:http://www.art-into-life.com/product/5843
中世ゴシック期におけるポリフォニーの成立が、楽譜を演奏に必要不可欠なものとし、作曲の地位を高め、音の動きの可視化により複雑化を加速し、「西洋音楽」を確立した。それ以前の姿をとどめるギリシャ正教の聖歌を、サウンドアーティストによる現地録音で。岩のようにごつごつした声の響きがぶつかり合い、空間を隔て、聖堂内に充満し、詰めかけた参列者のしわぶきの向こうに霞む。

灰野敬二『Un Autre Chemin Vers L'Ultime』Prele prl007 tr.1
試聴:http://www.art-into-life.com/product/6412
ノルマンディーの背も立たない洞窟内で、座り込んだまま、声を張り上げることもできずに、苦し気な吐息を漏らす灰野。冷え込む大気に押しつぶされながら、ふと白い息が立ち上り、空間を手探りし、壁を伝い、暗闇で頬を撫でる。原初へと遡り、空間を照らし出す声の底流。

沢井一恵『The Sawai Kazue』邦楽ジャーナル HJCD-0006 tr.6
試聴:
中国の古代遺跡から出土した五絃琴を基に復元した楽器のために高橋悠治が作曲。静かにかき鳴らされる単調な、だが縺れた繰り返しが、手元をぼんやりと照らしながら、巫女の虚ろな呻きを引き出す。床を伝い、板の隙間に沁み込みながら、空間を手探りし、闇の中に浮かび上がらせる息。シャーマニズムの原初へと遡る声の記憶。

Doneda, Achiary, Sawai『Temps Couche』Les Disques Victo VICTO CD 055 tr.4
試聴:https://play.google.com/store/music/album/Michel_Doneda_Temps_Couch%C3%A9?id=Bksovcpo64xd4timtqqofbt36ae&hl=am
珍しくフリー・インプロヴィゼーションで用いられた沢井のくぐもった低い声は、先の巫女の呻きと明らかに通底しており、他方、Benat Achiaryの灰野的な吐息へと迫る。Michel Donadaのソプラノ・サックスも次第にヴォーカルな熱を帯び、十七絃箏の乱舞に足元を崩されながら、揃わぬ声のクライマックスを演じる。


閉演(現世へのサルベージとして):茂木綾子『島の色 静かな声』DVD Silent Voice
試聴:https://vimeo.com/125685823
水面に映る月に雲がかかり、水の流れが聞こえてくる。神秘的とも言えるモノクロームな冷ややかさは、機織りのリズミックな動き、糸を紡ぐ柔和な手つきへと引き継がれ、次第に色彩を帯び、体温を高め、人が動き、布が翻り、犬が寝そべって、生活が立ち上がる。以前にスティルライフ(津田貴司+笹島裕樹)はこの映画と「共演」している。


撮影:益子博之



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 01:24:57 | トラックバック(0) | コメント(0)
不思議な蝋石の珠 ―― 『松籟夜話』第八夜へのお誘い  A Marvelous Pyrophyllite Ball ―― Invitation for the Eighth Night of "Syorai Yawa" a.k.a "Night Stories As Pine Tree Leaves Rustling in the Wind"
 今週末の日曜、2月5日の夜は、また特別の一夜になるに違いない。そんな風に落ち着いて思いを巡らすことができるのは、どれくらいぶりだろう。
 民族(民俗)音楽の現地録音としてのフィールドレコーディングに狙いを定め、3回シリーズの初回として今回のテーマを確定した昨年11月には、いろいろとあてもなく空想を巡らす余裕があった。とりあえず沖縄久高島イザイホーから始めて、これまで真正面から採りあげてこなかった「声」をやろう。美声とか巧みな歌唱、力強い叫び、個性的な声音等を追い求めるのではなく、もっと「根」に向かってに掘り下げていこう。ジャンルとしてのルーツ・ミュージックではなく、無名性/原初性の方へ。舞台上で皆の視線を一身に浴びるひとりの卓越した芸能者ではなく。複数による多声の集合体に耳を浸そうと。

 テーマを見据えていた時から、奄美や宮古、八重山、さらには台湾や中国から東南アジアにかけての少数民族の歌は、なんとなく視界には入っていた。第七夜でAMEPHONEを採りあげた時にも、トン族の蝉歌をかけていたわけだし。そこに豊かな鉱脈が広がっていることは明らかだった。

 素材は溢れるほど揃っている。あとはどう選択/配列するかだ。イザイホーの現地録音を聴いて、何となくではあるが、津田も私も「揃わない/同期しない」ことが重要なのではないかという直感を抱いていた。作業を効率化するためのワーク・ソング等、同じリズムを循環させ、動作のタイミングを合わせるための歌は、今回はちょっと違うかな。だからフライヤーの惹句は「聖なる場所に集う声」とした。声の集合性が、そのまま複数性/多声性を生きる様をとらえるには、日常の中の「仕事」ではない、別の側面に着目する必要があるのではないか。あえて「聖なる場所」とした背景には、そんな着想があった。別に宗教的な祭儀だけに局面を限定する考えはなかった。人が集まって、声の身体を触れ合わせれば、そこに日常とは別の時間/空間が開けるはずだ。そんな確信もあった。

 手持ちの音源を掘り返していった。沖縄/琉球の音楽に聴き親しんでいない私は、津田に教えてもらって、El Sur Recordsまで出かけて、南嶋シリーズを買い込んだりした。耳の旅路は、琉球弧から台湾を経て、さらに南へと進み、島尾敏雄言うところの「ヤポネシア」をくっきりと浮かび上がらせた。
  


 その一方で、それでいいのかという思いも当然あった。これでは地域文化研究ではないか。すでに指し示されている連関を検証するだけにとどまらず、想像力を奔放に(かついささか無責任に)飛躍させてみたかった。あらかじめ描かれた囲いの線を破って、その外へとすばやく走り出る線を引きたかった。まったくの当てずっぽうではあるけれど、何本か補助線の案は浮かんでいた。しかし、それが外部へと至る「逃走線」足り得るか確かめるためには、「あらかじめ描かれた囲いの線」を知る必要があった。

 ざっと一瞥したところでも、柳田國男、折口信夫、伊波普猷、金田一京助、谷川健一、島尾敏雄、岡本太郎、吉本隆明‥‥、南島、沖縄、琉球、先島、琉球弧、台湾(特に「蕃族」)、アイヌ、海上の道、ヤポネシア、イザイホー、ノロ、ユタ、聞得大君、カンカカリヤ、カンダーリ、御嶽(うたき)‥‥、鳥居龍蔵、東松照明、中平卓馬、比嘉康雄、クリス・マルケル、仲里効‥‥。そこにはめくるめく世界が開けていた。文化人類学こそ少々かじってみたことがあるものの、民俗学/民族学にはこれまでほとんど手を着けてこなかった。津田に薦められて読んだ金子遊『辺境のフォークロア』(河出書房新社)でニコライ・ネフスキーの存在を知った。柳田や折口自身によるテクスト(特に後者)は取っ付きにくく、柳田批判や折口研究を経由したが、二人の「偉大さ」というよりは、鋭い感受性とそれに反応して不可避的に起動されてしまう想像力の激しさ(ほとんど「激震」と言ってよい)に、改めて気づかされることとなった。これではカルチャー・スタディーズや表象論はもとより、谷川や吉本も到底かなわないだろう(あくまでも私見)。他方、いろいろと悪評高い岡本太郎の沖縄文化論は、核心を鋭く突いていると感じた。
   


 その間、着々と作業を進めていた津田は、琉球弧から耳の旅路を東西南北へと伸ばし(何と台湾少数民族8部族すべてをカヴァー)、そこから「もうひとつのポリフォニー」のあり方を浮かび上がらせていた。私が引こうとしていた補助線も、音楽史や建築史、宗教学等に首を突っ込んで仮説を補強した結果、気がついてみれば同じ可能性を目指すものとなっていた。
そうした可能性のありかをわかりやすく示すために、『松籟夜話』第八夜では、第三夜の「熱帯雨林」特集以来久しぶりに、映像とテクストも用いることにした。「百聞は一見に如かず」で聴取の持つ可能性が視覚イメージに抑圧されたり、確立された権威に頼るだけになったりする恐れもあるのだが、心配ばかりしていても始まらない。主催者の当初の意図を超えた「発見」に期待しよう。これまでの七夜でも、それは必ず起こってきたのだから。
   


 最後に今回の準備作業中に出会った、興味深いエピソードを紹介したい。私は渡辺哲夫『祝祭性と狂気』(岩波書店)で知ったのだが、柳田國男「故郷七十年」に少年時代(13歳から2年間)を過ごした布川での不思議な思い出が綴られている。その家にあった祠の中に何が入っているのか気になって、こっそり開けてみたら、丸くきれいな蝋石の珠が出てきたという。そしてその時、柳田は昼の空に輝く何十もの星を見たのだと。柳田自身、それを異常心理だったと見做している。突然、ヒヨドリがピーッと鳴いたので我に返ったが、もしあの時、鳴き声が聞こえなかったら、そのまま戻らなかったのではないかと。
 これについて精神科医である渡辺哲夫も「瞬間の狂気」としている。渡辺は同書で、宮古のカンカカリヤ、カンダーリについて採りあげ(有名な谷川健一「神に追われて」よりも面白いと思う)、こうした「瞬間の狂気」がこの地では文化としての根を持っていると記している。そうした文化的な根から切断された不幸な例として、アメリカに移住したベラ・バルトークの不幸な晩年に触れながら。
さらに続けて、小林秀雄がある講演で、柳田のこのエピソードを紹介し、ムクドリが鳴かなかったら発狂したかもしれない彼の感受性を、彼の弟子たちは受け継がなかったが、それなしには民俗学など出来はすまいと語ったことを書いている。もちろん小林一流の与太には違いないのだが、それでも狂気を催すかどうかはともかくとして、祠から出てきた「丸くきれいな蝋石の珠」に激しく揺さぶられる感受性が、彼の民俗学を支えていたのは確かなように思う。
   


 『松籟夜話』第八夜においでくださる方たちは、そこで披露される音盤や映像やテクストに向かい合い、その扉を開いて、どのような「蝋石の珠」を見出してくれるだろうか。そんな出会いに向けて、拙い間違いだらけの思考ではあるけれど、懸命に発信していきたいと思う。

 どうぞおいでください。

松籟夜話第八夜縮小


ライヴ/イヴェント告知 | 00:54:57 | トラックバック(0) | コメント(0)