音楽がつくられているとき ― 「ライブラリ」ライヴ@喫茶茶会記20170311レヴュー Music in Making - Live Review for Library@Kissa Sakaiki March 11th, 2017
2017-03-26 Sun
後半の6曲を一気呵成に駆け抜けた彼らを、止むことのない拍手が包む。蛯子の音楽に対する誠実さ、真摯さがまっすぐに伝わってくるライブラリのライヴは、いつだって聴衆の暖かな賞賛に迎えられているのだが、この日、彼らのホーム・グラウンドと言うべき四谷三丁目喫茶茶会記に詰めかけた、以前より増えた聴衆は、明らかにいつもと様子が異なり、身体の内側からこみ上げる何物かに突き動かされ、熱に浮かされたように一心不乱に掌を打ち合わせていた。彼らは昨年10月1日に、ふだんは蛯子がセッションの受け皿を提供している横浜ファーストという、「いつもとは違う場所で」で演奏した(※)。包容力のあるベース奏者としてセッションの場を変わることなく支えている蛯子を、古くからの友人のように歓待した横浜ファーストの聴衆たちは、「あまりに個人的な音楽」であるライブラリの演奏に明らかにとまどい、頭上に疑問符を浮かべていたように思う。その「違和感の匂い」に包まれて体験した彼らの演奏は、ピアノがグランドになったり、カホン中心のパーカッションが簡素ながらもドラム・セットの体裁を纏ったりという変化もあって、そのさらに1年前に行われた、蛯子が初めてエレクトリック・ベースを持ったライヴからの「成長」を如実に感じさせるものとなっていた。
※当日のライヴ・レヴューを参照。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-411.html
その後、彼らにしては珍しく短いインターヴァルで、11月30日にホームである四谷三丁目喫茶茶会記に戻ってライヴが行われた。この時の彼らの演奏が、自分の中で鮮明な像を結び得なかったことを白状しよう。それは彼らのライヴ演奏を、1回1回完結するものとしてではなく、時の推移の中で変容していくものとしかとらえられなくなっていた、私自身の問題なのかもしれなかった。
以上を前置きとして、この日、3月11日の彼らの演奏に触れるとしよう。

メンバーの配置は前回の茶会記ライヴと同じ。すなわち中央奥に三角が座り、左手の隅に井谷のドラム、右手の壁際に飯尾のピアノ、右手前に橋爪のテナーとソプラノ、そして左手前にエレクトリック・ベースの蛯子。蛯子の足元のエフェクター類が以前より随分増えてるね…という話を益子博之とする。いやあこれだったらもっとラウドに歪ませたらいいんじゃないのって前に彼と話したんだよね…とは益子の弁。それは楽しみだと応じながら、そう言えば、蛯子の前の譜面台って以前からあったっけと思う。しかも内向きに建てられている。
程なく控え室からメンバーが現れ、それぞれ所定の位置に着く。やはり蛯子は横(内側)を向いて演奏するようだ。これによりメンバーの配置はV字型ではなく、ゆるやかに円環を閉じる形になる。譜面を見るためか、蛯子は今日、眼鏡をかけている。
この日の彼らの演奏がどんなものだったか、どれほど素晴らしかったか、どこからどのように説明すれば伝えることができるだろう。
まず、ドラムとピアノが思い切りシンプルに音を絞り込み、太くはっきりとした筆致でリズムを打ち出して来た。ドラムはシンバルの叩き分けやシンコペーションの効いたアクセントを抑え、バスドラとスネアを中心にビートの軸線を刺し貫き、力強い打鍵によるピアノのリフレインがそこにかっちりと重ねられる。音像は決して滲むことなく、切れ味の鋭さも変わらない。テナーもまた音数を極端に絞り込み、フレーズを簡素化して、リフレインでリズムに加担するかと思えば、時には抑揚の変化だけでソロを吹き切る「最短距離」の演奏を見せる。こうしたパンキッシュな加速にもかかわらず、そこに騒々しさはない。音に粗雑な暴れがないからだ。一見無骨でありながら、構造と形態の一致した建築の示す優美な繊細さがそこにはある。
一方、エレクトリック・ベースは、時に頻繁にエフェクターのスイッチを踏み替えながら(※)、太い中にも芯を感じさせる剛直な音から、茫洋としたアタック、湯気のようにもうもうと立ち上る音色、混沌としたドローン……と相貌を変えながら、激しく搔き鳴らされてゔわーんと空間を埋め尽くすに至るまで変幻自在に響き渡り、ぶいぶいとアンサンブルを追い立て、ぐいぐいと構築されたリズムに食い込み、ひとり直立して震え、ビリビリパチパチと放電したかと思えば、マッシヴな厚みで津波のようにすべてを押し流し、ついには覚めない悪夢のように聴衆にのしかかる。
※後で蛯子に確認したところ、特に頻繁にオンオフしていたのは「フリーズ」というエフェクターで、その場の出音をサンプル&ホールドするものだとのこと。オンして保持した土台にさらに音を上書きし、またオフして描き直す場面が多かった。
……と、こう書いてしまうと、エフェクターによるベースの音色変化がポイントのようだが、実はそれだけではない。この日、蛯子はベース弦に対し果敢にアタックし、時に弦が歪むほどの強烈なピッキングを見せ、あるいはまるでシューゲイザーのように弦を搔き鳴らした。空間的なエフェクトとは異なる生々しいうねりやねじれ、歪みは、アンサンブルを強力に賦活するとともに、サウンド全体に「ライヴ・ミックス」的な、通常のジャズ・コンボやソング・フォームとは全く異なる音響配置への可能性を開いていた。と同時に、その強烈な存在感によりアンサンブルをコンダクトし、ギアを切り替え、激しい加減速を行った(作曲者である蛯子自身も譜面台を用意し、さらに蛯子の手元が見えるようメンバーの側を向いたのは、おそらくこのためではなかったか)。
こうした変化は、単にリズムの強化やサウンド・パレットの拡張だけでなく、まったく新たな事態をグルーブにもたらした。逸脱の自由度が極端に高まったのだ。どういうことか。ライブラリのレパートリーは基本的にすべて蛯子の作曲によるものであり、メロディー、リズム、ハーモニーがあり、ソングがあって、ソロがある。複雑な曲構成は演奏者に豊かなイマジネーションを与える代わりに、各演奏者はあくまでアンサンブルの1ピースであることを求められるため、逸脱の余地は決して多くはない。しかし、今回、リズムの簡素化により運動空間が拡大された。さらに自在にスペースを生み出し、あるいは埋め尽くすベースの自在性は、他の演奏者のスペースをアンサンブルの枠内から解き放った。これにより可能となった局面を具体的に見てみるとしよう。
「なかまわれのうた」で、立ちのぼるベースの響きの広がりが辺りを覆い尽くし、ソロに入った橋爪のソプラノのスペースを潮が満ちてくるように包み込み押し上げる。居場所を追われたソプラノはそのまま雲雀のように舞い上がり、遥か見上げる高みで凄まじい加速と飛翔を見せた。彼の演奏を追いかけている多田雅範が「何より作曲者として振る舞っている自身のグループでは封じている切れ味だ」と思わず唸ったプレイだ。煽られた井谷がリズムのシンプルさはそのままに、スパーンと鋭く日本刀で斬り立てるが如きドラム・ワークの冴えを見せる。あるいは「4pm@Victor's」における語りをピアノのコード弾きが支える場面。頻繁にエフェクトをオンオフし、さらには弦が歪むほど苛烈に楽器にアタックするベースをよそに、同一和音の繰り返しにシンバルがぴったりと寄り添い、さらにテナーが平坦に引き延ばされたロングトーンを敷き重ねて、催眠的なほど延々と繰り返しを続ける。満ち溢れる天国的愉悦。さらにはあらかじめ用意されたプログラムの最後を飾った「音がこぼれる草の話」で、シンバルとピアノによる、ことさらに単調化したリフレインが一気に減速する中で、テナーのソロがぐだぐだに軟体化し、駅のベンチから滑り落ちる酔っぱらいのように、リフレイン格子の隙間から輪郭を失って崩れ落ちていく。
こうした局面に見られるように、今回の演奏は一昨年の10月以来継続されてきた「電化マイルス」ならぬ「電化ライブラリ」(笑)のひとつの到達点を示す説得力に満ちたものだった。冒頭に掲げた聴衆の反応が、このことを証し立てている。

撮影:益子博之
個人的には、さらに別の感慨が浮かんだ。まだぼんやりとしていて、説明するのは難しいのだが、幾つかのモチーフを手がかりに、とりあえず言葉としてみるとしよう。
これまた冒頭に述べたように、私は彼らの演奏を1回ごと完結するものではなく、もっと長い時のスパンの中で変容していくものととらえている。それはインプロヴィゼーションが含まれているから演奏が毎回少しずつ違う……というようなことではない。そうしたKing CrimsonやGrateful Deadのライヴ音源を漁るような理由からではなく、蛯子が繰り返し語っている「物語のスピードで」という視点に惹かれているのだ。
それを以前に私は『ER』や『Downton Abbey』のような集団ドラマになぞらえ、登場人物一人ひとりが歩んでいる人生、背負っている主題が、それぞれの「物語のスピード」で展開し、その分岐/交錯が新たな事件を生み出し、彼/彼女らが共に直面している「現在」を織り上げるというイメージを提示した。それをコンポジションの側から逆照射すれば、前述のライヴ・レヴューで述べた「そこに内包された物語が自らを開陳するにふさわしい速度」ということになるだろう。
だが、だとすれば、「決定版」と言うべき「物語のスピード」が確定してしまえば、それはもう更新されることはないのだろうか。ある意味、「電化ライブラリ」の試みは、そうした袋小路の突破を目指す挑戦だったのではないかと、今にして思う。そして、その試みはいまここに至って、アコースティック版とは異なる「もうひとつの」解釈/解決の獲得を遥かに超える成果を挙げることとなった。すなわち、「電化ライブラリ」が自らの出発点を探して、コンポジションの根元を掘り下げていった結果、構築すべきアンサンブルを相互に閉ざされた区画としてではなく、いくらでも交換可能な開かれた関係性の束としてとらえられる地点にたどり着いたのだから。考えてみれば、私の知る(アコースティック版)ライブラリのさらに以前には、ステージ上では蛯子とは別のベース奏者がコントラバスを奏で、当の蛯子はと言えば、その演奏にラップトップPCにより電子音をかぶせていた時期があったと言う。そうした「演奏」を、付加された電子音のもたらす響きの滲みや倍音の強調、空間への広がり等を通じて、平面状に区画されてしまうアンサンブルを架橋する試みととらえるならば、今回の「電化ライブラリ」はその狙いを果たしたことになる。
科学社会学者ブルーノ・ラトゥールは『科学が作られているとき 人類学的考察』(産業図書)で、誰もが当然のこととして受け入れるブラックボックスとしての「既成の科学」と依然として開かれたまま揺れ動いている「作成過程の科学」を対比的に描いている。これまでブラックボックスとみなされていたものが開かれ、中身が改められることもある。
記譜された楽曲はどうだろう。校訂の問題を除けば、それはテクストとして完結し、動かないように見える。後は「解釈」の余地が残されるだけ。「ジャズ」の作曲は、たいていクラシック音楽ほどガチガチに決められていないし、即興演奏を前提としているから、より自由な「過剰解釈」が許されよう。では、作曲者自身による演奏についてはどうか。曲が書きあがった時に、もう演奏イメージは完成しているのではないか。後はそれに息を吹き込むだけ……果たして、そうだろうか。
私には蛯子による今回の「電化」の試みが、音楽を作成過程に押し戻すことを目指したもののように思えてならない(かつての電子音の付加による試みもまた)。テンポも、抑揚も、強弱も、アクセントも揺れ動き定まらず、メロディーも、リズムも、ハーモニーも、まだかっちりした輪郭を持たず、それどころかそれぞれの機能区分すら明らかではなく混沌としており、どっちつかずで移ろいやすく、時に重複している。その代り柔軟で決まったかたちを持たず、互いに相矛盾する幾つもの性格を同時に映し出すことができ、言わば何にでもなれる。
それは所謂「ワーク・イン・プログレス(進行中の作品)」とは異なる。たとえばピエール・ブーレーズによって絶えず改定を加えられ続ける「未完」の作品は、だが彼方に望む「完成」に向けて、徐々に最終的に確定された部分を増やしていく。「作成過程に押し戻すこと」はそうではない。それは確定されたはずの枠組みを緩め、結合を解いて、可換性、変容可能性を高めることにより、原初化/胎児化/幹細胞化/原形質化/流動化/液状化することである。
蛯子は今回のライヴに向けたリハーサルにあたり、喫茶茶会記のホームページ(※)に次のように記している。
※http://gekkasha.modalbeats.com/?eid=955345
今日2/3の昼は「図書館系ジャズユニット・ライブラリ」のリハーサルです。ライブは3月の11日土曜日四谷三丁目茶会記にて行います。メンバーに会うのも久しぶりですし、前回11月30日のライブ以降、自らがより深い所に入って行きました。それについては日記にもインスタントなSNSにも書ける様なことではありませんし、余程の事ではないと他人とも共有するのは難しい内容です。結果不可避的に孤独になります。でもそれでいいんだと思います。
僕は写真も絵も下手くそですが地中深く伸びていく「根」のイメージが明確にありました。それだけを拠り所に、ネットで著作権フリーの写真を引っ張ってきて、フライヤーを作りました。そんな感じで、日々あらゆるもの、あらゆる人を大切に思い、深い道を歩いています、その結果が、なんらかの形で、他の人に伝わります様に!
伝わらなかったら、当面は「愚か者」の被害妄想を抱きつつ生きるのかもしれませんね、でもそれも、ゆっくりと歩ければ、本当にゆっくりと歩いていければ、いいんじゃないかな、とも思います。人生って面白いのかつまらないのか、正直わかりません、でも最近、歩く事で、少なからず救われているのは間違いないのです。
3月11日まで、歩き続けます。
そのあとも歩き続けたいです。
ここで語られている「根」のイメージは、言葉だけだと「自らの内面を覗き込む」という風に心理化されてとらえられてしまうかもしれない。しかし、蛯子がフライヤーに刻んだのは下のようなイメージであり、根は深みを一直線に目指す代わりに、もつれあいながら地表を覆い尽くし、同じように地下にも細密なネットワークを張り巡らして、自らを支え、養分を与えてくれる土壌と一体に溶け合おうとしているように見える。空に向かって幹を伸ばし、枝を広げ、葉を茂らせる大木が、地表に落ちた種子が種皮を開いて根を覗かせ、外を迎え入れ一体化した「目覚め」の瞬間を夢見ている。
蛯子による「ライブラリ」の音楽は、まさに文字通り聴衆の前でつくられる。聴衆は「音楽がつくられるところ」を否応なく目撃させられる。それは「蛯子のイマジネーションがその場で音楽をつくりだす」ということとは異なる。先に掲げた『科学が作られているとき 人類学的考察』の中でラトゥールは、ディーゼル・エンジンの成立過程をディーゼルひとりに帰すことはできず、「考案」、「開発」、「革新」といった諸段階に分離できないことを述べた上で、そうしたことは光るボールのみが表示されたテレビでラグビーの試合を見るのに似ている。走り回り、絶妙なプレーを行い、エキサイトしているすべての選手たちは無味なジクザグに動く点に置換されてしまうと記している(p.185)。ここで「エキサイトしているすべての選手たち」には、「ライブラリ」のメンバーはもちろんのこと、スペースの提供者や聴衆たちも含まれることだろう。
フリー・インプロヴィゼーションは、作曲作品や楽譜といった取り決めをあらかじめ何も用意しないことによって、自らは聴衆の眼の前でつくられる、いや、いままさにつくられている、その過程を舞台に乗せる音楽であると主張される。ラトゥール流の思考にかかれば、日時と会場を決め、参加演奏者を選び、楽器を用意している時点で、「あらかじめ何も用意していない」との主張はただちに否定されることだろう。反対に「ライブラリ」は念入りに準備したものを、「作成過程に押し戻すこと」により、即興の力を発動させる。そこで作曲とは、そしてそれを記した楽譜とは、あらかじめ考え抜かれ、細部まで入念に書き込まれているにもかかわらず、言わば複数の針の震えを書き留める心電図の記録紙にほかならない。ここで針の震えを生じさせているのは、もちろん心筋の放つ電気パルスではなく、発動した即興の力であるのだが。
それゆえ蛯子による「ライブラリ」の音楽は、極めて「個的」でありながら、そのこと自体を通じて「共有的」なものとなり得る。別の角度から言うならば、自らを含めた演奏メンバーとその場に居合わせた聴衆を巻き込む強い力を有している。その力に襲われる時、人は極めて魅惑的な謎に見舞われた感じを持つだろう。

蛯子は今回のライヴの後、Facebookに次のように書き込んでいる。
本日たくさんのお客様と、自分自身で個人的と思っているよりも、恐らく実際はもっと個人的な音楽を共有させて頂き、心より感謝の気持ちをお伝えさせて頂きます。今後も大地を踏みしめて、ゆっくりと歩いていければ、と思います。
これに対して当日の聴衆のひとりとして、益子博之は次のように応じている。
もっと歪んで、揺らいで、滲んで、無数の触手を伸ばして、浸蝕するように...
一方、私は次のように書き込んだ。
「個人的」という言葉になるほどと思いました。個人の思いを綴り、個性を打ち出していることを売り物にしながら、似たり寄ったり、実に大量生産画一消費財的な薄っぺらさしか感じられない数多のフォークやロックに対し、自らの内部に耳を澄まし、個の内部に深く深く潜行することにより、自分の物語をそうとしかあり得ない、それにふさわしい速度で読み/書き進めた音楽が、深く深く個人的であることによって、他者を響かせ揺すぶり、遠くまで届き広がる強さとやさしさを獲得するのだなあと。
益子さんの示唆するようなライヴMIX的な感覚も随所に感じられた演奏でした。
「自らの内部に耳を澄まし、個の内部に深く深く潜行することにより、自分の物語をそうとしかあり得ない、それにふさわしい速度で読み/書き進めた音楽が、深く深く個人的であることによって、他者を響かせ揺すぶり、遠くまで届き広がる強さとやさしさを獲得する」過程を、そこに潜む原理を、私は果たして解き明かせただろうか。もちろんそうではない。謎を解き明かすことを望みながら、考えはむしろ音楽を巡る思考を「作成過程に押し戻す」ように進み、ますます深く謎に魅せられている。そして次はいつになるか知れない「ライブラリ」のライヴを、いつかいつかと待ち侘び続けるのだ。
2017年3月11日セットリスト
1. Spherical
2. 237
3. Monofocus
4. Trains
5. 空が歪む時
6. なかまわれのうた
7. 悪事と12人の死人
8. Vitriol
9. あ いま めまい
10. 4pm@Victor's
11. Angel
12. 飛行機
13. 音がこぼれる草の話
14. Star Eyes【アンコール】
2017年3月11日(土)
四谷三丁目綜合藝術茶房喫茶茶会記
ライブラリ:蛯子健太郎(electric bass)、橋爪亮督(tenor saxophone,curved soprano saxophone)、井谷享志(drums)、飯尾登志(piano)、三角みづ紀(poetry)
来る4月12日にはやはり蛯子がエレクトリック・ベースを奏するトリオの演奏が予定されている。今回の「電化ライブラリ」の原理を、ジャズ・スタンダードに適用するものなのだろうか。気になるライヴだ。

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霧は星形の庭に降りる ― フェデリコ・デュランド ライヴ@Ftarri Milky Fog Descends into the Pentagonal Garden - Live Review for Federico Durand / El jardín de la armonía TOKYO session
2017-03-22 Wed
はるばるアルゼンチンから単身来日したフェデリコ・デュランドの、半月にも及ぶ国内ライヴ・ツアーの初日となったこの晩、会場となったFtarri水道橋には多くの聴衆が詰めかけた。明らかにいつもと客層が違うのは、彼の作品がフリー・インプロヴィゼーションやフィールドレコーディング、あるいは「実験音楽」(嫌な言葉だが)の聴き手以外にも、広くアピールしていることの証しと言えるだろう。このことを踏まえ、あえて3番手として登場した彼のソロ演奏から話を始めることとしよう。
カンテレに似た小型の弦楽器、オルゴール、オモチャのような音具……。地球の裏側まで移動してのツアーということもあって、携行する荷物を絞り込んだ結果だろう、ちっぽけでわずかな仕掛け。そこからフェデリコ・デュランドの特質と言うべき、やさしさとぬくもりに満ちた簡素な音がかそけくたちのぼる……ように見えて、そこには考え抜かれた細密な仕掛けと、一点たりともゆるがせにしない完璧主義の職人気質による入念なコントロールが施されていた。
碁盤に石を打つように、あるいは敷き詰められた白砂に石を立てるように、手前に音が配され、淡い陽炎にも似た響きが奥で揺らめく。床にラグを敷いて座る彼の手元は、前方の聴衆の陰に隠れて私の席からは見えない。しかし、置かれた音が彼の手元をすっと離れ、天井に反射して降り注ぐ音のかけらと行き交いつつ、奥行きの中で揺れ動く響きと溶け合い、まるで幻灯のように浮かび上がる「牧歌的」な音風景に吸い込まれて、そこに広がる別世界へと連れ去られてしまうのが手に取るようにわかる。そこにはミルクみたいに濃くて重たい霧がたゆたい、まどろみのうちに沈みながら、木々か、家々か、あるいは人影かと、点々と浮き沈みする形象を耳が追いかけ、飛び石伝いに奥へと誘われるうちに、間口がさほど広くないにもかかわらず、思いのほか深い奥行きをたたえていることに気づかされる。
幾つもの空間が折り重ねられ溶け合いながら、先の奥行きの深さが物語るように、ここに音響レイヤーの敷き重ねが与える息苦しい閉塞感はない。立ちこめる濃霧が視界を奪いながら、音の柔らかく深い響きが空間のゆったりとした広がりを伝える。と同時に、あまりに良く出来ている、いや出来過ぎている気がしてならない。絵画のように完璧に仕立てられた配置/構図を、まるで絵画を鑑賞するように完璧に設えられた視点/視角からとらえている印象。それゆえ、いったん風景が完成すると、そこにそれ以上の動きや生成変化はなく、時はほとんど止まったかのようにただゆらゆらと浮遊し、聴き手の身体に響きが充分に沁み渡った頃合いで景色は薄らぎ、クロスフェードにより別の風景に場所を譲り渡していく。
ふと弦を打つ音が輝かしく鳴り渡る。いささかオモチャな電子音がそれに続き、それまで身じろぎひとつせず、固唾をのんで音世界の移り変わりを見守っていた聴衆は、それまでの硬直が解けたようにみんなもぞもぞと身体を動かし、そこかしこで衣擦れの音を立て始める。

彼のソロ演奏に続いて行われた、この日の演奏者全員によるセッションで、彼の「秘密」がまたひとつ解けたように感じた。
彼のつくりだす音世界は、その音像のゆったりとした配置により、たっぷりと隙間をはらみ、そこに開けた空間を通じて自在に出入りできるように見える。しかし、実はそこは極めて高い「濃度」に満たされていて、彼の張り巡らす「結界」の中に他の音はなかなか入り込むことができない。もちろん、ソロ演奏とは異なり、彼はひとりで風景を描き上げるわけではない。しかし、彼の置いていく音と響きは、互いに固く結びついて切り離すことができず、響きはさらに次に放たれた音の響きと分ち難く溶け合って、強固な連続性/一体性を生み出してしまう。
このことに気づかず無造作に音を放てば、彼の音世界の背景へと退くか、あるいは無作法にその前を横切って覆い隠すか、そのどちらかになってしまう。津田貴司はエレクトリック・ギターのハーモニクスを用いて、フェランドの音世界と直接重なり合うことなしに、淡く色づいた透過光を投げかけ、極めて希薄な「ヴェール」を掛けてみせた。セッションが開始されてからしばらく音を出さず、じっと耳を傾けていた佐藤香織は、雲間からすっと薄日が射すように、極めて細く薄く滑らかに引き伸ばされたアコーディオンの単音をデュランドの音世界へと刺し込み、向こうまで無抵抗にするっと貫き通した。耳の確かさと素早い判断に支えられた的確なアクションが、デュランドの音世界の特質を、ある手触りや手応えとともに触覚的に明らかにしていく。

ここで時間を巻き戻し、フェランドのソロ演奏に先立って行われた津田貴司と佐藤香織のデュオ「星形の庭」の演奏に立ち返るとしよう。私にとっては、この演奏がこの夜のハイライトとなった。
垂直に構えられた弓が僅かにギター弦に触れ、そこから空間に滲みを広げる。淡い滲みが広がるにつれて色合いが浮かび、ようやく耳が響きの輪郭をとらえる。弓と弦との接触が刻一刻変化するためか、あるいはディレイによる折り重ねの結果か、響きの表面に浮かぶ色彩が微かに震えながら移り変わる。希薄なハーモニクスがオーロラのように裳裾を翻し、それよりは重たい音色がかわるがわる浮き沈みし、さらにその奥からまた別の響きが頭をもたげる。
それまでアコーディオンの蛇腹を軋ませたり、ボタンだけをカタカタと鳴らし、人形芝居を思わせる無機質な物音を立てていた佐藤が、ふっと薄く滑らかな和音を奏でる。その音はまるでギターの弓奏による響きの移り変わりの只中から浮かんできたように聴こえた。彼女の耳の良さと単刀直入ためらいなく核心部分へと刃を差し入れる「勇気」に驚かされる。弓の動きが加速し、湧き出す響きの水面から飛沫が跳ね上がり、外へと飛び出す音粒子が増え、やがて全体が沸騰して弾け、ふと沈黙へと至る。アコーディオンの和音がただいまの終着地点を的確に指差し、そこからまた歩みが始められる。増幅度を高められたギター弦がコキコキとしごかれ、水の滴りにも似た、だがそれよりはずっと鉱物質の輝きに満ちた音を放って、アコーディオンの広げる水面のたゆたいに小石を投げ入れる。
次第に演奏は冷ややかな構図を離れ、揺れ動きを増しながら、二人の応酬による生成へと局面を移していく。間歇的なギターの弓奏にスライドやフラジオが挿み込まれ(津田の弓遣いは中国書道の運筆、筆を垂直に捧げ持つような筆遣いに似ていると感じる)、アコーディオンによる全音音階の浮遊感がさらに不安定な移ろいやすさを増幅しつつ、不協和に侵食されていく。
アコーディオンの蛇腹の軋みが、氷が水面に張り詰めていく際に立てるぴしぴしとした緊張を放つ中、ゴム球で擦られたギター弦の硬く氷結したトレモロが、静かに、だがくっきりと響き渡る。
津田によれば、佐藤は「バンド」での演奏経験はあるが、いわゆるインプロヴィゼーション畑での活動はないと言う。合わせ鏡のようにアクションを強迫的に加速/増殖させたり、あるいは空気を読んで迂回に迂回を重ねたり…という、いわゆる「即興演奏」の悪しき因習語法に染まっていないのは、そのせいもあるだろう。その一方で彼女は亡き大里俊晴の薫陶を受けており、授業ではジョン・ケージの貴重な映像を見せてもらったり、彼がどこかから掘り出して来た誰も知らないような音盤を「今週の収穫」として聴かせてもらったりしていたと言うから、当然、フリー・インプロヴィゼーションの録音にも数多く触れているのだろうが。
津田が佐藤とのデュオを「星形の庭」と名付け(出典は武満徹「鳥は星形の庭に降りる」か、あるいはこの曲題の由来となったマルセル・デュシャンのエピソードにほかなるまい)、その演奏を「ミニマル」と語った時には、ライヒやグラスのイメージが災いして、きちんと像が結ばなかったが、二人の演奏を聴いた後ではよくわかる。ここで「ミニマル」とは、決して様式や技法のことでなく、文字通り「最小限」を意味する。だからと言って、「削ぎ落とす」ことだけを至上命題としたリダクショニズムではないし、「剥き出しにする」ことが陥りがちな露悪的な身体パフォーマンスでもない。そうではなく、虚飾を排し、無用な因習を斥け、もっともらしいコンセプトに寄りかかることなく、思い通りにならない音や予想を裏切る空間、なかなか過ぎていかない時間と向き合って、増殖/充満させた音の背後に身を隠す代わりに、静寂に身を浸し耳を澄ますこと。そこでは「音を放つ」ことは、「よりよく聴く」こととイコールであるだろう。
無論、課題がないわけではない。しかし、それは今後、「音を放つこと」=「よりよく聴くこと」を積み重ねていく中で、自ずから解消されていくと思われる。佐藤香織という新たな演奏者の登場をまずは喜びたい。また、このところの津田の活動に注目してきた者として、楽器演奏をあえて排したstilllifeとはまったく異なる位相のデュオとして「星形の庭」が始まったことは、今後の活動を広げ深める中で大きなプラスになると信じている。いずれにしても、フェデリコ・デュランドという一見優しげで何でも受け入れる、しかし、その一方で、音に対する頑固で一徹な哲学/世界観を持ち、自分のパースペクティヴをまったく譲らない演奏者と共演できたことは、貴重な経験となったに違いない。コンセプトで防御を固め、敏感に空気を読み、「ハブ」や「ぼっち」にならないよう何しろ周囲に合わせる……という、この国に蔓延する「即興演奏スタイル」においては、そのような「哲学」はまさに邪魔物として排除されてきたのだから。

津田貴司のFacebookより転載(3月10日のライヴ時の写真ではありません)
2017年3月10日(金)
Ftarri水道橋
Chihei Hatakeyama(guitar,electronics)
星形の庭(津田貴司(guitar)+佐藤香織(accordion))
Federico Durand(electronics)
フェデリコ・デュランドは3月25日まで国内ツアーを続け、3月24日には神戸・旧グッゲンハイム邸、25日には奈良・日+月+星で、津田貴司とのデュオにより演奏する予定である。

