2017-05-25 Thu
遅ればせながら、今からもう1か月前、4月23日に行われた第25回四谷音盤茶会(タダマス25)のレヴューをお届けする。今回は珍しく、当日プレイされたほとんどの音源に対し言及しているが、それでも例によって、ひとりの参加者の個人的な視点からの報告であることには変わりない。必ずしも主催者の意図に沿った理解ではないどころか、往々にしてこれに反するものとなっていることを、あらかじめお断りしておく。なお、当日プレイされた音盤に関する詳しい情報は、以下のURL(*)を参照していただきたい。
*http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767
前半が導入部としての「ポップ・サイド」、後半が本領発揮の「ダーク・サイド」を構成し、後半のハイライトをNY勢のECM録音が飾ることの多い最近の「タダマス」だが、この日のプログラムはそれとは真逆に、Theo Blackmann『Elegy』、Craig Taborn『Daylight Ghosts』の2枚のECM盤を皮切りに、Jim Black『Malamute』、Eivind Opsvik『Overseas Ⅴ』と、後半の常連を連ねて進んだ。実は配られたセットリストを見て、開演前に益子に尋ねたのだが、いやポップ・サイドとかダーク・サイドとか特に意識してないから‥との答が返ってきたところだった。しかし、実際に音を聴いてみると、やはり後半に向けて深みを増していく構成はいつもと変わることはなかった。

すなわち、これらの諸作品は、その豪華なラインナップにもかかわらず、私にはどこか食い足りなかった。いつものTabornのピアノに顕著な、焼き締めた煉瓦や鉛のインゴットを積み上げる、そそり立ち仰ぎ見る「建築力」はここにはなく、Chris Speedのテナーと絡み合い、二重ラセンを描きながら昇り詰めていく。一方のJim Blackは、ビートをNeu!風の単調な定型の近傍へと絞り込むことで、畳み掛ける「叩き込み」の勢いに新たな息を吹き込んでいた。だが、あえてジャンクなシンバルを用いることにより、打音の減衰を速め、空間の風通しを良くするやり方は、適用する場面こそ異なるものの、80年代にDavid Mossがすでにトレードマークになるまで試みていたことだし、そこにかぶせられるChris Speedそっくりのかすれた吐息による棒読みテナーと混信だらけの短波ラジオを思わせる電子音の雲のブレンドはなかなか効果的だが、ハンマー・ビート以外を寄せては返す波音だけに切り詰めてみせた、かつてのNeu!の突き抜けた蛮行を聴き知る耳には、いささか甘口に感じられた。そうした中では、ダブルベースのアルコのフラジオ音とエレクトリック・ギターのサステインを敷き重ね、音数を切り詰めたピアノの重い打鍵及びリズムボックスと組み合わせたEivind Opsvikの創意が光るが、演奏が最初に描かれたラフ・スケッチの枠組みから果敢に踏み出していくことはなかった。

多田はこの日のプログラムについて、「聴衆の評価は3・4と9・10の二者にはっきりと分かれた」と自身のブログで書いている。ここで3・4とはJim Black『Malamute』とEivind Opsvik『Overseas Ⅴ』を指す。

後半は「ピアノ・サイド」と言うべき構成。Vitor Goncalves(pf)のクワルテットは、Todd Neufeld、Thomas Morgan、DanWeissと「タダマス」常連がサイドを固める。冒頭、ピアノの右手と左手のフレーズをずらしながら重ね合わせ、さらにドラムスの長短のシンコペーションが敷き重ねられ、ギターが網を投げかける場面は、なるほどHermeto Pascoalのバンドにいたと言うだけはあると思わせるもの。ただ、そうして思わず耳をそばだてさせられるイントロが終わると、急に「さわやか」になってしまう。多田が「カクテル・ピアノ」と言うのもわかる。

続くRema Hasumi(pf)は最近の「タダマス」の最注目株。「懐石料理?」、「奥ゆかしい」(以上、大村)。「ポール・ブレイ?」、「音の細部のコントロールが従来のレヴェルを超えている」(以上、多田)、「音を呑み込んでいる」、「言いよどんでいる」(以上、益子)と場に豊かな言葉を引き出すこととなった。いずれも感覚的な表現だが、むしろそれがゆえに像を結びやすいのではないか。その死を看取った菊地雅章との類似性を示唆されることも多いが、私の考える菊地の真骨頂とは、「ジェンカ」というゲームのように、支えるべき音を抜き去っていくことにより、張り詰めたテンションと危機的なリリシズムを限りなく高めていくところにあるので、それと彼女のピアノの本性は明らかに異質であるように思う。ただ、ではその「彼女のピアノの本性」なるものをまっすぐに名指せるかと言えば、これは難しい。コード感的には「ジャズあるある」でありながら、音の選び方は決してジャズっぽくなく、タッチはクラシカルで、ムード音楽的にエコーもたっぷりとかかっていながら、饒舌に走ることなく、抑制/抑圧を感じさせる指さばき。その指を音が伝うような感覚は確かに異色だと思う。

続く8はSylvie Courvoisier(pf)とMary Halvorsonのデュオ。私にとってのこの夜のハイライトのひとつ。端正で重厚な打鍵と内部奏法による音色の不定形な変容。ギター弦のトレモロとエフェクターの変化により、急に溶け出して流れ伝い、空間へと滲みを広げる響き。すらりと整った楷書の筆文字きっちりと並んだ手紙が、音もなく炎に包まれ、燃え落ちていく感覚。床を傾け、時を歪ませるHalvorsonのエフェクター変化が、「いつもはフレーズの頭や尻尾に限っているのに、ここでは中間部分でやっている」という益子の的確な指摘通り、ソロで爆発する派手派手しさを抑える代わりに遍在化/潜在化し、いつどこで足元が液状化するか知れない脆弱な不安定さを生み出しており、その感覚はCourvoisierにも深く静かに、だがきっぱりと共有されている。それが「インタープレイしている」(大村)、「やっている行為自体はとても楽しそう」(多田)という指摘を産み出すのだろう。

Cory Smythe(pf)、Stephan Crump、Ingrid Laubrockによる9もまた私にとってのハイライトだった。テナーのかすれたフラジオと豊かに倍音を香らせるダブルベースの弱音の弓弾き。ピアノの冷ややかな打鍵。深々としたアルコに転じたベースにピアノの内部奏法が鋭く長い針を突き刺す。絞り込まれた音のアブストラクトな強度が際立つ。個々の音色自体の強さもさることながら、それらが的確に配置されることにより生み出される「カラーフィールド」の奥深くしめやかな強靭さ(ここで私はマーク・ロスコの大作群を思い浮かべている)が素晴らしい。音高と音価ではなく、振動と持続の配合による構成。「抽象の力」の輝かしさが見事に示されている。

最後を飾るMatt Mitchel(pf)のピアノ・ソロによるTim Berne作品集は、何よりその強靭極まりない打鍵とアブストラクトな速度において際立っている。すごい勢いで背後へと飛び退る景色はもはや色彩を欠いて、冷酷なモノクロームに閉ざされている。ノンペダルのまま、パーカッシヴに叩きのめされる弦の震えは、ピアノの本質が鋳鉄のフレームに張り渡された金属弦の集積であることを、隠しようもなく明らかにしてしまう。ここでは筐体の優美な曲線も、黒檀と象牙の規則正しい配列も、ハンマーやダンパーに組み込まれたフェルトも、所詮、狼のかぶった羊の皮に過ぎない。それゆえ、テーマとそのヴァリエーションといった、もともと曲が持っていたであろう構造も、内側から粉々に破砕され、跡形もなく吹き飛ばされてしまう。その結果として残るのは、獰猛にして俊敏な個々の音の運動に過ぎない。「血塗れのCraig Taborn」と評された彼が、本来持っていたはずの切り立った構築性は、ここには見当たらない。あらかじめ書かれた曲の構造をかなぐり捨てることに、すべて費やされてしまったのだろうか。そのほとばしる熱量を最大限に評価しながらも、個人的には先立つ8・9を高く評価したい所以である。それとは別に、このMitchelの凄絶な演奏に確かな希望を感じ取れるのも確かだ。それは演奏後の彼が、充足しきった(とことんやり尽くした)「ドヤ顔」ではなく、依然として渇きや飢え(渇望感とでも言おうか)を全身から放っているように感じられることだ。「これだけ弾いても言い切れていない。まだまだ湧いてきている」との益子の指摘は、この録音の彼方にさらに開けるであろう、彼の演奏の新たな地平を、しっかりと見通し指差している。
masuko x tada yotsuya tea party vol. 25
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 25
2017年4月23日(日) 綜合藝術茶房喫茶茶会記
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:大村亘(ドラム・タブラ奏者/作曲家)
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