2017-06-16 Fri
6月11日(日)開催の『松籟夜話』第九夜「音響都市の生成」、多くの方にご来場いただき、ありがとうございました。「都市」がテーマということで、もっとライトな仕上がりになるかとも思っていたのですが、結局はいつも通り掘り下げに掘り下げて、ハードコアかつディーブ極まりない内容に成り果てました(笑)。特に後半のクライマックスの連続は、これまでの中でも出色の展開ではなかったかと思います。ここでは、当日ご紹介した音源をリストアップし、コメントを添えます。コメントは当日のままではなく、また企画の性格上、当然のことながら、プログラムの流れの中に位置づけての説明となっておりますので、その作品の全体像をニュートラルに伝えるものではありません。なお、試聴トラックはあくまで雰囲気を感じ取っていただくためのもので、必ずしも当日プレイしたトラックと同一ではないことにご注意ください。

撮影:原田正夫
開演前BGM

試聴トラック:https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A8%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%94%E3%82%A2%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD-%E6%B0%91%E6%97%8F%E9%9F%B3%E6%A5%BD/dp/B0017GSGHK
エチオピアのコプト教会聖歌。前回の「聖なる場所に集う声」でご紹介したOcora音源とはかなり音の手触りが異なり、ゆったりとした御詠歌調。重なり合うレイヤーが揺らぐ様が今回紹介する音源と共通する耳の視点を要求する一方で、カテゴリー的には前回企画とつながっていることから、ブリッジ役を務めてもらった。
開幕

試聴トラック:https://www.youtube.com/watch?v=CdGVMsoivhg
聴覚による都市イメージを探るにあたり、「音の絵葉書」的なかっちりした枠組みに到底収まらない溶解/流動状態の都市音響を「最初の一撃」として。タイトル通り、パリ「五月革命」の街頭実況録音を含む。飛び交う怒号、沸騰するパロール、ただならぬ気配の中、「インターナショナル」の決して勇ましくはない歌声が流れる。

撮影:益子博之
第1部 スナップショットが浮かび上がらせる都市像
都市が大規模化・多様化し、一望の下にはとらえきれなくなったことを前提に(「見えない都市」)、スナップショットによる一瞥の断片の集積が浮かび上がらせる光景に耳を澄ます。もちろんそれは一部に過ぎず、「群盲、象を撫でる」が如く、決して全体像には行き着かない試みであるのだが。

試聴トラック:http://www.gruenrekorder.de/?page_id=10742
カメルーンで現地学生に教えてもらった「音が面白い場所」のサウンド・スナップショットによる構成。がやがやと埃っぽい市街の喧噪、下世話な生活感が溢れる。怒鳴り合う(?)声の応酬と、日向ぼっこする猫のように脱力しきった街角の讃美歌。拡声器やラジオの電気的歪みが最初から風景の一部として瀰漫している。レム・コールハース「ジェネリック・シティ」の猥雑な強度。洗練されたハイ・アート作家のイメージが強かったKubischによる思いっきり生々しい達成。

試聴トラック:https://craigshepard.bandcamp.com/album/on-foot-brooklyn
タイトル通り、ブルックリン地区内をあちこち徒歩で巡りながらの街頭演奏録音集。なかなか始まらない演奏に向けてそば立てられる耳が、「何もない」街角の景色を思わず映し出してしまう。後から添えられるクラリネットの細い線も、「食いだおれ人形」みたいなドラムも、そうして成立した都市の聴覚イメージを、ふっと浮かび上がらせるものとして機能する。

試聴音源なし
コンサート終了後の拍手から始まる、彼には珍しいテープ・コラージュ作品から、目線の高さを飛行するクラリネット(前掲トラックからの連続性)に導かれて路地に入り込み、降り注ぐ蝉時雨の下に佇んで、子どもたちの言葉遊びを見守る部分を抜粋。穏やかな慈愛に満ちた、しかしノスタルジックでしかあり得ない耳の視点。

試聴トラック:http://www.allmusic.com/album/kamiya-bar-mw0000892540
対して同じ「街角の声」(日本語)に着目しながら、「社会鍋」の呼びかけや市場の売り立ての連呼を採りあげるカール・ストーンの手つきは「クール」そのものだ。日本語を解するにもかかわらず、あえて意味にとらわれず、サウンドのフェティシズムに溺れる彼は、そのポップ&キッチュな耳の鋭さによって、凡百のエキゾティシズムを軽々と乗り越える。フィールドレコーディング音源によるセッションにおいても、彼の「空気を読まないこと」が微温湯的な閉域を切り裂く場面を何度も目撃した。

試聴トラック:https://amephone.bandcamp.com/
前々回特集したAMEPHONEから。駅まで近道をしようとして、不案内な住宅街に迷い込み、あたりを見回した瞬間、どこかの家の開け放たれた窓からふと聴こえてきそうな弦アンサンブルの音が、テープ速度の操作で歪み、すっと音もなく崩れ落ちる。何気ない日常の中で足元が揺らぎ、見慣れたはずのものが見知らぬ何物かに変貌する。


撮影:原田正夫
第2部 俯瞰と転送 ― 都市空間における身体の位相
先に見たスナップショットの集積に対し、俯瞰による眺め、あるいは聴き手を一瞬のうちに包み込む響き(J.J.ギブソン「包囲光」を踏まえて「包囲音」とでも呼びたいところ)により、別の場所へと一瞬のうちに送り届けられ、その場に投げ込まれる感覚の作品群を。

試聴トラック:https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A8%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%94%E3%82%A2%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD-%E6%B0%91%E6%97%8F%E9%9F%B3%E6%A5%BD/dp/B0017GSGHK
ラスタファリアニズムが熱狂的に称えたエチオピア皇帝ハイレ・セレシエの到着の模様の現地録音。俯瞰的視点から、見渡す限りの人の波の広がりが大河の流れのようにゆったりと進み、厳かに鐘が鳴り渡り、あちこちで歓声が上がるかと思えば、手前では何やら話し込んでいる‥‥という、多層/多重なレイヤーの重なりがじりじりと動いていく。圧倒的な音後景の顕現。前半のハイライトのひとつ。

試聴トラック:https://www.youtube.com/watch?v=PBbEn-fdB0o
タイトル通り、チベットのラサ市街における現地録音。四方八方から襲い掛かる混濁した雑踏音に、方向感覚を喪失し、くらくらと酩酊してしまう。Sublime Frequenciesレーベルらしい猥雑なストリート感覚。アルバム全体の編集はSun City GirlsのAlan Bishopが務めている。

試聴音源なし
やはり異国の地のフィールドレコーディング音源。タイトル通り、自分の部屋に居ながらにして、別の場所に瞬間転送され、その場所に立ちこめる響きや匂い、温度/湿度の只中に放り込まれる感覚。自身の頭部にマイクロフォンを装着して、街を歩き回ったバイノーラル録音。

試聴トラック:http://www.gruenrekorder.de/?page_id=14340
このパートの冒頭にプレイした『Mosaique Mosaic』チーム再び。こちらは独ルール地方を支える地下揚排水システムのフィールドレコーディングから、地下水位の上下に即して、いったん停止した巨大機械が再び作動を開始するまでの間を抜粋して聴取。動作音と入れ替わるように暗騒音が揺らめき立ち上り、暗闇を見詰める視線に閉所恐怖が充満する。
休憩

試聴トラック:http://honestjons.com/shop/preview/27437
ムーンドッグ活動初期の街頭録音から。チャカポコとしたドンカマ的リズムとハンマー・ダルシマーの音色。ムーンドックの演奏する姿は都市の一点景である一方で、やはり録音は演奏する彼へと向かい、環境音は単に背景に過ぎない。

試聴トラック:http://www.sheyeye.com/?pid=50059285
ハンマー・ダルシマーを改造した創作楽器「モ・カラ」を演奏するストリート・ミュージシャン。WIREのB. C. GilbertとG. Lewisがプロデュースし、彼らの起こしたDomeレーベルからリリースされた。緩やかな打撃が弦の上をどこまでも移ろう。
映像解説「生成/浮上する都市のイメージ」
音源の聴取とコメントが織り成す文脈に、視覚イメージにより補助線を引く試み。ここではボードレールの愛したGiovanni Battista Piranesi(1720-1778)とCharles Meryon【1821-1868】をまず採りあげ、前者による古代ローマの想像的再現『Campus Martius』をヘテロトピックな「コラージュ・シティ」(Colin Rowe)の先取りと評価し、後者によるパリ市街図の幻想による侵食とその再抑圧を、「表象の空間」(Henri Lefevre)の視点からとらえた。続いてWOLS(Alfred Otto Wolfgang Schulze)【 1913-1951 】と難波田史男 Fumio Nambata【1941-1974】において無意識から浮上する都市イメージに関し、難波田の愛好したPaul Klee【1879-1940】の分割と反復による構築と対比させた。


Giovanni Battista Piranesi ジョバンニ・バッティスタ・ピラネージ


Charles Meryon シャルル・メリヨン


WOLS ヴォルス 難波田史男 Fumio Nambata
第3部 路傍の芸

試聴トラック:http://www.geocities.jp/paganrail/omegapoint/editionOP-2.html
屋上に据えられた金属パイプを通して聴く周囲の音響。ごーっという管の共鳴のうちに環境音の断片が浮き沈みする。大道芸の沸き立つイメージに冷水を浴びせかけ、しかるべき距離と冷静さを確保するための1ステップ。

試聴トラック:http://www.sheyeye.com/?pid=90378353
大道で懐かしい響きを奏でるはずのストリート・オルガンが、広場に3台も集められて、口角泡を飛ばしながら議論し合うゲリラ的パフォーマンス。すわ何事かと慌てる市民。ブロイカー本人の証言によれば警官まで駆けつけたという。

試聴音源なし
盲目の伝説的ストリート・ミュージシャン(奄美出身)。沖縄那覇の市場アーケードでの演奏に幸運にも出くわした宮里千里による貴重な録音(彼は『イザイホー』の録音者でもある)。鋭く律を刻む四ツ竹、繊細にしてグラマラスな箏の音、地を這い胸を刺し貫く声の強度、周囲を取り囲む聴衆のざわめき、そしてその向こうから聞こえる買い物客の賑わい‥‥何もかもがくっきりと墨色鮮やかに生々しい。歸山幸輔特製スピーカーがまた新たに潜在能力を解き放った。里と宮里の曲間の会話も収録されており、「空間を丸ごととらえる」宮里ならではの仕事。

試聴トラック:https://satomimagae.bandcamp.com/album/awa
tr.9 Official MV https://www.youtube.com/watch?v=9aP5lMtVZRc
街頭演奏の現地録音ではないが、フィールドレコーディングによる都市のざわめきを挿入する特異な女性SSW。「これはギターの弾き語りではない」と自ら主張するように、ライヴでも流される都市の音響は、単なる装飾や背景にとどまることなく、鋭く張り詰め彫り刻まれた声/ギターと拮抗して、ざらざらと粗く冷ややかに耳にやすり掛けして、どこまでも聴き手の覚醒を促す。私や津田の愛聴盤である本作品でもまた、歸山スピーカーはこれまで聴いたことのない異次元の再生ぶりを見せた。

試聴トラック:http://www.pastelrecords.com/koencafe/?p=218
参考文献:http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-265.html
市街の片隅で演奏を繰り広げるバスキングを何度も見かけ、これに刺激され、ヨーロッパの地下鉄駅通路でのフィールドレコーディングにオモチャのスティールパンを重ねたものだという。都市のざわめきの向こうの(フィルタリングされた)演奏風景ではなく、演奏音によって紗を掛けられ、その網目に浮き沈みする都市の光景。「たったひとつの現実」が「もうひとつの現実」への回路をすっと開いてみせる。
第4部 音響都市の生成
一瞥=スナップショットの集積による第1部に対し、こちらは腰を据え、たじろぐことのない凝視=持続により、都市が生成していく様をとらえる試み。第3部の里国隆あたりから大きく押し広げられた耳が、未曽有の事態を目撃するに至る。

試聴音源なし
公園の池の水位調節用地下水路の空気抜きの穴に、マイクロフォンを下ろして収録した音響とのこと。水音と広がる響きが空間のヴォリュームを明らかにする(身体の中で『Unter Grund』や『Lost and Found』と響き合う)。覗き込む闇の奥にある広がり。しかし、途中から響きは聴き手の背後にも広がり、あたり一面に立ちこめて、耳は空間の内部へと引き込まれ立ち尽くす自分自身を発見する。何の抵抗もなく足を踏み外すように、微かな兆候すらなく世界の色合いが一変する瞬間。ここでもまた歸山スピーカーの力が際立った(聴き手を包み込む背後の音まで再生できるなんて。モノラルなのに)。

試聴トラック:http://www.gruenrekorder.de/?page_id=2301
以前から様々な機会にプレイしてきた音源だが、今回初めてしかるべきプログラムに組み込めた気がする。茫漠とした響きの雲の広がりが、動き揺らめいて次第に濃淡を明らかにし、やがてそこに見知った風景を映し出す。この占い師の水晶玉を覗き込むような体験を引き起こすのは、オーブリー自身が「間接的聴取」と名付けた手法(というより姿勢か)であり、おそらくは直前にプレイした津田の音源同様、対象/外界からの距離の異なる複数のマイクロフォン間のミキシング・バランスを連続的に変化させることにより得られる効果なのだろう。しかし、そこに生じる現象は左右のステレオ・パンニングなどとは異なり、体感総体を耳を通じて揺さぶりたてる世界認知(そこにいる/外部がある感覚)の変容にほかならない。その初期の中平卓馬の写真を思わせる、冷ややかにモノクロームで凝縮された「覚醒感」は、Satomimagaeと確かに通じるものがある。

試聴トラック:http://www.reconquista.biz/SHOP/BsF006.html
前回、冒頭に聴いた音源を再び。「最初に聴いてしまったために、そのすごさがじゅうぶん伝わらなかったのではないか」との反省に基づいての再演だったのだが、いやあ驚いた。最初の声の揺らめきの艶めかしく濡れたような輝きなど、絶対これまでの再生では聴いたことがなかったし、本当にこの世のものとは思われないような美しさだった。民俗学/民族学に大きく傾いた前回の聴取モードが、やっぱりアートより伝統/生活のがすごいよね‥とか、お婆ちゃんて最強無敵だよね‥というところに話を落とし込んでしまうのはツマラナイと感じていたのだが、それは結局、いま耳にしている響きの在処を、その向こうの実体に、そのキャラクターや物語に求めてしまうからだ。そうではなく、あくまでも「手前」にとどまって響きを構成するレイヤーを聞く‥‥という行為を、藤本由紀夫を導入に里国隆、Satomimagae、hofli/津田貴司、Gilles Aubryと強力極まりない音源に対して繰り返し続け、耳をつくってきたことが、こうした輝かしい「奇跡」をもたらしたのだろうか。なお、今回は締めくくりの「区長挨拶」も聴き、録音者である宮里の意識した「丸ごととらえる」ことをフォローした。

試聴トラック:http://www.adocs.de/buecher/sound/amplification-souls
最後は今回のシンボルとなるアーティスト、ジル・オーブリーの新作から。キンシャサでのキリスト敦礼拝のフィールドレコーディング。まるで空爆のように炸裂する説教師の歪みまくったアジテーション。それに呼応して叫び、沸騰する民衆の怒号。レイヤーを切り出すことなどかなわず、ひたすら量子化してマイクロフォン/耳に襲い掛かる音の爆発/激流。「五月革命」より混乱/液状化し、『イザイホー』よりトランスした究極音源。初めて聴いた時は、小冊子に付属した体裁もあって、何だ、文化人類学/社会学調査のリポートかと失望したりもしたのだが、この日、この流れの中でようやく本領を発揮してくれた。
サルヴェージ

Official MV https://www.youtube.com/watch?v=SbzGx_fy_wM
響きの深淵へと深く深く沈潜した耳を(魂を?)現実世界へと浮上させるための儀式。今回は第3部でプレイしたSatomimagaeからもう1曲。不愛想に低く呟く声が、次第に高揚し、深い深い井戸の底から頭上に小さく開けた明るみを目指して、各層を貫いて力強く浮かび上がる「浮上感」にすべてを託して。

今回も驚異的なパフォーマンスを見せた歸山幸輔制作の特製スピーカー 撮影:多田雅範
【参考文集】
今回も関連文献からの引用をちりばめた参考文集を配布した。0~7の8節で構成されるが、これもまた映像資料同様、テクスト/アーカイヴの視点から新たな補助線を引く試みであって、今回のプログラム自体の解説/絵解きではないことに注意されたい。引用元はご覧のように多岐に渡るが、今回のプログラムの背骨として、やはりヴァルター・ベンヤミンの視線/思考の存在が大きかったことを告白しておこう。ベンヤミン読解としては近森高明『ベンヤミンの迷宮都市』(世界思想社)が新たな視点を与えてくれた。合わせて感謝したい。
0.都市の時間・空間
高祖岩三郎『ニューヨーク烈伝』
ジェイン・ジェイコブズ『大都市の死と生』
福島恵一「ロワー・イースト・サイド」 『アヴァン・ミュージック・ガイド』所収
1.見えない都市
磯崎新『空間へ』
磯崎新『いま、見えない都市』
ヴァルター・ベンヤミン著作集11『都市の肖像』
イタロ・カルヴィーノ『見えない都市』
2,溶解/沸騰する都市
西山長夫『パリ五月革命私論』
佐伯隆幸『最終演劇の誘惑』
3.写真都市
鈴木一誌「廃墟のまなざし」 東京都写真美術館編『森山大道論』
森山大道・鈴木一誌『絶対平面都市』
4.地図、抽象空間、都市計画
永井荷風「日和下駄」
ルイ・アラゴン『パリの農夫』
アンリ・ルフェーブル『都市革命』
レム・コールハース「都市計画に何があったのか?」 『S, M, L, XL+』所収
コーリン・ロウ、フレッド・コッター『コラージュ・シティ』
5.都市の諸相/多層、年代の積み重ねた地層
永井荷風『日和下駄』
ルイ・アラゴン『パリの農夫』
川田順造『母の声、川の匂い』
矢作俊彦「夢を獲える檻」 『複雑な彼女と単純な場所』所収
6.都市の暗黒
金子光晴『どくろ杯』
平岡正明「満州貧民街における小悪魔の飽食」 『官能武装論』所収
洲之内徹「掌のにおい」 『洲之内徹文学集成』所収
7.大道芸人たち
金子光晴『どくろ杯』
宮里千里「漂泊のマレビト」 里国隆『路傍の芸』CDライナー所収

デザイン:川本要
スポンサーサイト
2017-06-09 Fri

撮影:原田正夫
今週末、6月11日(日)開催の『松籟夜話』第九夜について、もう直前になってしまったが、簡単にご案内しておきたい。
今回は、三回シリーズ『漂泊する耳の旅路 - 現地録音を聴く』の第二回。 「音響都市の生成」と題し、「子どもの路地遊びや路傍の芸の街頭録音を入り口に、都市のざわめきそのものに深々と身を沈め、異なる時間/空間の交錯を透視する耳のパースペクティブを描き出す」ことを狙いとしている。
今回のシリーズは、第七夜でAMEPHONEを特集したことを踏まえ、『松籟夜話』の背骨とも言うべき「現地録音」に、真正面から向き合いフォーカスしたシリーズをやろう‥というところから生まれた。「それなら是非コレをかけたい」という音源を津田と私が持ち寄り、『イザイホー』を核とした民俗学的深さと、Christina KubischやGilles Aubryらがつくりだす都市空間的広がりが対比的に浮かび上がった。シンボリックに言えば、前者は異質な「声」がぶつかりあいながら澄み渡っていく閉ざされた世界であり、後者は人工物を含め、ありとあらゆる音響が、かつ消えかつ結びつつ無際限に増殖していく空間である。
歌声にとどまらぬ声の位相は、かねてからぜひ採りあげたいと思っていた主題だったし、ともすれば「自然讃歌」に傾きやすいフィールドレコーディングを扱う以上、「都市的なるもの」は避けては通れない論点だった。そのようにして第八夜・第九夜の企画方針はすんなりと決まった。

東京都渋谷区神南 撮影:原田正夫
実際には、明確なイメージを描けていたはずの第八夜の企画は、その後、「南島文化」の多様性、民俗学の奥深さ、沖縄を巡る思考の広がりと驚くべき鋭いエッジ等との格闘となり、ずぶずぶと深みへと引き込まれていくことになる。もちろん、その分、得たものもまた大きかったのだが。第九夜の企画もまた、検討段階で大きく揺さぶられることとなった。
都市のフィールドレコーディングを主題とすることから、先に挙げたChristina KubischやGilles Aubryの音源を聴き込む。一つひとつは断片に過ぎないスナップショットの集積が、モザイク画状に浮かび上がらせる都市イメージと、茫漠とした混沌が揺らぎ渦巻く暗闇を凝視するうち、いつの間にか街中に佇む自分自身を発見する瞬間。両者は対照的なアプローチのように見えるが、実のところ、一望では全体像をとらえることのできない「見えない都市」という認識を、共通の基盤としている。これらを第九夜の二つの極としてとらえることとしよう。
これに対し、同じ「見えなさ」は、都市の巨大さ・複雑さ、多様な時間・空間が折り重なる多層性等によってだけではなく、突発的事態、例えば革命や内戦がもたらす「超」流動化によっても生じ得る。これをイントロダクションに置こう。
さらに様々な音源を聴き進めるうちに、先の「スナップショット」と「凝視」がどちらも通常の目線の高さや周囲の物音(アフォーダンスを提唱したJ.J.ギブソンが創造した概念「包囲光」にならって「包囲音」と呼びたいところだ)に対する身体感覚を前提にしているのに対し、俯瞰的・鳥瞰的な視点から全貌をとらえようとしたり(実際には全体像は決して耳の視角には収まりきらないのだが)、あるいは「その場」に聴き手の身体を瞬間移動させるようなヴァーチャル・リアリティ的音響空間を構築したりする作品の一群が浮上してきた。これらを先の両極の間に置くこととしよう。
当初から、都市の音響のもうひとつ欠かせない、重要な要素として、大道芸人やストリート・ミュージシャンの存在が挙げられていた。都市の日常に祝祭に彩りを与える路傍の芸。これを新たな視点として追加しよう。‥‥と、ここで大きな問題が生じた。先に触れた各パートの作品に拮抗し得る大道芸人やストリート・ミュージシャンの「現地録音」が意外とないのだ。これは決して、彼らの演奏の水準が低いことを意味しない。むしろ逆で、「ストリートにもステージで演奏するアーティストに比肩し得る、あるいはそれを上回る優れたミュージシャンが存在する」といった対抗的視点が災いして、彼らの演奏を彼らが活動する都市の空間ごと、まるごととらえた録音が少ないのだ。さもなくば都市の一風物として「音の絵葉書」化されてしまうか、アウトサイダーの一生として「人生哀歌」がフィーチャーされてしまうか‥‥。のっぺりとした一枚絵に平面化してしまうのではなく、都市は背景たる書き割りに過ぎないと片付けてしまうのでもなく、演奏者と場所の関係性にフォーカスし、そののっぴきならぬ必然性を明らかにする録音‥‥。ようやく選定の視点が定まり、狭義の街頭演奏/録音の範疇にこだわらずに、素晴らしい演奏を聴いていただくことができるようになった。
ここでの葛藤の副産物は、改めて宮里千里の「耳力」(眼力の聴覚版)の確かさに打たれることを通じて、都市とは言い難い久高島を舞台に演じられるイザイホーの録音を、都市のフィールドレコーディングを聴く耳で聴いてみたらどうだろうかと思いついたことだった。前回の『松籟夜話』第八夜に対すると私と津田の一番の反省点は、披露した音源中、最も豊かで深い『イザイホー』をプログラムの最初に置いてしまったがゆえに、参加者にその強度をじゅうぶんに感じ取っていただけなかったのではないか‥‥ということなのだ。多層の積み重なりがその場で生成するもの、演奏者と場所との関係性への注視、時間・空間を濾過せずまるごととらえるといった特徴は、両者に共通している。今回、『イザイホー』を新たな耳で聴き直すことにより、南島文化、民俗学といった枠組みから解き放たれた、学術的/文化遺産的などではない、生々しい力を体験していただけることと思う。それはまた、都市へと向かう耳の視線を、大いに励起してくれることだろう。

沖縄久高島海岸 撮影:津田貴司
あまりネタバレになるのもどうかと思い、いささか抽象的な話を書き連ねてしまったが、当日、体験していただければ、「なるほど、そういうことか」と納得していただけるのではないかと思う。もちろん、『松籟夜話』はリスニング・イヴェントであり、こうした企画者側の用意した「プロット」は、所詮は下絵の線、あるいは単なる口実(プレテクスト)に過ぎない。ここでの聴覚、視覚、さらにはそれをはみ出す身体感覚の体験は、そうしたあらかじめ書かれた「プロット」を簡単に上回り、裏切ることになるだろう。いや、そうでなければならない。
映画作品をプロットの整合性や社会現実との照応性(正しいとか正しくないとか)で評価したがる輩がいる。とんでもないことだ。映画とは次々に身体を襲う視覚・聴覚体験の連続であり、プロットやテーマはそれを射出するためのカタパルトに過ぎない。先日、國村準が特別俳優賞を受賞したことで話題の韓国映画『哭声(コクソン)』を観る機会があったが、ここでもプロットの整合性や顛末の解決は思い切りよく「二の次」になっている。ストーリーなどショットと音響の連鎖のうちに切れ切れに浮かび上がり、束の間の持続を確保すればよいのであって、ストーリーをなぞるために映像や音響を、ましてや俳優の演技やセリフを配するのではない。そんなに文字で綴られた物語が大事なら、原作やシナリオのページをキャメラで撮ればいいのだ。
閑話休題。案内と言いながら、主催者自ら参加のためのハードルを上げてしまってはしょうがない(苦笑)。改めて準備運動を続けよう。今回の『松籟夜話』第九夜が都市のフィールドレコーディングを特集しながら、どのようなアプローチを採らないでいるかを説明すれば、意外とイメージが伝わるのではないかと思う。
都市を近/現代、モダニズムのシンボルととらえ、その表象を音/音楽に見ようとするアプローチは採らない。例えばルイジ・ルッソロらイタリア未来主義が、機械の騒音と都市の速度/喧噪を顕彰して制作に勤しんだ音響詩やイントナルモーリによる騒音音楽。ヴァルター・ルットマンによる実験映画『伯林大都会交響楽』もまた、都市の音響に対する美術史的視点からは欠かせない達成だろう。だが、機械の規則正しい高速運動やこれと同期したきびきびしたカット割りが生み出す「都市のリズム」も、今回は同様に採りあげない(付された音楽は言わずもがな)。
「見えない都市」、すなわち都市の一望性の喪失/崩壊を前提として、そこから浮かび上がる(視覚ではなく)聴覚による都市の把握、都市像の生成をモチーフとしているので、まさに一望性の産物である「地図」的なアプローチは採らない。この結果として、教会や学校の鐘、灯台の霧笛、より現代的場面ならば録音や合成音響がつくりだす音響サイン等への注視は行わない。マリー・シェーファーによる「サウンドスケープ」の視点も今回は採らない。
金子智太郎から以前に教えてもらったトニー・シュヴァルツ(Tony Schwaltz)が進めた「都市の音響図鑑」的なアプローチも採らない。これは図鑑が掲載するのは「その場」から切り離した標本/オブジェに過ぎず、対してスナップショットには「避けがたく背景も写ってしまう」全体的なものであるとの理解からである。もっともムーンドッグ(Moondog)の路上演奏の街頭録音のように、彼にはそれだけにはとどまらない達成があることは強調しておきたい。
どの程度、表題にふさわしい「お誘い」たり得ているか、はなはだ心もとないのだが、いつもと同様、ハードコアかつディープであることは保証する。今回もまた音源だけの紹介ではなく、テクスト(参考文集)の配布や映像からのアプローチを絡めたいと考えている。「横断的」であることにより「入口」を多数設けるという配慮もさることながら、音響と映像とテクストが交錯/衝突することによって、初めて「都市」という対象に迫り得るという思いがある。蛇足ながら、制作側の意図の詮索や歌詞の解釈等、結局のところ、テクストの内部に閉じこもって音楽批評のあり方への反発も。
『あなたの知らない世界』的な「怖いもの見たさ(レア音源聴きたさ?)」で、どうぞ気軽に参加していただければと思う。ただし、事前のご予約をお忘れなく。

デザイン:川本要
『松籟夜話』第九夜
◎音楽批評・福島恵一とサウンドアーティスト・津田貴司がナビゲートする、「聴く」ことを深めるための試み。◎会場は青山・月光茶房隣設のビブリオテカ・ムタツミンダ。歸山幸輔によるオリジナルスピーカーで様々な音源を聴きながら「音響」「環境」「即興」の可能性を探ります。
第九夜は、三回シリーズ『漂泊する耳の旅路 - 現地録音を聴く』の第二回。 「音響都市の生成」と題し、子どもの路地遊びや路傍の芸の街頭録音を入り口に、都市のざわめきそのものに深々と身を沈め、異なる時間/空間の交錯を透視する耳のパースペクティブを描き出します。
福島恵一 音楽批評/「耳の枠はずし」 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/
津田貴司 サウンドアーティスト http://hoflisound.exblog.jp/
歸山幸輔 オリジナルスピーカー
日時:2017年6月11日(日)18:00~(21:00ごろ終了予定)
料金:1500円
お席を用意する都合上、予約制とします。開催日前日までに、お名前・人数・当日連絡先を明記の上、下記までお申し込みください。
gekko_sabou@me.com(月光茶房)
会場:Bibliotheca Mtatsminda(ビブリオテカ・ムタツミンダ:青山・月光茶房隣設ECMライブラリー)
東京都渋谷区神宮前 3-5-2 EFビルB1F
03-3402-7537
http://gekkosaboh.com/