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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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ピアノという解剖台、口ごもれる資質 ― 『タダマス26』レヴュー  Piano As a Dissecting-table, Ability of Hesitation in Saying ― Review for "TADA-MASU26"
 自身がプロデュースするライヴ・シリーズ『tactile sounds』について、「今度のピアノ、初めて聴いたんだけど、すごく良いですよ」と益子博之が興奮気味に語っていたのを覚えている。そのピアノ奏者が今回の『タダマス26』のゲストであるリン・ヘイテツだった。ゲストにちなんで‥というわけではないだろうが、プログラムはピアニストを大きくフィーチャーしたものとなった。そうした中から、特に印象に残った部分を書き記しておきたい。
 いつものことながら、レヴューは一夜の内容の全貌を伝えるものではないし、企画者の意図を代弁するものでもない。あくまでも私の関心に沿って切り取られた視角であることを、あらかじめお断りしておく。
 なお、当日のプレイリストについては、次のURLを参照されたい。
 http://gekkasha.modalbeats.com/?eid=955542


タダマス26-13.Aaron Parks 『Find the Way』(ECM)
 Billy Hartのドラムはパルスに限定することなく、時にはほとんど因習的とすら言えるジャズ・イディオム的なリズム・フィギアを叩き出しながら、Aaron Parksのピアノの音の運びに対し、常にズレた地点に設置していく。細やかに編み上げられたサウンド・レイヤーを滑らかにずらしていく‥‥といった最近のデスクトップ的な精緻な編集感覚とは異なる、もっとラフでざっくりとした感触がもたらす、どこか人を食ったようなヒューモア。益子の「老人力」との形容には思わず膝を打つところがある。

タダマス26-24.Soren Kjaergaard, Ben Street, Andrew Cyrille 『Femklang』(ILK Music)
 Billy Hart同様、NYダウンタウン・シーンで最近「再ブレーク」中のAndrew Cyrilleについて、「この盤の演奏が彼に対する高評価のカギではないか」と語りながら、Soren Kjaergaardのピアノ・トリオをかける(Aaron Parksのトリオとベース奏者が同じという周到さ)。音と音との間がだんだん広がり、たちこめる闇が次第に深さを増していく。遠くで幻の如く虚ろに響くカウベル(か、あるいは‥)が、手前のピアノやシンバルをほのかに照らし出す。

タダマス26-35.Roscoe Mitchell 『Bells for the South Side』(ECM)
 続くRoscoe Mitchell作品も大人数のパースネル表記にもかかわらず、披露された12分以上に及ぶ冒頭曲は、コーダ部分でまるで篠笛のように鋭く一文字に引かれたピッコロ(Roscoe Mitchell自身による)を除けば、Craig TabornとTyshawn Sorey(!)による2台のピアノの凍てついた交響とそこに影のようにひっそりと付き従うWilliam Winantのチューブラー・ベルズ等の金属打楽器しかない。間を置いて沈黙を切り裂き空間にそそり立つピアノの打撃音、さらにはピアノ弦を直接掻き鳴らし、あるいは筐体を叩いて生み出される高密度の音響は、明らかに音高や音価の組織化ではなく、空間を満たす強度/濃度の勾配によって導かれている。シカゴ現代美術館の硬く張り詰めた床や壁、はるかに仰ぎ見る天井、空間の圧倒的なヴォリュームと遠くまで渡っていく響き。深海を思わせる暗闇は、霧にも、むせ返る香りにも似た分厚い静寂にねっとりと充填され、もはや新たな音を解き放つことなどできようはずもない。ただ、たゆたい続ける響きの濃度を、浮かび上がる音粒子の軌跡を、捻じ曲げ、撓ませるだけだ。途中から微かな鈴の音が止むことなく鳴り続ける。それまで暗闇に沈んでいた静寂の襞に、しゃらしゃらと銀粉を振り撒いて、不可視の起伏を浮かびあからせ、最後、ピッコロが一文字に線を引くための舞台を整える。
 おそらくあらかじめ記された「楽譜」があるのだろうが、それは単なる指示書に過ぎない。どのように作戦を遂行し、成果を挙げるかは、一瞬ごとの状況判断、すなわち「即興」に委ねられる。ここでTabornやSoreyたちが開いてみせる世界の豊かさに比べ、あらかじめ用意された「書かれたもの」の構造は、それほど精緻でも複雑でもあるまい。逆に言えば、作曲は自己完結しておらず、演奏の豊かさを決して保証してはくれない。それが「ゲンダイオンガク」としての完成度の低さであると言うのなら、それはそうなのだろう。だが、それがいったいどうしたと言うのか。「たとえ楽譜を見て演奏しているとしても、(所謂「現代音楽」の演奏とは)時間の過ごし方、役割の果たし方が違う」という多田雅範の指摘は、まったくその通りだと思う。
※以下で録音時のライヴ演奏からの抜粋映像を見ることができる。
 https://www.youtube.com/watch?v=dMQ4WOGoMdQ

タダマス26-46.Craig Taborn, Ikue Mori 『Highsmith』(Tzadik)
 Craig TabornとIkue Moriのデュオと聞かされると、「ジャンル違い」というよりも、むしろ、隙間なくみっちりと石垣を積み上げる前者の「建築性」と、ソーダの泡が弾け、クリームが散乱し、色とりどりのチョコレート・スプレーが噴出する後者の女子会的「非建築性」の極端な対比が思い浮かぶ。間を置いて打ち鳴らされるピアノに対し、興奮して「沸いた」頭の中のように、空間のあちこちから噴き出し吹き荒れる電子音のつぶやき/ざわめきが、次第に静まって、空間がたゆたいながらも見通しを取り戻す様には、「音楽」を経由しない(「音楽」へと迂回しない)音の感覚/生理のより直接的な交感を見る思いがした。コメントを求められて「二人の音がまったく混じり合っていない」ことを指摘しつつ、さらに「音が混じり合うこと自体をよいとする価値観は、日本のシーンの方がアメリカよりもはるかに強い」としたリンの指摘が心に残った。

タダマス26-59.Plug and Pray 『Evergreens』(dStream)
 Erik Hove Chamber Ensembleのスペクトル楽派の影響(応用?)だという滲み感の強い管アンサンブル、不協和というよりは色彩の不透明な濁り感をブリッジとして、Benoit DelbecqとJozef Dumoulinのデュオ「Plug and Pray」へとエレクトロ・アコースティックな「空間のたゆたい感」が引き継がれる。スリラー映画で風もないのに揺れるカーテンにも似た、実体を欠いたナイトメア的なストリングス・キーボードの閃き。突如として制御不能に陥り、どもり続け、あるいはテーブの早回しを思わせるガラクタに壊れたリズム・フィギア(多田はアメリカン・クラッカーの痙攣発作的なビートに喩えていた)を噴出させるeドラミング(電子リズムボックス)は、「響き感」の操作により、リズムの刻みだけでなく、存在自体を極端に不安定化されている。ピロビロと輪郭を溶かし、ペラペラと厚みを欠いたまま、無限/夢幻に巡り続けるフェンダー・ローズ。息苦しいほどに濃密な飽和感/デジャヴ感。プールの底に足が届かず、宙を蹴る頼りなさ/救いの無さ。
 対してキーボードもドラムもエレクトリックにささくれざらついた質感へと思いっきり針を振りながら、切れ味の良いタイトなリズムが、Kate Gentileの作品を「Plug and Pray」とはまったく異なる感触に仕立てている。地に足を着け、足早に前へ進む時間。

タダマス26-0縮小
撮影:原田正夫


 Ryosuke Hashizume Groupの演奏の2拍目が引き伸ばされて宙に浮く3拍子を「3+5+3の11拍子」と鮮やかに分析し、あるいは先に触れたように、国内シーンの「音が混じり合うこと」への称賛ぶりに対して醒めた眼差しを向け、さらには変奏により新たなフレーズを紡ぎ出すよりも、同じフレーズを繰り返す方がカッコイイとされる最近の風潮を、「フレーズを繰り出しているうちに、既視感のあるジャズ・フレーズが出てくると、そこでテンションが下がってしまう」というわかりやすい理由説明付きで的確に指摘してみせる(なるほどThe Necksがもてはやされるわけだ)など、今回のゲストであるリン・ヘイテツは、五線譜に視覚化される音高・音価中心の体系を、そのまま具現化した楽器「ピアノ」の演奏者にふさわしい資質を、如何なく発揮してみせた。

 だが私が注目したいのは、彼が今回の『タダマス26』で何度か見せた「口ごもれる資質」である。これは決して皮肉ではない。いきなり(未聴の録音も多数含まれているであろう)新譜からの抜粋音源を聴かされてコメントを求められ、まるで知らないこと、あるいは未知のものにたじろぎ、打ちのめされることが恥でもあるかのように、「ああ、彼の演奏はNYで聴きましたよ」、「メンバーとして参加している○○のことなら、友達なのでよく知っていますよ」と、話をすぐさま既知の体験や人脈関係に着地させようとする者たちがこれまで多くいた中で、彼は違っていた。そもそもインプロヴァイズド・ミュージックなのだから毎回異なるはずの演奏を、あたかも聴く前からわかっていたかのように語ることは、そこに潜む未曽有の事態に耳を不意討ちされることを最初から回避するための身振りではないのか。その点、リンは率直過ぎるほど正直に口ごもっていた。

 それはもちろん、事態が不明であったり、頭が真っ白になって途方に暮れたりしたためではあるまい。むしろ演奏の底知れぬ豊かさを確かに受け止め、そこに潜む「未曽有の事態」にしたたかに打たれながら、その一瞬に彼が受信して/注入されてしまった膨大な情報量を限られた語数でどう伝えればよいのか、懸命に高速演算しているように思われた。色とりどりのランプをけたたましく点滅させながら、なかなか回答をテープに吐き出してくれない巨大コンピューターのイメージ。

 そこに私は彼の「批評」の力を見ている。作曲性と即興演奏性が、空虚な空間に放たれる孤独な音の軌跡と「音響粘土」をこねあげる造形力が、ざわめきと沈黙が、ズレと同期が、音高・音価体系と音色の質感や音自体の強度が、「ピアノ」という異質なものの出会いをかたちづくる「解剖台」の上でせめぎ合い、相互に浸透する様を見詰めた今回の企画 ― それはピアノを俎上に載せるというより、ピアノを俎板=解剖台としたと言うべきものだった ― に、彼は実にふさわしいゲストだった。彼の「口ごもり」を受け止め続けた益子と多田を含め拍手を送りたい。

masuko x tada yotsuya tea party vol. 26: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 26
2017年7月23日(日)
四谷三丁目 綜合藝術茶房 喫茶茶会記
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:リン ヘイテツ(ピアノ奏者/作曲家)



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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 01:28:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
タダマス、南部博士と共に26次元を数える  "TADA-MASU" Take a Count of the 26 Dimension with Dr.Nambu
 益子博之と多田雅範による現代ジャズ・シーンの定点観測「四谷音盤茶会(通称「タダマス」)」も今週末7月23日(日)で26回目を迎える。ずっと続けている告知記事のタイトルへの数字(回数)の折り込みも、かなり大変になってきた(笑)。

 今回はいつもながらの最新ディスクからのピックアップや、ゲストとの当意即妙のやりとりもさることながら、なにしろ益子は今月13日の夕方にNYから帰って来たばかり。現地での最新情報を、みやげ話として披露してくれることだろう。楽しみだ。とりわけ注目すべきはタイション・ソーリー(Tyshawn Sorey)のThe Stoneへのレジデンシー関連。多田によれば、益子は出発以前から「今回はタイションに狙いを絞っていく」と宣言していたとのことだ。実際、彼が現地からFacebookにアップした写真が素晴らしい。

 
 
 撮影:益子博之



 今回の基本情報を以下に転載しておく。

masuko x tada yotsuya tea party vol. 26: information
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 26

2017年7月23日(日) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:リン ヘイテツ(ピアノ奏者/作曲家)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)

今回は、2017年第2 四半期(4~6月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。
ゲストには、ピアノ奏者/作曲家のリン ヘイテツさんをお迎えします。バークリー音楽大学卒業後、ジャズの世界で幅広く活躍するリンさんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)

最新の情報は下記をご覧ください。
http://gekkasha.modalbeats.com/?eid=954584

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ライヴ/イヴェント告知 | 16:04:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
猫の腹を撫でる ― 「星形の庭」ライヴ・レヴュー  To Stroke Cat's Belly ― Live Review for the Pentagonal Garden
 吉祥寺駅の階段を降りて、狭いバス通りを左手に折れて進む。意欲的な古書店Basara Booksに立ち寄り(店内のレイアウトがずいぶんと様変わりしていた)、ひとめで羽良多平吉デザインとわかる『VARIETE』を購入。佐藤重臣が書いているのに惹かれたのだが、目次をよく見ると間章も書いている。ガード下の交差点まで来ると、向こう側に「いせや」の賑わい。その煙と匂いの向こうに目指すスペースLiltの入ったビルがある。かつてSound Cafe dzumiへと通った道。
 ビルはやはりかつてとは随分様変わりしていたが、エレベーター・ホールまで螺旋階段を昇らねばならない不便さは変わらない。5階の扉が開くと、もうそこから店内。これはズミと同じ。ズミとは階が違うが、基本的な間取りは変わらない。奥のカウンターの位置取りも共通だが、それなりに場所を取っていたオーディオやレコード棚がない分、少し広く感じられる。天井から設えられた棚でマッキントッシュのインテグレーテッド・アンプが涼しげな青い光を放ち、英国ハーベスのミニ・モニターが瑞々しく香る静けさを奏でている。聴き覚えのある津田貴司の作品。ズミでも「メイン」スピーカーは同じBBCスタジオ・モニター系列の英国ロジャースLS3/5Aが用いられていたことを思い出す(JBLスピーカーと同時に鳴らすという、かなり無茶なセッティングだったが)。不思議な縁。

 所狭しと並べられた椅子は、もう9割方埋まっている。仕方なく最前列、ギターを構える津田のすぐ眼と鼻の先に腰を下ろす(決して圧力をかけるつもりはないのだが)。井の頭公園の樹々がズミよりも近く見える。程なくして演奏が始まった。
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撮影:原田正夫


 音を立てずにギター弦上を往復する弓。リードを鳴らさずに畳まれていくアコーディオンの蛇腹のパチパチと焚き火が爆ぜるような軋み。下の通りの交通騒音がふーっと浮かび上がり、やがてそこに微かな音が敷き重ねられていく。次第に水かさを増す響きに耳を浮かべていると、ふっと音が止み、一瞬、正体不明の深淵が口を開ける。緊張のせいか、聴衆の椅子がぎいっと大きな軋みを立てる。
 運弓が再開され、がさがさした引っかかりが徐々に滑らかさへと転じ、それにつれて倍音がたちのぼり始める。蛇腹の往復もまた加速され、すうすうと漏れる「息」に比して、パチパチした軋みはだんだんと小さく軽くなっていく。路線バスのエンジン起動音がふっと飛び込んできて、リードの微かな鳴りに受け止められる。
 ここでギターとアコーディオンの音色はほとんど見分け難く溶け合っている。それは互いに中間点へと歩み寄り音を近づけた結果ではなく、沈黙のキャンヴァスに音の絵具を積み上げ盛り上げる代わりに、音に厚みを持たせず、ひたすら周囲の空間へと滲み沁み込ませる、クロマトグラフィックな広がりを選んだことの帰結としてある。希薄で極薄の空間の中で、弓の圧力の微細な揺れ動きが筆致の変化となって現れ、蝋燭の炎のように不安定に揺らめきながら消え入る和音が、水たまりの表面に浮かぶ油膜を思わせる玉虫色の響きの変容を見せながら、あたりの静寂へと沈み埋もれていくのとすれ違って、またパチパチという響きが微かにぼおっと浮かび上がる。

 その後、二人の響きは様々な局面を経巡った。ギター弦の爪弾きが北欧の民族楽器カンテレにも似た凍てつくように張り詰めた音色を聴かせ、アコーディオンによる平らかな和音のふるふると震えるたなびきがせせらぎの水音に聴こえ、雪解け水みたいに足元を流れ行きながら、時折、ざわざわと高まり、沸き立つ。あるいは指先ではじかれた弦からこぼれ落ちた破片が、珍しく不透明な不協和音の壁の前を、初夏の宵の羽虫のように飛び交う。ここで鍵盤を押さえる指のポジションはコードの変化/進行というより、舞台照明の切り替えに似た効果をもたらす。増幅されない生のギター弦のか細くかそけき響きが、続いて踏み込まれたヴォリューム・ペダルの操作により、空間に拡大投影され大きく揺らめかされる。アコーディオンの蜘蛛の糸の如く細い細い音が、空間に張り渡されたかと思うと、ふっと掻き消える。耳の集中をたぐり寄せ、すっと解き放って、目印なしの空間に聴き手を向かい合わせる「オフ」の感覚の冴え。ギターのアルペジオにアコーディオンの和音が乗るフォーキーな展開にあっても、そこには響きの細部の細やかな揺らぎへの感覚が常に行き届いており、私はMark Fry『I Lived in Tree』の木床の軋みや部屋のつぶやき、空間のざわめきに満ちた音の肌触りを思い出していた。窓の外でだんだんと高く明るく大きくなっていく満月に照らし出されながら。
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撮影:原田正夫


 実を言うと、前回月日に水道橋Ftarriで聴いた彼/彼女らのライヴでは、津田が弓弾きやゴム球による摩擦で演奏する部分とアルペジオを奏でるフォーキーな部分との落差/乖離に対し、聴き手であるこちらに、どう受け止めればよいかとのとまどいがあった。この夜の演奏では、それは解消されていた。どういうことか。
 弓弾きやゴム球でのギター演奏は、チューニングされた音高を連ねてフレーズ/メロディとして聴き取るのとは別の次元で展開される。言葉を換えれば、聴き手は耳のスイッチを無意識のうちに切り替えて、時間軸状に音高をプロットするよりも、いま鳴っている音自体へと集中を向かわせる。ミクロには音色を構成する音響の粒子の密度(濃度)・速度・運動の方向やパターン、マクロには手触りや色合い、流動性、空間の奥行きの中での重なりや分離の具合。『松籟夜話』のキーワードである〈即興・音響・環境〉で言えば、ここで即興性は、音響と環境との間でリアルタイムかつ刻一刻織り成される動的平衡の軌跡として現れる。
 この夜のゴム球によるギター演奏は、弦の素早いトレモロが倍音の雲を沸き立たせながら、左手指の的確なずらしとミュートがサウンドの飽和を阻み、水道橋Ftarriよりも天井が低くエアー・ヴォリュームの小さい空間でありながら呼吸可能な隙間を確保していた。それゆえ、充満したギター・サウンドの只中に、鎧戸の隙間から漏れ入る光の如く、アコーディオンの細くまっすぐな音(例えば最高音とその半音下の2音の不協和がつくりだす甲高い響き)が射し込むといういつもの構図を離れ、次第に満ちてくるアコーディオンの和音の下にギターが潜り込むという挙動を見せた。アコーディオンのたなびきを、底流に位置したギターの高まりが下から突き動かし、あるいはゆったりと引き延ばされた呼吸のうちにディレイの色合いを移ろわせながら、アコーディオンの響きをゆるゆると降り積もらせる。
 そこには津田が(hofli名義の作品を含め)録音された作品世界で行う、情景提示の感覚に共通するものがあった。そこで情景は眼に沁みるほどくっきりと像を結びながら、決して揺るぎなくそこに在り続けるわけではなく、眼の覚める間際に見る夢にも似て、一瞬の閃きがもたらす残響、無意識のうちに再構成された残像であるに過ぎない。そこで環境音のフィールドレコーディングがもたらす「外」のマテリアルで不確定な揺らぎは、この「星形の庭」の演奏において、弓やゴム球の往復が弦にもたらす、あるいは細く引き延ばされ、あえかに紡がれた息のムラが細いリードに吹き込む、不安定でこわれやすい移ろい、揺れ、濁り、滲みや染みの広がりに取って代わられている。あるいは一音の微細な変化が、例えば強弱のほんの僅かな揺らぎが遠近の感覚を揺さぶり、一瞬のうちに構図を描き変えてしまう鋭敏さの感覚。そうした身体感覚が、音響的な演奏にも、フォーキーでメロディアスな演奏にも通底していることを、確かに手触ることができる。

 ここではゆったりとしたアルペジオも、切なく胸に響く和音も、常に生成変化のプロセスの途上にある。あらかじめ紙に記された、あるいは頭に思い描かれた記号を再現するための「パッケージされた」、「ピンで留められた」音ではない。常に不均衡に移ろう弓の圧力と張られた弦の抵抗のせめぎあいの下でうごめく微細な音の脈動、かつ消えかつ結びて生成消滅を繰り返す無数の「音芽」。蛇腹の伸縮/抵抗と開口部となる各リードの振動/抵抗の拮抗がつくりだす「気圧/気流のドラマ」(アコーディオンにおいては、ピアノのようにひとつの鍵盤ごとに発音体を操作することができず、いま奏でられている和音に一音加えるだけで開口部が増え、内部の圧力と振動の均衡モードが変化してしまう。それゆえそこで繰り広げられるのは、常に逸脱をはらみ、展開が予測不可能な群衆劇にほかならない)。演奏者の意図やその運び手である記号相手ではない、徹底的にマテリアルでロウな(生な)音との交通がそこにはある。

 横たわった飼い猫の腹を撫でる。毛並みの手触り。体温や湿り気の感覚。内臓の脈動。筋肉の緊張。眼を瞑っていても注意深くそばだてられ、休みなく向きを変える両耳の動きに合わせ、時折走る神経の緊張(身体の各部へのあるいは全身への)。ひげの震え。尻尾の規則的な(リズミカルに横に振る)、あるいは不規則な(じっとしていたかと思うと急に鞭のようにしなって床をパタンと打つ)動き。掌や各指への力の入れ方、手の動きの速度や強さ、撫でる部位の変化、こちらが姿勢を変えれば互いの距離や位置関係が変わり身体の投げかける影も動く。背後からは夕食の準備をする妻の足音や調理器具の金属音や外を自転車が通る音がして、時折、猫が薄目を開けたり、ひげを震わせたりする。窓から吹き込む風は、カーテンをたなびかせ、私と猫を共に撫でていく。
 ここではリアルタイムかつ刻一刻のミクロな交通が成立している。それは別に猫の意識と私の意識の間で起こっているわけではない。接している腹部と掌の間の相互浸透として、いや私たちが共有しているこの空間の中の様々な場所で同時多発的に生じているのだ。

 ヴォリューム・ペダルとディレイ1台をグレッチのエレクトリック・ギターにつないだだけのシステム(そのディレイすらも極一部でしか使わない)。最近は音具も弓とゴム球と六角レンチに限られてきた。そして何のエフェクターも音具も用いない、友人から譲り受けたという年季の入ったアコーディオン。
 削ぎ落とし絞り込むことが目的ではない。極北を目指す過激な(往々にして自己破壊的な)ロマンティシズムやミニマリズム/リダクショニズム等のコンセプトも重要ではない(むしろそれこそが余計な邪魔物だ)。ひとつの奏法の中に、ひとつの音のうちに、幾つもの豊かな響きを、多方向からの多様な力の交錯/衝突を聴き取れることが、音のロウな局面に、すなわち物体/身体/空間の震えや揺らぎの深淵へと沈潜できるようになったことが、そのことを通じて共演者とだけでなく、周囲の物音や空間自体の在り様と交感できるようになったことが、場面とじっくりと向かい合う覚悟をしっかりと支えている。そこで楽器は、雑音を排して楽音を抽出する機械としてではなく、その鋭敏さによって周囲の物音を映し出す受信機ととして、さらにはそれ無しではたどり着けない深みから音を通じて世界を探査する聴診器として現れることになる。
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津田貴司のFacebookページより転載


 ミクロな震えに始まり、指先から全身、さらには空間を経めぐって、再び震えへと還ってくる演奏のあり方について、ここでは「星形の庭」の演奏に「託して」書かせていただいた。
実はこうした感覚は、津田貴司、松本一哉、tamaruによるトリオLes Trois Poiresや大上流一とtamaruのデュオに対して覚えたものだったが、なかなか言葉にすることが出来ないでいた。その後、先に触れた水道橋Ftarriでの「星形の庭」と同じライヴに出演したtamaruのソロ演奏に深く揺さぶられ、これはもう言葉にせざるを得ないと切羽詰まっていたところを、今回の「星形の庭」の演奏をきっかけとして、一気に吐露させていただいたところである。「託して」とは、そうした事情である。それゆえライヴのレヴューとしては、いささか偏った穿ち過ぎの部分があることをお断りしておく。

星形の庭(津田貴司E.Guitar+佐藤香織Accordion)
日時:2017年7月9日(日)
会場:Lilt 東京都武蔵野市御殿山1-2-3 5F
http://lilt.tokyo/
※自家製のジンジャーエールが絶品だったことを付記しておきたい。

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撮影:原田正夫


なお、先に触れたLes Trois Poiresのライヴが7月29日に行われる。必聴。

Les Trois Poires@OTOOTO
2017年7月29日 18:30
OTOOTO 世田谷区北沢3-13-10 エコロニー東北沢B1F
tamaru+津田貴司+松本一哉による演奏です。ベースギター、ギター、パーカッションという編成ですが、通常のトリオとは全く違う発想で、即興/音響/環境という演奏と聴取の結び目、音楽の向こう側の名付けられない領域を探ります。 会場は、東北沢から先鋭的な音楽を発信するスペースOTOOTO。Les Trois Poiresとして初登場となります。 どうぞご期待下さい。



ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:54:58 | トラックバック(0) | コメント(0)