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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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フリー・インプロヴィゼーション/フィールドレコーディングのパラタクシス あるいはキスの作法 ― Les Trois Poires @ OTOOTOライヴ・レヴュー  Parataxis of Free Improvisation / Fieldrecording OR the Manner of Kissing ― Live Review for Les Trois Poires @ OTOOTO
1.Les Trois Poires 2017/07/29 OTOOTO東北沢
 降り出した雨の中、演奏はすぐに始められた。照明を落としたホワイト・キューブに響きの層が広げられる。テーブルクロスに形のない薄い染みとなって広がる低音の震え。大型のデザートドラムに張られた皮が、ゴム球でゆっくりと撫ぜられて挙げるくぐもったうなり声。ギターの弓弾きの植物質のかすれが放つ新しい畳のつんとした匂い。響きの各層は弛みを排し、緊張や硬さを遠ざけて、何より鋭敏であることを目指しながら、手の甲同士を微かに触れ合わせ、「徴候」を探り続ける。

 ベース弦と指先が触れ合い、小さく「ビン」と鳴った後を、追いかけて低音が湧き上がり、鋭いさわりを身にまとうに至る。その間、かざされたデザートドラムの皮にベース音がブルルッと鳴り響き、ギターの弓弾きがガサガサとささくれていく。

 ギターの弓弾きの遠く深い響きが、遥か彼方を半眼で見詰めている。時折混じる軽く希薄なかすれ音が視界をすっと横切る。乾いた紙に触れ、落ち葉をゆっくりとかき混ぜるカサカサした音がしばし聴こえたかと思うと、タタタタタ‥‥と岩から滲み出る湧き水の滴りに波紋音(ハモン:表面にひび割れ状に入れたスリットにより、部位により音高の変わる金属打楽器)を差し出したかのように、粒立ちが涼やかに鳴り響く。ベースは低く言葉少なにつぶやき、次第にその背後から低音が浮上してくる。

 短い沈黙を挿みつつ、クロッキー帳のページをめくるように、その度ごとに新たに始められ、終わりへと向かう演奏。始まってすぐ、全員が最初の一音を出し終わった時点で、三人の立ち位置はもう決まっている。儀礼めいた探り合いも、予定調和の盛り上がりもここにはない。丁々発止の掛け合いも、ケイオティックなエナジーの噴出も、我慢比べみたいな持続合戦(音を出さないことを競い合うのも含む)もない。彼らは誰の指図も受けず、目線も合わさず、すっとそれぞれの持ち場に着いて、確実に「チームとして」すべき仕事をこなす。
 この「チームとして」という表現の意味合いを、きちんと説明しておかねば誤解を生むことになるだろう。というのも、そこにある「集団としての同期性」は、通常の「チーム」という概念からは程遠いからだ。まず彼らは決して同じ方を向かない。それぞれが違うところを見ている。冒頭の部分に見られるように、各層を敷き重ねはするが、溶け合わせることはしない。寄り添うこともしない。ぶつかり合うことはないでもない。しかし、がっちりと組み合って事態が膠着へと陥らないよう、すっと身をかわし離れる術を心得ている。たとえ収斂しながらも、必ず隙間を残し、風通しの良さを保つ。変化/転換への道筋を残しながら、その角を曲がらず、終わりへと歩みを進める。それゆえ誰かが演奏を始めないうちに、終わってしまうこともある。だから変化は知らぬ間にすっと生じるのであって、三人がタイミングを測り、調子を合わせて動く‥‥などということはない。誰かが動いても、自分が場所を移し、あるいは行動を変える必要がなければ動かない。それでは、その「判断の基準」とは何か。
 もちろん、それをひと言で指し示すことはできない。できるとしたら演奏がつまらないか、そのひと言がどうとでも都合良く解釈できるマジック・ワードであるかの、どちらかであるに過ぎない。ただひとつ言えるのは、最近の彼らは演奏の度に、コンポジションと言うはおろか、ルールとすら呼べない、ごく簡単な「取り決め」を用いてインプロヴィゼーションを行っている(津田の弁)のだが、先ほど触れた「判断の基準」は、その取り決め自体がもたらした結果ではなく、その度ごとに変わる取り決めが次第に明らかにしてきた、チームとしての生理/倫理そのものではないかということだ。

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写真:神原弘志  twitterから転載させていただきました


2.パラタクシス
 ギター、ベース、パーカッションと、楽器編成こそ典型的なスリー・ピースのギター・トリオであるにもかかわらず、彼らの演奏がそのようにコンヴェンショナルに響くことはない。何より、ベースがボトムを支え、パーカッションがリズムを刻み、ギターが旋律を奏でる‥‥といった固定した役割分担が存在しない。かと言って、フリー・インプロヴィゼーションによくある全員がひたすらソロを取るとか、コール&レスポンスをさらに断片化してミラー・ニューロン全開の鏡像の強迫的分裂/反射に至るとか、空気を読みまくって希薄なドローンや、あるいは極端な点描による「沈黙」の共有に傾くこともない。そうした安易な解決を選ぶことにより、音が凛とした高潔さを失って安逸さの中に眠り込んでしまうことを、彼らは何より嫌っているに違いない。特に初期の演奏にあっては、「あ、終わるな」と感じたところから、またさらにtamaruが、改めて弾き始める場面がよく見られた。

 3〜4分程度の短い場面を連ねた今回前半の演奏においては、お互いの距離を緊密に保ち、密着しながら絡みあって終わりへと向かう展開が多く見られた。彼らは予定調和にはまらぬよう、巧みに身を入れ替える。各自の描く動線が重複/衝突せぬよう、すっと身をかわしつつ、手の甲を微かに触れ合わせる触覚のつながりは、決して途切れることがない。他へ従属し、固定した階層化に陥ることを拒否しつつ、同一平面状で交わり合うことを避けるため、言わば彼らは常に互いに「ねじれの位置」(三次元空間において直線が平行も交差もしない場合。この時、これらの直線は同一平面上にない)を取っているのだ。
 そのことによって、各自が互いに異質なままでありながら、同じひとつの時空間内で共存を図ることができる。「確固として異なる視点を持つ演奏者たちが、にもかかわらず共演できる」という彼らの高らかな宣言は、まさにこのことを意味している。

 この「ねじれの位置」という表現はあまりに直感的であり、このままでは、これ以上考察を深めることができない。何か別の捉え方はないかと考えていたところ、『表象』10号の岡田温司との対談「新たなるイメージ研究へ」で、田中純がモンタージュとパラタクシスを比較しているのに出会った。同じ異質要素の共存であっても、モンタージュは意図的な構成であり、エイゼンシュタインによれば記号の組合せにより意味を生成する方法、すなわちメッセージの伝達手法にほかならない。これに対しパラタクシス(並列)は、サリヴァン〜中井久夫によれば、イメージ中心の幼児型記憶の渾然一体(プロトタクシス)の中から、関連付けや階層性なしにバラバラに切り出されてくる様態を指す。発達段階としては、この後に、言語を通じた合意によりエピソード記憶が社会化されるシンタクシスが来るのだが、言語とイメージに二股をかけたパラタクシス性が潜在し続けているのではないか‥‥と中井は「発達的記憶論」(『徴候・記憶・外傷』所収)で述べている。
 一方、田中はモンタージュ嫌いの映画監督テオ・アンゲロプロスを例に挙げ、ワンシーン・ワンショットのリアリズムのうちにリアルな「もの」の論理の露呈を見る。ワンシーン・ワンショットとは「視野の周縁」でうごめいているものを捉えようとする撮影法であるというわけだ。ここのところは中井の議論とまっすぐにつながっていて、彼は顔貌記銘を例に挙げ、それが網膜中心部での「質」に関わる情動喚起的な色彩感覚記憶と、網膜周縁部での非情動的な形態的記憶のパラタクシス(重ね合わせ)であることを述べ、さらに暗闇で歩く際の警戒感覚による網膜周縁部の活性化から、聴覚へと話を進め、さらに漢字の記銘が手の運動感覚を巻き込んでいることに言及している。

 長々と文献を参照してきたが、ここでフィールドレコーディングに眼を転じれば、一挙に視界が開けよう。そこで音世界は、異質なものが混在/共存しているが、誰かの意図に基づいてモンタージュされているわけではない。この意図なきモンタージュ、すなわちパラタクシスを録音作品として聴取するためには、メッセージの伝達図式を排し、異質なものの並列を許容し、受容する必要がある。そこでうごめくリアルな「もの」の論理に、深々と身を沈める必要がある。この姿勢が、通常の世界との接し方、たまたま、その場に居合わせて、音が聞こえてくるという場合と全く異なっていることに注意しよう。そうした場合、私たちは行動に必要な情報だけを一方的に抽出し、自らに都合良くモンタージュするに過ぎない。フォン・ユクスキュルが動物について述べた「環世界」とは、まさにそのようなものだった。そうではなく、環境世界のパラタクシス性に留まり、全身を耳にしてそばだて、澄まし続ける必要があるのだ。
 それは一方的に受け身であることを意味しない。昆虫が触覚を揺らめかせるように、コウモリが超音波を放つように、能動的に探ることが必要となる。チューバ奏者の高岡大祐がよくFacebookやブログで釣りの話を書いている。彼の釣りは、ただ浮子だけを見詰めるとか、あるいは竿を何本も立てて、先端の鈴が鳴ったら、それを合図に取り込む‥‥というようなものではなく、まさに釣り糸を垂らすことによって水中や水底の在り様を探るものにほかならない。水深、底の起伏、根掛かりの原因となる障害物、浅い部分と深い部分では異なる水の動き、深さによって異なる魚の種類と密度、食欲や注意力・回避能力等を含めたエサ取り行動の水準‥‥等々。だから彼の釣りには「待ち」が存在しないことになる。

 Les Trois Poiresの3人の演奏者にも「待ち」は存在しない。彼らは音を発していない時にも探査/聴診を続けており、反対に音を発している時にも全身を耳にして聴いている(音を放つことを通じて「聴いて」いるのだ)。それは決して他の演奏者の意図を探ったり、フレーズを聴いて応答しようとしているのではなく、先にフィールドレコーディングの例を挙げたように、世界のパラタクシスな現れを、そこにうごめくリアルな「もの」の論理に触れているのだ。
 およそ出自も年齢層も、制作してきた作品の方向性も異なるLes Trois Poiresのメンバーについて、かつて津田貴司がこう語ったことがある。「メンバー全員、演奏だけでなく録音も手掛けていて、フィールドレコーディングもするんですよ。そこが結構大きなポイントかな」と。


写真:オルーカ  twitterから転載させていただきました


3.フリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディング
 彼らの演奏は、もともと誰がどの音を出しているか判別が困難であるだけでなく、個々人のヴォイスの枠組みから音が滲み出し、空間の中で不可分に混じり合うことを最初から前提にしている。その響きの混淆体に対して、モニターの色調や彩度、明度、輝度等を相互に操作しあうような集合的な演奏がそこにはある。いつもの水道橋Ftarriよりは空間ヴォリュームが小さく、それだけ音の明瞭度や分離度が高いように感じられる東北沢OTOOTOにあっても、そこのところは変わらなかった。個がばらばらに切り離されて析出してくることはなかった。これはやはり会場の音響特性ではなく、彼らの生理/倫理によるものなのだ。
 特に今回前半、短い場面を連ねる展開においては、演奏が途中で大きな転換点を経ないこともあって、音景の提示にフィールドレコーディング的な感覚が強く感じられた。演奏性(演奏する身体)の突出を許さず、岩肌一面から滲み出す清水のようにミクロな生成を続ける仕方。淡々とドローンの見かけを保ち、アブストラクトな音列を紡ぎ続けるエレクトリック・ベースや弓弾きとパルス状の打撃音に素材を絞り込んだエレクトリック・ギター。ルーレットのように金属球を投げ込まれ回転させられるデザートドラム、スティックのしなりを効かせた連打により、まるで規則的な雨垂れを響かせる水琴窟のように響く波紋音。そこには自動/他動性に演奏を託して演奏者の身体性を希薄化し、手の跡を消し、熱量を下げ、すでに以前からそこにあった連続的な環境音やふとした物音に身を寄せて、たとえ大音量であっても響きをひっそりと空間に沁み込ませるしなやかな静謐さが宿っていた。それゆえ黒々としたたゆたいも、かすれた広がりも、淡く層を成している滲みも、点々と散らばった滴りも、すっと引かれた細くくっきりと勁さをはらんだ線も、雨にけぶり、霧に閉ざされ、風に揺すられ、闇に沈む林の樹々の諸相を、つまりは同じ風景の移ろいを思わせた。

 tamaruのエレクトリック・ベースのソロ演奏のレヴューを経て振り返ると、これまでLes Trois Poiresのライヴ・レヴューを書けなかった理由がほの見えてくる。
 デュオやトリオのインプロヴィゼーションを聴く時、耳は自然とメロディやリズムのフレーズを追い、音高と音価の推移を時間軸に沿ってスキャンしながら、それを個々の演奏者の移り変わりと演奏者間の照応関係の二つの軸でとらえる。演奏者同士が反応しあって演奏が進むわけだから、当然のことながら、ある時点で生じた事象は、それより後、未来に向かって影響を及ぼす。それが個々の演奏の変化や演奏者間の対応関係に現れるというわけだ。それは演奏を会話のようにとらえること、すなわち言語コミュニケーションにおいて意味内容が伝達/変容され、論理が構築/変型される様を観察するかのようにとらえることにほかならない。
 熱帯雨林のフィールドレコーディングを聴く時、耳は何を追うだろうか。獣や鳥の甲高い鳴き声、昆虫の羽音やクリック、滴り流れる水音、風とそれに揺すられる樹々、理由もなくガサガサと音を立てる下草の茂み、窪地のような起伏や寄生植物に巻き付かれた幹による奇妙な反響を、空間に点在する無数の音源の分布として、あるいは幾重にも敷き重ねられた音響のレイヤーとして聴くことだろう。「それは何の音/声か」という罠にさえはまらなければ、ぼんやりした浮かび上がる音響複合体の斑紋と、さらにそれらの間に生じる不思議な響き合いに、あるいは明らかに異なる系の間に生み出される、とても偶然の産物とは思えない、整然たる音響構築や緊密な照応に驚くことだろう。まるで会話しているみたいだと。でも結局のところ、耳はそれを会話としてはとらえない。時間軸上のリニアな推移はここでは重要ではない。意味内容や論理構築の変容も。ここで耳は時間の流れを追っているのではなく、空間の中を眺め回し、探っているのだ。だからAの次に来るのが、Bか、それともCかは、まったく重要ではない。

 〈環境・音響・即興〉をキーワードに掲げ、フリー・インプロヴィゼーションをフィールドレコーディングの耳で聴くと宣言しながら、Les Trois Poiresの演奏をフリー・インプロヴィゼーションとして記述しようとしていたのだ。初回の演奏は何とかそれでとらえ得た(と思ってしまった)ことが、誤りの始まりだったのだろう。耳はすでに彼らが別の世界に遊んでいることを聴き取っていた。それゆえに深く揺すぶられ、打ちのめされた。けれど言葉が紡げず、事態を書き記すことができなかった。
 tamaruのベース・ソロをとらえるための視点をようやく設定したところで、彼らのライヴの当日を迎えた。まだ、tamaruに関するレヴューは書けていなかったが、新たに立ち上げた眼差しを通して眺めると、別の世界がそこにあった。音高と音価に基づく体系、その時間軸上の展開としてサウンドをプロットし(それこそはまさに差異の体系としての言語になぞらえて、音をとらえようとすることにほかなるまい)、触覚や視覚、あるいは体幹や運動感覚上のイメージを補助的に用いるのではなく、バランスを逆転させること。ここで顕著なパラタクシス性に沿って、言語とイメージに二股をかけながら、後者に属する手触り、肌理、密度・濃度、粘性、硬軟や重み等の質感、色彩、温度、匂いや香り、分布や勾配、流れの速度(BPMではなく)、広がり、奥行き、深さ、厚み、トポグラフィックな変形等への感覚を研ぎ澄まし、圧倒的に前景化すること。それにより、時の流れに沿った「物語」ではなく、イメージの膨大な集積を顕現させること。たとえば触覚的音響への注目は、決して音色表現の語彙拡大に留まるものではなく、音楽/演奏を触覚的なものの変容としてとらえるところまで突き抜けなければなるまい。


写真:オルーカ  twitterから転載させていただきました


4.弓を持つ左手
 後半の切れ目なく進行した演奏においては、随所で曲がり角を経るために、前半よりは演奏性が多少前景化することとなったが、それでも基本として、各演奏者の音の間の、そして空間にすでに漂っている響きへの相互浸透の色合いの強さは変わることがなかった。2音や3音のフレーズがいつの間にか移ろい変化し、ゆったりと深く打ち込まれていくベース。振動させた音叉を弦に触れさせて接触不良系の断続音を放つギター。柔らかく触れられ遠くから風に乗って運ばれるガムランを響かせる波紋音。
 だから、松本が急に波紋音を連打して前面に躍り出て、そのまま続けたのにはいささか驚かされたが、その結果として演奏はしばし「協奏曲」風のバランスに移行したものの、それによって演奏の基本的な性格や存立のための基底が揺るがされることはなかった。

 ここで特筆したいのは、津田が左手に弓を持ち替えての演奏である。その前から触れるか触れないかギリギリの接触を保ちつつ、超弱音で緩やかに弓を運び、そのまま、すうっと引き抜いて、余韻を垂直に立ち上らせる精妙さに感服していたのだが、右手で音具を扱っていた時だったろうか、立てかけてあった弓へと左手を伸ばし、そのまま指板上にあてがった。彼は右利きだから巧緻性は当然劣る。にもかかわらず、ゆっくりと垂直に往復する弓は、安定した平らかな広がりのうちに、精緻な粒立ちと軽やかな散乱を生み出した。これは決して収斂の賜物でも、偶然訪れた幸運の産物でもあるまい(後で津田に訊いたら、以前に練習中に試してみて、結構行けそうだから、これは本番用に取っておこうと思ったと言う)。右手に持った弓が、意図した音を放つために透明化すべき「道具」であったならば、不器用な左手はその回路を障害していただろう。そうではなく、弓と弦の接触面で圧力と張力、摩擦/抵抗が繰り広げるミクロな闘争の状況をまじまじと見詰め、感得することなら、これは演奏スキルではなく、身体の認知/感覚スキームの問題であるから、右手を左手に移すこともただちに可能となるだろう。

 興味深いことに、中井久夫が先に参照した「発達的記憶論」の中で、観測主体と観測対象をつなぐ線において切断の位置は任意であるとして、「ボーアによる有名なステッキの比喩」を引いている。それを参照しよう。「ステッキをゆるくもてば、ステッキは路の凹凸を反映し、固く握ればステッキは身体の動きに従ってそれを反映する。ステッキは主体に属することもあり、対象に属することもあるというわけだ。」
 津田にとって、ギター(の弦)を探査する弓は、さらにはギター自体が、「ゆるくもったステッキ」にほかならない。観測主体と観測対象の切断面は、ギター・アンプの発音部位からどんどん後退して、弦と弓の接触面へ、弓と指先の接触面へ、さらには身体の奥底へと遡っていく(その一方で、音の響き渡る室内空間へ、さらには聴き手の身体へと侵食・憑依していく)。前回のレヴューでtamaruのエレクトリック・ベースを「受信機」と呼んだが、津田のギターもまた同じ性質を色濃く有している(そう言えば、彼もまたストラップなしにギターを抱えている)。松本のパーカッション群もまた。
 Michel Donedaの息音もまた、ソプラノ・サックスのベルからまっすぐな管の中へ、リードへ、口腔内へ、喉の奥から身体の深奥へ‥‥と、先の切断面をどこまでも後退させ、「外」を身体の内側へと攻め込ませるための「方法」として、「受信機」や探査ゾンデの性質を帯びている。それは決してサウンド・パレットの増強であるとか、楽器演奏テクニックの拡張ではなく、むしろ「音響」を通じて「環境」と深く交わる(=「即興」)ための通路の開拓/掘削なのだ。もちろん、その一方で彼は、室内の空間ヴォリュームに直接マウスピースを接続したかのように、直に部屋の空気を吹き鳴らしてみせるのだが。

 個々で誤解のないよう、すぐさま付言しておけば、弓の表面で起こるミクロな事象をセンシングし、それを出音の変化を介してフィードバックさせ‥‥というような、システマティックな回路構築について語っているつもりは毛頭ない。もしそうであるならば、フィードバック・ループへの介入を容易にするために、ディレイやエコーを回路に挿入することが必要不可欠となるだろう(ここで私は小杉武久『キャッチ・ウェイヴ』やタジ・マハール旅行団の演奏を思い浮かべている)。これに対し、Les Trois Poiresの3人が、いずれもディレイを使用しない方向に歩みを進めていることを指摘しておこう。
 ここでは接触面での圧力や摩擦、速度と抵抗の知覚が、言わば中枢の大本営による言語判断を経ずして、そのままリアルタイムでの運動の変化/調整に結びついているのだ。もしそうでなかったら、私たちはいったいどのようにキスやセックスをしていると言うのだろうか。頭の中をマニュアル本に書かれた注意事項で一杯にして?

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写真:津田貴司


2017年7月29日(土)
東北沢OTOOTO
Les Trois Poires:津田貴司(electric guitar), tamaru(electric bass), 松本一哉(percussion)





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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 12:42:50 | トラックバック(0) | コメント(0)
震えへの凝視 ― tamaruのエレクトリック・ベース演奏  Gazing at Quiver ― tamaru's Electric Bass Playing
 前々回に「星形の庭(津田貴司+佐藤香織)」の演奏を振り返ってレヴューしたのに続き、今回はtamaruの演奏について書いてみたい。今回のレヴューはもともと7月29日(土)に東北沢OTOOTOで行われるLes Trois Poires(津田貴司+tamaru+松本一哉)のライヴに向けて書かれる予定だったことをお断りしておく。

 まず告白しておこう。前々回のレヴューの中で触れたように、特に『松籟夜話』第六夜で360°Records特集の第一回としてtamaruを採りあげて以降、彼の演奏はLes Trois Poiresや大上流一とのデュオで何度となく聴いてきた。むしろ、意識して追いかけてきたと言っていい。そしていずれの演奏にも深く揺すぶられ、打ちのめされた。今までに体験したことのない事態が眼の前で起こっており、それが途方もなく輝かしい素晴らしいものであることは、ずきずきと身体に響く衝撃と感銘から明らかだった。にもかかわらず、それを言葉に出来ないもどかしさに苛立った。もちろん、各演奏者のアクションを書き留めたり、サウンドを形容したりすることで、演奏の推移を描写することはできる。しかし、それは単なる「事実」や「印象」の羅列に過ぎず、そこで起こっている事態の核心、すなわち「真実」に迫り得るものではなかった。分析/記述のための視点を設定できず、それゆえ掘り下げが浅く、演奏の強度を受け止め、核心を射抜く言葉を紡げないでいた。
 何か少し掴めたような気がしたのは、水道橋Ftarriでtamaruのソロを聴いた時だった(「星形の庭」の対バンでの出演)。彼のライヴ演奏を聴く以前に、彼の映像作品の上映に接した際に感じた匂いがふと甦ったような気がした。東北沢OTOOTOで聴いた大上流一のソロ演奏との間にも、素早く照応の線が走った。
 さらに吉祥寺Liltで聴いた「星形の庭」の演奏を苦労して「言語化」したことにより、tamaruの演奏の言葉にできていない、思考し得ていない部分の輪郭がほの見えた気がした。そうした感覚を梃子にして、tamaruの音世界をぐいっとたぐり寄せてみたいと思う。


 tamaruはエレクトリック・ベースを抱えると、すっと音を出す。たとえその前に長い沈黙が置かれていたとしても、間合いを計るような素振りは一切見せない。指先だけが僅かに動き、音が鳴り響く。その音はおよそ撥弦楽器の音らしくない。長く張り渡された弦が弾かれて振動する際の、弦の撓む(伸び縮みする)感覚がないのだ。
 たとえば指腹を弦に垂直に打ち付けて奏でられる音は、まるで細く硬い金属棒を叩いたように聴こえる。大型の柱時計の中に仕込まれた「棒鈴(ぼうりん)」が鳴り響かせる時報、あるいはHarry Bertoiaのつくりだした音響彫刻。素早く垂直に立ち上がる、撓みのない、固い芯を持つ音は、立ち上がりの瞬間に放たれるチェンバロに似た金属質の輝きの華やかな散乱が、響きと化して長く尾を引くとともに次第に澄み渡り、しかし決して周囲の空気に滲み沁み渡ることなく、鋭く研ぎ澄まされたサーベルの切っ先のように聴き手の身体を貫いて、振動を直接伝える。

 通常、音を空間に滲み沁み渡らせることによって得られる響きの豊かさ(それゆえそれは常に濁りと共にある)は、彼の演奏にあって、すでに振動している弦に指先で微かに触れることで生じる「さわり」に取って代わられている。ビィーンと鋭い響きが頭をもたげる。角の尖った粒子の粗さ。琵琶やシタールのそれにもちろん似てはいるが、打ちっぱなしのコンクリートに落ちる水銀灯の光を連想させる、即物的でモノクロームな冷ややかさが際立っている。それぞれ低音域と高音域のヴォリュームをコントロールする左右足元のペダルが、前者から後者へと踏み替えられ、響きを照らし出す照明が切り替わって、細部の肌理を、明暗の鋭い対比を、より鮮明に浮かび上がらせる。あるいはその逆により、面相筆のくっきりとした筆致が次第に解け、曖昧にまどろんで、やがて闇に沈む。

 弦に触れる時点ではヴォリューム・ペダルを踏み込まず、音量を絞って立ち上がりを消し、弦の振動が安定した定常状態へと移行してから、それをクローズアップし、線香の煙のように繊細にくゆらせるという奏法も聴かれる。輪郭も芯もない広がり。灯りをつけずに暗闇の中で入る露天風呂のように、ぬるい湯の柔らかく細やかなたゆたいは確かに感じられるのだが、どこまでが外でどこからが内部なのか、皮膚表面が画定するはずの境界が曖昧に溶解し、もはや定かではない。聴き手の身体を浸潤する響き。超低域の音程のよくわからない音圧が黒々と波立って膝下を揺すり、そこから頭をもたげたパルスが、ボディ・ブローのように下腹に鈍く響いてくる。
 ペダルによるアタックの消去を行わずとも、そっと弦に触れるだけで魔法のように柔らかな震えを引き起こし、さらにはそれを絶えず供給し続けることによって、音の輪郭を感じさせない丸く深い響きが放たれる。最初は奥まって聴こえていた「ぽーん」という音が、次第に大きくなり、厚みを増して「ブゥーンン」といううなりを生じたかと思うと、ついには飽和して耳元でビリビリと響き渡り、やがて静まりつつ底なしに沈んでいく。
 あるいは弦に直接触れることなく、ベースのボディを親指の腹で擦ることにより、張り渡された弦の全体を揺らし、重くくぐもった色のない響きの質感だけをつくりだす。

 こうした演奏において、聴取上の外見は電子音によるドローン・ミュージックに似ているが、その本質はまったく異なっている。むしろtamaruのつくりだす映像作品に近い。どういうことか。
 彼の映像作品については、以前にレヴューしている(※)。その特徴は、何気ない日常の光景をとらえた一見変化のない画面の中で、細部のちらつくような揺らぎが常に生成し、揺るぎなく安定しているはずの視覚のうちに潜む、さらさらとした粒子やぼんやりと浮かぶ色彩の斑紋へと瓦解していくミクロで緩慢な「運動」― それを「震え」と呼ぼう ― を、大いなる不安とともに提示することにある。彼のベース演奏にも、マテリアルな音響を取り扱いながら、それを素材として何かを構築していくというより、聴取の体験自体を掘り崩していくものである。
 ※光と影は共に闇から生まれた ―『New Year Silence』ライヴ・レヴュー
  http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-333.html

 もちろん映像作品とベース演奏の間には基本的な相違がある。前者の場合、あらかじめ撮影したローファイな映像をモニタで再生し、それを改めてハイファイで再撮影することにより、システム間に生じる「誤認識」が作品制作のカギとなっていた。これに対し、後者にはそうしたシステマティックな仕掛けはない。これは映像作品が必然的に含まざるを得ない記録/再生プロセスが、ライヴ・パフォーマンスである後者には含まれていないためである。
 しかし、にもかかわらず、両者の間には重要な類似がある。「震え」への凝視がそれだ。奏法の違いにより、音が立ち上がる際の音色を特徴づける「暴れ」(ミュジーク・コンクレートの創始者ピエール・シェフェールは、音色の特徴が周波数のフーリエ解析では再現し得ない理由をここに見ていた)を際立たせるか、打ち消すかの選択が、tamaruのベース演奏で大事な役割を果たしていたことを思い出そう。また、指先による鋭く硬質な「さわり」の付加や、それと対極的な輪郭を持たず、聴き手の身体を浸潤する低音の広がりが、いずれも「震え」に対する直接的な身体感覚を呼び覚ますことを改めて確認したい。通常、触覚的な音とは、「ガサガサ」とか「カリカリ」とか、音の生み出される物体同士の接触面の摩擦を、あるいは音表面の手触りを、触感になぞらえて表現してしまう(表現せざるを得なくなる)音響を指す。しかし、tamaruのベース演奏の場合、そうした「触覚」は音響の表象を超えて、音という力の聴き手の身体への作用そのものとしてある。すなわち震えや揺れとして。そこに彼の演奏の基底面を見たい。


撮影:原田正夫


 そこから改めて見直すと、これまでとは別の景色が浮かんでくる。tamaruのベース演奏において、フレージングは常に断片的であり、変奏による発展の契機を持たない。音程が定かではない音も頻繁に用いられる。高音域と低音域に分割されたヴォリューム・ペダルを操作することで、同じ一つの鳴り響きの中から、バランスの異なる倍音配合が引き出されてくる。すなわち彼の演奏にあっては、音高の時間的配列による旋律構成と、これに基づく構築自体が重要ではないのだ。このことは調律が不要であることを意味しない。実際、彼は毎回きちんと調律を行う。基音のずれは倍音列に影響を及ぼすのだから、これは当然のことだ。
 その結果、彼の演奏は、一音一音の振動を、「震え」を、凝視し続けることの繰り返しとなる。前述のレヴューで採りあげた彼の映像作品が、同質の視点設定から、雪の舞う住宅街の道路、窓の並ぶ建物、見上げる空に張り渡された電線、公園の池で泳ぐ鯉の群れといった対象をとらえた視角の直列接続であったことを思い出そう。すなわち彼のベース演奏とは、弦の、あるいはボディ各部の異なる「震え」が、入れ替わり立ち替わり、耳による凝視の下に立ち現れることなのだ。そう言うと極めて特異な演奏と思われるかもしれないが(実際、極めて独創的なものであることは事実だ)、そうではない。そのことは、たとえばLe Quan Ninhによる水平に置かれたバスドラムの演奏、様々な音具による楽器各部の多様多彩な振動のカーニヴァルをその隣に置いてみれば明らかになるだろう。特異なのはむしろ、かつては一部用いていた音具を捨て去り、ディレイすら外して、ただただ剥き出しの「震え」だけを見詰め続ける、tamaruのストイックな集中の方である。

 これらの演奏は、実はある基本的な仕掛けと、そのことを出発点として、無駄をそぎ落とし、研ぎ澄まされた一連の演奏マナーによって成り立っている。何より、彼のエレクトリック・ベースは途轍もない高増幅度に設定されているのだ。それは決して爆音再生のためではなく、まさに「震え」を凝視するためにほかならない。通常あまり用いられない極細の弦を張り、高感度のピックアップが弦の振動を鋭敏に拾い上げる。それゆえフレットを押さえることによりその都度指定された弦長(これが基音を規定する)だけでなく、弦が三次元的にどう振動するかが重要となる。指板に対する水平・垂直のみならず、弦の張られた方向に駆け抜けていく波や渦も含めて。だから彼はまるで顕微鏡下で細胞操作を行う実験技師のように弦を取り扱う。水平に揺らし、斜めに引っかけ、垂直に打ち付け、弦に沿って指を滑らし、あるいは振動している弦に指先を、指の腹を、爪の表面を僅かに触れさせる。そうした作業/動作に向けて、身体の可能性が等しく開かれているためには、楽器と身体の関係は固定されていてはいけない(情動失禁に至るまで、演奏者の感情の起伏を「透明」に音響に反映するためには、むしろ逆で、楽器は身体に深く埋め込まれなければならない)。だから彼は肩からストラップを掛けることなく、裸のエレクトリック・ベースを抱えて、いつも演奏に臨む。特に即興演奏の場合、楽器と身体との関係を固定することは、特に即興演奏の場合、特定の傾向を固定してしまうと彼は語っている。演奏の最中に楽器を取り落としてしまう危険さえ、演奏の欠くべからざる一部なのだと。

 こうした演奏マナーの在り方は、大音量を目指し続けた撥弦楽器の歩みとはいささか異なっているむしろ息を吹きかけただけで鳴ってしまうほど細く鋭敏な弦を張り巡らし、鍵盤を揺らすことでヴィブラートすら可能だったグラヴィコードを思わせる(そうした過剰な鋭敏さは、チェンバロからピアノフォルテへの「進化」の過程で捨て去られてしまった)。Derek BaileyやJohn Buther、Michel Doneda、Le Quan Ninhをはじめ、優れた即興演奏者たちが見詰め続けた、鋭敏な「受信機」としての楽器の側面。それは演奏者の自己表出のためのパワード・スーツに徹し、大音量や安定した音色を求め続けた楽器の歴史にとっては、切除され続けた危険な「病巣」でしかない。演奏者の意図の外部にはみ出した音を「聴いて(聴き、かつ生じさせる回路を開いて)」しまうからだ。しかし、そうした外部を欠いて、意図の中だけに封じ込められた音楽は貧しいものとならざるを得ない。それ以外を切り捨て、聴こうとしない聴取もまた。tamaruをはじめ、大上流一、津田貴司、高岡大祐、徳永将豪、Satomimagaeなど、最近注目している演奏者たちが、すべてこうした傾向を共有しているのは、決して理由のないことではないだろう。


 ‥‥と、ようやく言葉の形に吐き出し得て、7月29日(土)、思いのほか強い雨に降られた夜に、いつもの水道橋Ftarriとは異なる、東北沢OTOOTOのホワイト・キューブで聴いたLes Trois Poiresの演奏について書き始められるかもしれない。冒頭に記したように、Les Trois Poiresや大上流一とのデュオでtamaruの演奏を聴いていた時は、その音世界に深く魅せられながらも、言葉にはとても移せない、写し取れない正体の掴めなさに当惑していた。彼のソロを聴いて、その弦の震えを彼と共に凝視することによって、何かが垣間見えたような気がした。その時のヴィジョンをとりあえず綴ったものが本稿ということになる。もちろん、分解した各パーツがわかれば、それらを組み合わせた全体像がわかるなどというものではない。音楽とはそんなものでは決してない。しかし、それでも、書きつけた言葉が新たに照らし出すものはあるはずだ。宿便のようにとぐろを巻いた思考がやっと排泄された後の隙間に、新たに芽生える直感もあるかもしれない。ここから、弦の震えを通じて照らし出される、大上流一の演奏の在り様についても、いつか改めて書いてみたいと思う。


2017年6月25日(日)
水道橋Ftarri
星形の庭(津田貴司+佐藤香織)、tamaru





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