2017-09-26 Tue

撮影:原田正夫
『松籟夜話』第十夜にご来場くださった皆様に、厚く御礼申し上げます。『ジャジューカ』のCDがかからなかったり(たまたまLPも用意していたので事なきを得ましたが)、急にスピーカーの下に挿んでいたスペーサーが飛んだりと、怪奇現象に悩まされながらもどうにか無事終えることができ、お陰様で今回も充実した回となりました。以下に当日のプレイリストをジャケット写真及び試聴リンク付きで掲載させていただきます。なお、試聴リンクにつきましては、必ずしも当日プレイした部分ではないものも含まれていますので、ご注意ください。

撮影:原田正夫
今回の第十夜は、三回シリーズ「漂泊する耳の旅路―現地録音を聴く」の最終回ということで、移動、距離、伝播、転地‥‥といったいささか抽象的なテーマを掲げることとなりました。こうした語が指し示す茫漠とした広がりから、何に注目して音源を採りあげ、何を導きの糸としてそれらを配列していくのかについては、大層苦労することとなりましたが、その結果、むしろ音源の配列については、ヴァリエーションを拾い集めるよりも類比と連想の線を追うことに集中した、明確に筋を貫いたものになったのではないかと自負しております。確かに音盤の「ジャンル」としては、初期カリプソの復刻からインダストリアル・ノイズ、アパラチアン・ミュージックに沖縄ポップス、『アンソロジー・オヴ‥‥』や『ジャジューカ』といった伝説的作品や仏サラヴァの名盤、ポリティカルなサンプリング・ミュージックにフリー・ジャズ戦士の未発表ライヴと、月光茶房原田店主が驚いていたように、やたらと幅広いのですが。
まずは「距離/隔たり」をしっかと見据える眼差しをそこに感じ取り、移動や伝播とは、ピンと張り渡された細い綱をゆるゆると伝っていくことにほかならないと踏まえつつ耳を傾けていただければ、きっとそこには、情報にしろ、モノにしろ、あるいは形を成しようのない想いにしろ、何物かが響いていく様々な「渡り」の光景が連なり合って得噛んでくるのではないでしょうか。
音(聴覚資料)だけでなく、文章や映像による資料も用意し、互いに照らし合うよう努めてきた『松籟夜話』ですが、今回はテーマ自体の幅広さと、それと表裏一体の展開の絞込みにより、映像はなし、文章資料もいつものように小説やエッセイ、詩からの引用は果たせず、今回の特集を陰で支えてくれた参考書目からの抜粋のみで構成することとなりました。とは言え、アフリカン・ディアスポラと洞窟壁画とアビ・ヴァールブルクが並べて論じられる機会もそうそうないはずなので、これはこれで少しは興味深いものになったかとは思います。

撮影:津田貴司
最後にプログラム内容を最終的にまとめる段階で、心棒となってくれた相方を務めてくれている津田貴司の書き込みを掲げたいと思います。今回の『松籟夜話』に私たちが込めた想いが凝縮されています。
ビセカツさんの言葉を思い返す。云く「糸満発祥の漁法は琉球弧のほとんどにみられるが、本部の備瀬集落にしかない独特の漁法がある、といったことから文化伝播の痕跡を考える手がかりはある。しかし唄の場合は本土の流行歌をもじったり聞き伝えに変化したりして、伝播の痕跡を辿ることができない」。
音楽という「遠さ」。
伝播の「飛び火」。
線をたくさん引くこと。
軸をたくさん想定すること。
重力からできるだけ自由になること。
それでは『松籟夜話』第十夜のプレイリストをどうぞ。次回以降も続きます(たぶん)。


撮影:原田正夫
開演前BGM

すでに彼の地への永住を始めていたボウルズが、連邦図書館等の委託により手掛けた現地録音の集成(CD4枚にモロッコ皮装丁を模した分厚い冊子を収めた美麗ボックスセット)。異国への憧れに突き動かされ、「現地」へと赴いた者だけが眼差し得る魅惑の音風景。だが、それだけが唯一の「真実」や「正解」なのではない。
試聴:https://www.youtube.com/playlist?list=PLTVge1pZNBduHSXQhskA3Kmgdgytt63zQ
1.移動/交通による生成と距離のもたらす断絶 あるいは甘さと苦さ

試合開始のゴングが鳴るや否やの強烈な一撃。これをパロディととらえ得るのは、安全圏にいる第三者の視線であり、耳での聴き取りだけによる再現がもたらす「錯誤の豊かさ」を聴き逃し、正統な文化伝統と演奏者の意図という二つの「純粋さ」に事態を還元してしまう。当事者たちはもっと切羽詰まっている。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=u1n7vc1QQwU

tr.5【3:01】Mayor's Dance Band「Bere Bote」
街頭音のギミックで始まり舌足らずのビジン英語によるコロニアルな甘美さに溢れるtr.2とよりアフリカ音楽的でしゃっきりした、ハイ・ライフを思わせるtr.5で、移動/交通がもたらす豊かさと甘さをまず。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=IXdAD4ucHws

tr.1【3:06】Laurent Lomande「Maboka Marie」
tr.2【3:05】Adikwa Depala「Matete Paris」
前作同様、カリブ海から「故郷」たるアフリカを振り返るのとは逆向きの眼差し。かつての日活映画で流れそうな無国籍キャバレー音楽tr.1は、こうした交通による混交がすでに世界を覆っていたことを示している。tr.2はよりアフリカ的な乾いた硬質さを明らかに。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=m3YXxhFdBxE

A-1【3:00】The Lion「Death」
声音と演奏はコロニアルな甘美さを極めながら、どこか気だるく陰鬱に響き、曲題通り、歌詞は永遠、憂鬱、哲学等の語をちりばめて不可解に暗い。甘さのうちに忍び込む苦さ。
試聴:http://www.reggaerecord.com/en/catalog/description.php?code=69104

弾むバンジョーの中華的な喧噪とお決まりの性的な歌詞にもかかわらず、声は突き放したように無表情。甘さと表裏一体の痺れるような苦さ。
試聴:https://folkways.si.edu/anthology-of-american-folk-music/african-american-music-blues-old-time/music/album/smithsonian
https://oldweirdamerica.wordpress.com/2012/03/15/62-sugar-baby-by-dock-boggs/

Old Regular Baptists*「I Am A Poor Pilgrim Of Sorrow」
揃わぬコーラスによるホワイト・ゴスペルtr.3は、うねりやコブシを伴うことなく、互いの声の肌を擦り合わせる。まるで血の滲む痛みにより生きていることを改めて確認するかのように。アパラチアン山脈に行く手を阻まれ、孤立し、食い詰め、どん詰まった嘆きが刺すような剥き出しの苦味を放つ。
試聴:https://www.youtube.com/playlist?list=PLzPfZr0tOrsdvj8UXbN7SI7WYOebEoSwS

やはり揃えることを至上としない合唱。複数の起源の異なる旋律を組み合わせたような混交ぶりを示す。張り詰めた前曲に比べ、より柔和な表情を見せるが、童歌を思わせるユーモラスな繰り返しにもかかわらず、つらさを背負った塩辛さが滲む。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=tw_FXrL3g18

ゆったりと引き伸ばされた声の足取りは、波音に洗われながら、曲や旋律自体は共同体の文化に属しつつも、歌はそこを離れてひとり歩むしかない重いつらさと凛とした気高さを、塩辛く物語っている。
試聴:http://www.ahora-tyo.com/detail/item.php?iid=8043
http://elsurrecords.com/2013/04/22/v-a-%E3%80%8E%E6%B3%A2%E7%85%A7%E9%96%93%E5%8F%A4%E8%AC%A1%E9%9B%86-1%E3%80%8F/

Berzilla Wallin「Conversation With Death」
女声による無伴奏ソロ。旋律的にはアパラチアン民謡でありながら、オールド・グッド・タイム・ミュージック的なハッピーさとは無縁な、渋柿をかじったような口中が引きつる極限的苦さ。そのルーツである英国トラッドと異なり、共同体に所属し得ない孤独さを全身から放っている。
試聴:https://folkways.si.edu/classic-mountain-songs-from-folkways/american-folk-old-time/music/album/smithsonian
https://www.youtube.com/watch?v=pSf4-DCDtkc
2.隣接する異郷、変調される音響/変容するリアリティ

ヨーロッパ世界が「内海」地中海を隔てて相対する最も身近な他者たる北アフリカからの砂漠の乾いた風が、絞り込まれた音の隙間を吹き抜ける(Areskiはモロッコ出身)。ループすることなく微細に移り変わるリズムと空間配置の絶妙の構成はAreskiと録音技師Daniel Vallancienの真骨頂。途中に現れるバンジョーのリフレインは先ほどのDock Boggsに通じるものがある。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=j51DIOPvQiA

出身地未詳のさまよえるユダヤ人Tazartesの張り上げる、引き裂かれた悲しみにまみれた濁声が、積層されたヴォイスのテープ・ループに吹き惑わされる。ディアスポラの象徴的音像化。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=nURr8ma2KWI

政府軍に射殺された父親の遺体を埋葬する少年の姿(エル・サルバドルでの現地録音)。土を掘り掛けるシャベルの音と少年の涙にむせぶつぶやき、早くも寄って来た蠅の羽音が、決して単純なループではなく、トラウマ的に強迫反復され、現地録音が抽出した「現実のちっぽけなかけら」を際立たせつつ、前曲の構造を照らし出す。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=nFOWPZEj-3E

不審死を遂げた初期ローリング・ストーンズの中心人物Brian Jonesによるモロッコ現地録音のスタジオ加工作品。通常、「現地録音を素材にスタジオで構築された作品」と説明されるが、実際には現地での邂逅を再体験すべく、録音に定着し得なかった音響を補充し続けた結果ではないのか。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=LwEoDGeNyrE

現地演奏家のサウンドチェック時の録音を電子的に加工。マイクロフォンのハウリングが呼び起こす刹那の感覚。短波放送の混信。街路の雑踏のスナップショット。様々な記憶が去来して過去に呼ばれ、またすぐ現在に引き戻される。前作の冷徹を極めた現代版と言うべき作品。
試聴:http://corvorecords.de/release/gilles-aubry-and-who-sees-the-mystery/

「インダストリアル・ノイズ」に位置付けられながら、サウンドは他と隔絶した唯一無比なもの。民族音楽等を素材としながら、その遺伝情報を解析して古代へと遡る緻密な想像力が、先史時代の古い地層から「古代音響」を電子的掘削探査する。ノイジーにざらついた不透明な音響は、地層の褶曲をもたらす巨大な圧力に押しつぶされ、異様な高密度に至っている。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=TLIbVMAGzBY
https://www.youtube.com/watch?v=gh9sPLw9-QQ

リトフォン(石琴)の水の滴りや火花を思わせる響きと細く紡がれるソプラノ・サックスの呼吸が暗闇を手探りし、そこに潜む眼に見えない広大な空間を照らし出す。「芸術の起源」たる洞窟壁画の描かれた聖なる空間における音響・環境・即興に向けて遡行する想像力。
試聴:http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=22651

彼方から響いてくる祭礼の喧噪。辺り一面に集く虫の音。眼前から発進する車のエンジン音‥。夜明けまで至る儀式をとらえた録音から切り出された断片に映り込むフィールドレコーディング/サウンド・アート的光景。それはこれら一連の録音が「訪問者」による距離を置いた醒めた(と同時に狂おしいほどに魅せられた)視点によることを明らかにする。件のボックスセットのエピローグ。
試聴:https://www.youtube.com/playlist?list=PLTVge1pZNBduYC249uFC1SvFq-5fatGBY

休 憩

蓮実重臣らメンバー2人がハワイに暮らした日系人作曲家を模してつくりあげた仮想世界。日本ではなく、ハワイでもない、あり得ない記憶の感覚に満ちた曲集。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=p8jFta3d6J0
3.幻想の大陸の彼方へ

ガーナで現地録音された伝統的葬儀の様子(女たちの泣き声)にスウェーデン人ミュージシャンのスタジオ演奏が重ねられ、彼方へと送り届けられる。辺り一面に立ち込め、混じり合い、相互に浸透していく音響。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=fIB0i8tmk1U

異世界への扉を開ける開幕曲。「アフリカ回帰」というにはあまりにも透明に澄み切ったケルト的音響は、「いまここ」とは別のいつか/どこかへの憧れに満ちている。演奏風景もどこかSF的な異世界感覚に満ちている。彼はシカゴを拠点とする黒人ジャズ・ミュージシャンで、サン・ラのアーケストラに参加した経験を持ち、ステージではサン・ラ同様、エジプトのファラオ姿の扮装も見せる。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=mB58izkmArc

ラスタファリの儀式音楽ナイヤビンギ。アフリカン・ディアスポラをユダヤ人の宿命と重ね合わせ、バビロンからザイオンを、ジャマイカからエチオピアを、カリブ海からアフリカ大陸を眼差し、幻想の起源へと遡る想像力。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=dfJFh4t_HmA

ハーディ・ガーディの唸りとヴァイオリンの軋みにも似た甲高い響きにより、ミニマルに織り成されるドローン的な音響は、明らかにアパラチアン・ミュージックの記憶を枠組みとしている。最後に聴かれるハープの音色は聴き手を(15)で垣間見たケルトの幻へと連れ戻す。アメリカーナの安逸さに流れることのない、レコードの針飛びにも似た強迫反復的音響。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=dYy-ye7wjCs

これは「破壊者アイラー」が撒き散らしたフリー・ジャズ的混沌なのか。否。ここまで長い旅路を続けてきた耳は、そこにマーチとスコットランド民謡とニューオリンズ・ジャズと教会音楽(ニグロ・スピリチュアル?)がメリー・ゴー・ラウンドのように巡り続ける様を看て取るだろう。子どもの頃に高熱に浮かされて見る夢。今際の時に巡る思い出の走馬灯。テーマの器楽的な変奏へと飛び立つ代わりに、異なるテーマをメドレー風に繰り返す特異なインプロヴィゼーションのあり方は、ちりばめられた異質な記憶の断片にその都度囚われ、その度ごとに異なるテーマ・メロディを強迫反復せずにはいられないことの現れととらえられよう。1966年ベルリンでのライヴ。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=inaJpgH11X4

ホラ貝楽器によるアンサンブル。くぐもった音色による揃わない千鳥足の演奏のうちに、ニューオリンズ的とも言える大らかな讃美歌風のメロディを聴くことができる。アルバート・アイラーの高熱に浮かされた密度からの帰還/沈静のために(と同時に彼の鎮魂のために)。
試聴:https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%9A%E5%BD%A9%E3%81%AA%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%A5%BD%E5%99%A8-%E6%B0%91%E6%97%8F%E9%9F%B3%E6%A5%BD/dp/B0017GSGUM
サルヴェージ

音響の深淵から現世へと浮上するためのプロセス。ベビーベッドの上で回るメリーにも似たドルセオーラの夢幻的な音色は、自身のアンサンブルにハープシコードを導入したAlbert Aylerが追い求めていた天上の響きではないだろうか。
試聴:https://www.youtube.com/watch?v=EtLfSknVW3M

今回もその力を如何なく発揮してくれた歸山幸輔設計の反射板スピーカー
「奈落の底を覗き込むスピーカー」(多田雅範 撮影も)
『松籟夜話』第十夜参考文集 引用文献一覧
1.距離 遠さと近さ
篠山紀信・中平卓馬『決闘写真論』朝日新聞社
ジェイムズ・クリフォード『文化の窮状』人文書院
ポール・ギルロイ『ブラック・アトランティック』月曜社
2.移動、伝播、転移、再配置、転位、位置喪失
アンドレ・シェフネル『始原のジャズ』みすず書房
ポール・ギルロイ『ブラック・アトランティック』月曜社
3.手つかずの無垢で純粋な民族文化という幻想
田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』青土社
ジェイムズ・クリフォード対談集『人類学の周縁から』人文書院
4.アフリカン・ディアスポラ
ポール・ギルロイ『ブラック・アトランティック』月曜社】
レナード・E・ベレット『ラスタファリアンズ』平凡社】
ポール・ギルロイ「Could You Be Loves ?」
赤尾光春・早尾貴紀編『ディアスポラの地からを結集する』松籟社
ジェイムズ・クリフォード対談集『人類学の周縁から』人文書院
5.残存、記憶の「生き残り」
キャリル・フィリップス『新しい世界のかたち』明石書店】
村田勝幸『アメリカン・ディアスポラのニューヨーク』彩流社
ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『残存するイメージ』人文書院
ハンス・ベルティンク『イメージ人類学』平凡社
6.イメージの人類学
ハンス・ベルティンク『イメージ人類学』平凡社】
田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』青土社】
7.メディアへの記録(写真や録音)によってつくりあげられる配置の平面
ジェイムズ・クリフォード『文化の窮状』人文書院
田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』青土社
ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『残存するイメージ』人文書院
カルロ・ギンズブルグ『ミクロストリアと歴史』みすず書房
8.洞窟壁画、感覚遮断、内部光学、環境・音響・即興
江澤健二郎『バタイユ 呪われた思想家』河出書房新社
アンドレ・シェフネル『始原のジャズ』みすず書房
デヴィッド・ルイス=ウィリアムズ『洞窟のなかの心』講談社
ニコラス・ハンフリー『喪失と獲得』紀伊国屋書店】
中井久夫『徴候・記憶・外傷』みすず書房
『松籟夜話』第十夜
◎音楽批評・福島恵一とサウンドアーティスト・津田貴司がナビゲートする、「聴く」ことを深めるための試み。◎会場は青山・月光茶房隣設のビブリオテカ・ムタツミンダ。歸山幸輔によるオリジナルスピーカーで様々な音源を聴きながら「音響」「環境」「即興」の可能性を探ります。
◎第十夜は、三回シリーズ『漂泊する耳の旅路 - 現地録音を聴く』の第三回。「移動する音、生成途中の音楽」と題し、空間/時間的な「遠さ」を隔てて飛び火していく音や響きに焦点を合わせ、距離がもたらす変化や思いがけない類似へと耳を澄ます中で、これまで自明の前提としてきた「現地」とは何かを問い直し、聴取の「現場」を新たに切り開きます。
福島恵一 音楽批評/「耳の枠はずし」 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/
津田貴司 サウンドアーティスト http://hoflisound.exblog.jp/
歸山幸輔 オリジナルスピーカー
日時:2017年9月24日(日)18:00 ~ 21:00
会場:Bibliotheca Mtatsminda(ビブリオテカ・ムタツミンダ:青山・月光茶房隣設ECMライブラリー)

季節の星座をテーマにした川本要デザインのフライヤーは『松籟夜話』の顔と言うべき存在。
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2017-09-20 Wed
早いもので『松籟夜話』も今週末で記念すべき第十夜を迎える。今回は三回シリーズ「漂泊する耳の旅路—現地録音を聴く」の最終回、「移動する音、生成途中の音楽」と題し、移動や距離、隔たり、そこに生じる変容のプロセスを主題化する。ここでは開催に先立ち、内容を簡単に紹介したい。と、その前に、リスニング・イヴェント『松籟夜話』について、まずはご案内いたしたい。今回の『松籟夜話』第十夜のフライヤーに、うっかり「聴取の現場を新たに切り開く」などと書いたものだから、虹釜太郎から「怖い ((((;゜Д゜)))」と言われてしまったが、決して怖かったり、痛かったり、服が汚れたりしません。「まだお前は新たな聴取の現場を切り開けないのか! よし、今から居残りで千本聴取だ!」なんてこともしません(笑)。ご安心ください。
いつも決まって「コアでディープな」と形容するものだから、何やらマニアックな、カルトでヤバい集まりと誤解されているかもしれない(笑)。率直に言って、音楽マニア限定のイヴェントではさらさらない。音楽を聴くことが、いつからか音を聴くことを回避して、周辺に付随する情報を消費することにやっきになっている。そうした中で『松籟夜話』は「聴くこと」を深めることを目指す。だから、ジャンルとか、ミュージシャンの経歴・人脈とか、ましてや流行とか、レア音源とかは関係がない。それゆえ、そこで耳が眼差すものが「音楽」と呼ばれるものかどうかも、全く問わない‥‥というか、そもそも最初から関心がない。音楽の地平を拡大するとか、音楽ならざるもの(=ノイズ?)で音楽を撹乱するとか、そうした大言壮語にも興味がない。
聴くとは結局、そうしたあらかじめ用意された枠組みを離れて、響きに耳を澄まし、空間に遊び、あるいは見知らぬ音に不意打ちされて驚くことなのだ。私と津田貴司はナヴィゲーターとして、最小限の道案内をする。けれど決して自説の傍証として音を聴いていただくのではない。これは肝に銘じているつもりだ。音をして語らしめること。そのために音源の選定と配列を工夫し、当日は何よりも率先して聴くことに沈潜する。歸山幸輔設計の反射板スピーカーは、その比類なき浸透力で正確に核心を刺し貫き、事態を信じられないほどくっきりと明らかにしてくれる。繰り返し聴き親しんだ音源が、プログラム作成のために直前にも打合せを含め複数回聴き返しているにもかかわらず、今まで聴いたことのない表情で鳴り響くのに、何度驚かされたことだろう。予想を遥かに超える響きの豊かさ/深さに打ちのめされているのは、いつだってまずナヴィゲーターの二人なのだ。

余計な前置きがすっかり長くなってしまった。閑話休題、今回の内容の紹介に入ることとしたい。今回の企画内容をフライヤーでは次のようにご案内している。
今回は三回シリーズ「漂泊する耳の旅路—現地録音を聴く」の最終回、「移動する音、生成途中の音楽」と題し、空間/時間的な「遠さ」を隔てて飛び火していく音や響きに焦点を合わせ、距離がもたらす変化や思いがけない類似に耳を澄ます中で、これまで自明の前提としてきた「現地」とは何かを問い直し、聴取の「現場」を新たに切り開きます。
いさぎよく白状してしまえば、第八夜から続く三回シリーズ「漂泊する耳の旅路—現地録音を聴く」の企画を立ち上げた時には、三回目はMississippi Records等からリリースされているSP盤音源の復刻音源から「移民もの」を聴いていけばいいや‥‥くらいに軽く考えていたのだ。どういうことか、少し振り返ってみよう。
初回となる第八夜は、その少し前にリリースされた『イザイホー』の録音の素晴らしさに私も津田も二人揃って打たれたことを契機として、この作品を始点に声を軸に展開し、特にアーティストの個人的な表現や名人芸ではなく、祭儀に集う声の無名性を帯びた集合的な在りように耳を傾ける回とした。続く第九夜は、これと対照的に、「現地録音」というイメージと相反する都市のフィールドレコーディングを対象とし、様々な都市論、とりわけ都市の錯綜した重層的な空間の読み解きに随伴されながら、都市の多彩な/断片的な表情をとらえたサウンド・スナップショットから、路傍の大道芸人を周囲の空間を含めて丸ごと聴くことを経て、再び『イザイホー』録音を召喚して、Gilles Aubryによる音像としての都市の生成と聴き合わせることを行った。
地域コミュニティとメガロポリス、声とサウンドスケープという二項対立に基づく前二回に対し、三回目は特定の場所に縛られない「移動」や「伝播」それ自体を主題として掲げられないかと考えたのだ。そこでは同時に、距離、隔たり、遠さといったテーマが浮かんでくる。「聴くこと」を魅力的にするのは、いつだって「遠さ」の感覚だ。裸の胸に耳を当て、心臓の鼓動に耳をときめかせている時ですら、それは身体の奥深く、はるか彼方から気の遠くなる距離を渡ってくる響きに魅せられているのだ。あるいは凍えそうなほどに冷え切った電車の線路に耳を押し当てて、まだ影も形も見えない遠方をひた走る列車の音に耳をそばだてる時のぞくぞくする喜び。
しかし、「移動」や「伝播」それ自体を主題化することは、予想以上に難しかった。演奏/録音の空間における、距離により響きが不可避的に被る変容については、『松籟夜話』で幾度も採りあげてきた。それを単に解像度の低下、不明瞭化、曖昧化、ノイズの増大等ととらえるのではなく、豊かな厚みとしてとらえること。余剰を削ぎ落とすことにより、発音体から発せられたばかり「原音」を追い求めるのではなく、変容をもたらす空間を丸ごと蝕知すること。だから今回は、異なる空間へと時間をかけて旅する音響を対象化しようとしたのだった。
Mauro Pagani, Luis Sclavis, Cazoniere Del Lazio, Aktuala, Valantin Clastrier‥‥、文化の地層を深く深く掘り進み、民族音楽/民俗音楽を素材として、研ぎ澄まされたミュージシャンシップにより昇華させた数多の傑作があることはよく知っている。しかし、今回、それらの作品は採りあげなかった。単にレコーディング・スタジオは「現地」ではないというだけでなく、意図されたモンタージュによる作品構成は、今回の企図にふさわしくないと考えたからである。それでは結局、作成者の意図の読み解きになってしまう。むしろ、日常やふだん意識されないレヴェルでの文化の混淆/汚染が顕在化することに注目したかった。無意識のうちにすでに層として折り重なっている不純さに。解剖台の上ではなく、生活の現場での出会いに。それゆえ、起源の学術的探求には興味がわかなかったが、本来なら純粋さを志向するはずの起源幻想の中に、否応なく入り込んでしまう混淆には惹きつけられた。
と同時に、文化を故郷/本土、移民コミュニティを準拠枠としてとらえないようにした。当初に想定していたように普通なら「移民の音楽」が大きく採りあげられるだろう。しかし、大里俊晴や昼間賢が言うように、「ワールド・ミュージック」とは、結局のところ「現地の音楽」なのだ。それを本国と移民先や植民地の距離/隔たりにおいてとらえることは、決して適切とは言えまい。だから、「西洋文明に汚染されていない手つかずの無垢で純粋な文化」を求めないし、移動/伝播の過程での変容を、元型に対する事後的な加工と考えないことにした。それはアビ・ヴァールブルクやジェイムズ・クリフォードが言うように、文化の残存/生き延びることにほかならない。

人の大きな移動を伴わず、かたちやものだけが移動/伝播していって、内容や意味が書き換わることがある。楽器の構造が伝播し、奏法や音色がまったく変わってしまうことがある。記憶すらも書き換えられ、思い出すたびにその都度新たにつくり直される。それもまたあるべき姿なのだ。
アメリカ黒人、カリブ系黒人の起源幻想としてのアフリカ。アフリカ幻想の中に特化して現れるエジプトとエチオピア。起源幻想が連れてくる儀式性/神話性が眼差す憧れと畏敬の念に満ちた「遠さ」。人類(白人)の起源幻想としての洞窟壁画(=芸術の起源)。洞窟による感覚遮断が掘り当てる内部の「光」。暗闇での不安な手探りがもたらす「遠さ」‥‥。手当たり次第に思いついた音源を聴き返し、前述のヴァールブルク、クリフォード、あるいはポール・ギルロイ、ハンス・ベルティンク、デヴィッド・ルイス=ウィリアムズ、ニコラス・ハンフリーらの著書を枕辺に積み上げて、そんなことをとりとめもなく考えるようになった頃、津田貴司が坂本宰の影との注目すべき共同作業を終え、すぐさま旅立った沖縄からFacebookに次のように書き込んだのを見つけた。
ビセカツさんの言葉を思い返す。云く「糸満発祥の漁法は琉球弧のほとんどにみられるが、本部の備瀬集落にしかない独特の漁法がある、といったことから文化伝播の痕跡を考える手がかりはある。しかし唄の場合は本土の流行歌をもじったり聞き伝えに変化したりして、伝播の痕跡を辿ることができない」。
音楽という「遠さ」。
伝播の「飛び火」。
線をたくさん引くこと。
軸をたくさん想定すること。
重力からできるだけ自由になること。
東京と沖縄に遠く離れていながら、どうも同じような景色を思い浮かべていたらしい。このことに勇気づけられて、自分なりの選曲・選盤・プログラムづくりが一挙に進んだ。
9月17日(日)に津田と行った最終打合せは順調に進んだ。5時間近くかかったけれど。最後の最後まで新たなアイデアを注ぎ込み、当初の想定を超えてなお、案を練り上げずには気が済まないのは、二人の生来の性分らしいので、もうあっさりとあきらめることにしよう。打合せの場を提供し、間近に迫った店の再開準備に追われながら、二人の話やかける音源に耳をそばだて続けてくれた月光茶房の原田店主は「今回はいつにもましてジャンルの幅が広い」と驚いていた。実際にはジャンルで選んでいるのではなく、あくまで作品で選定しているので、びしっと揺るぎなく筋は通っていて、クロス・ジャンルとか、領域の横断を標榜しているつもりはないのだが、確かに彼の言う通り、眩暈のするほど横断的なのかもしれなかった。それはきっと、津田の言う「線をたくさん引くこと。軸をたくさん想定すること。重力からできるだけ自由になること」の実践の結果であり、「遠さ」を隔てて飛び火していく様を追いかけたがゆえのことなのだろう。

‥‥というわけで、スニーク・プレヴューを気取っているつもりはないのだが、相変わらずジャンルもアーティスト名も詳らかにしない、何とも不親切な紹介文となってしまった。それでも「遠さ」や「隔たり」に魅せられ、そこに豊かさを聴き取らずにはいない耳の在処は示し得たのではないかと思う。この週末、9月24日(日)の『松籟夜話』第十夜、ぜひおいでください。驚きの連続が襲います。なお、お席の確保のため、お手数ですが、ぜひ事前のご予約をお願いいたします。それでは当日、ご来場をお待ち申し上げております。

『松籟夜話』第十夜
◎音楽批評・福島恵一とサウンドアーティスト・津田貴司がナビゲートする、「聴く」ことを深めるための試み。◎会場は青山・月光茶房隣設のビブリオテカ・ムタツミンダ。歸山幸輔によるオリジナルスピーカーで様々な音源を聴きながら「音響」「環境」「即興」の可能性を探ります。
◎第十夜は、三回シリーズ『漂泊する耳の旅路 - 現地録音を聴く』の第三回。「移動する音、生成途中の音楽」と題し、空間/時間的な「遠さ」を隔てて飛び火していく音や響きに焦点を合わせ、距離がもたらす変化や思いがけない類似へと耳を澄ます中で、これまで自明の前提としてきた「現地」とは何かを問い直し、聴取の「現場」を新たに切り開きます。
福島恵一 音楽批評/「耳の枠はずし」 http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/
津田貴司 サウンドアーティスト http://hoflisound.exblog.jp/
歸山幸輔 オリジナルスピーカー
日時:2017年9月24日(日)18:00~(21:00ごろ終了予定)
料金:1500円
お席を用意する都合上、予約制とします。開催日前日までに、お名前・人数・当日連絡先を明記の上、下記までお申し込みください。
gekko_sabou@me.com(月光茶房)
会場:Bibliotheca Mtatsminda(ビブリオテカ・ムタツミンダ:青山・月光茶房隣設ECMライブラリー)
東京都渋谷区神宮前 3-5-2 EFビルB1F
03-3402-7537
http://gekkosaboh.com/
