2018-01-27 Sat
前回掲載の「タダマス28」の案内記事に対し、ホストのひとりである多田雅範が、自身のブログで素早く鋭いリターンを返してきた。http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20180125
冒頭からいきなり、思っても見ない方向から球が飛んでくる。
タダマス(益子博之+多田雅範)、7年、これだけ性格も耳の特性も女性の好みもチガウ二人が一度も仲違いせずに、耳の経歴も愛聴曲もチガウ二人が、こと現代ジャズに関しては”ほぼ一致した見解に”到達し続けていて、それが世界のメディアやジャーナリズムとほぼ同じ風景となっていることは、「亀戸ホルモンたべてえなあ」「月光茶房いつ行こうか」とだらだらしている不良中年二人のユルさからは想像もできないくらい、すごいことなのではないのか、
‥‥って「自慢するのはそこかいっ」と、思わずモニターの前でツッコミを入れてしまい、まんまと多田の術中にはまってしまう。
打ち合わせで益子さんちで新譜チェックをしていると、ああこの人は音楽の神さまに選ばれているなと思う、畏怖さえ感じることがある、つまりはタダマス四谷音盤茶会とは益子セレクトそのものが批評なのだ、どうやって知ったの、どうしてこの曲なの、これは何の音なの、矢継ぎ早に質問をしてはオレは手にしていない耳の着眼点を探ってゆく、
‥‥と多田の書き込みは続く。最後の部分に注目。彼は矢継ぎ早に質問を発する。だがそれは「(彼がまだ)手にしていない耳の着眼点」を探るためであって、聴取の体験を音源に関する情報の束に還元するためでは決してない。ここで質問を発した彼は、答を待つ彼の身体を置き去りにして、発せられた質問を追いかけて疾走しているのだと思う。次々に発せられる質問は、多方向に伸びていくセンサーの触手であり、ここぞという箇所にたどり着いては、深々と探査のためのゾンデを挿し込み、内部のうごめきを聴診する。


「集まって聴く、と、音楽は様相を変える、のは、スピーカーや空間特性のせいだけじゃないだろう」(多田雅範)。
”それは人目を気にするとか、「同調圧力」などとは異なる。他の者が同じ対象を注視していると肌で感じながら聴くことにより、音の出し手と受け手の1対1幻想が崩れ、対象への自分勝手な自己投影が成立しなくなる。聴取はナルシスティックに自己完結せず、不安定に移ろいながら開かれることとなる(映画館がなぜ今でも館内を暗くし続けているのか考えてみよう)。”(福島恵一)
‥‥と私の記述を引用しながら、多田は次のように高らかに宣言する。
オレの武器は「1対1幻想」に属する比率がべらぼうに高いところ、何たって音楽は人格だからね、その、独りで聴いている感想、が、タダマス会場では一瞬にして消失してしまい、まるで初めて聴いたかのような体験に晒されているような感覚になって、何かを口走っているようなのだ、ワタシはそのワタシを後方から眺めているに過ぎない、ってカンジ、
ここで「タダマス」の場は、「1対1幻想」という強力極まりない認識・思考の制度を解体・無化してしまう空間として描き出されている。これは通常のレクチャーが暗黙の前提としている「教室型」の空間スキームとは正反対だ。「教室型」では正解はただひとつであり、それは「教師」が隠し持っている。正解の愉悦も、不正解の落胆も、正解にたどり着いたと信じる者たちの交わす親密な目配せも、逆にたどり着けていない者たちがあからさまに共有する床に落とされた視線と丸まった猫背も、この秘匿された正解のもたらす権威の産物にほかならない。
しかし「タダマス」では、普通なら正解を背中に隠し持っているはずのホストが、「まるで初めて聴いたかのような体験に晒されているような感覚になって、何かを口走って」しまう。そのイタコの口寄せにも似た託宣は、初めて聴く音に触発されて各参加者の脳内に生じた不定形の思考を、さらに励起し解き放つことになる。多数の「1対1幻想」を束ねて、安定した「1対多幻想」のピラミッドを築くのではなく、「1対1幻想」からそれていくクリナーメンの運動を活性化し、錯綜する「雲」をつくりだすこと。

「タダマス」での「託宣」について多田はFacebookにこう書き込んでいる。「直前まで思ってもみなかったことを言っているなあと思うことがある」
その時、「直前まで思ってもみなかったことを言っている私」は、「直前まで思ってもみなかったことを言っているなあと思う私」のはるか前方を疾走しているのだ。矢継ぎ早に為される質問の射出速度よりも速く。次の瞬間、はるか遠くに小さく揺れていた見知らぬ背中が突然大きくなり、眼前に迫ったかと思う間もなく私の輪郭と重なり合い、いまここに座っている。益子が次の曲の紹介を始めている。「タダマス」はまだ終わらない。

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2018-01-24 Wed
Iago ; I have looked upon the world for four times seven years. "Othelo"Alice ; Let me see: four times five is twelve, and four times six is thirteen, and four times seven is–oh dear! I shall never get to twenty at that rate! "Alice in Wonderland"
TADA-MASU ; Yotsuya Tea Party will mark the 28th on 28th January.
益子博之と多田雅範のナヴィゲートによるNYダウンタウン・シーンの定点観測「四谷音盤茶会(通称「タダマス」)」は、この1月28日に奇しくも28回目を迎える。第7シーズンの完了に伴い、2017年のベスト10が紹介されることだろう。前回は惜しくも参加できなかったのだが、採りあげた作品の充実ぶりが半端なかったとのことなので、今回のベスト10振り返りの中で、その一部を耳にできるのではないかと期待している。
アルゼンチンの音楽サイト El Intrusoの国際批評家投票(*1)やポルトガルはコインブラに拠点を置くJazz ao Centro Clubeの選出(*2)に納得こそすれ、全然違和感を覚えないのは、Vijay IyerやTyshawn Soreyをはじめ、「タダマス」で聴き慣れた(しかし、なぜか他の日本語記事では眼にすることが少ない)名前がずらりと並んでいるからにほかならない。「世界標準」というと、何やら拝外主義的かつグローバリゼーション礼賛風で恥ずかしいが、視野狭窄/自家中毒に陥らぬよう、押さえるべきは押さえておいて悪いわけがない。しかもそれだけでなく、複数の耳の視点からの議論にさらされればこそ、新たに見えてくるものもある。
「集まって聴く、と、音楽は様相を変える、のは、スピーカーや空間特性のせいだけじゃないだろう」(多田雅範)。
それは人目を気にするとか、「同調圧力」などとは異なる。他の者が同じ対象を注視していると肌で感じながら聴くことにより、音の出し手と受け手の1対1幻想が崩れ、対象への自分勝手な自己投影が成立しなくなる。聴取はナルシスティックに自己完結せず、不安定に移ろいながら開かれることとなる(映画館がなぜ今でも館内を暗くし続けているのか考えてみよう)。
*1 http://elintruso.com/2018/01/05/encuesta-2017-periodistas-internacionales/
*2 https://jazz.pt/artigos/2017/12/26/melhores-de-2017/
益子による口上を以下に転載する。
今回は、2017年第4 四半期(10~12月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDと、2017年の年間ベスト10をご紹介します。
ゲストには、ギター奏者の加藤一平さんをお迎えすることになりました。ストレート・アヘッドなジャズからエレクトロニックな即興まで幅広い領域で活躍される加藤さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)

益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 28
2018年1月28日(日)
open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
綜合藝術茶房 喫茶茶会記(新宿区大京町2-4 1F)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:加藤一平(ギター奏者)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)
声の震え、息の歩み ― 池間由布子・高岡大祐ライヴ・レヴュー Voice Vibration, Steps of Breeath ― Live Review for Yuko Ikema and Daysuke Takaoka
2018-01-13 Sat
おかげさまで、また、素晴らしい歌い手と出会うことができた。今回初めて共演することになった高岡大祐がFacebookに何度も「素晴らしい」と書くものだから、このところずっと気になっていた。youtubeにアップされているライヴ音源では、いまひとつピンと来なかったのだが、行ってみてよかった。やはり拙い録音ではわからないことがある。それに高岡の演奏が彼女の本質を、潜在能力を含め、思う存分引き出したということもきっとあるだろう。

高岡大祐のFacebookより転載
開演時間を間違え、最寄り駅で降りてからは以前に訪れたはずの店の入り口を見つけられずに通り過ぎ、着いた時には第一部が終わりかけていた。暗がりに潜む段差につまずきながら店内に足を踏み入れ、ドアのところに立ち尽くしたまま、音に囚われる。向かって左側に腰かけた高岡はチューバを垂直に構え、リズミックなベース・リフをノンブレスで懸命に吹き鳴らす。間合いや強弱、立ち上がりをきめ細かく操作しながら。そして右側にはやはり腰かけてギターを掻き鳴らしながら歌う池間由布子の声の震え。
ここで「震え」とはもちろん、音程の揺れやブレスの不安定さを意味するものではない。そうではなく、声の不思議な、かけがえのない魅力/魔力としてある。ひとつには音域による声音の変化であり、声の輪郭の鋭敏な移り変わり―場面によりくっきりと像を結ぶかと思えば、中空に溶けてしまいそうになる―であり、さらには倍音成分の響きの豊かさとそのあえかな揺らぎである。そうした特徴が最もわかりやすいのは、ゆったりとした曲調で声を引き伸ばした部分だろう。高岡もまた息を長く保ち、水平にうっすらたなびくように線を引いて、柔らかく滲んだ声のホリゾントをつくる。池間の声は子音のエッジを感じさせることなく、すっと力みなく、だが速度感を感じさせないほどの素早さで立ち上がり、チューバの音と並行に声の指先をどこまでも伸ばしていく。声を張るのではなく、外に向けて響かせるのでもない独自の仕方で。それは言わば内側に負荷をかけて声を内に引き込み、体幹で声を吊り支える感覚だ。声は、言葉は、そこにありながら、彼女の内部にぽっかりと空いた暗く深い淵に飲み込まれていくように感じられる。
だが、こうした注目すべき達成も、この日の彼女にとっては、まだまだ暖機運転に過ぎなかったと、すぐに知ることになる。
短い休憩を挿んで第二部が始まる。池間は立ったままギターを構えている。後半は立って演るんですかと高岡。いや、ちょっと離れてみた方がわかることもあるかと思って‥と池間。その後、二人のユーモラスなやりとりが続き、リハーサルにはなかった曲(「雨はやんだ」)をいきなり歌えと、高岡が無茶ぶりされる場面となるのだが、そうした打ち解けた親しみやすさと何が起こるかわからない「野生の空間」のあり方以上に、ここではアコースティック・ギターの弦を強く弾(はじ)く池間の身体の運動に注目したい。リズミックにビートを刻む一律な縦ノリでは決してない、空中に身体を浮かせ揺らがすような動き。それが「めっちゃくちゃ難しい」と高岡の言うメロディの不可思議な動きと、歩調をゆるめ、立ち止まって語りになったかと思うと、急にスキップを始める天衣無縫な声の歩み、さらに高岡の演奏と自在に呼応しながら、即興的に声を散らばせて、空間のあちこちに貼り付けていく運動神経は、すべてこの身体の揺れ動きから分泌されているようだ。そして、先に見た彼女の特異な声のあり方も、ここではもはや声の身体各部のバラバラな諸特徴としてあるのではなく、「歌を歌う」という運動のうちに余すところなくすべて奉仕し、その中で息づき輝くものとなっている。見事なものだ。
高岡もまた、そうした彼女の変容に突き動かされ、実に見事な共演をした。舌を巻くソロを取ることよりも、鮮やかに彼女の声の本質を引き出す仕方で。しばしチューバを置いて、歯笛(口笛ではなく)で伴奏した場面では、口笛の鋭さの代わりに歯に砕かれて輪郭を滲ませ、豊かな倍音を揺るがせる歯笛の震える音色に、池間の声の秘密を「ほら」といきなり指し示された気がして驚かされた(実際、高域を長く保つ部分の感触など驚くほどに通っている)。また、持続音をゆったりとくゆらせる箇所では、空の色が刻々と変わるように音色を移し、ここぞと言う場面で音量をすっと絞り、池間の声をひとり立たせて、その声の勁さをまざまざと明らかにしてみせる。と同時に、ことさらに構えることのない、一見何気ない歌詞に描き出された、日常のありふれた点景に潜む、ぞくっと手足を痺れさせる深い闇を覗き込ませる。「その踏切を渡ってはいけない。その踏切の音だけは聴いてはいけない。」

高岡大祐のFacebookより転載
高岡が激賞する歌い手として、もうひとり華村灰太郎がいる。高岡の新バンドDead Man's Liquorを聴きに行った際に、彼らに先立って灰太郎と福島ピート幹夫のデュオを体験することができた。ギター弾き語りとアルト・サックスのデュオと言うと、かつて目撃した三上寛とジョン・ゾーンの邂逅がいまだに衝撃として自分の中に鳴り響いていて、どうしようもなくそれと比べてしまうのだが(これがとんでもなく高いハードルであることはご理解いただけよう)、彼らは決してそれにひけを取らなかった。
剥き出しでガツンと来る声の生な手触りが、叩きつけるギター・カッティングと衝突して弾け飛び、アルト・サックスがノンブレスで絶え間なく放出し続ける呼子にも似た甲高いノイズと、千々に入り乱れる。ノイジーに散乱しても互いに音の輪郭は揺らぐことなく、それゆえ「溶け合う」のではなく、撹拌された水と油のように「混じり合う」のだ。歌詞やメロディ、あるいはフレーズをなぞるのではなく、声/息が走り抜け彫り刻む溝が、そのまま線となり伸びていく。溢れ出る声、振り絞る息の軌跡として。
二人とも演奏開始直後は調子が出ず、共演のピントも合わず、途中、ようやく「温まった」感がしてから、俄然ヴォルテージが上がったのが面白い。高岡の評価する歌い手はみんな暖機運転を必要とするのだろうか(笑)。
今回は池間と高岡の初共演に捧げたレヴューである。灰太郎と福島のデュオに続いて披露されたDeadman's Liquorの素晴らしかった演奏について語るのはまた次回としたい。また、当の池間と高岡のライヴの模様についても、最初の聴き逃した部分について触れようもないのは当然のこととして、それだけでなく聴いた部分についても、あえて二人の間の、あるいは客席との微笑ましい交感等には触れておらず、むしろ視野とフォーカスは鋭く絞り込んでいる。決して全容を伝えるものではないことを改めてお断りしておきたい。
2018年1月12日(金)
祖師ヶ谷大蔵 Cafe MURIUWI(カフェ ムリウイ)
池間由布子(歌、ギター)、高岡大祐(チューバ)
2017年10月31日(火)
阿佐ヶ谷Soul玉Tokyo
華村灰太郎(歌、ギター)、福島ピート幹夫(アルト・サックス)
なお、近々、関連ライヴの予定があるので情報を記載しておく。
2018年1月16日(火)
八丁堀 Sound & Bar HOWL
東京湾ホエールズ(池間由布子, 纐纈雅代, 高岡大祐)
2018年1月21日(日)
阿佐ヶ谷Soul玉Tokyo
華村灰太郎カルテット(華村灰太郎、今福知己、高岡大祐、つの犬)
残存の中ですり減ることと積み重なること―日本美術サウンドアーカイヴ | 堀浩哉《Reading-Affair》レヴュー Wearing Off and Piling Up in Surviving / Afterlife ― Review for Japanese Art Sound Archive ; Kosai Hori《Reading-Affair》
2018-01-08 Mon
1.《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》眠っている猫の腹部のように、海面がゆっくりと上下している。
海面の映像は正面の白壁いっぱいに映し出され(床から天井まで)、白いシーツを敷かれた上に置かれたソファ(やはり白いシーツで覆われている)に座る白装束の男女(顔もまた白塗りしている)にも投影されている。二人は手元の用紙に記された名前をかわるがわる読み上げていく。潮騒の音が小さく流れている。
全体の仕立てと静謐な空気から、これが東日本大震災に向けられた追悼のパフォーマンスであり、読み上げられているのは被災者の名簿であろうことはすぐに想像がつく。しかし、それだけではなかった。
二人の前には一本のマイクロフォンが置かれ、さらにその前方には二台のオープンリールのテープ・デッキが設置されている。マイクロフォンから入力された音声は、片方のデッキで録音され、テープは2mほど離れたもう一台のデッキに送られて、そこで再生され、二人のすぐ前に置かれたスピーカーから放たれる。読み上げの発声から録音された音声が再生音として放出されるまで約10秒の間隔が生じていた。再生された音声は、リアルタイムで読み上げられる声と入り混じるだけでなく、再びマイクロフォンに捉えられテープ・デッキへと送られる。録音・再生によるループ。
この簡素な仕掛けからすぐに思い出されるのはAlvin Lucier『I Am Sitting in a Room』だろう。この作品では、「私は部屋の中に座っている」という男の声が冒頭に流れ、それがテープ・デッキで録音されて、その再生音が部屋の中に放たれ、再び録音され、再生され‥‥というループが巡り続ける。録音・再生が繰り返されるうちに部屋の空間の響きが乗っていって、言葉の輪郭は次第に不明瞭になり、ディレイとは異なる、周囲の空間に滲んだような反響音が積層して、ついにはせせらぎにも似た、鈴を転がすように涼やかな音響へと変貌を遂げてしまう。その状態からは元の素材が人の話し声であるなどとは、とても想像がつかないほどに。その一方で、ループの繰り返しによる変容のプロセスが時間軸上に展開されており、積層による変化は聴衆の耳に対し余すところなく「視覚化」されている。
冒頭に描写した堀浩哉+堀えりぜによる《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》と『I Am Sitting in a Room』の端的な違いは、前者においてはリアルタイムで新しい声の層が常に追加されていくことである。回路を閉じることにより、変容のプロセスだけに純化した後者と異なり、眼の前で名前を読み上げ続ける声は、再生される自身の声とぶつかり合う。その代わり、ループが積層していく「声の地層」の深さを覗き込むことはできなかった。原理的には、再生音はまた再びマイクロフォンを通して録音・再生されるわけだから、ループが巡るにつれ明瞭さを失うにしても、最初に録音された音声はループのうちに永遠に残るはずなのだが、その痕跡を求めていくら耳をそばだてても、片鱗さえ掴むことができなかった。
2.《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》
実はこの日、《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》に先立ち、同じテープ・ループ・システムを用いたパフォーマンスの、より1977年の初演に近いヴァージョンが《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》として上演(再制作)された。こちらは白いシーツや白装束、顔の白塗りは共通だが、男女のパフォーマーは堀夫妻ではなく若い俳優が演じ、発声も拡げた新聞を一文字ずつ読み上げるもので、映像もなかった。こちらでは読み上げが一音だけであり、また交互の発声がゆっくりと間を置いて為されたため(かわるがわる読み上げていた堀夫妻との対比)、第二あるいは第三世代の録音音声(らしきもの)を聴き取ることができた。そのようにして「声の地層」の深さ/積み重なりを垂直方向に覗き込む耳の視線に対し、眼の前を遮るように浮上し横切る不定形の影がある。フィードバックが生じているのだ。始めは時折浮かぶだけだった影は次第に床に立ち込め、とぐろを巻いて、さらには頭をもたげるようになってくる。第二あるいは第三世代の録音音声の姿を掻き消すばかりか、読み上げられる声にまで襲いかかり、いま録音されたばかりの音声すら歪ませてしまうようになる。空間を汚染したフィードバックがいよいよ水位を高めようとしたところで、スタッフがテープ・デッキのヴォリュームを操作し、フィードバックはいったん姿を消すが、しばらくすると、また床から頭をもたげてくる。
《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》と《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》の上演の大きな差異として、声の姿勢の違いがある。これはおそらく元々の指示なのだろうが、前者では二人の演者はほとんど発声の仕方を変えることなく、淡々と文字を読み上げていた。これに対し、後者においては特に堀えりぜが、感情の自然な昂まりを反映させ(決して芝居っ気が勝っていたということではない)、伏し目がちに声を漏らしたり、斜め上方へ放り上げたり、涙を堪えたり、口ごもりあるいは言い澱んだりしていた。
流れ続ける潮騒のせいか、最初のうちは生じなかったフィードバックが、《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》にも現れ始めた。いったん起き始めると、その増殖は速く、ちょうど潮騒が場を明け渡して入れ替わったように、たちまち連続的な層を形成し、大きく息づき始め、ついには先ほどの上演を超える音量にまで至った。ノイズに洗われながら、二人は名前を読み上げ続ける。「名前」という語の性格のせいか、あるいは堀浩哉とえりぜがそこに込める感情や意志のせいか、二人の声は思わず人を振り向かせるような、強い呼びかけの力に満ちていた。フィードバック音響は二人の声に襲いかかり、録音音声を歪ませるだけでなく、激しく渦巻きながら、声自体をすら沈めてしまおうとしているのだが。そうした激烈な力に晒されながら、堀浩哉は立ち上がって叫び出したい衝動を押さえつけ腹に響かせるように、堀えりぜは感情を静かに解き放ち、声を幾分揺らがせつつ、噴出/爆発を押し殺しつつ、苦難に耐え声を放ち続けた。すると突然、テープ・デッキには誰も触れていないにもかかわらず、フィードバック音響がすーっと水位を下げ、急に雲が晴れたように潮騒が戻ってきた。後で聞いたスタッフの話では、潮騒が聞こえなくなったのでそちらのヴォリュームを上げたら、急にフィードバックが減衰したようだ。リミッターが働いたのかもしれないとのこと。奇跡/恩寵とも言うべき瞬間。

©堀浩哉 撮影者不明
3.残存の中ですり減ることと積み重なること
二つの上演の間の休憩時に解説リーフレットが配布された。堀浩哉自身による覚書、金子智太郎と畠中実という主催者二人による解説・論考が掲載されており、充実した労作である。上演に先立って金子によるイントロダクションと畠中による解説があったが、前者はむしろ今回の企画シリーズ「日本美術サウンドアーカイヴ」全体の説明であり、後者についてはリーフレット掲載の論稿と基本的には同内容ではあるものの、パワーポイントの投影ではなく印刷された文章で読めるので情報量が格段に違う。また、初演に近い再制作は白紙の状態で提示し、そこにさらに要素をプラスした新作上演に先立って背景を説明するという手順もよく考えられている。さらには上演終了後に三人によるトークが用意され、堀の最近のパフォーマンスの映像なども紹介しながら、堀による1970年代のパフォーマンスと1990年代以降のパフォーマンス(その二つの期間を20年以上に及ぶパフォーマンス活動の中断が隔てている)の違い、その連続と切断、継続と変容を縦軸と横軸から明らかにしていった。
今回の企画で前提となるパースペクティヴとして示された、堀のパフォーマンスの歴史的位置づけ、特に大阪万博以降凋落していくテクノロジー・アートと「つくらないこと」を標榜する「もの」派の間での配置については、ここでは評価を保留したい。単純に言えば、そこで暗黙の前提とされている、堀の創作活動におけるパフォーマンスと絵画の対比に関し、堀の絵画活動についてほとんど知らないからである。もうひとつには、「もの」派とテクノロジー・アートを対立的に捉える構図に疑問を感じるためであり、これは特に「もの」派について、作品を作者の意図に沿って理解・評価することへの根本的な懐疑による。
さて、その上で《Reading-Affair》を論じるに当たり、まず「記憶」に着目したい。これは当日のトークの中で、畠中が1998年にパフォーマンスを再開した堀が立ち上げた「ユニット00」について「これは『日本ゼロ年』展に対する反応なんですよね」と発言し、これに堀が応じて「歴史をリセットするなんてとんでもない。記憶は残っていくんだ」と語る場面をはじめ、随所で語られていた。堀は自身のパフォーマンスの70年代と90年代以降の差異についても、前者がそれぞれ一回限りの実験であったのに対し、後者は「絵画を取り戻す」のと同様、「パフォーマンスを取り戻す」として、一回だけでなく、何回も繰り返す中で、そこにいろいろなものを乗せていきたいと語っており、その例として、福島県の避難区域にある誰もいない小学校の映像に、いまここにある展示の影が映り込んだり、あるいは震災直後に訪れた宮城県で瓦礫の山を抜けてたどり着いた海が不気味なくらいに穏やかに凪いでいた様子を撮影した映像(この日用いられていた海面の映像もこれだという)に、パフォーマーの堀夫妻や参加者の影が映り込んでいるパフォーマンスを、「地層のように重ねて」と紹介していた。
《Reading-Affair》において、「記憶」とは何よりもテープによる録音として示されている。本来、録音は「記憶」というより、機械的な「記録」だが、ここでは先に見たテープ・ループの仕掛けを通じて重層化され、否応なく変容を来していくことになる。原理的には読み上げられた音声が消失してしまうことはないが、実際にはすぐに語としての輪郭を失い不明瞭化してフィードバックに呑み込まれてしまう。声がすり減っていく一方で、それは澱となって積み重なりフィードバックをもたらす。ここではそれを「残存の中ですり減ることと積み重なることの拮抗/共存」と捉えたい。なお、ここで「残存」という語にはNachlebenにアビ・ヴァールブルクが込めた意味合い、すなわち「歴史の経過を超えて生き延びること」を含意している。
なお、当日配布されたリーフレットに掲載された金子智太郎「波状の境界 堀浩哉《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》」の中で、金子は堀のパフォーマンスに対する峯村敏明の評語「収縮と膨張」に注目し、次のように論じている。
「峯村の議論は、堀のパォーマンスをたんなる一方向の解体ではなく、収縮と膨張の間の危ういバランスをとることとして理解する。このような理解は《Reading-Affair》に向かう堀のパフォーマンスの展開を検討するために不可欠なものではないか。彼のパフォーマンスの展開は、収縮と膨張のバランスをとっては、あえて崩し、再調整するという作業の反復に見えるからだ。」
さらに、この「収縮と膨張」と反復は「収縮と膨張の往還」と捉え直され、「往還」を「堀のパフォーマンスの展開にとって重要」と位置づけ、次のように述べている。
「ギャラリー・カドで上演された《Reading-Affair》では、こうした往還とハウリングがさらに強調された。2人のパフォーマーの往還運動にはリズミカルな流れがある。また、パフォーマンスの経過とともに相手の声が聞きとりづらくなるために、行為することと聞くことの関係が一定の緊張感を保ち続ける。さらに、ハウリング・ノイズがだんだん声に混じり、声を覆って、これまでにない存在感を発揮する。パフォーマー2人の往還、堆積していく声、ハウリングが次第にあらわれて声と入れ代わっていく流れ、これらが《Reading-Affair》に幾つもの波動を濃密に共存させていく。」
4.《Reading-Affair》上演におけるプロセス
作品を「プロセスを通じて生成してくるもの」と捉えるならば、作者が記したコンセプトや「意図」のみによって作品を評価したり、あるいは作品に遭遇した体験をそれらの絵解きに還元することはできない。《Reading-Affair》は音楽でもサウンドアートでもないが、この視点からすれば「上演」の問題を考えないわけにはいかない。
《Reading-Affair》の作品構造からしても、また、堀浩哉における「記憶」、「重層化」、「往還」等の重要性から言っても、先に掲げた「残存の中でのすり減ることと積み重なることの拮抗/共存」は重要なポイントであると考える。これを上演環境において見るならば「テープ・ループの中ですり減っていく言葉と積み重なっていくフィードバックのバランスをどう達成するか」となる。
たとえば録音された直後の再生音だけが聴き取れればよいのか、再生音がさらにマイクロフォンに拾われた第二世代、さらには第三世代の再生音も聴こえた方がよいのか。多くの層を透かし見られるならば、それだけ地層の深さ/奥行きを覗き込むように体験することができる。
また、フィードバックはどのように詰み上がればよいのか。先に述べたその場で発せられる声と再生される声のつくりだす地層の深さを覗き込み充分体験した後に、その深みから湧き上がってきた方がよいのか。それとも、すぐにでも空間を満たし、声を水没させてしまってもよいのか。
フィードバックの音量はどうあるべきか。ずっと小さい音量で足元を洗っていてもよいのか。あるいはパフォーマーの発声自体を聴こえなくしてしまうほど大音量になってもよいのか。この日の一回目の上演では途中でテープ・デッキのヴォリュームが操作されたが、そもそもそうした途中介入は望ましいのか。フィードバックが暴走し、パフォーマーの声が聴こえなくなるどころか、スピーカーのボイスコイルが飛んでしまい、システム自体が破壊されてしまうような事態に陥っても、それは会場の音響環境等がもたらしたものなのだから、それはそれとして放置すべきであり、手を出してはいけないのか‥‥。
この点についてトークの終わりに設けられた質問コーナーで訊いてみた。時間が限られている中で、これほど丁寧に説明できたわけではないので、質問の意図が伝わりにくかった部分もあるだろう。それでも堀浩哉から次のような話を聞くことができた。
これまで何度もやっていて、問題がなかったことはない。体験していない失敗はないんじゃないかと思うくらい、いろいろなことが起こる。フィードバックが欲しいのはその通りだが、それでもいきなりでは困る。バランスは重要だが、ちょうどよいところを想定して、それに合わせて調整するという発想はない。そもそもそんなにうまく調整できない。
今日のパフォーマンスでも、演じているこちらからすると、果たしてこちらの声が会場に聴こえているのか心配になるくらい、フィードバックの音が大きかった。それでも聴こえなくても、それはそれで構わないと思って読み上げ続けた。パフォーマンスのプロセスの中で、そうした往還というのは常にある。えりぜの声との間を空けたりとか。
手順や機器のチェックは必ず行うが、パフォーマンス自体のリハーサルはやらない。これは今までもずっとやったことがない。パフォーマンスというのはそういうものだと考えているから。
この発言を聞いた限りでは、堀は言葉がすり減っていくプロセスを幾世代にも渡って聴かせることは考えていないようだ。ただ単にフィードバックが始まるまで、一定の時間が確保され、その間、パフォーマーの生の声と再生された第一世代の声が交錯する様だけを見せられればよいと。ここから彼が《Reading-Affair》のパフォーマンスをAlvin Lucier『I Am Sitting in a Room』に基づいて発想したのではないだろうと推察できよう。『I Am Sitting in a Room』を聴いていたなら、もっと言葉がすり減り、意味を脱ぎ捨て、声としての形状すら失って、ついには人の気配などしない空気の震えへと化していくプロセスに魅せられたはずだからである。それこそ私がかつてそうだったように。しかし、堀はそうではなかった。もちろん技術的な問題もあるだろうし(そもそもそんな風に積層化された光景を一望できるなぞ思いもよらなかったとか)、フィールドレコーディングされた音源に耳を傾け、眼前に広がる前景や中景をめくっていくと姿を現す、後景にたなびく音や響きに耳をそばだてた経験がなかったのかもしれない。
ちなみに、畠中が堀の発言を補足して説明していたように、テリー・ライリーやロバート・フリップ等がテープ・ループのシステムを音楽演奏に用いる場合は、ミキサーを使用して音量を細かく調整できるようにし、コントロール不能の事態に陥らないようにしている。《Reading-Affair》のシステムには、そのような仕方でコントロールできる部分がない。これはその通りだ。また、この日のパフォーマンスにおいても、当初想定した人数に倍する観客が来場し、音響環境の見立てが全く狂ってしまったというのもその通りだろう。だが、そうしたサウンドの調整に関する部分が、パフォーマンスの本質的な部分ではなく付随的な部分に属するというのは、いささか認識が浅いのではないか。というのも、先の堀の発言にもあるように、また、ライヴの描写にも示されていたように、そここそが「往還」の、すなわちこのパフォーマンス=行為の核心部分であるからだ。
あらかじめ誤解を生じないように説明するならば、このバランスは会場の選択によって運命的に定まってしまうものではないばかりか、決してテクニカルな問題に留まるものでもなく、上演に携わるパフォーマーが上演中にリアルタイムで関与することも可能な部分である。会場のエアー・ヴォリュームの変更が出来ない以上、音響特性を大きく変えることはできない。しかし、この場合、さして大きな会場ではないから、物を置いたり掛けたりすることにより吸音特性を変えることは可能だ。また、肝心なのは1本の再生用スピーカーと1本のマイクロフォンの間に成立する回路だから、位置や向き、パフォーマーの口元との距離の調節により大きく変えることができる。さらにはパフォーマーが声の強弱を変えたり、発声の間合いを調節したり、身体を傾けてマイクロフォンに口を寄せたり、上半身で、あるいは手を伸ばしてマイクロフォンをカヴァーしたりすれば、さらに音響は変化する。いずれの場合も、再生音のマイクロフォンへの返りを少なくすればフィードバック量は減少し、フィードバックは静まっていくことになる。
おそらく、そんなことはよくわかっていて、畠中は「バランスは付随部分に過ぎない」と指摘したのだろう。だが、とすれば、パフォーマンスの間、私たちは何を聴いているのか。ただ単に事前に決められた手順が、何があろうと遂行されていくのを見守っているだけなのか。何のためにパフォーマーと同じ空間にいるのか。「一回性」の恩恵を受ける特権的な観客であるためか。それではプロセスを聴いたことにはなるまい。
ここで「バランスを取る」とは単に暴走させないという意味ではないし、コントロール下に置くということでもない。そこで生成する事態に不断に接続し続けるということにほかなるまい。凝視・聴診・蝕知・探査・関与・距離・伝播‥‥、それこそは『松籟夜話』でキーワードに掲げる「音響」「環境」「即興」の謂である。

堀浩哉《Reading-Affair》リハーサルから 撮影:梅沢英樹
日本美術サウンドアーカイヴ | 堀浩哉《Reading-Affair》1977年
2018年1月7日(日)
三鷹SCOOL
〈上演作品〉
堀浩哉《MEMORY-PRACTICE(Reading-Affair)》
出演:関真奈美 / 馬場省吾
堀浩哉+堀えりぜ《わたしは、だれ?―Reading-Affair 2018》
出演:堀浩哉 / 堀えりぜ
イントロダクション:金子智太郎
レクチャー:畠山実
トーク:堀浩哉、畠山実、金子智太郎
日本美術サウンドアーカイヴ特設ページ
https://cococara-minamiaoyama.jimdo.com/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%BE%8E%E8%A1%93%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%A4%E3%83%B4%E7%89%B9%E8%A8%AD%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8/
金子智太郎による日本美術サウンドアーカイヴ告知
http://d.hatena.ne.jp/tomotarokaneko/20171103/p1
日本美術サウンドアーカイヴ次回──稲憲一郎《record》1973年
会期 2018年1月14日(日)〜1月20日(土)
12:00-20:00(月曜休廊、最終日は12:00-17:00)
会場 南青山 Art & Space ここから
展示作品
稲憲一郎《record》(1973年)再制作 他

©稲憲一郎 撮影:稲憲一郎