2018-04-30 Mon
「7年」という1つの周期を終えて(前回タイトルの「周期律表」とは、そのことへのオマージュにほかならない)、新たなステージへと踏み出した「タダマス29」は、音源の選定・構成・配列において洗練の度合いを増しながら、同時に、これまで築き上げてきた視点に安住することなく、果敢にも多くの問題を提起する回となった。この充実した一夜をこれから振り返るにあたり、その全体像をバランスよく再現することを目指すものではないことを、あらかじめお断りしておかねばならない。総ての論点を採りあげるわけではなく、また、言及したテーマについても、主催者のねらいを読みとるというよりは、その場に放たれた音響や言葉、ホストの二人やゲストのやりとりや反応に触発された思考やそのいささか恣意的な展開であることを。なお、当日のプレイリストについては、次を参照していただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767





「女性ヴォーカル特集」と言いながら、確かに各作品とも女声はフィーチャーされているものの、ジャンルとしての「女性ヴォーカル」に当てはまるのは、おそらく1枚目だけだろう。その辺も「ジャンル」でものを考えない「タダマス」らしい。そして、その一方で、リーダーが歌っていない3〜5枚目についても、決して声が添え物ではないトラックが選ばれ、アンサンブルの中で声がどのように位置づけられ、他とどのような関係を築いているのか、きちんと聴かせようとしているのが、また同じく「タダマス」らしい。
Mary Halvorsonはこれまでの作品で自らヴォーカルを取ることもあったのだが、自らのヴォーカリストとしての能力の限界をわきまえていて、今回の作曲を演奏するにあたっては別途ヴォーカリストを招くこととしたとインタヴューで述べている旨を、益子が紹介していた。彼女独特のエフェクトの使い方についても、機械をあれこれいじっていて偶然出たものだが、人間の声みたいで面白いと思ったと語っているとのこと。
この日の前半が佳曲揃いだったのに比して、後半は賛否が分かれることとなった。冒頭のMegumi Yonesawa/Masa Kawaguchi/Ken Kobayashi『Boundary』は、ESP-Diskからのリリースということで全編即興によるフリーとのことだが、「合わない/合わせない」ことへの恐怖が先にあって、それにフリーらしき外見をまとわせようとするから、どこへ行くにもみんな寄り添って、3人の間が少しも広がらない惨めな有様をさらすこととなった。「ダメな例」として採りあげたとのことだが。
続くThomas Stronen Time Is A Blind Guide『Lucus』も、かすれた弦の断片が繰り返し現れ、ガラス窓を叩く雨粒のようなピアノ/ドラムと重なり合って、寄せ手は返す波の映像を経て、ガラスの表面をつーっと走る水滴に至る変容/構成はなるほど巧みであり美しいと言ってよいが、やはり何と言っても強度が低く人畜無害に過ぎる。「みんなで聴くのは気持ち悪い」との多田の言に同感。

ここで面白い議論の展開があった。「音楽が鳴り響く空間の可能性はまだあることを示した」との多田に対し、ゲストの則武が「統一された質感の存在」を指摘した後、こうした音をライヴで眼の前で聴くのと、CDで録音だけを聴くのと、どう違うか、どちらが良いかとホスト2人に問いを投げかけたのだ。回答をまとめれば、録音の限界というか、演奏の現場では音が様々な方向から聴こえたりする聴取の豊かさが、録音を聴く際には失われてしまうのは確かだとして、眼の前で演奏しているのを見てしまうと「なるほど、ああして、その結果、こういう音が出て……」という理解が先行してしまって、音自体を聴いて想像力を膨らませることができない……というところだろうか。個人的には、「フィルム体験をフィルムの制作される過程から切り離すことが批評の提要である」との蓮實重彦の言明通り、「聴取体験を音や響きの生み出される過程から切断すること」を掲げたい。だがそれにしても、前回も触れたように、「体験」に関する蓮實の言明には深く頷かされるのだが、彼の唱えるアメリカ映画中心主義には全く同意できない。

続いては、Keisuke Matsuno/Moritz Baumgartner/Lars Graugaard『Crumble』。現在、Jim Blackのバンドで活動しているというMatsunoのギターとBaumgartnerのドラムを、音数を絞り、増幅度を高めて希薄化し、リヴァーブを効かせて空間一杯に響かせ、背後の空間を横切りざわめかせるエレクトロニクスと共に変容させていく13分以上の長尺のトラックが披露された。ギターは壊れやすく不安定な遷移を取り扱い、不均衡な移ろいやテープ・ゴーストや陽炎のようなあえかな変化に感覚を集中する。それゆえ離れて見ると、マクロなフレーズ自体は結構ベタだ。これの内圧をレッドゾーンの彼方まで高めていくとMiles Davis「He Loved Him Madly」になるのだろう。

深い水の底から形を成さない何かが滾々と湧き上がり続けている。切れ端、揺らめき、退色、劣化……。間を空けたスネアのアタックが硬化処理を施され、細部を削り落とされて揺るぎない鮮明さ/リジッドさを獲得しているのに対し、イノセントな子どもの合唱や昔のディズニー映画風の弦は、記憶の中から響いてくるように揺らぎ、鮮明さを欠いている。ヴォーカルやピアノも、そうした記憶の不確かさ不鮮明さに侵食され、不可逆な劣化を来している。背後の空間で浮き沈みする様々な響きのかけら。この「Labor」に続く「The Fool You Need」では、一転してドラムが不整脈を来たし、ダブ処理とキーボードの不鮮明な揺らぎやホーンのサンプリング的な使い方が不均質さをさらに強調する。確かに見事な造形ではある。


むろん、「いや、ポップスにも尖ったものはある。そもそもMercury Revだってポップスだ」、「ポップス化せずに、旧来の「ジャズ」に踏みとどまればよいと言うのか」、「『良いものは売れない』というのは一部当たっているとしても、『売れないものが良い』は明らかに倒錯であり、間違っている」……等々、様々な反論は可能だし、これらの反論はすべて正しい。要は「ポップス」の定義の仕方だという意見もあるだろう。たとえば「ポップス」の代わりに「紅白歌合戦」を代入したらどうなるか。しかし、論点をこうずらすと、際限がなくなってしまう。掲示板のスレッドのネタとしてはいいかもしれないが。
ここでは、とりあえず「聴きたい」という聴取の欲望と「消費」の間に一線を引きたい。ここで「消費」とは、作品や楽曲を購入する、あるいは聴取すること自体を指すものではない。耳が不意打ちされ、聴覚が拡張され、視界で揺れ動くマチエールの差異に、風景の豊穣さに、反覚醒の記号の過剰に困惑し、揺さぶられ、突き落とされ、足元をすくわれ、深みへとずぶずぶと沈められ、主体の動揺/変容を余儀なくされる体験、すなわち「邂逅」を回避し続け、安穏と傷一つ負わず聴き流して大音量に鼓膜をすり減らし、あるいはジャンル分けや流行の度合いに従って情報処理し、あるいは文学的な、心理学的な、社会学的な、文化人類学的な「物語」だけを読み取り、あるいはBPMだけに反応してニワトリのように首を揺すり、果ては満員の通勤電車の中で「隔離された個室」を確保するためだけに「障壁」として用いるような、儀礼的・象徴的消費を指す。
少なくともこの国では、「ポップス」とは、聴取の欲望を喚起/触発しないことによって、よりスムーズに「消費」の対象となるもののことではなかろうか。例えば、付属の投票券欲しさに、同じCDを10枚、20枚と購入するとか。そのことは録音の質にも深く関わっていて、例えば、この日の前半に披露された音源は、みなそれぞれの仕方で「自らの響くべき空間」を的確に眼差していた。「ラジカセMIX」から「ケータイMIX」へと、「自らが響くことを余儀なくされる空間」に合わせて平板化・低質化を施される、この国の「ポップス」と、何と異なることか(もちろん例外は無数にあるにしても)。
この国の惨状はひとまず措くとしても、「ポップス」への期待は、「芸術」への憧れと同様、やはり無効なのではないか。「孤高」や「異端」を気取ることも、「正統」へと撤退し引きこもることも、「実験」や「前衛」、あるいは「脱領域」を標榜し正当化することも、また。
音は自ら響くべき空間を必要とし、音楽演奏とはそれを切り拓く営為である。とすれば、ジャズが切り拓くべきは「ポップス」ではなく、ジャズの「余白」にほかなるまい。そしてジャズの「余白」が依然としてジャズの一部であるのか、それとも、それを超えた外側に位置しているのかは、実のところどうでもいいことなのだ。

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タダマス、周期律表を原子番号1の水素から29の銅まで暗記する "TADA-MASU" Memorize the Periodic Table from Atomic Number 1 (Hydrogen) to 29 ( Copper)
2018-04-18 Wed
前回までに28回を踏破し、7年目という大きな節目を乗り越えた「四谷音盤茶会(通称『タダマス』)」は、いよいよ新たな次元に踏み出そうとしている。ホストを務める益子博之は今週末に迫った次回『タダマス29』について「なんと前半は女性ヴォーカル特集」とFacebookでひっそりつぶやき、一方、相方の多田雅範は「現代ジャズシーンを特集する雑誌」の長時間取材に先日応じたばかりだ……と自身のブログで告白している。さらに多田はブログで次のように述べている。
「それまで Jazz / Improv としてきた脳内が improvised jazz と統合されたパラダイムシフトによって感覚が変容したのであろうか、モチアンとプーさんがいなくなってからどうもなあチャーリーパーカーでさえ引き出しフレーズ連射にしか聴こえなくなってねえサウンドの風景はちっともインプロしてないじゃないかと与太をかますばかりになっている、」
『タダマス』に通い始めた最初のうちは、一瞬で「ジャズ」出自とわかるサックス・ソロほとばしる演奏が、「完全即興」あるいは「フリー・インプロヴィゼーション」と呼ばれていることに強い違和感を覚えた。当時の私は、コンポジションとインプロヴィゼーションの間に線を引くだけではなく、イディオム的なインプロヴィゼーションと非イディオム的なそれの間にも越えがたい深い溝を見ていた。デレク・ベイリーの提唱したように、イディオムの枠内に閉じこもらない非イディオム的なインプロヴィゼーションこそが、演奏コミュニティを前提としない開かれた演奏、「フリー・ミュージック」としか呼びようのない新たな音楽のかたちを描き出し得ると、さして疑いもなく信じていた。
それゆえ、たとえ演奏がサウンドの質感、特にサウンド・マチエールに焦点を合わせ、聴くことに潜む触覚的側面を顕微鏡的に拡大した音響的な交感や「物音」インプロヴィゼーションへと踏み出していたとしても、それが所詮は表面的な装飾だったり、「余白」や「余興」に過ぎず、本筋/本気の演奏は「ジャズ」の地平に立ち戻って行われるのであれば、何故にそれを「ジャズ」ではなく、フリー・インプロヴィゼーションと呼ばねばならないのだろうかと訝しく思っていた。
しかし、その後も『タダマス』に通い続けたのは、やはりそこに何かが開けている感覚があったからにほかなるまい。毎回かかる未聴の音源に耳をなぶられ、翌朝になっても身体に残る(いや一層明らかとなる)まるで打ち身のようなずきずきとした痛みを、毎回、言葉へと引き渡していくことを続けているうちに変化が生じてきた。自分にとって確固たるものと思われていたフリー・インプロヴィゼーションの輪郭が揺らぎ、薄れ、溶解しはじめたのだ。
もちろんそれは『タダマス』だけの「効能」ではなく、たとえば田中珉との共演の録音である『Music and Dance』を通じて、ベイリーの放つ音が耳をつんざく周囲の環境音に叩きのめされるのを聴き、あるいはミッシェル・ドネダのソプラノが踏まれた草の茎が折れる音や枝葉のざわめきに身を沈めていく様に耳を澄まし続けたことの結果でもあるだろうし、フランシスコ・ロペスやジル・オーブリーによるフィールドレコーディングのうちに、決して作曲者/演奏者/制作者の意図には還元することのできない、豊かなざわめきや振動する生成を探り当て、それがベイリーやドネダの音世界と強力に結びついたことの産物でもあるだろう。
いまやインプロヴィゼーションとは、イディオムの有無どころか、作曲やあらかじめ記された譜面の有無にすらかかわらず、あらゆる瞬間に潜在するもの/力能となった。「即興的瞬間」と呼ぶ所以である。これまでの『タダマス』音源において、こうした演奏のあり方を象徴するものとして強く印象に残っているのは、やはり菊池雅章『Sunrise』だろうか。
しんと張り詰めた闇から、その闇をいささかも揺らすことなく、月光に照らし出された冷ややかな打鍵がふと浮かび上がり(吐息が白く映るように)、響きが尾を引いて、束の間、闇の底を白く照らし出す。重ねられた音は「和音」と呼ぶべき磐石さを持たず、宙に浮かび、そのまま着地することなく消えていく。それとすれ違いにブラシの一打が姿を現す。音は互いに触れ合うことなく、一瞥すら交わさずに、黙ったまま行き違う。
ピアノ自体も同様に、次に現れた打鍵は先に放たれた打鍵と音もなくすれ違う。両者の間を線で結ぶことはできない。間を置いて打ち鳴らされる音はフレーズを編み上げない。そこに受け渡されるものはなく、ただ、余韻だけを残して現れては消えていく音。その只中に突き立てられたベースの一撃が、それらがやがて星座を描くかもしれないとの直感を呼び覚ます。
ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』冒頭のタイトル・クレジットは、クレジットの各単語がそれを構成するアルファベットの単位に分解され、A・B・C‥‥と順に映し出されていく。だが、そうした「コロンブスの卵」的な単純な仕掛けに気づいたのは、始まってしばらくしてからで、最初のうちはそれがクレジットであることにすら気がつかず、モールス信号を思わせる離散的な配置で、赤い布石や青の石組みが、間を置いてすっと画面に現れていくのを、はらはらしながら、ただ黙って見詰めていることしかできなかった。原色によるフォントのオフビートな明滅に、観ている自分が次第に照らし出されていく感覚がそこにはあった。『Sunrise』冒頭曲の始まりの部分は、その時の張り詰めた気分を思い出させる。
出来上がりの絵柄に向けて(彼らは寸分違わず同じ「景色」を見ている)、各演奏者が一筆ずつ、セザンヌにも似た矩形の筆触を並べていく。その順序は決してものの輪郭に沿っているわけではなく、連ねられて線を描くわけでもなく、まさにゴダール『気狂いピエロ』冒頭の、あの明滅の感覚で筆は置かれていく。もちろん音は虚空に吸い込まれ、スクリーンに映し出されるフォントのように積み重なることがない。しかし、それでも消えていく余韻を追い、それとすれ違いに現れる次の音の響きを心にとどめることを繰り返せば(通常これはゆったりと引き伸ばされた旋律を追う時のやり方だが)、ピアノの打鍵、ドラムの一打、ベースの一撃が互いに離散的な網の目をかたちづくりながら、それをレイヤーとして重ね合わせている様が見えてくる。
「網の目」と言い、「レイヤー」と言い、いかにも緊密な組織がそこにあるように感じられてしまうとしたら、それは違う。繰り返すが、音はフレーズを紡ぐことがない。別の言い方をすれば、閉じたブロックを形成しない。ピアノの、ドラムの、ベースの、それぞれ先に放たれた音とこれから放たれる音の間は、常に外に向けて風通しよく開かれていて、幾らでも他の音が入り込めるし、実際入り込んでくる。しかし、そこでは線が交錯することはない。もともと彼らは線など描かないからだ。
ここで菊地たちは先に述べたように寸分違わぬ同じ「景色」を眺めながら、「同期すること」の強度を究めようとしていると言えるだろう。【同じ景色を見詰めること―菊地雅章トリオ『サンライズ』ディスク・レヴュー(※)】
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-170.html
ジャズが痛いほどに「しん」と透き通り、白く光る骨や薄青い血の流れが浮かび上がり、眼前を横切るインプロヴィゼーション。『サンライズ』がかかったのは『タダマス5』の時だから、もう6年も前のことになるのか。

津田貴司と続けてきたリスニング・イヴェント『松籟夜話』(その発想の源のひとつは、もちろん『タダマス』である)がめでたく10回を迎えたところで、これまでの成果を振り返りつつ文章にまとめようとして、ずっと苦労している。各回、いずれもかなり深いところまで潜れた手応えがあるのだが、それをなかなか言葉にできない。
その津田やtamaru、大上流一や高岡大祐の演奏を最近ずっと追いかけてきて、こちらも演奏の豊かさを、距離を隔てた視点から凝視し克明に記録するのではなく、あるいは音へと身を投じ響きに溺れてまぐわうのでもなく、両者を往還し包摂して聴くことの「厚み」がようやく触知できてきたように思うのだが、こちらもそれを叙述できない。
困り果てて、何かヒントはないものかと手当たり次第に本のページを繰っているうちに、次のようなくだりに行き当った。
「アンリ・ミショーは、クレーの色はまるで緑青や黴が『しかるべき場所に生えてくる』ように、原初の奥底から発生し、ゆっくりとカンヴァスのうえに生まれくるように思われるときがある、と語っている。芸術は構築、技法、空間と外部世界への技巧的関係ではない。それはまさしくヘルメス・トリスメギストスが『光の声に類似した』と言った『不分明な叫び』である。そして、その叫びはいったん発せられると、日常の視覚のなかに、ひっそりと眠り込んでいた〔物質化される以前の〕先在的諸力を呼び醒ます。水の厚みを通してプールの底のタイル床を見るとき、私は水や水面の反射にもかかわらずそのタイル床を見るのではなく、まさに水や反射を通して、水や反射によって見るのである。」【モーリス・メルロ=ポンティ『眼と精神』 富松保文訳】
「さらに言えば映画においては、画面が一つの意図に収束することなど皆無であり、むしろ意図せぬ様々な細部が映りこんでしまっているものこそ、フィルムなのだ。(中略)蓮實重彦は、それをよく『フィルム的現実』『複数の要素の同時共存の場である映画』と形容していた。まさに『フィルム的現実』に寄り添うために、ひたすらスクリーン上にある光と音に身を晒し、視界を横切る運動、網膜の奥を突く光の明滅、脳髄を刺激する音声の抑揚……つまりは、現在進行形のすべての刺激に、無媒介的にオープンであり続けること。作者がどんな意図でそれを作ったのかは『どうでもよろしい』わけで、フィルムが映写機にかけられるより《過去》の出来事(作品の制作)と、フィルムが映写されている《現在》を切り離すことこそ、映画批評であるべきスタンスではないか、とずいぶん早い時期より看破していたのではなかろうか。」【舩橋淳「蓮實重彦/峻厳な切断」 『ユリイカ』2017年10月臨時増刊号「蓮實重彦」】

「汀」 原田正夫
言葉を書きつけ、そこに何かを引き渡し、委ねる。思考を外化することの利点は、それを「対象」として分析・操作できることにあるが、無論ご利益はそれだけではない。考えに行き詰ったことがあるものなら誰でも身に染みて知っているように、場所を明け渡し空っぽにすることにより、煮詰まった脳内にスペース(余白、隙間)が生まれるのだ。これにより強迫的な堂々巡りが止んで、鬱血/硬直していた思考がまた柔らかく揺らぎ始め、違う風を感じ、新たな香りに鼻をうごめかし、別のことに思いを巡らすことができる。
『タダマス』は思考を触発し、何より言葉を誘う。それは確かな耳が選び取った強度に満ちた演奏のためかもしれないし、思いがけぬ類似を浮かび上がらせ、あるいは対比を際立たせる趣向を凝らした構成/配列のためかもしれないし、紹介される音源がすべてパッケージされた録音作品からの抜粋であるという共通の枠組みのためかもしれないし、あるいはやはり多田の予測不能に疾走するボケと益子の鋭く乾いたツッコミ、その外側を衛星のように巡りながら異なる視点を提供するゲスト、それぞれの眼差しや表情の雄弁な交錯と変化、そしてもちろん言葉が多方向から衝突/散乱し、さらにそれを取り巻く参加者が思い思いの方向に乱反射させるためかもしれない。
この週末、4月22日(日)は『タダマス29』に行って、そこで一期一会の音との邂逅に身を沈め、一瞬ごとの「現在」に集中し、その残響を言葉へと譲り渡すこととしよう。そうすればいい加減慢性化した脳髄の腫れも引いて、その隙間に、別の角度から新たな光が射し込むかもしれない。

益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 29
2018年4月22日(日)
open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:則武 諒(ドラム奏者)
今回は、2018年第1 四半期(1~3月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDをご紹介します。
ゲストには、ドラム奏者の則武 諒さんをお迎えすることになりました。バークリー音楽大学出身で、ストレート・アヘッドなジャズから即興音楽まで幅広い領域で活躍される則武さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。
すでにお気づきと思うが、上に前掲している『タダマス29』のフライヤの写真素材は、中ほどに掲載している原田正夫「汀」にほかならない。「汀」はFacebookに投稿された写真だが、本作に先立って投稿されたコンクリート壁面のペンキ跡だという写真(氷が張った上に薄雪が積もった水面を覗き込んでいるようにしか見えない)、そして本作に続く「潬」と題された写真と共に、実際には存在しない奥行き方向(前後/浅深)に行きつ戻りつ視線が揺さぶられる感覚に魅了されるとともに、先に挙げた津田貴司やtamaru、大上流一や高岡大祐の演奏に感じた透明・半透明な層/厚み/深さの感覚との共振ぶりに驚かされた。白川静によれば「潬」のつくり部分は、壺状の器中にものを満たしているかたちを示し、長期にわたって味付けし、醇熟する意味であるという(うまい、ふかい、おおきい)。これにさんずいが伴う「潬」は水に関連し、「ふかい」、「ふち」を意味する。この感覚がメルロ=ポンティの指差す「プールの底のタイルの床」や蓮實の言う「複数の要素の同時共存の場である映画」(それは決してスクリーンという同一平面上の並置ではなく、パン・フォーカスな奥行きの中での共存、あるいはフォーカスや画面の枠からも外れた中での共存をも含んでいよう)に私の指先を立ち止まらせたのだろうか。
しかし、それにしても、何と不可思議なシンクロニシティであることか。