■プロフィール

福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック

■月別アーカイブ
■カテゴリ
■リンク
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。


スポンサー広告 | --:--:--
影を聴く、音を視る ― 坂本宰・津田貴司『docozo』ライヴ・レヴュー  Listening to Shadows, Looking at Sounds ― Live Review for "docozo" Performed by Osamu Sakamoto & Takashi Tsuda
1.昼公演1
 開始の時刻になって、背後でガラガラとシャッターが下ろされる。天井の照明は点けられていないが、漏れ入る外光のために真っ暗とはならず、右前の壁際に座った観客の横顔が見える明るさ。暗くなった室内に慣らし、前方の白幕にこれから映し出されるであろう影に備えて、しばし眼を細めていると、外の子どもの声が、先ほどまで以上にはっきりと聞こえてくる。暗くなった分、聴覚が研ぎ澄まされたのかもしれず、あるいはあらかじめ半ば閉ざされていたシャッターが完全に下ろされることによって、かえって音が伝わりやすくなったのかもしれない。隣りの公園の入口部分で交わされる子ども同士のやりとり、すーっと駅方向へ通り過ぎる車、子どもに呼びかける母親の声がそれとは逆向きにゆっくりと動き、おそらくは道の向こう側からこちらに向かって投げかけられた女子中学生の問いに、教師らしい若い男性が答え、向こう側でひとしきり笑い声が立って、自転車がカタカタと通り抜ける。

 と、眼の前の白幕上の模様が音と合わせて横に滑っていったのに気づく。白幕の明度分布が決して一様ではないことは、暗くなってすぐに気づいていたのだが、郵便受けか、あるいは引き上げ時のグリップか、シャッターに二つ並んだ細長い開口部の像以外は、光線の干渉がつくりだしたおぼろな抽象模様とばかり思っていて、いささかも注意を払ってはいなかった。だが、いったん気づいてしまうと、眼の前の「上映」からもはや眼が離せなくなる。シャッターの下端、接地部分の隙間のスリット効果なのだろうが、他にも光の漏れ入る隙間はあるから、ピンホールカメラのように鮮明な像を結ぶことはない。だから風景を写した「静止画」としては最初感知できなかったのだが、動く像はそれとすぐわかる。ある「まとまり」が右から左へ、あるいはその逆方向に、速く遅く画面を横切っていく。歩行者の脚の動きらしきものが上に見えるから倒立像なのだろう。それすらも自動車や自転車の像からはわからない。解像度の低いおぼろな映像で、大きさすら確かではないが、それでも運動速度と音との連動で、それが何であるかはすぐにわかる。白幕に投影された薄く青みがかった「かげ」の明滅がつくりだす、ゆるやかな推移と運動に魅せられ酔いしれる。微かな鈴の音が奥から聞こえた気がしたが、定かではなかった。風や車の振動でシャッター自体が揺すられるからだろう、像は揺れ、ピントや濃度が揺らぎ、あたかも幕自体が震えているかのように、像が波打ち、一瞬、平面から浮き上がる。だが、そこに陽炎のめらめらとした熱気はなく、もっと涼しげな静けさに満ちていた。ただこれだけが昼公演の演目なのではないか……との想いが頭を過り、それでも全然構わないとさえ感じていた。

 暗がりを見詰めていると気づかぬうちに目蓋が落ちてきて、闇が次第に濃くなっていくことがある。だから、白幕に投影された「かげ」のほぼ中央に、縦にうっすらと液晶画面の不調にも似た染みが生じた時にも気にはならなかった。幕のたるみにより生じた窪みか、あるいは誰かが表のシャッターの前で立ち止まり、内部に射し込む光を遮っているのだろうと。たとえ染みが次第に濃さを深め、輪郭を明らかにし始めても、それは依然として髪の毛の束や鉛筆の殴り描きの集積を思わせる不定形でしかなかった。風の吹き過ぎる音が聞こえた気がした。エレクトリック・ギターの弦の弓弾きによる持続音かとも思ったが、確かめようがなかった。

 眼の端に何かを感じた方が先だった。気づくとぼうっと立ち尽くす人影らしきものが傍らにあった。坂本はすでに私のほぼ真横にいて、前方に向かい音もなく微速度で歩みを進めていた。先の染みはまさに彼の身体の影にほかならなかった。彼が白幕に近づくにつれ、染みの丈は短くなり、不定形の滲みが次第に人型を浮かび上がらせ始める。音はもう疑いの余地なく、はっきりと聞こえている。やがて坂本の後ろ姿は白幕の向こうへと消え、響きがややくぐもる。

 幕の向こうに淡い暖色系の明かりが灯り、「坂本宰の影」がうっすらと浮かび上がって、外の光がもたらす「かげ」と重なり、相互に体液を交換し合う。時折、白幕の右端や続く壁面に光輪が映るから、光源を直接に幕へと向けず、平行に配したり、あるいは奥の壁面に反射させるなどして、分散による柔らかな広がりを得ているのだろう。光が移ろい、身体が動き、影が揺らぎさまよう。固定されていない光源は、身体の運動をそのまま幕へと写像せず、そこに幾らかなりともズレを付け加える。それゆえ影の動きは日常の身体所作にも、ひたむきな集中による舞踏にも、静止像としてのポーズにも収まらない、形の定まらぬ過剰さをはらむことになる。音はその過剰さを調停することなく、透明な倍音をさらに際立たせながら、しばしその傍らに佇み、やがて折り重なってきらびやかに呼吸するドローンと化して、途切れることのない子どもの声と重なり合うに至る。いつの間にか横を向いたシルエットを外の「かげ」が横切っていく。次第に高まる倍音が胸騒ぎを呼び起こすのは、サスペンス/ホラー映画のサウンドトラック的な音響効果、すなわち心理学的なエフェクトのゆえではなく、外の「かげ」と幕の向こうから映し出される影、外から入り込む環境音と演奏の音が、そうした安定した区分を欠いて混淆し、相互に浸透し合いながら、しかし決して三次元的なパースペクティヴをつくりだすことなく、薄い白幕の上で「奥行き」を欠いたまま戯れていることの結果ではないだろうか。幾重にも入り組んだ空間が平面へと圧縮されながら、どこまでも希薄であえかな移ろいでしかないことが、アブストラクトな不安を連れてくる。

 ふっとカンテラの影が浮かび上がり、点灯されたのか、幕が少し明るさを増し、これまでの「かげ」と影が薄くおぼろになって、天井まで届く大きな歪んだ人影が加わる。高まったドローンが小さくなり、弦をはじき、あるいは引っ掻く音が増幅によりつくりだす点描と揺らぎへと移り変わり、それが次第にパターンを浮かび上がらせる。潮騒に似た響きが聞こえる。ラジオの局間ノイズだろうか。突然カンテラの影が大きく揺れ、これに合わせて身体の影も揺れ動く。天井から吊るされブランコのように振り子運動するカンテラとぐるぐると巡る影。二重化された影の交錯による、子どもの頃に遊園地で味わった「回転とめまい」の体験。坂本が操るカンテラの揺れが前後へと変わり、また左右に戻り、円錐を描きながら回転し……頭の片隅では事態をそのように俯瞰的にとらえながら、視覚とこれに連動する身体運動感覚は四方八方に遷移する影の動きにすっかり眩惑され、いっしょに揺れ乱れている。ギターの寸断されたノイズにとらわれた聴覚も、また幻惑のうちにある。細かな弓弾きが加わり、積み重なって深々としたドローンを形成し、ごうごうと鳴り響く。ここでも三次元の回転運動は平面へと縮減され、その結果、外惑星の逆行にも似た乱流や渦に満ちた複雑怪奇な推移を示す。

 カンテラの明かりが消され、二つの影の交差/交錯によるハレーションが掻き消えて、画面のざわめきがすっと静まる。ひとつ残された影の動きが次第にゆるやかになり、音が弱まって、やがて共に止まる。幕の向こうの明かりが消えて、外の「かげ」がすっと戻ってくる。ついさっきまで、一体どこへ連れて行かれていたのだろうか。興奮による身体のほてりを感じながら少し青みがかった「かげ」を見詰めていると、外の音がだんだん大きくなってくる。耳は少し遅れて帰ってきたようだ。かすかに浮かぶ人影が外の「かげ」と重なり合う。演奏の音はもうとうに止んでいる。光と影が消え失せた後に帰り着く先は、決して闇ではない。この薄明なのだ。音が消えた先に現れるのが、無音の沈黙ではないように。
docozo1縮小
写真は福家由美子様のTwitterから転載しました。


2.上池袋anoxia
 初めて訪れる上池袋anoxiaは何とも不可思議な場だった。閉まりかけたシャッターの脇に上階へと直接昇る、梯子のように細く急な階段。コンクリートの床と木組みが剥き出しで窓のない壁面。天井が比較的高いので圧迫感はないが、およそ営業しているスペースには見えない。古民家を改装したカフェや取り壊し前のビルを占拠したギャラリー・スペースのような「転生」感がまるでなく、私の子どもの頃(昭和30〜40年代)に近所にあった、急ごしらえでつくられ、そのまま使い続けられている、物置をそのまま大きくしたような簡便な倉庫が、老いさらばえ、がさがさに乾き切った素肌をそのままにさらしている。表の看板に「○○紙器」とあるから、紙箱が積まれていたのだろうか、木製の棚がベニヤの壁材に取り付けられ、その向こうにブロックを積んだ外壁が覗く。奥に続く空間を遮断するように、ビニールの白幕が天井から張られていて、その向こうは取り壊し作業中であっても全然おかしくないくらいなのに、なぜか不思議と埃っぽさや黴の匂いはしない。それゆえ中に足を踏み入れると、軽いタイムスリップ感に襲われる。振り返るとさして道幅はないがそれでも歩道の整備された道路が広がり、先ほどまで自分がいた「いま・ここ」から切り離され隔てられた非現実感が強まる。
 おそらく初めて訪れた上池袋は、東武東上線とJR埼京線の線路が隣接・平行して走っているにもかかわらず、前者の駅(北池袋)だけがあるエアポケットのようなところで、新しいビルが建ち、死角が生じないよう背の低い植栽が周囲に追いやられた、遊具のひとつもない、いかにも今風の児童公園がある一方で、ブリキ張りの雨戸を閉めたモルタル造りの家、狭い路地にひしめく植木鉢、トタン波板で囲われた材木置き場など、anoxiaと同じく50年前の風景がそこかしこに残る、都市再整備の汀と言うべき場所だった。
docozo5縮小
写真は加藤裕士様のTwitterから転載しました。


3.夜公演
 さすがにもう陽は落ちて暗くなっており、昼公演の再現は到底望めない。anoxiaに着くと、坂本と津田がまだ準備中で、白幕の位置は同じながら、昼の部で置かれていた椅子が総て取り払われている。しばらくして開場となり、すでにシャッターは閉められているので、階段から通じる横のドアより入場し、白幕の向こう側にセッティングされた席へと案内される。昼の部と夜の部では同じ投影幕を挟んで、客席が反対側に移動したことになる。

 客席の照明が次第に暗くなり、闇が満ちてくる。シャッターの下端の隙間や郵便受けからの光が微かに浮かぶが、もう景色を映し出すことはない。外の音は昼間のようににぎやかではないが、耳の向きゆえか、あるいは環境音のレヴェルが下がっているからか、バイクの音はむしろより大きく鋭く、切っ先を突きつけるように迫ってくる。いつの間にかラジオの局間ノイズらしき音が鳴っており、次第に高まり、少し静かになり……を繰り返し、やがて消える。通行人の声が通り過ぎていく。幕に古壁の染みがうっすらと浮かび上がる。上空を通過する飛行機の音だろうか。何かぶわーんと鳴り響いている。そこから微かな弓弾きの響きが浮かび、染みはだんだんはっきりと濃くなり、人影が横を向いて、弓弾きの断片が上下左右に散らばり、黒々とした影がまたおぼろにぼけていく。低音が重ねられるなか、大きくはっきりとした影が二重に浮かび、光源の移動や切り替えにより不安定に移ろう影に何かを打つ音が伴う。もはや光は幕のほぼ全面に当たっており、客席の私たちを照らし出しながら、エスニックなリズムに乗せて影が人形のように揺れ動く。ギターが弦の弓弾きに移行すると、幕への光をそのままにイーゼルらしき影が現れる。幾何学的な組立が、光源とイーゼルの距離や向きを変化させることによって、部分的に拡大されて歪み、さらに光の不規則な明滅による変奏が加わる。弓を弦に強く押し付けて発せられる圧縮された響きがビシビシと爆ぜ、ねじ切れた不定形の断片が飛び散る。影が激しく流動し、明滅が移ろって、何台も続けて通過するトラックやバイクに遮られながら、弓が荒々しく動いて小爆発を繰り返す。

 シャッターが上げられ、揺れる水の「かげ」の投影が始まる。さっき準備していたのはプロジェクターだったのだろうか。波の交錯、波紋の広がり、浅く満たされた水の揺れ動きが水面につくりだすわずかな凹凸が、幕に映し出された幾何学的文様の推移・変容として現れる。ギターはペダルを用いてふうわりと中空に浮遊し続ける。拡大された指先の影が水面に微かに触れ、震えが波紋となって広がる。指先は水を激しくかき混ぜ、影の運動と「かげ」の流動が衝突し、お互いを切断しあう。巻貝に入れられた水がぽこぽこと鳴り響き、ラジオ・ノイズの水面を見下ろすようにラファエル・トラルを思わせる電子音響が離陸する。水の運動の諸相が高速モンタージュにより消尽されるなか、突然、横顔のシルエットが大きく浮かんだかと思うと、明かりが消える。闇の中で再びシャッターが下ろされる。

 光の点滅。身体の速い動き。痙攣的なアクションとポーズが、光の明滅と運動によりさらにズタズタに細断される。弓弾きの断片がランダムに放射され、やがて繰り返しに収斂する。大きな物音がして脚立が引き出され、イーゼルに似た幾何学的組立をしばしさらした後、ランタンを手に持った人影がぐるぐると回転し始める。回転はいよいよ加速し、影は極端に歪んで、ゾートロープみたいに伸び縮みし始める。夜公演の終了。
docozo3縮小
写真は福家由美子様のTwitterから転載しました。


4.昼公演2
 いったん終了したかに思えた休止の後、籠なのか網なのか、網目の影が浮かび上がる。抽象文様の推移にギターの微細なトレモロ(ゴム球で弦を擦っていると思われる)が寄り添い、明かりが明滅し、やがて消える。外の「かげ」が再び浮かび上がり、そこに光の輪が投げかけられ、ぐるぐると回転する。ギター弦のさわりがふと頭をもたげ、コンビニ袋を丸めるようなざわつきに引き継がれる。光の回転が止まり、うっすら/くっきりと二重化した人影が映し出される。人影は幕に近づき、端をめくって坂本が姿を現す。手にはパチパチと火花を散らす電気花火。火薬の匂いが遅れて立ち込める。彼はそのまま歩み、シャッターを開けて、外の光を注ぎ込む。昼公演の終了。
docozo2縮小
写真は福家由美子様のTwitterから転載しました。


5.『docozo』の向かう先
 この日の昼公演(特に1として描写した部分)が、この場所と時間帯の特性を活かしたスペシフィックな上演であるだけでなく、伝説化してしまいそうなほど高度な達成であったことは疑う余地がない。前日に行われたリハーサルでは場所の下見時に見込んでいた影がまったく得られず、二人とも途方に暮れていたというし、あるアイデアを得て上演に至るも、シャッターの隙間から漏れ入る光が解析効果により映し出す景色については、上演が始まってから気づいたというから、本当にその場でブリコラージュされたものなのだろう。だが、映し出される外の景色や聴こえてくる声の「豊かさ」が、二人の上演/演奏をしっかりと支えていたことも事実である。

 以前に津田と笹島裕樹によるスティルライフのライヴ・レヴューで、音の響きが翼を広げる空間のヴォリュームを擁し、虫の声が聞こえ、床が軋み、窓枠が鳴る立川セプティマに対し、音がさして響かずそのまま手元にとどまり、都会の密室で隣室のくぐもった話し声しか聞こえてこない四谷三丁目喫茶茶会記での彼らの演奏の苦闘ぶりについて語り、これらのさらに先に石神井公園に隣接したスペースでの黄昏時の野外ライヴをとらえた。
 演奏により音を配置/配列するのではなく、音や響きを息づかせようとする彼らにとって、すでにそこに風が通い、ざわめきが満ちているかどうかは大きな問題である。もしそこが外へと開かれて、豊かなざわめきに満ちているのなら、まずはそれに聴き入り、身を沈めて、草むらに寝転ぶような低い目線から、その場に沸き立つ生成に自ら入り込んで、音を放てばよい。もしそうでないとしたら、まずはそうした環境自体を、貧しいながらも自らの手でつくりださねばならない。そこでは、その分だけ「聴く」ゆとりと楽しみが減ぜられてしまうことになる。

 このことを別の角度から眺めてみよう。高橋悠治は『ことばをもって音をたちきれ』でタージ・マハル旅行団の演奏について、次のように述べている。
 「たとえばだれかが電気ヴァイオリンの弦をこする。振動はコンタクト・マイクをとおして電気的エネルギーとして増幅され、はるか向こうにおいてあるスピーカーから聞こえてくる。また音の一部はエコー・マシンの中に記憶され、さまざまな時間的ずれをもって再生される。こうして空間的・時間的距離をへだてて自分の作った音にききいる時、それはすでに自分から離れて世界の一部になっている。この演奏音との間で起こるフィード・バックが、人間と機械の相互作用あるいは対話のシステムの基本である。電子装置によって、どこかを指でかるく触れるとはるか向こうで大音響がバクハツするということは、重大な思想的変換なのだ。ここにあるゆとりが、音楽を盲目の手の運動から解放して、耳を未知の世界に開くのである。」
 ここで高橋はやはり演奏中の「聴くこと」のゆとりと喜びについて書いている。ただ、自ら放つ音を電気増幅やエコー・マシンにより異化するだけでは、依然として自閉による自家中毒を起こしやすい。この後、タージ・マハル旅行団の中心人物であった小杉武久が『キャッチ・ウェイヴ』で、電気増幅やエコー・マシンに加え、さらに扇風機の風とヘテロダイン現象により「音の釣り」と言うべき不確定な揺らぎを導入していることに注目しよう。

 白幕に映る外の景色と自在に通う外のざわめきに身をさらし、見詰め聴き入ることで、彼らは上演/演奏を「盲目の手の運動」から開放し、もっとゆったりと息づかせることができるようになる。外/他なるものと間合いを計りながら、それらと自らの影/音を敷き重ね、あるいはせめぎあわせることができる。その結果として、上演と演奏、影と音の関係もよりフレキシブルなものとなり得る。
波が寄せては返す様を見ていると、そのリズムは決して一様ではなく、水の推移もまた行きと帰りのそれぞれ一方通行ではない。先を争うように複数の方向から水が押し寄せることもあれば、引く流れと満ちる動きが衝突することもある。水が引き切って砂地が露出する瞬間ですら、波に引きずられて転がる砂粒と浸透する水分に引き込まれて吸着される砂粒と、それによる光の反射の差異が複雑な文様を描き出す。汀のごく薄い表層で繰り広げられるミクロな変転。ここで上演は劇やドラマのふりをする必要はないし、演奏もまた曲やあからさまな「即興」を模することはない。上演が音を絵解きし、演奏が影を伴奏することもまた。

 これに対し、夜公演において彼らは、まさに場を仕立てることから始めなければならなかった。空っぽの空間/時間を充填しなければ。上演がフリー・インプロヴィゼーションにありがちな強迫的なせわしなさを分泌し、演奏が影にぴったりと寄り添ってしかるべき距離を取れなかったのは、決して理由の無いことではない。だが、このことだけをもって昼公演は「成功」で、夜公演は「失敗」だなどと決めつけることはできない。昼公演の「成功」を再現しようとすれば必ずや罠にはまるだろう。他方、夜公演の苦闘は必ずや彼らの、そして観客/聴衆の瞳と耳を高め研ぎ澄ます得難い体験/財産となるだろう。
 昼公演の最後に「余分に」付け加えられた部分(「昼公演2」として記述した部分)が、そこまでの昼公演が前提条件としていた場の「豊かさ」を捨て去って、独力での構築を目指したものであり、それゆえ夜公演に向けた試行/挑戦となっていることに、彼らの誇り高い貪欲さ、決して「高度の達成」に満足せず、そこに安住しない志の高さを、私は看て取りたいと思う。

 ここしばらく、Les Trois Poires(津田貴司、tamaru、松本一哉)や大上流一、高岡大祐らがつくりだす〈環境・音響・即興〉の交差する空間/時間を、「パラタクシス」を鍵概念に奥行き/厚みにおいてとらえようとしていたのだが、今回の坂本と津田による『docozo』では、サウンドの次元にとどまらぬ「影」と「音」の交差(そこで〈環境・音響・即興〉に相当するものが十全に作動しているのは明らかだ)が、奥行きや厚みを全く欠いた幕上に縮減され実現していたことは、私にとって大きな驚きだった。新たな視点を切り開いてくれた二人に厚く感謝したい。
docozo4縮小
2018年5月26日(土) 15時:昼公演 20時:夜公演
上池袋anoxia
坂本宰(影)、津田貴司(音)




スポンサーサイト
ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:04:11 | トラックバック(0) | コメント(0)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。