「30歳以上の奴らは誰も信じるな」とチャールトン・ヘストンはタダマスに助言する "Don't trust anyone over 30", Charlton Heston's character, astronaut George Taylor advices "TADA-MASU"
2018-08-21 Tue
聴き手と送り手の言葉が交錯することで、触発され、問い直される音楽の"聴き方"、"聞こえ方"。改めて見直すと、四谷音盤茶会(=タダマス)のフライヤーには、この一文が欠かさず刷り込まれている。アーティスト名、曲名、音源が試聴できるサイトのURLといったリストアップ可能な情報が浮遊しているのではなく、複数の異なる視点から発せられた言葉が交錯する空間。そしてメモリを食い、「既聴」のフラグを立てるのではなく、音楽の"聴き方"、"聞こえ方"を触発し、問い直す音の力。それは果たしてどこから来るのだろうか。
8月18日(土)にFtarri水道橋で行われたイヴェントでサウンド・アーティスト角田俊也が近作『Somashikiba』について語った内容を、参加した津田貴司が教えてくれた。
「『Somashikiba』を録音した時は、5年もかけて車もなく徒歩で彷徨いながら録音する場所を探し歩いた。そのことによってその場所に感覚が開かれていたから、録音したものをピックアップする段階までは、100年前の音が録音できたと思ったし、100年前の音がうまく録音できている箇所を選んだ。しかしCDが完成してから聞き返すと、もうその感覚はなくなった。」
その音を録音することができなかったのではなくて、録音した音をそう聴き取ることができなくなっていたと。「場の力」ということを思わずにはいられないが、ここで「場の力」とは、イコールその場の環境、とりわけ視覚や聴覚ではとらえ得ない臭いや風の肌触りといった、その場に置かれた身体を四方から包み込み、五感を震わせるものというわけでは必ずしもないだろう。それでは、その場に行かなければ感じ取れない、メディアには記録し得ないものがある‥‥というだけのことになってしまう。
「タダマス」のような、あるいは並べて語ることが許されるなら『松籟夜話』のような、「集合的聴取」の場もまた、別の形で「場の力」を持ち得るのではないか。たとえその場で会話がなされなくても、聴き手の中に浮かんだ言葉と送り手の言葉が交錯し、触発することがある。そして言葉によらずとも、送り手による音源の選択・配列によって、一筋の耳の視線が浮かび上がり、ある聴取の構えがまざまざと像を結ぶことがある。送り手の意図に沿ってでは必ずしもなく、むしろその意図を超えて、時には裏切りながら、聴くことの地平がみるみる広がっていくことがある。
ここで「送り手」がイコール「作者」ではないばかりか、その代弁者も演じてはいないことは強調しておくべきだろう。インターネット・メディアの普及により、「生産者」と「消費者」の間を媒介する音楽メディアやいわゆる「ヒョーロンカ」の存在意義は消失した。インタヴューやSNSでの自主発信を通じて、「生産者」の声が、そんな「中間業者」をスキップして、ダイレクトに「消費者」に届けられる。ユートピアの達成? では訊こう。作者の声は唯一の「正解」なのか。批評とは、そうしてあらかじめ作者により確定された「正解」をなぞり、代弁し、図解することなのか。もちろん、そうではない。
「タダマス」のホスト役の二人、益子博之と多田雅範は作者の意図を代弁しない。ゲストとして招かれたミュージシャンもまた。積み上げられた新譜群から、二人は高い強度を備えた作品を選定し、周到に配列する。ただ、それは自説を検証するためではない。あるトラックが別のトラックを召喚し、夢のように移り変わり、ポキッと音を立てて切断され覚醒を促す。形態の相違を超えて類似と照応の線が走り、一見似た者同士の並列がくっきりとした対比を描き出す。新譜をレヴューするということは、決して「流行」をわかりやすく言葉にすることではないし、時代の寵児に対する全面的な帰依を明らかにすることでもない。自らの耳を不意討ちした「名づけ得ぬもの」を相手取り、自らの聴き方、聴く姿勢や耳の視線の移ろいを他者の眼に触れさせることなのだ。
「タダマス」は毎回、そうした批評の場、集合的聴取の場を生きている。つまりは「ライヴ」ということだ。
先に触れた角田俊也の言明に関して、集合的聴取がかたちづくる「場の力」に言及した後、私は津田宛のメールに次のように書き記した。
「一見飛躍しますが、フリー・インプロヴィゼーションの演奏時に、演奏者はその場の空間にすでにある音、自らが発した音、さらには発するであろう音等を、アナクロニックな混濁状態で聴いていると思いますが、そうした感覚を支えている要素のひとつは、聴衆が、すなわち自分以外の他者が、それを聴いていることではないかと考えています。」
ここではフリー・インプロヴィゼーションを例に挙げているが、これはもちろん音楽ジャンルとして様式化したそれを指すものではない。反対に「即興的瞬間」を含む演奏なら、すべてに当てはまると言えよう。

以下、めでたく30回目を迎えた「タダマス」の、今回の案内文を転載する(※)。
※ http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 30
2018年8月26日(日) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
四谷三丁目 綜合藝術茶房 喫茶茶会記(新宿区大京町2-4 1F)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:山田あずさ(鍵盤打楽器奏者/作曲家)
参加費:¥1,300 (1ドリンク付き)
今回は、2018年第2 四半期(4~6月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜アルバムをご紹介します。ゲストは、鍵盤打楽器奏者の山田あずささん、2回目の登場です。ジャズから即興、ポップスまで幅広い領域で活躍される山田さんは、女性ミュージシャンの台頭著しい現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)
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