2018-09-23 Sun
散々書きあぐねての難産レヴューとなった。最初の「アタリ」をとらえ損なうと、その後、耳は空を切り、聴取は出会い損ないを繰り返すことになる。たとえ、ほんのわずかバットにかすっただけでも、「(タイミングが)合っている」と感じられれば、そのうち真芯でとらえることができるのに。それは「読み」や「見立て」が当たっているということではない。何かの到来を想定し、緊張に身を強張らせて待っていては、十中八九「アタリ」を取り逃がしてしまう。一点、一方向に注意を集中せず、身構えることなく、不意に訪れる衝撃に素早く、かつしなやかに、竿の穂先を撓ませ、走らせること。そうした出会いが聴き手の身体を軽く柔らかくし、次の出会いを準備する。「前半が女性ヴォーカル特集、後半が鍵盤奏者複数参加盤特集」とFacebookで益子博之が「タダマス30」の内容の告知をすると、多田雅範がブログでツッコミを入れる。
「特集になるのってどうなのよ、タダマス30、と思ったんだが、2018年の第二四半期に入手した新譜音源からこれはとセレクトしたトラックを並べてみたら、結果、”女性ヴォーカル”と”鍵盤奏者複数参加盤”と括れることに気付いたと言うべきだったのだ、むしろ様相が異なるトラックを括りの振幅幅にあって発見が促されるというような、予習打ち合わせ試聴をしてみて、これは面白い現象だと思った、現代ジャズのリアルを伝えているトラックたちだ、」
「タダマス」での曲の配列には注意を払っている‥‥と、益子は以前語っていた。それは決してテーマ別ではないし、ジャンルの細目別でもなく、まして人脈やスクールの別でもない。ありふれた編成別ではないし、もちろんベストテンを10位から順番に紹介しているのでもない。DJのようにBPMや曲のムード、あるいは起承転結の物語り的な構成によるのでもない、強いて言えば、料理のコースを組むのに似ているかもしれない。基本は口当たりの良い軽めのものから、噛み応えのある重厚なものへ。調理の仕方の違いが類似の素材から異なる持ち味や食感を引き出し、隠し味のハーブやスパイスが、異なる皿の間に橋を架け、連続した推移を浮かび上がらせる。
だから「前半が女性ヴォーカル特集、後半が鍵盤奏者複数参加盤特集」が言わば「プレテクスト」であり、聴くべきはそこではないことはわかっていた。にもかかわらず、「鍵盤奏者複数」と言われて、近くは前々回の「タダマス28」で紹介された2台のピアノの共演にして2人の女性ピアニストの「対決」でもあるEve Risser, Kaja Draksler『To Pianos』(Clean Feed Records)の、遠くはFred Hersch & Benoit Delbecq Double Trio『Fun House』(Songlines Recordings)の記憶が思わず呼び覚まされた。
「e-bowによるのだろうか空間に滲みを拡げる強靭な持続音と、ワニ口クリップ等の素材によるプリペアドを想像させる足元が傾くような低音の揺らぎに、各種内部奏法や筐体各部を鳴らす音響が細かな傷を付けていく。共演/対決が前提としている2台のピアノ、2人のピアニストという輪郭を脱ぎ捨てた、自他未分の曖昧で薄暗い混合領域に向けて、全身の皮膚感覚がそばだてられているのがひしひしと感じられる。カヴァーの絵柄に描かれている2台のピアノから流出するエクトプラズム(?)が混じり合う位相に。グランドピアノの降霊術。」Eve Risser, Kaja Draksler『To Pianos』
「ピアノとプリペアド・ピアノによる足のもつれたリズムの交錯。トリオの交感がつくりあげる本来は閉じた三角形を外へと開き、溢れ出す音の流れ。手前と背後で、右手前と左手奥で緊密に呼応しながら、異なる平面を推移する響き。ものの動きとかげの移ろい。光線の翳りと輪郭のちらつき。ピクニックのバスケットを囲む家族の団欒の後ろで、ふと風にそよぐ樹々の揺らめき。時折ピアノからドビュッシー的なきらめきが香るのは、そうした光に鋭敏だからかもしれない。決して場所を占めすぎることのない、各楽器の冷ややかに抑制された端正なタッチは、空間を埋め尽くすことなく、確かな余白の広がりを指し示す。小鳥の羽ばたきにも似た、粘度の低いさらりとした素早い動きが、磨かれた表面を滑走していく。そぼ降る雨の中、音もなく行き交う人の群れを、四角く切り取る窓のガラスに、弾ける水滴の予測し難い振る舞い(ズームの寄りと引きを繰り返すキャメラの視線による)。」Fred Hersch & Benoit Delbecq Double Trio『Fun House』


素晴らしい達成の甘美な思い出だからだろうか、耳が思わず幸運の再臨/反復を望んで身構える‥‥。しかし、それが落とし穴だった。
この日のハイライトと期待したHenry Threadgill『Doble Up, Plays Double Up Plus』(Pi Recordings)とは、見事に出会い損ねてしまった。
投げ上げたドーナツに、四方八方から螺旋状に巻き付いて、ゆっくりと回転しながら浮遊し続ける息の調べ。巡り続けるゾエトロープの幾つもの輪の重なりが生み出す、伸び縮みする影の息づき。息の震えや巡る呼吸なしにはあり得ないと思われた、彼のアンサンブル生成の魔法が、端からポキポキと折れ砕けてしまうピアノの音色により、いかなる転生を遂げるのだろうか‥‥というこちらの勝手な問題設定が、David Virellesが弾き続けたハーモニウムによって、てきめんにはぐらかされてしまったためかもしれない。
Matt Mitchel, Craig Taborn, Ben Monder, Trevor Dunnと、これでもかとばかりに豪華メンバーをそろえたDan Weiss『Starebaby』でも、「メタル」との評判に高まる重金属質の密度/強度への期待が、はでに空振りすることとなった。これじゃTaborn単独による構築の堅固さにも、Mitchelのソロによる急峻な疾走感にも及ばないのではないか。ヘヴィさも、次にかけられたRafiq Bhatia『Breaking English』により、たちまちのうちに色あせてしまう。それともツェッペリンの稠密さやメタリカの錯綜を求める、私の「メタル」観が古すぎるのか。



会場では肯定的に受け入れられていたRafiq Bhatia『Breaking English』だが、私にはかなりの問題作と感じられた。先に触れたように、その重厚な構築ぶりは見事と言うほかはない。重層的に重なり合う音塊が上空を制圧するように旋回し、音圧の波状攻撃を仕掛けてくる。ゴリッとした硬い角のあるベースをはじめ、たとえサウンドが飽和/充満に至る時であっても、個々の音は積み重なる音響の地層のうちに埋もれてしまうことなく、尖ったエッジを失わない。むしろ、ざらっとした粒子の荒れや粗さを活かした感触と言えるだろうか。ここで私は初期の中平卓馬の「アレ・ブレ・ボケ」写真やスピルバーグ「プライヴェート・ライアン」の脱色されたコマ落とし映像の緊迫した不安を思い浮かべている。


サウンドの造り込みの完成度と壮大なスケールの広がり、ドラマティックな展開力は、ハンス・ジマー、ジェームズ・ホーナーといった映画音楽作曲の手練れにも決して引けを取るまい。‥‥と、これだけベタ誉めしておいて、何を問題視しているのかと言えば、まさにその映画のサウンドトラック的な「完成度」にほかならない。ポスト・クラシカル人脈からの参加を仰ぎ、ポスト・プロダクションを尽して仕上げられたであろう作品は、「これしかない」という揺るぎない決定稿に至っている。詰め込まれた圧倒的な情報量に比して、極端に圧縮され切り詰められた短さもまた、そのことを証し立てている。当初の演奏段階ではふんだんに盛り込まれていたであろう即興的な展開、ああも行ける、こうも行けるという無限のヴァリエーション感覚は、あくまでも素材の1ピースへと貶められている。たとえ綿密なフライト・プランを描いたとしても、飛び立ってしまえば、後は常に眼に見えぬ気流や気団と繊細に対話し続けなければならない「飛行」の感覚が、持続の震えを、この演奏から感じ取ることはできない。と同時に、偶然や失敗を受け入れて、それをその瞬間以前には思いつきもしなかった新たな局面へのジャンピング・ボードとするしなやかな冒険心もまた。かつてそうした気概に溢れていたプログレッシヴ・ロックの残党が、CMやヴィデオのための音楽を作り始めた際と同じく、どこか饐えたような頽廃の匂いがしないだろうか。Rafiq Bhatia『Breakig English』は、いわばエッジを研ぎ澄まし、角を尖らせたアディエマスではないのか。
ジャズが果敢に自らを更新することにより生き延び、「ジャズとは似ても似つかない新たな『ジャズ』」へと変貌を遂げていくとしたら、そこで途切れなく持続している「ジャズなるもの」、あるいは「ジャズの創造性」とは、ジャズ固有のフレージングやスタイルでも、サクソフォンのヴォイスでも、ブラックネスでもなく、こうしたリアルタイムの飛行感覚ではないか‥‥、私はそう考えている(だから「ジャズの新たな章」とは、いつまでたっても自己を更新できない旧来のジャズの、延命のためにだらだらと書き継がれ続ける「続編」でしかないとも)。とすれば、本作品はジャズの「未来」にとって危険な「寄り道」となるように思う。
本作品が当日の会場で極めて好意的に受け止められた背景には、いささか不完全燃焼気味だった後半の停滞を一掃するカタルシスを与えてくれたことがあるかもしれない。だが、このところの「タダマス」では最後の10枚目は後半の総決算ではなくBon Iverやthe Hiatusが紹介されるなど、番外編的な役回りをあてがわれていたことを思い出そう。本作品は、むしろそれまでに披露された9枚を相対化するために、ここに置かれたのではないか。
そう考えると、さらりと聴き流せるほどに軽みを帯びた前半「女性ヴォーカル特集」の充実度が、まざまざと甦ってくる。Sun Speak with Sara Serpa『Sun Speak with Sara Serpa』で、ドラムの変拍子パターンの上で早く遅く巡りながらほどけていくスキャット・リフの足元が心もとない浮遊感。Diaspora『Diaspora』における声の肌と肌の、産毛が触れるか触れないかの繊細極まりない(かつエロティックな)すりあわせ感覚(Maggie Nicolsによる女性ばかりのヴォイス・ワークショップ的取り組みMechantes!を思わせる)。



Jozef DumoulinとのデュオLily Joelで夢幻的なヴォイスを聴かせたLynn Cassiersは『Imaginary Band』で、はらはらと薄く剥がれ落ちてしまう雲母で、壊れやすいモザイク空間をつくりあげた。ばらばらに切り離されたコンパートメントの中で、ピアノも、ドラムも、ユーフォニウムも、不意に浮かび上がっては沈み込み、駆動電圧を不安定化したように瞬間瞬間に速度を変化させる。ヴォイスもまた、1曲の中で多重人格的に録り方を変えている。こうしたモザイク構造や微細な速度変化にまるで気づくことなく、のっぺりと平面上を這い続けるテナー・サックス。「ここでは滞留と解放というか、速度が溜まっているんだけれども、サックスはそれを意識せず外部に立っている」とは当日の多田の発言。前半の最後に、その前のMaria Grand『Magdalena』からのMary Halvorsonつながりで置かれたTumbscrewによるカヴァー曲集『Theirs』は、やはりどこが宙に浮いている。リズムを速度を不均衡に揺らすベース&ドラムと、テープ・ゴーストを思わせる雲をつかむようなエフェクトを駆使しながら、リズムの刻み目からスリップし続けるギターが相俟って、着いた指先が果てしなくツルツルと滑り続ける「Stablemates」。一方、ドリス・デイも唄った「Scarlet Ribbons」では、廃屋に置き去られたベビーベッドの上の壊れたメリーが突然に回り始める。水中でふやけたセロファンの揺らめきを思わせるセルロイド的なビニョビニョ感を伴いながら(下敷きを撓ませた時の影が歪むあの感じ)。チープでノスタルジック。イノセントにしてホラー。



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