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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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『阿部薫の冬』と『阿部薫と冬』の間  Between "Kaoru Abe's Winter" and "Kaoru Abe and Winter"

 前回記事中で、9月24日に上池袋anoxiaで行われたイヴェント名『阿部薫の冬』を『阿部薫と冬』と誤記していた部分があった。この日のゲストであり、企画発案者であるtamaruのツィートを見て気づき、すぐさま訂正させていただいたのだが、文章自体はタイトル通り『阿部薫と冬』に関する覚書であり、内容自体は修正する必要がない。

 だが、それにしても何で書き間違えたのだろうか。案内文を書き写すために、anoxiaのページもチェックしたというのに。
 今回の気づきのきっかけとなったtamaruのツィートを読み返すうちに、だんだんとその時の心もようが浮かんできた。『阿部薫の冬』と言われて、当然、阿部にフォーカスし、それをさらに「冬」を通じて深めていくのかと思いきや、ほぼ冒頭から、阿部薫は謂わばプレテクストに過ぎないと言われて面食らってしまったのだった。このシリーズは初めてだったから、毎回そういうものなのかと思っていたら、たまたま隣席に座っていた知り合いが、問題と阿部との関わりを問い、そのうちに「この中に阿部薫の愛好者はいないのか」という話になって、誰も手を挙げないものだから、それでは信奉者ではないものの私が……と名乗り出たのだった。
 そんなこんなで、結局は阿部薫とその周辺(例えば間章)を巡る話が多くなり、その辺に不案内な方には敷居が高かったろうと思う。前回記事の冒頭部分は、そうしたことを踏まえて書かれている。
 そうしたやりとりの中で、幾つか頭をもたげる考えがあり、それらはむしろ『阿部薫の冬』ではなく、『阿部薫と冬』という軸線を巡るものだった。それゆえ、実際にテクストに当たるなどして構成と体裁を整えた原稿は、当然のことながら『阿部薫と冬』に関するものとなった。すなわち私はイヴェントの最中に、『阿部薫の冬』のオルタナティヴとしての『阿部薫と冬』を夢想していたことになる。

阿部薫の冬と阿部薫と冬の間1


 前述のツィートでtamaruは次のように書いている。

「阿部薫と冬」でも構わない気もするが、「阿部薫の冬」。客観意識で阿部薫と冬を併置したく気持ちを今一度こらえ、外側の冬を阿部薫の視線のうちに押し込める。阿部薫は背景であり、内部でもある。

 言いたいことはわかる。阿部薫の視線により切り取られた、削り込まれた、彫り刻まれた、侵食された、結晶化された……冬を見せてくれるとすれば、阿部薫を背景として、しんしんと降り積もる、きっぱりと張り詰める、ぴりぴりと肌を刺す……冬を感じさせてくれるとすれば、何と魅惑的な催し/体験だろう。



 だが、実際のイヴェントにおいて、冬を押し込めるべき「阿部薫」の空間のヴォリュームや輪郭は一向に明らかにならなかった。冬を背景として包み込み、照らし出し、響かせるべき阿部薫の広がりや深さも、また示されることはなかった。

 阿部薫「の」冬にこだわるならば、そこを貫く一撃が、また、それを可能とする計算と仕掛けが必要だったはずだ。さらには阿部薫をどろどろに溶かし、あるいは粉々に粉砕して、背景へと変容なさしめる莫大な熱量が必要だったのではないか。前回記事の繰り返しとなるが、中谷宇吉郎や井上靖の引用だけではとても足りなかった。
tamaru自身が阿部薫について、冬について、とめどなくしゃべり続け、遥か彼方に向けて疾走し、あるいはどんどんと深みへと沈潜していくのを、聴衆が呆気に取られて見詰めるうち、田口賢治や加藤裕士が懸命に命綱を引いて、何とか現世へとサルヴェージする……というような針を振り切る強度が必要だったのではないか。もちろんそんなことが叶わないのはわかっているのだが。

阿部薫の冬と阿部薫と冬の間2


 私には阿部を絶対化したり、巨大化したりすることはできない。同様に極小化したり、希薄化したりすることもできない。信奉することもできなければ、「等身大」化することもできない。私は「世間に理解されずに夭折した天才」という陳腐なレッテルを貼り付けて阿部を神話化し、実際には「世に認められないワタシ」をそこに投影して、束の間うっぷんを晴らそうとする輩を、その「消費者=お客様」根性を激しく嫌悪・軽蔑していた。音も聴かずに、「前衛」だからとか、先鋭的な政治性によってとか、音楽が「アート」としてアート・スペースに立ち入るためにうずたかく積み上げるもっともらしい「ごたく」を「実験性」として評価するとか、そうした浅薄かつ低劣極まりないやり方に飽き飽きしていた。

 これまで阿部薫に関し、何作品かのディスク・レヴューこそ書いてきたものの、初めて記すディスク・レヴューではない長めの文章が、私としては少々風変わりな体裁を取ることとなったのには、そうした背景もあることだろう。
 いずれにしても、前回記事で記したような思考の契機を与えてくれたtamaruには、大いに感謝している。


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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 00:46:17 | トラックバック(0) | コメント(0)

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