「タダマス」のための32年次報告書 ―― 「タダマス32」への案内及び「タダマス31」の振り返り The Thirty-second Annual Report ( Throbbing Gristle ) for "TADA-MASU" ―― Invitation for "TADA=MASU 32" and Retrospective for "TADA-MASU 31"
2019-01-06 Sun
益子博之と多田雅範によるNYダウンタウン・シーンを中心とした同時代音楽の定点観測「四谷音盤茶会(通称「タダマス」)」は、今月末、1月26日(土)に32回目を迎える。1月に開催される回は、通常の四半期分への注目だけでなく、前年をトータルに振り返り、前年のベスト10が公表されるのが恒例となっている。特に今回は、超大作にして、超注目作であり、2018年ベストとの呼び声も高いTyshawn Sorey『Pillars』がラインナップされることが予想され、いよいよ期待が高まるところだ。「other musicに捧げる」を標榜するアルゼンチンの音楽サイトEl Intrusoが毎年実施しているミュージシャン・批評家投票による年間ベスト選出は、その見識の高さ、そして「タダマス」とのシンクロ率の高さで知られているが、主に合衆国やヨーロッパのミュージシャン・批評家で構成されている投票者に、今回から新たに益子が加わる(アジアからは初めての選出であるという)。そのベスト選出結果とコメントにいち早く触れられる機会ともなる。なお、今回の開催は日曜日ではなく、土曜日なのでご注意を。
新年初めてのゲストは、ベース奏者/作曲家の蛯子健太郎が「タダマス15」に続き二度目の登場を果たす。前回の登場時に、彼の「ミュージシャンシップでもプレイヤーシップでもない何か」を感じさせるコメントには深く打たれた。その時の様子については、拙レヴュー(※)を参照していだきたい。その後、彼のグループ「ライブラリ」のライヴに何度も足を運ぶことになるのも、ここでの出会いがきっかけだった。あらかじめ譜面に書き込まれた作曲や作品としての歌詞があるにもかかわらず、しかも「どんでん返し」を図るようなあざとい構成・演出など一切なく、音楽だけを目指して脇目も振らずひたすら誠実に、むしろ禁欲的なほどに淡々と演奏を進めながら、にもかかわらず、すでにある像のなぞり、完成されたモデルの再現ではなく、各メンバーが持ち寄った素材により、眼の前で料理がつくられていく新鮮な感動は比類のないものだった。現在の「ライブラリ」の活動休止が何とも残念である。しかるべき再始動を待つことにしたい。
※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-324.html
以下、「タダマス」情報ページから転載する。
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 32
2019年1月26日(土) open 18:30/start 19:00/end 22:00(予定)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:蛯子健太郎(ベース奏者/作曲家)
参加費:¥1,500 (1ドリンク付き)
今回は、2018年第4 四半期(10~12月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜CDと、2018年の年間ベスト10をご紹介します。
ゲストには、2度目の登場となるベース奏者/作曲家の蛯子健太郎さんをお迎えすることになりました。ストレート・アヘッドなジャズから電子音響や詩の朗読を含む作曲まで幅広い表現で活躍される蛯子さんは、現在のニューヨークを中心としたシーンの動向をどのように聴くのでしょう。お楽しみに。

女性ゲストへの注目度の高さ故か盛況を極めた前回「タダマス31」は、私にとって極めて問題の多い回となった。もちろんそれは私個人の受け止め方に過ぎないが、そのことを自分なりに咀嚼するのに随分と時間がかかってしまった。
そのの「問題」は結局のところ「作曲と即興」を巡る議論に行き当たるのだが、そんなことを一から掘り返していてはいくら時間があっても足りない(何とかコンパクトに取り扱えないかと試行錯誤したが、結局挫折し断念した)。結論を先取りしてしまえば、私は益子や多田と同様に、「作曲と即興」という枠組み、作曲/即興という二分法自体がもはや失効していると考えており、「作曲の外部/余白としての即興」というように、作曲を基準として即興をとらえるのではなく、即興という行為自体をその過程/軌跡に根差しつつ、直接に思考したいと思っている。
ここで断っておかねばならないのは、作曲/即興という二分法の失効が、直ちに即興演奏の自立/自律を保証したり、即興演奏の新たな地平(新章?)を開いたりなどしないことだ。世の中というものは、それほどオメデタクは出来ていない。しかし、世間にはそう考える(考えたい)人たちが少なからずいて、妙に浮かれ騒いでいたりするのだが、そんなものは冷ややかに無視しておけばよろしい。
自分にとって、「即興/音響/環境」や「即興的瞬間」といった用語、あるいはフリー・インプロヴィゼーションとフィールドレコーディングをひとつながりのものとして聴くという視点は、「即興という行為自体をその過程/軌跡に根差しつつ、直接に思考する」ための構えであり、当ブログに執筆してきたライヴ・レヴューにおいては、演奏の過程/軌跡の持続と各瞬間を聴診しつつ、この構えに基づいて様々な角度から分析・記述を進めてきたところである。
津田・歸山・原田と続けてきたリスニング・イヴェント『松籟夜話』(現在「作業中」)もまた、そうした構えを共有しており、特に私の場合はこの意味合いが大きい。『松籟夜話』で聴く音源は、すべて録音されたものであり、なおかつジャンルで括れば、フリー・インプロヴィゼーション以上に、民族(民俗)音楽やフィールドレコーディングの比率が高いが、それゆえに聴取に対して現れる持続の各瞬間において、音や響きの衝突/交錯/変容を、演奏者の意図や元となる作曲とその解釈に還元することなく、力動的に触知することができる。そこにおいては、演奏/録音された「場」の作用、歴史や文化の流れ、地形や気候、生活様式や空間特性等が、時としてあからさまに前景化してくるが、無論のこと、そこで聴取できるものをそれらに還元してしまえるわけではないし、また、すべきでもない。
前置きが長くなったが、10月28日に開催された前回「タダマス31」の振り返りを以下に掲載する。前述の自分なりの「咀嚼」の到達点である「1」と、そこから派生した、むしろ先に触れた「浮かれ騒ぎ」の内実の戯画(笑劇?)的なスケッチとしての「2」の二幕から構成されている。それではどうぞ、お読みください。
1.「作曲/即興」の二分法の失効 「タダマス31」を振り返る
——いわゆるインプロの面白さはどのように考えていらっしゃいますか。
多田 そもそもインプロヴィゼーション/コンポジションっていう二分法が有効かどうかが疑わしいよね。
益子 全く有効じゃない。
多田 そういう二分法はもう無いんだよ。
これは別冊ele-kingのために益子博之と多田雅範が行った対談「タダマス番外編」の誌面に掲載されなかった部分からの抜粋である。この対談を企画した細田成嗣が自身の主催した「即興的最前線」なるイベントの配布資料に「インプロの消滅、あるいはフィードバック現象としての即興」と題して掲載している。掲載された部分は多田のブログ(*1)に再録されており、そこで読むことができる。
*1 http://www.enpitu.ne.jp/usr/bin/day?id=7590&pg=20181126
これに対し、相方の益子がFacebookでこうコメントを寄せている。「別冊ele-king掲載「タダマス番外編」の番外編。こういう話を載せて欲しかったのだが...。」
それは無理な注文というもので、本来生成的な厚みを有する事態を、人脈図とディスク・ガイドに薄っぺらく解消することしか考えていない編集企画としては、ミュージシャン名にも、作品名にも、あるいはサブ・ジャンルやスクールにも紐づかない抽象的な見解は、およそ価値のないものと映るに決まっている。そして、そこで不要とされた「廃棄物」が、今度は音響の記録やそれを巡る歴史や言説のアーカイヴから全く切り離されたところで、各自が勝手な思い込みやファンタジーを「原理論」としていいように投影する、別のマーケットに出品され、「消費」されるのだ。ここでは、シーンの動向や音響の記録に対する個別具体的な分析と、「即興」を巡る原理的な思考を切り離し、全く別物として流通・消費させることが、市場のメカニズムとして機能している。
いや、そんなつまらない話がしたいのではなかった。
冒頭の益子と多田の対談を読んで、10月28日開催の「タダマス31」へのもやもやとした疑念が一気に晴れた思いがしたということが言いたかったのだ。というのも、「タダマス31」終了時点では、これまで体験した29回の「タダマス」(よんどころない事情で2回欠席しているため)の中で、ぶっちぎりで最低最悪の回だと感じていたからだ。
これまでにも例えば「タダマス16」のように、当日プレイされた10枚中、私にとって採りあげるべき作品が3枚しかなかったこともあった(*2)。だが、今回は何と1枚もなかった。益子が以前に述べていたように、もちろん見解が一致すればよいと言うものではない。しかし、それにしても、なぜ、この選曲で、この配列で、このコメントなのかについては、いったん腑に落ちた上で、しかし、それとはあえて異なる自分ならではの視点を設定する……という、いつもの「了解」の作業が今回は果たせず、頭上に「?」印をおぼろに浮かべたまま、途方に暮れることとなった。
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-336.html
今回は現在注目を集める有名ミュージシャンをゲストに招いたため、彼女目当ての参加者も多く、進行役の益子が途中何度も「今日は彼女のトーク・ショーではないので…」と客席をなだめなければならなかった。そうしたざわつきにいらいらして、音に耳が届かなかったのではないか……とも考えたが、やはりそれだけではないように思われた。次回に超注目作Tyshawn Sorey『Pillars』が控えているために、今回はそれとは違う論点を立てようとして、議論が分散してしまったのだろうか……とも思い悩み、そのことに自分なりの見解を出せなくてはレヴューを記すことはできないと考えた。
そこで話は冒頭部分に戻ることとなる。「タダマス31」よりも随分前に行われた対談で、益子と多田の二人は、揃って「作曲/即興」の二分法の失効について語っている。にもかかわらず、「タダマス31」でゲストに差し向けられる質問のカギとなり、それだけでなく折りに触れて言及され、全体を通しての主要な軸線となっていたのは、紛れもなく、この「作曲/即興」の二分法だった。そこに齟齬が生じるのは当然のことと言えよう。
振り返れば「タダマス31」の告知記事で、益子はこの回の趣向を次のように記していた。
「ゲストには、NY在住の挾間美帆さんをお迎えすることになりました。作曲家・編曲家、そして指揮者として、多彩な分野で世界を舞台に活躍する挾間さんは、『即興的瞬間』をどのように捉えているのでしょうか。」
「即興的瞬間」などという、読者にとって馴染みの薄い語をあえて用いる意図はいったい何なのだろうと、自分のブログに「タダマス31」の告知記事を書き込みながら、いぶかしく思ったことがよみがえった。
おそらく、「タダマス」が定点観測を続けているNYダウンタウン・シーン(それは決してエリアや人脈、ジャンルを限定するものではなく、彼らが注目するコンテンポラリー・ミュージックのあり方を象徴するものとしてあるのだが)で活躍する、しかも演奏者としてよりも作曲家として活動している挟間美帆をゲストに迎えることにより、「作曲と即興」の二分法の「失効」を現場の感覚で裏付けたいとの狙いがあったのではないか。そう私は想像する。
だが当日、その目論みは空振りを繰り返すことになる。これは用語法の問題もあったのだろうが、挟間にとって即興演奏は作曲作品の演奏とはまったく別物であり、(録音を)聴くよりはライヴを体験するものであると言う。また、彼女自身の作曲作品の演奏の中で行われる即興演奏については、メンバーを厳選し、演奏特性や作品解釈の仕方が作品の作曲意図に適合するミュージシャンを選ぶと答えている。「彼/彼女がこの部分をどう演奏してくれるか楽しみだ」という調子だ。こうしたことなら、クラシックのオーケストラでも、作品により各管楽器セクションのトップを交替させるといった形で、よく行われている。すなわち、ここで即興演奏とは、作品解釈のプレゼンテーションに過ぎず、楽譜の余白を魅力的に埋めてくれるものでしかない。
一般に「ジャズ」由来の作曲作品は、即興演奏を当然の、いや必然的な要素と見なす傾向がある。これは「クラシック」由来のゲンダイオンガク系作曲作品が、即興演奏を用いることを「不確定性の導入」手法の一つとして、つまりはゼンエイ的な「実験」として有り難がったのとは異なり、伝統あるいは慣習、ないしはマーケティング上の必要性/必然性としてとらえることができよう。すなわち作曲と即興が演奏の中で同居することは、昔からずっと行われ続けてきた当たり前のこと、それがなくては「ジャズ」ではなくなってしまうことであって、それがなぜなのか、その区分自体がどうなのかといったことは意識されないし、いまさら問題にしてもしょうがないことなのだ。
だから、あえてこのテーマを挟間にぶつけるのであれば、ケンカを売る覚悟で「なんで作曲家なのに、作品に即興部分を入れるんですか」、「即興演奏が自由でいいのだとしたら、何で作編曲なんてするんですか」と、むしろ「作曲/即興」二分法原理主義者として、ツッコミを執拗に繰り返すべきだった。そこで二分法の失効を明らかにした上で、二つに分けられないとすれば、それはどういう状態としてとらえられるのか。不純物を取り除けないということなのか、効果的な配合があるということなのか、それとも生成の過程で特異点が生じるといった何か特別な事態なのか……と議論を進めることもできたかもしれない(たぶんそんなことはあり得なかったろう。その前に彼女は腹を立てて退席してしまうだろうから)。そこに至ってはじめて「即興的瞬間」といった語も活きてくることになる。
そのように考えると、ゲストとの互いを慮ったような、何だか煮え切らぬやりとりの繰り返しだけでなく、この日の選曲が共通して「○○っぽい即興演奏の(あるいは作曲作品演奏の)サンプル」であり、その結果としてプログラムが平板化していたのも必然と思えてくる。「タダマス」のプログラムに関し、基本的に聴取に対する演奏の強度で作品や曲を選び、それを配列する際に、そこから浮かび上がってきた「物語」と組み合わせて、適宜取捨選択や入替を行う……と、以前に益子は説明していたが、この日のプログラムは「ゲストの挟間に作曲と即興の関係性について問う」ための「素材」という視点が強過ぎたのではないか。
益子博之×多田雅範四谷音盤茶会(通称:タダマス) Vol.31
2018年10月28日(日) 18:30 start
綜合藝術茶房 喫茶茶会記(四谷三丁目)
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:挾間美帆(作曲家/編曲家)
参加費:\1,500 (1ドリンク付き)
今回は、2018年第3 四半期(7~9月)に入手したニューヨーク ダウンタウン~ブルックリンのジャズを中心とした新譜アルバムをご紹介します。 ゲストには、NY在住の挾間美帆さんをお迎えすることになりました。作曲家・編曲家、そして指揮者として、多彩な分野で世界を舞台に活躍する挾間さんは、「即興的瞬間」をどのように捉えているのでしょうか。お楽しみに。(益子博之)
2.「聴かないための音楽」としての即興演奏
「作曲/即興」の二分法の失効という当たり前の状況認識が理解されないのは、「即興」なるものが、依然として、通常ではあり得ない特別な、それだけで価値のある存在として、排除と崇拝の対象となっているからにほかならない。すなわち「即興」は誰にでもひと目でそれとわかる有徴性を帯びており、場違いなマイナーなものとして抑圧/排除されるからこそ、ゼンエイ的でジッケン的でチ的でゲイジュツ的なものとして高値で取引されるのだ。聖別の原理。
冒頭に掲げた「タダマス」対談で、益子が「記譜された音楽でも即興性がゼロの音楽って存在し得ないですからね。機械がやるんじゃない限りは。音量が少し変わるとか、音の長さが少し変わるとか、毎回違うわけですよね。だから人間が演奏する限りは即興の余地がない演奏にはなり得ない」と指摘しているように、常にそこに存在しているにもかかわらず、なぜ「即興」が依然として特別扱いされ続けるのかと言えば、もっともらしい顔をして耳を傾けている聴き手の多くが、実は何も聴いていないからに過ぎない。
それゆえ、譜面が無かったり、わかりやすいメロディやリズムが出てこなかったり、携えた楽器を通常の仕方で演奏しなかったり、本来は楽器ではないものを演奏したり、携えた楽器はそっちのけで何か別のことを始めたりするのが、「即興」のわかりやすい目印で、それをもって先の聴衆たちは「これは即興だ」と理解し、安心して聴くことをやめてしまう。逆に言えば「これは即興演奏ですよ(だから聴かなくていいですよ)」ということを、いかに演奏開始早々、いやステージに登場次第、いや告知の時点から、わかりやすくあからさまに伝えるかということが、「即興」のお約束であり、最大の重要事なのだ。
これさえ忘れなければ、聴衆は何も聴かずとも「自由」や「可能性」について声高に語り合うことができ、あるいは「やっぱりさ、即興演奏って、うーん、どうなのかな……」と否定的に述べることも出来る。しかも、その場で共通の体験をしたことを暗黙のうちに相互に認め合いながら、ゼンエイ的でジッケン的でチ的でゲイジュツ的なワタシとアナタに共に敬意を払いつつ。
文学や美術のように現物(の複製)を前にして理解が問われることもなく(だって演奏の痕跡は消え失せてしまって記録も無いから。即興演奏を録音しようなんて即興に対する冒涜にほかならない……とみんな口を揃えて言う。果たしてそうだろうか*)、映画や演劇のように物語や主題の理解を確かめられることもない。何て安全極まりない「みんなが特別なワタシになれる時間」であることか。
*補足
前述の試行錯誤の中でジョン・ケージ関連の書物を読み返したりもしたのだが、そこに次の発言を発見した時は、びっくりすると同時に、大層うれしかったことを記しておこう。
ジム・オルーク「即興音楽のコンサートなんて行きたくない。(中略)それよりレコードを買うほうがいい。つまり、コンサートでは、この種の音楽を長年考え、試行錯誤してきたひとたちが演奏するのを聴くことになるよね。彼らの演奏がもたらす情報はとても濃密だから、むちゃくちゃ頭がよくないかぎり、その場で起きている思考の流れをすべて把握することなど無理だろうからね。」
【デヴィッド・グラブス『レコードは風景をだいなしにする』(フィルムアート社)p.206】

スポンサーサイト