「濃密さ」と「親密さ」- 星形の庭@下北沢leteライヴ・レヴュー "Dense" and "Closeness" - Live Review for "The Pentagonal Garden" at lete SHIMOKITAZAWA
2019-05-19 Sun
5月14日(火)に下北沢leteで「星形の庭(津田貴司+林香織)」がライヴを行った。津田の言う通り場所との相性のよさゆえなのか(もちろんそれだけではあるまい)、特筆すべき格別の演奏となったので、はなはだ簡単ではあるが、ここにレポートしておきたい。白い塗りが剥げた木の床と壁。そこに掛かる空っぽの額縁。やや高めの天井。照明から垂れ下がる蔓枝。なぜかここでも空っぽの額縁が宙に浮いている。アンティークを後から取り付けたのだろう、サイズの合わない観音開き閂付きの手洗いの扉。窓にも同じくアンティークと思われる白塗りのアーリー・アメリカン風の扉がはまり、店の外、すぐ眼と鼻の先に広がる、下北沢は代沢三叉路付近の雑多な喧噪を遠ざけている。聴衆用に並べられた椅子の向かいに演奏者用の丸椅子が二つ置かれて段差のないステージとなり、その背後の壁には西脇一弘(sakana)の描いた絵が額装されずに画鋲でとめられている。彼は人物をよく描くが、これには珍しく風景が描かれており、その実在の風景というよりも、臨死体験で今際に垣間見るあの世の光景と思しき、静まり返った物音ひとつしない世界で、音を反射せずに奥へと吸い込むように、観る者の視線もまた、奥行きへと誘いつつ限りなく呑み込んで止むことがない。
ずっと鳴っていた甘やかなロックンロールが止んで、「星形の庭」の演奏が始まる。耳がそばだてられ、幾分重心を下げつつ、手指を前へと伸ばす。鍵盤を押さえずに開閉されるアコーディオンの蛇腹が立てる、パチパチと薪が爆ぜるような音。初めて彼女の演奏を聴いた時の驚きがふっとフラッシュバックする。「星形の庭」の初ライヴで、その時はまだ、このパチパチ音は付随的なノイズかもしれないと疑いつつ、それでも耳は否応なく惹き付けられていた。それ以来、しばらくの間、彼女の演奏に耳を傾けるたびに、この音を待ち焦がれていたのだが、CDの録音〜リリースを経た後ぐらいからだろうか、この音が聴かれなくなり、どこか寂しく感じていたのだった。
パチパチとした粒立ちに耳の視線が吸い寄せられ、そこに外からの子どもの声が淡く重なり、木の椅子の軋みが加わって、ギター弦を弾く弓のスースーと鳴る音を浮かび上がらせる。倍音のさざなみがたちのぼり、空間のあちこちに余白を際立たせるために置かれていた音と音の間の空っぽな広がりを、次第に眼には見えない何かが満たしていく。蛇腹の軋みが続いている。それでも中空にまたたきだけが浮かぶのではなく、床を踏みしめる脚が見えてきたような気がする。右手の指は相変わらず鍵盤を押さえていないが、左手指がボタンにかかっているのかもしれない。行き来する弓の下でギター弦が激しく震えている。弾き切って弓を弦から離し、響きをいったん解き放ってから、弦上で弓を弾ませる。
この日、津田はVOXの小さなギター・アンプを用意し、フットペダルとディレイを加えて操作し、次々に切れ目なく「曲」を演奏していったが(この日はCDに収録していない曲ばかりだったという)、二人の演奏とサウンドのスケール感、温度感の設定/コントロールは絶妙極まりなかった。メロディアスなナンバーがそれゆえに浮くこともなく、深く安定した呼吸に支えられ、音の濃淡は緩やかに滑らかに推移し、ゆっくりと巡りながら音の深淵へと身を沈めていく。その感覚は、先に触れた西脇の「風景画」の表面を、眼差しが一点に留まることなく漂泊しつつ奥へと引き込まれていく感じに、あるいは似ているかもしれない。
後半になっても、ゆっくりとたゆたうような緩やかさ、とろりと溶け合う何とも言えない柔らかな豊かさ、滑らかさは変わることがない。響きの密度が高いことは確かだが、それが息苦しい隙間のなさとか、自由度のない密集、不透明な厚ぼったさとは全く無縁に行われている。それゆえギターの弓奏のひと弓のうちに重なり合う多層を手触れるし、そこに的確に挿し込まれていくアコーディオンの刃の具合も看て取れる。冒頭に記した通り、蛇腹の立てる軋みの粒立ちもはっきりと聴き取ることができた。
この「濃密さ」はなにによるものなのだろうか。結局、今に至るも私は答を出せないでいる。ただひとつ言えるのは、この「濃密さ」は「親密さ」と似ているように思われることだ。気の置けない、のびのびとした感覚。外殻や骨組みではなく、内側からの充実が屋根や壁を支え、空間を確保している。通常ステージから客席に向けて放たれる音の整えられ出来上がった感じ、放たれた音の扇状に拡散した感触とは異なり、演奏者同士が肌で感じながら取り交わしている、まだ生まれたての、可塑的な、出来上がっていないがゆえに豊かで瑞々しい音の中へと、こちらが首を伸ばし耳を突っ込んだ感じと言えば伝わるだろうか。
津田が弓を置き、木串の先に刺したゴム球でギター弦を擦り始める。アンプが轟々と唸り、噴き上がる倍音がバリバリと音を立ててぶつかり合う。それでいて響きが見通しの効かない厚い音圧の壁となることはなく、むしろ音を消したスローモーションの映像のように、あるいはティーポットの湯の中でジャンピングする茶葉のように、音の細片が舞い上がり、交錯し、降り注ぐ様をはっきりと眼差すことができる。
アンコールはCD収録曲から。ギターのアルペジオの上で、アコーディオンがフォーク調のメロディを奏でる。録音された版より、ずっとゆっくりした運びだったにもかかわらず、少しも弛緩することも不安定に揺らぐこともなく、荷物をたっぷりと積み込んだ喫水の深い船をゆるゆると押し進めるように、演奏は揺るぎなく進められた。このことはこの日のライヴの格別さは、決して選曲だけによるものではないことを示していよう。

2019年5月14日(火)
下北沢lete
星形の庭:津田貴司electric guitar + 林香織accordion
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身体の論理を体感してみること - 安藤朋子ワークショップ「自分のからだを訊く」参加体験記 To Experience the Logic of the Body Actually - Report on Tomoko Ando's Workshop "Ask Your Body"
2019-05-02 Thu
1.4月4日(木)【1日目】(1)開始前〜準備運動
ワークショップの会場は北千住BUoYの2階カフェの奥のスペース。靴を脱いで上がる床は黒いゴムシート敷き。素足になれるようコンクリートの上に貼ってあるのだろう。気温のせいでしっかり冷たい。こんなこともあろうかと、今冬、家で室内履きにしている「イランのおばあちゃんの手編みくつ下」を持ってきたので、早速履くことにする。他の参加者はみな思い思いの仕方で身体をほぐしている。ふだん、運動らしい運動もせず、そもそも身体を相手にすること自体がほとんどないので、ほぐし方もよくわからない。とりあえず膝の屈伸とかアキレス腱伸ばしをしてみる。
準備運動として全員で「スワイショウ」をする。私は名前も知らなかったが、腰を落として、身体を左右に回転させ、腕を振っていると、確かに身体が温まる。それだけでなく、腕を振り切ったところで鋭く息を吐くことを続けていると、呼吸と身体の動きのリズムが揃い、運動として安定してくるように感じられる。それとともに頭の中が空っぽになってくる。右に左に流れるモノクロームの視界、ふっ、ふっと吐き出す息の音、背中にぴしゃりと当たる手先の感触、ねじれた身体がその反動で逆回りを始め腕が宙に浮く感覚。
腕を振る高さを変えると、背中に当たる位置も変わってくるので、ぜひ試してみてください‥‥との声に応じて試みると、とたんに歯車が噛みあわなくなる。腕を持ち上げるにはこれまでよりも余計に力を入れねばならず、それを保つには身体の回転速度を上げなければならず、呼吸との同期もズレてしまう。これらのことを確かめて元に戻す。振り回すロープの長さで回転速度が決まってくるという話をふと思い出した。ゴチャゴチャした感じが消えて、「空っぽ感」が戻ってくる。
一方で、これで果たしてちゃんと出来ているのか不安にもなってくる。腰は滑らかに安定し水平に回っているように感じられてはいるが、知らず知らず猫背になってはいまいか。膝が少しねじれてしまうのはこれで良いのか。眼が自然と「半眼」になり、正面ではなく、やや下方を映しているが、もっと「きっ」と正面を見定めるべきではないのか。「何が正しいのか」わからないというより、「自分の身体がイメージ通りに動けているのか」がわからないことによる不安。自分を外から「客観的」に見る術のなさ。この不安は、結局、ワークショップの最後までつきまとうことになる。
10分間のスワイショウ(本当は30分ぐらいするとよいのだという)の後、だんだんと腕の振りを小さくし、揺れを身体に収めてください‥‥との声がかかる。その通りにしていくと、それまで軽い意識変容状態 ― 眼が回っていたのとは違う ― にあったことに気づかされる。目蓋が上がり、モノクロームな世界が色づき、空っぽな意識が何だが雑多のもので埋まって、身体の中心を占めていた呼吸が遠ざかる。
続いて足指や足首を入念に動かす。確かにその後与えられた諸課題は、足指や足裏のふだんあまり意識しない筋肉を酷使するものとなった。
(2)5mを歩く
講師の安藤さんの自己紹介から、太田省吾『水の駅』の上演に至る簡単な説明の後、床に貼られたテープの間、距離5mを自分が最も遅いと思う速度で歩く‥‥との課題が与えられる。ただし途中で止まらず、絶えず動き、前へ進み続けること。
4人が指名され、実際にやってみる。「始め」の声がかかっても、誰も動き出さないように見える。外からはわからないが、重心をじりじりと前へ進めているのだろうか。動作をゆっくりと引き延ばすことにより、ふだんは無造作に行っている動きを勢いに任せて流すことができなくなり、いちいち吊り支える必要が生じてくる。歯車が噛みあわなくなり、あちこちで力がせめぎ合って、抵抗が増している様子が看て取れる。先ほどのスワイショウで感じ取ったことが、ここにもう別の形で現れている。
足指の不自然な反り返り、身体各部の運動速度のぎくしゃくした不均衡、震える足先、足裏に力を入れて床を踏みしめ直す動き。「目線はまっすぐ」と声が飛ぶ。前方に運ぶために浮かせた足が我慢しきれず途中で床に着いてしまうから、どうしても歩幅が狭くなる。足が前へ出ないから、踏み出した足が爪先から先に着いてしまうという悪循環。重心が前足に移動していないにもかかわらず、後足を上げようとする力技。どう見ても歩いているようには見えない苦闘の結果、全員が10分以上かけてゴール。
安藤さんの指摘。浮かせた足を前へ運ぶときはすっと動き、両足を着いている時はゆっくりと長い時間をかけるのでは、ゆっくり歩き続けているようには見えない。途中で止まっているだけ。歩行とは絶えず前に進もうとする力がはたらく状態のこと。だから、どこに時間をかけるかを考えなければならない。姿勢としては顎を引き、身体の軸をぶれないようまっすぐに立て、上半身の力は抜く。
2組目は途中で止まらないことを意識した結果か、だいたい3~5分でほぼ全員ゴール。順に全員が挑戦。私自身は5分30秒だった。途中、何度もふらつき、中途で思わず足を着いてしまうこともあった。
再び、安藤さんの説明。この5mを10分から12分かけて歩くことを目指す。沈黙劇『水の駅』を再び上演するためにやるわけではない。『水の駅』の稽古段階で身体をゆっくり動かすことにより、動作の細部、身体の隅々にまで意識が及び、ふだん気づかないことに気づく、という経験をした。それをぜひ自分のワークショップに取り入れてみたいと思った。太田省吾の方法を踏まえた上で、俳優としての私が考えたメソッドで、今回のワークショップを進めていくことにしたい。
(3)切り替え
続いては「切り替え」をテーマに、普通の歩行、早足の歩行、先ほど挑戦した極度に遅い歩行を、掛け声で即座に切り替える課題。さらに時々「ストップ」がかかり、動作を途中で停止させなければならない。
5mの距離を往復しながらの実施なので、先ほどは前からしか見られなかった、他の参加者の極度に遅い歩行の様子を、今度は後ろから観察できるのがありがたい。自分の順番までの待ち時間は椅子に座ってもよいのだが、やはり足先や足裏の動きが気になるので、折り畳んだ毛布をクッション代わりに、床に腰を下ろして低い目線で眺める。「床に寝転ぶ場合があるので、汚れてもいいバスタオル等を持参のこと」と参加説明書にあり、膝掛用のブランケットを持ってきたのは正解だった。見ると、後ろ足の上げ方、前への運び方などかなり違う。前から見ていた時には足裏はほとんど見えなかったが、後ろからだと割とよく見える。後ろ足を上げる時は踵を上げるが、前へ踏み出す時は爪先があまり上がっていないということ。
自分の番が回ってきてやってみるが、早足がなかなかスピードが上がらない。他の参加者もしているように、やはり早足では手を大きく振って弾みをつける必要がある。当然、極度に遅い歩行とは姿勢や身体各部の動線がまったく異なってしまう。これはしょうがないことなのか、それとも改善すべき課題なのか、この時点ではよくわからなかった。
(4)再び5mを歩く
再び全員が極度に遅い歩行に挑戦。いっそのこと行進みたいに膝を高く上げてみてはどうか、その方が踏み出す脚の動線が長く時間が稼げるのではないかと一瞬思ったが、歩行の動作としてあまりにもわざとらしく不自然だし、すぐ転んでしまいそうなのでやめる。片足で立っている時に、いかにもう一方の足をゆっくりと後ろから前へ運ぶかに集中してみた。結果は8分。途中で足を着いたりと「ロスタイム」があるので、実質は7分半か。このままでは、これ以上延ばせそうにない。
他の参加者を見ると、身体の軸がしっかり立っていて揺るぎない。基礎が違うのだから当然だが、これではとても敵わない。それこそ、どこに時間をかけるかを戦略的に考えなくてはいけない。
(5)カウント増やし
続いての課題は、床に仰向けに寝ている状態から立ち上がり直立するまでの一連の動作(及びその逆回転)を、カウントに合わせて淀みなく行い、かつだんだんと時間を引き延ばしていくというもの。この日は10カウントから60カウントまで、10カウント刻みに増やしていったが、むしろ3日目に行ったように、3カウント→5カウント→10カウント→20カウントと変化させた方が説明としてわかりやすいだろう。3カウントなら、1で起き上がり、2で腰を上げ、3で膝と背を伸ばす‥‥ということになる。これを3→5→10→20と増やしていくとどうなるか。
実は自分でも思ったよりスムーズにできて驚いたのだが(終わって着替えていた時に、別の参加者に「すごく正確だった」とほめられた)、歩行のようにバランス感覚や力技で遅くしているわけではない。3カウントの時には一動作で起こしていた上半身を、二段階に分けて起こすというように、動きがどんどん細かく分節化されていくのだ。これは意図してというより、身体の自然な反応である。たとえば腰を下ろして上半身を横たえる際、思わず片肘を着いて身体を支え、さらにもう一方の肘を着いて、ゆっくりと背中を床に着けてから、首を緩めて頭を後ろに倒す‥‥というように。
最初は「切り替え」課題の時と同様、これも言わば「インチキ」なのではないか、速度の変化によって姿勢や動きが変わってしまってはいけないのではないか‥‥とも思ったのだが、よく考えると、これはスワイショウの時に思い出した「振り回すロープの長さで回転速度が決まってくる」という話とまったく同型であることに気がついた。また、分節化により一連の動作を細分化してとらえることは、「動作の細部、身体の隅々まで意識を及ばせ、ふだんは気づかないことに気づく」ことにもつながるだろう。逆に言えば、こうした分節化を、動作を引き延ばすために使うことができるはずだ。
1日目はこれで終了。
2.4月5日(金)【2日目】
(1)準備運動~5mを歩く
スワイショウを連続10分。昨日発見した感覚を確認しながら進める。足のストレッチの後、再び5m歩行に挑戦。
昨日の発見に基づき、自分なりに作戦を立ててみた。まずは上げた後ろ足を前に運び、床に着くまでの間をどう引き延ばすか。「分節化」にヒントを得て、「爪先を上げて下ろす」という動作のブロックを追加してみることにした。昨日の他の参加者の歩行を見ていて、上げた後足を前に運ぶ際に足裏が平行なためすぐに床に着いてしまうのは、明らかにロスであり、とてももったいないと感じていた。また、自分自身のふだんの歩き方を思い返してみても、高齢者の転倒の原因となる「足の引きずり」を生じないよう、爪先を上げることを意識していた。
これにより一連の歩行動作はどう変わるか。まず、前へ運んだ足をすぐに床に着けず、いったん爪先を上げ、踵から床に着けることで「滞空時間」を稼ぐことができる。さらに、踵を着けてから足の甲をしならせ、爪先をゆっくりと下ろす。ここで爪先を下ろす間、体重はまだ後足に残しておき、前足の爪先を下ろしてから、ゆっくりと後足の踵を上げながら前足に重心を移していけば、ここでも二段階の動作への「分節化」により時間を稼ぐことができるはずだ。これなら10分の壁を超えられるのではないだろうか。
スワイショウ、5m歩き、切り替え、カウント増やしという四つの課題での発見を集約して、5m歩きの改善に反映するというのは、ワークショップ・プログラムの理解としても筋が通っているのではないか‥‥と、実は密かに自画自賛していたのだが、結果として落とし穴にはまることになる。
今回のワークショップは、本来、3日間通しのプログラムなのだが、都合で2日目から参加する者たちもいる。まずは彼女たちが5m歩きに挑戦してみることとなった。その様子を見ると、ひとりが爪先をしっかりと上げて歩行している。初めての挑戦で、他の誰かがやるのを見ていたわけでもないのに。内心「やられた」と思った。他の参加者はこのことに気づいただろうか。
続けて昨日からの参加者全員が5m歩きに挑戦する。見ていると爪先をしっかりと上げている者の方が多いくらいだ。昨日はそんなことはなかったのに。最初に示されたあの歩行を見て、みんな一斉に気づいたのだろうか、それともみんなが私と同じようなことについて考えを巡らせていたのだろうか。
おそらく、そのどちらでもあるまい。私が言葉で組み立てた筋道を、ほとんど意識することなく、身体が自らの必要に沿って組み立てているのだろう。そこが言葉で考える者と身体/動きで考える者の違いであり、逆に言えば筋道は異なれど、同じ結論へとたどり着いたりもする「不思議」がある。言葉による分析や目標設定を行わずとも、間違った/余計な動きには身体が「No」を唱え、正しい/無駄なく研ぎ澄まされた動きには体感が「Yes」と応える。
自分自身の挑戦は、先に述べた通り、策に溺れる結果となった。爪先を上げるところまではよかったのだが、そのためにより大きく前へ足を運んでしまうことになった。実はこのこと自体はあらかじめ想定していて、爪先を挙げた地点からやや振り戻す感覚で踵を少し手前に着地させ歩幅を広くしないはずだったのに、実際にはどんどん広がって身体の軸は不安定に揺らぎ、後足の踵は爪先を下ろすのと同時に上がり始め、せっかく獲得した時間を帳消しにしてしまう。昨日より余計にふらついて7分。昨日の2回目より悪くなってしまった。
(2)反省
今回の失敗は単に本番で緊張したとか、慌てたためのものではないだろう。ひとつには「スワイショウ」をした時に不安に感じた通り、「自分の身体がイメージ通りに動けているのか」がわからないことによる。だから、自己修正のフィードバックが効かず、やりっ放しのままズレが累積していってしまうことになる。
もうひとつには、身も蓋もない言い方になるが、こうして言葉を用いた分析に基づいて、あらかじめ設計図を描き、それに従って意図したように身体を動かす(操作する)ということ自体が、そもそも取り組み姿勢としては間違っているのだろう。本来ならば他の参加者たちが言葉による確認・反映を経ずして爪先を上げていたように、「身体で考える」べきところなのだ。
より正確に言えば、身体が通過すべき幾つかのポイントや注意点を意識するのはよいとして、それ以外の部分についてはいちいち意識することなしに、適切に身体を動かせなければなるまい。「身に着いている」とはそういうことだ。最初の自己認識の問題とも関わってくるが、こうと身体のイメージが浮かんだならば、その姿勢やそれに至るまでの身体の動きをオートマティックにできなければならない。普通に歩いたり、走ったり、ジャンプしたりすることは、まさにそうした身体の働きによって可能となっているのだから。そうした日常的な動きと同様、極端に遅い歩行が身体に沁み込み馴染んで、意識せずにオートマティックにできるようにならなければいけない。
(3)outside / inside
続いては壁に図が描かれた紙が貼られる。休憩後に安藤さんから説明がなされた。
今度は演技の課題を行ってみたいと思います。本当は極度に遅い歩行を繰り返しやって、それが身体に馴染んでから次の段階に進むべきなんですが、今回のワークショップの短い時間ではそうばかりも言ってはいられませんので。こうした極度に遅く引き伸ばされた時間の中では、セリフがないこともあって、人だけでなくモノとの関係が重要になってきます。自分の身体の外にあるモノと自分の身体がどのような関係をつくるかということ、それを皆さんといっしょに行ってみたいと思います。
壁に張り出した紙をご覧ください。ここにoutsideとあるのは、外のことに対して、実際にあるモノとか、まわりの様子とかに意識が向いている状態を指します。一方、insideとは意識が外部ではなく内部に向かっている状態です。思い出に浸っているとか、何か考えているとか、歌を歌っているとか。そしてneutralというのは、そのどちらでもない状態のこと。ここでは極度に遅い歩行を行っている状態をneutralとします。ふだんの生活では、ここにnaturalとして示したように、insideとoutsideは複雑に混じり合っていて、その比率も一瞬ごとに変化します。けれども演技というのはnaturalなものをそのまま再現するのではなく、そこに一種の抽象化が働くので【unnatural】、それまでoutsideだったものがぱっとinsideに切り替わる‥‥といったように変化することになります。新劇やテレビドラマなどでの演技はnaturalさが求められるので、私のWSではかなり偏った演技論になるのではないかと思います。
何でこんなことをしてみるのかと言うと、遅いテンポになると、ふだんはあまり意識せずに流してしまっていた動き・動作が、明確な対象として浮かび上がってきます。それぞれの瞬間にどうあらねばならないか、どう動けばいいのかと考え、また実際にそのように身体を細かく動かしていくことができるようになります。実際にやってみながら、こうしたことを学んでいきたいと思います。
今回の課題は次の通り。極度に遅い速度で歩き始め【neutral】、途中で落ちているモノ(この時は緑色の小さなぬいぐるみだった)に気づいて、これと関係を持つ【outside】が、そこからinsideの状態に移行し、最後、モノを置いてneutralに戻り歩き始めたところで終了。安藤さんが模範演技を示してくれた。歩き始め、やがてモノに気づき、近づいて拾い上げ、しげしげと見詰め、抱きかかえて胸に押し当て、置いて歩み去る‥
その後、何名かが指名され、実際に演技を行った。ここでは個々の演技には触れず、それらを見ながら、またそれらの演技に対する安藤さんの指摘を聞いて、考えたことのみ記しておく。
今回、neutralとして位置づけられた極度に遅い歩行は、日常の歩行動作を細密に分節化し、その各ブロックに対する意識/注意を高めるものだった。今回の演技課題で、それが基盤となっている以上、やはり細密化された各ブロックをどのように充填していくかが問われているということだろう。もちろん、前節で述べたように、それは本来「あらかじめ演技プランにより指定された動作」で埋めていくものではなく、あるブロックの意識状態やあるべき行為の必然性が明確になれば、身体が自然とこれに応じて適切な動作/運動を生み出していくということなのだろうが。
「演技とは日常の再現ではなく抽象化を施されている」との指摘に改めて頷かされる。ここで抽象化とは言語化でも様式化でもあるまい。むしろ対象化、あるいはオブジェクト化というところだろうか。区分された三つの状態、neutral、outside、insideの、切り替わる点が、切断面というか特異点として際立ってくることになるだろう。実際、そこをうまく強調できるとよいとの話もあった。neutral,outside,insideを区分するのは、遅いテンポの雰囲気だけで演技するのではなく、舞台に立つ俳優たちの意識を明確にするためなのだと。
参加者の演技に対する安藤さんのコメント。「neutral、outside、insideの三つの状態では時間の流れも自ずと変わってくる。だからneutralからoutsideに切り替わる点、たとえば落ちているモノに気づいた点で見る動作はneutralのまま極度に遅くなければならないわけではない。すっと見てもよい。しかし、あくまでも極度に遅い速度での動きを基本に置いている以上、その後の動きが素の動き【natural】になってしまってはいけない。」ここのところで極度に遅い歩行が身体に馴染んでいるのかが問われるのだろう。アンサンブル演奏で基本のテンポをキープし続けるように。難しいところだ。
安藤さんの別のコメント。モノには触れなくてもよい。ただし、たとえ触れなくても、そこでモノとの関係をつくれなくてはいけない。もし触れたとするならば、そこでモノの感触、重さや質感に対する身体の反応が示されることになる。触れた後、シャツの裾で指先を拭う動きをした参加者がいたが、なかなか面白い。モノに触れている時にはわからなかった俳優のモノへの感想が、ちょっとした動作で一瞬に伝わってきた。あのように身体の反応は、モノに触れている間にだけ生じるわけではない。
(4)プラン検討
プランだけを先行して立ててしまうと、前回の失敗のように、結局、身体が付いていかず、極度に遅い時間の流れが身体に入っていないことが露呈してしまうことになるわけだが、それでもノープランで立ち往生しない自信がまったくないので、やはりなにがしかのプランを持っておくことにする。といって何か壮大な構想を立ち上げるわけではもちろんなく、数人の参加者の試行を見ていて、これは自分には難しいなと思った部分について、何か代替策を事前に考えておくというだけのこと。
最初のポイントはモノに気づいてneutralがoutsideに切り替わる瞬間だろう。極度に遅い時間の流れの中で「ふと」気づくというのは相当難しい気がする。「ふと」が分節化し得るものなのかもよくわからない。何かのきっかけでneutralがoutsideに切り替わり、ここでモノに気づくという二段階のアプローチも考えられ、こちらの方が筋が通っているようにも思われるが、これは実は「ふと」を「何かのきっかけで切り替わり」に置き換えたに過ぎない。ということで、むしろ「outsideに襲われる(向こうからやってくる)」ととらえてはどうかと思いつく。具体的にはモノを踏んで(躓いて)、あるいはそこまで行かなくても踏みそう(躓きそう)になって気づくという「衝突」。
outsideに切り替わりモノとどういう関係を持つかだが、立ったまま触れずに眺めることにしよう。他の参加者の演技を見ていて、モノに手を伸ばす動作がかなり難しいと感じたからだ。また、モノに触れてからoutside→insideの移行を行うのも、かなり難度が高いように感じられた。そこでoutsideでは「見る」という関係だけを結ぶことにし、その最中に「はっ」と気づきに襲われinsideに突入し、その状態の中でモノに触れずにはいられなくなる‥‥という展開を考えた。膝に手を当て、ぼーっと見ていると、気づきに襲われ、すーっと膝を折り、跪いて両手でモノをすくいあげ、そのまま離れたところへと移す。
実はこの思いつきには背景があって、仕事で偉いさんの随行をし、歩道を通行人が来ないか見ていて、ふと車道に黒い小さな塊が落ちているのに気づいた。単にごみならいいが、万が一、鳩がうずくまっていたりすると通行する車両に轢かれかねないと思って近寄ると動かない。身を屈めてよく見ると、何と子猫の死骸だった。頭と背が黒く腹だけが白い身体は血を流しながらまだひくひくと痙攣していたが、とても命が助からないことは確かだった。咄嗟に片手で拾い上げ、歩道の街路樹の根元に移した。すぐに次のポイントへの移動となり、車中から役所に処理の依頼をした。その際に先ほどの地点から50mも離れていないところで、よく似た子猫の死骸を目撃した。兄弟が共に飛び出して轢かれたのか。あるいは轢かれたのではなく、誰かに一服盛られたのか。この件は心に深くわだかまった。
3.4月7日(日) 【3日目】
(1)準備運動〜黒沢美香のエチュード
今日は最終日で盛りだくさんなので‥‥と、準備運動を早めに切り上げ(と言いながら、新たなストレッチをしたりもしたが)、人が主でモノが従というのではない、人とモノとの関係をつくるためにと、日本のコンテンポラリー・ダンスを牽引したダンサー黒沢美香(2016年逝去)がかつて行ったという椅子を使ったエチュードが紹介される。ワークショップに参加しているダンサーの方(大野一雄のアーカイヴを、まさに動きの収蔵庫ととらえ、それを再構成する作品を上演されたとのこと)が、安藤さんの指名で実演を見せてくれた。ゆっくりと時間をかけて、椅子から床へと流れ落ちていく身体。1分で両手がだらりと下がり、2分で首がやや後ろに傾く、3分で腰がずいぶん前に出てきて、4分で腰が座面から落ちかけ両脚の踵が上がる、5分で頭が真上を向き、両手が床に着く、6分半で腰が床に着き、脚が伸び始める。「7分くらいで」との指定だったが、8分以上かかり、7分はかなり速いとの演技者の弁。参加者の中で希望者が3人挑戦してみる。最初の数分間、まったく身体が動かない。結局、最初の実演の倍近い時間がかかった。座面がビロードのクッション張りのため摩擦が大きく、最初に深く腰掛けてしまうと接触面が大きい上に、重心を前へ押し出す手がかりがないため途方に暮れてしまったという。黒沢が演じたのは木製の座面の椅子で、座面は滑りやすかったが、脚が不安定で倒れやすく、バランスを取るのが難しかったとのことだった。モノとの関係をつくるためには、そのモノの性質をよく観察し、深く知ることが重要であるとの教え。
(2)太田省吾式発声訓練
リクエストによりやることになったプログラムとのこと。本当は自分は下手だったのでやりたくないとこぼしながら、安藤さんが手本を見せてくれる。床を踏み鳴らしてから、「イチ」と声を出して片脚を曲げたまま横に開くように上げる。もう一方の脚の膝も少し曲げ伸ばし切らない。そのまま今度は「イー」と静かに音を伸ばし続け、最後に縦に縁を描くように上げた脚を動かしながら、音もぐるりと巡らすように「~チ」と締めくくり、上げた脚を前へ踏み出する。続いて反対側の脚を同様に一歩踏み出しながら「ニッ」と声を出し、また脚を上げながら「ニー」と音を伸ばし‥‥以下「トウ(10)」まで繰り返し。ただし、声の大きさを、1を最小、10を最大とし、だんだんと大きくしていく。10まで行ったら、今度は9、8‥‥と逆回しで後ろに下がる。
実際にやってみると、まずドンと脚を踏み鳴らすことからして、うまくできない。これはまあ、身体所作の基本が出来ていないのだからしょうがあるまい。脚を横に開くように上げるだけでもバランスが怪しくなるが、さらに立ち脚の膝を少し曲げると、これだけで不安定度がぐんと上がる。見ていると、極度に遅い歩行で身体の軸がぶれなかった熟達の参加者でも、結構ぐらぐらしている。それだけ身体の摂理に反した姿勢なのだろう。声も思った以上に出ない。「腹から声を‥‥」というのだが、両脚の不安定なポジションのせいで、身体が安定せず、下腹に力が入らない(これは話が逆で、下腹に力が入らないから、身体がぐらぐら揺れてしまうのかもしれない)。自然と呼吸も浅くなり、ゆえに息が続かず、とてもキツイ。だから訓練なのだろうが。
(3)outside / inside再び
前回行った課題が再構成され、改めて提示された。今度は1辺3mほどの正方形の三辺を巡るようにコースが設定され、各辺で指定された演技を行うものとなっていた。まず第一辺では、極度に遅い歩行【neutral】で歩き出したのち、落ちているモノ(今回はぬいぐるみではなく手袋)に気づき、そのモノと関係を持つ【outside】。そのモノを置いて、再び歩き出し【neutral】、第二辺の中央付近でいったん【inside】になり、また【neutral】に戻って、最後、第三辺の途中で後ろを振り返る。
前回の課題と異なる部分として、【neutral】→【outside】【inside】→【neutral】ではなく、【neutral】→【outside】→【neutral】→【inside】→【neutral】と、【outside】と【inside】を明確に分け、異なる辺上に位置付けたことが挙げられる。これにより、あくまで【neutral】がベースであり、そこから【outside】や【inside】に切り替わり、また元に戻るという基本的枠組みが明確になった。また、【outside】と【inside】を分けたことにより、両者をそれぞれ異なる状態として明確に示すことが求められる。【neutral】から違う状態に移行して、また戻るという二段階ではなく、三段階の構築が必要なのだ。最後の振り返る動作を含め、一連のストーリー構成を求めているわけではない。outsideとinsideを特段関連づける必要もないとのこと。
効率的に進行するため、最初に各参加者の演技順が示され、が前の演技者が第二辺まで進んだら、次の演技者がスタートするルールで始められた。私は6番目。5番目の演技者がモノを置いた時点でスタート地点に向かい、途中でモノの位置を第一辺の近くに置き直す。前の演技者が曲がり角に至ったのを確認し、前方を見詰めてゆっくりと足を引き上げる。前足をモノの至近に着いたところで、ふと飛び退り(outsideへの転換点。ここはほぼ素の速度)、一瞬静止して極度に遅い速度でモノに近寄る(2歩)。上半身を折り、膝に手を着いて、ほぼ真上からモノをしげしげと眺める。はっと何かに気づいたように一瞬肩を震わせ、すーっとひざまずく(カウント増やしでしたようなゆっくりとした速度)。顔をモノに近づけ、ゆっくりと両手ですくいあげ、下を向いたまま身体と腕を伸ばし、能う限り遠くにモノをそっと置く。再びモノに視線を向けることなくすっと立ち上がり、向きを変えて(ここはゆっくりながら、極度に遅くはない)、ここでneutralに切り替え、極度に遅い速度で踏み出す。neutralからoutsideへ移行し、再びneutralに戻る流れにおいて、最初の切り替わり点をはっと飛び退る動きで強調し、移行したoutside状態を途中で一段深めることにより、次の切り替わり点での浮上感/切断感を強めるべくデザインしてみた。
ここまではまあまあ良かったのだが、いったんoutsideに移行して戻った後のneutralが落ち着かず、極度に遅い歩行がぶれる。基本のテンポが身体に沁み込んでいないことがわかる。とりあえず角を曲がると、もうinsideの箇所に着いてしまう。どうしようか。事前の説明ではoutsideとinsideを関連づける必要はないとのことだったが、咄嗟にoutsideのフラッシュバックに教われた状態をinsideにしようと思いつく。ふと足を止め、ゆっくりと下を向く。本当はここで静止を引き延ばし時間をかければよかったのかもしれないが、その度胸はなく、程なくして歩き始める【neutral】。でもそれでは足りない気がして思わず天を仰ぐ【inside】。すぐに次の角が来てしまう。
先ほどと同様。neutralの極度に遅い歩行はぐらぐら。outsideとinsideは言わば歩くことから注意をそらすことであり、そこから戻る時にさっと歩行に集中できない。集団行動で笛が鳴っても隊列がすっと組み変わらず、もたもたして、あちこちで衝突したりお見合いしている状態か。振り向く動作をする地点に着くが、振り向くべき必然性を自分の中で醸成できていないので、大きな動きをしたらとてももたないだろう(多くの演技者は完全に後ろに向き直り、遠くを見詰めたり、首を左右に振って眺め回したりしていた)。そこで歩みをすっと止めると同時に、足の位置はそのままで首を少し傾げ、上半身だけをひねって後ろを窺うこととした。先ほどのinsideと同じくoutsideのフラッシュバックで不安が湧き上がり、何を確かめるわけでもなく後ろを振り返った‥‥というところだろうか。暗く不安げな顔。眼差しは虚ろで何もとらえてはいない。実際、何物かに視線を合わせることはしなかった。そのままゆっくりと向き直り、歩みを進め、ようやくゴール。
戻って続く演技を見る。自分の番が終わったので「他の演技者はどう対応しているか」と視線を巡らせる不安は薄れ、同時に演技している二人ないし三人を、同時に視界に収められるようになっている。個々の演技や立ち居振る舞いよりも、極度に遅く歩む人物が次々に登場し、眼の前を横切っていくことが、プレゼンテーションとしては一番演劇的かもしれないと感じる。
安藤さんから全体への手短なコメント。outsideでモノとの関係をつくる際に素の動き【natural】に戻ってしまう。状態が違うからすっと動くところがあってもいいが、極度に遅い速度が常に根底になければならない。また、モノに触れたならば、その感触や持ち上げた重さ等が身体に響き、映し出されなければいけない。insideのところは、あまり明解な切り替わりなく、曖昧に流す演技が多かった。
そうした中で個々の演技にも言及があり、自分の場合は、モノに気づいたところで大きな動きをするのが面白かった。あそこをうまく膨らませて何か独自のものがつくれれば、もっと面白くなったかもしれない。またinsideのところで上を向いている方が二人いたが、天井を向いてしまうと(私のことだ)、「あれ、空を眺めているのかな?【outside】」ということになってしまう。もう少し首の向きを変えて目線を下げると(もう一人の方)、それとは違ってinsideの時間に見えてくる。
いずれの指摘もなるほどと思う。自分の体験と照合すると、やはり基本となる極度に遅い速度が身体に根付いていないため、基礎がぐらぐら揺らいでしまうという問題がまずあり、そのうえさらに動作の必然性が充分煮詰まっていないので、時間をかけて展開することなどとてもかなわず、さっさと切り上げてしまうということがあったように思う。ここで諦めずに粘ればよいのだろうが、自分の身体の状態を外からとらえられていないので、そこで時間を取ることが説得力を持つのか、他の参加者の時間を奪ってまで試みる価値があるのか判断できず、思い切ることができなかった。要は決断力の、すなわち覚悟と度胸の問題なのかもしれない。
4.3日間を終えて
以上で3日間のワークショップは終了。最後まで極度に遅い速度、極端に引き延ばされた時間の流れを、感覚として自分の身体に沁み込ませることはできなかったが、でもやってみてできなかったことを通じて、初めて見えてくることもあったように思う。
個人的には、俳優やダンサー等、通常は身近に接することのない「身体を動かせる/動いてしまう」人種と、こなせないながらも同一課題に対したことで。我彼の違いをいろいろと体感できたことが大きな成果となった。これにはすでに自身を確立したダンサーや安藤さんのワークショップを以前に経験している者などの上級者をはじめ、多くの参加者がいて、参加者の身体感覚やスキルの幅が格別広かったことが大きく作用していよう。それだけ多様なサンプルを観察できるからだ。
安藤さんはワークショップが3時間×3回と短期間の、詰め込み過ぎのプログラムとなったことをしきりと気にされていたが、このことも私にとってはむしろ幸運だった。言わば「テイスティング」感覚で、様々な身体の在りようを瞬間的・直感的に把握しやすかったからだ。感覚やスキルの身体への定着を目指してじっくりとやられたら、すぐに「満腹」状態となって、早々にリタイアすることになったかもしれない。
こうした幸運を通じて、単に身体の自然な動き、ふだんしている動作というのとは異なる、「身体の生理」ならぬ「身体の論理」というものが、確実にあることを実感できた。それをどう記述していけるかということも今後課題としたい。というのも、言葉による記述が生の身体に行き当たると、それだけで一方的に「ゴールイン」してしまい、あとは身体自体の礼賛や、その身体の主の人生や人格の話になってしまうような、そんな批評にずっと物足りなさを感じていたからだ。無論、言葉で身体を記述しきれると考えているわけではない。しかし、それに迫ることはできるだろうし、またしなければならない。そうでなければ、言葉は身体と関わりを持つことができず、身体存在との邂逅/衝突を回避して、人格だの人生だのといった「すでに書かれた言葉」に自らを帰着させることを逃れ得ないからだ。
5.補論
前章までのレポートを、後日、安藤さんに提出したところ、2(5)の「最初のポイントはモノに気づいてneutralがoutsideに切り替わる瞬間だろう。極度に遅い時間の流れの中で『ふと』気づくというのは相当難しい気がする。『ふと』が分節化し得るものなのかもよくわからない。」という箇所について、以下のような丁寧なコメントをいただいた。
分節したいのは、「ふと」ということではなく、モノに気づいてそれに近づくまでの行程を分節化するということです。一例ですが、1.ん?(静止) 2.なに? 3.見ようかな(意志) 4.モノが目に入る 5.モノを見る(観察) 6.触ってみようか(決断) 7.モノに近づく(近づく速度は、モノへの興味の度合いや恐れや緊急性や何やらで、早かったり遅かったり)。
せっかく遅い虚構の中でたっぷりと時間が用意されているわけで、ここで焦らずにやることが重要なのですが、私も往々に何かしなければ、何か見せなければと、よく焦ってしまいました。
ここでやりたかったのは、モノとそこで初めて出会う、ということでした。名付けられたモノではないモノに。小林秀雄の文章を引いたのは、そこのところを伝えたかったのです。モノと出会うことで、そこに生まれてくるナマの感情によって、即興的に流れる時間を目指したいのです。
ここで言及されている「小林秀雄の文章」というのは、配布された資料にあった「美を求める心」(『考えるヒント 3』)の一部分である。その核心となる菫の花に関する一節を以下に引用しておく。
言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いていて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのを止めるでしょう。(中略)菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えて了うことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。画家は、皆そういう風に花を見ているのです。
言葉への置換による一瞬の認知ではなく、それを遠ざけたところに現れる身体と「名付け得ないモノ」との直接の邂逅・交流の回路、到達・浸透・作用の過程。「名付け得ないモノ」との意図せぬ出会いが、やはり「名付け得ない」ナマの感情を引き起こす。その変容生成のプロセスに深く耳を澄ますこと。
「即興的」の語がいささか唐突に現れるように感じられるかもしれないが、私はここに手触れる「身体の論理」の透徹した視線の在りように、深く頷かざるを得ない。と言うのは「モノと出会うことで、そこに生まれてくるナマの感情によって、即興的に流れる時間を目指したいのです。」との言明をそのまま演奏へと敷衍すれば、「名づけられない、初めて遭遇する」オトとの出会いが、演奏者の身体において、「名づけられない、初めて遭遇する」ナマの衝動/運動を立ち上がらせる‥‥という即興の身体回路の真理が、驚くべき簡潔さと正確さで浮かび上がることになるからだ。二つの言明は「聴く身体」をその共通の基盤としている。「即興」について、「頭に浮かんだまま」とか、「思い通りに」といった狭く偏った理解ばかりが溢れているが、決してそうではない。
末尾ながら、講師の安藤朋子さん、参加を見守ってくださったARICA藤田康城さん、企画をしてくださった「いとなみ派」中村さん、そして参加者の皆様に感謝いたします。どうもありがとうございました。
いとなみ派プロデュース安藤朋子ワークショップ「自分のからだを訊く」
2019年4月4日(木)・5日(金)・7日(日)
北千住BUoY
2019-05-02 Thu
私にしては早々と、4月27日(土)に開催された「タダマス33」のレポートをお届けする。これは、前々回「タダマス31」のレポートを「タダマス32」の告知記事と同時に書いて、このやり方は効率的かも‥‥と「タダマス32」のレポートを書かずに放置していたら、「タダマス33」の開催に間に合わなかったという苦い経験に基づくものである。遡ってレポートをご覧いただければわかるように、「タダマス31」自体が極めて特殊な回であって、それをどう取り扱うべきか悩み続けて書けなかった事情を、そのままルーティンとして採用しようと下ことに、そもそも無理があった(反省と懺悔)。それともうひとつ、今回の「タダマス」では作品と絡めてジャケットの写真が話題となり、私自身もそれに強く惹かれたことがある。今後も機会をとらえて、映像等にも着目していってほしいと思う。
さて、いつものことながら、以下に記すのは私自身の興味関心に引き付けて再構成したリポートなので、当日の全貌を客観的に報告するものではないことを、あらかじめお断りしておく。当日のプレイリストについては、以下のURLを参照していただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767

「GW効果なのか、今日はオーディオが『タダマス』始まって以来というくらい、調子がよくて‥‥」と益子が切り出す。なるほど冒頭のRuss Lossing(pf)のトリオによるPaul Motian曲集からして、ヴェールを二、三枚剥がしたかのように透明度・解像度が高い。ピアノの単音においては、鍵盤の深い沈み込みから、打たれた弦が震え、響きがたちのぼる様が眼前に浮かび、ダブルベースのピツィカートでは、弦の震えはおろか右手と左手の位置まで見えるかのようだ。今回のゲストの森重靖宗が「ベースがいいですね」と褒め、益子が「彼は日本人なんだけど、いまやNYのシーンでもマイスターとして知られています。日本では全然知られていないんだけど」と応じた通り、引き締まった静けさを帯びながら、ゴリッと深く音を刻んでいくMasa Kamaguchiが素晴らしい。一方、ピアノの描くラインの浅薄で詰まらないこと。これまた多田が「あらかじめわかっている最適解を並べているだけで、少しも発火しない」と言う通り。
続いてもMats Eilertsen(b)、Thomas Stronen(dr)を含むピアノ・トリオ。ECM録音だけあって残響成分が多い。ピアノ弦もベース弦も見えない。一定の距離を離れ、細部を注視せず、トリオ全体を見込む録音。益子が録音場所である教会の中のステージの写真を示し、セパレーションを立てずに演奏していることを説明する。一音一音の打鍵を際立たせずなだらかに連ねていくピアノ、ゴングやグランカッサ(大太鼓)を多用するドラム、フラジオによるのだろうか胡弓を低音にシフトさせたような音色を紡ぐアルコ・ベースが一体となって、豊かな倍音を雲の如く湧き立たせる。
再生音の良さに思わず見開いた耳も、音楽的内容の乏しさにいささか醒めてくる。結局、前半はさしたる収穫なし(ニューエイジ、ヒーリング・ミュージックまがいの音源もあった。なぜ選ばれたのだろう)。しかし、後半は打って変わって充実ぶりを見せる。

Intakt Records Intakt CD 316
Ingrid Laubrock(tenor & soprano saxophones)
Mary Halvorson(electric guitar)
Tom Rainey(drums)
4作目にして初のライヴとのことだが、「トリオの第四のメンバー」とTom Raineyも認めるDavid Tornが編集を担当しているとのこと。私には彼がかなり手を入れているように感じられた。
最初にかけられたtr.2では、ライヴ演奏特有のバンドが一体化して盛り上がる「ノリ」が、注意深く遠ざけられている(あえてそうしたトラックを選んでいるのかもしれないが)。ドラムの打音から飛び散る火花に響きが広がって、サックスのか細い息漏れのリフ、セルロイドっぽい柔らかく半透明の歪みをたたえたギターの遠い弦鳴りと、互いに互いを映し出しあう。一定の速度を三者の共通の軸線としてキープしながら、誰もそれに直接合わせようとせず、寄せたり離れたり遅れたり進んだりを繰り返しながら軸線の周囲を旋回し続け、これにより軸線を、ビル中央部分の配管スペースのような全き「空虚」として、冷え冷えと浮かび上がらせる。この場面など、たまたまそのような事態が生じていた部分、普通のロック・バンドのライヴ・アルバムなら編集段階で切り捨てられてしまう箇所をあえて拾い、切り出したものなのだろうか。それともTornが三者の演奏を別々の場面から切り出して貼り合わせ、再構築したものなのだろうか。
続くtr.4においても、ギターの刻みが輻輳し、サックスの微視的な崩しや分岐と交錯していく。その不均衡感やギザギザした破片の危うい組み立て感覚は、かつてRock in Oppositionの一員として活躍したベルギーのグループAksak Maboulを思わせる。危うく傾きながらも二人が細やかに絡み合い支え合っている状態から、片方がぱっと消え、残されたもう片方が大きくバランスを崩しながら、それでも倒れずに疾走を続ける場面とか。

Klein 09
Joachim Badenhorst(clarinet,bass clarinet,tenor saxophone,voice,field recordings)
Ingrid Schmoliner(piano)
Pascal Niggenkemper(double bass,bells)
「タダマス」の常連Joachim Badenhorstによるトリオ。彼の自主レーベルからのリリースで、相変わらずパッケージが妙に凝っている。「普通に棚に収まらないので、管理が大変だ」と益子がこぼしていた。
ピアノの何気ない一音がそのまま引き伸ばされ、e-bowによる持続音へと変移し、そこに様々な断片が振りかけられる。ひそひそ声を転写したリードの振動、かすれたヴォイス、電動ファンによるピアノ弦への軽やかな連打、オルガンに似た波動(木管の多重録音によるのだろうか)、バス・クラリネットのノンブレス・リフが運んでくるムビラを思わせるプリミティヴな音色のリズム‥‥。冒頭のピアノの音は、後から重ねられた音に埋もれ消えたかと思うと、ずっと鳴り続けている。その都度その都度、そこに響いているサウンドが互いに結び合って、あるかたち/パターンを束の間生み出すが、不安定で続かず、すぐに解けてしまう。12分強のトラックは、勝手気まま、思いつくままに構成されているようでいて、不穏な振動がシミのように広がって全体を覆い尽くすラストまで、辛抱強く脈絡を保ち続ける。これは見事な達成だ。
Badenhorstは一方で職人的技芸によりアンサンブルを支え、他方、自身の作品では特異な想像力をはばたかせる。周囲の環境音に侵食されて消え入ってしまうような「心霊写真」的ソロや、いにしえのヒッピー・コミューンを思わせる夢見るようなゆるゆるのフォーク・ソング等が思い浮かぶが、いずれも職人的技芸を支えるプレイヤーシップ、ミュージシャンシップの頸木を脱したところで、言わばノン・ミュージシャン的に制作されている点に注目したい。いつもやり過ぎのパッケージの意匠にしても、アーティスト的というより、親しい友人へのサプライズといったプライヴェートな感覚、アマチュア性を強く感じる。本作も歴史上に類似物を探せば、1970年代ドイツ等で盛んに試みられた、ごくごく私的な、それゆえ静かで深い狂気を宿したテープワークあたりが浮かぶのではなかろうか。

Apohadion Records
Dave Noyes(trombone,bells,keyboards,synthesizer),
Pat Corrigan(timpani,vibraphone,amplified birdvage,toys,junk),
RJ Miller(drums,samples,keyboards,bells)
本日のハイライト。前作も音が中空に像を結び、天井に反射したかげがおぼろに映るような、こわれやすく繊細な構築ぶりに惹かれたが、淡い感触ゆえに強い印象は残らなかった。対して本作は強烈な衝撃を聴き手の身体に刻み付ける。
圧倒的な密度/強度と全体として映像のサウンドトラック風の展開は、「タダマス30」で紹介されたRafiq Bhatia『Breaking English』を思わせるところがある。「タダマス30」に対する拙レヴューから、同作品に関する部分を抜粋して以下に示しておこう。
会場では肯定的に受け入れられていたRafiq Bhatia『Breaking English』だが、私にはかなりの問題作と感じられた。先に触れたように、その重厚な構築ぶりは見事と言うほかはない。重層的に重なり合う音塊が上空を制圧するように旋回し、音圧の波状攻撃を仕掛けてくる。ゴリッとした硬い角のあるベースをはじめ、たとえサウンドが飽和/充満に至る時であっても、個々の音は積み重なる音響の地層のうちに埋もれてしまうことなく、尖ったエッジを失わない。むしろ、ざらっとした粒子の荒れや粗さを活かした感触と言えるだろうか。ここで私は初期の中平卓馬の「アレ・ブレ・ボケ」写真やスピルバーグ「プライヴェート・ライアン」の脱色されたコマ落とし映像の緊迫した不安を思い浮かべている。
サウンドの造り込みの完成度と壮大なスケールの広がり、ドラマティックな展開力は、ハンス・ジマー、ジェームズ・ホーナーといった映画音楽作曲の手練れにも決して引けを取るまい。‥‥と、これだけベタ誉めしておいて、何を問題視しているのかと言えば、まさにその映画のサウンドトラック的な「完成度」にほかならない。ポスト・クラシカル人脈からの参加を仰ぎ、ポスト・プロダクションを尽して仕上げられたであろう作品は、「これしかない」という揺るぎない決定稿に至っている。詰め込まれた圧倒的な情報量に比して、極端に圧縮され切り詰められた短さもまた、そのことを証し立てている。当初の演奏段階ではふんだんに盛り込まれていたであろう即興的な展開、ああも行ける、こうも行けるという無限のヴァリエーション感覚は、あくまでも素材の1ピースへと貶められている。たとえ綿密なフライト・プランを描いたとしても、飛び立ってしまえば、後は常に眼に見えぬ気流や気団と繊細に対話し続けなければならない「飛行」の感覚が、持続の震えを、この演奏から感じ取ることはできない。と同時に、偶然や失敗を受け入れて、それをその瞬間以前には思いつきもしなかった新たな局面へのジャンピング・ボードとするしなやかな冒険心もまた。かつてそうした気概に溢れていたプログレッシヴ・ロックの残党が、CMやヴィデオのための音楽を作り始めた際と同じく、どこか饐えたような頽廃の匂いがしないだろうか。Rafiq Bhatia『Breaking English』は、いわばエッジを研ぎ澄まし、角を尖らせたアディエマスではないのか。
ジャズが果敢に自らを更新することにより生き延び、「ジャズとは似ても似つかない新たな『ジャズ』」へと変貌を遂げていくとしたら、そこで途切れなく持続している「ジャズなるもの」、あるいは「ジャズの創造性」とは、ジャズ固有のフレージングやスタイルでも、サクソフォンのヴォイスでも、ブラックネスでもなく、こうしたリアルタイムの飛行感覚ではないか‥‥、私はそう考えている(だから「ジャズの新たな章」とは、いつまでたっても自己を更新できない旧来のジャズの、延命のためにだらだらと書き継がれ続ける「続編」でしかないとも)。とすれば、本作品はジャズの「未来」にとって危険な「寄り道」となるように思う。
『RJ Miller Trio』もまた濃密な音群を操作する。電子音による黒く厚い雲のたなびき、その只中から浮かんでは消える細部の不安定な移ろい、シーケンサーのベース・リズム、呼吸音のコラージュ、パチパチと爆ぜる針音、ドラム・ストローク、ディレイを深くかけられたエレクトリック・ピアノの強迫的自己反復‥‥。音群の多様な移り変わりにもかかわらず、全体を覆う黒々とした濃度/密度は切断を許さない。すべての作業はそこから逃れることのできない強力な重力圏の下で行われ、外へと放出される音響はすべて深い淵から届けられる呻き声のようだ。
『RJ Miller Trio』とRafiq Bhatia『Breaking English』の大きな違いは、確定した最適解あるいは一般解を差し出す後者に対し、前者はどこまでも手探りで揺らぎブレ続けることにある。どちらがより深く掘り進んでいるかと言えば前者だろう。にもかかわらず、後者と異なり、前者は一向に底にたどり着く気配を見せない。暗闇の中、盲いて掘り進む前方におぼろげに光景が浮かび、視界が開けたかと懸命に掘り進むと、いつの間にか景色は消え失せ、また別のところにふと浮かび上がり、そこに向けて必死で掘り進むと‥‥以下繰り返し。そう、ここで「景色」の在りようは「地」となる音響平面へのスーパーインポーズではなく、厚い雲の切れ目から、束の間、下界の様子が垣間見える‥‥といった感覚である。覆いが取られ、幕がめくられて、中身が明らかとなる。
「タダマス33」当日のやりとりの中で、ホストの多田から突然コメントを求められた際に「都市のフィールドレコーディングみたいに聴こえる」と思わず答えたのは、こうした異なる細部が、望遠鏡を向けたように次々と切り取られて浮かんでくるにもかかわらず、全体像が一向に明らかにならない事態をとらえてのことだった。当日は説明が足りず、伝わらなかったかもしれないので、ここでは補足しておきたい。暗い混沌の中から闇が晴れ情景が浮かび上がる様はGilles Aubryによるカイロの市街のフィールドレコーディングを、異なる断片が次々に浮かぶ構成は同様にChristina Kubischによるカメルーンのサウンド・スナップショットを、耳の視界すべてが切り替わるのではなく、その一部が望遠鏡の視界で切り取られたように推移し、焦点が合わされた箇所の物音が拡大されて現れる様は、Lucio Capeceがボール紙製のチューブとマイクロフォンを気球に仕掛けたフィールドレコーディングを、それぞれ連想させたのだった。
『RJ Miller Trio』とRafiq Bhatia『Breaking English』のもうひとつの際立った違いは、実は映像の強度にある。この点については長くなるので補論として別に取り扱うこととしよう。
後半5枚中、今回採りあげた3枚が特に強力だったため、残る2枚Human Feel『Gold』、Anna Webber『Clockwise』については触れなかったが、これらも水準以上の出来だった。
次回「タダマス34」(次は7月か)に期待したい。

【補論】 『RJ Miller Trio』に付された岡田敏宏(Black Opal)の写真について
『RJ Miller Trio』のジャケット写真を益子が「just arrived」としてFacebookに掲げた時には、それほど惹かれたわけではなかった。ごちゃごちゃした市街を見下ろす位置から、シルエットの腕が伸び、彼方を指差している。それがどこだかは全くわからなかったが、何となく戦乱に襲われた都市のドキュメンタル・フォトのような気がした。その構図から、Josef Koudelkaによる「プラハの春」をとらえた写真がふと浮かんだからかもしれない。

しかし、「タダマス33」当日に益子が掲げたLPジャケットの写真は、予想を超えてはるかに禍々しい気を放っていた。この写真は岡田敏宏という日本人写真家により撮影されたもので、ジャケット内に収められた同寸法のブックレットには、やはり禍々しい気を放つモノクロ写真が2〜3点、ジャケット大で掲載されていた。

『RJ Miller Trio』に収められた音響に対し、「全貌の定かでない都市の異なる細部が、望遠鏡を向けたように次々と切り取られて浮かんでくる」との印象を抱いたのは、この写真の影響が大きい。どこかはわからない高みから、暗がりに潜んだまま、眼下に広がる災厄の街に望遠鏡を向け、終わりなく窃視を続ける‥‥。しかし、そこに浮かぶ感情は優越でも、愉悦でも、歓喜でも、興奮でもなく、ただひたすら不安であるような気がした。
益子の説明によれば、日本でも一冊写真集が出ており、他に国外でも写真集が出版されているが、少なくとも国内ではあまり知られてはいないようだ。国内で出版された写真集を入手したが、そこに掲載されている写真には『RJ Miller Trio』に収められている作品ほどの凄みはない。写真集は少し前のもので、こちらの方がより新しい作品ではないか。Black Opalの名前でブログやflickrで写真を発表しているので、興味のある方は見てほしい‥‥と。その場で回覧された写真集を見ると、確かにいささか既視感が漂う。「ネットでは森山大道のエピゴーネンと貶める意見もあった」とのことだが、「アレ・ブレ・ボケ」的な手法によるストリート・スナップが多いのは確かだった。しかし、そこに森山の多くの作品に伴う「打ち捨てられたものへの親愛の情」はなく、むしろ初期の中平卓馬や『太陽の鉛筆』など東松照明の沖縄を題材とした写真を思わせる突き放した視線があった。そしてそこにはやはり湧き上がる不安が怨念のように貼り付いていた。
【注記】2019/05/03
上記本文中にの「『ネットでは森山大道のエピゴーネンと貶める意見もあった』とのことだが」との箇所(発話者を示していないが、これは「タダマス」ホストの多田雅範の当日の発言である)について、「タダマス」ホストの益子博之より、「「森山大道のエピゴーネン」というのは例によって多田さんの思い込みで、実際には「中平卓馬の〜」と言われていたようです。」との指摘を受けた。しかし、本文をご覧いただければわかるように、私は森山、中平に加え、沖縄を撮る東松照明との類似に触れた上で、RJ Miller Trioで使われた写真を、中平たちとは明らかに違った資質を現したものとして評価している。それゆえ、当日の多田の発言内容の誤りにもかかわらず、本文の論旨は全く変わることがない。‥‥ということで、この注記を加えるに止め、本文自体の修正は行わないこととしたい。
益子から岡田のflickrのリンクが送られてきたので、早速見てみる。強烈。モノクロの画面は、湿ったまま保存したことにより黴や滲みや汚れで黒ずんだようにも、あるいは感光し退色したり、漂白されたようにも見え、至るところで明暗が逆転している。「アレ・ブレ・ボケ」のうちには、特に森山大道の作品など、ノー・ファインダーでのフレーミングのズレや手ブレを「運動感覚」として提示するものがあるが、岡田の作品にそうした「瞬間の視覚」や撮影者の身体の動きを連想させるところはまったくない。むしろ瞬間の一瞥にしろ、長時間の凝視にしろ、そうした身体時間の経過をいっさい感じさせない映像となっている。何やらSF調の物言いとなるが、脳内情報をスキャンし、意識下の映像をサルヴェージしたら、このようなものになるのではないか。いつどこで入り込み、いつからそこにあるのか、出所も来歴も不明の、宛てどころのない贈与/負債としての「不幸の手紙」。それこそ映画『リング』に出てくる「呪いのヴィデオ」の映像である。
至るところ影が映り込み、輪郭は溶け出し、明暗は逆転し、水平は傾き、遠近は歪んでいる。これらの特徴は確かに所謂「アレ・ブレ・ボケ」作品にも見られる。しかし、一番の相違点は、「アレ・ブレ・ボケ」作品が、これらの写真本来の特質をあえて手放すことにより手に入れた、強烈な造形感覚による瞬間把持が、岡田の作品には見られないことだ(たとえば初期の中平の写真も大きな不安をたたえているが、この造形感覚ゆえに、個人的不安ではなく、より普遍化され、「滅亡への予兆」といった幻視者/預言者的な強度を帯びることになる)。代わりにあるのは、先に見た経年による風化/摩耗であり、それがもたらす疫病のように恐ろしい不安である。
ロラン・バルトが『明るい部屋』で幸せな追憶に浸るように、個人的な記憶と互いに支え合うべき写真=映像記録は、だが岡田の作品にあっては、時間経過の中で変容を止めることが出来ず、色褪せ崩壊していく。一方、健常者にも日常幾らでも起こり得る錯視や幻視がもたらす不可解な映像、通常なら無視され、スキップされ、認知にも記憶にも残らず「なかったこと」にされてしまう映像が、核廃棄物や胎内に採り込まれた有機水銀のように、処理/排出できぬまま蓄積され続ける。そして夢や記憶退行によるサルヴェージ、あるいは突然のフラッシュバックにより、脳裏に眼前によみがえる。
そのように突然脳内に現れるのではなく、写真集のページをめくり、ウェブページをスクロールしながら出会うのであっても、充分に不安神経症を引き起こせるだけの負のエナジー、怨念や呪いを、岡田の写真は帯びているように思われる。作品をとらえた視線がフリーズし、眼を離し顔をそむけたいのに、接続を解除できず引き込まれてしまう感覚。デカルコマニーによって作成されたロールシャッハ・テストの、それ自体では意味をなさない不定形の文様が、統合失調症発症のきっかけとなり得る侵襲性を有しているように。

岡田敏宏の作品については、以下のURLを参照していただきたい。
■flickr:black opal_2005
https://www.flickr.com/photos/48049017@N03/
■ブログ:black opal 記憶の断片
https://blog.goo.ne.jp/blackopal_2005
■岡田敏宏写真集『記憶の断片』
http://qumuran.com/記憶の断片/
2019-05-01 Wed
遅ればせながら、今年1月26日に開催された「タダマス32」のレヴューをお届けしたい。この前回「タダマス31」の絶不調ぶりはすでに伝えたところで、いささか心配していたのだが、ゲスト初登場時の「タダマス15」(※)で、かけがえのない個性である「プレイヤーシップでも、ミュージシャンシップでもない何か」を遺憾なく発揮し、深いコメントを連発したベース奏者/作曲家の蛯子健太郎を二度目のゲストに迎え、この日はプログラム構成の一貫性、個々の作品の強度、ホスト及びゲストのコメントの的確さと、三拍子揃った充実した回となった。※http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-324.html
さて、いつものことながら、以下に記すのは私自身の興味関心に引き付けて再構成したリポートなので、当日の全貌を客観的に報告するものではないことを、あらかじめお断りしておく。当日のプレイリストについては、以下のURLを参照していただきたい。
http://gekkasha.jugem.jp/?cid=43767


本編は珍しくベタなキューバ音楽で始まった。前半の9曲を占めるオルケスタ演奏と後半5曲のピアノとギロのデュオから、それぞれ1曲ずつ。ピアノを前景に押し立て、リズムを重視し、メロディやそれを包み込むアトモスフェアはむしろ希薄。半ばを過ぎて歌やリード楽器群が入ってくるのだが、「上物が置換された」との印象で、全体の骨格は変わらない。ふだんは見せない舞台裏の機械仕掛けの蓋を開けて、中に組み込まれた歯車や滑車の精確な作動ぶりを覗き込んでいる感じか。ピアノの左手が自在に動き回って、多彩なリズムを見事にクロスさせていく。本日のゲストである蛯子健太郎の「奥行きがすごい」というコメントに、大小の歯車が重なり合う同じ光景を眺めている気がした。

Bill FrisellやDave Douglasのところでドラマーを務めるRoystonのソロ名義の作品。彼は黒人だが、他のメンバーはHank Roberts(cello)を初め、すべて白人だという。
リード、アコーディオン、チェロという超変則の三声がアメリカーナな広がりを持つメロディをゆったりと息づかせ、ドラムはこれらが結ぶはずの焦点、ピンポイントで担うべき支点をあえて外したところで踊ることにより、三者の絡みに側面から光を当て、仔細に浮かび上がらせて見せる。先のVirellesとは全く異なる仕方ながら、スケルトン時計のように音楽装置の作動ぶりを透かし見せる点は共通している。
「ニュアンスで成り立っている」との益子の指摘を受けて、「音程がはっきりしている楽器がひとつもない」と喝破する蛯子の指摘に深く頷かされる。「身体が入っている」とも。これは実に鋭い指摘で、まったく危なげなく安定して推移する手練たちの演奏は、だがあらかじめ譜面に書かれた音符を正確になぞることで、自らの位置と速度、運動方向と軌跡を決定しているのではない。彼らはそれを、同じひとつの音響空間内を動いている者同士の音楽身体の触れ合いを通じて、達成しているのだ。
その意味では、冒頭の演奏描写では、上物三者の絡み合いに眼を留めた視線を推移させてドラムを見出しているが、実際にはドラムが「ドーン」と鳴ったところから開けていく世界に三者が飛び込んで、開いては集まり、先んじては遅れ、浮き沈みして入れ替わりつつ舞っているのだろう。
ここからは記述がいささか駆け足となる。というのも、後から振り返って、この回のプログラムの中心を「透明性/不透明性」の軸線が貫いているのではないかと感じたので、それを景色として浮かび上がらせてみたいからだ。この軸線が開演前のBGMから、すでに端を発していることに注意を促したい。個々の作品はもちろん注目すべき出来なのだが、この日は10枚の最後に、かねてからダントツの年間ベスト・ワンと喧伝されていた大作Tyshawn Sorey『Pillars』が控えていることがあらかじめアナウンスされており、さらに配られた資料でも明らかになっていたため、無意識のうちにそのクライマックスに向けて、聴き手の側が上演を「演出」してしまったのかもしれない。

それまで2作品続いた「内部の機械仕掛けを透かし見せる過剰な透明さ」が、ここで分厚い「壁」に行く手を阻まれる。Henry Threadgillのバンドの中核を担うHoffmanは、本作でも大編成を駆使して、多方向にもつれ絡まり合う音響を編み上げているのだが、その広がりは極めてローファイで解像度が低く、過飽和状態で重なり合う音塊は渾然一体、ベタ一面、奥を見透かそうとする耳の視線をにべもなく跳ね返し、奥行きというものを生じさせない。楽器クレジットにloopsを挙げている奏者が多いことからして、これは決して録音の失敗ではなく、考え抜かれた確信犯に間違いあるまい。

「フェンダー・ローズの魔術師」Dumoulinとヴォイスとエレクトロニクスを操るLynn Cassiersの「Lily Joel」の二人は、互いの様々なプロジェクトに参加しあっており、ここでも一緒だ。本作でDumoulinはフェンダー・ローズを用いていないということで、代わりにエレクトリック・ギターとしか聴こえないシンセサイザーの細いうねりを響かせる。彼とCassiersの女性ヴォイス、バリトン・サックスがリード・セクションを担うが、とりとめのない漂泊感が立ちこめ、サックスのソロのとらえどころのない無機質な感触が、さらにそれに拍車をかける。一方、匠Eric Thielmansはドラムを極めて繊細に叩き分けている。過飽和な充満や濁りとは無縁ながら、白日夢的な曖昧さの中で、やはり伸ばした指先は対象に触れることができない。確かさのない、いや、確かさへの紐帯を丁寧に一つずつ切断していった世界と言うべきか。妙に明るい半透明な閉域。
ここでも蛯子から「病んでいる感じ」、「本人が言いたいことを聞き取るのが大変」、「収拾がつかない」、「ジャケが怖い」等の核心を射抜くコメントが提出された。一見簡素なジャケットのドローイングの恐ろしさ(私もこのジャケは相当怖いというか「ヤバい」と思う)に鋭敏に感応するあたり、流石はデヴィッド・リンチ『ツイン・ピークス』のファン(笑)。

基本的にはクラリネット一本で描かれる壮大な音響絵巻/サウンドスケープ(ちなみに今回聴いた曲は「the Canto of Ulysses」と題されている)。多重録音も用いられているのだが、あらかじめ作成した音響パーツを組み立てるのではなく、一筆の音の運びから迸る勢い、滲みだす広がり、たちのぼる香りによって、世界を構築しようという極端に限定した集中がひしひしと伝わってくる。それゆえ音色の肌理の変化、ロングトーンの内部に現れる各層のもつれやねじれ、倍音のたゆたい、気息音における息の流れや粒子の衝突・交錯、ドローンへと沈み込んだ際の生成への注視(特に平坦に引き伸ばされた薄層間の繊細なバランスとミックスの変容)等、駆使されるありとあらゆる鋭敏さが、聴き手の皮膚をピリピリと励起してくる。
蛯子「優しく丁寧」、益子「そこで鳴っている音を実に注意深く聴いている」は全くその通り。これを「サウンドスケープ」として、すなわち自然の音風景に類似・近似した相当物をつくりあげる試みと解するならば、多田「自然の複雑さにはかなわない。どれがどの楽器の音か透けて見えてしまう」とのコメントも頷ける。しかし、洞窟内に異国的・異教的メロディが響き渡る場面等を見ると、ここでCymermanはかなり観念世界に傾いており、むしろ文学性、物語性、ストーリー・テリングの線を目指しているのではないかと思われる。当日、本作以前にかかったLisbeth Quartett(挟間美帆のバンドのメンバーCharloote Greve参加)『There Is Only Make』に対する蛯子の的確極まりないコメント「ジャズから文学性を取り除くと、悪い意味でのフュージョンになる。マシーンとしての性能は高いが、それに見合うストーリーがない」を参照したい。

そしていよいよ本作に至る。CD3枚、LP2枚でリリースされ、しかもLP版はCD版の単なる抜粋編集ではなく別内容だというから、結局ディスク5枚をすべて聴かないと全貌が掴めないという怪物的大作。
益子は本作について「聴くこと自体を問題にしてくるので、これを聴いた後、他の作品を聴けなくて困った」、「緩やかな時間の流れの中に変化があり、詰まるところ、全編を聴き通さないとわからない。どの場面を抜粋して聴いてもらえばよいか悩みに悩んだ」と語っていた。多くの演奏者がクレジットされているが、一度に大人数で演奏することはなく、ソロやデュオの場面が多いという。実際に当日流されたのは次の二つの断片。 「Pillars Ⅰ」 3:58〜9:58 「Pillars Ⅲ」 33:16〜41:04
最初の断片はSoreyとTodd Neufeld(g)によるデュオの場面。出音は間を置いて間歇的に放たれ、各々の金属打楽器やギター弦に対するアクションは俊敏きわまりないが、互いの挙動に反射的に対応し、LEDセンサーをチカチカと点滅させるせわしなさとは全く無縁で、時間は何事もなかったように悠然と流れ続ける。その点で、蛯子のコメント「安心感がある。何かがずっと安定してある」には大きく頷かされる。
その一方で、これらの演奏が何を目指し、何をかたちづくろうしているのかは、これだけの聴取からは正直浮かんでこない。「瞑想的」なだけの、あるいはある種のゲンダイオンガクを模した「ナンチャッテ」演奏でないことは、個々の出音のただならぬ強度、あるいは深々とした超低域の広がりまでをとらえた驚異的な録音からも明らかだが、やはり「群盲、像を撫でる」にとどまり、全体像へと至ることのできない感じは変わらない。個々の出音は手触れるほど細部まで克明に見届けられるのだが、それらが組み合わさった作動ぶり、巨大機械の成り立ちが見えてこない。いわば細部の極端な透明性が積み重なり、寄せ集まって究極の不透明性と言うべき不可視性を帯びているということだろうか。

Tyshawn Sorey『Pillars』参加の面々
益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 32
2019年1月26日(土)
綜合藝術茶房喫茶茶会記
ホスト:益子博之・多田雅範
ゲスト:蛯子健太郎(ベース奏者/作曲家)
