うねりと濁り 「星形の庭」@下北沢leteライヴ・レヴュー Swells and Turbidity(Unclearness) Live review for "The Pentagonal Garden" @ lete , Shimo-Kitazawa
2019-08-19 Mon
1.椅子をぴったり詰めて四脚分ほどしかないスペースに、三人の演奏者がどう入るのかと思っていたら、写真の通り、向かって右奥にVOXの小型ギター・アンプ、その左にヴァイオリン、手前にエレクトリック・ギターとディレイとペダル、さらにその左手前にアコーディオンと楽器が置かれ、その傍らに各演奏者用の丸椅子が配されていた。
ほどなくして演奏者たちが登場し、椅子に腰を下ろす。津田が弓に松脂を塗る音が響く。気がつくと三人は狭い中に膝を突き合わせ、まるで正三角形の炬燵の鍋を囲むように向かい合っていた。
津田がギター弦に当てた弓を垂直に引き上げる。珍しく太筆による幅と厚みのある線が引かれる。ヴォリューム・ペダルがベタに踏み込まれている。ややフラジオ気味のヴァイオリンがそれに寄り添い、響きを重ね合わせ、微かに揺らがせる。見分け難くひとつになってごうごうと鳴り響く音流の中に、幾つもの筋が浮かんでは消える。倍音がぶつかり合い、眼の前にそそり立つ音の柱とは別の「もうひとつの音」がふと鳴り響いては、また別のところに移り変わる。Tony Conrad『Early Minimalism』を思わせる増幅/濃縮された轟音の只中で、ギター弦と弓が擦れあうか細い金属質のささくれが、微かな音であるはずなのに、ふと聴こえてくる。この「音楽劇場」が永遠に続けばいいのにと夢想するうち、エレクトリックな轟音は次第に逆巻くうねりを抑え、ゆったりと左右に揺れ傾ぐようになり、そこにアコーディオンが加わって曲のイントロを奏でる。いつもより太く厚みのある音が思い切り良く放たれ、オブリガードを奏でるヴァイオリンもまた、それに寄り添うというよりは大胆に身体を預け、体重を乗せていく。弓奏ギターはその傍らでヴィオラ・ダ・ガンバを思わせる補足倍音の多い音を編んでいる。
演奏は切れ目なく次の曲に移り変わる。ギターの爪弾きによるイントロに、食い入るように荒々しく波頭をもたげたアコーディオンが突っ込み、そのまま覆い被さっていく。いつもは細く絞り込まれ、禁欲的なまでに揺るぎなく水平に保たれる音が、あからさまにうねりを迸らせ、やがてヴァイオリンにバトンを引き継いでいく。
ここでは、これまでの「星形の庭」とは全く異なるアンサンブルのあり方が示されている。

2019年8月17日のステージ配置
2.
下北沢leteの、水道橋Ftarriはおろか、喫茶茶会記よりも、Permianよりも、「ここから」よりも、Liltよりも間口の狭いちっぽけなステージには、やはり魔法がかかっているのだろうか‥‥。そう思わずにはいられないくらい、昨日8月17日に行われた「星形の庭」のライヴは素晴らしかった。leteでの「星形の庭」ライヴと言えば、前回5月14日(火)のライヴを、このブログで激賞しているから、それも当然のことと思われるかもしれない。だが、それは違う。前回はデュオ編成であり、その演奏/交感の濃密さに打たれた。しかし、今回はトリオ編成による出演であり、その演奏に私はずっと不満と不安を感じていたからである。
津田貴司のギターと林(佐藤)香織のアコーディオンのデュオによる結成時の「星形の庭」に林享のヴァイオリンが加わったトリオは、当然のことながら、アレンジや演奏の絡みの可能性を豊かにすることが期待される。しかし、私が横浜The CAVEや文京区立森鴎外記念館で聴いた演奏では、ヴァイオリンが本来持っている音色、「鳴ってしまう」響きの豊かさが、あるべき隙間を塗りつぶしてしまっているように感じられた。
そこで楽器の音は、か細く不安定で脆く壊れやすい物音の段階を脱ぎ捨てて、最初から確かな「楽音」として現れる。その確かさを踏みしめて広げられる響きの翼は、アンサンブルにオーケストラ的な厚みと豊かさをもたらす。だが、その陰で失われてしまうものもある。ひとつ例を挙げるならば、私が「星形の庭」を初めて聴いて、思わず耳が惹き付けられた「ピシピシ、パチパチ‥‥」という囲炉裏の薪が爆ぜるような、しんしんと冷え込む夜中に洗面器の水が凍っていくような、鍵盤を押さえずに開閉されるアコーディオンの蛇腹が立てる微かな物音がそれだ。その音は私にとって「星形の庭」のシンボルと言うべき存在であり、前回、5月14日の演奏で、その音が回帰してきたことを無邪気に喜んでいる。
私は単に自分が決めつけた古い鋳型を彼/彼女らに押し付けているのだろうか。そうは思わない。というのは、研ぎ澄まされた細く硬いペン先が刻み付ける筆蝕から次第に淡く広がるインクの滲みや、キャンヴァスに擦りつけられたほとんど乾きかけた筆が辛うじて残す掠れが、眼を凝らすうちにタブラ・ラサと思われた無垢なキャンヴァスに潜む凹凸や傷、微かな染みや汚れを浮かび上がらせ、そこに幾つもの不定形の形象を結びながら、さらに身を沈め交感を深めていく‥‥。そうした演奏の次元を有することが、彼/彼女らのかけがえのない特質ととらえているからである。それは「音響」の汲み尽くし難さにより、不可視の「環境」を浮かび上がらせ、それとの即時的な交感を通じて「即興」演奏の軌跡を産み出していく。そこには音を放つこと以前に聴くことの深みがあった。
対して、そうした細部を有することのない均質な楽音は、前述の次元を持つことができない。メロディの変奏やリズムの変化、テンポやイントネーション、アーティキュレーションの変容といった、通常の楽曲解釈の「閉域」に留まることになる。逆に言うと、聴き手の耳は、「聴くこと」の深みへと、それ以上降りていくことができない。
完成された古典楽器であるヴァイオリンを迎えた「星形の庭」の演奏に、私の耳は空振りを繰り返した。響きに触れようと伸ばした指先は空を掴み、オーケストラ的な絵柄の全幅を、引いたところから遠巻きに眺めるしかなかった。

2019年5月14日のステージ配置
3.
この日の彼/彼女らのアンサンブルは思い切りの良い厚みをたたえ、勢いのあるうねりを保ち続けていた。それらが濁りや不透明さを招き寄せるのを恐れることなく。
私が「星形の庭」の演奏に、前述の次元でフォーカスしていたのは、あらかじめ記譜された楽曲の演奏であろうとインプロヴィゼーションであろうと、まずは聴くことに身を沈める彼/彼女らの身体のあり方へのチューニングがあった。そしてもうひとつ、そうしたフォーカシング、微視的な耳の眼差しの接近を、どこまでも受け入れるサウンドの透明度の高さがあった。細く張り詰めた線、希薄な倍音の広がり、いやそれだけでなくもうもうと立ちこめるシューゲイザー的な充満にあってさえ、耳の視線はどこまでも響きに肉迫し、一様に塗りつぶされた音の壁に突き当たり行く手を塞がれることなく、その細部へ、襞の奥へと入り込むことができた。その象徴であり、また指標ともなっていたのが、先に述べたアコーディオンの蛇腹が立てる「ピシピシ、パチパチ‥‥」という微かな物音にほかならない。
新たに加わったヴァイオリンが、そうした音の壁を持ち込んでしまった後ですら、彼/彼女らは「濁り」を嫌っているように思われた。空間を埋め尽くさぬよう音の懸隔を確保し、さもなくば寸分の狂いなく重ね合わせ、呼吸をゆったりと平らかに保ち、先を急がぬこと。にもかかわらず、「ピシピシ、パチパチ‥‥」は聴こえなくなっていた。
しかし、この日の演奏は決して「濁り」を回避することなく、むしろ積極的に招き入れ、随所で効果的に活用していた。ヴァイオリンが能う限り細く希薄な音を放ち、それにアコーディオンの響きが寄り添って醸し出す朝もやを思わせる不透明さが、二人の呼吸のズレに促されてゆるゆると動いていく。あるいは思い切りよく立ち上がり、そのままダイヴして他の誰かの音に乗っかり、そのまま体重を預けていくヴァイオリンやアコーディオンの振る舞い。ヴァイオリンの参加による高音域へのシフトとバランスを取るギターの低弦のブンと撓んでうなるような強調。その結果生み出される乱れや歪み、うねりが音の厚みをいや増し、押し寄せ高まる波が交錯し波頭を打ち付けあう。
別の言い方をすれば、デュオ編成で互いに分かち合う2分の1ずつを、トリオ編成では3分の1ずつに‥‥というような「換算」を彼/彼女らはもはやしていなかった。ヴァイオリンの出音のサイズが小さくならないのであれば、たとえ全体が過剰になろうと、まずはサイズを揃えてしまえばよい、という単純明快な(パンクな?)思い切りがあった。
もちろん濁りを招き入れたからと言って、決して聴くことが蔑ろにされたわけではない。ここで「聴くこと」は、「耳の眼差し」が見通す透明性の次元から、水底の闇で水の動きを感じるようなより皮膚感覚的かつ全方位的なものへと歩みを進めている。考えてみれば、三人が膝詰めで向かい合う配置は、まさにまずは互いが聴き合うためのものであり、そしてそのように聴き合いながらミックスされたサウンドを、ステージの形をした「サウンド・ボックス(モニターにしてミキサー)」から客席に向け放射するためのものにほかなるまい。
津田がツイッターやFacebookで引き合いに出していた(そしてこれまで私にはちっともピンと来なかった)Velvet Undergroundも、今ならすっと理解できる。ひとつにはTony Conradと共にLa Monte YoungのEternal Music Theatreに参加していたJohn Caleが持ち込んだ倍音が(近接音程での基音もまた)ぶつかり合うドローンの生成において、もうひとつにはパンク・ムーヴメントに遥かに先駆ける衝動の技術を介さぬダイレクトな発露において。
4.
トリオ編成による「星形の庭」のことを記していて、なぜかふとTin Hat Trioの名前が頭に浮かんだ。サンフランシスコを拠点として活動する彼/彼女らは、アコースティックな器楽トリオ編成で、ラテン音楽をはじめ民族音楽まで幅広く素材を渉猟し、リズム・セクション無しの三人が自在に役割を取り替えながら「チェンバー・ポップ」などという呼称が野暮に感じられるほど、洗練の極みと言うべき洒脱な演奏を聴かせる。超絶技巧のひけらかしなどまったくなく、演奏マナーは極めてさりげないのだが、それでいて必要にして充分な表現を自由自在に生み出す技量の冴えにほとほと感心させられた。一時はよく聴いていた。最初はなんでそんな名前が急に浮かんできたのか訝しく思ったが、改めて確認してみるとTin Hat Trioもまた男性二人、女性一人によるギター、アコーディオン、ヴァイオリンの編成なのだった(ただし、こちらの紅一点はヴァイオリン奏者のCarla Kihlstedtだが)。ポップな親しみやすさをキープしながら、同一編成においてミュージシャンシップを極限まで発揮した感のあるTin Hat Trioを対極に置くと、今回の(もしかすると今後の)「星形の庭」のあり方が見えてくるような気がする。



Tin Hat Trioのアルバム
5.
正直なところ、期待と不安では後者の方が大きく、それゆえ直前まで観に行くか決めかねていたライヴだったが、これまで記してきた通り、彼らの飛躍的成長を見届ける結果となったのはうれしい限りだ。もちろん大きな変化を迎えているがゆえに、まだ細部には綻びが多い。特にギターがフィンガー・ピッキングによる丸みのある、だが不定形にひしゃげたミュート気味の音色で、そぞろ歩くような三拍子を刻み続ける曲(新曲か?)では、蝋燭の揺らぐ炎のように伸び縮みする間合いを踏まえながら、水平にまっすぐたなびくアコーディオンのコード弾きとそれに斜めに交わっていくヴァイオリンのオブリガートが推進力を生み出していかなければならないが、長くは続かない。だが、それはむしろ「伸びしろ」の大きさを物語るものだろう。
個人的なリクエストとしては、冒頭に記したTony Conrad『Early Minimalism』を思わせる部分を、トリオ全員の演奏に拡張し45分間やってもらいたいところだが、実現は難しいだろうか。
これはまったくの余談だが、ライヴ前の夕食をleteの近くのタイ料理屋で取ったのだが、ソムタム(青パパイヤのサラダ)がとりわけおいしかった。この料理を初めて食べたのは、マレーシアの北部でタイ国境に近いコタバルの屋台なのだが、その後、国内で何度食べてもずっとピンと来なかった。細切りにした青パパイヤの固めの歯触り、歯応えとともに、辛味と酸味が立ち上がりよく鼻に抜け、ナンプラーや小エビを発酵させた蛯醤の混じり合った濁りのある重たい旨味が甘みを携えて舌の中央から根元にガツンと来る。内側から怖々と輪郭をなぞるのではない、手早く思い切りの良い調理ならではの見事な出来。店の雰囲気も常連が多そうであるにもかかわらず、私のような一見客にもとっても気のおけない感じで良かった。大層元気な女性店主によれば、leteのライヴ客もよく来るという。水道橋Ftarriの讃岐うどん(笑)ではないが、ライヴ演奏といっしょに食事も楽しみにできるというのは何とも幸せなことだ。

http://tit-chai.com/
2019年8月17日(土) 下北沢lete
星形の庭(林享violin, 林香織accordion, 津田貴司electric guitar)
※当日のライヴからの抜粋録音を次のURLで聴くことができます。
https://soundcloud.com/tsuda-takashi/live-at-late-2019817
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