2020-11-30 Mon

つい先頃、松山晋也の監修・編集により発行された『カン大全 永遠の未来派』に執筆参加した。マニアックかつ重厚なのに、思いがけず売り上げ好調と聞いて驚いている。敬愛の込められた丁寧なつくりで、中身が濃いことは保証しよう。ここでは遅ればせながら、本書の全体の構成と拙稿の位置づけ、そこに盛り込んだ視点等について私見を述べることで、理解の一助としたい。
1.「大全」が目指すもの
ここで「大全」とは、トマス・アクィナス『神学大全』等に通じる「スンマ(summma)」のことだとすれば、それは単に大量の情報の集積のみを意味するものではない。「スンマ」とは総合や体系を意味し、『神学大全』においては、論点をすべて網羅し、体系的に組み上げることが目指された。
本書が「大全」を名乗る自負は、表紙に掲載された、ごく簡略化された目次構成ですでに明らかである。そこにはこう記されている(後で言及しやすいように番号を付した)。
1 カンの物語
2 シュトックハウゼンとWDRスタジオ
3 クラウトロックを育んだ戦後ドイツの風景
4 ユーロ・フリー・ジャズの勃興
5 カンの構成分子
6 カンのDNA
7 ロング・インタヴュー
8 ディスク・ガイド
通常、こうしたアーティスト特集本は、バンド・ヒストリーとディスク・ガイドを軸に構成される。そこに資料としてのアーティスト・インタヴューや、全体を展望する対談・鼎談等が加わるのが定番であり、後は様々な論者が自論や蘊蓄・トリヴィア、さらには個人的・世代的な思い出や感想を語ったり、ディスク・ガイドをシーン全体や影響関係に広げることがよく行われる。
対して本書においては、バンド・ヒストリーを詳細に語りつつ、全体への展望を与える「カンの物語」とロング・インタヴュー、ディスク・ガイド以外の部分を、2〜4のカンの多面性(あるいは多様体としてのカン)について論じる部分と、5〜6のカンの構成分子/DNAについて論じる部分という2つの視点で統括することにより、カンに関する論点を網羅的かつ体系的に構築することが目指されている。
冒頭にひっそりと置かれた序文「永遠の未来派」は、1970年代にカンを形容した「40年先を行く音楽」との賞賛が40年以上経過した現在もなお有効であることを宣言し(ここで「未来派」はマリネッティと何の関係もない)、続けて次のように編集意図を説明する。
60年代末〜70年代末のおよそ10年の活動期間に残された11枚のアルバムは、途切れることなく世界中で聴き継がれ、新しいリスナーたちを感嘆させてきた。その遺伝子を受け継いだミュージシャンたちはこれからも増え続けるはずだ。
本書はその“永遠の未来派”をさまざまな角度から検証し、全貌を明らかにするために編まれたものである。
ここで「さまざまな角度から検証」が必要なのは、カンが通常のロック・ミュージックの文脈には収まり切らず、また、語り尽くせない多面性を有しているからにほかならない。そこで、まず3として、単に同時代のロック・シーンを俯瞰的に展望するだけでなく、その多様な現れについて触れ、さらにそれらを生み出した文化的・社会的背景に視線を届かせることが求められる。続いて、彼らの持つ多面性の大きな要因となっているシュトックハウゼン(電子音楽)と同時代のヨーロッパのフリー・ジャズについて、それぞれを取り扱う2・4が用意される。
他方、「遺伝子」という時の流れを経て受け継がれていくものと、40年経ってもいまだに古びず触発的であり続ける、時を超えた「永遠性」とが交差することにより、「遺伝子の乗り物」としてのカンのあり方が浮かび上がる。彼らは出来上がった結果を貼り合わせるのではなく、生成のプロセスを束にする。そうした生成流動性こそが彼らの「永遠の未来」性を可能にしている。この流れをたどるために5・6が用意される。そこに見られる多様な要素や現れは、先に見た多面性の別の姿でもある。

2.カンの構成分子〜火星からやって来た音楽人類学者
私は「カンの構成分子〜火星からやって来た音楽人類学者」を、こうしたパースペクティヴの下に執筆した。それゆえカンを生み出した影響関係を、スタティックな「影響源の一覧表」としてではなく、そこに作用した、そして今も作用し続ける諸力間のダイナミズム/緊張関係として描き出すことを目指した。冒頭でペーパー・クロマトグラフィに触れているのは、一見した限りでは一様に溶け合って見分け難い諸成分が、ある力(表面張力と浸透力の差異)に突き動かされて、濾紙上を移動しつつ互いを分離し、それぞれの存在を明らかにするという動的なプロセスのダイナミズムを、読者に視覚的にイメージしてもらうための仕掛けである。
「カンの構成分子」とは、松山から原稿依頼を受けた際の「お題」である。普通なら影響源とか、影響関係と呼びそうなところだ。その時にも彼と話したのだが、ここには「プログレとはロックがクラシックやジャズの影響を受けて生まれた音楽である」というような粗雑な図式的理解とはまったく異なるパースペクティヴがある。図式では他からの影響を受ける対象としての「ロックなるもの」があらかじめ動かし難く前提されているのに対し、「構成分子」には、そのようなあらかじめ準備された核や軸が存在しない。すべてが構成的である。そして、それこそがカンの本質にほかならない。
カンの独自の「レパートリー」として、E.F.S.(Ethnological Forgery Series)の連作があることはよく知られている。それらの「ナンチャッテ民族音楽」は、「単なるフェイクではなく、それを構成する各要素を徹底的に解剖・分析した上で、再構成・再創造するという冷徹なプロセスを経てつくりあげられている。」【本書p.119】
ここで私は『2001年宇宙の旅』に登場する、異星人がごく断片的な情報から分析の限りを尽くして再現した「地球人の部屋」を例に引いている。細部まで完璧にコピーされた精巧極まりない、だが実物とはあり得ないほどに決定的に遠く隔たった「異物としてのシュミラクル」。カンにとっては、そもそもロック・ミュージックそれ自体が、自らの手持ちの要素ではなく、そのようにシュミラクルとしてつくりださなければならないものだった。人類の滅亡した地球を訪れた火星の音楽人類学者が、そこに残るわずかな痕跡から「地球人の音楽」を探求・理解・再創造しなければならないように。

スタンリー・キューブリック『2001年 宇宙の旅』より
E.F.S.から『2001年宇宙の旅』ヘの補助線を明確に引いたのは、津田貴司とともにナヴィゲーターを務めているリスニング・イヴェント『松籟夜話』の第七夜に関し、AMEPHONEの作品を光源に音世界を照らし出そうと、二人でプログラム構成に考えを巡らしていた時だった。「捏造民俗音楽」という視点によるセクションの選盤に当たり、その発想の源であるカンのE.F.S.連作を聴いてみたのだが、どうもパッとしない。AMEPHONEの想像的構築とは異なり、民俗・民族音楽のフィールドレコーディングの持つ強度に、カンの捏造ぶりが対抗し得ないのだ。これは決して時代的な限界ではなく、カンによる「捏造」行為自体が、民俗・民族音楽それ自体をターゲットにしていたのではなく、ロック・ミュージックをシュミラクルとして再構成・再創造しながら、その「ロック・ミュージック」というフィルターを通して民俗・民族音楽を捏造していることに思い至った。E.F.S.には、エスノ・ミュージックならぬ「エセノ・ミュージック」という「名訳」があるが、それにならえば、カンは最初からエスノ・ロックではなく「エセノ・ロック」を演奏していたのだ。
カンとはロックの「部外者」であり、だからこそロック自体を解剖・分析し尽し、冷徹に再構成・再創造できたとの認識を得たのは、もっとずっと遡る。1980年代の初めだったと思うが、当時、池袋西武「アール・ヴィヴァン」レコード売り場を担当していた田島敦夫(芦川聡から引き継いだ二代目店長で、彼自身「はたご屋」名義でカセット・テープを自主制作するミュージシャンでもあった)から、「カンって、いったいどこが面白いんですかね」と突然尋ねられて、咄嗟にそのようなことを説明した記憶がある。このことは、私が当時からカンをその分析/構成力において、すなわちメタ・ロック的な視点から評価し、それゆえ当時のニュー・ウェイヴへの影響を含めて歴史的に重要ととらえながらも、音楽それ自体としてはあまり評価していなかったことを証し立てている。白状してしまえば、それは今でもさほど変わらない。今回、改めて聴き直してみて、マルコム・ムーニーとの絡みはやはり素晴らしいと思ったけれども。
さて、ここで少々舞台裏を明かしておけば、「火星の音楽人類学者」とは、ひとつにはティエリー・ド・デューヴによる美術批評『芸術の名において デュシャン以降のカント/デュシャンによるカント』に登場する「火星からやって来た民俗学者あるいは人類学者」のもじりであり、もうひとつには文中でもその名を挙げているマルセル・モースの門下であり、『始原のジャズ』を著した民族音楽人類学者アンドレ・シェフネルにちなんだものである。マルセル・グリオール率いるダカール=ジブチ調査団に、シェフネルと共に参加したミッシェル・レリスも、また熱狂的なジャズ愛好家だった。この辺については、昼間賢による『始原のジャズ』訳者解説が詳しい(この訳者解説だけでもぜひ読んでほしい)。
「通常のロック・ミュージックの文脈には収まらない」部分として、現代音楽、電子音楽、フリー・ジャズ、雅楽を含む民族音楽等からの「影響」(直接的な引用や模倣から、触発による再創造や捏造に至るまで)を中心に採りあげているが、音楽以外の文脈にも言及している。これは特にカンの場合は必須だ。大きいのはフルクサスからの影響だろう。忌まわしきファシズム体制への反発・忌避もあって、「リーダーなし」の対等なネットワークへの志向が彼らの共感を呼び、グループの基本思想として根付くこととなったのは、ごくごく自然な成り行きだったろう。おそらくは、このことの別の側面での現れとして、彼らがグループをシンボライズするヴィジュアル・イメージを固定しなかったことも指摘しておいた。『フューチャー・ディズ』のカヴァーをはじめ、デザインとして秀逸なものも多いから、彼らがヴィジュアルに無頓着だったとは言えまい。「CAN」との命名通り「何にでもなり得る、何でも放り込める、それ自体としては空っぽなスペース/プロセス」として自らをとらえていることの、確信犯的な表明だったのではないか。


『始原のジャズ』 ダカール=ジブチ調査団の面々
「ロック自体を再構成・再創造する」というメタ・ロック的な取り組みに関し、論稿ではディス・ヒートとジョン・ゾーンによる「ロクス・ソルス」のプロジェクトを、「カンと同じ行動を起こした者たち」として挙げている。これは本書が送られてきて、通読して初めて気づいたことだが、「カンの構成分子」と対を成す「カンのDNA」のディスク100枚にはディス・ヒートもジョン・ゾーンも含まれていないが、ホルガー・シューカイ『ムーヴィーズ』のディスク・レヴュー(筆者:岸野雄一)において、いささか角度こそ異なるものの、ディス・ヒートとジョン・ゾーンの名前が触れられている。リスペクトの表明や楽曲のカヴァーを含む直接的な影響関係と、系譜学的な類似(ここでは演奏現場や音楽生成の瞬間における諸力の交錯/衝突をどう制御/発展させるかという姿勢の共通性を指す)との視点の違いだろうか。


『ディス・ヒート』 『ロクス・ソルス』
3.ユーロ・フリー・ジャズの勃興〜独自「武装」による非米国化を目指した者たち
ヤキ・リーベツァイトがマニ・ノイマイヤー(グル・グル)と共に、アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ『グローブ・ユニティ』にドラマーとして参加していることは、ジャーマン・ロック・ファンに広く知られていよう。それ以前にも、リーベツァイトはマンフレート・ショーフのグループで活動していたわけだから、その時点でジャーマン・フリー・ジャズ・シーンの只中にいたのは確かだ。
その一方で、数少ないインタヴューでも繰り返し語っているように、彼が「フリーの不自由さ」に飽いてカンに参加したのも事実である。こうしたことを踏まえれば、単にカンの同時代現象としてジャーマン・フリー・ジャズ・シーンをとらえるだけでは、「大全」の構築には不充分であることが見えてくる。これに対応して私が本原稿執筆に当たって用意した三つの論点に関し、以下に述べることとしたい。
(1)黒人音楽からの独立
一つには、フリー・ジャズ・ムーヴメントを通じ、ヨーロッパのジャズが「黒人音楽としてのジャズ」から独立していくことである。ジャズという音楽が黒人起源、すなわちアフロ・アメリカン文化に根を持っていることを最初に示したのは、実は前述のアンドレ・シェフネル『始原のジャズ』である。「ジャズの本場」米国では人種差別の存在ゆえに、そうした理解は遅れていた。その後、ジャズにおける初めてのモダニズムであるビ・バップがチャーリー・パーカーら黒人演奏者により生み出され、第二次世界大戦後、豊かな米国文化の象徴として世界中に輸出される。その結果、たとえば我が国においては、戦時中に敵性音楽として禁じられていたジャズをこっそり愛好していた者たちが、「ジャズは白人の音楽とばかり思っていたが、実は白人によって差別されていた黒人の音楽だった」として、自らを黒人に重ね合わせる(これにより白人を両者共通の敵として浮かび上がらせる)という倒錯した理解も生み出された。
そうした黒人文化とジャズの結びつきは、人種差別に反対する黒人解放運動(ブラック・パワー)とフリー・ジャズが重ね合わされることにより、さらに強力なものとなっていった。その一方で、ヨーロッパのフリー・ジャズには、それとは異なる可能性が芽生えつつあった。もちろん、より演奏しやすい環境を求めて相次いで渡欧(短期間の楽旅を含む)黒人ジャズ・ミュージシャンたち、オーネット・コールマン、ドン・チェリー、セシル・テイラー、アルバート・アイラー、アートアンサンブル・オヴ・シカゴの面々、アンソニー・ブラクストン、リーオ・スミス等が、ヨーロッパにおけるフリー・ジャズの動向に大きなインパクトを与えたことは紛れもない事実であり、これらと切り離してシーンを論じることはできないが。
(2)ユーロ・フリー・ジャズを牽引したドイツ
二つ目として、この時期にはドイツのフリー・ジャズがヨーロッパ全体を牽引していたということがある。それゆえ「ジャーマン・フリー・ジャズの勃興」ではなく、「ユーロ・フリー・ジャズの勃興」なのだ。その原動力となったのが、ケルン音楽大学に新設されたジャズ・コースに集ったショーフ、シュリッペンバッハたちであり、ナム・ジュン・パイクを通じてフルクサスに関わり、いち早く自主レーベルを立ち上げ、独自の活動を切り開いていったペーター・ブロッツマンたちである。前者においては、そもそもケルンが二十世紀音楽の「聖地」であったことが大きい。ここで事態は「2 シュトックハウゼンとWDRスタジオ」と見事にクロスすることになる。
旗揚げ宣言となった『グローブ・ユニティ』に続き、ブロッツマン『マシンガン』、ショーフ『ヨーロピアン・エコーズ』と、立て続けに重要作が制作されるが、これらに参加したミュージシャンのネットワークはドイツ一国にとどまらず、ヨーロッパ中に広がることとなった。
(3)「ポスト・フリー」の探求
そして三つ目として、ヤキの飽いていた「フリーの不自由さ」に対する「ポスト・フリー」の模索が始まることである。
通常のユーロ・フリー・ジャズ史の叙述において、ドナウエッシンゲン音楽祭におけるドン・チェリーとぺンデレッキの邂逅は語られても、同時代にフリードリッヒ・グルダが撒き散らかしていた、オモチャ箱をひっくり返したような「世界音楽」的展開はあまり語られることがない。同様にICP、FMP、Incus等ミュージシャンにより設立・運営される自主レーベルの活動に比べ、それと同一平面でECMが採りあげられることは少ない。
実際には、ジョン・コルトレーンの死に象徴されるフリー・ジャズの行き詰まりが、「ポスト・フリー」に向けた探求を促し、そこでは様々な「可能性」(と思われたもの)に対し、数限りないアプローチが、まったくの手探りで進められた。フリー・ジャズ+ヨーロッパの現代音楽=フリー・ミュージックというのは、その混迷した現実に眼を瞑り、あっけらかんとスキップした貧しい図式的理解に過ぎない。いつだって、「正解」や「定型」が見出される前の混沌とした移行期にこそ、驚嘆すべきまったく別の可能性に満ちた試みが潜んでいるのだ。それらは先の「図式的理解」の照明の届かない、薄暗い階段の踊り場の隅や袋小路に置き忘れ、打ち捨てられている。そしてこのことは、過去においてそうであるというだけでなく、現在においても当てはまることを忘れてはならない。いつだって可能性は、完成された定型の繰り返しにではなく、手探りの試行錯誤のうちに開けているのだ。
「ポスト・フリー」の探求においてECMレーベルが果たした役割については、少々補足しておいた方がいいだろう。清水俊彦は記念碑的著作『ジャズ・アヴァンギャルド』に収められた論稿「ポスト・フリーのパラダイムをきりひらく二人の先導者」において、「ポスト・フリーの動きを可能な限りその全体的な広がりにおいて捉えるためには、まずいくつかの調子を狂わせるようなレコードを思い浮かべることからはじめるのがふさわしいだろう。」【同書p.175】と前置きして、次のような一連のアルバムを掲げる(番号は便宜的に付したもので原著にはない)。この13作品のうち※印を付したものがECMからのリリースであり、約半数の6作品もある。
1 アンソニー・ブラクストン『Anthony Braxton』
2 マリオン・ブラウン『Afternoon Of A Georgia Faun』※
3 スティーヴ・レイシー『Wordless』
4 バール・フィリップス『Bass Barre』
5 アンソニー・ブラクストン『Recital Paris '71』
6 チック・コリア『Piano ImprovisationVol.1〜2』※
7 ディヴ・ホランド、デレク・ベイリー『Improvisations For Cello & Guitar』※
8 バール・フィリップス、ディヴ・ホランド『Music from Two Basses』※
9 コリア、ホランド、バリー・アルトシュル『A.R.C』※
10 サークル『Paris Concert』※
11,12 ポールブレイ・シンセサイザー・ショウ『Dual Unity』『Improvisie』
13 スティーヴ・レイシー『Lapis』


マリオン・ブラウン ホランド&ベイリー
清水はこれに続けて、「こうした動きと重なり合うようにして、ヨーロッパのフリーのミュージシャンたちによる自主レコードが相ついで出はじめた。これらヨーロッパの新しい音楽美学は、レイシー、レオ・スミス、ブラクストンらのそれと奇妙に結びつく完全にコンテンポラリーな作品を生み出している」【同書p.176〜177】として、次の4作品を挙げている。
14 チカイ、メンゲルベルク、ベニンク『John Tchikai/Misha Megelberg/Han Bennink』(ICP)
15 ペーター・ブロッツマン『Nipples』(Calig)
16 エヴァン・パーカー、ベイリー、ベニンク『The Topography Of The Lungs』(Incus)
17 マンフレート・ショーフ『European Echoes』(FMP)
ここでは初期ECMの作品とICP、FMP、Incus、ブロッツマンの自主制作レーベルの延長上の作品(*)が、同一平面上に並べられている。ただし、ここで挙げられているECMの作品がいずれも米国のミュージシャンが主導あるいは参加したものに限られていることに注意しよう。この制限を取り払えば、ECMのカタログからたとえば次の作品がリストに加わったに違いない。
18 ジャスト・ミュージック『Just Music』
19 ベイリー、パーカー、ヒュー・ディヴィス、ジェイミー・ミューアほか『Music Improvisation Company』
20 ヴォルフガング・ダウナー『Output』
21 テリエ・リピダル『What Comes After』
*『Nipples』はブロッツマンの3作目であり、先立つ2作品『For Adolph Sax』、『Machine Gun』はいずれも彼自身の自主レーベルBroから最初リリースされ、後にFMPから再発された。なお、『Nipples』も初回ジャケットは中央の写真部分が実は折り畳まれており蛇腹状に伸びるという、いかにも手づくりなギミックが施されている。



『Just Music』 『同』オリジナル盤 『Music IMprovisation Company.』
先の13作品に共通する傾向として、空間への注目とそれへの挑戦的なアプローチを抽出し、それをリスト全体21作品に敷衍することができる。この視点から幾つか簡単にコメントしておこう。
たとえばそれは、1におけるサウンドのパペット・ショウとも言うべき、室内楽とは別の仕方で精緻に組み立てられたミクロな動きであり、2においては空間/距離を隔てた呼び交しや自らの(あるいは他の誰かの)放った音の響きに耳を澄ます「聴くことの重視」であり、この「聴くこと」の重視は空間をたっぷりとはらんだソロである3・4をまっすぐに貫いている。一方、5は管楽器からほとんど正弦波と聴き紛う純正な響きを引き出しており、空間と呼吸の精密な均衡を求めて、耳と皮膚と口腔のセンサー感度を極限まで高めている緊張がひしひしと伝わってくる。
7、8、14、16、19はすでにある沈黙に傷を付け、そこから演奏が新たな空間を切り開きつつ、グループとしての関係性をゼロから構築していくフリー・インプロヴィゼーション(フリー・ジャズからは切断されたそれ)であり、後に「クリスタル・サイレンス」として確立されるECMのレーベル・イメージとはおよそかけ離れている。初期ECMにおいては、こうした冒険的演奏にすら場所が与えられていたことに、改めて注意を喚起したい。
11,12,20では、電化/電子化による聴き慣れない、時には耳に痛いほど尖った不定形のサウンドが、空間に炸裂し、ねじ曲げる。よりクールな21では、電化により希薄化されたギターのたなびきと、自力で抽象的な空間を構築するコントラバスが相互に浸透しあう。6、9、10は今となってはいささかインパクトに欠けるが、6の傍らにキース・ジャレット『Facing You』、ポール・ブレイ『Open, To Love』を、9、10の隣りにはチック・コリア『Return To Forever』を、いずれも初期ECM作品から選んで並べるならば、当時は新鮮だった一つの風景が浮かんでくるだろう。
ここで特筆すべきは、サラヴァ・レーベルを支えた天才録音技師ダニエル・ヴァランシアンの全面協力を得た13における多重録音等も駆使した空間への多面的なアプローチであり、もうひとつは18において、集団即興演奏に対するありとあらゆる時間的/空間的指定を、事前の指示のみならずリアルタイムのハンド・キューやコンダクションを含めて総動員していく野心的極まりないアプローチである。それゆえ『カン大全』掲載原稿では初期ECMの諸作から代表として18を採りあげ言及した。
4.European Ecoes : Jazz Experimentalism in Germany 1950-1975
「ポスト・フリー」を巡る部分で、話が随分と長くなってしまったが、最後にもうひとつ、今回、もっぱら歴史的事実の確認のために参照したHarald Kisiedu「European Ecoes : Jazz Experimentalism in Germany 1950-1975」について少し触れておきたい。この論文はAACMの一員であり、『A Power Stronger Than Itself』の著者としても知られるトロンボーン奏者/作曲家のジョージ・E・ルイスの指導の下に執筆されている。ウェブ上で梗概のみならずほぼ全文(本文200ページ弱・英語)を閲覧できるので、興味のある方はぜひご一読いただきたい。単に先行研究をとりまとめただけでなく、関係者に直接インタヴューも行った労作であり、『グローブ・ユニティ』の時点のブロッツマン・トリオのドラマーが、スヴェン・アケ・ヨハンソンではなくマニ・ノイマイヤーで、だからこその『グローブ・ユニティ』参加となったことは、この論稿を読んで初めて知った。
なお、この論稿ではかなりの部分をミュージシャンの政治思想検討に当てており、その部分については、今回、基本的に活用していない。その理由は「音楽批評は政治から距離を置くべき」というようなことでは決してない。少なくともカンに関する限り、政治思想的な側面に注目する必要はないと考えるからだ。あえてそのように述べるのは、イルミン・シュミットが「大全」に収録されている以外の最近のインタヴューで「カンは『68年』のグループなんだ」と繰り返し表明しているためである。ここで「68年」とは、もちろん1968年5月のパリにおける「五月革命」やこれと同時期に欧米や日本で起こった学生叛乱を指している。カンの活動開始時期を考えれば、学生叛乱が同時代の出来事なのは明らかであり、カンと名乗る以前のジ・インナー・スペース時代に、いかにもアングラな政治風刺映画『Agilok & Blubbo』のサウンドトラックも手掛けているわけだから、当時の左翼勢力とつながりがあったことは確かだろう。にもかかわらず、あえてカンの政治性を否定するのは、ヤキ・リーベツァイトとホルガー・シューカイとダモ鈴木が政治的信条を共有するはずなど決してあるまいという確信(笑)もさることながら、もし本当に当時のドイツの学生叛乱や反政府運動にどっぷりと浸かり、あるいは共感して熱いエールを送っていたのならば、誰しもがまずパリ「五月革命」を思い浮かべる「68年」などを持ち出す代わりに、当時のドイツにとってはより切実だったはずの、社会主義ドイツ学生連盟の政治的指導者であった活動家ルディ・ドゥチュケの活躍や1968年4月に起こった彼の暗殺未遂(彼はその後も活動を続けるも、この時の後遺症に苦しみ続け、ついに40歳で生涯を終える)について、さらにはドイツ学生叛乱のその後の展開であるバーダー・マインホフ・グループ(後のドイツ赤軍)のテロリズム(ドゥチュケはテロによる直接行動に反対していたのだが)とウルリケ・マインホフをはじめ逮捕された幹部の不可解な獄中死について言及すべきではないのか。



『Agilok & Blubbo』 ルディ・ドゥチュケ 『See You at Regis Debray』
まさに彼らの死をテーマに作品を制作しているゲルハルト・リヒターのようなアーティストがドイツにはいることを考えると、イルミンの発言はあまりにも軽く、どうしても昨今の世界的な「68年」ブームに便乗した安易な売り込みのように思えてならないのだ。
我が国において日本赤軍に関して制作された映画・音楽等は枚挙に暇がないが、バーダー・マインホフ・グループというか、アンドレアス・バーダーについて、バーダーひとりしか登場しない特異な映画作品である『See You at Regis Debray』のサウンドトラックを池田亮司が担当していることを最後に付記しておきたい。



ゲルハルト・リヒターの作品から
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