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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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三次元の厚み ― ARICA『ミメーシス』公演レヴュー  The Depth of Three Dimensional Theatrical Space ― Review of "Mimesis" by Theater Company ARICA
0.前口上
 Theater Company ARICAによる新作『ミメーシス』公演の最終日を観ることができた。ごく控えめに言って、本作品は注目すべき力作であり、かつ問題作である。だが、テクスト/演出による虚実の反転や入れ子構造といったメタフィクショナルな操作に留まることなく、テクストに抗う身体を舞台に載せ続けている点において、彼らの作品はいつだって力作であり、かつ問題作ではなかったか。では、なぜいま改めて、そのように言い募る必要があるのだろうか。
 それは次の二つの理由による。まず、「ダンサーは振付が行為の大切な動因です。しかしアクターは振付では動くことは出来ません」と演出を担当した藤田康城が自ら述べているように(*1)、本来共約不可能であるはずの演技する身体とダンスする身体を舞台上で直接ぶつけ合わせたことがある。確かにこれまでもARICAは『ネエアンタ』、『Ne ANTA』において、ダンサー山崎広太を舞台に立たせたことがある。しかし、そこで「ダンスする身体」が出現したのは、テクスト/装置/演出によって画定された一定の時空間及び意味付けの中においてのみであった。今回のように、二つの異質の身体の「交通」を通して作品全体が立ち現れてくるわけではなかった。
 いま「画定された時空間」と述べたが、通常、演劇においては、テクストによる設定、舞台装置、衣装等により、あらかじめ様々な準拠枠が用意され(ピーター・ブルックの言う「なにもない空間」においても、このことは基本的に変わりない)、身体の運動(発声を含む)はその中に位置づけられることにより、安定した意味を担い得る。たとえ虚実が不確定で激しく振動していたとしても、まさに振動体としては位置と大きさ、振幅等が確定されている。それゆえ上演ごと、あるいは場面ごと、さらには瞬間ごとに生じ得る身体(の位置や運動、発声等)のブレや揺らぎを瑣末なノイズとして棄却し、安心して舞台を眺めることができる。細部まで注視せずとも、演劇記号として受け止められれば十分というわけだ。
 しかし、本作品において、そうした準拠枠はほとんど与えられないか、あるいは機能しない。観客は上演のすべての瞬間において、身体の位置と運動に、照明とそれがもたらす陰影に、演者がリアルタイムで発するセリフやあらかじめ録音された声を含む様々な音響に、眼を凝らし、耳をそばだて続けなければならない。決定的に重要な何かを見落とし、あるいは聴き逃しはしまいかとの不安に常につきまとわれながら。
 この準拠枠の欠如は、当然のことながら演者にもただならぬ緊張を強いることになる。互いの身体の運動がひとつに同期したり、あるいは束の間安定した平衡をかたちづくる時でさえ、それぞれの身体の作動原理の違いは、そこに質的な差異を生じさせ、まさにそうした生成を通じて上演は歩みを進めていくことになる。一寸先を見通すことができず、その瞬間にも足元から崩れかねない上演が彼らに与えた負荷は、いかばかりのものだっただろうか。この不安定さへの果敢な挑戦が二つ目の理由である。

 もとより、かく言う私も、そうした不安定さから逃れられはしない。眼を見開き、耳をそばだてて舞台に集中し続けたつもりではあるが、そこで生じた事態を見尽くし、聴き尽くし得たとは到底思われない。それほどに豊穣な上演であった。それゆえ、これから書き記すことは、あくまで私が感取し、記憶/記録に留め得た範囲内の事柄についてであり、これに基づく成形(そこには当然無意識の変形が含まれていよう)の結果でしかないことを、何時にも増して強調しておきたい。

 *1 https://www.aricatheatercompany.com/news/433/
   なぜかページを閲覧できないことがあるようなので、以下に、藤田康城「『ミメーシス』」公演を終えて」の主要部分を同ページから転載しておく。

 ARICAは創立当時から、空間と音を劇の核となるフレームと捉え、その中で生起し変化し続ける身体と言葉の緊張関係を見据えてきました。そして今回の『ミメーシス』では、強靭な身体性を持ったダンサーの川口隆夫氏を迎え、ARICAの安藤朋子と彼が正対し組み合ったことで、身体表現の新たな可能性が開かれる思いを感じています。
 ダンサーは振付が行為の大切な動因です。しかしアクターは振付では動くことは出来ません。テクストのイメージやモノを扱う具体的な行為を一つ一つ積み上げていくことで、やっとそれらを内実化し動けるようになるのです。稽古を重ねる中で、真逆とも思える行為のプロセスの違いに戸惑いながらも、しかしお互いがそれぞれの方法で充実した身体を獲得したときに、二人が共鳴する響きはとても豊かだったと思います。


1.戦場としての身体
 公演最終日とあって客席は満員だった。前方に開けた舞台には何ひとつ装置はなく、奥と左右に設えられたフットライトの列だけが唯一空間を仕切り、そこが舞台にほかならぬことを示していた。手前の床にも中央と左右の三基のライトが設置され、左右奥の角にはメインのPAと思われるモニタースピーカーが立っていた(見上げると客席の上にもBOSEのミニ・スピーカーが設置されていたが、上演中、どのように使われていたかはよくわからない)。
 暗転。空調が止められ沈黙が舞い降りると、みなとみらい線新高島駅改札の誘導チャイムが風に運ばれてくる。川口が舞台の中央左手寄りにひとり立っている姿が、斜め上方からの照明により浮かび上がる。黒いハーネスのようなものを身に着け、両腕を後ろに回し、踵を開き爪先を重ね合わせて、膝を痛いほどに突き合わせている。身体が極度に緊張し、引き攣れるほどに力が入っている様がひしひしと伝わってくる。身体の各部が震え、全体として小刻みに揺れているが動かない。顔をやや仰向けて斜め上方を睨んでいる。顔面は強ばり、やはり力が入っているのがわかる。だが感情的な表情は読みとれない。眼は開けている。
 音が聴こえてくる。はっきりはしないが街頭の環境音のように聴こえる。通行人の漏らす話し声や交通騒音、鳥の声……。細部が聴き取れないよう、あえて輪郭を不明瞭にしているのだろうか。
 川口のねじれた肢体/姿態と斜め上方に向けられた顔、それを劇的に照らし出す、やはり斜め上方からの光はエル・グレコの宗教画を思わせる(あの原色のハレーションはここにはないが)。当時のカトリック宗教画は、反宗教改革プロパガンダのためのメディアとして、宗教的法悦に包まれる受苦(パッション)の身体を執拗に描き出したのだった。

 そのままの状態が続く。全身を緊張させている力は一瞬たりとも緩むことがない(この持続が絵画とは異なる点だ)。先ほどとは顔の向きが変わっているから、首をゆっくりと回しているのかもしれないが、それはマネキン人形と化して静止を見世物にするパントマイム芸とはおよそ異なっている。あちらではスイッチがオフの安定した静止ポーズから、たとえば観客がピエロの身体に触れるとオンに切り替わって身体が作動し、また別の安定した静止ポーズに至る。もちろん重力があるのだから、すべての力が身体から抜けているわけではないが、少なくとも無駄な力は入っていない。最小限の力で安定した均衡を達成することが芸の秘訣であるだろう。こちらはその逆で、ありとあらゆる身体部位に無駄に力が入っている。多方向に勝手に動き出そうとする筋肉や腱、関節が一斉に立ち騒いで互いに抵抗し合い、結果として相殺し合って重力への抵抗だけを残し、震えながら屹立している。そんな具合だ。

 そのよじれた立ち姿は、以前に仕事で何度となく間近に接した重度脳性麻痺者の身体の在りようを思わせもする。わずかな言葉を発するにも力んで身体を震わせ、金属チューブを巻き取って練り歯磨きを絞り出すようにしないと、声そのものが出てこない。それが動かない身体を力任せに動かそうとしているのではないことを知ったのは、ずいぶん後になってからだ。たとえばリハビリテーションで関節の可動域を広げれば、それで身体が動くようになるのではない。身体を動かそうと、ある筋肉に力を入れる(力が入る)こと自体が、身体反射を通じて別の筋肉を動かしてしまう。随意的な運動に対し、常に抵抗するように不随意の反射が生じ、身体動作が妨げられる。すなわち身体を意図的に動かすとは、それ以外の部分を動かさぬよう、運動を厳重に抑制することなのだ。(随意的)運動の達成が(不随意的)運動の抑制にほかならないというのは、一見、逆説的に思えるが、乳児の発達過程において、原始反射や無軌道な動きが消滅して初めて随意運動の獲得に至ることはよく知られている。

 かさかさと落ち葉を踏みしめる足音にも似た音が聴こえる。続いては金属質の振動。列車の走行音とも。運ばれている感覚。自分では動くことができないが、運ばれて移動することは可能ということだろうか。受動的(パッシヴ)な身体。

 ここで川口の身体は多方向の力線に刺し貫かれ、立ち尽くしている。彼の意志(というものがあるとして)をよそに、彼の身体は群雄が割拠する「戦場」となっている。戦況は常に硬直状態で一進一退が続いている。この長い「静止」場面は、決して「身体障害者」といったキャラクター設定を提示するためのものではなく、こうした戦闘状態が絶え間なく続いていること、それが彼の身体の普段/不断のあり方、すなわち日常であることを示していよう(付加される音響はすべて日常の身体を取り巻く環境音である)。

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 写真 宮本隆司


2.大洋を漂流する二つの非対称な身体
 舞台右奥隅に安藤の黒い影が現れる。ラジオ体操の音楽がピアノで奏でられる。彼女はまっすぐ前を向き、音もなく左手方向にゆっくりと歩みを進める。左手奥の照明が強まり、川口の影が対角線上に長く伸びる。彼の顔は当初とはすっかり逆側を向いている。市場の掛け声のような音が混じる。安藤は川口の真後ろを通り過ぎ、さらに歩みを進める。音響のエコーが強まる。安藤が舞台左端に到着し、こちら側に向き直って、静かに川口に歩み寄る。手には赤いロープ。近づくにつれ圧迫感が生々しく高まる。
 安藤がやや斜めに進んで川口の右後ろに至り、ハーネスにロープの端を装着すると、そのまま右手側に離れる。ロープを持った手を右に突き出し、身体を横に開いてポーズを取る。合図するようにロープを引き、「あ・る・い・て・み・て」と言葉を軽く切断しつつ、指示を投げかける。「は・い」と答えた川口は指示に応じようとするが、身体の内圧が高まるばかりでうまく歩み出せず、足元が不安定なまま、身体がさらに奇妙に曲がってしまう。ロープで結ばれた二人の影が大きく拡大され、活人画のように後方の壁面に映し出される(安藤が身体を横に開いてポーズしたのは、おそらくこのためだった)。ここですでにロープが弛んでいることに注意したい。それはマリオネットの吊り糸のような対象を直接操作するための機構ではなく、「主従関係」を可視化/シンボライズするための装置である。影絵の方が、そのことをはっきりと映し出している。

 川口がつんのめって前方に倒れそうになり、後ろで組んでいた腕が解け、斜めによろけるように一歩、二歩と前に歩み出る。ロープが引かれ、元の位置に戻る。「も・う・い・ち・ど」。「は・い」。なけなしの歩みが、たちまちロープで引き戻される(前へと進むのと比べて、その速いこと!)。川口がひざまずき、腰を折って頭を床に着けてしまう。「い・た・い ?」、「は・い」とのやりとりに続き、「痛い。少し痛い。まだ」と録音された声が流れる。ぼそぼそとつぶやくようだが、決してたどたどしくはなく、発声に詰まることもない。いま眼の前の舞台で放たれている声とは異なるが、川口の声なのかもしれない。この「録音された声」は後で詳しく見るように、様々な問題を孕んでいる。ここではそのことだけを指摘して、先へ進もう。
 安藤がロープを手繰りながら川口に近づき、顔を彼に寄せて、幼い子どもにそっと言い聞かせるように語りかける。「あるいて。もういちど。わたしのあとについて」(発声の区切りは先ほどまでよりも目立たないものとなっている)。「は い」。「うなずき、うなだれる」と「録音された声」。川口が身を起こす。「びっこをひきながら歩く」と「録音された声」。ロープがピンと張り詰め、安藤が力を入れる。彼女の身体を軸、ロープを回転半径として川口の身体が円運動を始める。彼の身体が外側に大きく傾いてロープの張力と拮抗し合う。「傾いている」と「録音された声」。川口の速度が増し、ますます身体の傾きが大きくなって、安藤が引き摺られ位置がずれる。もはやロープによる回転直径が一定なだけで、回転の軸は安藤の身体を離れ、ロープ上を細かく推移している。「はやい。はやすぎる。おそくして。もっとおそく。おそくな〜れ」と安藤が子どもをやさしく諭すように声をかける。「遅くする。遅くなる。なり過ぎている。もつれる」と「録音された声」。川口の身体が動きを止めると、安藤が手に持っていたロープを床に放り出す(ただし、端は手放さない)。

 「正しく遅く。なって正しく。なって正しく背筋を……」と安藤が上機嫌で浮かれたように早口で繰り返す。ラジオ体操のピアノが戻ってきて、その高揚を下支えする。安藤の身体の動きがラジオ体操モードに移行していく。両手を回し、身体をひねると、ロープも大きく揺れる。川口はただ立ち尽くしている。「背筋を伸ばして……」と安藤が楽しそうにはしゃぎながら身体を動かす。照明フル。目映い光に照らし出される中で、ピアノ演奏のテンポがどんどん速くなっていく。安藤はそれに合わせて弾けたように身体を動かし、加速させ続ける。このスプラスティックに川口はまったく対応できない。突然ピアノが止まり、安藤も動きを止める。川口は身体内に余波が響き続けているかのように、しばらく身悶えている。
 再びピアノがゆっくり始まる。「背筋を伸ばし過ぎず。ときどき縮める」。深呼吸をし、身体をゆっくりと大きく旋回させる。ピアノのテンポがさらに遅くなる。「だらんと。時々だらんと」。ピアノがさらにさらに遅くなる。安藤がロープを手繰りながら川口に近づき、ハーネスからロープを外す。

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 写真 宮本隆司


3.「教える・教えられる」からの離陸
 安藤の登場からしばらくの間を、かなり細密に描写してみた。記録映像を参照しているわけではなく、リアルタイムでの記憶/記録に基づく記述でしかないから、欠落や誤認もあるだろう。しかし、ここで「交通」する二つの身体が、その役割/立場においても、また作動原理や運動の軌跡においても、異質で非対称的であること、にもかかわらず、それらは演劇の岸辺にも、ダンスの浜辺にも決して寄り付こうとせず、二つの身体の接触/距離(ここで赤いロープは、それを鮮やかに可視化/シンボライズするものとなる)を媒介としながら、次なる一瞬一瞬を生み出していることを、一定程度描き出し得たのではないかと思う。
 とはいえ、演劇的な物語にも、ダンス的なムーヴメントにも解消しきれぬ過剰さを、この先、どのように咀嚼したものかと、読んでいて途方に暮れる思いがするのではないか。実のところ、今回の舞台に接し、これと割り切って(決めつけて)飲み下すことができず、喉に詰まり、口中に溢れていく苦しさを、安藤の登場以降、しばらく感じていたことを白状しよう。

 公演会場で配布された二つ折りのプログラムで、演出の藤田康城は次のように述べている。

 今回、身体行為のミメーシスを、二人の登場人物の「教える・教えられる」という関係性の中から捉えようとしている。「教える・教えられる」の指示は、二人の間に結ばれた赤いロープで伝達される。だがいつしか、ロープ自体の暴力性が顕になっていき、操っていたはずの教える側の行為も、その赤いロープに拘束されてしまうかのようだ。

 「ネタバレ」することも厭わず、作品の成り立ちを明かし、全体を理解するためのヒントを提供するかのように見えるが、実はそうではない。これは舞台制作のスタートラインに過ぎず、上演を通じて彼らは作品をさらに深化させた。「教える・教えられる」立場という区分に基づく、二元的な理解が通用しなくなるほどにまで。
 ここで二元的な理解とは、「教える」安藤と「教えられる」川口という、二つの身体へのラベリングに相当する。この階層性は、教師と生徒、看守と囚人、主人と奴隷、親と子どもといった役割設定(準拠枠)によって保証されている訳ではないから、観客は安藤の意図的に「動くことのできる」身体と川口の意図的には「動くことのできない」身体の対比に、その根拠(説得材料)を求めることになるだろう。そこからは「身体障害者への虐待(に対する批判・糾弾)」といったテーマ理解が短絡的に導かれかねない(後に詳しく見るように、本作品における「録音された声」の語りは、そうした短絡的理解を助長しかねないリスクをはらんでいる)。実際、そうした主旨の観劇感想ツイートも見られた。だが、あらかじめ用意されたテーマ/メッセージの「絵解き」を上演の中に探し求めるというのは、何ともツマラナイ見方ではないか。それはあえて準拠枠を設けないことにより、舞台から「だだ漏れ」に溢れ出すがままにされる過剰な視覚/聴覚的イメージの負荷に耐えきれず、そこに蓋をして「見ざる・聞かざる」へと逃げ込むことにほかなるまい。
 反対に、この視覚/聴覚的イメージの洪水に覚悟して身を沈めるならば、先の二元的な理解は保留され、一部は解体されることになるだろう。代わりに複層化されたセリー(系列)の束が浮かび上がることとなる。


4.複層化されたセリーの束
 まずは身体の動きのセリーがある。川口と安藤の身体は、まずは切り離された別個のものとして現れるが、ロープで結ばれることにより変容が準備される。ロープが急に引かれて合図が送られたり、あるいは弛みながらも両者を結び合わせて主従関係を可視化/シンボライズしている間は、依然として二つの身体は個別に運動している。しかし、回転運動の中でロープが張り詰めると、二つの身体はペアのフィギュアスケーターのようにカップリングされる。もはや安藤が川口を振り回しているのではないし、傾きながら闇雲に歩みを進めようとする川口を安藤が繋ぎ止めているのでもない。そこでは先ほどまで別個に存在していた二つの身体は消滅し、それらの結合により、また別の新たな身体が生み出されている。このことは、前章で描写した最後の場面「ロープ外し」に続く展開、すなわち川口と安藤の身体のロープを介さぬ直接の接触の中で、さらに明らかになっていく。また、それぞれの身体の運動も「ひとりの登場人物」の動作の範囲をはるかに超え出て暴走する場面が見られる。
 同じく視覚に与えられるものとして、照明とそれがもたらす身体の影(床面・壁面への投影)のセリーがあることを付け加えておこう(先ほどの影絵の場面がそれだ)。

 続いて聴覚に与えられるものとして、まず音声化されたテクストのセリーがある(今回は投影等によりテクストが視覚に与えられることはなかった)。これもとりあえずは安藤と川口がそれぞれリアルタイムで行う発声と(おそらくは川口の語りによる)録音された声があるが、先の身体運動と同様に、こちらも「ひとりの登場人物」の言動の範囲を超えて、即興的に噴出する場面が見られる。
 同じく聴覚に与えられるものとして、すでに見たように環境音等の音響のセリーとピアノによる音楽のセリーがある。このうち音楽は、先に見たようにテンポを極端に速くしたり遅くしたりと操作され、同期を通じて身体の運動を変化させる。その点から、ここで音楽と音響はひとつながりの「聴覚的舞台装置」を構成していると言えるだろう。

 本作品の上演は、これらのセリーを束ね縒り合わせていくプロセスとしてある。二人の登場人物の出会い、あるいは二つの身体の関係性の変容だけはないことに改めて注意しよう。その時に舞台の展開はどのように立ち現れてくるのだろうか。


5.バレエのポーズ
 後ろ向きで、体をねじり、突っ伏すようにうつむいているKの姿勢をAが直そうとすると、Kの身体がAにしなだれかかってくる。Kをまっすぐに立たせ、舞台中央に横移動させようとするとKの身体が突っ張る。今度はKを後ろから支えながら(大変な力業)、交互に足を出せようとする。しかしKは進めずに立ったまま止まってしまい、AはKの背後に隠れたまま、「背筋を伸ばして……」の声に合わせてKの身体をキャラクター・フィギュアにポーズを付けるように操り、両腕を高く上に挙げたY字型のポーズ、両肩をいからせたポーズ、最後には両腕を頭上に挙げたバレエのポーズを完璧に決めてみせる。

 ここでは安藤が川口の身体に直接触れて動かし、お仕着せのポーズを取らせる。ロープという緩衝材/間隔化のための装置が外されたことにより、対象の操作がより直接的になり、服従のレヴェルが一歩進んだのだろうか。そうとばかりは言い切れない。冒頭、〈しなだれかかり〉→〈受け止め〉の機制があって、両者の身体のカップリングが生じる(ここに「甘え」や「母子」のテーマ系が束の間浮上するが、これについては次章で検討する)。安藤の身体は運動を目指して作動し、川口の身体はこれまでに引き続き、運動への抵抗として当初現れているが、安藤が川口の背後に隠れることにより「一体化」し、よりスムーズな運動が可能となる。ここで「抵抗」は完全な服従により消滅させられたのではなく、カップリングにより運動の一部へと「転生」を遂げたのである。最後の「キメ」のバレエ・ポーズにおいて、極端な内反足によりもつれてつまずいてばかりいた足元は、そのねじれをそのまま活かす形で両爪先を両踵に着けた5番ポジション(膝が見事に伸びていることに注意)に、同様に伸びきらない腕や曲がったままの手首は、優雅な曲線をたたえたアン・オーに、それぞれ優美に転換している。

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 写真 宮本隆司


6.騎馬戦(「おんぶ」ではなく)
 ピアノに伴われて、極めてゆっくりとしたテンポでラジオ体操が始まる。「だら〜んと」の声に、ピアノも漂うように響くが、Kの身体は緊張し続けている。「わたしはそうやって崩れ落ちる」と「録音された声」。Aに支えられたままKの身体は後ずさりし、後ろに倒れ込む。AがKの頭をなでる。
 「もっと」とAがKにおぶさる。KがAをおぶったまま立ち上がる(騎馬戦のポーズを思わせる)。Aは興奮し、Kも眼を見開く。「逃げてはいけない」、「逃げろー」、Aが早口でまくしたてる。「最後に飛び降りる崖には近づかない」、「ぶらーん、だらーん」とも。「わたしは崩れ落ちる」と「録音された声」。Aを背中に乗せたままKが床に伏せる。
 Aが両腕を伸ばし、Kの両手の甲を上から押さえる(なぜか左手だけ手袋をしている)。AがKの背中の上に立ち上がる。「やったー」と叫び、背中から降りて、またロープを取り付ける。Aは「ほいっ」という掛け声とともにロープを引き、Kを立ち上がらせようとするが、Kは背中で両腕を組んでいるため腕を使って起き上がることができず、転がりながら横に移動する。Aがロープを引いて「ストップ」と声を掛けると、Kの身体が裏返り、仰向けになって止まる。

 ここで両者の身体の密着度はさらに高まり、結果として、後退し、後ろに倒れ込み、おぶったまま立ち上がり、そのまま前向きに床に伏せる……と多様な運動が可能となっている。ここでおぶさる形が、通常の柔らかな曲線による密着型ではなく、川口の身体の突っ張りの上に安藤がガキ大将よろしく直立するという直線的な騎馬戦型になっていることに改めて注目したい。ここでもまた例の「転生」が生じており、緊張/硬直して動かない身体が可能とした直線は、「甘え」や「母子」のテーマ系に決して自らを位置づけようとはしない。
 身体のカップリングにより一心同体化も進んでおり、安藤の突発的な興奮(観客の知らない忌まわしい過去の記憶がフラッシュバックしたように見える)が、そのまま川口の眼の見開きに直結する。一方、頭をなでる、「もっと」、おぶさる等、「甘え」や「母子」のテーマ系がさらに色濃く浮かび上がるが、安藤=母、川口=子というように役割が固定しているわけではなく、とても一筋縄では行かない。
 ロープが回帰して密着が解かれると、さきほどまでの「転生」はもう生じることがなく、元通り、指示に応じることができず、意図通りに動けない身体が戻ってくる。

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 写真 宮本隆司


7.「コンタミ」する(*2)告発の語り
 天井からロープのリールが機械仕掛けで降りてくる。Aがクレーン車に指示するように、手で合図する仕草。リールからロープを取って手元のロープにつなぎ、さらにリールを回転させてロープを引き出し、あるところで切る(*3)。金属質の軋みが鳴り響き、Kがロープの端を口にくわえて転がる。「痛い」と「録音された声」。「録音された声」は、この後、以下のように続き、その間、KとAの身体の動作が並行して進められる。
 傷がついている。
 少し腫れている。
 救いはない。
 ここにいても出ていっても同じ。
 仕方ない。
 私は弱い。
 ここはひどい。
 ここにいるしかない。
 もっとひどくなる。
 麻痺してきた。
 感じない。
 摩滅してきた。
 Kが転がりながら、ロープを身体に巻き付ける。Aにロープを引かれ、転がる。Kがまた転がりながら、身体にロープを巻き付けているうちに、足が上に持ち上がり、揚げ過ぎたエビフライのように反ったポーズになる。
 音響:再び軋み音がして、ティンパニの連打らしき音が重ねられる。
 Aが自由連想を思わせる仕方で言葉を連ねていく。「氷の上とか、月面とか、爪先立ちで歩きながら」、「曲がった道」、「平均台みたいにバランスを取るのではなく」、「落ちる。平均台はだめ」、「平均はだめ」、……。
 Aがロープを引き、Kは逆さになったまま足を引っ張られる。ぱっと翻って、Kがロープを身体中に巻き付けたまま立ち上がり、足先だけ動かして横に移動する。
 音響:ガムランの単音に似た金属質の幻想的な響き。
 A:「よく考えて、すぐに出れないかもしれないけど」。ロープを投げる。メロディを口ずさむ。「歩く。歩く足」、「おろそかにしない」、「おろそかな道はない」と、言語の自動運動とでも言うべき遊戯的な仕方で言葉が紡がれていく。
 打楽器音に深くエコーをかけた音が鳴り響き、Aがロープで鞭のように床を叩く。

 このシークェンスにおいては、川口のヨガ風の逆立ちポーズ、ティンパニの連打の音響、自由連想や言語遊戯を思わせる安藤のセリフの連射、天井から降りてくるロープのリール等のハイライトにもかかわらず、これらのセリーがすべて断片的で多方向に散乱するため、集中して連続したメッセージを発する「録音された声」の印象が抜きん出て強くなる。逆に言えば、拡散した印象をひとつにまとめようと、観客は「録音された声」の発するメッセージに飛びつき、それを「幹」と位置づけ、他の事象をそこから派生する「枝」としてとらえようとしてしまう(あるいはメロディとそれに付されたハーモニーと言った方がわかりやすいかもしれない)。それもまた散乱するセリーのうちのひとつでしかないにもかかわらず。
 ここで「録音された声」とは何であるか、改めて検討してみよう。先に述べたように、まずはそれを川口の演じる登場人物の「内なる声」ととらえてよいだろう。安藤に命令され「はい」としか答えられない彼は、心中にこんな思いを抱えているのだと。最初の「痛い。少し痛い。まだ」は、まさにこうした枠組みでとらえられる。しかし、続く「傾いている」、「遅くする。遅くなる。なり過ぎている。もつれる」等は、彼の身体感覚に基づく「内なる声」でありながらも、そのあまりに沈着冷静な客観性において、そこからいささかはみ出していると言わねばなるまい。自らの身体が陥っている危機的な状況に際し、声は驚きも慌ても怖れもせず、ただひたすらに淡々と事態を物語っているからだ。それは言わばTVドラマ等で使われる説明的ナレーションに近い。「すべてお見通し」の作者の視点から(つまりは「三人称」により)、「この場面は、(これだけではわからないかもしれないが)○○という事態が生じている」と、登場人物たちは俯瞰し得ない物語の組立を説明する「神の声」。しかし、ここではまだ登場人物の身体感覚と「録音された声」の語る内容が、一定の同期を保っていた。
 本シークェンスにおいて、「傷がついている」に始まる「録音された声」の語りは、観客の視線に晒されている登場人物のリアルタイムの身体を離れ、過去の記憶(と想定されるもの)へと羽ばたく。しかし、その過去の記憶と眼の前の身体の動きを結びつけるものは、彼の「思い通りには動かない」という身体の特質を措いてない(過去の記憶のフラッシュバックに苦悶するといった様子は見られない)。かくして、「彼は身体障害者として、虐待や差別を受ける等の苦しさからずっと逃れられずにいたのだ」という「キャラ」理解が生じる(その浅さ、貧しさを際立たせるため、あえて「キャラ」という省略語を使用している)。何より「録音された声」は、これまでも常に淡々と事実/真実を、つまりは「正解」を語ってきたではないか……と。
 その時、眼前の二つの身体の挙動が、その類い稀なる強度にもかかわらず、虐待や差別等の再演(絵解き)と見えてきても不思議ではあるまい。先に「本作品における『録音された声』の語りは、そうした短絡的理解を助長しかねないリスクをはらんでいる」としたのは、まさにこのことを指している。こうした物語理解の下では、前章で見た「転生」など、取るに足らぬ細部でしかあるまい。それゆえ、こうした理解は本作品の豊かさを取り逃がす結果をもたらすだろう。

 ここで強調したいのは、上演の豊かさを享受するために、「録音された声」の語る告発のメッセージには耳を貸すな……ということではもちろんない。そうではなく、「傷がついている」に始まる本シークェンスでの「録音された声」の語りが自己完結していないという事実について、改めて注意を促したい。これにより、上演を感取するパースペクティヴが大きく変わってくるだろうから。
 前章で見た「逃げてはいけない」、「逃げろー」、「最後に飛び降りるのだけはしたくない」、あるいは本シークェンスにおける「氷の上とか、月面とか、爪先立ちで歩きながら」、「曲がった道」、「平均台みたいにバランスを取るのではなく」、「落ちる。平均台はだめ」、「平均はだめ」、……「よく考えて、すぐに出れないかもしれないけど」等の安藤のセリフは、明らかにここでの「録音された声」の語りと通底している。言わば「録音された声」=「川口の演じる登場人物の内なる声」から中身が外部に漏出しているのだ。それは濃密な関係を取り結ぶ二つの身体の間での「転移/伝染」(これもまたミメーシスの別の顔にほかなるまい)であり、上演に対してテクストを散種することでもあるだろう。こうして、一連のテクストは「正しい弱さからの告発」といったPC的な純粋さ/単純さの印象から、それゆえ局部に留まり、そこから一直線に突進するしかなかった自己完結性から解放され、本作品の上演全体を「コンタミ」することにより、多義的な解釈を許す不透明な厚み、言わば「身体」を獲得する。

 *2 医学/生物学の実験等で用いられる言い方。たとえば細菌培養実験で他の菌が培養地に入り込んでしまうことを指す。contaminate, contamination 汚染、混入、混成

 *3 この機械仕掛けで降りてくるロープのリールについては、上演を自分で観た際には、さして気に留めず、そこに特に意味を求めることもしなかった。上演後、しばらくして藤田と話をした際に、「ミメーシス」の上演時に装置が故障したことがあって……と、このリールの話が出て、彼から「川口と安藤の身体を結びつけている赤いロープは、劇中では特別な存在であるけれども、そのロープ自体があのように外部から供給されているものかもしれない、別のどこかで大量生産され、普通に流通しているかもしれないことを、つまりは劇の外部があることを暗示している」との説明を受けた。備忘のため、ここに記しておく。

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 写真 宮本隆司


8.カセットテープのミメーシス
 Aが「傾いている。まっすぐ」と言いながら、Kの身体各部のバランスを取って立たせると、Kの身体にロープをかけ、さらに周囲を回りながらぐるぐる巻きにしていく。AがKの横に並び、「呼吸して。息を吸って吐いて」と声をかける。AとKは舞台中央に並んで立っている。AがKの頭に手を伸ばし、顔をなで、次いで胸に顔を埋める。Aが向きを変え、二人は背中合わせとなり、そのまま悲しげに立ち尽くす。Aがさらに回転し、身体にロープを巻き付けていく。
 二人の間で弛んでいたロープが巻き取られたため、二人の身体が密着する。さらにAの身体が回転し(これに同期してKの身体もまた回転する)、カセットテープを巻き戻すようにKの身体から自分の身体にロープを巻き取っていく(ただし回転の方向はカセットテープと異なり、両者同じ向き)。
 「ひとりでもって、やってみて」とAが声を掛け、二つの身体が横に並んで「1,2,3,……」と数えながら前へ進む。都市のざわめきがゆっくりと戻ってくる。「次第にゆっくりと」、「ゆっくり数える」と「録音された声」。アンビエント・ミュージック風のキーボード音(*4)がゆるやかな広がりをつくりだす。AとKが共に同じ方向に回転しながらロープを解き、ロープの張りを保ちながら互いの距離を伸ばしていく。「真似をする」と「録音された声」。二つの身体は同方向の回転を同期させて切り替えながら、次第に舞台の両端へと離れていく。もはやロープはぴんと張り詰めてはいない。照明が消え、小鳥が鳴き始め、自動車の走行音が通り過ぎる。
 再び照明が点灯すると、二つの身体は舞台の左右両端まで離れているが、依然としてロープでつながっている。両方からロープを手繰りつつ近づき、中央で二人並び、正面を向いて一礼。閉幕。

 安藤が川口の顔をなでたり、胸に顔を埋めたりするのは、演劇的なアクションとしては強い動作だが(「母子」ではなく、「男女」の深い関係を意味しよう)、ここではむしろ、タンゴ等でよく見られるように、ダンスの身ぶりとしてはクリシェであり、そのパロディとしてとらえ得ることを指摘しておきたい。
 その後の場面では、当初、二人の「主従関係」を可視化/シンボライズするための装置であった赤いロープが、次いで距離/接触のそれとなり、最終的にここでは、距離/接触との関係性を保ちながらも、主としてカセットテープのように同方向の回転を枠付け同期させるための(あるいは回転自体を伝達するための)、つまりは「ミメーシス」のための機構として現れていることに注意しよう。これは舞台途中で装置として示されたロープ・リールの回転の「転移」でもあるだろう。

 *4 この部分の音楽(というか端的に音)については、このような表現しか浮かばなかったので「アンビエント・ミュージック風のキーボード音」としたところである。これで少なくとも音の雰囲気は伝わるものと考える。一方、演出担当の藤田康城から「今回の作品では、メロディがある音楽は、ラジオ体操第一の一部分しか使用していない」との話を後で聞いた。それによると「オリジナルはピアノで演奏された「ラジオ体操第一」の10数秒であり、ここから、ある部分のメロディを抜き出し、そのスピードを早くしたり遅くしたりして、リミックスをしている。最後のシーンでの「アンビエント・ミュージック風のキーボード音」も、同じ素材を9倍の遅さに引き伸ばし、そこに様々な音を重ねている」とのことである。実際に上演を体験した際に、そのように理解できたわけではないので、レヴュー本文は修正せず、そのままとし、後で知り得た「真相」は注として記すこととした。

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 写真 宮本隆司


9.三次元の厚み
 舞台冒頭で川口のねじれ震える身体が「戦場」として示されていたことを思い出そう。その後、もうひとつの身体として安藤が現れ、特権的な装置としての赤いロープが与えられる。それらを同じ舞台に放り込んで、さてどうなるかと見守るうちに、ロープの両端に接続された二つの身体は様々な反応(相互作用)を起こし始める。ロープの担う作用は従属→距離→ミメーシスと変遷するように見えるが、それはあくまで可視化/シンボライズの働きに過ぎず、ロープ自体がなにかを発動しているわけではない。その証拠にロープは一時排除され、その後に再び回帰するが、そのことによって事態に決定的な切断が生じるわけではない。二つの身体の密着(直接の接触)は、ロープによる連結/媒介と基本的に変わるところがないのだ。

 二つの身体は、この間ずっとカップリングされた身体として現れ、作動する。と言って、二つの身体はカップリングにより何の齟齬もなく交通しあうわけではない。先に見たように、交通は互いの身体に様々な拒絶や抵抗を惹起することになる。それにより当初に設定された「教える・教えられる」という立場の違いだけでなく、ダンサーとアクターの身体の作動原理の違いまでもが現出し、舞台上で展開されていく。このプロセスの発現が舞台の時間軸をかたちづくっている。
 さらに二つの身体の運動(照明や影を含めた視覚像)だけでなく、登場人物のセリフ、「録音された声」の語り、音楽や音響といった聴覚イメージが、別のセリーをかたちづくり、プロセスを複層化する。これにより身体(運動)間の直接の交通回路はいささか減圧されることになろう。と同時に、今度はテクストがセリーを通じて漏出し、全体へと散種され、各部位を「コンタミ」していく。二つの身体の間に多層を通じた転移や伝染が生じ、当初の役柄設定を超えた身体動作や言語発信が現れる。それゆえ硬直した「キャラ」理解は上演の豊穣さを取り逃すことになろう。そうした豊穣な細部の例が「バレエ・ポーズ」であり、ここで「思い通りにできない身体」はそのねじれや屈曲といった特性を保持したまま、「思いもしなかったことができてしまう身体」へと束の間変貌を遂げてみせる。
 この転移や伝染はミメーシスの別の顔であり、模倣や類似がかたちづくる「写し」の平面に対し、解釈の多義性を許容する不透明な厚みを付け加え、演劇世界を三次元へと拡張する。もしこの拡張がなく「写し」の平面だけだったとすれば、演劇世界は貧しいリアリズムか、それを裏返した「戯画」に留まることになっただろう。

 以上、これまでの論旨を足早にたどり直したが、やはり言うは易く行うのは難しい。ダンスと演劇という異なる原理で作動する身体をぶつけ合わせカップリングさせるという大変な力業を成し遂げたばかりか、テクストの散種にも対応した川口隆夫と安藤朋子の二人にまず拍手を送りたい。そして、そのような多層化や散種に耐え三次元的な厚みを構築し得るテクスト・コンセプトをつくりだした倉石信乃と、多層化したセリーをコンダクトし、三次元のドームを支え続けた演出の藤田康城に敬意を表したい。さらに、最後になったが、新型コロナウイルス感染拡大による準備作業中断を乗り越えて、今回の上演を達成したTheater Company ARICAと上演に携わった全スタッフに感謝したい。どうもありがとうごさいました。上演をこの眼で観たことへのレスポンスとして、この拙いレポートをお届けいたします。

2022年12月19日(日) 15時〜
横浜 BankART Station(みなとみらい線新高島駅直結)
 演出:藤田康城
 テクスト・コンセプト:倉石信乃
 出演:川口隆夫 安藤朋子

 音楽:福岡ユタカ
 美術:高橋永二郎
 衣装:安東陽子
 衣装製作:渡部直也

 舞台監督:菅原有紗(ステージワークURAK)
 照明:岩品武顕(with Friends)
 音響:田中裕一(サウンドウェッジ)
 宣伝美術:須山悠里
 記録写真:宮内勝
 記録映像:越田乃梨子
 協力:公益財団法人セゾン文化財団・A PROJECT・茂木夏子・前田圭蔵・山田規古・萩原雄太
 制作:福岡聡(カタリスト)

 主催:ARICA

 本レヴューの掲載に当たり、写真家宮本隆司氏より公演写真のご提供をいただきました。ご協力に感謝いたします。ありがとうございました。なお、写真はサイズを縮小して掲載していることをお断りしておきます。


 撮影:福島恵一



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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 22:27:43 | トラックバック(0) | コメント(0)
声/息の白い靄の中で −−−− 2022/01/03鈴木+増渕+津田@Permian ライヴ・レヴュー In the Mist of Voices / Breaths −−−− Live Review of Ayami Suzuki, Takashi Masubuchi, Takashi Tsuda@ Permian, 3rd Jan.2022

 撮影:原田正夫

1.前半
 空調が止められ、客席の明かりが消されると、すっと沈黙が張り詰める。鈴木は眼を閉じ、唇を少しだけ開いている。増渕が一音だけ発する。硬質の澄み切った響きが空間に広がっていく。二人は動こうとしない。増渕の右指も弦に触れていながら次の音を放とうとしない。先の音が消え去った後、しばらくして二音目が放たれると、すぐに津田のかすれた弓弾きが後を追う。鈴木はぴくりとも動かない。二人の絞り込んだやりとりに客席の衣擦れが混じり、階上で椅子を引きずる音がかぶさって、それが止むと別の持続音が微かに鳴っていると気づく。鈴木の様子にまったく変わりはなく、耳の視線を巡らすうちに、持続音はわずかずつ音高をすり上げ、さわさわとした息の触覚を明らかにし始める。それは「声」なのだ。改めて鈴木を注視するが、閉じられた眼にも唇にも変化は見られない。声は口元から発せられるというより、彼女の身体からたちのぼっているかのようだ。持続音が途絶え、今度は低く短く、より「身」の入った声が放たれる。津田の弓弾きがすっと寄り添う。

 母音成分が増えて、より「声」らしくなると、語の響きをまねびつつも言葉として聞き取れないために、高橋悠治「畝火山」で沢井一恵が聴かせた巫女のつぶやきにも似た、どこか呪的な色合いを帯びる。声にかかる重力を感じ取りつつ、意志の力で浮遊を続ける身体。津田の弓弾きの線が能う限り細くなり、代わって息が響きを増していくが、その行方は空間に沁み込むようで、声の輪郭を際立たせようとはしない。
 増渕の音数が増えてアルペジオ的になり、津田もしばらく弓で弦を苛んでからゴム球に持ち替え、トレモロを重ねてドローンをかたちづくる。厚みを増した響きを踏まえ、声もまた抑えた平らかさを離れ、メロディのかけらを端々に響かせるようになる。かつて彼女が学び、ダブリン滞在時に披露したというケルト民謡を思わせる音の動きも姿を見せるが、声は節を回さず、息のさわりを手放そうとしない。再び低い溜息を思わせる息音が長くゆったりと引き伸ばされる。わずかに開かれたまま動かない口元から、エクトプラズムの白い靄が脱け出ていくように。

 次第に濃度を増していく「うた」への傾斜をとらえて、津田によるギターの弓弾きは古楽器プサルテリオンの光沢を帯びた響きからチェロのフラジオの系を散策し、増渕はギターにカポタストを取り付けて、さらに端正にアルペジオやトレモロを編み上げる。声もまたそうした気配をとらえて、よりメロディアスな起伏を帯びるが、たとえ一節のメロディが浮かぶ時でも、それを朗々と歌い上げはしない。フレーズの終わりで一瞬のうちに脱力し、身体の構えをふっと崩して、掻き消えるように素早く低域に移動する様。あるいはギターの弓弾きが登り詰めた一番高いところから、身を躍らせるより速く、ほとんど瞬間移動するようにグラウンド・レヴェルへと移行する動き。

 撮影:原田正夫


2.後半
 鈴木はマイクロフォンを手にしていた。もともと演奏スペース中央に置かれたテーブルの上には、BOSSのループ・ステーションをはじめ、各種エフェクターやミキサー類が整然と並べられていた(終演後に確認したところ、ヴォイスによるソロ・インプロヴィゼーション用のセッティングだとのこと)。
 だが演奏の口火を切ったのは増渕だった。研ぎ澄まされた一音を放ち、すぐさまハーモニクスで自らの後を追う。だが、鈴木がマイクロフォンやエレクトロニクスをどう使うかが気になるのだろうか、それ以上、音を出さない。津田もまた音を出そうとしない。不意に訪れた沈黙の中、微かに声が聴こえた気がする。増渕が間を空けながら音を放ち、津田がほとんど音にならない弓弾きを始めても、暗い木目に光の加減でふと浮かび上がる文様のように、声の気配が現れては消え失せる。先の生声よりももっとひそやかな、振り返っても誰もいない、思い過ごしとも感じられる響きの痕跡(ここで私はMark Hollisの作品に現れる幻聴のような木管の取り扱いを思い出していた)。マイクロフォンを通すことでわずかにエフェクトがかかっているのか、合唱に似た揺らめきが靄のように薄く広がり、さらに遠ざかりながら自らを反復する。ハーモニクスを連ね幽玄に遊ぶ増渕と、指板上の弓弾きで細く甲高い呼び子を思わせる軋みを聴かせた後、リヴァーブを効かせてひたひたと満ちてくる津田が、白い息靄のうちでひとつに溶け合う。

 津田が細い六角レンチで弦を擦り鈍色をした金属質のドローンへ向かうと、増渕もカポタストを取り付けペンタトニックを探り、鈴木もエフェクトによりふるふると揺らぐ声とマイクロフォンを通さないささやきを対比させる。細い針金で弦にプリペアドを施し、さらに歪ませていく津田(壊れたハープを奏でるようなストローク)に対し、アコースティック・ギターの音色は和様の音階と相俟って雅とも言える「やわらかさ」をつくりだす。声はどこかナースリー・ライムを思わせるフレーズで後者へと傾く。吐息のかすれ、鼻にかかった甘美さ……、金属の打撃音が突然響き渡り、甘やかなたゆたいを切り裂く。津田が床に六角レンチを落としたのだ。もし「手を滑らせる才能」というものがあるとすれば、彼こそはその持ち主にほかなるまい。それほどに絶妙なタイミングだった。まどろみを誘う重く暖かな毛布をはねのけ、金属的な喧噪の中で、声は「強さ」の方へ歩み出す。

 声が一時の高揚からゆったりとした深さへと転じると、物悲しく移ろうような情感が表情に色濃く浮かび上がる。高音域に漂い長い尾をくゆらして旋回する、すすり泣くようなhaunted voice。死を告げるアイルランドの妖精バンシーが思い浮かぶのは、彼の地で学んだという先入観の故だろうか。一方、低音域での声の紡ぎ方は南島のそれを思わせ、地理的にかけ離れた連想は決して矛盾を際立たせることなく、声のゆるやかな手触りの中にそれぞれの居場所を見出す。増渕は眩しさを抑えた端正な爪弾きで、津田はハーディ・ガーディに似た倍音豊かな音色の弓弾きで、すでにほぼ定型の繰り返しの中に身を置き、コーダの準備を整えている。

 撮影:原田正夫


2022年1月3日(月) 14時〜
不動前Permian
鈴木彩文(voice,electronics)、増渕顕史(acoustic guitar)、津田貴司(bowed electric guitar)


【付記1】
 今回の編成は、私にとって増渕と津田のデュオに初めて聴く鈴木が加わったトリオであり、一方、増渕と鈴木はすでにデュオで演奏したことがあるというから、そこに新たに津田が呼ばれて出来あがったトリオでもある。関係性のあり方が限定される(それが強みでもある)デュオに対し、トリオにおいては、各自のポジションの取り方によって、関係性が次々と柔軟に変化することに改めて気づかされたライヴだった。
 鈴木に関する記述が他の二人に比べ厚いのは、もちろん初めて聴くがゆえに、その動向に視線が集中したとこともあるけれども、彼女の「耳のよさ」に驚かされたことが大きい。私のような聴くだけの人間が、ミュージシャンに対して「耳がいい」などと言うのはいささか失礼な話だが、もちろんそれは単に音感が優れているなどということではない。ひとつには音高以外の音要素、とりわけそこに含まれるノイズ成分に対する触覚的な鋭敏さがある。この眼差しが自身の声における息の手触りの繊細なコントロールを可能にしていよう。ここで思い出されるのは、「星形の庭」の佐藤香織(林香織)を初めて聴いた時のことだ(当時の「星形の庭」は、まだ津田とのデュオ編成だった)。アコーディオン演奏において、リードを鳴らさずに空気を抜く無声音や蛇腹を伸縮させる際のパチパチという微細なノイズを取り扱う手つきに、やはり飛び切りの「耳のよさ」を感じた。
 もうひとつには、「聴くこと」への集中の深さが挙げられよう。フリー・インプロヴィゼーションにおいては、「聴くこと」を最初から棚上げし、ただひたすら手足をジタバタ動かして、即興演奏を身体の闇雲な運動、反射的な身ぶりの連鎖に解消してしまおうとする傾向がまま見られる。とりわけヴォイス演奏には多いように思われる。もちろん、私たちにとって声や息は、楽器演奏よりもはるかに根源的かつ原初的な音の発し方である以上、そこに強い身ぶり性が伴うのは当然かつ不可避ではあるが、だからといって即興演奏を身ぶりに解消できはしない。その点、彼女の「聴くこと」への集中の深さは素晴らしかった。それは自身を取り巻く環境で(と同時に自らの内部で)何が起こっているかを鋭敏に感じ取ることであり、またそれに的確に対応することにほかならない。すなわち、一方では皮膚を薄く多孔質にして内外を通わせ、ほんのわずかな空気の動きも敏感にとらえる「箔」と化すことであり、他方では自らの身体の逃れられない鈍重さ(重さ、大きさ、動かなさ)と向き合うことである。今回、優れた即興演奏者かつ聴き手である二人とトリオで演奏して、適切なポジションを取り続けられたことは、彼女の能力の高さ、可能性の大きさを明らかにしていよう。絶え間なく表情を変え続ける音の流れに棹さすために、サウンド・ループによる構築を用いず、エフェクターの使用もごく一部のみに絞り込み、ミクロな局面を注視する眼差しに応えたのも効果的だった。
 もちろん、もう一歩踏み込んでほしい瞬間がないわけではなかったが、それは確実に「伸びしろ」があることの証左にほかなるまい。次回の演奏に期待したい。

【付記2】
 鈴木ばかりに話が集中してしまったが、増渕、津田の二人は、ともに昨年、私撰年間ベスト入りが確実な素晴らしい出来のCDをリリースしている。末尾ながら、とりあえずタイトルだけでも記しておきたい。なお、両作品に共通して参加しているtamaru(現在は溜終一致 tamaru shoe-witch名で活動)にも注目のこと。
  tamaru + masubuchi // cracked touches (self-released)
  TAMARU + TAKASHI TSUDA + KAZUYA MATSUMOTO // Amorphous(PNdB-atelier TTM001)


ライヴ/イヴェント・レヴュー | 13:34:23 | トラックバック(0) | コメント(0)