幻のもう一人に導かれて - 「星形の庭」@OTOOTOライヴ・レヴュー Guided by Another Phantom Presence - Live Review of “Hosigata No Niwa (Pentagonal Garden) ” @OTOOTO, Higashi-Kitazawa
2022-02-09 Wed
ずいぶん以前の話になるが、津田貴司(ギター)と林香織(アコーディオン)によるデュオだった「星形の庭」に林享(ヴァイオリン)が加わってトリオ編成になると聞いた時、いささかとまどいを感じたことを覚えている。そもそも「星形の庭」結成時に、「簡素で愛らしいメロディを持つ『曲』を演奏するユニット」という性格付けにも驚かされたのだが、実際にライヴを聴いてみると、そこで演奏は「あらかじめ書かれたメロディ」をなぞることによって生み出されるものではなく、パチパチと弾ける蛇腹の軋みや弓奏ギターのフラジオが放つ香りといった、音の手触りや気配に二人が深く耳を澄まし身体を浸すことに支えられていた。
肌を触れ合うことなく、視線も交わさず、聴覚という遠隔の感覚だけで二つの身体を同調させていくことは難しい。だからこそなぞるべきメロディや刻むべきリズムが、先にフォルム(文字通り、はめこむべき「型」)として与えられるわけだが、星形の庭の「曲」はそうした縛りを担うことをしない。二人なら出来たからといって、果たして三人で同じことが可能だろうか、それとも何らかのアレンジメントを用意するのだろうか(同じ楽器編成によるTin Hat Trioの洗練された腕達者な演奏が私の頭を掠めた)‥‥と勝手に気を揉んでいた。
トリオ編成の初ライヴとなった文京区立森鴎外記念館での演奏は、決して芳しいものではなかった。ピカピカに仕上げられた食堂スペースという響きすぎる音響環境も災いして、演奏を支えていた濃密な交感は消え去り、アンサンブルは解けていた。しかし、その後の関内The Cave等でのライヴを経て、トリオの関係性は煮詰められ研ぎ澄まされていくこととなる。デュオの演奏にオブリガードを付け加えるのではなく、まずは三者を徹底的に重ね合わせ、そこから芽吹くように個体化の線が生じていく。トリオの結成当初から津田が冗談のように言っていた「Tony Conrad + Pauline Oliveros」というサウンド・イメージが、こうして具体のものとなった。外見を似せるのではなく、サウンドの産出原理として、またアンサンブルにおける体性感覚として獲得されたのだ。
トリオ編成になった「星形の庭」の二作目CD『距離を含んだ色彩について』の特徴として、津田は「左右に広げるのではなく、点音源から発せられるかのように中央に寄せたモノーラル的なミキシング」について語っている。あえて補足すれば、それは決してスタジオでのポスト・プロダクションによって、つまり単なるアイディアやテクニックとして開発されたものではない。トリオの演奏感覚が開拓した地平を、録音という機械の知覚を通してわかりやすく聴衆に伝えるために、そうした手法が編み出されたに過ぎない。ただ、演奏中に自らの身体の内部に鳴り響いていた音の在りようを、ミキシング作業をしているスタジオのモニターから、すなわち身体の「外」から、自らの演奏身体とは切り離された聴き手と共有可能な空間から聴けたことが、彼らに確信と自信を与えたことは想像に難くない。
以前に本ブログでレヴューした彼らの2019年8月17日、下北沢leteにおけるライヴ(*1)は、三人が演奏するステージ部分が、客席より幅の狭い「窪み(袋小路)」のようになっている空間構造(*2)も幸いして、三者の音がひとつに敷き重ねられ縒り合わされて放たれる様を、まざまざと感じ取ることができた。
*1 ブログ『耳の枠はずし』 「うねりと濁り 「星形の庭」@下北沢leteライヴ・レヴュー」
http://miminowakuhazushi.blog.fc2.com/blog-entry-469.html
*2 前記*1掲載の写真を参照。
2022年1月15日に東北沢OTOOTOで行われたライヴにおいて、「星形の庭」は初めて井口淑子(フルート)を加えたカルテット編成で演奏した。そこでは何がどのように変わっていただろうか。
だが、しかし、会場には当然、「星形の庭」の演奏に接すること自体が初めてという聴衆もいたはずで、こうした問題設定はいささか限定的に過ぎるのではないかとの疑問が浮かぶかもしれない。それはその通りである。しかし、レヴュー執筆者として、この日のライヴの魅力と可能性を語るには、この視点設定こそがふさわしいと考え、そのために「デュオからトリオへ」という、カルテット編成への「前史」をイントロダクションとして述べた次第である‥‥とご了解いただきたい。

星形の庭@OTOOTO 津田貴司Facebookより転載
今回のライヴで最も印象に残ったのは、演奏者間のリレーの見事さである。
たとえば冒頭、アコーディオンのリードを鳴らさない「息音」、増幅しないエレクトリック・ギターのほとんど音にならない弓弾きや弦の軋み、フルートの吹き口部分を外した管だけの吹き鳴らしなど、アーラーブと言うべきざわめきの提示から、ヴァイオリン(できるだけ音を細くしようという努力にもかかわらず、楽器の特性上「鳴って」しまう)が入って高まり、ギターがディレイをかけてヴァイオリンに重なると、管をスプーンで擦っていたフルートが吹き口を取り付けてフレーズを奏でた瞬間、アコーディオンが楽曲のコードを弾き始める。
フレーズを合図にコードを付けるなんてことは、当たり前と言えば当たり前の所作だが、しかし、そこで「曲」の演奏が始まるわけではない。新たに開かれたステージで、フルートがディレイをかけたように音を寸断し、ギターのディレイ音と響きを重ね合わせ、両者は組み合って回転するように交互に前景化していく。あるいはそのしばらく後に続く場面で、ヴァイオリンが弦への寸断されたアタックからドローンへと至り、やはりギターがゴム球によるトレモロでそれに厚みを加え、三人の演奏が飽和したところで沈黙していたアコーディオンが聴き覚えのある彼らの「曲」のメロディ/コードをきっぱりと弾き出し、流れを断ち切る。しかし、やはりそこから「曲」の展開がなぞられるわけではない。アコーディオンは五音で構成されるメロディのどれか一音(コード)を引き伸ばすなど、そこからすぐにインプロヴァイズへと歩みを進める。
いま「インプロヴァイズ」と述べたが、トリオ編成の「星形の庭」に比べ、今回はるかに即興部分が多かったのは確かだ。終演後、津田は「今回はひと続きの演奏の中で、最低限これはしようということだけ決めておいて、後は即興に任せた。コードの提示や場面の切り替わりについてのキューも一切出していない」と話してくれた。だとすると、先に見たように今回のライヴで場面の決定力/切断力が最も強い(逆に言えば一番取り返しのつかない)のは明らかにアコーディオンなので、それを何のキューもなしに独断で、何のためらいもなくきっぱりと演じるとは、林香織の度胸の凄さに感心せざるを得ないが、ここで注目したいのはそのことではない。
率直に言って、ただ演奏を即興に委ねただけで、このように滑らかな推移が紡げるわけでは決してない。そこにはこうした演奏を可能足らしめている様々な要因がある。
まず、「星形の庭」トリオの三名において前述の「体性感覚」が下地として共有されていることが挙げられよう。それに加えて、そうした「体性感覚」の共有を成し遂げた後にも、彼らは即興体験を積み重ねてきている。たとえば、私が前回体験した彼らのライヴは、祖師ケ谷大蔵ムリウイにおいて「坂本宰の影」をゲストに迎えたものだったが、そこでは「坂本宰の影」の展開との共生を図るため、今回と同様に曲単位の仕切りが取り払われ、アコーディオンが時折奏でる「曲」のメロディ/コードを道標としつつ、ゆるやかに経巡っていく展開となっていた。こうした演奏の延長上に今回のライヴを位置づけることができるだろう。

星形の庭@ムリウイ 津田貴司Facebookより転載
その一方で、今回新たに加わった要素として、先のリレー感覚がある。単純には演奏者数が三名から四名に増えて、いったん流れを離脱して全体を眺め渡し、受け継ぐべき流れを見定めて再突入する余裕が持ちやすくなったと考えられる(もちろん後ほど詳述するように、そればかりではない)。
典型的な例は、音を出さずに演奏から離脱しておいて、タイミングを見計らって「曲」のメロディ/コードを弾き出し、ステージを鮮やかに切り替えるアコーディオンの在りようである。
また、後半に津田が手に取ったハーモニウムの演奏も例として挙げられよう。和音をそっと置いていくような繰り返しで幕を開け、他の参加を促して響きが厚くなってくると、今度は大きな音で切れ目なく奏でながらアンサンブル全体をゆったりと引き伸ばしていく。さらには波打つように強弱をつけて煽り立て、そこから沈静化してゆったりとたゆたいつつ細かいリズムを不均衡に奏でて緊張を手放さずにおき、アコーディオンがコードを押さえる時には基音へと身を伏せている。このように音色を定めて役割をコンダクトに限定することは、トリオ編成では難しかったのではないか。
さらに後半、ハーモニウムからエレクトリック・ギターに持ち替えた津田が弓奏により荒い呼吸音のような音(David Toopが自身のレーベルQuartzからリリースしたニューギニアの笛の魔術的な響きを思わせる)を奏でると、音を出していなかったフルートが思わず引き込まれるように演奏に加わった瞬間は、とりわけスナップショットのように鮮やかな印象として残っている。
これらを支えた仕掛けとして、アンサンブルの分割/分散配置について指摘しておきたい。東北沢OTOOTOのステージ部分は、下北沢leteと異なり、客席と同じ幅で奥行きが浅い。このため演奏者は横に並ぶことを余儀なくされる。この日の前半は客席から見て、手前が開けた平たい台形状に、左端手前がフルート、左中奥がヴァイオリン、右中奥がギター、右端手前がアコーディオンと配置されていた。
先に述べたように、演奏はアコーディオンがステージの切り替えを決定的に握っていたから、それより左手の三名がより細かな出し入れにより演奏を展開することとなる。このことに加え、さらに前述の「体性感覚」やリレー感覚が相俟って、演奏空間にはあらかじめ微妙な傾斜/起伏が与えられていた。これにより、所謂「フリー・インプロヴィゼーション」が陥りがちな「罠」、すなわち「ハリネズミのディレンマ」的なおずおずとした探り合い、各プレイヤー間を目隠し板で仕切ってテーブル上にカードだけを切り合うようなやりとり、ミラー・イメージ的なアクションの連鎖、足を止めての時にクリンチと見分け難い打ち合い‥‥等に、彼らははまり込まなかったのではないか。これらはすべて、演奏者の間に遍く広がり、そこに向けて音を放つことになる「演奏空間」を、何か透明で均質などこまでもニュートラルなものと、抽象的/概念的に受け止めてしまうことによりもたらされやすい。
そのことがよりはっきり現れたのが後半の配置にほかならない。そこではギターがハーモニウムに置き換わり、おそらくはこれを「突き玉」としてフルートとアコーディオンが席を入れ替えた。コード楽器であるアコーディオンとハーモニウムを同じ側に並べたくなかったというサウンド・バランス上の配慮も当然あっただろうが、決してそれだけではあるまい。すでに見たようにハーモニウムはコンダクトに徹するため、ステージを切り替えるアコーディオンとの間に強力な軸線を引くことになる。ヴァイオリンとフルートはこの対角線によって両サイドへと切り分けられ、そのことでより強く結びつけられることになる。ハーモニウムがアンサンブルをゆったりと引き伸ばし、さらに煽り立てる場面では、まさにヴァイオリンとフルートをその中に巻き込んで、互いに「境界線」を侵犯してオーヴァーラップしあう展開を引き出していた。

星形の庭@OTOOTO(前半の配置) 津田貴司Facebookより転載
津田は今回のライヴのためのリハーサル時の体験を踏まえ、「全員でいっしょに演奏している時に、誰が演奏しているわけでもない別のメロディが聴こえてくることがある。三人で演奏していた時にもあったけれど、四人になって、もっと頻繁に聴こえるようになった。それが面白い」と話していた。これは所謂「差音」や倍音の干渉といった音響現象によるものだけではなく、各自が奏でる微妙に異なるフレーズ同士が切れ切れに接合され、新たな/別のメロディが生み出されてくるのだろう。夜空に輝く星々の間に、星座の連なり/まとまりを見てしまうように。各自の放つサウンドを一体に重ね合わせることにより、各自の「発話」としての鎖列が解かれ、ネックレスがちぎれて飾り石が弾け飛ぶように散乱し、それらがまた別の鎖列へと組み立て直される。そこには「幻のもう一人」がいて、誰も弾いていないメロディを奏でているのだ。
誤解のないよう、慌てて補足するならば、「幻のもう一人」は居場所を画定されているわけでも、「発話者」としての輪郭を備えているわけでもない。それはありとあらゆる隙間に佇み、そこにいる誰とも違う様々な声音で語る。それがいまどこにいて、どんな声音で何を語っているのか(いないのか)は、聴く者によって異なるだろう。
彼らが互いの肌に触れることなく、視線も交わさず、さしたる地図もなしに、足を止めることなく、すっすっと歩みを進めていく様を眺めていると、「幻のもう一人」に導かれているのではないか‥‥という、何とも不思議な思いが浮かんでくる。「ミチオシエ(ハンミョウの異名)」に案内されるように、あるいは逃げ水の後を追うように。
「非楽器」「非即興」「非アンサンブル」を掲げ、石や金属部品や水の入ったガラス瓶といった身近にある「モノ」たちから何の飾り立てもせずに率直に音を引き出し、それらを碁を打つように配列していくことによって、触覚成分を多く含むこれら響きの間にどのような結びつきが生じるか耳を澄ますスティルライフ(笹島裕樹とのデュオ)、各自が時には楽器構成や奏法にまで至る大きな振れ幅で演奏を変遷させながら、ライヴの度毎に〈いま・ここ〉を深掘りし、折り合いをつけず、共有平面も織り上げず、常にパラタクシックな「ねじれ」の位置関係を探り当てるLes Trois Poires(溜終一致、松本一哉とのトリオ。現在は固有のユニット名を持たず、演奏者名の連記により活動している)、そしてもちろんソロと、津田貴司は共同作業者と共に「インプロヴァイズ」することを、従来の「フリー・インプロヴィゼーション」に解消することなく、聴くことに軸足を置いて再構築するための営為を、様々な方面から黙々と続けてきた。ここへ来て、「星形の庭」もまた、思っても見なかった方向から、その戦列に加わることとなった。今後の活動に期待したい。
星形の庭[カルテット:津田貴司(G.)+林香織(Acc.)+林亨(Vn.)+井口淑子(Fl.)]
2022年1月15日(土)
東北沢OTOOTO
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