声だけが連れていってくれる場所 ―― 浮(ぶい)ライヴ・レヴュー The Place Only Voice Can Take Us To ―― Live Review of Female SSW "Buoy " (Misa Yoneyama)
2022-07-26 Tue
1.湧き出す声水底の白砂を音もなく巻き上げて滾々と湧き出す声がなだらかに広がり、その筆先がどこまでもなめらかに滑っていく。これは「船」の声だと思う。中空をはらはらと気紛れに舞うのではなく、人や荷を載せた深い喫水を水平に保ちながら、自らを浮かべている暗い水を波立てずにまっすぐに押していく声の力。私はそのような声の様態があり得ることを大工哲弘から学んだ。
ふと線の流れが緩み、声がふうわりと舞い降りて、穂先から滲みが広がり、辺りへと染み渡っていく。そのとき聴き手は、ぐるり一面の景色の中にひとり立たされていることに気づく。それは必ずしも歌詞の描き出す情景ではないし、歌っている彼女自身の心象風景でもない。言語以前の記憶にも似たおぼろな輪郭の揺れる、声だけが連れていける世界。だから、ここで浮かぶ景色は聴き手一人ひとりで異なっていることだろう。だが、そこにはどこか相通ずる切なさ、暖かさ、甘やかさ、息苦しさ、鼓動の高鳴り、居たたまれなさ、懐かしさ、脆く崩れ去りそうな不安が満ち満ちているに違いあるまい。忘れ難いはずなのに、ずっと忘れていた匂いのたちこめる場所。涙が流れこそしないものの、体内の水位がぐーっと上昇してくるのがわかる。
2.浮 with高岡大祐、桜井芳樹@Soul玉TOKYO
浮(ぶい)のことを知ったのは、高岡大祐のFacebook投稿だった。そこには関西ツアーの客席にたまたま彼女が来ているのを見つけ、ステージに上げて歌ってもらったとあり、その歌の素晴らしさについて記されていた。彼女のことはそれまで全く知らなかったから、きっと関西圏で活動するアーティストなのだろうと想像した(刷り込み1)。ウェブで検索すると、ライヴ映像が見つかった。琉球民謡的な旋律や声の運び。深く静かな息遣いがゆったりとした時の流れを連れてくる。昨今の民謡やR&B系歌手によく見られる高速の小節回しやヴィブラートをこれ見よがしに鮮やかに決める、4回転ジャンプを無表情で飛ぶフィギア・スケーターにも似たロボット的なステレオタイプは、ここには微塵もなかった。おそらくは奄美や沖縄、あるいはもっと西の島々の出身なのだろうと思った(刷り込み2)。
その後、思いがけぬタイミングで、彼女が祖師ケ谷大蔵ムリウイでライヴをする(まだ僅かに空席がある)との情報が飛び込んできた。東京で聴ける貴重な機会と思ったが、すでにその日は先約が入っていて泣く泣くあきらめた。こうして彼女との初めての出会いは、2022年3月24日の阿佐ヶ谷Soul玉TOKYOにおける高岡大祐、桜井芳樹との共演となった。
「いやあ、最近は歌い手っていうか、声といっしょに演奏するのが、即興演奏同様面白いんですよ。決して歌伴って感じじゃなくて」と私の顔を見て高岡が言った。私が高岡のFacebook投稿で彼女を知り聴いてみたいと思ったことを話すと、「彼女は最近、ものすごく地方から声がかかるようになってきて、なかなか帰ってこれなから、東京でのライヴの機会は貴重ですよ」と言う。どうも話がおかしい。訊くと彼女は沖縄出身などではなく、こちらの出身で活動の拠点も関西圏ではなく、本来は東京なのだと言う。関西ツアーの客席にたまたま来ていたっていうから、あっちで活動している人なのかなと思ったと話すと、いやあ、何だか知らないけどそう思ってる人が多いみたいですね‥‥と。いや、そりゃ絶対アンタの記事のせいだって(笑)。
ライヴは彼女がガット・ギターを弾きながら自作曲を歌い、それに二人が即興的に絡む仕方で進められた。ギター演奏はひとりで歌うようになってから始めたとのことなので、まだ日は浅いはずだが、フィンガー・ピッキングの演奏に危なっかしさはない。むしろ、通常のギター弾き語りよりはるかに、声とギターは不即不離の関係にある。
声の速度が揺らぐ時、ギターの刻むリズム/テンポは一定のままで声だけが速く/遅くなるのではなく、同じ一つの身体を共有している。それゆえに声とギターの間に他が入り込むことは難しい。ジャズやロックの演奏で通常行われているように、ヴォーカリストが歌いながら弾くギター(主としてアルペジオやリズム・カッティング)がドラムやベースの保つグループ全体のリズムと安定的に同期していて、その上で声が勢い良くつんのめったり(速くなったり)、後ろにもたれかかったり(遅くなったり)するのであれば、サックスやリード・ギターによる演奏は、同じリズムの土台を踏みしめながら、音を揺らしつつ声と絡んでいけばよいわけだが、ここにそのスペースは与えられていない。
その結果、二人の演奏はリズムをなぞり補強するか、あるいは持続音で色づけを施すものとなる。それでも高岡は汽笛のように響く息音を放ち、トロンボーンに似た音色でオブリガートを施し、薄くたなびく響きで遠くを眺めやるようなメロディアスなソロを奏でた。弦が違うとは言え、同じ生ギターを奏でる桜井は対応が難しい。たとえば「愛が生まれる」では、曲間のソロも彼女が取るので、もう一本のギターはますます立ち位置が限られることになる。
対して「線路の上で」のような琉球民謡的な要素がなく、より「フォーク・ソング」的なメロディを持つ曲では、そこに広がるアーリー・アメリカンな音世界を活かして、スライド・ギターを奏でるなど様々な工夫を図る余地がある。
こうした曲においても、やはり声がふっと遅くなる瞬間がある。もともと蒸気機関車をイメージしたのではないかと思われるこの曲では、上り坂、下り坂、右へ左へのカーヴと地形/起伏の変化に合わせて機関車のストロークが移り変わっていくような微妙な速度の変化が心地よいリズムの揺れをつくっているのだが、その振幅を超えて声がぐっと遅くなり、昇りのエレヴェーターが目的階に停止する直前にも似た、身体が放り出されるような浮遊感が生じる瞬間が訪れるのだ。琉球風の曲では、それでも濡れたような被膜を崩さなかった声が、この瞬間ばかりは被膜が破れて複数の声に分裂を遂げる。決して破綻するのではない。どこか賛美歌を思わせる旋律(基本的に「フォーク・ソング」はみんなそうだが)が合唱的な複数の声を内包した響きへと弾けるのだ。合衆国で古くから歌われていた聖歌合唱「セイクリッド・ハープ」を思い浮かべてもらうのがよいだろう。歌い手たちが壇上に並ぶのではなく、演壇の前、参列者たちの座る椅子の列の前で小さな円陣を組み、互いの声をぶつけ合わせるようにしてたちのぼらせる響き。上澄みを溶け合わせるのではない、洗いざらしのハーモニーや多声の絡み合いは、ゴスペルやニューオリンズ音楽にも通じ、その後、合衆国で生み出される様々な音楽の主要な源泉の一つとなっていく。
たとえばジョン・ケージが合衆国建国二百年祭に際して委嘱を受け作曲した「44 Harmonies From Apartment House 1776」は、この国の音楽の主要な源泉として、セイクリッド・ハープ(の基となった作曲音楽)、ネイティヴ・アメリカンの儀式音楽、黒人霊歌、ジューイッシュによるセファルディ音楽の四つを選び出し、これらの組合せによりかたちづくられている。
アーリー・ジャズやニューオリンズ音楽を心より愛し、繰り返し演奏してきた二人が、こうした匂いに反応しないわけがない。「水を得た魚」と言うべき、とても活き活きとした姿を見せてくれた。この後も、ニューオリンズ風やラグタイム風の楽曲が聴かれた。彼女の中のフォーキーな要素が、そちらの方向でぐいっと引き出されたとの印象を覚えた。
こうして聴き進めていくと、彼女の音楽が声の立ち居振る舞いで出来ていて、それを自身のギター演奏がしっかりと深く支えている様が浮かんでくる。逆に言えば、言葉が先には来ない。声が立ち上がり、響きが広がって、情景が浮かんだ後に、追いかけてきた言葉の意味が像を結び始め、歌詞の連なりとなってこれらを裏打ちする。
もちろんうたをつくる作業プロセスとしては、先に語による情景イメージがあったり、幾つかの言葉が手元に集められることもあるだろう。しかし、歌われる現場にあっては、言葉の意味は後から遅れてやってくる。これはCDの録音で聴いても基本的に変わらない(ライヴの方が、より声が先に来る感じはあるが)。
作詞の提供からスタートしたという事情もあろうが、池間由布子においては紡がれる言葉、声による語りが先に来るのと著しい対照を成している(どちらもとびきり素晴らしい歌い手であるだけに、この違いは深く印象に残った)。

3.浮と港(ぶいとみなと)+白と枝@なってるハウス
浮が服部将典(cb)、藤巻鉄郎(dr)と結成したトリオ編成のバンドによる演奏。一部、女性SSW「白と枝」がコーラスで参加した(彼女のソロCDも透明感溢れる秀作。浮とは「ゆうれい」というデュオでも活動しているそうだ)。実はこの二週間ほど前にも、このトリオのライヴ演奏を聴いたのだが、初めての場所で座る席を間違えたか、距離は割と近いのに片側のPAの音しか聞こえず、ラジオに片耳を当てて聴いているようだったので改めて再挑戦。
喉の調子を気にしていたようだったが、彼女の「声の身のこなし」の比類ない魅力、すなわち身体を上下させることなくすっすっと歩む安定した足さばき、重心の移動の滑らかさ、バレリーナやフィギュア・スケーターが腕を高く上げる時に肘を伸ばしきらぬように(その方が力が抜けて、身体の線が美しく見える)時にあえて上がりきらぬ音程、そして何よりも声の速度が急に緩み深さを増して、知らぬ間に淵に踏み込んで川底に足が着かなくなった瞬間を思わせる一瞬に噴き出す底知れぬ甘美さ等は基本的に変わることがない。
彼女の場合、MCで曲名を告げる場合もあるとは言え、最近のライヴのレパートリーのうちCDに録音された曲がまだ少なく、また、新曲もどんどん増えているようなので曲名を挙げてコメントできる部分が少ないのだが、たとえば前回も演奏された「線路の上で」を採りあげて前回の演奏との比較をしてみよう。今回はギター弾き語りで始まり、途中からリズム隊が加わってテンポが速まり、さらにハイハットとバスドラが列車の走行音(線路の響き)風のリズム・リフを刻み、ギターのリズム・リフにはカウベルがシンコペーションを施す。かと言って、刻み続けるリズム、敷かれた線路の上をそのまま定速で声が走り続けるわけではない。前回同様、ふっと聴き手を放り出すように減速し時が深まる瞬間が何度か訪れるのだが、耳をそばだて鋭敏に対応するリズム隊の貢献もあって、ここで解き放たれる声の複数性は、前回よりさらにはっきり聴き取れたように思う。
それ以外にも、ブラシの使用やシンバル三枚を使い分けた繊細なシンバル・ワーク(弓弾きを含む)が声の浮き漂う感触をしっかりと支える場面、イントロにバロック風のコントラバスの弓弾きが配され、途中、何度も微妙にテンポを変えながら、最後、くるくるとコマが回るように曲を終える場面など、グループ演奏ならではの手応えを感じることができた。声の抑揚、速度の微妙な変化に寄り添うだけでなく、多彩な音色をどう使い分けるかに気を配っていたと思う。やはり、声とギターの結びつきは強固であり、そこにフレージングで割って入ることが難しい以上、リズム・ワークを中心に音色を使い分けて全体のサウンドを彫琢していくというのは、あるべき方向性だと思う。
その一方で、池間由布子(何度も彼女を引き合いに出してしまうのは、浮への私の評価/期待の高さのせいである)がバックバンド「無労村」を従えたCD『My Landscapes』で、これまでのギター弾き語りから遂げたような大きな変貌は、彼女にはまだ見られないように思う。今後、「浮と港」でのCD録音も予定されていると言うから、そうした機会を経て、ソロとは異なるトリオでのみ可能な新たな音世界へと更に飛躍していくことを楽しみに待つこととしたい。

2022年3月24日 阿佐ヶ谷Soul玉TOKYO
浮(vo,ac-g)、桜井芳樹(ac-g)、高岡大祐(tuba)
2022年4月29日 入谷なってるハウス
浮と港+白と枝
浮(vo,ac-g)、服部将典(cb)、藤巻鉄郎(dr)、白と枝(chorus)
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2022-07-25 Mon
つなぎに軽めの食の話題を(レヴューは別途執筆中です!)。退院して自宅へ向かう途中、昼食用にサンドイッチを買って帰ろうということになり、バスを途中で降りて、自由ヶ丘駅から少し離れた「エリオント」へ。ここは比較的最近できたドイツパンを得意とするお店。サンドイッチ系やスイーツ系に加え、「ライ麦99.9%使用。16時間蒸し焼きにしました」とのポップに惹かれ、プンパニッケルも少しだけ買ってみる。試しにハチミツを塗って食べてみたら、独特のもっちり感は素晴らしいが、持ち味が強力で、これはもっとヴォリュームのある具材の方が合うなと。
■エリオント自由が丘 Instagramより
ということで、土日の昼食用の食材を買いに行く時に一計を案じる。ちなみに我が家では、基本的に料理は妻が担当、私が洗い物担当なのだが、土・日・祝日の昼食は私が調理する。と言っても、パスタばっかりだけど。おかげでパスタ作りはそれなりに上達した。幾つかスペシャリテも開発。
退院直後で「大丈夫?」と妻に心配されたが、そこはリハビリの一環ということで。ここではパスタの前菜とドルチェに仕立てたプンパニッケルのサンドイッチをご紹介。
構成については別添構造図を参照(笑)。要はハムとザワークラウトにチーズを合わせたものと、チーズとブルーベリーを合わせたものの二種類。組み立ててからラップを掛けて冷蔵庫に入れ、食べる直前にラップごと切って盛り付け。


仕上がりについては別添写真を参照(肝心の断面がよくわからないが)。前菜の方は韓国ソウルで購入した木製の皿に。大葉の刻みとパルメザン・チーズを散らした。何だかオサレに見える。手前に配したのは山羊乳のチーズ。牛乳でつくった白いチーズよりもコクがあると言うか、旨味が濃い。リコッタ・チーズ(フレッシュ?)ともども、近所のそこで製造しているお店(というよりは工房に売り場が付属している)「チーズスタンド」で購入。ロース・ハムもザワークラウトも近所にある自家製造の名店「ダダチャ」で購入。パスタをつくる際に、ベーコンを拍子木に切ってよく使うのだが、ここのベーコンは肉質がよく、噛み心地が素晴らしい。もちろん、ハムもソーセージもおいしい。
具材をいっぱい盛り込んだので、パンの強さに負けていない。ゴチャゴチャしそうなところだけど、酸味が一本筋を通し、「えいやっ」と入れてみた大葉が効いていて、ヌケがある。これはもう「ハーブ」として機能している。

ドルチェは別の皿で。景徳鎮のレプリカの豆彩(闘彩)。いささかミスマッチですが(笑)。チーズとブルーベリーの組合せはチーズケーキでも定番だからマッチしないわけがない。ジャムは、入院中に妻の親戚からいただいた生ブルーベリーを妻が煮てくれたもので、かなり甘さ控えめなのだが、プンパニッケルのもっちり感の中にある本来の甘みを引き出す感じで、なかなかうまく行った。

コーヒーはいつもの堀口を切らしていて、別の店の豆。やや浅煎りで酸味が勝っているのだが問題なし。プンバニッケルの持ち味を活かせて、復帰後初回のランチは満足のいく仕上がりに。
2022-07-23 Sat
簡単な手術を受けるため、7月5日から15日まで入院していた。その間に感じたことなどを幾つか記しておきたい。1.響く靴音
ベッドに臥せっていると、靴音がよく聞こえる。コツコツではなく、カッカッカッでもなく、キュッキュッ、あるいはギュ・ギュが多い。病院スタッフはみんな底が滑りにくい靴を履いていて、入院患者も転倒防止のためにスリッパやサンダルではなく「靴」の着用を求められているため、運動靴が多くなるのだろう。
靴音が目立つのは、話し声が聞こえないせいでもある。新型コロナウイルス感染拡大防止のため今年になってからずっと面会は禁止。荷物の受け渡し等もスタッフ・ステーション経由で、入院中は家族とも直接会うことができない。四人部屋の病室はカーテンが引き巡らされ、患者同士の会話もない。テレビやラジオ、スマホはイヤホンで。もちろん病室でのスマホの通話は禁止。病棟内ではマスクを着用。
だから検温や点滴交換時の声掛けや、入退院時の手順、手術前の注意事項等を説明する、看護師や医師の声しか聞こえてこない。後は食事を運んでくる配膳車のずしりと重くくぐもった車輪の音。看護師が記録用のPCや血圧計、院内処方の薬剤等を載せて押し歩くワゴンのカタカタと鳴る金属製の揺れ。
武満徹は『サイレントガーデン −− 滞院報告』で、病室の外の廊下から入ってくる生活音について書いているが、そうした生命観に満ちた「いのち」を励ましてくれる響き(それはかつて自分が属していた「日常」につながっている)は、おそらく当時の何分の一かに減じてしまっていることだろう。

2.毎朝の儀式
手術自体は無事完了したものの、初めての全身麻酔だったこともあり、術後のひどい麻酔「酔い」に悩まされた(術部の痛みこそなかったが、手術自体の身体へのダメージは当然あっただろう)。当日の夕方から翌日の午前中まで、何とも言い難い苦しさ、居たたまれなさに身をよじり、シーツがぐっしょりと濡れるほど油汗を流し、しかし吐き気が強くて水が一滴も喉を通らず、溲瓶をあてがわれても尿はまったく出なかった。つなぎっ放しの点滴からは1リットル以上の薬液が注入されているというのに。
翌日の朝食も喉を通らず、ほうじ茶とヨーグルトのみ。昼・夜もほぼ同様。朝食の後、看護師に支えられてトイレに行き、洋便器に腰掛けて、ようやく少し尿が出た。紅茶か番茶のような、今までに見たことのない濃い色。点滴で水分・栄養補給のほか、痛み止めと感染防止の抗生剤を注入。
翌々日になって、ようやく自分で起き上がれるようになる。疲労や怖れや焦燥や混乱がこころとからだの中に澱のように降り積もっている。気晴らしをしたいが、集中を要する音楽はとても聴けそうにない。明るく軽いだけの音楽も嘘寒く、かえって疲れる。閉ざされたカーテンの中に居続けると何しろ気が滅入ってくるので、スマホと入院に備えて買い求めたイヤホンを携えて、その階のスタッフ・ステーション前のロビーへ。
youtubeで音楽を聴いてみよう。むしろふだんは聴かないクラシックはどうだろうか、たとえばモーツァルトのピアノ協奏曲とか、あるいは‥‥と検索するうちに、ふと思いついてサミュエル・バーバー「弦楽のためのアダージョ」を聴いてみる。
音が鳴り始めた途端、いままで見えていた光景が透明なガラスの向こうに、すっと一歩遠ざかる。いや、自分の眼で見ているのに、ヴィデオキャメラで撮影してモニターを通して眺めているような感じに変わると言った方が正確か。遠くなるだけでなく、「いま・ここ」のアクチュアリティから切り離され、ガラスの入った額縁がはめられる。音量は決して大きくなく、周囲の物音がよく聞こえるのだが、それらはみな音楽のスクリーンで濾過され、投影された画面の中から響いてくるように感じられる。スタッフ・ステーション内の看護師の動きも、カウンターの前を通り過ぎる回診の医師や床を清掃する業者の歩みも、車いすを押してもらって、あるいは点滴のスタンドを杖代わりに、ゆっくりと検査に向かう入院患者たちの移動も、すべてキャメラのレンズの向こうへと遠ざかり、現実感を希薄にして、妙に整然と美しくまとまった一幅の画となっている。見ている私はキャメラのこちら側へと切り離され、そこにはいない部外者、第三者として、距離を隔てて画面を見詰めている。つまりは「観客」として。
冷ややかに透明な哀しみがどこからともなく舞い降りてくる。自分とは切り離された「物語」として、これから起こる「悲劇」を眺めているとでも言えばよいのだろうか、得体の知れないふわふわと現実離れした感じ。切断による間隔化がもたらした空疎さを、条件反射的に「物語」で埋め合わせようとしているのか。それともアクチュアルな手触りを失って意味不明にカクカクと動く人体が、機械仕掛けの滑稽さをたたえるからなのか(そこに哀れみを感じるというのも何とも傲慢な話だが)。スタッフ・ステーション内の分散した動きが、この後、突然の災厄に見舞われてパニックに陥る前の、最後に残された日常のように見えてくる。あるいは救急の担架で運び込まれ、息を引き取りつつある者の瞳に映る、この世の最後の光景。
思えば、この曲をたぶん初めて聴いた映画『プラトーン』でも、あるいはその後に観た役所広司主演のテレビドラマでも、演出はそうした「感じ」を求めていた。曲が流れ始めるとその場に付随する現実音が消され、画面はスローモーションに切り替わり、眼の前の「現実」から生々しい「現実感」が取り除かれ、ありふれた日常は美しい(恐ろしい、悲惨極まりない‥‥)絵空事に変貌する。雑味はすべて除かれ、指に触れる手がかりもまた取り払われて、光景はどこまでもどこまでも冷ややかに美しく透き通って、やはり透明極まりない弦の響きとともに、ゆっくりと崇高に向け上昇していく。辺りを物憂げに見下ろす哀しみをたたえながら。
死の瞬間に、脳は「脳内麻薬」を分泌して現実感を喪失させ、苦痛や恐怖を取り除くという話を、どこかで読んだことがある。ライオンに襲われ食われかけた人の「自分の身に起こっていることではないように感じられた」との証言が引かれていた。それと似た「浄化」作用が擬似的に生じているのかもしれなかった。苦しかった記憶や不安が水っぽく柔らかくなって、薄らいでいくように感じられた。
これは生の営みを一片の物語へと譲り渡してしまう悪い「物語化」だ、極めて不健全な習慣だと思いながら、私はしばらくの間、毎朝、この「儀式」を続けた。ただ、その後、そのまま閉ざされた病室のベッドには戻らず、イヤホンを外してトイレに行き尿が便器に当たる音に耳を澄ましたり、自宅に電話して妻と話すなど、現世へと帰還するためのプロセスをバッファーとして必ず設けるようにした。

3.コンパートメント化の進行 「いま・ここ」からの離脱
入院前日、7月4日の夕刻、いま借りている本をいったん返却しようと、私は目黒区立大橋図書館に向かっていた。そこで奇しくもその日に田園都市線で起こった騒動を体験することとなった。
私は4両目4番ドアの近く(優先席の次のブロック)に座っていた。そこが池尻大橋駅ホームの階段に近いからだ。まだ17時前なので車内は混んではいなかった。ガラガラでこそないが、付近に立っている乗客はいなかったように思う。三軒茶屋駅を出発後しばらくして、もうすぐ目的の駅というところで、座っていた左手側、列車の後方からドンと大きな音がし、座ったままそちらを振り返ると隣りの車両との連絡ドアに人の姿が張り付いていた。次の瞬間、ドアが開くと同時に、わっと三・四人の人の群れが噴き出してきた。つんのめり床に手を着く者があり、脱げた靴が片方だけ床に落ちていた。しばらく前の京王線の放火事件が頭を掠めたが、火の手が見えるわけでもなく、臭いもしなかった。続けて人が押し合いへし合いしてドアから吐き出されるが、さらに次の車両まで逃げようとはしない。最初に逃げてきた男性二人が「何があったんですか」、「さあ、人がすごい勢いで走ってきたから‥‥」というような要領を得ない会話をしている。勢い良く開いた反動でドアが一度閉まり、すぐさま荒々しく開け直されると「○○ちゃん、いまは靴なんてどうでもいいの」と母親らしき女性の叱り声が響いた。
すでに車両は池尻大橋駅に入っていた。もう連絡ドアからの人の流れは途絶えていた。すぐ近くの4番ドアから降りて、ホーム後方の様子をちらりと伺うと、一斉にホームに吐き出された乗客たちの背中だけが見えた。私はそれ以上そこにとどまることなく、改札口に向け階段を上がった。車両が運行を一時停止する旨のアナウンスが響いていた。
後ほどニュースで確認すると、乗客が暴れて6両目と7両目の間の連絡ドアのガラスを叩き割ったようだった。詳しくは書かれていないが、おそらくその乗客は6両目に乗っていて、割れたガラスに驚いた6両目の乗客が5両目に逃げ、その様子に慌てた5両目の乗客が私の乗っていた4両目に駆け込んできたのだろう。5両目の乗客は、おそらく何が起きたかもわからず、ただ凄い勢いで人が逃げてきたから、押し出されて避難したものと推測される。7両目の乗客は後方の8両目に逃げたのだろう。とすれば、避難者の流れが割とすぐ途切れ、人数がさして多くなかったことも説明がつく。6両目の乗客は4両目まで逃げる必要を覚えなかっただろう。すでに駅に着いていたのだし。
混雑している時間帯ではなかったのが不幸中の幸いと言えるが、それでも押し倒され、あるいは躓いて転んでいる者がいた。もし混雑していたら将棋倒しによる怪我人が出たかもしれない。先日の放火事件と異なり、「事件」自体による生命への直接の危険はなかったにもかかわらず。なぜ、このようなパニックが起きてしまったのか。
ひとつ思い浮かぶのは、以前に比べ、乗客が周囲に注意を払わなくなっていることである。耳をイヤホンで塞ぎ、視線をスマホの小さな画面に釘付けにしている者が多い。それでは微かな予兆/前兆を感じることも出来ず、聞き耳を立てたりそちらを振り向いて危険の程度を確認することも出来ない。そして、これらの情報収集に基づき事前に身構えることも。情報ゼロから過大な入力がいきなり立ち上がることにより、慌ててパニックを起こしやすくなることは疑いない。
いわゆる「スマホ依存」やゲームへの重症の耽溺でもはやそれが手放せないという者もいよう。しかし、私にはむしろ、「いま・ここ」から自分を切り離したいという思いの方が強いように感じられる。イヤホンから大音量で流れる音楽に聴き入っているというよりは、周囲にバリヤーを張り巡らして聴覚を塞ぎ、視界も画面で独占して環境情報を遮断して、コンパートメント化を図ることにより、自分の身体の存在する空間から「意識」を切り離す。かつてサイバーパンクは「電脳空間」に意識をジャックインさせることにより、身体を現実空間に置き去りにしたが、おそらくここでは、こうした切断が行為として意識されることはあるまい。単にミュートしているだけだからだ。何の覚悟も要らない手軽で気楽な操作。だが、それが時には重篤な結果をもたらすことにもなりかねない。
単なるミュートであるがゆえに、現実の身体が占める空間に対しておそろしく鈍感になり、しかもそのことに一切気づいていないし、注意も払っていない。ひとことで言えば無頓着なのだ。担いだリュックや肩にかけたショルダーバッグが他人にぶつかっても気づかず、電車が揺れて他人にぶつかってもお構いなし、優先席に座った自分の前に高齢者や障害者、妊婦が立とうが知らんぷり。開くドアをはじめ、大勢が通行する動線を塞いでいて平気なのも、同じ無頓着によるものにほかなるまい。環境に感応しない身体存在。それはもう「生物にあるまじき振る舞い」とすら言える。一種の「幽体離脱」か。
同じ空間を共有し肌を接しさえする眼の前の他者には無頓着/無関心で、はるか離れた別地点にいる他者が発するラインやツイッターのメッセージには慌てて応答する。以前は電車の中で電話しながら手を振ったり、ぺこぺこお辞儀する者を見かけたが、メールからさらにSNSに中心が移った今は、そうした身体動作は見られない。やはりあれはリアルタイムの会話が、別々の場所に話者がいるにもかかわらず、共通の仮想空間を立ち上げてしまうからこそのものだったのだろう。今やそうした同期もない。こうした「いま・ここ」への無関心は、結局、自分の身体を、そして他者の存在を軽視することにほかならない。いつかきっと手痛いしっぺ返しを受けることになるだろう。
4. イヤホンを着けて街を歩く
「ウォークマン(*1)をつけて外をあるく。音楽はロックではいけない。環境音楽もだめ。半透明なひびきと不安定なリズムをもつものがいい。ボリュームをいっぱいにあげてはいけない。つまみを調節して、現実音が音楽の波に洗われながら浮きしずみする状態をつくる。すると、風景がそこにはない音でフィルターをかけられているのがわかる。どこかちがうが、もとのままの風景にはちがいない。」【高橋悠治「メモ・ランダム」より 『カフカ/夜の時間』晶文社1989】
*1 いまとなっては、この語にも注解が必要かもしれない。ウォークマンとは持ち運びの簡単な掌サイズの、ステレオヘッドホン(イヤホン)で再生音を聴取するカセットテープ・プレイヤーであり、もともとは1979年に初めて製品化したソニーの商品名だが、「セロテープ」等と同様に、それがそのまま呼び名として流通し、普通名詞化することとなった。当時のソニー会長の「出先でカセットテープを高音質で聴きたい」というリクエストに応えるため、取材用の携帯カセット・レコーダーから録音ヘッドを取り除き、再生ヘッドをステレオ化したものがプロトタイプになったと言う。この「テープレコーダーから録音機能を外す」発想が画期的だった。実際、社内からも「そんな製品が売れるわけがない」と猛反発を受けたと言う(その後に録音機能が付属している機種も製作された)。自分で用意した音源を移動中に(呼び名通り「歩きながら」でも)聴ける点で、その後の携帯CDプレーヤーや同MDプレーヤーを経てi-pod等に至る流れの先駆けとなった。
この高橋悠治の表明は今でも新鮮に響く。というのも、みんなウォークマンをそのようには利用せず、あくまで他の音を遮断して音楽だけを聴いていたからである。細川周平『ウォークマンの修辞学』(朝日出版社1981)においても、彼自身が「あとがき」で断っているように、ヘッドホンを着けると周囲の音が完璧にシャットアウトされ、カセットの音だけが聞こえてくるという「理想的な」想定が議論の前提としてなされている。言わば、都市体験のサウンドトラックだけがカセット収録の曲目に差し替えられるのだ。その効果はむしろ視覚的なもの、映画でよく行われる映像の異化(新たな文脈/意味の付加)にとどまるだろう。都市体験そのものの変容には至らない。電話口で一瞬聞き覚えのない声から、ずいぶん長いこと顔を会わせていない友人の顔貌や立ち居振る舞いがまざまざと浮かび上がる時の、あるいは空港に降り立ったとたんに全身を包み込む微かな匂いに、前回訪問時の記憶のあらゆる細部が一瞬のうちに鮮やかによみがえる時の、身体がぐらりと揺らぐタイムスリップにも似た感覚はない。やはり嗅覚や聴覚は、視覚よりも「古層」の感覚だからだろうか。

5.「いま・ここ」を丸ごと聴くこと
やはり「聴く」こと、しかも「いま・ここ」を丸ごと聴くことが重要だと思わずにはいられない。イヤホンを挿し込み、出来合いの音楽だけをあてがって、耳を「塞ぐ」のではなく、全周囲360°へと開くこと。こんな音まで聞こえているのかと、自分の耳の「底知れなさ」に驚くだろう。と同時に、そうした「底知れない」耳をもってしても到底聞き尽くせないほどたくさんの多種多様な音が溢れかえり、交錯し乱反射してありとあらゆる方向から脈絡なく降り注いでいることに、否応なく気づかされるはずだ。「底知れない」耳をはるかに上回る「底なし」の音。その時、私たちは世界の恐るべき豊かさの一端に触れている。
「見ることとは光の制限である」とアンリ・ベルクソンが言ったように、「制限」がなければ眼はただ光の洪水に溺れ、「ホワイト・アウト」を起こしてしまうだけだろう。しかし、耳は、もちろん可聴周波数帯域があらかじめ限定されているとは言え(これは光も同じだ)、響きの渦や乱流が立ち騒ぐ中を、「ホワイト・アウト」を起こさずに、かなりの程度動き回れるように思う。よく知られる「パーティ効果」のことを言っているわけではない。それとは話が逆だ。話し声とグラスのぶつかる音、哄笑からひそひそ笑いまで様々な響きのシチューから、特定の発話を抽出して聞き取るのではなく、反対にそうした特定/抽出をすることなしに、すなわちマスキングやフィルタリングなしに、すべてを丸ごと聴くこと。初めての宿に泊まり、耳慣れない物音に耳が捕らわれて寝付けなくなり、次から次へふだんは耳を傾けずにいた様々な音が聞こえてきたことはないだろうか。あるいは遠ざかっていく列車の音に耳を澄ますと、そこに結びつけられたロープが引き伸ばされていくように、遠くの音が浮かんできたことがないだろうか。そうした「聴くことの深まり」は後で触れるフィールド・レコーディング作品を聴く際にもよく生じてくる。
こうして論を進めていくと、聴覚のマスキング/フィルタリングの最たるものが、イヤホンから大音量の音楽を流し込み、しかもそれを聴こうとせず鼓膜を嬲らせているだけの「遮断」であることが浮かび上がってくるだろう。先に見たように、それは世界の豊かさとの回路を切断し、自らを閉ざすことに他ならない。各自の意見形成におけるインフォ・バブルやエコー・チェンバーの悪影響が指摘されて久しいが、それは必ずしもSNSという「ストラクチャー」の産物ではない(当然のことながら増強効果はあるにしても)。むしろ、耳を塞ぎ聞かないこと、すなわち、あらかじめあてがったもの以外を聞かない/聞こえないようにしてしまうことの結果なのだ。
6.標語による二分法
この「あらかじめあてがったもの以外を聞かない/聞こえないようにしてしまうこと」の蔓延は、SNSの流行などよりもはるかに遡って、コミュニケーションの重要性が「送信者から受信者へのメッセージの伝達」という情報通信工学の図式で示されるようになったことと深く結びついているように思われてならない。通信ノイズを排除してメッセージを受信するということは、「メッセージしか受信しない」ということであり、さらには「受信した内容からメッセージを仕立て上げられればそれでよい」とすることにほかならない。個別具体的な差異を踏まえた、適切な分析=記述がなければ、具体性を欠いた、恐ろしく抽象的な観念ばかりが、頷きあうための「合言葉(あいことば)」として垂れ流され、加速度的に流通・増殖することとなる。蓮實重彥が大正期の言説空間について、差異の意識を消滅させる「標語」というものの周辺のみを回っている‥‥と指摘している(*5)が、そうした状況がまたも繰り広げられているのではないか。
*5 浅田彰、柄谷行人、野口武彦、蓮實重彥、三浦雅士 共同討議「大正批評の諸問題」p.23 『批評空間』1991年No.2(福武書店)
たとえば「多様性(ダイバーシティ)の尊重」が内実を欠いて「標語」に堕してしまうならば、ただちに「多様性」の信奉者とそうでない者を色分けする線引きのための口実となる。「金槌を持てば何でも釘に見えてくる」と言うが、まさにここで作動しているのは「釘か、釘でないか」の二分法にほかなるまい。
冒頭に述べた毎朝の「儀式」を「不健全」とした理由がここにある。人間の感覚・思考は、世界の混沌とした不透明で見通すことの出来ない豊かさとの触れ合いを欠けば、恐ろしく透明な単純さに陥ってしまいやすいからである。
もちろん、そうした世界の過剰さとそのまま向かい合うことが難しい、心身ともに衰弱した状態であれば、ひとときの休息が必要だろう。雨が上がるまで、ちょっと軒下を借りて雨宿り。だが、ずっとそのまま軒下に居続けることはできない。掌を「外」へと差し出し、雨粒を皮膚で直接に受け止めてみる必要があるのだ。
「普通の日の普通の心を少しの間調べてみるとよい。心は無数の印象を受け取る。ささいな印象、奇異な印象、はかない印象、あるいははがねのような鋭さによって刻み付けられた印象を。これらの印象は、無数の粒子の絶え間ないシャワーとなって、あらゆる方向からやってくる。」【ヴァージニア・ウルフ「現代小説」】
ウルフの言う「粒子のシャワー」を浴びること。セザンヌの言う感覚の感光板を感光させること。衝突してくる粒子にブラウン運動的に突き動かされながら、この一歩を歩み出すこと。そのようにして運動した軌跡が「物語」となる。「物語」とはあらかじめ記されるものではなく、この一歩ごと、一瞬ごとに書き進められ、振り返るたびに聞く/読むことによって、その都度編み直されるものにほかならない。
7.フィールド・レコーディングの現場から
自身もフィールド・レコーディングを行う津田貴司が、それぞれに異なる仕方でフィールド・レコーディングに携わる五人のアーティスト(井口寛、高岡大祐、Amephone、柳沢英輔、笹島裕樹)と二人の聴き手(原田正夫、福島恵一)にインタヴューした『フィールド・レコーディングの現場から』が、今月、カンパニー社から出版された。アーティストだけでなく、聴き手からも話を聞いたのは、フィールド・レコーディングについては「録ること」だけでなく「聴くこと」にもまた「現場性」が宿っているとの津田の認識があったのではないかと、私は考えている。
実際、聴き手の話は「何がきっかけでフィールド・レコーディングを聴くようになったか」、「どのようなところに魅せられていったのか」といった点についても語っており、これからフィールド・レコーディングにアプローチしようという方はもちろん、すでに聴き親しんでいたり、すでに自らフィールド・レコーディングを行っていたりする方にも、「そうか、そういう入口、行程、視点があり得るのか」と、フィールド・レコーディングへの関わり方を多角的に深めるのに役立つのではないかと思う。
先に「それぞれに異なる仕方で」と述べた通り、五人のアーティストの視点・姿勢・手法は様々で、本当にいろいろな角度から「気づき」を与えてくれる一冊となっている。その一方で、録音や聴取の仕方をマニュアル的に示すものではない。録音や聴取時のエピソードはふんだんに盛り込まれているし、インタヴュー中に挙げられている作品については簡単なガイドを付しているので、実際に音源にアプローチする際にも役立つだろう。しかし、網羅的なディスク・ガイド(たとえば時系列や傾向に沿った)とはなっていない。いや、あえてしていないと言うべきだろう。
これはあくまで一参加者の私見となるが、「ジャズの聴き方指南」といった「○○の鑑賞法を教えます」といった書物と本書が大きく異なるのは、「フィールド・レコーディング作品の聴き方」という、決まりきった「作法」とか「王道」があるとして、それを伝えようというのではなく、フィールド・レコーディング作品を聴くことを通じて、その「体験」に自ずと触発され、日常の聴き方、耳の眼差し自体が深まることを目指している点にある。すなわち本書は、これまでと違った仕方で世界と触れ合う体験への誘いなのだ。

フィールド・レコーディングの現場から
津田貴司 編著
B6判並製:256頁
発行日:2022年7月
本体価格:2,200円(+税)
ISBN:978-4-910065-08-3
フィールド・レコーディングすることとフィールド・レコーディングされた音を聴くことは地続きである。井口寛(録音エンジニア)、高岡大祐(チューバ奏者/録音エンジニア)、Amephone(音楽家/プロデューサー)、柳沢英輔(音文化研究/映像人類学)、笹島裕樹(サウンドアーティスト)、原田正夫(月光茶房店主)、福島恵一(音楽批評/耳の枠はずし/松籟夜話)の7人との対話を通じて、サウンドアーティスト・津田貴司がフィールド・レコーディングの現場を探索する。録音が切り開く耳の枠の外部へ――音を標本化しないままに「他者としての音」に出会うこと。フィールド・レコーディングによって可能となる聴取のあり方を考える。
▼目次
まえがき――フィールド・レコーディングの現場
なぜ録音するのか、なにを録音するのか
●井口寛との対話
01 ディスク・レビュー
音質が表象するもの
●高岡大祐との対話
02 ディスク・レビュー
聴くことの野性
●Amephoneとの対話
03 ディスク・レビュー
録音の中でしか行けない場所
●柳沢英輔との対話
04 ディスク・レビュー
なぜ、写真ではなく録音なのか
●笹島裕樹との対話
05 ディスク・レビュー
耳の枠の外部へ
●原田正夫との対話
06 ディスク・レビュー
聴こえない音にみみをすます
●福島恵一との対話
07 ディスク・レビュー
ここではないどこか、いまではないいつか
まとめ|フィールド・レコーディングの可能性 津田貴司×福島恵一
あとがき――録音できない音
付記
「今時、簡単な手術で11日間も入院させる病院があるか」と訝しく思われる方もいるかもしれない。実際、私の病室に限っても、大抵の手術は前日入院で、合計三泊四日か、四泊五日だった。私の場合は術部の感染が懸念されたため、最初は術部にドレーンを挿入して血液が溜まらないようにし、術後一週間経過して抜糸するまでの容態変化を見て、そこで退院の期日が決定された。それゆえの入院期間の長さと理解されたい。