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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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ディスク・レヴュー2011年1~3月  Disk Review Jan.to Mar. 2011
1.焦点を持たない風景

Cranc / Copper Fields
(Organized Music from Thessaloniki #9)
Angharad Davies(violin),
Rhodri Davies(electric harp),
Nikos Veliotis(cello)
試聴 http://thesorg.noise-below.org/2/?p=222

 ここで音は決して演奏者の立ち位置や輪郭を明らかにしない。ステレオ空間に音像として定位するかわりに、希薄な音響は相互に浸透し、見分け難い一様な広がりを作り出す。風のない冷えきった湖面にたちこめる厚いもや。あるいはグラス・ハーモニカから香りのようにたちのぼる倍音のたゆたい。しかし、眼を凝らせば、そこに幾つかの手触りの違いが浮かび上がる。手漉きの和紙にも似た肌理をたたえたヴァイオリン。より彫の深い木目を露にするチェロ。対して、おそらくはe-bowで奏されているのだろう、ハープは弦の摩擦を感じさせることなく、おぼろな明るみを空間に溶かしていく。これらの音が切れ切れにほつれ重なり、中空を半透明に漂う。だがそれは決してスタティックなドローンではない。彼らはただ音色のパレットを展示しているわけではない。むしろそこで繰り広げられているのは、マッチ棒のタワーを3人が左手の小指だけで支えているような、危うい力の均衡がつくりだすサウンドスケープ(ミクロなフォルムの絶え間無い生成/変容)にほかならない。足元を揺らがせる波打つ重低音が、遠くで鳴り響くベルにも似た金属質の粒立ちが、いや水平な持続のたなびきそのものが、先の均衡の原理を通じて音風景をなだらかに推移させる。時折訪れる劇的な変化、もやが澄みわたり遠くまで見通せたり、そこに一筋の光が差し込んだりも、所詮、持続のひとコマに過ぎない。


Craig Vear / Aud Ralph Roas'le
(Gruenrekorder Gr075)
Craig Vear(field recording)
試聴 http://www.gruenrekorder.de/?page_id=2693

 もともと風景に焦点などないのだが、意識的/無意識的な枠づけが、ものの輪郭や近景・中景・遠景の区分をもたらす。これにより風景は、まさに絵の如くに現れることになる。フィールド・レコーディングを音による風景画の制作ととらえ、そのように整序された空間を提示するアーティストも多い。そこには失われつつある自然やコミュニティの姿がいきいきと「記録/保存」されることだろう。そうした視点からすれば、この作品は失格かもしれない。例えば冒頭、波のうねりとざわめきが眼前を覆い尽くし、しかるべきパースペクティヴを一向にもたらそうとしない。そこにあるのは海辺の風景ではなく、逆巻く波へと放り込まれ、距離を欠いたままものの存在に脅かされる、苛酷な耳の体験にほかならない。得体の知れない響きやざわめきが、身体の内側に容赦なく入り込み、あるべき世界の輪郭に収まることのない、その無際限で不定形な豊饒さで聴き手をたじろがせる。この圧倒的な流動/生成に耳をさらす体験は、先のCrancによる演奏を3人の演奏者に還元せずに聴くことと明らかに通底している。



2.「実験」のもたらす「現象」


Kuchen,Rodrigues,Rodrigues,Santos / Vinter
(Creative Sources CS158cd)
Martin Kuchen(alto saxsophone),Ernest Rodrigues(viola),Guilherme Rodrigues(cello),Carlos Santos(electronics)
試聴 http://www.squidco.com/miva/merchant.mvc?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=12901&Product_Count=&Category_Code=
 先のCrancに比べ、4人の演奏者の姿ははるかに見極めやすい。そのことが、彼らの自らのサウンドに課している「制限」-どこまでも水平であること-を痛々しく浮かび上がらせる。4つの音の層は平らかに積み重なりながら、決して安定/均衡へと至ることはない。フレージングを排し、マティエールを露にしながら、音は決して互いにもたれ合うことなく、日本刀の刃の間に髪の毛を挟むように極小の隙間を保ったまま、ふるふると緊張に震え、危うく接触しそうになった瞬間、ミクロな爆発が起こる。ここでもひとつひとつの音は、微細な揺らぎや小刻みな反復振動をはらみながら、切り詰めた定常状態を保っており、この「実験」的な条件設定が先に見た相互干渉により、演奏者間の通常の対話では生み出し得ないような、豊饒にして予測不可能な「現象」をもたらす。まるですべての音が高密度に帯電/帯磁しているかのように(誰もいない部屋で楽器が独りでに鳴りだし、ラジオのスイッチが入る)。


Tilbury,Duch,Davies / Cornelius Cardew Works 1960-70
(+3db +3db012)
John Tilbury(piano),
Michael Duch(doublebass),
Rhodri Davies(harp)
試聴 http://plus3db.net/

 ピアノの冷ややかに張り詰めた打鍵。軋みを重層化し、胃の腑に重くのしかかるベースの弓弾き。コントラバスのミュートされたピチカートが、墓穴を埋め戻す土くれにも似た響きを立てれば、傍らでハープが暗闇に閃光を走らせる(マッチを擦る音と匂い)。音に音を寄り添わせるのではなく、まずは一音一音に自ら空間を切り開く強度を与えることから彼らは事を始める。響きがそれぞれの場所で孤独に屹立していながら、それでもひと連なりの時間を生きていると感じられるのは、やはりこれがコンポジションだからだろうか。とはいえカーデューがケージから学んだ不確定性の導入は、むしろ音から作曲者の意図や作品の解釈という「安全毛布」を引きはがすことに役立てられる(ぽつんぽつんと点在する音はひとり暗闇に肌をさらし震えている)。カーデューの60年代を「不確定から即興へ」と要約するならば、それゆえ前者の方がより興味深い。作曲による確定的な位置付けを容赦なく剥ぎ取られ、しかし依然として即興演奏の傘の下に走り込むことのない裸の音の群れに、時折プラズマにも似た眩い光の線が走る。それこそは「実験」がもたらした「現象」の輝きと言うべきだろう。


Tzenka Dianova / DeConstruction-Tzenka Dianova Plays Satie & Cage (Atoll ACD 309)
Tzenka Dianova(piano,prepared piano,celesta),
Charlotte Rose(electronics),
Sarah Watkins(prepared piano)
試聴 http://tzenkadianova.com/audio-visual

 John Tilburyをおそらくは唯一の例外として、Magda Mayas、Sophie Agnelなど、最近注目しているピアニストたちは、ピアノの確定した音程と倍音構成に飽き足らず、そこから新たなサウンドの広がりを引き出すため、みな内部奏法やプリペアドを駆使している。その結果、超高性能サウンド/ノイズ・マシーンへと生まれ変わったピアノに対し、もともとのピアノからの「異化」された距離を問うことは、もはや問題にならないとすら思われた。しかし、Dianovaによるケージのプリペアド・ピアノ曲「The Prelious Night」の演奏は、生まれて初めてプリペアドされたピアノを聴いたかのような新鮮な衝撃に溢れている。「ステージ上のスペースの不足から、打楽器アンサンブルの代役として発想された」プリペアド・ピアノの来歴を思い出させるコンパクトさは微塵もなく、打楽器オーケストラさえ上回る強靭な打撃/サウンド・カラーの鮮烈な対比が炸裂する。良識のリミッターを解除することにより、重厚な調度品めいた佇まいが封印していたピアノの獣性(鋼鉄のフレームと凄まじい張力で張り渡された弦)を解き放つ試み。プリペアドされていないピアノによる同曲の演奏を電子変調しながらパッチワークした表題曲や、2台ピアノ用に編曲してガムラン色を強めた、やはりケージ作曲の「Bacchanale」、夜更けにそぼ降る雨にも似たチェレスタ版「Vexations」(サティ作曲)などの試みも実に興味深い。



3.フリーの「定型」を遠く離れて


Jean Derome,Le Quan Ninh / Flechettes
(Tour de Bras TDB9004cd)
Jean Derome(flute,alto saxophone,bird calls,little instruments),Le Quan Ninh(objects over bass drum)
試聴 http://www.squidco.com/miva/merchant.mv?Screen=PROD&Store_Code=S&Product_Code=14200

 横置きにしてスタンドに乗せた大太鼓を様々な音具でこすりたて、倍音領域に間断なく攻撃を仕掛けることにより、ル・ニン・カンは空間を荒々しく鎌で掻き取るようなムーヴメント(速度と強度)を生み出し、逆巻く波しぶきや吹き荒れる暴風をはじめ、獰猛な自然の音響を眼前で弾けさせる(エディ・プレヴォーによる安定した繊細なドローンと比べてみること)。対してジャン・ドゥロームは様々な管楽器にあらん限りの息を吹き込んで、サウンドの沸騰状態をつくりだす。音は突如として泡立ち吹き上がり、あるいはどこまでも引き伸ばされて、腱の切れた組織からぼろぼろと音の破片がこぼれ落ちる。カートゥーン・ミュージックの走り回る騒々しさを終始手放さず、時には朝鮮巫楽や雅楽のイミテーションにすら至る2人の応酬は、エレクトロ・アコースティックな静謐さを遠く離れながら、自らを切り刻むフリー・ジャズの閉域(きりもみ状のディスクールやねじれた咆哮、あるいはパルスの乱射への耽溺)にとらわれることがない。


Clang Sayne / Winterlands
(Clang Sayne CSCD01)
Laura Hyland(vocal,acoustic guitar),James O Sullivan(electric guitar,objects),Peter Marsh(double bass),Matt Fisher(drums)
試聴 http://www.myspace.com/clangsayne

 女性ヴォーカル入りのフォーク/ロック・グループ編成による楽曲は、「編集やオーヴァーダブ無しのライヴ演奏」という断り書きからして、即興の力に多くを負っていることだろう。雪の結晶のようにぴんと張り詰めながら、さらさらと崩れて、決して厚く積み重なることのない演奏と、アナイス・ニンや万葉集からの引用(潮満てば水泡に浮かぶ真砂にも我は生けるか恋ひは死なずて)を採りあげて、体温を高めることなく静かな昂揚に至る声‥‥という素晴らしい組み合わせは、ジュリー・ティペッツの名盤「サンセット・グロウ」全編を満たす、冬の早朝の凜と澄み切った空気感を直ちに連想させる(時に見せる揺らぎに満ちた厳かな詠唱は、パティ・ウォーターズ「カレッジ・ツアー」を引き合いに出すべきだろうか)。歌詞の描き出す情景を突き抜けて、果ては歌の衣すら脱ぎ捨てる声に、どこまでも付き従い、彼女と同じ景色を見つめ続ける演奏の細やかな心くばりこそ、「即興」と呼ぶにふさわしい。
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ディスク・レヴュー | 22:12:43 | トラックバック(0) | コメント(0)
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