■プロフィール

福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック

■月別アーカイブ
■カテゴリ
■リンク
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

「タダマス」の船出 Maiden Voyage of “TADA-MASU”
 前回、遅ればせながらの告知をした益子・多田両名による「四谷ティー・パーティ」に行ってきた。私とともに批評ユニット「タダマス」の船出を祝い、NYダウンタウン・シーンの先端サウンドに耳をさらして、歴史の目撃者となり得た人が少なかったのは返す返すも残念だが、私にとってはいろいろと発見もあり、また感覚と思考を大いに触発された貴重なひとときだった。そのことをここにリポートしておきたい。


 使用されたスペースは以前にリポートしたTactile Sounds Vol.1同様、喫茶茶会記のRoom L。部屋の長辺にセッティングされたアルテックの大型スピーカーに対面して参加者が座り、出演者はこれに左側から話しかけることになる。進行は選盤リスト(選ばれたトラックの曲名、演奏者名等も網羅した丁寧なつくりのもの。ジャケット写真もカラーで掲載されている)に沿って行われた。リストの内容は益子博之「2010年に聴いた10枚」(http://homepage3.nifty.com/musicircus/main/2010_10/tx_3.htm)としてmusicircusに掲載された10枚+ぎりぎり選から漏れた作品やその後の注目盤など。基本的には益子が内容を紹介しながら各作品から1曲ずつプレイし、多田やゲストのかみむら泰一氏がコメントするかたちで進行した。

 各作品はそれぞれに聴きどころを持っていて、興味深く楽しむことが出来た。ただ、ここでは私が触発された2点に絞って話を進めよう。


1.フレーズからトーンへ(フォルムからマチエールへ)

 まず1点目は益子・多田がそろって「フレーズからトーンへの変化」を指摘したことである。益子はこれを「サックス奏者の系譜を以前はフレーズで追えたのに、今はそれができなくなっている。むしろ、音の響かせ方の違いが系譜をつくっている」と説明し、一方、多田はChris Speedの演奏を「棒読みの魅力」と評した。

 実際、今回選ばれたほとんどの作品でサックスがフィーチャーされているのだが、ジャズのサックス演奏の典型と言うべき螺旋状のディスクールを主体としたものはほとんど無かった(数少ない例外がHugo Carvalhais作品におけるTim Berneであり、彼の演奏は他のポルトガル人の若手3人の演奏の前面にカット&ペーストされたように聞こえた)。細分化されたリズムに対し、運指はむしろ緩やかであり、引き延ばされたフレーズを息遣いの繊細さが支えていた。

 サックス演奏における「トーン」は、マウスピースやリードのセッティングも大きく関わるものであり、特にジャズにあっては、演奏者個人のヴォイス=個性、あるいは楽曲に対する解釈の一部として、「演奏前にプリセットされるもの」ととらえられていたように思う。しかし、この日何度も登場したTony MalabyやChris Speedの演奏においてはそうではない。息自体の抑揚やサウンドに対する吹き込む息の配分が、一連なりのフレーズの中で変化していくのだ。しかも通常のイントネーションとは異なった仕方で。

 ジャズ演奏の通常のイントネーションは、慣習や知恵、あるいは流行が混合・発酵するなかでかたちづくられていったものであり、端的に言って「ジャズらしく、カッコよく」聞こえるようにできている。「永字八法」のような運筆法を思い浮かべてもらうのがいいだろう。「起筆はこう入れて、こう止めてからすうーっと‥」とか「右払いは‥」というヤツである。これらは字がカッコよく見えるための慣習と知恵の集積であり、オートマチックにそう身体が動くように「身に着けて」しまう類のものだ。これに対してChris Speedは「ひょろっと入って、真ん中ぐぐぐっと力が入って、ボツッと終わる」みたいに自らの必要に応じて独自の運筆を編み出している。すなわち、通常のジャズのイントネーションに従っていない。その結果、多田の指摘するように「棒読み」に聞こえることになる。だが、これは話が逆で、ジャズのイントネーションを何の疑いもなく採用し、「オートマチックに感情を込めて」演奏してしまっているのは、他の数多のサックス奏者の方なのだ。そうした「プリセット」を拒絶し、自らパラメータを操作しはじめた成果が「棒読み」であり、そこにはジャズの慣習的イントネーションに染まりきった耳にはもはやとらえられきれない、別種の変化が繰り広げられているのだ。そのことを「タダマス」の2人の耳は確実にとらえている。

 ここで2人は「トーン」という語を用いているが、我々はこの語を、いま見てきたように、従来の固定した「トーン」から断絶し、「個性」や「解釈」、あるいは「慣習」を離れて操作しうるパラメータとして、新たにとらえ直さなければならない。そして彼らの言う「トーン」を「(サウンド)のマチエール」と言い換えれば、フリー・インプロヴィゼーションやフィールド・レコーディング、ドローン、アンビエント等を対象とした私の議論と接続することが可能と考える。私はSound Cafe dzumiにおけるシンポジウムやレクチャーで宮川淳「アンフォルメル以降」を引いて「フォルムからマチエールへ」の変化を指摘した。これを「フレーズからトーンへ」の変化と重ね合わせることができる。
 この背景には、おそらくは音楽/サウンドを時間軸と音高の直交座標でプロットしてとらえることの失効があるだろう。そうしたとらえ方でこぼれ落ちるのは、倍音構成であり、音の立ち上がり/立下りであり、音の手触りをはじめとする様々な「触覚的」要素であり、さらには匂いのように無意識を突き動かし連想や記憶に至る何物か、つまりはミュジーク・コンクレートの創始者ピエール・シェフェールが探し求めた「ドレミの外」にほかならない。


2.ジャズの分解/再構築に向けて

 このことは別の視点からも確認することができる。ピアノはまさに前述のプロット・システムそのままの楽器であり、確定した音程や倍音構成を変化させることができない。そのためフリー・インプロヴィゼーションの分野で注目すべきピアノ奏者たちは、ディスク・レヴューでも触れたように、プリペアドや内部奏法を駆使する方向へ進んでいる。今回、多くの作品で見られたのは、ピアノはむしろ単純なラインを繰り返し、リズム隊やエレクトロニクスのミクロな変化に照らし出されることによって、多様なニュアンスを獲得するという戦略であった(益子の指摘する「フロントとバッキングの逆転」とは、おそらくこのことだろう)。これに対し、今回驚かされたのはCraig Tabornの果敢な挑戦である。

 Chris Lightcap's Bigmouth / Platform (from “Deluxe”)
 Gerald Cleaver Uncle June / 22 Minutes (from “Be It As I See It”)

 前者におけるCraig Tabornのエレクトリック・ピアノ・ソロによるイントロダクションは、ほとんどグリッドのオン/オフだけで構成されており、ジャズ・ピアノ特有の細かな刻みやビートのずらしをほとんど用いない。原稿用紙の升目に整列する隅々までコントロールされきった音。夢見るように甘い音色のフェンダー・ローズではなく、無機質に角ばったウーリッツァーを弾いているのも確信犯だろう。ここで目指されているのは、プレイヤー・ピアノ的な、グリッドに沿ったあくまでデジタルなグルーヴなのだ。とすればエレクトリック・ピアノの採用も、アコースティックなニュアンスを消去して、均質で冷ややかなサウンドを得たいがためだろうか(後者ではアコースティック・ピアノにより、前者に優るほど怜悧で定規で引いたように端正な音を並べている。その結晶格子を思わせる硬質な感触は池田亮司をすら思い浮かべさせる)。

 実はTabornによるこうした方向性は、グループに確実に共有されているように思われる(益子によればリーダーLightcapは新たなメンバーであるTabornを「グループに不可欠の存在」と評しているとのこと)。彼のソロによるイントロダクションに重ねられるのはGerald Cleaverによるドラムスなのだが、サンプリングされたサウンド・レイヤーを敷き重ねていく分解/再構築の手つきが明らかに感じ取れる。さらにそこに2サックスの緩やかなラインが重ねられ、それが剥ぎ取られて再びTabornのソロになるのだが、続くChris Cheekのテナー・ソロは、ほとんどTabornのソロをテナーに転写した趣がある。

 ヒップホップ勢によるジャズ・サウンドの分解/再構築(Madlib以降の‥と言うべきか)への対抗意識(ジャズを生きてきた俺たちはもっとうまくやれる)が、ここには確かに横たわっているように思われる。この2作品を続くChes Smith&These ArchesやDan Weiss Trio、Rob Garcia 4等の作品から際立たせているのは、この分解/再構築への強いこだわりと、これに基づいて徹底的に突き詰めたサウンド構築の強度にほかなるまい。この点が2点目である。


3.垣間見えた風景

 私と益子は「触覚」、「風景」等をキーワードとして、それぞれ自分の聴いている音楽の分析を試みてきた。同じ用語を用いているものの、取り扱っている対象はもちろん異なるし、指差している現象もやはり違っているのではないかとも思われた(私には変拍子の多用をはじめ、リズム・フィギィアの複雑化がなぜ「触覚」に結びつくのかわからなかった)。しかし今回、以上の2点の確認を通じて、これまで益子の指摘してきたことと、私が考えてきたことが「地続き」であると強く感じた。それは共により大きな文化的地殻変動の一部なのかもしれない(NYダウンタウン・シーンにおけるクラリネットの復権も、決してノスタルジアの産物ではなく、私が「2010年ベスト30」のThe Internationale Nothingの項で指摘したクラリネットの音響的特徴によるものではないだろうか)。いずれにしても、それぞれが別の地点から、互いに示し合わせたわけでもないのに、よく似た景色を眺めていたという事実は、私を大きく力づけ、また、更なる探求に向け触発してくれるものとなった。

 もちろん益子・多田による選盤・選曲について「これがそのままNYダウンタウン・シーンの要約・紹介となっているのか」との疑念を持つ方もいるだろう。確かにバイアスはかかっているかもしれない。しかし個人的にはシーンや傾向の「バイアスのかかっていない要約・紹介」などというものはおよそ不可能であるし、また、役にも立たないと考えている。なぜなら、シーンの流動や新たに生じた傾向を、「可能性の中心」において鋭くとらえ得たとして(それは批評の使命のひとつであるのだが)、それが正しいとはリアルタイムで検証できないからだ。むしろ、現地での観客動員やメディア露出度等を根拠に、「バイアスがかかっていない」ことを売り物にする方が信用できない。じゃあ日本の音楽シーンで、ライヴが満員になったり、雑誌に載りまくるミュージシャンは、すべて本当に素晴らしいのだろうか。自分の耳で音楽を聴いている聴き手なら、そんなことなどないことをよく知っているはずだ。

 益子が選んだ対象範囲は広くないかもしれない。だが、それは感度の高いアンテナが絞り込んだブツなのだ。絞込みが機能しているからこそ、ある傾向が浮かび上がり、言わば一筋の線が見えてくる。単なる現象の羅列ではなく、ある「風景」を垣間見ることができるのも、そうした準備作業があればこそである。一人ひとりの観察や思考など、所詮は「管見」に過ぎない。しかし、深く深く掘り進むことによって、何かの地下水脈に行き当たり、そこで別の方角から掘り進めてきた奴らと偶然出会う幸運もあるのだ。それはおそらく、長く孤独な旅路において、束の間「同志」に巡り会えた瞬間なのではないだろうか。

2011年4月16日(土) 15:00-18:30
於:四谷3丁目 喫茶茶会記




今回プレイされた18枚からの5枚(福島選)



【作品の強度において卓越した2枚】

Chris Lightcap's Bigmouth / Deluxe (Clean Feed)


Gerald Cleaver Uncle June / Be It As I See It (Fresh Sound)



【改めてChris Speedに拍手した2枚】

Jacob Anderskov / Agnostic Revelations (ILK Music)


Endangered Blood / Endangered Blood skirl Records)



【これはまた別 ヴァイオリンの流麗さに涙した1枚】

Lucian Ban & John Hebert / Enesco Re -imagined
(Sunnyside Communications)

スポンサーサイト


ライヴ/イヴェント・レヴュー | 01:58:59 | トラックバック(0) | コメント(0)
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad