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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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「ダルダ」の深淵  The Depth of “DARDA”
 遅ればせながら、5月15日に行われた「DARDA」パフォーマンスについてレポートしたい。そこで私は前回のループラインにおける演奏とは、全く異なる相貌の「DARDA」を体験することとなった。


1.”Al-Noor”
 まずはカール・ストーン(Carl Stone)のラップトップ・ソロによる彼の作曲作品の演奏。女声のゆるやかなうねりが中空に現れる。〈こぶし〉を回すよりも、もっとなだらかな息遣いの起伏、母音の色合いの繊細な移り変わり(それゆえ中国語の発音のように聞こえる)が、その場の空気にじんでいく。繰り返すうちに響きは、胡弓にも似た震えるような艶をまとい、ふるふるとした光彩の皮膜に包まれていく。そうしたヴォイスが幾層も敷き重ねられると、各層のはらむあえかなうねりの放つ、どこか東洋的な香りよりも、ミサ曲を思わせる荘厳なハーモニーの構築性が立ち上がってくる。とは言え、それは隙間なく堅牢な石積みとしてではなく、あくまで雲のようなふうわりとしたたなびきとして構築されており、そこに息苦しさはない。次第に高みへとの昇りつめていく柔らかな塔を見上げると、あちらこちらの破れ目から、素材である声の揺らめくような息遣いがこぼれ落ちる。


2.”For Julius / YHNC-PVAR2”
 続いてはカール・ストーンとクリストフ・シャルル(Christophe Charles)のラップトップ・デュオによる演奏が、今年1月に亡くなったロルフ・ユリウス(Rolf Julius)に対し、2人からの謝辞とともに捧げられた。ロルフ・ユリウス(1939-2011)は、サウンド・アーティスト(という呼び名を彼自身は嫌っていたようだが)の草分け的存在であり、終生、身の回りの小さな物音に耳を傾け続けた。かすかな虫の音から始まり、遠い鳥の声やせせらぎがひたひたと満ちてくる幕開けは、彼へのオマージュなのだろう(PC操作に没頭するCCに対し、腕組みしたままモニタをにらみつけるCS)。生成する擬似環境音場のところどころの破れ目からちらちらとのぞくように、「異物」としての電子音の高まりが姿を現す。しかし、それらの音もまた、ミクロな繊細さと集合性をたたえており、小さきものへの慈愛に満ちて、霧雨のごとく天から降り注ぎ、あるいはどこからともなくざわめきして沸き出すに至る。半透明のレイヤーの敷き重ねによってかたちづくられたこの世界は、おぼろではかない調和に満たされている。景色は注意深く濾過され、CSがセッションでよく用いる〈場違いな音〉(ウェイトレスが機械的に放つ甲高い「いらっしゃいませ~」や「石焼芋~」といった物売りの声など)は、ここではきっぱりと排除されている。それゆえ、遅れて入場した女性客が、ポリ袋をまさぐって立てるガザガサというノイズは、この澄み切ったドローンに溶け込むことなく、完全に遊離していた(その無神経さを際立たせながら)。


3.”DARDA”
 しばしの休憩をはさんで4人の演奏者がステージに並び、背景には3面に渡ってモーガン・フィッシャー(Morgan Fisher)によるヴィジュアル・イメージが投影されている。桜井の唸りが幾たびか繰り返され、そこからサンプリングされたヴォイスが後から重ね合わされる。おそらくは位相成分の操作が生み出す襞をくゆらせながら、希薄な、だが確かに声の温もりを持った分厚い響きが、ゆっくりと空間を満たしていき、そこににじむような電子音が、まるで照り返しのように付き従う。一方、背景のヴィジュアルは、関数によって生成されたのだろう繊細な曲線の集合(時にサイ・トゥオンブリを思わせる)から、不可思議な文様(こちらはルーチョ・フォンタナか)を経て、抽象的な幾何学図形へとオーヴァーラップにより間断なく移り変わり、3面の対称性を通じて、曼荼羅的な構造イメージを浮かび上がらせる。

 重層化されたヴォイスがさらに襞を重ね、厚みと質量を増すと、チェロのアルコが静かに這い入ってくる。が、その音はすでにある響きのたゆたいに水没し、ほとんど見分けがつかない。しばらく間を置いて奏されるコントラバスのアルコもまた、充満する響きに吸い込まれてしまったかのように、やはり聴き取ることができない。そうしている間にも、〈声〉は増殖を続け、時折、定在波にも似た音の〈しこり〉をピークとして立ち上がらせながら、空間を埋め尽くしていく。桜井による〈生の声〉は、この響きの水面から頭ひとつ浮かび上がることができるのだが、それにしても水面すれすれの飛翔であり、中空を舞うことはできない。2人の奏でる弦の音色は、相変わらず〈声〉に飲み込まれ続けている。パール・アレキサンダーはそれでも表情を変えることなく弓を往復させ続ける。一方、坂本はぶち切れたように血相を変えて弦を引き絞り、懸命に弓を弦に押し当てる。眼前で繰り広げられる熱演にもかかわらず、私の耳に届くのはフラジオのかすかな手触りに過ぎない。いまや〈声〉は分厚い遮音ガラスのように、あるいはマイナス・エネルギーで満たされた「デュラックの海」を思わせるすべてを飲み込む黒々とした〈深淵〉として現れている。それはどこまでも甘やかで、淡い光に満ちていた前回の「DARDA」には見られなかった姿だ。「デジタル祈祷」との触れ込み通りに、サンプリングされたヴォイスと電子音のアマルガムが全帯域に渡る響きの結界をつくりだし、我々は巨大な「DARDA」の胎内にすっぽりと飲み込まれてしまったとでもいうのだろうか。先に指摘したヴィジュアル・イメージのマンダラ性も、そうした印象を強化する方向に働いたと言えよう。

 演奏の、あるいはサウンドの強度において、今回の演奏は前回を上回るものと評価できる。その一方で、今回私が目撃した〈深淵〉は、「DARDA」の(非常に強力ではあるにしても)一属性に過ぎず、それゆえパフォーマンスとしては今回が完成形ではないように思う。というのは、カール・ストーンは自らの方法論を突き詰める意志の強さを持ちながら、同時にそれが完成度や強度の高さゆえに閉じてしまうことに、とても注意深い作曲家/演奏者であるからだ。先に述べたように、フィールドレコーディングを素材としたセッションが心地よい(ノスタルジックな陽だまりの)予定調和のうちに閉じようとする時に、「場違いな音」を放り込んで場を開き覚醒させるのは、いつも彼の役回りだった。この不穏な〈深淵〉の向こうに開ける広々とした景色を、「DARDA」が可能性として秘めていることを私は信じている。それが実際に演奏によって明らかにされる時を心から待ちたいと思う。


 2011年5月15日(日) 19:00~
 於:六本木スーパー・デラックス
 カール・ストーン(ラップトップ)
 クリストフ・シャルル(ラップトップ)
 桜井真樹子(ヴォーカル)
 坂本弘道(チェロ)
 パール・アレキサンダー(コントラバス)
 モーガン・フィッシャー(映像)


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ライヴ/イヴェント・レヴュー | 21:45:52 | トラックバック(0) | コメント(0)
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