■プロフィール

福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック

■月別アーカイブ
■カテゴリ
■リンク
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

「アンフォルメルとは何か?」@ブリジストン美術館  Postwar Abstract Paintings in France and Art Informel at Bridgestone Museum of Art
 京橋ブリジストン美術館で開催中の「アンフォルメルとは何か?」展(7月6日まで開催)を遅ればせながら見てきたのでリポートしたい。


 昨年行ったレクチャー、さらにはそれに先立つ一昨年のシンポジウムでの発言を行ううえで、重要なヒントになったのが、宮川淳「アンフォルメル以降」における〈フォルムからマチエールへ〉という指摘だった。もともと好きだったジャン・デュビュッフェについて、砂絵作成に至るアンドレ・マッソンの軌跡や、コラージュ、フロッタージュによるマックス・エルンストの達成、あるいは中井久夫による描画や箱庭作成による精神療法の研究等と比較しながらあれこれ考え直してみた。そうして考えながら、「いまアンフォルメルってどうとらえられているのだろう。もしかしたらまったく忘れ去られてるんじゃないか」と思わずにはいられなかった。その頃、ロザリンド・クラウスたちによる「アンフォルム」翻訳進行中とのニュースはあったものの、あれはむしろ運動/事件としての(平たく言えば流行としての)〈アンフォルメル〉と差異化を図りたくて、わざわざバタイユを導入して〈アンフォルム〉という語を用いているわけだし。
 そんなわけで、今回の展覧会開催の知らせには、率直に言って、虚を突かれた思いがしたのと同時に、何か不思議な符合があるようにも感じられた。

 今回の展覧会は次の3部で構成されている。
①抽象絵画の萌芽と展開
②「不定形」な絵画の登場-フォートリエ、デュビュッフェ、ヴォルス
③戦後フランス絵画の抽象的傾向と「アンフォルメルの芸術」
 
 ①ではマネからカンディンスキーに至る流れが示され、③では主としてミシェル・タピエが〈アンフォルメル〉と名づけた中で活動した作家たち(ジャクソン・ポロック等の例外を含む)が並べられる。やはり圧巻は②の〈アンフォルメル〉の先駆者である3人。特にジャン・フォートリエとジャン・デュビュッフェがやはり凄かった(ヴォルスは好きな作家なのだが、顕微鏡下の世界を思わせる彼の神経症的に繊細な線を楽しむには、いかんせん照明が暗すぎた)。

 フォートリエの作品において、絵具はまるでジオラマのように盛り上げられる。だが、そうした常軌を逸した厚塗りから連想されるような、暴力的な物質性はそこにはない。絵具は概ね平らな台地状に盛られ、その表面には荒々しく引っかかれた跡が刻まれているものの、マチエールの切断には至っていない。それゆえか、画面はむしろ静かで、色調もあって〈涼しさ〉さすら感じられる(〈寒さ〉や〈冷たさ〉ではないことに注意)。彼の作品は画集等で眼にしていたものの、「実存の時代の熱い抽象」との先入観にとらわれて、こうした静かさ、涼しさに気づくことはなかった。この嵐を突き抜けたような静かさはとても衝撃的だった。「長方形」のシリーズ作品など、それこそ焼き物や手拭いの図案になりそうなぐらいなのだ。
 一方、デュビュッフェは、画集で見て想像していたのを超えて暑苦しく騒々しい。オールオーヴァーな厚塗りは、局所的な厚みではフォートリエに負けるものの、剥き出しの土のようなモノの存在感、無言の圧力と息吹に溢れている。そしてその表面は、あらゆる方向から引っかかれ、あるいは突かれ、砕かれて、筆や刷毛、パレットナイフ等の軌跡を完璧に切断されている。「画面を土壌に見立てて、心ゆくまで耕し尽くした」とでも言えば、その感じが伝わるだろうか。そこには様々な色合い/質感の粒子が混ざり合い、鶏糞や石灰、あるいは砂や木の根や骨の破片等が土壌を肥沃なものとしていることが見て取れる。画面に立ち現れる形象は、こうした土壌の色合いや吸水率/反射率の違いとして浮かんでくるのだが、時には後から、粘度の低い黒絵具で、ほとんど一筆書きのようにへろへろと描かれることもある。灼熱の太陽に真上から炙られ、むせかえるような熱気と湿気と臭気を沸き立たせる大地のリズムの上に、多幸症的に柔らかにたなびく緩急自在なドローイングの線。それはまた「ダンシング・イン・ユア・ヘッド」以降のオーネット・コールマンの吹奏ラインにほかならない。プライム・タイムが生み出す多方向から衝突/散乱しあうポリリズムを、彼の「フリー・ジャズ」のジャケットからの連想もあって、ジャクソン・ポロックによるポワリングの線の交錯にこれまでたとえていたが、これからはデュビュッフェを持ち出さなければならないだろう。
 フォートリエとデュビュッフェの2人がまるで同類のように語られることに、ずっと違和感を覚えてきたのだが、たとえ数点ではあるにせよ、実際に作品を間近に見て、その大きな違いを確認できたことは、今回の大きな収穫だった。

 これに比べると、流行としての〈アンフォルメル〉の中で制作された作品は、どれも食い足りない。アンリ・ミショーの作品は、むしろ心理実験とでも言うべきものだから別枠として、アンス・アルトゥング、ピエール・スーラージュ、ジョルジュ・マチウらの作品は、完全にテンプレートがあっての量産品であることが一目で見て取れてしまう。なお、ここでテンプレートには2種類ある。ひとつはアクション(の軌跡)の転写として作品が出来上がるという原理であり、これはほとんどの作品に共通している。最も典型的かつある意味純粋なのはマチウで、身体にLEDを装着して絵を描き、光源の軌跡を録画して作品として提出しても、ほとんど同じようなものとなるだろう(そういえば19日のNHK「日曜美術館」で宮本三郎を採りあげる中で、マチウ来日時の公開制作の映像を束の間見ることができたのは、これまた不思議な偶然だ)。もうひとつは、個々人の〈様式〉に沿った作成過程に生じる不確定性への注目であり、筆の運びの揺らぎや刷毛目のずれが、まさに「不定形」を呼び込むものとして尊重されることになる。こうなると書道における筆のかすれ等を尊ぶ日本伝統の美的感覚は強力な武器であり、実際、堂本尚郎の作品の完成度の高さは群を抜いていたが、この作品をあえて〈アンフォルメル〉の名の下に評価する必然性は薄いように感じられた。
 別の意味で興味深かったのは北京出身のザオ・ウーキーの作品で、30歳前の作品は、いささか自閉症的ではあるが、夢想の中で宇宙と交信し、過去や未来へ旅しているような私的なファンタジーとそのかけらと言うべき繊細な形象/描線に溢れていて、今回の展示作品で言えばヴォルスに通ずる素晴らしさがある。それが後になると、東洋的な〈アンフォルメル〉に目覚め、まるで屏風絵のように雄大かつ空疎な作品を描き続けるようになってしまう。素敵な湯飲みやコーヒー・カップをつくってくれた陶芸作家が、百万円超の大きな絵皿(当然つまらない)しかつくらなくなってしまうような‥。これはアーティスト・ライフとしては出世であり、成功なのだろうが。


 展覧会の構成として、抽象へ向う流れがすべてアンフォルメルに流れ込むような図式はいささか乱暴だし、もともとの図式を作成したアルフレッド・バーの政治性に無頓着すぎると思うが、1950年代の日本におけるアンフォルメル・ショックの凄さなど、とうの昔に忘れ去られている現在、アール・ブリュットのようなゲテモノ扱いではなく、アンフォルメルを紹介するためにはやむを得ない取り扱いかなと思う。海外からの出展取りやめもあった中で、国内所蔵のフォートリエやデュビュッフェ、あるいはその他の作家の作品を、これだけきちんと集めてくれた主催者の努力に感謝したい。

 なお、美術館1階に併設のティールーム「ジョルジェット」は、なかなかおいしいスコーンやホットケーキと飲み物のセット(コーヒーはお代わり付き)を、800~900円という非常に良心的な値段と丁寧なサービスで提供してくれます。ご来館の際は立ち寄ってみてはいかがでしょう。オススメです。




ジャン・フォートリエ「旋回する線」


ジャン・デュビュッフェ「暴動」


堂本尚郎「絵画」


ザオ・ウーキー「21 Sep.50


ティー・ルーム「ジョルジェット」

スポンサーサイト


アート | 22:18:55 | トラックバック(0) | コメント(0)
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad