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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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私にとってディスク・レヴューとは What Is Disk Review for Me
 前回アップしたディスク・レヴューの前口上をお読みになられて、訝しく思われた方もいらっしゃることだろう。自分のブログで、採りあげるディスクの枚数制限などいはずなのに、いったい何を気にしているんだろう‥と。そうしたことへの弁明も兼ねて、今回は私なりのディスク・レヴューの位置づけについて書いてみることにしたい。


1.ディスクという〈テクスト〉

 これまで数多くのディスクについて書いてきた。新譜レヴューをはじめ、ディスクに文章が1対1で付いている狭義のディスク・レヴューの形態以外でも、たとえば特定のミュージシャンや音楽シーンを紹介したり、論じたりする際にも参考ディスクを掲げることは多い。また、ライヴ・レヴューの執筆にあたっても、作品や演奏者の関連ディスクに触れたり、参考として掲げることは多い。音楽について語ることがディスクについて語ることになってしまっているのは、まず、「我々の音楽受容の多くはディスク(ここにダウンロード音源を含めても問題はないだろう)を通じてのものである」という現実の反映にほかならない。もちろん、そうした現状に対して「私はライヴ演奏以外聴かない」、「私はライヴで聴いたことのない音楽については書かない」という姿勢を選び取ることもできる。私はそうしていないというだけのことである。その理由のひとつはライヴで聴くことのできる音楽や演奏の種類、あるいは機会は極めて限られており、「ディスクを通じて音楽を聴くこと」を排除することが、そのまま私の音楽体験を貧しくしてしまうと考えているからである。さらには「ディスクに録音された音楽は、ライヴで(いまここで)演奏される音楽の(劣悪な)コピーに過ぎず、あくまで二次的なものでしかない」と私が考えていないことが、その背景にはある。

 別に「ライヴ派vsディスク派」なんて古臭い対立図式を持ち出すつもりはないし、そもそもポップ・ミュージックの制作が録音技術と切り離せないものになっている以上、もはや「ライヴがオリジナルで、ディスクはコピー」という主張など成り立たないことは明白なのだが、それでも即興音楽の聴き手の中には、ゴリゴリのクラシック・ファン同様、いまだにそうした図式を信仰している人がいる。「反復不可能な一回性の音楽」という観念(何やら「極北」的な匂いがする)にとらわれているのだろうか。だが、そうした「一回性」の純粋さを後生大事に守り抜くことはできない。なぜなら、前回掲載のディスク・レヴューのLetheの稿で触れたように、その演奏を聴取している間にも、様々な記憶が参照され、想起を通じて聴取に投影してしまうことは避けられないのだから。ましてや、演奏を聴いた体験を後から想起するとなればなおさらのことである。

 ディスクの特性・利点は、それがとにもかくにも流通し、反復聴取が可能であることから、原理的には誰でもアクセス可能なことにある。再生条件の問題があるとはいえ、テクストが参照可能な状態で開かれていることは極めて重要だ。これはある意味ライヴと対照的な特性である。情報メディアが発達すればするほど、何もかもが「いつでもアクセス可能」であるがゆえに、その価値をすり減らしているように感じられる。すると、そうしたメディアに乗らない要素に価値があるように見えてくる。ライヴの一回性・同時共通体験が改めて注目され、そこでの体験が、たとえ何らかの記録/メディア情報があったとしても、それを超えて特権化/伝説化されやすい(「いやいやそんなもんじゃないんだって。あれはライヴじゃなきゃ味わえないな‥」)ことには、そうした背景があるのではないだろうか。そうした〈伝説〉の競い合いをしていてもしょうがない。これまでライヴ・レヴューで何度となく述べてきたように、ライヴの場で一人ひとりが聴いていることは異なっている。そもそも、ちゃんと音を聴いてない聴衆も多い。(ライヴ)体験の共同性から、複数の言葉を介した〈聴くこと〉の公共性の確立へと向かう必要があるだろう。
 その時、音楽について、聴くことについて、ディスクという〈テクスト〉に基づき、言葉を通じて体験を深め、〈公共性〉を構築する場として、ディスク・レヴューが果たしうる役割は決して小さくないと考える。


2.ディスク・レヴューの没落

 だが、実際には、音楽専門誌をはじめ、多くのメディアに掲載されるディスク・レヴューは、ほとんどが販売促進のためのツールに過ぎない。それを「広告出稿」の増加に端的に見ることができるだろう。これについて原雅明は次のように書いている。

 (前略)それがいつ頃か明確に指摘することはできないが、雑誌で仕事をしてきた経験を振り返ってみるならば、少なくとも90年代後半くらいまでは、雑誌編集者もライターも読者も、雑誌は良い音楽を紹介すべきであるという理想を辛うじて共有しえており、またそれなりに実現できていたと思う。それすらがあっさりと崩れ去っていく光景を、2000年代前半に経験し、初めて日本の音楽関係者と音楽愛好者たちは現実主義に晒された。
 この現実主義は経済的な正しさを盾に、あっという間に、音楽雑誌を単なる広告出稿の受け皿としてマーケットへと放り出してしまった。雑誌が売れない、CDが売れないと言われ出したのもこの時期からである。売れないから広告出稿を増す、という現実的な選択がどの現場でも次々と採られていった。気がつけば、自分がかつてそれなりに熱心に執筆をしていた雑誌の大半は、廃刊をするか、ほとんどの記事が広告出稿で成り立つ媒体に変わってしまっていた。つまり、レコード会社やプロモーション会社が広告としてお金を出して記事ページを買うのである。明らかに広告と分かる記事ではなく、一見普通のインタビュー記事や特集記事に見えるものでも、その記事が成り立つための費用(記事を書く原稿料、デザインするデザイン費、写真撮影費等々)は、レコード会社なりが負担するわけである。そこでは、編集者が気に入った音楽素材を選び、適したライターに原稿依頼をするという、それまでごく当たり前とされていた編集プロセスが成立しなくなっていた。つまり、「メーカーさん」などという製造業のような呼び方をされるレコード会社から発注を受けて広告記事として書き、そしてレコード会社に「納品」をし、それが雑誌に載る、というプロセスに変化した。(中略)当然、そこで書かれる内容は「メーカーさん」の意向に沿ったものであるのが前提だ。やがて音楽雑誌の言説は、すべて、と言っては語弊があるが、大半はこの手の広告出稿記事に取って代わられていくようになる。媒体として辛うじて独自の言説を維持できたのは、過去の、すでにある程度の評価の定まった音楽について、さらに探求を深めるような趣味性の高い世界か、音楽制作に特化した(音楽制作機材などの広告がメインの)雑誌に限られていくようになった。
「音楽から解き放たれるために-21世紀のサウンド・リサイクル」(フィルムアート社)

 私自身は、書き手としてこのような現実をまざまざと体験したわけではない。むしろ読者として強く感じていたことを、原の指摘に触れ、関係者の証言により改めて確認したと言っていいだろう。それというのも、私が「ジャズ批評」誌でディスク・レヴューをレギュラー執筆していたのは2002年初めまでであり、また、同誌は基本的には原の言うところの「過去の、すでにある程度の評価の定まった音楽について、さらに探求を深めるような趣味性の高い世界」を扱う媒体であり、その中で私は担当編集者のおかげもあって、一種の〈治外法権〉状態で執筆させてもらっていたので(その代わり原稿料も無かったのだが)、レヴューの対象として採りあげるディスクやアーティスト、ライヴ等を自由に選択できていたからである(それらはほとんどの場合、「メーカーさん」からリリースの予定すらない作品やアーティストだった)。まあ、この〈特別待遇〉には、担当編集者の退社に伴い、「もう原稿依頼はしない。だいたい、お前の原稿が雑誌という公共の媒体に載ることを、これまでずっと苦々しく思っていた」という内容の手紙を社長からもらうというオチがつくのだが。

 雑誌掲載のディスク・レヴューが、読んでも触発されることの少ない、単なる情報の束と成り果てたのは、もちろん広告出稿システムだけが原因ではあるまい。国内レーベルからサンプル盤とプレス資料を借り受けたことが何度かあるが、その後に各雑誌に掲載されたレヴューを立ち読みして、ほとんどプレス資料の抜粋だけでできているのに気付いたことは一度や二度ではなかった。


3.ディスク・レヴューの役割

 今から30年前、「フールズ・メイト」のディスク・レヴューを、胸をときめかせて読んでいたのは、それが単に未知の情報だからではなく、そこに新たな世界が開かれていたからだった。特に最初のうちは、どこで入手できるのかもわからない、得体の知れない別世界の作品への言及であったため、購入や聴取を前提にした読み方ができるはずもなかった。そうした「お買い物ガイド」的な受容からはるか遠く隔たった、遠い異国の旅行記でも読むような受け止め方をしていたように思う。代々木に「フールズ・メイト」直営のレコード・ショップ「イースタン・ワークス」が開店してからは、取扱商品の解説的な側面も生じてくるのだが、それでも北村昌士、秋田昌美、明石政紀らによるレヴューは、それぞれに独自の批評的視点/切り口を持ち、また、他に参照すべき事項(それは当然、ロックあるいは音楽だけではなかった)を数多く示唆することによって、次から次へと新たな扉を開けてくれた。私のディスク・レヴュー観の原点には、おそらく、この「フールズ・メイト」体験があるだろう。

 開かれた扉に導かれ、そこから新たな世界に参入する。参照したレヴューは未知の世界を経巡るための導きの糸となるが、張られた糸の通りに定められた〈順路〉をたどって終わりというわけではない。むしろ、レヴューでは明らかにされていなかった風景の出現や気候の変化にとまどい、案内のない分岐や見通しの効かない脇道に当惑しながら、自分の耳でさまようにことにより、作品世界はその本来の姿を明かしてくれる。以前に「ECM Catalog」を〈道に迷うための地図〉と評したが、優れたディスク・レヴューはすべてそうした性格を有している。すなわち、まず新たな世界への誘いとして、魅惑/誘惑する力がなければならない。と同時に、いつまでも魅惑/誘惑し続け、レヴューの視点に縛りつけ、引力圏に閉じ込めることのないよう、読者を解き放たなくてはならない。
 すでに評価の定まった作品の読み直しを図るような論文形式の原稿であれば、このような〈リリース〉への配慮は不要かもしれない。しかし、読者にとってディスク・レヴュー、特に新譜レヴューは、採りあげた作品に対する初めての情報となることも多い。過度の〈刷り込み〉がなされないよう、やはり配慮は必要だ。それゆえ、語りつくさないこと、論旨のガードを固めすぎないことが求められる。
 加えて、長すぎないこと、元の文脈を離れて引用可能な印象的なフレーズがあることも重要である。これは情報の〈流通〉に関わる。先に述べたように、ディスク・レヴューが〈聴くこと〉の公共性の確立に役立つためには、それが書き手の権威(たとえば「お買い物ガイド」としての品質保証)を離れて受容され、読み手の聴取体験を反映しながら再発信されることを通じて、批判的/再創造的に流通していく必要があるからだ。ウェブ上には不法なものを含め多くの音源が溢れている現在、かつてのように「ディスクを聴くことができた」ことがそのままレヴュワーの特権を保証することはない。むしろ、ディスクを聴いた後に、レヴューの論旨や分析描写が聴き手/読み手の眼にどう映るかなのだ。レヴュワーの視点設定や言語化能力が厳しく問われると同時に、それとは異なるオルタナティヴな視点の設定や、それに基づく異なる角度からの分析描写をいかに触発するかが重要になってくる。もちろん、触発の対象がレヴュー対象作品の聴取に限定される必要はない。    【次回に続く】



原雅明
「音楽から解き放たれるために
 -21世紀のサウンド・リサイクル」
  (フィルムアート社)


「フールズ・メイト」11号    「フールズ・メイト」12号
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ディスク・レヴュー | 23:39:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
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