■プロフィール

福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

■最新記事
■最新コメント
■最新トラックバック

■月別アーカイブ
■カテゴリ
■リンク
■検索フォーム

■RSSリンクの表示
■リンク
■ブロとも申請フォーム
■QRコード

QR

フランシスコ・ロペス賛江③ Homage to Francisco Lopez ③
 フランシスコ・ロペスによる東京藝術大学公開講座ワークショップ「The World As Instrument」を明日からに控え、今回は、受講前の時点での自分なりのロペス観を述べておきたい。問題意識を整理すると同時に、受講前/後で、それがどう変わったかを見るためでもある。その意味で、本格的なロペス論にはなり得ないことを最初にお断りしておきたい。また、ここでは主要な4作品を中心に論評しているが、彼の「Untitled」作品を収録した「Nowhere(Short Pieces 1983 to 2003」(10CD)、「Untitled(2006-2007)」(2CD)等を聴く限り、これ以外の作品でも基本的な傾向/特質は変わらないのではないだろうか。

1.La Selva(1997)

 フランシスコ・ロペス作品との出会いとなった(それが不幸なすれ違いとなったことは前に述べた)「La Selva」を改めて聴き返してみると、やはりその音響の圧倒的な現前にたじろがざるを得ない。切れ目なく襲いかかる音響の弾幕に撃ち抜かれ、穴だらけになった耳は途方に暮れるしかない。自然音/環境音をとらえた、いわゆるフィールドレコーディングを素材あるいは手法として用いた作品は数多いが、「音の絵ハガキ」的なものも多く、そうした中でロペスの作品は屹立している。ここでは、そのサウンドの様態を明らかにするために、Chris Watson及びRichard Tintiの作品との比較を試みるとしよう。

 フィールドレコーディングでよく用いられる、安らぎ/郷愁をもたらす親密な風景(せせらぎ、鳥の声、あるいは遠くで遊ぶ子どもたちの声)とは異なり、厳しく切り立った音景(荒れ狂う波しぶき、吹きすさぶ突風、何千という渡り鳥の群れ等)をとらえる点で、Chris Watsonはロペスにより近い作家と考えられる。いや、これは話が逆で、Watsonが切り開いた領野の追随者として、ロペスはとらえられていることだろう。叩きつける突風を、身じろぎどころか瞬きすらせず凝視するような録音の強度は、アンチ・ヒューマニスティックな冷ややかさをたたえていると言えよう。そのサウンドは臨場感に溢れ、人間のスケールをはるかに超えた大自然の力の流動が、まさに眼前で繰り広げられているように感じられる。まるでサウンドの巨大スクリーンと向かい合っているかのように。彼が英国BBCとの共同作業を手がけているのもよくわかる。彼のつくりだす音世界は、とても〈視覚的〉なのだ。

 ここで〈視覚的〉とは何であるのかを詳しく見ておこう。まずWatsonがつくりだすサウンド・イメージは、明確な輪郭によって、鮮明な像を結び、くっきりと浮かび上がる。言わば、視点と構図がはっきりしている。そしてその視点と構図は、対象となる事象の魅力を余すところなく、しかもコンパクトにとらえることを狙いとして設定されているように思われる。それらの音景は、Chris Watson「Stepping into the Dark」(Touch)のリーフレットに収録された各録音地点のロケーションを示す写真によく似ている。空間のヴォリュームがマッスとして感じられ、それがある深さ/奥行きを持つ。この遠近法的構図に基づく3次元の透明な空間に、硬質の輪郭を持った事物が配置されている。それらは〈地〉となる空間から、〈図〉としてくっきりと浮かび上がり、一定の〈相貌〉を持つに至る。つまりは〈風景〉として。それが〈風景〉として立ち上がるためには、それを〈相貌〉としてとらえる〈見る者〉が必要だと言うのはその通りだろう。むろん、Watsonが先に触れたような「音の絵ハガキ」のハードコア版をつくっているなどと言うつもりはない。しかし、そのようなくっきりとした〈風景〉が、崇高さを帯びて立ち上がるところには、「ピクチャレスク」の美学が機能し、それにふさわしいフレームが現出する。と言うより、それまでは単に交通上の障害でしかなかったアルプスの山々を、ある所定のフレーム(額縁)を通して切り取ることによって、そこにサルヴァトーレ・ローザ描くところの野趣溢れる風景画を見出す「ピクチャレスク美学」こそが「見るに値する風景」をつくりだしたのだ。
 すなわち、Watsonの作品は映画作品のような視覚映像の「聴覚版」としてつくられていると言えるだろう。

 これに対し、ロペスによる「La Selva」の録音は、Watsonの作品のような明確な輪郭、視点と構図、認知/鑑賞のためのフレームを持たない。それゆえ音景ははるかに曖昧で茫漠としたものに感じられる。どういうことだろうか。冒頭、「弾幕」と形容したように個々のサウンドは鮮明なのだが、鮮明すぎて厚みのある像を結ばない。視点の対象物が浮かんでこないのだ。それゆえ耳の焦点も結ばない。個々の音響の明滅があるだけ。しかも、それらの音響(の音源=発音体)を位置づけるべき空間が浮かんでこない。一部事物に遮られていたとしても、奥まで続く透明な空間の存在が認められてこそ、まずはそうした奥行きを持つ3次元的な空間が共通基盤として存在することとなり、そこに発音体をプロットすることもできる。「La Selva」ではそうした見通しが利かない。眼の前に幕が下ろされ、そこで響きが色斑となって明滅している感じか。響きの広がりがにじみとなり、おぼろに染み広がって、〈地〉と〈図〉をひとつながりのものとしている。それゆえ、眼の前の幕は「空間に開いた窓」としてのスクリーンとは感じられず、フレームも現れない。音は録音を再生する空間に遍く散布され、聴く者を包囲するように感じられる。そこでは〈風景〉は出現することなく、ただ、濃度の起伏が延々と、だがむせ返るほどの圧倒的な存在感を持って続くばかりだ。
 
 Richard Tintiの場合、録音がAriel Kalmaの電子音楽作品「Osmose」のための素材として用いられることが最初からわかっていたためかもしれないが、Watsonほど〈視覚的〉ではなく、包み込まれる感触、タイトル通り(Osmose=浸透)の染み込んでいく感じがある。しかし、マイクロフォンの近くを飛び回るハエの羽音が、音景色をくっきりと切り分ける。羽音のアンビエントが周囲の空間を照らし出し、設置されたマイクロフォンの周辺の開けた空間(そこはおそらくスタッフがテントを設営し、キャンプした場所だろう)と、その向こうに広がる熱帯雨林の対比を明らかにする。木々の隙間から陽光の射し込む場所と、下生えが鬱蒼と茂り、樹木には蔓草や寄生植物が巻きついて絡み合い、人間の立ち入りを拒む密林の違いを。ここで録音は、向こう側に広がる奥深い空間を遠近法的構図のもとにとらえる代わりに、手前の空間と向こうの空間の差異を明らかにし、その配置をイラストレート(図解)する。それは同時に〈人間のいる世界/文化〉と〈人間のいない世界/自然〉を物語的に対比することにもなる。





2.Warszawa Restaurant(1995)

 「ほとんど聴こえない」ロウワーケース作品の代表作と目される「Warszawa Restaurant」だが、確かに窓を開け放って聴けば、何が再生音かほとんどわからないだろうが、窓を閉めて静かな環境で耳を傾けさえすれば、通常の音量設定で聴きとれる場面も実は結構多い。コンセプチャルな「無音作品」ととらえるのは、明らかに間違いであることがわかる。
 そのことを前提として本作品に耳を傾けた時に浮かんでくるのは、やはり「La Selva」に通ずる焦点の絞れない曖昧/茫漠とした広がりである。音量や濃度の違いゆえ、ここでは「弾幕」の印象は一切ないが、遠くで何かたなびいているような音、地鳴りを思わせる超低音、地上で聞く地下鉄の通過音に似通った振動など、輪郭を欠いた不定形な響きが、虚ろなもの哀しさ、鬱陶しい重苦しさ/不穏さとともに、うっすらと滲み広がってくる。やはり通常の再生とは異なり、音は向こう側に奥行きを持って定位するわけではない。そうして像を結ぶ代わりに、部屋に広がる〈静寂〉を汚染し、混濁させるとでも言った方がいいだろう。差し引き、こちらの部屋の音がどこかに漏れ出ているようにすら感じられる。トラックごとにサウンドの音量や音色は異なるのだが、舌に残る感じは変わらない。希薄だが不透明な重苦しさ、包囲される感覚、見通しの利かなさがもたらすある種の閉塞感を加味すれば、「飛行中のジェット機の機内音」という形容が、それらに共通する音の性格をわかりやすく伝えるように思う。最も的確に説明するのではないだろうか。

 両耳を掌で覆い、音を聴こえなくしておいて、しばらくしてからぱっと離す。とたんに厚いガラスの向こうに退いていた世界が、熱と色と匂いと味とともに一気になだれ込んできて、世界のあまりに過剰な豊かさに頭がくらくらになる。中高生の頃、授業の合間の休み時間に、そんなことをよくやっていた。掌を離した瞬間に流れ込んでくるのは、何物ともわからないごった煮のノイズだが、すぐにそれらは視覚と調和し、眼に見える世界のそこかしこの〈定位置〉に散らばって事物に貼りつき、何事もなかったかのように整然と、それぞれのニッチにはまりこむ。高いビルの上、たとえば非常階段の踊り場でこれをやるのは、危険なのでやめた方がいい。掌を離した瞬間に流れ込んでくる土石流紛いのノイズの膨大さに打ちのめされるだけでなく、それらが配備/帰属すべき〈定位置〉がいつまでも明らかにならないために、反対に視覚の方が揺さぶられ、視線を当てもなく彷徨わせてしまうからだ。結局、後には、ふらつく足取りとともに、我々はふだんこんなにも多くの音を聴きながら、それを無視/抑圧し、「なかったこと」にして生きているのか‥という、恐れにも似た驚きが残ることになる。ふだんはバックグラウンドに身を潜めている暗騒音が一瞬眼前を圧して立ち上がり、風景を千々にかき乱し、水底の泥を巻き上げて、視界を濁らせる。

 「Warszawa Restaurant」に仕込まれているのは、こうした暗騒音にほかならないのではないだろうか。微小な音量に耳を研ぎ澄まし、暗騒音を選り分けて、ようやく探り当てたのが「不純物としての暗騒音」だった。だが、それは決してコンセプチャルな円環(自らの尻尾を呑み込んだウロボロスの竜のような)ではないだろう。我々は、そのようにしてしか暗騒音と直接向き合うことはできず、その組成の変化に耳を傾けることはできないのではないか。また、ロペスの用いる音(素材)に特有の不穏さ(不安を掻き立てる特質)は、かつてノイズ・ミュージックによる、それ自体がストレス性を持つ神経系のノイズの多用とは異なっており、むしろ、こうした暗騒音に代表される「(発音体が)何だかわからない音」、「(原因や意図へと)還元できない音」の使用によるものと考えられる。聴覚が警戒のために発達した感覚であることを考えれば、それらこそが強い不安を惹き起こすのは当然と言えば当然なのだが。





3.Buildings[New York](2001), Wind[Patagonia](2005)

 ビルの不可視の内部をとらえた「Buildings[New York]」は、「La Selva」よりもはかにはっきりとした輪郭をもって視覚を喚起する。その一方で、3次元的な空間性、特に奥行きはやはり不明瞭だ。むしろ、展開された図面がそのまま平面状で作動している印象。向こうが見通せないオール・オーヴァーな広がりは基本的に変わらない。「La Selva」と大きく異なる点として、空間/視覚的距離を渡ってくる音以外に、金属やコンクリートの内部や、あるいは細長いダクトやシャフトなど特殊な形状の空間を経由して伝播してくる音が比率を高めていることが挙げられる。それらが別の種類の曖昧さや多層性を持ち込むことにより、ここで音の内部組織はさらに複雑なものとなっている。Gilles Aubryが探求/展開している「間接的聴取」の世界は、この延長上に開けているだろう。

 「Wind[Patagonia]」における奥行きのなさ、視点と構図のなさ、オール・オーヴァーな均質性、包囲される感覚、見通しの利かなさ、風景の不成立等は、「どこまでも平坦で荒涼とした平原に吹き渡り、時に荒れ狂う暴風」という〈対象〉と見分け難くひとつのものとなっている。それゆえ本作品だけを聴いたのでは、ここで何が起きているのかわかりにくいのではないだろうか。ただし、それでも次の点に注目することができる。
 眼前を圧して暴風が荒れ狂う状態から、潮が引くように風(音)が弱まり、音量が下がっても、やはり空間の見通しの利かなさ、オール・オーヴァーな不透明性は変わらないこと。
 通常、風を録音する場合によくある、マイクロフォンの「吹かれ」をクローズアップし、触覚に働きかけながら、他の風音との対比を強調する手法を一切採用していないこと。すなわち、機械による知覚に特徴的なエラーから、人間的な知覚を照らし出し、そこに寄り添おうとはしていないこと。

 「Nowhere(Short Pieces 1983 to 2003」及び「Untitled(2006-2007)」に収録された多数の「Untitled」作品を聴くと、サウンドや空間の感触、あるいは使用されている音素材自体が、これらの作品と驚くほど似通っている(あるいは共通である)ことに驚かされる。その点では、それらの作品についても、ここで施した分析は一定程度有効と考える。しかし、それらの作品については、聴取面からだけではなく、構造面からとらえ返す必要が出てくるだろう。実は私は、これらの作品におけるフランシスコ・ロペスのあり方に最も類似性があるのは、最近の中平卓馬ではないかと考えているのだが、彼の作品についても、視覚面と構造面の2つの方向からとらえる必要があるだろう。彼において前者に当たるのが、一見、野良猫だの、寝ているホームレスのおやじだの、誰にでも明確に判別/特定できる対象を被写体に採りあげながら(ここが眼のつけどころで勝負する森山大道との大きな違い)、その実、ホリゾントを駆逐し、画面を壁のように立ち上げ、輪郭と言うより、事物の存在自体を色斑の明滅のうちに溶かしてしまう、オール・オーヴァーな構成ならざる〈構成〉であり、後者が見開き左右に融通無碍に一見無関係な写真を配しながら、やはりその実、濃度の勾配/分布や色調の連続/不連続等、「一見誰の眼にも明らかな対象/形象」がこれまた「一見誰の眼にも明らかに図として」前面に配置されているがゆえに、見えなくなってしまっている(=人が見ようとしない)パターンを、構造的に編集/配置していることにほかならない。


スポンサーサイト


音楽情報 | 00:37:45 | トラックバック(0) | コメント(0)
コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

FC2Ad