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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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楽器としての世界-機械による知覚との共同作業  The World as Instrument-Collaboration with Perception by Machines
 前回の予告通り、今回は「機械による知覚との共同作業」をテーマに採りあげることとしたい。ついては、フランシスコ・ロペスによるワークショップ「The World as Instrument」(@東京藝術大学)の最終日(5日目)に、私自身が行ったプレゼンテーションの内容を紹介することから始めるとしよう。


1.プレゼンテーション「音の内部世界の聴取について」

 ワークショップで提示された問題系に沿って、機械による知覚、空間による音の侵食、ヘテロトピア等をテーマとしたプレゼンテーションを行うこととし、レクチャー「耳の枠はずし」や「アンビエント・リサーチ vol.3」でもプレイした3つの音源を聴いてもらいながら話をすることを当初は計画した。しかし、与えられた時間は10分間しかなく、これではとても足りない。また、講師であるロペスのために通訳を介するとなると、さらに話せる時間削られてしまうことになる。そこで苦肉の策として、話すのは最初と最後だけにとどめ、途中は切れ目なく音源をプレイし、説明(日本語及び英語の二か国語表記)や資料映像(CD等のジャケット)はすべてPowerpointで表示することとした。ここに採録するのは、その日本語説明部分である。


導 入  これから3つの音源を使って、
     音の内部世界を聴くことを試してみたいと思います。

     時間節約のため、コメントは画面に表示します。
     音源プレイ中も画面をご覧いただくようお願いします。

     それではまず、最初の音源をお聴きください。

音源1  サウンドを聴くことだけに集中してください。

     どんな音が聞こえますか。

     トラックをスキップします(その間、時間が経過します)。

     どんな音が聞こえますか。

     これはデレク・ベイリー(ギター)と田中泯(ダンス)による
     1980年のパリ・コンサートのライヴ録音です。

     このコンサートは古いもう使われていない鉄工所で行われました。
     最初のところで、交通騒音が聞こえたことと思います。

     演奏の最中に雨が降り始め、鉄工所はガラス屋根だったために、
     雨がものすごい音を立てることになりました。

     交通騒音や雨の爆音に変容させられたギターの音を聴いてください。

     ギター演奏によって変容した雨の音や田中泯の気配を聴いてください。

     他の音を聴かずに、ギターの音だけを聴かないでください。
     サウンド・マターをそのまま受け止めてください。

     ここでのサウンド・マターは、ギター、雨、屋根、風、交通、ダンス、
     聴衆、場所の音響等の混合物になっています。

     「カエルの鳴き声が空中に広がると、もうそれはカエルのものでは
     なくなっている」 フランシスコ・ロペス

     それでは2番目の音源をお聴きください。

音源2  サウンドを聴くことだけに集中してください。

     どんな音が聞こえますか。

     トラックをスキップします(その間、時間が経過します)。

     どんな音が聞こえますか。

     これはミッシェル・ドネダ(ソプラノ・サキソフォン)と
     ル・カン・ニン(パーカッション)が2人の録音技師と共に
     野山に分け入った録音です。

     楽器、樹木、草、落ち葉、風、虫の声等から成る
     サウンド・マターを聴いてください。

     演奏者間の対話だけに耳を傾けるのではなく、
     彼らを含む山の環境の生成する様を聞き取ってください。

     フレーズやリズムによるコミュニケーションだけでなく、
     それらを含む濃度や強度の絶え間ない不定形の変化を
     聞き取ってください。

     しかし…
     もしあなたが幸運にも彼らといっしょに山に入れたとして、
     あなたはこうした音を聴くことができたでしょうか。

     おそらく…
     あなたは他の様々なノイズは無視して、
     彼らの演奏を聴くことに集中してしまったでしょう。

     録音を通してすべてを体験することはできない
     というのはもちろん本当です。
     しかし、録音を通してしか知覚できないことがあるのも、
     また事実です。

     それでは3番目の音源をお聴きください。

音源3  サウンドを聴くことだけに集中してください。

     どんな音が聞こえますか。

     トラックをスキップします(その間、時間が経過します)。

     どんな音が聞こえますか。

     これはビザンチン時代からギリシャ正教の聖地である
     アトス山におけるイースター前夜祭の実況録音です。

     このサウンド・マターは鈴の音、聖なる歌唱、話し声、不揃いの合唱、
     鐘、ウッドブロック、豊かで複雑なアコースティック、倍音、咳、
     足音等で構成される魔術的な混合物となっています。

     宗教儀式であって音楽の演奏ではないために、
     それぞれの音の層は均質ではなく、異なった方向からやってきます。
     そのため全体はヘテロトピア的なものになっています。

     「ヘテロトピア」とはひと目で概観することのできない、
     複雑に混りあった場所あるいは状態のことです。

     それは何も表象せず、すべてを表象することができます。
     全く焦点を持たず、多くの焦点を持つことができます。
     暗騒音は典型的なヘテロトピア的なものだと
     私は考えています。

     今回の試みのように、「録音された意図的でない音を聴く方法」を、
     録音された意図的な音と意図的でない音の混成体に
     適用することができます。

まとめ  音と空間を「いっしょに」聴くことが重要です。
     今回の3つの例では、空間が音を変容し、侵食していました。

     「本来の」あるいは「無垢な」音ではなく、
     空間によって変容され、汚染され、不純物を含まされ、
     「経験を積んだ」音を聴くこと。

     この目的のためには、世界を、録音を通して聴くことが役立ちます。
     機械による意図しない知覚の利点を活用できるので。

     音の内部世界を聴くことは、自分たちの無意識を聴く(探索する)
     ことでもあります。

     音の内部世界を深く聴くためのCDとして、
     フランシスコ・ロペス(当然!)の作品と
     ジル・オーブリーの作品をお薦めします。

     ご静聴ありがとうございました。


音源1;Derek Bailey, Min Tanaka「Music and Dance」 (Revenant)
    track 1 0:00~1:00 track 2 3:00~4:30
音源2;Michel Doneda,Le Quan Ninh,Laurent Sassi,Marc Pichelin
    「Motagne Noire」 (Ouie Dire)
    track 1 0:00~1:00 6:30~8:00
音源3;「Easter on Mount Athos vol.1」 (Archiv)
    track 1 0:00~2:15 track 2 0:00~1:55


「Music and Dance」


「Motagne Noire」


「Easter on Mount Athos vol.1」




2.機械による知覚の特異性
(1)世界を聴くこと

 録音の持つ様々な特徴、そしてその可能性の中心は、それが機械による知覚を用いていることにある。私たちの知覚は、基本的に生存のため、行動のためのものであり、世界をそのままとらえているわけではない。視覚を例にとれば、私たちが見ることのできる光の波長の範囲が太陽光のそれと一致していること、動くものに反応し、動かないものについては次第に見えなくなってしまうこと等が、そのことを示している。機械による知覚はそうした目的を持たない。それは「非中枢的な知覚」(前田英樹)であり、「認知・思考を伴わない知覚」(フランシスコ・ロペス)なのだ。
聴覚の場合、まずは音をとらえることにより、それが何か身の危険をもたらすものであるかどうかを判断することを重要な役割として発達してきたと言えるだろう。それゆえ、生物の生存の仕方によって環世界(フォン・ユクスキュルによる)が異なるように、聴覚が世界から拾ってくる要素も種によって異なるだろう。それは単に感覚機能の問題ではない。「アヴェロンの野生児」の実話に基づいて制作されたフランソワ・トリュフォー「野生の少年」において、狼に育てられたとおぼしき少年は、誰もが驚き飛び上がるような大音響には眉ひとつ動かさず、そのまま黙々と床に置かれた皿から食べ続け、代わりに微かな物音、たとえば部屋に忍び入ろうと音を立てずに開けたドアのわずかな軋みに、耳をそばだたせ、全身を硬直させ総毛立たせて、注意深く振り返ろうとした。私たちも、たとえば初めての宿に泊まった時に、夜半、得体の知れぬ物音(?)に気付き、ふとんの中で冷や汗をかくことがある。
 「外の世界から微かな音を拾う」ことに焦点を当ててしまうと、あらぬ誤解を惹き起こしかねない。むしろ私たちはベルクソンが言うように、与えられる情報から膨大な部分を差し引くことにより、世界を知覚しているのだから。「視ることは、視ないものを作り出すことと同じだと言ってもいい。すべてを視ることは、ただ白色光線に眼が満たされることであって、何も視ないことに等しい」(前田英樹)。
 ケージは「完全な沈黙」を体験しようとして無響室に入り、自分の循環器がたてる血流の音と神経系がつくりだす甲高い音を聴かされることになった。「完全な沈黙」などどこにも存在しない。世界は音で満たされている。けれど、私たちはふだんそのような音を聞いていない。無意識のうちに抑圧しているのだ(あるいは「健康な身体の働きとして」と言うべきか。そうした音が漏れ聞こえてしまうことが幻聴の原因となることがあるという)。あるいは、私たちは周辺の物音を、環境音を、特に「暗騒音」と呼ばれる、様々なノイズの入り混じった輪郭の定かでないざわめきを聴こうとしない。それは常に私たちの周りにある。しかも、かなりの音量で。

 両耳を両掌で覆う。周囲が厚いガラスの向こうへすっと遠ざかる。眼を瞑り、しばらくそのままにして、掌をぱっと離す。波が砕け、渦巻いて、濁流が身体を揺さぶるような感覚がその一瞬に弾ける。何が起こったかわからない。ふと自分がさっきまでと同じく、教室の隅や駅のホームのベンチに腰掛けていることに気付く。世界は何事もなかったように動き続け、音は人や物の動きと律儀なまでに一致している。先ほどの奔流や渦巻きが音だったとして(もちろん、それこそがふだん聴かないでいる「暗騒音」にほかならないのだが)、それはいったいどこへ消えてしまったのか。
 無論、それはそこにある。そのままあり続けている。だが、私たちはふだんそれに気付くことがない。フランシスコ・ロペスやジル・オーブリーの作品を聴くと、音の聞こえ方が変わるという人がいる。カーテンの衣ずれや部屋の軋み、自分の息遣いなど、これまで聞こえなかった音が明瞭に浮かび上がると言う。また、別の友人は、夜勤の合間の休憩時間にタバコを吸いに出た際に、雑居ビルの9階、外付けの非常階段の踊り場で聞こえた響きがジル・オーブリーの作品に似ている気がして、ふと私の話を思い出し、耳を掌で覆ってみたと言う。耳から掌を離した途端、襲い掛かってきた響きの強烈さに、彼は危うく階段から転げ落ちそうになった。

(2)機械による知覚の特性

 機械による知覚である録音は、そうした私たちがふだん「聞こえているのに聴いていない」音の在り様を教えてくれる。同じく機械による知覚である写真においては、そのことは早くから気付かれていた。「その時には気づかなかったものが写っている」というかたちで。草創期の写真を論じたベンヤミン「写真小論」にすでにそうした指摘が見られる。録音の場合も、マイクロフォンによる録音をしたことがあれば、「こんな音が聞こえていたっけ」という経験を必ずしているはずだ。喫茶店でのインタヴュー・テープを起こすのに、周囲の雑音の大きさにいらいらさせられるなど。そうしたことが写真や映画ほど論じられないことには、幾つかの理由が考えられる。たとえば、もともと写真や映画に比べ、開発当時の録音の精度が低く、録音/再生時のノイズにかき消されて、対象である声や演奏以外の音が埋もれてしまっていたこと、映画のように、本来なら野外での録音が必要な場合も、俳優のセリフをうまく録音できない、周囲の音がそれらしく聞こえない等の理由から、セリフや別途作成した効果音を後から録音してかぶせる「アフレコ」の方向に進んだこと、あるいはロペスが指摘するように、そもそも録音の精度が上がるとともに、機器の量産化が進み、カセット・テープが開発されて、テープ・レコーダーが各家庭に爆発的に普及してからは、むしろライン録音で音楽をコピーすることが主な使用方法となっていったことなどが挙げられるだろう。

 いずれにしても、このようにして、聴覚に関して、機械による知覚の特性の認知は進まなかった。それゆえ、「録音というテクノロジーの特性は、テープのヒス・ノイズや転写によるゴースト、あるいはアナログ・ディスク再生時の針音のように、不可避的に付随してしまうノイズにある」という転倒した理解も生じてくることになる。「不可避的に付随してしまうノイズ」以外の部分を、そのまま〈世界の複製=私たちの聴いている音〉ととらえてしまう点において、それは(これまで見てきたように)見事に機械による知覚の核心/可能性の中心をつかまえ損ねている。それはデジタル技術によって消去されていくノイズやこれと緊密に結びついた手触り感に対する、一種のノスタルジーに過ぎない。様々な録音内容に、フェティッシュとしての〈針音〉を付け加え、一見、「録音されたもの」(物体としてのアナログ・ディスク)として対象化するように見せながら、実のところ思い出の中にノスタルジックに溶かしこみ、内面化してしまうやり方に、そのことは明白に示されている。
 誤解の生じないよう、ここで確認しておけば、「機械による知覚は正確で、人間による知覚は不正確である」と主張したいわけではない。もともと生物にとって、生存にも行動にも結びつかない世界の姿など、何の意味も持たないのだから、それを〈正確さ〉などと言ってみても始まるまい。そうではなく、世界が本来的に持っている過剰さ(それは豊かさでもあれば恐ろしさでもあるだろう)を、機械による知覚が図らずもとらえ、提示してしまうことの重要性について語ろうとしているのだ。


3.機械による知覚との共同作業の必要性
(1)世界の過剰さ

 人間によって放たれた音は、それがたとえ意図された人間の声であろうと、発話者の意図を超えた過剰をはらんでしまう。音は鳴り響いた瞬間に演奏者/発話者の手元を離れて〈外〉へと旅立つ。それゆえ、私たち聴くがことのできる音は、常に空間と(ということは響きとも)共にあり、常に変容の過程のうちにある。それゆえ、プレゼンテーションで示したように、「本来」の「無垢」な音を私たちが聴くことはできない(それは仮想に過ぎない)。話者の現前する発話においては、その話者の現前の重み(いま・ここ性)により抑え込んでいた揺らぎや決定不能性が、たとえばピタゴラスによるアクースマティックの局面(身体の視覚像を欠いた声)において、あるいはエクリチュールを通じてテクストに姿を変えた途端、一挙に噴出する。ましてや、録音により、たとえ姿は見えなくてもそこにあるはずの身体の存在や、エクリチュールが確定する語/意味を決定的に欠くのであれば、なおのこと、そうであるだろう。それは脆さ/不安定さであると同時に、ある種の豊かさ/可能性でもある。
 当然のことながら、エクリチュールのシステムに比べれば、ヴィジュアル(映像)やオーディオ(音響)は、はるかに揺らぎをはらんだ不安定なシステムである。それを様式、ジャンル、ナラティヴ、フレーム、作者(の意図)、時代背景や文化圏、さらには様々な慣習的な〈読み〉を当てはめることにより、発散を抑え込み、何とか収束させているというのが実情だろう。様式の変遷を枠組みとする美術史に裏付けられた、絵画作品に対する様々なイコニックな読み、記号的な読解は、そうした努力の一例と言えよう。その一方で、フラ・アンジェリコによる不定形な色彩のきらめきや、ピエロ・デッラ・フランチェスカによる空間構成とル・コルビュジエのそれとの類似性が、そうした枠組からずれたところで議論されたりもするわけだが。

(2)機械による知覚がとらえる世界の過剰さと出会うこと

 生存や行動のために不要な情報として、気付かぬうちに通り過ぎているにせよ、対象の発散を防ぐために注意を向けながらも、知らず知らずのうちに選択的に排除しているにせよ、私たちが聞こえているのに聴いていない、聴こうとしていない音の存在を、機械による知覚である録音は気付かせてくれることがある。そして、そのことを通じて、音は私たちの外にあり、私たちの自由になるものではなく、ましてや私たちの意図の乗り物などではないことを教えてくれる。
 楽器の演奏のような「意図された音」にあっても、意図を超えた過剰さを必然的に音がはらんでしまうことを、それが演奏者によるコントロールの不足や単なる偶然性の介入ではなく、グレゴリー・ベイトソンが「人工物との違い」として強調するような自然物の有する本来的な豊かさ/複雑さであることを、機械による知覚である録音は気付かせてくれることがある。
印象や記憶を確定するために録音を利用するのではない。機械による知覚が正しくて、人間による知覚はそれに習うべきだなどと言っているわけではない。むしろその逆で、作曲者/演奏者の意図(解釈を含む)を超えた過剰さがそこにはらまれ、数え切れない断層や亀裂が生じており、とても首尾一貫した単線的な受容には収まりきらないことを突きつけられるためにこそ活用するのだ。聴くことが〈発見〉を忘れ、すでに知っていることの確認や、コミュニケーションの閉域におけるあらかじめ想定される意図のなぞりや、想起のためのきっかけ(記憶を反復再生するためのトリガー/インデックスとして。しかし、この仕組みはそれこそ「録音的」ではないか。このことについては稿を改めて論じることとしたい)に堕してしまわないように。
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音楽情報 | 00:33:31 | トラックバック(0) | コメント(0)
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