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福島恵一

Author:福島恵一
プログレを振り出しにフリー・ミュージック、現代音楽、トラッド、古楽、民族音楽など辺境を探求。「アヴァン・ミュージック・ガイド」、「プログレのパースペクティヴ」、「200CDプログレッシヴ・ロック」、「捧げる-灰野敬二の世界」等に執筆。2010年3~6月に音盤レクチャー「耳の枠はずし」(5回)を開催。2014年11月から津田貴司、歸山幸輔とリスニング・イヴェント『松籟夜話』を開催中。

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楽器としての世界-空間のヘテロトピックな構築  The World as Instrument-Heterotopic Construction of Various Spaces
 今回はフランシスコ・ロペスによるワークショップ「The World as Instrument」の締めくくりとして、9月10日に彼自身によって行われたライヴ・パフォーマンスを手がかりとして考えたこと、考えさせられたこと、未曾有のサウンド体験によって凝結した思考の線を巡って書いてみることとしたい。
 これらは実はレクチャー「耳の枠はずし」から、その後の様々な機会を通じて考えてきたこととも深く関連している。聴取、風景、空間、アンフォルム/アンフォルメル、知覚、触覚等について、だらしなく伸びきった戦線にため息をつきながら、あれこれと考えを巡らし、いよいよ考えあぐねていたところへ今回のワークショップ開催の知らせがあって、何か踏ん切りのための刺激・きっかけになればと申し込むことになった。
 ロペスのレクチャーや受講者との議論は、幾つかの点で私の思考に確かな輪郭を与えてくれたが、それは受けた恩恵のほんの一部に過ぎない。様々な魅力的な触発により、ともかくも一歩を踏み出し、走り出すことへの勇気を与えてくれたことの方がはるかに大きいだろう。もちろん、そうした勇気とは蛮勇にほかならず、繰り広げられる思考もまた、走り出した勢いでともかくも駆け抜けるだけの粗雑なものでしかないのだが、しかし、たとえそうであっても、こうした線が思考の堂々巡りの閉域から走り出たことを、まずは喜びたい。そして、豊かな触発により、この思考の凝結を可能としてくれたフランシスコ・ロペスと、主催スタッフ(城一裕・金子智太郎)、そして共に学んだワークショップの受講者に、今回の一連の論考を捧げることにしたい。


1.空間の可能性【イントロダクション】

 ライヴ会場のある東京藝術大学千住校地の建物は、前面に広めの空地を確保しており、その分通りからだいぶセットバックして、暗がりの中にひっそりと佇んでいた。北千住駅から斜めに商店街・飲み屋街を抜けてきたのだが、色とりどりの光と音に溢れたそちらの小路とは対照的に、千住警察と並んだこちらの通りは、街路灯のモノトーンな明かりだけが、ガード下の暗がりへと続いていた。
 3階のホールは長方形で、高い木張りの天井が長辺に沿って放物線を描いている。その始点の側が通常のステージなのだろう(ただし段差はない)、湾曲した反射板が設置されており、白漆喰塗りの壁面には、腰壁部分を含め吸音/分散のためのスリットや桟が取り付けられ、響きがコントロールされている様子がうかがわれた。天井同様木張りの床の中央よりややステージ側寄りに、直径1.5m程度だろうか、予想よりこぢんまりとしたフランシスコ・ロペスの演奏/操作スペースが設けられ、その周囲を同心円状に3列の椅子が外向きに並べられ、壁の手前にはもう1列がこちらは内向きに並べられていた(ステージの反対側には、余ったスペースにさらに2列の椅子が追加されていた)。スピーカーは大きなPA用のものが4基、それぞれホールの四隅に置かれている。
 床や壁を叩くとコツコツと目の詰まった音で、椅子の音が不自然に響くことはない。壁表面の吸音/分散処理と天井の高さもあってか、ざわめきが尾を引いて、空中にわだかまることもない。席に着いて試みに眼を瞑ってみると、壁に近い3列目の位置なので、ざわめきは後ろから聞こえる。「音に包まれる」という感覚はない。ライヴの「儀式」的な性格ゆえか(あるいはそれに対する緊張のためだろうか)、社交辞令の挨拶があちこちで繰り返されることはなく、大声で話す者もいない。この場にはゆっくりと沈黙が舞い降りつつあった。

 主催者である城一裕によるライヴ・パフォーマンスの趣旨の説明とロペスの簡単な紹介に続き、ロペス自身がやはり趣旨を説明する。現実の音を用いて、別の現実(世界)をつくりだすこと、目隠しについては着ける/着けないは各自の判断であり、強制はしない旨が述べられていた。照明が落とされる前に目隠しを着けたので(黒布を眼に当ててそのまま結ぶと、耳を一部覆ってしまうため微調整が必要だった)、暗転の様子や実際にホール内がどの程度暗くなったのかはわからない。

 静かになった会場に、椅子の軋みや紙の擦れる音がしばし残り、そのうちそれもしなくなる。やがて、遠くにぽっかりと空間が浮かび上がる。真っ暗な中て、そこだけ街路灯に照らされ明るくなっている‥とでもいうような。ここで感じられる空間/場所の気配の実質とは、ふだん意識していない暗騒音、特に静かな場所で聞こえる対流ノイズ等なのだろうか、だがそれは音/響きの手触り以前に「空間の浮かび上がり」として感じられてしまう。クラシック音楽の録音で、マイクロフォンがONになり、フェーダーが上げられ、演奏が始まる前に訪れる耳が開ける感じ。まさに空間がそこにあり、これから音を迎え入れようとしている予感。
 さらに手前に別の空間が開ける。視界を塞ぐ圧迫感がある。空間が震え、ぴりぴりと励起し、バチバチと放電火花が散る‥‥と、このように次々と現れる音を書き出していっても、実は何も伝えたことにはならない。機械の作動音が複数組み合わされて眼前を圧したり、吹きすさぶ風が広大な空間を照らし出したり、地鳴りにも似た超低音の揺れと耳をつんざく甲高い高周波との間で空間が引き裂かれたりと、様々な魅力的なシークェンスが次々と現れたのだが、ロペスの〈演奏〉は決して物語的な展開を駆動力としているわけではなく、また、シークェンス同士のモンタージュを主な推進力としているのでもない(基本的にモンタージュは先行するイメージに次のイメージをぶつけていくことによって成立するが、彼はむしろ先行するイメージを利用せず、それが消えるに任せる)。彼の〈演奏〉をそうしたシークェンス(それは直ちに〈風景〉を連想させる)を単位として、それらの連なりととらえてしまっては、その可能性の核心に迫ることはできない。むしろ、その手前にとどまり、彼の演奏の特徴を明らかにしながら、ここでサウンドによるシークェンスがいかに構成されているか(あるいはなぜ聴き手がそのように構成して聴いてしまうか)の秘密を解き明かしてみたいと思う。

中央の〈演奏〉スペースと椅子  ホールの四隅に配置された
の配置(終演後の様子)      スピーカー
  



2.〈空間〉の浮かび上がり
(1)〈図〉としての音  

 ロペスの〈演奏〉の大きな特徴として、通常のサウンド・コラージュの手法を用いないことが挙げられる。通常のサウンド・コラージュの手法は、次の2点を枠組みとしている。 
①〈地〉となる均質空間に〈図〉としての音素材を貼り付ける。
②音素材は、「それが何の音であるか」を積極的に利用する場合(イコン的な用法)と、そうした特徴を消去し、ある質感を有する〈オブジェクト〉として利用する場合(非イコン的な用法)がある。
 まず①から見ていこう。もともとコラージュという手法は、元の文脈から切り離された既存の断片同士を出会わせることにより、本来なら出会うはずのないものの衝突/共存を目指すものである。ここで有名な「手術台の上でのミシンとこうもり傘の出会い」を例に採れば、「手術台」が〈場〉として先にあるわけではなく、実際には〈白紙〉の上で、3つの異質のもの同士が出会いを果たすことになる。サウンド・コラージュの場合も、例えば波の音等により〈場〉が提示されることはあるが、これも先ほどの「手術台」同様、素材のひとつに過ぎず、実際にはステレオ効果により提示される均質な(ニュートラルな)3次元空間(音の場合当然不可欠となる時間の次元は、便宜上ここでは捨象して論を進める)が、断片の出会いの〈場〉、貼り合わせのための〈台紙〉となる。
 そこに置かれる音素材は、平面コラージュの素材が図像の輪郭線に沿って切り抜かれるのと同様、もともと属していた空間から切り取られ、新たな空間に貼り付けられる。ここで重要なのは「輪郭線に沿って切り抜かれる」という部分だ。平面コラージュの場合、輪郭線に沿って切り抜くことで、その図像がもともと属していた平面/空間の痕跡を削ぎ落とすことができる。もちろん、それぞれの図像自体がある視点からとらえられたパースペクティヴ(による特有の歪み)や色彩や質感の表現の違いを有している可能性もあるわけだが、たとえばマックス・エルンストのコラージュ作品(「百頭女」等)を参照するならば、単色の銅版画や木版画、特に図案集等に素材を求めることにより、少なくとも図像の肌理に関しては統一感/整合性のある画面をつくりだしている。サウンド・コラージュの場合も、ある音像が「輪郭線に沿って切り抜かれる」ことにより、他の音/響きから切り離され、単一の音素材となる。水滴の落ちる音、せせらぎ、子どもたちの遊ぶ声、寄せては返す波の音、鳥の鳴き声‥。
 これはコラージュのための音素材としての取り扱い以前に、私たちが音を「何かの音」として、ふだんから発音体(の特定)とセットでとらえていることの反映にほかなるまい。それが「何かの音」である以上、別の「何かの音」とは区別・分離され、「輪郭線に沿って切り抜かれ」ていなければならない。ちょうど図鑑に載っている標本の写真やイラストレーションのように。
 これに関してロペスのワークショップ中で出会った「事実」を紹介しておきたい。彼が熱帯雨林の録音をした時の様子を説明する中で、マイクロフォン付のハンディ・レコーダーを樹木の幹に設置している写真があり、そのレコーダーはごく一般的なもので安価で入手できる旨の説明があった。実際、受講者の中に持っている者がいて、グーグルで検索したら1~2万円程度で買えそうな代物だった。その時に検索で引っかかった中に「野外録音をしたいがどのような機材を揃えたらよいか」との質問があった。これに対して寄せられた回答は「目的によるが、たとえばバード・ウォッチングなら、目的の鳥の鳴き声だけを収録するために超高指向性のガン・マイクが必要になるから、マイクだけで15万円くらいする」というものだった。「森の中で鳥の声を聴く」とは、「○○という鳥の声を他から区別して、まるで図鑑を見るように聴く」ことにほかならないのだ。

(2)音の〈内部空間〉

 これに対しフランシスコ・ロペスは、音を最初から空間をはらんだもの、周囲の空間と不可分のもの、「輪郭線に沿って切り抜く」ことのできないものと見なす。彼が取り扱う音素材は、むしろ発音体から切り離されて、それが響く空間と結びつけられる傾向がある(「カエルの鳴声が空中にひろがると、もうカエルのものではなくなっている」)。音素材の加工にあたっても、彼は特定の「何かの音」を抽出しようとはしない。彼がイコライザーを操作するのは、特定の音像を「輪郭線に沿って切り抜く」ためではなく、隠れた〈ハーモニー〉を発見するためである。ここで〈ハーモニー〉とは、「協和音」といった狭い意味ではなく、強弱や粗密の変化曲線や周期をはじめ、様々な同期や照応関係を含めて幅広くとらえるべきだろう。ワークショップ受講者のひとりである原田正夫氏は、この操作と写真素材のレイヤーをフォトショップで重ね合わせていく作業の類似性を指摘し、やはり隠れた関係性を引き出すために、写真素材の色を消しモノクロにしてみることがあると語っていた。
 もちろん、通常のサウンド・コラージュにおいても、音が空間を伴って現れることはある。たとえば、がらんとした部屋に響くピアノ、コンクリートの空間に響き渡る靴音、気の床の軋みを伴う足踏みオルガン‥。しかし、それらは空間ではなく〈風景〉(むしろ情景と言うべきか)の提示にとどまる。空間のヴォリュームや温度・湿度、手触りではなく、意味ありげなシチュエーションの方を指し示す。
 ロペスの場合には、今回のライヴの冒頭でぽっかりと浮かび上がったちっぽけな空間に象徴されるように、むしろ、音=発音体よりも、音=空間の提示が第一義的なものとなっている。暗騒音に満たされた、発音体の特定できない、従って意図的な音もない、その意味では「沈黙している空間」の提示はあっても、空間を伴わない音の提示はない。なお、ここで暗騒音が、アフォーダンスの提唱者J.J.ギブソンの言う「包囲光(ambient light)」(空間を満たす光に周囲の環境の情報が映り込んでいる)のようなものとして現れていることに注意しよう。また、彼は「音の内部空間」という表現をよく用いるが、ここで〈内部空間〉とは、「何の音か」という詮索を離れて触知すべき、音自体の肌理や手触り、襞や窪み、重みや粘性、温度感等を指す一方で、音/響きに映り込んだ空間の在り様、刻印された空間の痕跡、生々しい侵食の傷跡等をも指し示しているだろう。
このようにして、音のはらむ空間、音によって照らし出された空間が前景化することにより、均質空間への音素材の配置という通常のサウンド・コラージュの枠組みは、様々な異なる性格を持つ空間のヘテロトピックな構築に取って代わられることになる。


3.禁じられた〈風景〉
(1)〈風景〉の生成

 通常のサウンド・コラージュの枠組みを用いないことと並んで、もうひとつ、ロペスの〈演奏〉の特徴と言えるのが、〈風景〉を構成しないことだ。
 一般に〈風景〉の成立は、風景画の歴史とパラレルに語られることが多い。生活者にとって単なる自分を取り巻く環境でしかなかったものが、ある時、別の眼差し(たとえば旅行者による美的な注視)によって〈風景〉として発見されるという物語。そうした切断により、たとえばアルプスの山々は、そこを行き交う者たちにとっての単なる障害物から、崇高な自然へと格上げされる。その背景には、エドマンド・バークが整理してみせた崇高の美学(カントへと受け継がれる)があり、さらにはそれをお茶の間化したピクチャレスクの美学がある。そのような荒々しく壮大な自然への眼差しの変化と並行して、失われてつつある美しい自然へのノスタルジックな憧憬、アルカディアとしての理想化もまた現れる。サルバトール・ローザが前者の、クロード・ロランが後者の、それぞれ代表格だろうか。オランダ(フランドル)の管理された田園風景が称揚される一方で、ヨーロッパと異なり手着かずの野性のままの自然が残るアメリカにおいて(「全世界は、初めはアメリカのような状態にあった」ジョン・ロック)、その人跡未踏の深い森の静寂が宗教的な恐れをもたらす(トクヴィル)ものとして賞賛される。
 もちろん、〈風景〉の成立は、そうした発見/気づきのみによるものではない。山水画の定型的表現、あるいはルネサンス以前の絵画における象徴的表現に見られるように、それ以前には先験的にとらえられていたものが、注視/描写の対象となり、空間/構図の中に位置づけられる。それゆえ遠近法的な認識もまた、〈風景〉成立の要件であり、さらに言えば、それまで誰しもが眼にしていながら見てはいなかったものを出現させる点で、それは柄谷行人が主張するような「転倒」(内面への潜行により外が見出された/創出されざるを得なかった)であることも確かだろう。

(2)成立しえぬ〈風景〉

 「風景の発見」により、いったん新たな認識論的な布置が作動を始めてしまえば、ひとは至るところに〈風景〉を見出す、いや見出さざるを得ない。そうした枠組みの下に見ることが強制されるがために。それゆえ、いまや美的判断は〈風景〉成立の要件とはならない。以前なら〈風景〉と呼ばれなかったであろうものも、今では美しくない〈風景〉として指差されるだけである。国内書籍の表題で「風景」という語を含むもののあまりの多さ(ジャンルも多岐に渡る)には驚かざるを得ないが、それも「誰かが語る価値を見出したところには、必ず〈風景〉が成立している」というトートロジカルな状況を踏まえれば、不思議でも何でもないだろう。
 さて、議論の前提としての〈風景〉に関する一般論はここまでとし、長くなりすぎた戦線を立て直すために、〈風景〉が成立し得ない局面へと論点を移行しよう。
 〈風景〉の成立にあたっては、依然として次のことが要件となっているように思われる。
①知覚にとらえられた空間内に配置されている事物が輪郭を明らかにし、全体としてある種の〈相貌〉をたたえていること。
②空間の見通しが効き、全体像の把握が可能であること。空間の奥行き/深さ方向を含め、一定の構図/空間構成のうちにとらえられること。
 いわゆる「風景らしい風景」は、この2点を伝統的な文化定型として備えているものととらえることができる。俗に「絵のような風景」と言われるものだ。こうした要件を満たさない例として、明確な輪郭を持たない不定形な形象が充満し、見通しの効かない空間を挙げることができる。森をその外に広がるあるいは内部に開けた空き地からとらえるのであれば、それは先の要件を満たすことができるが、森の内部に入り込み、頭上を見上げ、あちこちから伸びて重なり合う枝々、鬱蒼と繁って輪郭を明らかにしない葉々の厚いマッス、さらにその間を縫って絡まりあう蔓や寄生植物の群れを視覚にとらえたとして、それはいつまでたっても著しい細部の集積、あるいは混沌としたオール・オーヴァーな広がりでしかなく、一向に〈風景〉として立ち上がる気配を見せはしまい。
 18世紀末から19世紀前半にかけて南米を調査し、「新大陸赤道地帯調査紀行」や「コスモス」を著したアレクサンダー・フォン・フンボルトは、西洋人が初めて見る南米の熱帯の自然の姿を、「生の充満」として、生命に満ちた無限に多様な現象の相互関連の全体性ととらえ、これを(特に植物相の)〈相貌〉のもとに観察・叙述しようとした。それは当時流行していたラファーターの相貌学を踏まえ、南米の熱帯の自然をまさに〈風景〉として描き出すことだったわけだが、実際には彼のあらゆる細部を省略しない列挙と書き尽くしにより、一幅の〈風景〉には到底収まりえない、混沌とした豊かさ(むしろパノラマ/スペクタクル的なもの)へと至ってしまっている。
こうした濃密な混沌により〈風景〉として成立していない風景画作品(この言い方は明らかに矛盾しているが)の例としてアルブレヒト・アルトドルファー「聖ゲオルギウスと龍」(1510年)を挙げよう。彼の作品に共通する植物化傾向が、ここでは堰を切ったように溢れ、視界は一面繁茂する木々に占領され、明確な輪郭や区分を持たないオール・オーヴァーな広がりを呈している。下端に申し訳のように描き入れられた白馬の騎士の図像がなければ、私たちはこれを〈風景〉として認識することはないだろう。
 同様に極端な希薄化により、視覚が注目すべき対象を見出せないような空間、遠近法上の消失点を持たない茫漠たるオール・オーヴァーな広がりもまた、私たちは〈風景〉ととらえることができない。こちらの風景画作品例としては、やはりカスパー・ダーフィト・フリードリヒ「海辺の修道士」(1809年頃)を挙げないわけにはいくまい-言わばその極限として。下絵段階では描かれていたという舟の形象も消去され、画面には、観る者の主観投影対象であると同時に、視界の広大さを際立たせるため、能う限り小さく描かれた後ろ向きの修道士の姿を除けば、互いを侵食しあう空と海、風と雲、気体と液体のどこまでも希薄な濃度が広がるばかりである。当時、観る者に「真空恐怖」を抱かせたというモノクロームに凍てついた空間は、北の海の彼方の昏い無限を眼差しているかのようだ。

アルブレヒト・アルトドルファー
「聖ゲオルギウスと龍」(1510年)


C.D.フリードリヒ
「海辺の修道士」(1809年頃)



(3)〈あいだ〉としての〈風景〉

 中井久夫による「風景構成法」を手がかりとして、〈風景〉成立の要件を別の角度から探ってみたい。ちなみに「風景構成法」とは、言わば箱庭療法を分裂病者向けに2次元平面化したもので、患者の前で枠を書き込んだ画用紙に、川、山、田、道、家、木、人‥といったアイテムを患者に順次描き込ませて「風景」を構成させるものである(詳しくは「風景構成法」中井久夫著作集・別巻1 岩崎美術出版社を参照)。
 ここでまず重要なのは「わたし(主体・人間)」と「まわり(客体・自然)」との間に成立してきた「あいだがら(間柄・間・関連)」として、「風景」がとらえられている点である。「風景」をこのように精神史的にとらえることにより、ふだん意識にのぼることはないが、継続して私たちの生を支えている「風景」のあり方が浮かんでくる。精神分裂病とは「人と人との間」(木村敏)に生起する事象であるとすれば、それは「わたし」と「まわり」との「あいだがら」、「つながり」と「へだたり」に関わる。そうした「あいだ」が病むことにより、空間認識や「風景」のとらえ方も変容してくることになる。たとえば、エルヴィン・シュトラウスによれば、健康者は感情的把握の場としての「風景的空間」の諸印象を絶えず知覚的認識の場としての「地誌的空間」の中に定位し、「地誌的空間」の中の諸標識を常に「風景的空間」の情感の中に包含している。それが分裂病のもたらす「風景」の崩壊により、物が平面的に羅列され、描き込まれた事物間の相互のつながりが失われ、また、奥行きが消失して、間合いの変質した裸の空間、「地誌的空間」の露出といった事態が引き起こされると言う。
 その美的価値に気づく・気づかない以前に、私たちは私たちを取り巻く環境と相互作用しており、〈風景〉を読み取ると同時につくりだしているのだ。見知らぬ風景に対し、部分部分は視界に飛び込んできても、すぐには全体像を把握することができない。徒に細部が増殖するばかりで、まるで見分けがつかない。そうするうちに、雑多なものが交錯し、あるいは希薄に溶け合って、輪郭を見定め難い混沌/充満の中から、相貌性の相を通じて(とは共示が明示に優先するということだが)、何かしらのかたちが浮かび上がり(空間への投影)、これに基づいて関係性が仕分けられ、空間が切り分けられて(空間の構成)、〈風景〉が浮かび上がる‥‥。あるいはこの逆の手順を踏むかもしれないし、より複雑な往還を繰り返すかもしれない。だが、いずれにしろ、〈風景〉は最初から出来上がってそこにあるものではなく、〈投影〉と〈構成〉というギヴ&テイクを通じて、日々の営みの中で私たちが自ら見出し、つくりだすものにほかならないのだ。


4.ロペスの戦略
(1)空間に充満する〈沈黙〉

 ロペスの〈演奏〉には「無音」というものがない。いつも何か音が鳴っている。今回のライヴ・パフォーマンスでも、彼に演奏終了を告げられて目隠しを取り、すでに明るくなったホールを眺め回した時、室内には微かに虫の音が響いていた(その音は、彼の終了宣言以前から聴こえていた。眼を瞑ることはできても耳を閉ざすことはできない)。彼の代表作のひとつ「Warszawa Restaurant」で聴くことができるように、一見無音と思われるところにも、意識下のつぶやきのような音が極小音量で入っている。「沈黙とは無音のことではなく、意図された音がない状態である」というジョン・ケージのテーゼを一歩進めて、彼は「すべての空間には、すでに固有の〈沈黙〉が鳴り響いている」と言っているかのようだ。実際、彼は暗騒音を巧みに操作して〈沈黙〉の充満した空間をつくりだしてみせる。空っぽの空間にアトムとしての音が去来する(ニュートン的モデル)のではなく、この空間にぎっしりと詰まった〈沈黙〉の変容が音を生み出す(フンボルト的モデル。光と違って直進せず、媒体中を伝播して回り込む音には、もともとニュートン的モデルはふさわしくなかろう)。量子力学における真空が素粒子を生み出すように。それゆえ「沈黙の空間」は可能性に満ち、何とも魅力的に見える。
 彼の〈演奏〉において、シークェンスが切り替わる時、私たちは常にこの「沈黙の空間」を潜り抜けることになる。音が消えるのではなく、何も手がかり/手応えのない薄明の中に放り出されたような、何とも心細い感じに襲われる。具体的な響きで言えば、静かになった飛行機の客席で聞こえる、あの厚い真綿にも似たノイズが一番近いかもしれない。飛行音、エンジン音、空調のノイズ、どこかの席のイヤホンからの音漏れ、気圧の変化による耳の不調等が互いに入り混じり干渉しあってつくりだす、何とも形容し難い響きに。ロペスの〈演奏〉にあっては、この響きの感触、「沈黙の空間」こそが、あらゆる空間(音を伴うものも伴わないものも)の基底に位置する音響の零度と言うべきものなのだ(Anywhereの基底としてのNowhere)。

(2)「別の現実」としてのヘテロトピア

 こうして私たちはロペスの〈演奏〉の間、様々な空間を体験することになる。眼前を圧する巨大な機械がけたたましい音を立ててピストンを往復させ、超高速でシリンダーを回転させながら、1台、2台、3台と数を増していく時、それらは同じ空間の中で重なり合うことにより、視覚的なパースペクティヴに変換され得ず、私たちの思い描く3次元空間をはみ出してしまう。現実音ならではの複雑で魅惑的な細部を備えた音響は、互いに互いをスーパーインポーズしながら重なり合い、細部の明晰さを保ったままオール・オーヴァーな広がりへと展開し、〈風景〉へと編み上げられることがない。吹きすさぶ風が広大な空間を照らし出したり、遠くで氷山が崩壊し、巨大な氷塊が海面を切り裂いても、やはりそれらは〈風景〉をはみ出していく。巨大機械の作動音に蝉時雨が重ねられ、床下を這う地鳴りと中空を漂う軽やかなざわめきといったあり得ない組合せや、入り組んだヘテロトピックな空間構成が、そもそも適切な距離の確保や対象化の視線、それらを着地させるべき文脈の確保を許そうとしない。採取された現実音が、自然物ならではの造形/構造の複雑さ(グレゴリー・ベイトソン)と自らのはらむ空間を魅惑的に露呈し、空間の読み取りを〈風景〉の形成を熱烈に誘いかけるにもかかわらず、私たちはそれを果たせず、宙吊りの状態に留め置かれる。彼の〈演奏〉のひりひりとした魅力は、この〈風景〉が成立し得ない不安にあるのかもしれない。
 イコン的でも非イコン的でもない、現実音ならではの空間喚起力を最大限に活かした音素材の使用は、それぞれが独自の空間をはらむことにより、結果としてヘテロトピックな空間構築をもたらす。モザイク状に入り組んだ空間は耳による探索を豊かなものとするだけでなく、〈地〉と〈図〉の曖昧化/融合化をもたらし、その都度、世界を組み替え、変容させていくことになる。それゆえ、そこでは〈反復〉が毎回異なる様相で立ち現れる。
彼の言う「別の現実」とは、私たちにとって「いま・ここ」であるホールの空間において、その空間に放出される音響により、まるで「音による映画」のように、それとは異なる空間を表象することではないだろう。彼は表象する代わりに、「いま・ここ」を解体し、再構成し、さらには変容しようとする。私たちのホールの空間に対する〈棲み込み〉に揺さぶりをかけ、ホールに設置されたスピーカーの音を聴こうとする私たちの聴覚自体を組み替え、〈演奏〉を通じてロペスの意図をとらえ、〈聴くこと〉をそこに還元しようとする私たちの聴取/理解を踏みにじる。世界は単一化/総合化の外皮を剥がされ、日常が本来有しているヘテロトピックな豊かさを露わにする。私たちは空間の数だけ〈沈黙〉を聴き分けることができるだろう。

 フランシスコ・ロペスによる今回のライヴ・パフォーマンスを経験して、私は聴覚による世界把握に関し、不可逆な変容を被った気がしてならない。まるでインプラント手術でも施されたような。私はこの1時間に起こったこと、聴いたことをほとんど思い出すことができない。だが、それでもなお(いや、それだからこそ)、この1時間のことは決して忘れないだろう。
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音楽情報 | 00:49:16 | トラックバック(0) | コメント(0)
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